ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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雪舟『四季山水図巻』
山水画というのは、自分が山水の地に行った気分で楽しむもの。
この16mの絵巻の中を旅してみよう。

岩登りはきついけど、汗と一緒に世俗の垢も落ちてゆくような気がする・・・
古の中国の文人たちは、うるさい世間を逃れ、こんな山奥に隠れ住んだという。
ああいい眺め・・・春霞ですべてが幻のようだ。

遥かなる春景色、鶯が鳴いて、木の緑と花の紅が照りかえる。
多くの楼閣が春雨に霞んでいる。

それにしてもこんな山奥にも家があり、人の営みが・・・
どんなわけでここに暮らすようになったのか聞いてみたいものだ。
あれはひょっとして酒好きの詩人・李白では?
李白さん、なんでここに住んでいるのですか?

世に問う、何の意か碧山に棲むと
なぜこんな緑深い山中に住むのか?
笑って何も答えたくないな、ここにいると心が安らかなんだ。
桃の花が流れに散り、はるか遠くに去ってゆく。
ここは俗世を離れた別天地なのさ。

こんどはどうやら湖のほとりの村に来たようだ。
窓から文人たちがゆったりと酒を飲む姿が見える。
これぞまさに李白の世界。
二人が酒を酌み交わす傍らに山の花が咲いている。
一杯一杯もう一杯、わしはもう酔って眠たくなった。
おぬしはひとまず帰れ、明日よかったら琴を持ってまたおいで。


舟の上、洗濯物を干したり、植木を愛でたり・・・ああのどかだなあ・・・

さざ波が立ち、水が煌めくのは晴れてこそ美しい。

霧に煙るおぼろげな山の姿は雨ならではの美しさだ。 
またしてもそそり立つ岩山だ。
波にえぐられ、人を寄せ付けないようなでっかい岩。

その岩の洞穴に文人が涼んでいるようだ。
あれは役人がいやで田舎暮らしをした詩人の陶淵明ではないか。

人の命には、木の根のようなしっかりとした拠り所がない。
あてどなく舞い上がる路上のチリのようなものだ。
風のまにまに吹き飛ばされ、この世から姿を消す。
人生は無常ですか?淵明さん?

だから嬉しい時には心行くまで楽しみ、仲間と一緒に酒を飲むがよい。
若い時は二度と来ないし、一日に二度の朝はない。
楽しめるときには楽しもう。
歳月は人を待ってはくれないから。

時に及んでまさに勉励すべし、歳月は人を待たず・・・
勉励すべしとは、勉強にはげむべしではなく、楽しめるだけ楽しもうという意味だったのか・・・

夢、幻のように儚いこの人生、なんで塵まみれの俗世間に身をつなげていられようか・・・
季節は巡る。年をとればとるほど早く巡る。
人気のない山中、雨上りの今、辺りの気配も夕暮れ時、ひときわ秋らしい。
この秋の風景の中にいつまでもとどまっていたい。
水辺の村にも秋がきて人影もまばら、心なしか侘しげだなあ。

晴れた日には散歩や畑仕事、また丘に登って口笛を吹いたり、清流を前にして詩を作る。
こんな風にして自然の変化に身をゆだね、命の終わるのを待ち受ける。

かの天命を楽しみてまた何をか疑わん。
天命を素直に受け入れて楽しめばもう何の迷いもなくなる。

どこからかざわめきが聞こえてくると思ったら、山の中でこんな賑わい。
祭なのか、それとも市でもたっているのか。
老いも若きも、ロバもいる。

でもどこか変だなと思ったら女の人がいない。
この賑わいも、木枯らしが吹いて消えてしまった。

立派な館で何やら宴が・・・
陶淵明、李白もいる。

花に嵐のたとえもあるぞ。
さよならだけが人生だ。


いったんこの地に別れを告げれば君は根無し草のように万里をさすらい行くのだ。
漂う浮雲は旅人である君の心。

沈みゆく夕日は引き止める術を持たない私の思い。
君が手を振ってここから去れば、蕭々として寂しげに馬までがいななく。
 
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Ancient X-Files★The Mona Lisa Code★Bone Chamber of Malta

The Mona Lisa Code
レオ・スティーブンソンは偉大な画家たちの技法に精通した専門家、世界の名だたる美術館から依頼を受け、複製画を書いている。

スティーブンソン「レオナルド・ダ・ヴィンチは素晴らしい才能の持ち主、まさに万能だった。」
戦闘用の兵器を設計し、飛行機や潜水服の仕組みを考案、人体の解剖図も残している。
しかしスティーブンソンが興味を寄せいているのはモナ・リザ。

イタリア、フィレンツェ
ダ・ヴィンチは非嫡出子として生まれ、14歳でフィレンツェに移り、芸術家に弟子入りした。
フィレンツェでは22年間暮らしている。
自称美術探偵シルバーノ・ヴィンチェッティが追っているのはモナ・リザの正体。

1535年、聖アンジェラ・メディチによって創設された聖ウルスラ修道院の跡地、修道女達が眠るこの場所で、現在考古学者達によって遺骨の発掘作業が進められている。
この修道院に16世紀の美女、リザ・ゲラルディーニが埋葬されているという噂がある。
リザ・ゲラルディーニは絹商人フランセスコ・デ・ジョコンダの妻で、マドンナ・リザとも呼ばれた。
ダ・ヴィンチの絵は彼女にちなんでモナ・リザ、あるいはラ・ジョコンダと呼ばれたと考えられている。
考古学者のバレリア・ダ・クィーノはリザ・ゲラルディーニが葬られていると思われている場所を中心に調査を進め、最近人骨を発掘した。
ダ・クィーノ「彼女の娘はここの修道女だったので、人生の晩年の時期を娘達の近くで過ごすことにした。
リザがここに埋葬されたことは分っている。
この場所から頭がい骨と人の骨の一部が見つかった。」

ヴィンチェッティはこの後、骨のDNAを子孫のものと比較して調べる予定。
しかしスティーブンソンにとってモナ・リザの謎はモデルの正体だけに留まらない。
スティーブンソンはダ・ヴィンチが生涯残した10数点の絵画の中でも、モナ・リザは特別のものだと考えている。
製作期間は16年、工房から工房へと絶えず修正を加えながら持ち歩いた。
フィレンツェからイタリア各地を巡り、フランスに移り住むまで、手元に置き続けたのだ。
ダ・ヴィンチにとって特別な思い入れがあったのだろう。
スティーブンソンはその解明にあたる。

あくなき好奇心の持ち主だったダ・ヴィンチは、真実を追求するためには、時にタブーを侵すこともいとわなかった。
伝記作家のパオロ・ジョビオはダ・ヴィンチはぞっとするような環境の中、犯罪者の遺体を解剖して学んだと記している。
1550年には作家ジョルジョ・バザーリがダ・ヴィンチを宗教的異端者と説明している。
ダ・ヴィンチは教会で異端とみなされる左利きだった。
頻繁に鏡文字を用いたのは、アイディアの盗用を防ぐためだったのかもしれない。
スティーブンソン「時々絵画以外の彼の活動がモナ・リザに与えた影響について考える。
科学や哲学への興味が、秘密のメッセージのように絵に反映されているかもしれない。」

ダ・ヴィンチのノートには、暗号が使われている。
では絵画はどうだろう?
小説『ダ・ヴィンチ コード』は『最後の晩餐』の絵の中に、マグダラのマリアとキリストの血脈についての秘密が隠されているとしている。
ダ・ヴィンチ・コードではキリストの右手にいる通常ヨハネと考えられている人物が、実はマグダラのマリアだとされている。
さらに人物の配置によって2人の親密な関係が暗示されているとしている。

ダ・ヴィンチの絵は繰り返し新発見を生んでいる。
ダ・ヴィンチが絵の中に何か特別な意味を込めたのか、単なる遊びだったのかは分らない。
ヴィンチェッティはモナ・リザの中に暗号があると確信した。
ヴィンチェッティにとってモナ・リザは単なる肖像画ではなく、メッセージが潜む場。
ローマ、バチカン近くにある写真の工房で、モナ・リザを所有するルーブル美術館が絵の表面の劣化状態を調べるために、高解像度カメラで写真を撮影した。
その画像をもとにヴィンチェッティ達は初めてモナ・リザを詳しく調べる事ができるようになった。
ヴィンチェッティ「ある夜雨が降っていた。
私は拡大鏡を持って少し大雑把に絵の全体に目を通し始めた。
すると橋の下にそれを見つけた。」
ダ・ヴィンチが書いたと思われる小さな印だ。
デジタル技術で拡大した結果、ヴィンチェッティはそれが数字だと確信する。
72だ。

ヴィンチェッティはモナ・リザの顔の中に興味をそそられる。
明るい印を2つ見つけた。
ヴィンチェッティ「アルファベットのSの字がはっきり見える。
右の目にはLの字がある。
右の目の瞳の外側にくっきりとLという字が書き込まれている。」

LとSの文字、そして数字の72、ルーブル美術館はこのヴィンチェッティの発見を否定している。
文字などないというのだ。
下地か絵具のひび割れかもしれない。
モナ・リザの絵は、過去500年の間に2度盗難にあい、酸による侵食も受けている。
スティーブンソンも懐疑的。

スティーブンソンはモナ・リザの絵に隠されているとヴィンテェッティが主張する暗号について、さらなる調査を続けている。
まず女性背後に描かれた独特な風景について調べる。
写真家でデジタルアーティストのデレク・ベアは写真の技術を使ってダ・ヴィンチの肖像画を分析している。
ベアは風景の特徴について独自の見解を持っている。
ベア「モナ・リザの背景には遠近法が使われていないが、ダ・ヴィンチは遠近法の達人。
使わなかった理由があるはず。」

モナ・リザの絵を切りだすと、左右の背景がずれていることが分る。
水面の高さが不揃いなのだ。
ダ・ヴィンチは何らかの理由で左右の背景に段差をつけたと思われる。
さらに絵の端と端をつなげると、背景が1つにつながることが分る。
ベア「狙いは目の錯覚、背景がずれていると無意識にそろえてみようとする。
そうすることでアニメーション効果が生じ、モナ・リザが動いて見える。
左右をずらしたのは背景に注意を向けさせるためかもしれない。」

ではその目的は?
多くの学者は想像で描いた理想の風景だと考えている。
しかし現実の風景だと主張する女性がいる。
ピアツェンツァ県にある小さな町Bobbio、ヘミングウェイが世界でもっとも美しい渓谷と称えた一帯にあり、1304年に建てられた中世の城を要する地。

作家のカーラ・グローリーはここがモナ・リザの風景のモデルになった場所だと考えている。
グローリーはダ・ヴィンチがこの城から景色を眺めたと考えている。
確かに要素は揃っている。
丘と谷と蛇行する川・・・すべてどこか似ている。
しかしスティーブンソンの目を引いたのは特徴的な形をした橋だった。
グローリー「橋は女性の左側にある。
橋の斜面の角度が少し違っている。
ダ・ヴィンチが橋をこの位置に描いたのはそうした方が橋がもっと目立つからだろう。」

グローリー「私はモナ・リザに描かれている橋はこの橋だと思う。
1472年の大洪水で大きなアーチが壊れた。
それで修復されたのだ。」
この橋が崩壊した年と、ヴィンチェッティがモナ・リザの絵の中に見つけた数字が奇妙な一致を見せている。
もし橋が暗号の一部だとしたら、その意味は何だろう。
この橋は通常ポンテ・ゴッボと呼ばれている。
しかし地元では、別名で知られる。
悪魔の橋だ。

スティーブンソンは聖コルンバスが創設した古い修道院を訪ねた。
神父「ここBobbioには広く人々に伝わるある有名な伝説がある。
その伝説の中で、あの橋が悪魔の端と呼ばれている。
これは聖コルンバヌスと悪魔の戦いの話。」
聖コルンバヌスは悪魔と契約を交わした。
橋を直してもらう代わりに、最初に渡る者の魂を渡すと約束したのだ。
コルンバヌスは悪魔の裏をかき、最初に犬を渡らせ、悪魔を激怒させた。

ダ・ヴィンチが描いた橋が、本当にBobbioの橋だという確証はなく、なぜ悪魔にちなんだ橋を描いたのかもわからない。
ダ・ヴィンチの科学的な技法と優れたデッサン力を考えると、すべての印には意図があるように思える。
スティーブンソンはここでヴィンチェッティがモナ・リザの目に描かれていると主張するLとSの文字に注目した。
Lはダ・ヴィンチの下の名前レオナルドとも考えられる。
あるいはリザ・ゲラルディーニのLかもしれない。
しかしSは何だろう。
ベア「Sはサライを指すと思う。
ダ・ヴィンチの弟子で長年助手を務めた。
ジャン・ジャコモ・カプロッティは通称サライと呼ばれた。
ダ・ヴィンチのモデルを務めた青年で、今では若き愛人であったとも言われる。
ベアはダ・ヴィンチが描いたサライの絵とモナ・リザを比較した。
リザ・ゲラリディーニがモナ・リザのモデルだとする美術界の定説に反し、驚くべき結果が出た。
2つを重ねてみると、長い鼻と目が同じで、顎の輪郭も同じ。
ベア「ダ・ヴィンチがつけたサライという愛称は小悪魔を意味する。
サライは悪戯好きで、手くせも悪かったようだ。」

モナ・リザの顔は、マドンナ・リザと呼ばれる若き美女、リザ・ゲラルディーニのものではないのだろうか。
本当はいくつものダ・ヴィンチの絵に描かれている若き青年の顔なのだろうか。
もしそうなら、Bobbioの悪魔の橋は、ダ・ヴィンチが愛情をこめて私の小悪魔モン・サライと呼んだ青年をほのめかしているのかもしれない。
モナ・リザはリザ・ゲラルディーニとサライを合わせたものなのだろうか?
この絵がダ・ヴィンチの暗号だとすると、それは危険なものだった。
当時同性愛は違法で、死罪にあたる大罪とみなされていた。
それがこの絵を手元に置き続けた理由かもしれない。
ローマでは、モナ・リザの絵に隠されたとされる72という数字についてヴィンチェッティが新たな解釈を打ち出してきた。
ヴィンチェッティが提示する説はルネッサンス時代を通して広く迫害されてきた。
ユダヤ教に関連しているカバラと呼ばれる神秘主義の教えだ。
当時数字の7と2がカバラにおける72の神の名を示していると考えている。
神は自然を超越した存在。
ヴィンチェッティ「7と2は重要な数字、7は天地創造の7日間を示している。
2はカバラの伝統において男性と女性の対比であると同時に融合も意味する。」
ヴィンチェッティはこの二面性が謎を解くカギだと考えている。
ヴィンチェッティ「ダ・ヴィンチは1人の肖像画の中に2人の人物を溶け込ませたのだ。
女性のリザ・ゲラルディーニと女性のような風貌をしていた男性のサライ。」
ダ・ヴィンチにとって秘密の関係の暗示は危険な行為だった。
発覚すれば死罪となる。
命がけの暗号。

Bone Chamber of Malta
世界最古の地下神殿、発掘時に6000体以上の遺骨が見つかった。
それ以来子供の失踪の噂がある。
死者の声がするとも・・・

ロナルド・ハットン教授は古代宗教にみせられた歴史学者。
シチリア島からマルタ島へ向かった。
目的は奇妙な地下神殿の調査。
ピラミッド、ストーンヘンジよりもはるかに古い時代のものと言われている。
この神殿のように先史時代に造られた地下神殿は他に例がない。
その上説明のつかない出来事が多数報告されている。
工事中偶然発見された神殿、見学には必ずガイドが付き添う。
設置された歩道に沿って進む。
考古学者達はここをハイポジウムと呼ぶ。
地下室という意味。

通路を下った先には一連の墓がある。
墓地からは別の通路でヘビ穴として知られる2層目へと下る。
2層目には鹿の角のツルハシと黒曜石を使って岩から削りだされたいくつもの石室がある。
遺構はここで見つかった。
ハットン「6000〜7000体の遺骨がバラバラの状態で積み上げられていたのだから、今とはまったく違う雰囲気だろう。
ここは巨大な墓地だったのだ。
納骨堂だ。」
6000人文もの遺構がここにあった理由も、死に至ったいきさつも分かっていない。
ハットン「隣につながっているこの部屋には床がなく、入り口のアーチだけがある。
引かい縦穴だ。
壁面の窪みから、あちこちの方向に向かって穴が開いている。」

1940年ナショナルジオグラフィック誌にある記事が載った。
観光ツアーでマルタの地下道を訪れた教師と児童の一行がそのまま戻らず忽然と姿を消したというのだ。
ハットン教授はマルタの国立図書館で、当時の地元の新聞を調べた。
子供の集団失踪は大事件だったはず。
しかしこうした話題は小さなコミュニティーではあえて表ざたにしない可能性もある。
地元紙の古い写しに目を通した。
しかし子供が失踪したという記事はない。
ただの噂だろうか。もしそうだとすると、誰が流したのだろう。
調査は空振りに終わったが、外国人による事件の記述が見つかった。
1960年代のものだ。
ロイス・ジョソップという名のイギリス人の女性が教師に引率された一行がハイポジウムで消えたと書いている。
彼女は彼らが姿を消した地下道を発見し、そこで身長7〜8mほどの巨人が数人うろついているのを見たそうだ。
子供の失踪だけでなく、巨人を見たというのだ。
最初はただのでたらめに感じた。
しかし教授は興味をそそられる。
ハットン教授は飛行機で近くのゴゾ島へと向かった。
ゴゾ島はギリシャ神話では、巨人族の神であるアトラスの娘、カリプソが住む島だとされている。
巨人が住んでいたという別の伝説もある。
ハットン教授はジュガンティーヤと呼ばれる巨大神殿を訪ねるつもりだ。
島の作家アントン・アタードと共に丘の頂へと向かう。

アタードは巨人の話を聞いて育った。
なぜここをジュガンティーヤ、巨人の塔と呼ぶのか?
アタード「この石の神殿は、数千年前からこの場所に建っている。
そして島の人々は一体誰がこんなに大きなものを建てたのかと不思議に思っていた。
そこで生まれたのがこの遺跡は普通の人ではなく、巨人が作ったという物語。
物語によるとこの島に住む女性の巨人が石を頭に載せて運んだ。
そしてその巨人の手の跡が石に残されていると言われる。」

アタードは巨人の話を信じていない。
また子供の失踪事件にも疑問の目を向ける。
アタード「似たような失踪事件の話はハイポジウムの地下道以外にも、マルタのあちこちで聞かれる。
実話とは思えない。
こうした話が生まれたのは警告するためだろう。
やたらと洞窟に入るなと。
もし入って迷子になれば二度と出られないと。」

再びマルタ島へ。
ハイポジムムからの出土品に小さな彫刻の像がある。
彫刻の女性は眠っているが、トランス状態にあるように見える。

なぜトランス状態なのか、神殿に奇妙な波動の部屋があると聞き、ハットン教授は地下へ向かう。
通路は螺旋を描き、その先の様子は見えない。
意識の奥底へと沈んでゆくかのようだ。

教授の行先は通称神託の部屋。
神殿の中ほどにある音が奇妙に反響する空間。
他のどの場所でもこんな部屋は見たことがない。
天井には赤い顔料でいりくんだ螺旋模様が描かれ、まるで蜂の巣のような柄になっている。
これは死者へのメッセージを載せた古代の暗号なのか。
今となっては誰も分からない。

思っていた以上に複雑で広範囲にわたっている。
天井全体に広がっていて、この部屋が特別な存在であることがうかがえる。
壁には岩をくりぬいて作られた小さな楕円形の窪みがある。
彫刻か、神への捧げものを置く場所のようだ。
しかしハットン教授はこれが部屋の奇妙な反響に関係しているとにらんでいる。
ハットン「非常によく考えられている。
地下での設計を熟知している。
自然による効果と人工的な効果が考え抜かれて組み合わされている。
苦心のほどがうかがえる。
この壁のくぼみは、音響的な効果を狙って作られたものかもしれない。」

ハットン教授は地上へ戻り、神託の部屋の音響を分析したというマルタ大学の技師のもとを訪ねる。
ダニエル・タルマはデジタル音声マッピング技術を使って神託の部屋と壁の窪みの音響を可視化した。
すると独特の特徴が示された。
タルマ「青は窪みで低い音が協調されている。
緑は部屋の中央部、赤は録音スタジオの音響。
この通りハイポジウムでは低温が強く響いていることが分かる。」

テストの結果、独特の音響効果は窪みでもっとも強く現れた。
タルマの測定では、110ヘルツの周波数で振動していることが分かった。
ハットン教授はこの結果をもとに、部屋で何が行われていたかを探ることにあいた。
マルタ大学工学部ケネス・カミレリ教授は専門とする人工知能の研究の一環として、外部の刺激に対する人の脳の反応を測定している。
ハットン教授が自ら実験台となる。
キャップをはめたらヘッドホンを被せて電子音を流す。

使うのは110ヘルツを含む様々な周波数。
電極を通して脳の活動の顕著な変化を監視する。
脳のどの部分に影響が生じたかも調べることができる。
ハットン教授の脳は大半の周波数にほぼ無反応だった。
しかし110ヘルツに達すると変化が始まる。

カミレリ「左側の側頭部に注目して見てゆこう。
110ヘルツになるまでは比較的緩やかに変化している。
そして周波数が110ヘルツから120ヘルツに達した時点で脳に明らかな変化が起きた。」
神殿の部屋で測定された周波数が脳の左側に大きな影響を及ぼしている。
言語機能が低下し、感情が高まるのだ。
彫刻の横たわる女性は本当に感情が高ぶりトランス状態にあるのかもしれない。
しかし確信は持てない。
ハットン「問題はこれが人工音だということ。
人の声とはかなり違う。」

何が行われていたにせよ、神殿で響いていた音は電子音ではない。
次は人の声で試す。
110ヘルツの周波数は人間の聖域の範囲内、プロのバリトン歌手をスタジオに呼び寄せた。
先史時代の聖職者は人骨が積み上げられた石室の中でこのような声を発しながら葬儀を執り行ったのかもしれない。
石室の壁の音響効果を加えて音の再現を試みた。
マルタ島の地下神殿の本当の用途は不明だが、答えに近づいているかもしれない。
ハットン教授はこの不気味な音の響きに神秘的な感覚を覚えた。
ハットン「遠い昔の先祖や神の声に聞こえる。
もし石室の床が土で覆われていて、そこに人骨が埋まっていたとしても同じような音が響くのだろうか?」
「おそらく少しかわるだろう。でも影響を受けるのは高めの周波数。
土は軟らかいだろうから今よりもっと暗い響きになると思う。」
ハットン「神殿という特別な空間では、どんな風に聞こえるか想像してみよう。
音をあげて・・・
これは凄い、あ〜荘厳だ。」

地下の世界へと下ることで、感覚や精神状態が変わる。
これが神殿の狙いかもしれない。
ハットン「瞬く炎の明かりに、ぼんやりと照らされた空間、そこで数1000人もの命なき死せる者に囲まれる。
それが生まれて初めてであれば、神経は楽器の弦のようにはりつめることだろう。
とても異様な体験だ。
聖職者達の歌声と、取り囲む人骨、死者の魂が歌声に乗り移る。
埋葬の地であろうこの神殿で、地下へと連れてこられた人々は、不気味な声に包まれる。
そして児童たちのように二度と戻ることはなかったのだ。」

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イギリス華麗なる芸術の旅2 騎士たちの時代

イングランド西部ヘレフォード大聖堂、今から700年前、この大聖堂で修道士達がある芸術作品を作った。
The hereford mappa mundi中世の人々にとっての世界地図。
地図といっても旅行に役立つようなものではなく、あまり正確ではない。
神話や迷信など、実在しないものも描かれている。
キリスト教の影響で地図の中心はエルサレム。

聖書に出てくるノアの箱舟とバベルの塔、最後の審判、神話に登場する生き物の姿もある。
胸に目がついた奇妙な生き物や、不気味で恐ろしげな地を這う動物・・・
ここには当時の人々が空想していた様々なものが全て描かれている。
中世のイギリスの人々は2つの大きな力に支配されていた。
国王と教会だ。

カンタベリー大聖堂(イングランド南東部ケント州)、12世紀その2つの大きな力の間で権力争いが勃発、1人の聖職者が命を落とすという出来事が起きる。
1170年12月29日カンタベリー大司教のトマス・ベケットが殺害された。
国王以上の権力を持つと言われていたベケットを襲ったのは国王に忠実な4人の騎士たち。
命を狙われた彼は大聖堂に逃げ込む。
ベケットは騎士たちが思いとどまることを期待していた。

しかし4人の騎士は神聖な大聖堂に入ってもベケットを殺害する決意を変えることはなかった。
彼らは国王の力を示そうと固く決めていた。
ベケットはここで静かに騎士たちを待ちこういった。
“私は国王への反逆者ではない。君たちはなぜこんなことをするのだ。”
すると騎士の1人がベケットの帽子を叩きおとしこういった。
“観念しろ、お前には死んでもらう。”
しかしベケット大司教の殺害はキリスト教全体の怒りを買い、国王は償いのためカンタベリーの町を裸足で歩かねばならなかった。
国王の力を示そうとした騎士たちのもくろみは裏目に出てしまった。
ベケットは聖人の仲間入りをした。
それ以来カンタベリー大聖堂にはヨーロッパ中から巡礼者が訪れるようになった。

ここには多くの人々が巡礼に訪れた跡が残されている。
階段の石がすり減っている。
たくさんの巡礼者達がひざまずいた跡だ。
彼らの最大の目的はベケットの礼拝堂にひざまずくこと。
今はロウソクが1本あるのみだが、ここにはかつて見事な礼拝堂があった。
しかしそれは16世紀のイングランド王ヘンリー8世によって破壊されてしまった。

礼拝堂はなくなってしまったが、美しいステンドグラスは今も残されている。
12枚のステンドグラスに描き出されているのはベケットが死後行ったと言われる数々の奇跡。
ステンドグラスは見るものを圧倒するほど美しい中世の芸術品、初めてこれを目にした時の当時の人々の気持ちを想像してみよう。
テレビも映画もなかった時代、このように輝くばかりの色鮮やかな芸術作品を見て、さぞかし驚いたことだろう。
ステンドグラスに光が差し込むと、まるで神の光に照らされているようだ。
中世のイギリスではキリスト教が全てだった。
教会は人々の生きる目的だった。
同時に教会は人々の考えや行動を支配しようとした。

ホーリー・トリニティ教会Holy Trinity Church(イングランド中部コヴェントリー)、高さ12mの場所にある芸術作品。
この絵に描かれているのは世界の終わり、最後の審判の様子。
左のほうにいるのは天国に行く人々。
棺から出て点に昇ってゆく様子が描かれている。
罪を犯すとどんな運命が待ち受けているかが描かれている。
彼らの周りは悪魔だらけ、酒場で働く女性達、ビールを水で薄めて客に売りつけようとしている。
彼女達も罪人。
大きく口をあけた悪魔の姿。
罪を犯した人々を焼き尽くす炎も見える。
悪魔の口の中に落ちてゆく様子が描かれている。
この絵を見た人はみな最後の審判では誰もが裁かれると思った。
例えすでに死んでいて、墓に入ったとしても、棺から引き出され、裁きを受けるのだ。

ヨーロッパの芸術品は長いこと修道士たちの手で作られてきた。
しかしある時そうした作品が売り物になることに気付いた人々がいた。
彼らは芸術品を作る職人となり、やがて芸術家という職業が生まれた。
画家や彫刻家、それぞれが他の誰よりも美しい作品を作ろうと制作に励んだ。
イングランド東部ケンブリッジ大学の図書館には、中世に書かれた貴重な本が納められている。
そしてそうした本の中には中世の美しい絵がたくさん描かれている。
その最高傑作といえるのがベリー聖書、挿絵を手掛けたのは画家ヒューゴ、彼はヨーロッパ中を旅して様々な画法を学び、この作品を作った。

描かれて900年近くもたっているのにとても色鮮やか、赤も青も緑もきれい。
その秘密は絵の具に混ぜてある卵の白身。
卵の白身を加えることで、絵の具の濃度が濃くなり色が長持ちする。
金色の装飾が施してあり、きれいな花が描かれている。
命が躍動している。
人魚や猿、ギリシャ神話に登場する怪物ケンタウロスの姿もある。
あるページに描かれているのは旧約聖書にでてくるモーセ、モーセの兄アロン、その下にはアロンがイスラエルの民を数えている様子が描かれている。

画家ヒューゴは衣服を使って人物の体のラインを表すという画法を用いている。
衣服がまるで濡れているかのように肌に張り付き、膝や太ももの位置が一目でわかる。
そうすることで人物が生き生きして見える。
さらにこの絵に描かれている人物は表情がとても豊か。
戸惑ったような表情を浮かべている人々、人間味あふれる情緒豊かな作品。
修道士達が書いた聖書の挿絵とは比べ物にならない。
この聖書は文書を読まなくても絵を見ているだけで聖書の物語が伝わってくる。

中世のイギリスを支配していた2つの大きな力、国王と教会。
中世も時代をくだると王室と教会を結びつける新たなもの、騎士道が誕生する。
騎士道とは、騎士とはこうあるべきとうい行動規範のこと。
騎士に求められるのは勇気や優しさ、そして忠誠心。
そんな騎士道の基となったのがアーサー王伝説。
イギリスの王アーサーの生涯を語ったこの物語は、騎士たちの冒険とロマンスを描いた魅力的な話。
そしてこの物語から1つの素晴らしい芸術作品が生まれた。
それはイングランド南部にあるウィンチェスター城に保管されている。
壁に掛けられている直径約5.5mの円卓、中央にはこう書かれている。
“これはアーサー王と24人の騎士の円卓である。”
このテーブルにはアーサー王と彼に仕える騎士たちが使った円卓をさいげんしたもの。
騎士たちの名前が書かれている。
真ん中に描かれているのはアーサー王。

騎士道は当時の芸術作品すべてに影響を及ぼした。
騎士道の影響を受けて生まれた最高傑作のいくつかはイスラム教徒によって奪われたキリスト教の聖地エルサレムを取り戻すために戦った騎士たち、十字軍を題材にしている。
十字軍に参加したテンプル騎士団はロンドンに教会を作り、戦いで命を落とした人々を葬った。
彼らは円形の教会を建てた。
キリストが埋葬されたというエルサレムの教会を模して作ったのだ。
この教会に来ればエルサレムに行ったことになると考えたのだろう。
テンプル騎士団の騎士たちは、死後ここに埋葬された。
騎士たちの墓が残っている。
ところどころ形が崩れているが、長い年月のために石がすり減ったわけではなく、第二次世界大戦中に爆撃を受け、破壊されてしまった。
しかしいくつかは爆撃を免れもとの姿のまま残されている。
ある伯爵とその息子たちの彫像、父親は70代で死に、息子は40代で死んでいるが、どちらもとても若く見える。
兜をかぶっている者もいる。
上着には美しいひだが入っている。
手を剣にかけ、今にも抜こうとしているかのようだ。
足はそろえておらず、今にも立ち上がろうとしているかのようだ。
顔は目を見開いている。
ここに埋葬された騎士達は再び立ち上がってキリスト教のために戦う日を待っているのだ。

勇敢な戦士であるというだけでは騎士とは言えない。
騎士には献身的に女性を愛することも求められた。
エドワード機1239〜1307プランタジネット朝第5代イングランド王)とその王妃カスティリアのエレアノールのロマンスは特に有名。
1290年に王妃が旅先で死んだとき、エドワード気話欧悲しんだ。
エドワード気浪θ泙鯔篩鬚垢襪燭瓠遺体と共に直ちにロンドンへ向かった。
そしてロンドンに到着するまでの間に立ち寄った12か所の町に王妃に捧げる記念碑を建てた。
ゲディントン(イングランド中部)もそのうちの1つ。
古い記念碑というのはたいてい長い年月を経て傷みが生じるが、傷みながらも何世紀もそこに建ち続けているからこそ記念碑は愛される。
これが最初に建てられた頃は今とは全く違っていたはず。
おそらくカラフルな色が塗られ、金箔やガラスで飾り付けられていたことだろう。

ウィンザー城(イングランド南西部バークシャー)1348年イングランド国王エドワード3世はガーター騎士団を創設し、この城を騎士団の本拠地にした。
ここにはエドワード3世が大切にしていたものが保管されている。
長さ2mの鋼鉄製の剣、刃の部分はよく尖れている。
彼はこの件を競技にでるために使っていた。
エドワード3世は1348年にガーター騎士団を創設した際、この剣を手放した。
彼は騎士団の礼拝堂にこの剣を運ぶと自分の席の上にかけた。
まるで十字架のように。
それは戦いのために作られた剣が十字架に姿を変えた瞬間だった。
戦う勇気と信仰心、騎士道に欠かせない精神。

ウィンザー城にある聖ジョージ礼拝堂は今でもガーター騎士団の本拠地。
アーサー王の円卓と同じでメンバーは24人に限られている。
騎士達はこの礼拝堂に集まった。
美しい褐色の壁に真鍮でできた騎士達のプレートが輝いている。
800人分くらいはある。
このプレートはイギリスの歴史そのものといってよいだろう。
中でも一番古いのは Ralph Bassetのプレート、紋章には黒い猪がエナメルで描かれている。
金色の牙に金色の目、首には金色の王冠をかけている。
盾には赤い線が3本はいtっていて動物のしっぽが小さく描かれている。
円形の紋章、これも一種の盾でユリが描かれている。
このような紋章はたくさんの騎士が入り乱れる船上で役に立った。
当時戦場では旗に描かれた紋章で個人を見分けていた。
敵と味方の区別もついた。

ガーター騎士団の精神を引き継ぐウィンザー騎士と呼ばれる人々が今もこの城の中で暮らしている。
ウィンザー騎士団リテャード・ムーア少佐「仕事は神に祈ること。
王室のために、そして名誉あるガーター騎士団のために祈る。
私にとって騎士とは優しさと強さを併せ持つ思慮深い人物。」
重い軍服、今の時代に太い帯やたくさんのバッジのついた軍服を着ることに意味はあるのか?
「ちょっと堅苦しいが私にとっては大きな意味がある。
たまに飾りが落ちるが・・・」

14世紀の半ばごろ、イギリスとフランスの間で壮絶な戦争が始まる。
イギリスの軍隊を率いたのはエドワード3世の長男エドワード黒太子だった。
カンタベリー大聖堂に彼の墓がある。
彼は王位に就くことなく病気で死んだ。
フランスとの戦争で彼は残酷な面を見せた。
ある街を攻めた時には女性や子供まで殺したと言われている。

そのような残忍な行為を働いたせいか、彼は死後自分が地獄へ行くことを恐れ、天国へ行けるよう墓の作り方を細かく指示したという。
ブロンズに美しい金箔が貼られている。
上着にはライオンの紋章が入っている。
剣をさしたベルトにもライオンがいる。
足は犬の背中に載せている。
彼は手の形を祈りの形にするよう指定した。
この墓は一時期真っ黒に塗られていた。
黒太子の名にちなみ、人々は黒く塗ってしまった。
1930年代にその塗装がはがされ、金色に輝くブロンズ像が姿を現した。

エドワード3世の次にイングランドの国王になったのは黒太子の息子、リチャード2世だった。
リチャード2せいは王冠を自分の持つ権力の象徴にしようと考えた。
この彼の虚栄心によって、いくつもの芸術品が生まれた。
ミュンヘン(ドイツ)にはリチャード2世が残したある芸術品がある。
彼の宝物の大半は17世紀に起きた市民革命によって破壊されたが、幸運にも1つの貴重な品がここで生き延びている。
それはミュンヘンにあるレジデンツ宮殿で保管されている。
この世に1つだけ残された中世のイギリスの王冠。
他の王冠はすべて破壊された。
これはもともとリチャード2世の宮殿にあった。
彼の最初の王妃が身に着けていた。
その後ドイツの王女が結婚する時にこの国に渡ってきたもの。
12輪の黄金のユリを色鮮やかな宝石が飾っている。
ルビーにサファイヤ、パールにエメラルド、そしてダイヤモンド・・・
王妃の王冠がこれほど見事なら、国王の王冠はどんなものだったのか?
リチャード2世は自分を国王陛下と呼ばせた最初の国王。
彼にとって王冠は威厳の象徴だった。
彼は王冠を王としての権利や権力を示すものと考えていた。

ウェストミンスターホール(ロンドン)、11世紀に作られた当時の人々にとっては驚異的に大きな建築物だった。
屋根はリチャード2世が作ったもの。
柱に支えられていない屋根としては当時のヨーロッパでもっとも大きいものだった。
屋根には26の天使の像があり、それぞれがリチャード2世の紋章を手にしている。
リチャード2世は建てられてから300年建っていたこのホールの壁を高く造り直し、自分の紋章として使っていた白い鹿でホールを埋め尽くした。

リチャード2世はイギリスで最高の職人たちを雇い、イギリス産の材料を使ってこのホールを改築した。
フランス式で建てられた建物をイギリス式に変えた。
そうすることで単に我こそが国王だと知らしめただけでなく、新たなイギリスのあり方を示すぞと宣言した。

14世紀のイギリスの詩人ジェフリー・チョーサーによってカンタベリー物語が書かれたのはちょうどこのころ。
この物語にはカンタベリー大聖堂へ向かう巡礼者達のことが書かれている。
物語には生き生きとした挿絵もついている。
酔った男性にあまり信心深くない神父、何度も結婚した女性・・・
作者チョーサーは英語で物語を書いた初めての作家だった。
チョーサーの唯一の肖像画、リチャード2世の宮廷で詩を朗読している。
この絵を見ていると金色が目につくが、おそらく実際にそうだったのだろう。
女性達が頭にかぶっているものや、男性の上着もすべて金で飾られている。
誰もがうっとりと聞いている。
チョーサーは小さな段の上にあがり、詩を読み上げている。
ノルマン人に征服されて以来、イギリス人はフランス語を話すよう義務付けられていたため、当時フランス語の詩が朗読されることが多かったはず。
彼の行動により、人々は再び英語に注目した。

ナショナルギャラリー(ロンドン)中世の絵画を集めた部屋、大半はイタリアの絵画だが、この中でひと際素晴らしいのはイギリスの作品。
リチャード2世のために描かれたもので、折りたたんで持ち運びできるようになっている。
左側に描かれているのは王冠をかぶりひざまずいたリチャード2世、その後ろには3人の聖人がいる。
矢を手にしているのは聖エドマンド、聖人となったかつての国王。
真ん中にいるのはエドワード懺悔王。
3人目はキリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネ。
彼は子羊を抱え、手をリチャード2世に回している。
リチャード2世はひざまずいて何かを受け取ろうとしている。
それが何かは右側の絵を見ればわかる。
天国、キリストを腕に抱いた聖母マリアが描かれている。
周りには天使が並び、天使達はリチャード2世のシンボルである白い鹿をかたどったバッヂを胸につけている。
つまり天使全員がリチャード2世への忠誠を示している。
幼いキリストがリチャード2世に何かを与えようとしている。
それは一体何なのか、答えは旗にある。
虫眼鏡を使ってよく見ると、旗の一番上に丸いものがついている。
よく見るとその丸いものの中に何かが描かれている。
1つの島に白い城があり小さなヨットがある。
実はこれは銀色の海に浮かぶ王国、この島はイギリス、ようするに聖母マリアとキリストはリチャード2世にイギリスを与えているのだ。
この絵のすべてがリチャード2世をたたえている。
リチャード2世の背後に立つ3人の聖人たち、リチャード2世のシンボル白い鹿のバッヂをつけた天使、イギリスを与えようとしているキリスト。
リチャード2世がこの世における自分の役割をどう考えていたかがよくわかる。
国王と教会、2つの大きな力が国を支配していた中世のイギリス、その時代の終わりにはかつては教会のものだった芸術が国王のものとなっていったのだ。

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イギリス華麗なる芸術の旅★1.征服の時代


イギリス、ロンドンを流れるテムズ川、1834年この川のほとりで、あるものが発見された。
ちょうどそのころテムズ川にかかる橋、ロンドン橋が新しく造り直され、川岸では古いロンドン橋を取り壊す作業が行われていた。
作業員たちは瓦礫や泥を片付けるという単調な作業をしていた。
そんな中、彼らは驚くべき発見をした。
作業員たちが見つけたのは古代ローマ皇帝ハドリアヌスをかたどったブロンズ製の彫刻の一部分だった。
それは頭の部分だった。
とても保存状態がよく、髪の毛や眉、目、立派な鼻、そして顎までしっかり残っていた。

ローマ、その昔ヨーロッパ大陸をほぼ手中に収めた巨大な帝国があった。
かつてはイギリスもローマ帝国の支配下にあった。
ローマ人が初めてイギリスに攻め入ったのは紀元前55年、そのおよそ100年後ローマ帝国の第4代皇帝クラウディウス(BC.10~AD.54)がイギリスの完全に征服した。
ローマ帝国のヨーロッパ制服をたたえるモニュメントはたくさんあるが、ローマ帝国がイギリスを征服したことを示すものは1つ、1巨大な石碑の断片。
ローマ帝国第4代皇帝クラウディウスが現在のイギリス南部にあったブリタニアの王を降伏させたことを記念するものだった。
ここにはクラウディウス帝がイギリス海峡の向こうから征服した国の人々を連れてきたと書いてある。
ローマ帝国は権力を武器にイギリスに様々な要求を突き付けた。

パンテオン、ローマ神話の神々を祀る神殿、現代に残るローマ芸術の最高傑作。
ローマ帝国が支配した国や領土は属州と呼ばれ、イギリスもその1つだった。
属州にはそれぞれの国や領土を象徴した女性像があった。
イギリスの場合はブリタニアと呼ばれる女神。

2世紀に作られたコインの片面には女神ブリタニアの姿が描かれている。
なんだか悲しんでいるように見える。
このブリタニア、現在のイギリスの50ペンス硬貨にも描かれている。
片面がエリザベス女王で、もう片面がブリタニア、こちらのブリタニアはなんだか堂々としているようだ。

さらにかつてローマ帝国の東の端であった場所には、今では忘れ去られたブリタニアの古い彫像が残っていた。
トルコ西部の町アフロディシアス、1世紀頃ここには腕の良い芸術家がたくさんいた。
このあたりで切り出される大理石を使って彫刻家達は美しい作品を生み出した。
見事なコレクション、ローマ神話の神々が生き生きと表現されている。
イギリスから遠く離れたこの地の人々にローマがイギリスを支配したことを知らせるために作られた彫刻、倒れているのはイギリスの女神。
右のほうにギリシャ語でBRETANNIAと書いてあり、もう一方にはローマ皇帝クラウディウスの名前がある。
ブリタニアはうちひしがれている。
殺されると知って命乞いをしているのかもしれない。
髪の毛を振り乱しとても悲しそうな表情をしている。
一方クラウディウス帝は右手を高く上げ、左手でブリタニアの神をひっぱり、まるで喉をかき切ろうとしているかのようだ。
さらにクラウディウスは膝でブリタニアの体を押さえつけている。
今にも殺されそう。
こうしてローマに敗れたイギリスの姿を表現している。
イギリス人は決して奴隷にはならにという歌があるが、イギリス人はかつてこうしてローマ帝国に屈していった。

古代ローマ時代の財宝は長年にわたり様々な場所で発見されている。
それらが納められているのが大英博物館、時にはまったくの偶然からローマ時代の財宝が見つかることもある。
例えば銀製品のコレクションは第二次世界大戦中、1人の農民が畑を耕していて偶然掘り当てたもの。
家に持ち帰りクリスマスのディナーを食べるために使った。
戦争が終わった後彼はそのことを公表し、この財宝は大英博物館に移された。
コレクションの中心ともいえる大きな皿、人生の喜びを表現した見事な作品。
真ん中に描かれているのはギリシャ神話に登場する海の神オケアノスの顔。
その髪の毛の間をイルカが泳いでいる。
周りには船乗り達の姿が描かれている。
バーティーで踊っている人々の様子も描かれている。
ギリシャ神話の牧神パーン、英雄ヘラクレスの姿もある。
ダンスをしている男女がまるで渦を巻くように隙間なく描かれている。
実に盛大なパーティー、誰もが喜び酒を飲み踊っている。
今にも動き出しそうだ。
足に巻きついた衣服、両手を高くあげた男達、すべてが活気に充ち溢れている。
この皿はまさに、生命をたたえているのだ。

5世紀の初めにローマ帝国はイギリスから撤退する。
しかし無防備となったイギリスには新たな侵略者が近づいていた。
それは現在のドイツの北、デンマーク南部より侵入してきたアングロサクソン人。
1500年前に使われていたアングロサクソン語は英語のもととなった。
英雄ベオウルフの冒険を語る叙事詩など、アンゴロサクソンの物語の多くは寒々とした荒れた土地を舞台にしている。
ローマが去った後、イギリスに強い影響を及ぼしたのがアングロサクソン。
彼らは言語だけでなく国民性の一部ともいえる頑固さももたらした。
6世紀有力なアングロサクソンの王がイングランド東部デベン川周辺を治めていた。
王が死ぬとデベン川上流にあるサットン・フー(Sutton Hoo)と呼ばれる野原に葬られた。
とても美し土地、金色に輝く草原と青い空、王の遺体を乗せた船はここまで引き上げられた。
船の中には王が死後の世界で使うとされる家財道具や豪華な装飾品などが入っていた。
船自体が王の墓なのだ。
この墓は1939年に発掘された。

王の兜、アングロサクソンの時代の象徴する力強い兜、実に細かく念入りな細工が施されている。
鼻と眉が鳥の形をしている。
眉が翼、鳥のしっぽにあたる部分が髭になっている。
鼻には穴が2つあいていて、かぶっても息ができるようになっている。
兜の上の部分には、ドラゴンの飾りが施されている。

肩の留め金は宝石のガーネット、おそらくアフガニスタンかインドあたりから輸入されたもの。
ガーネットの周りを金がとりまき、十字架のような形が浮かび上がっている。

ベルトのバックル、先端に入り組んだ模様が施されている。
よく見ると無数の蛇、アングロサクソンは動物が大好きだった。

財布の一部には男性と2頭のオオカミが描かれている。

スコットランド、ヘブリディーズ諸島(Hebrides)、563年イギリスにキリスト教が伝わった。
アイルランド出身の修道僧、聖コルンバ(Saint Clumba)と12人の弟子が海を渡ってこの地にやってきた。
アイバー・ニールはイギリスにキリスト教を伝えた聖コルンバをたたえて彼らの航海を再現している。
ニール「当時は陸を旅するほうが危険だった。
陸には森が多く、盗賊に襲われる危険があった。
なので船旅のほうが主流だった。」
聖コルンバと弟子達が落ち着き先に選んだのは、ヘブリディーズ諸島に属するアイオナ島だった。
イギリスにやってきた聖コルンバのおかげで、キリスト教はこの島からスコットランド、さらにイングランド北部へと広まった。

そしてあらゆる場所に石で作られた十字架が残された。
新たな宗教は、それまで存在していた宗教を土台にするもの。
丸い形はケルト人の十字架の特徴で、太陽の力を表している。
正面に回ると装飾はほとんど消えかけているが、一番上にはマリアとキリストがいるのが分かる。
その下にいるのはハープを弾く古代イスラエルの王ダビデだと言われている。
フルートを弾く人物の姿もある。

当時はこのような十字架が教会も修道院もないところにポツンと立っていた。
それはつまり十字架自体が新たな宗教の拠点になっていたということ。
おそらく神父の話を聞く場にもなっていただろう。
十字架はこうして新たな宗教のシンボルとして広まっていった。
イギリスにキリスト教を伝えたコルンバの弟子達はスコットランドから南へと向かった。
そしてちょうどそのころ聖アウグスティヌスもイギリスに到着し、そこから北へ向かっていた。
2つの布教団はイングランド北部の町ノーサンバーランド(Northumberland)で出会い、この地の修道院は学問の中心地として広く知られるようになる。

当時の修道院は大きな力を持っていた。
富や権力だけでなく政治に対する影響力もあった。
彼らは貧しい人々の世話をし、祈りの場を提供した。
そいて学問の場でもある修道院には多くの書物があった。
ウェアマウス・ジャロー(Wearmouth-Jarrow)修道院、かつては有名な修道院だった場所。
かつて長い年月をかけ、貴重な書物が生み出された。
しかしそれは今イギリスにはない。
完成直後に海の向こうへと送られたからだ。
西暦716年ウェアマウス修道院の院長はイタリアへ向かい旅立つ。
ローマ教皇にその書物を捧げるためだった。
しかし院長は途中で命を落とし書物はフィレンツェに落ち着くことになる。
完全なものとしては世界で最も古い聖書、ウェアマウス・ジャロー修道僧がイギリスで作ったもの。
厚さ30cmほど重さは35kg、中には美しい文字が書かれている。
この聖書には500匹分の羊の皮が使われている。
この聖書を書くのに使われた記号が示されている。
はじめのほうのページには美しい絵が描かれている。
書斎で聖書を書き写している人物のようだ。
書物、インクの壺、間違いを修正する時に使うナイフ・・・とても鮮やかな素晴らしい絵。
書物は濃いピンク色で描かれ、書斎の棚は深みのある色をしている。
聖書を書き写している人物は赤い上着を着ていて頭の上には金色の輪が描かれている。

700ページほどめくってみると旧約聖書が終わりに近づき新約聖書へと移る。
ここにも美しい絵が描かれている。
キリスト、両脇に2人の天使、マタイにマルコ、ルカ、ヨハネもいる。
実に生き生きとした絵。
まるで昨日描かれたばかりのようだ。
明るい青に濃い青、この聖書は何世紀もの間イタリア人の手によるものだと思われていた。
しかし今では専門家はみな、これはイギリスで作られたものだと認めている。
これはイギリスが1300年も前からヨーローッパの一部であり、またヨーロッパ文化の一部であったことも示すよい例だと言えるだろう。

イギリスは独自の文化を育みつつあった。
しかし8世紀の末に再び侵略の脅威にさらされる。
スカンディナビア半島に住むヴァイキングがイギリスに侵入してきたのだ。
イギリス、オックスフォード、ヴァイキングは略奪や暴力を続けながら勢力を広げていった。
怯えて逃げ出した国王もいた。
何とか無事でいられたのはオックスフォードから西のほうに広がるウェセックスの国王だけだった。
その頃ある王子がウェセックスの王位に就く。
彼の名はアルフレッド、イギリス人唯一の大王、アルフレッド大王。
Ashmolean博物館にはアルフレッド大王に対するウェセックス国民の忠誠心を示す財宝がある。
アルフレッドの宝石、先端の部分は獣の頭の形をしている。
脇には水晶がはめ込まれている。
内側に描かれていすのは男性の姿、2本の花を持つ男性が意味するのは視力、曇りのない目を象徴している。
獣はイギリスが直面する危険の象徴。
周囲には、我はアルフレッドの命で作られたと書かれている。
王はなぜこれを作ったのか。
実はこの宝石はウェセックスの国民に与えられたものだと考えられている。
国王と国民、お互いの忠誠の記だったのだろう。
王は国民にこれを与え、ヴァイキングに立ち向かえと命じた。
これが何に使われていたのかはわかっていないが、棒を取り付けて本を読むときに文字をたどるために使われたという説もある。
アルフレッドはこの宝石によって国民の心をつかんだ。
これを約束の証にしたのだ。
私に忠誠をつくすなら私もお前たちを決して裏切らないと。

アルフレッド大王の指揮のもと、彼らはヴァイキングを退けた。
しかしアルフレッド大王は安心しきったわけではなかった。
アルフレッドはヴァイキングから自分の王国を救ったものの、その現状をとても不安に思っていた。
中でも特に心配していたのは学問がすたれたこと。
彼はこう言っていた。“かつて人々はラテン語を読み、難しい書物を理解した。それらは不可欠の知識である。”と。
そこでアルフレッドはある決意をする。
ローマ教皇グレゴリウス1世が書いた本をアルフレッド大王が自ら翻訳したもの、英語で書かれたものとしてはもっとも古い本。(オックスフォード大学ボードリアン図書館)
古い時代の英語で書かれているため、専門家でなければ内容は理解できないだろう。
内容はリーダーシップについて、指導者がいかに行動すべきか、問題にどう対処すべきか、またなぜ謙虚でいるべきか、といったようなことが記されている。
アルフレッドはこうした過去の知恵が失われてしまったことをとても心配していた。
まずアルフレッドはこう書いている。
私はこれをすべての聖職者達に配りたい。
国民にも読ませたい。
人々に学び、理解してほしいのだ。

平和は長くは続かなかった。
イギリスはもう1度征服される。
その頃フランス、ノルマンディーは有力な侯爵の領地だった。
その名もノルマンディー公ウィリアム、ウィリアム征服王として知られる人物。
1066年ウィリアム征服王がイギリスを侵略した年としてよく知られている。
ウィリアムは文学や宝石には関心がなかった。
彼が関心を向けたのは石、といってもどんな石でもよいわけではなく、自分の故郷でとれる石にこだわっていた。
ウィリアムの故郷ノルマンディ西部にある町カーン。
若きウィリアムは侯爵の称号を得るとこの町の再建に乗り出す。
彼が建てた城もあり、教会や修道院も建設した。
その材料として使ったのがカーンの町特産の石。
彼が作った建物の中でももっとも目を引くのが男子修道院アベ・オ・ゾンム(The Abbaye-aux- Hommes)
ロマネスク様式、つまりローマ風、立派な柱が並んでいる。
ウィリアムはこうした建物を作ることで人々に知らしめた。
ノルマンディを治めているのは、このウィリアムだと。
この修道院は1066年の夏に完成した。
故郷の再建を終えたウィリアムの次に目を向けたのは海の向こうにあるイギリスだった。
イギリス人はウィリアムがこのような建築物を作り続ける意味を理解していなかった。
理解していたら、自分達の身に何が起こるかを予測できたかもしれない。

バイユーのタペストリー(Tapisserie de Bayeux)、ウィリアムのイギリス征服を祝って制作されたもの。
このタペストリーには彼がイギリスを征服した経緯が全て描かれている。
エドワード懺悔王の死(1066年1月)、新たにイングランド王に即位したハロルド2世。
上下の帯状の部分には一見イギリス征服の物語とは関係ないような図柄が描かれている。
農民が畑を耕している姿、鳥を捕っている男もいる。

厳密にはこれはタペストリーではない。
麻の布に毛糸で刺繍をほどこしたもの。
ウィリアムがイギリスに侵入することになったキッカケはエドワード懺悔王の死、彼が埋葬されたウェストミンスター寺院は神の手で祝福されている。
次に王に即位したハロルドが王冠を受けている。
ノルマンディーにいるウィリアムはハロルドがイギリスの王位に就いたことをスパイたちから報告されている。

その先には侵略のために使う船を作る場面が描かれている。
武器などを船に積んでいる場面、槍と矢も描かれている。
侵略の準備が大詰めになると、馬達を船に載せた。
やがて船がでて、イギリスへと渡る。

イングランド南岸から侵入し、いよいよ戦いとなるが、まずは腹ごしらえ。
鍋で何かを煮たり、鳥を焼いたりしている。
ウィリアムが家来と食事をしている。
それと同時に戦の準備も進めている。

小さな城を立てている。
ウィリアムの家来がイギリス人の家に火を放ち、子供を連れた女性が燃える家から逃げている。

やがて戦いが始まった。
最初は騎兵がハロルドの軍勢に突撃している。
首や腕を切断された兵士、戦いは1日中続く。
混乱した戦場でウィリアムの家来達の間に不穏な噂が広がる。
ウィリアムが殺されたと。

そこで彼は馬の上で後ろに向き直り、兜を脱いで味方に自分の顔を見せた。
これはイギリスではよく知られた逸話。
ハロルドの目が矢で射ぬかれ、命を落とす。

ノルマンディー侯ウィリアムはイギリスを変えた。
ウィリアムの征服後ノルマンディー風の習慣がアングロサクソンの習慣にとってかわった。
貴族達はフランス語を話すようになった。
そしてウィリアムはイギリスの地でも建物を自らの権威の象徴として使った。

ロンドン塔はイギリスの象徴のような建築物だが、もともとはノルマン人の征服の象徴として建てられたものだった。
これほどの規模の建物はローマ人のイギリス侵略からこのロンドン塔が建てられるまでの1000年間、見られることはなかった。

ロンドン塔はまるでこう語っているようだ。
“我々は来た。撤退はしない。抵抗は無駄だ。”
ロンドン塔の中にある礼拝堂、教会というより牢獄のようだ。
建築材料として使われているのは白っぽい石材、とても軟らかいので削って彫刻を施すのも楽だった。
これはウィリアムの故郷から運ばれてきたウィリアムお気に入りの石材。
彼は征服したイギリスの人々にノルマン人の生活習慣やフランス語を義務付けた。
それだけでは飽き足らず、彼らの建築やその材料まで持ち込んだ。
イギリスはノルマン人の征服で壊滅的な打撃を受けた。
領土や言葉を奪われただけでなく、ノルマン人が征服する以前のイギリスのものはすべて劣っているとみなされた。

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バチカン・シークレット★ミケランジェロの謎を解け


15世紀ローマカトリック教皇庁、後にバチカンと呼ばれる場所で、キリスト教会は大きく揺れていた。
教皇がフランスに移され、東西の境界が大分裂。
さらにはイスラム勢力がローマに迫り、東のキリスト教国ビザンツ帝国の首都が陥落していた。
バチカンは苦慮していた。
落ち行く教会の権威を、どうすれば守ることができるのか。
当時バチカンはフィレンツェのど近隣諸国と戦争が始まっていた。
自らの防衛の必要にも迫られてゆく。
信仰の場であるバチカンの心臓部、そこに強固な軍事要塞が築かれた。
戦いに備えられた銃弾付の堅固な城壁、高さ20mの建物は3mもの分厚い壁で守られている。


しかし中に入ると軍事要塞の姿は一変し、壮麗な壁画が描かれた礼拝堂となっている。
システィーナ礼拝堂と名付けられ、教皇が要人を集め、自らミサをあげる重要な場所となっていた。
なぜ軍事的な要塞が壮麗な礼拝堂となったのか、そこにはバチカンの意向を示す計画が秘められていた。
当代きっての才能による宗教幻術の最高傑作。
しかしよく見ると不思議な絵が描かれている。
キリストの教えと異なるギリシャ神話の巫女の姿、そしてユダヤの教えに従って描いたように見えるアダムとイヴの物語・・・

なぜキリスト教の中心の場に、このような絵が描かれることになったのか。
天使が暴力を振るうようにさえ見える神の裁きの絵も描かれている。
これらの絵を描いたのは巨匠ミケランジェロ・ブオナッローティ(Michelangelo Buonarroti)、当時湧き起っていたルネサンス活動の中でもっともすぐれた作品を作る芸術家だった。
バチカンは当代きっての才能を集め、その作品の力で多くの人々の心を捉えようとしていた。
現在世界中におよそ12億を超える信者を抱えるカトリック教会、そのバチカンの歴史の中で重要な役割を果たすことになったミケランジェロの壁画、そこに込められたメッセージと戦略とは?

MUSEI VATICANI、システィーナ礼拝堂へ向かう長い廊下、訪れる人は礼拝堂内部前面に描かれた絵が作り出す不思議な雰囲気に圧倒される。
この礼拝堂のフレスコ画は1度に描かれたものではない。
異なる時代にそれぞれが大きく違ったメッセージを込められて作られたもの。
最初に描いたのは壁の側面の壁画、そこには中世以来の伝統的な聖書の教えが忠実に描きこまれている。
片側には旧約聖書のモーセの物語、もう一方には新約聖書のキリストの物語が並ぶ。

ペルジーノ(Perugino)作『キリストの洗礼』、天使に囲まれた威厳のある神、天の上からキリストに洗礼を施しているのを見守っている。
中世のキリスト教の厳格な教えがそのまま描かれている。
イエスの周りに集まる人々の表情も宗教画の様式が守られている。
ボッティチェリなどルネサンスの芸術家が描いた絵も、人物の動きはほとんど見られない。

ロッセッリ(Roselli)の描いた『最後の晩餐』、キリストと周りにいる弟子たちの頭上には、聖人を表す伝統的な表現である光輪が描かれる。
側面の壁画を描くために、当時の一流画家達がイタリア各地から集められた。(ピントリッキオ、シニョレッリ、ペルジーノ、ギルランダイオ、ボッティチェリ・・・)

1477年その制作を命じたのはローマ教皇シクストゥス4世、各地の首脳や要人が集まる場所に絵を描かせようとしたのだ。
当時のシスティーナ礼拝堂を再現した銅版画が残されている。
壁画は側面だけに描かれ、天井は星空が描かれているだけだった。
中世の時代絶対的な権威を保っていた教会は揺れていた。
イスラム勢力の侵入など荒廃するローマの中で、シクストゥス4世は教会の権威を取り戻そうとしていた。

バチカン美術の研究家アントニオ・パオルッチさん、シクストゥス4世は中世のキリスト教の伝統をかたくなに守りながら、権威の回復を図ろうとして当時の画家に描かせたという。
パオルッチ「当時の画家達が礼拝堂の下の壁画を完成させたのはミケランジェロが天井がを描く30年前のことだった。
この側面の絵も大変重要なものだったが、その後描かれるものによってすべてが完成されるのだ。」
シクストゥス4世の後を受け継ぎ、システィーナ礼拝堂の天井がを完成させたのは150年に即位した教皇ユリウス2世だった。
その剛腕ぶりから恐るべき教皇と呼ばれていた。
当時敵対していたベネチアなど周囲の国から教皇領を取り戻すために自ら軍を率いて戦った。
中世以来の教会の基盤が脅かされる中で、教皇ユリウス2世は教会の権威と勢力を取り戻そうと奮闘していた。
当時の教会とそれを取り囲む人物に詳しい歴史家アントニオ・フォルチェッツリーノさん「ユリウス2世はキリスト教を守るためには教会が武器を持って戦う国家になる必要があると信じていた。
彼は軍隊の先頭に立ち、線上に出陣した。
白い毛皮のマントを身に着け、戦士たちを鼓舞するために、手に剣を握って雪の中に降り立った。
当然のことながら教皇は信仰の問題に専念すべきで戦争に関わるべきではないという批判が噴出した。」

15世紀ヨーロッパは大航海時代を迎えていた。
アメリカ大陸発見や、アフリカ喜望峰への到達など、地理上の発見が次々と起こり、新しい価値観が生まれようとしていた。
一方キリスト教会は相次ぐ戦争や財政難などで衰退の道をたどろうとしていた。
変化の時代の中でユリウス2世は人々の心をキリスト教に向けさせる方策を見つけ出さねばならなかった。
バチカンの中にはユリウス2世をはじめ、歴代の教皇が収集した40000点にも及ぶ美術品が今も残されている。
ユリウス2世が暮らしていた場所、そこに作られた八角形の庭、ここにユリウス2世はキリスト教とは直接かかわりのないギリシャの神々や神官の姿などの彫刻を数多く集めていた。

ギリシャ神話の太陽神アポロン、古代ギリシャやローマ時代に作られた神々の裸体像を持ち込むことは当時周囲を驚かせた。
しかしユリウス2世がひるむことはなかった。
蛇に噛まれもだえるトロイの神官ラオコーン、この彫刻もキリスト教とは異なるギリシャの神話に基づいて描かれている。
異教のシンボルとされるこれらの像をバチカンンの中に持ち込む。
そこにはユリウス2世の戦略が秘められていた。
フランチェスコ・ブラネッリ(教皇庁教会文化財委員会会長)「ユリウス2世は古代の芸術品を活用することで教会の再建に役立てたいと考えていた。
ローマ時代のキリスト教に立ち戻るために、古代のギリシャ文化の作品を1つの重要な手本として示すことで、キリスト教会の改革の柱に据えようと考えた。
ユリウス2世は彼自身の考えによってこのコレクションを集めさせていった。
彼自身が八角形の庭と名付けた場所にギリシャ時代の彫刻を配置した。
これによって古代ギリシャ、ローマの精神による教会再建を目指すことを示した。
このギリシャ時代の彫刻を教会再建の象徴としたのだ。」

あたかも古代ギリシャ彫刻のような裸体像が残されている。
ダヴィデ像、これはローマ、バチカンではなくフィレンツェで天才彫刻家ミケランジェロが制作したもの。
太い腕には血管が浮かび上がり、若い生命が燃え上がるさまが描かれている。
古代ギリシャ彫刻の影響を強く受けていたミケランジェロは、理想の肉体を彫刻として再現することで、人間の存在を作品にしようとした。
ミケランジェロ・ブオナッローティ、その作品は他に追随するものがないほど人々を驚嘆させ、高い評価を得ていた。
ピーナ・ラジョニエーリ(ミケランジェロ博物館館長)「ミケランジェロは孤独だった。
天才が避けることができない運命を背負っていた。
若い頃からすでに非の打ちどころがないほど完成されていたせいで、他の人々とは相いれなかったからだ。」
彫刻家ミケランジェロの語った言葉がある。
“彫るべきものが石の中に見える。
ただ私は石を削って中に見えるものを解放してやればよいのだ。”

時代を代表する芸術家ミケランジェロ、バチカンの教皇ユリウス2世は、そのミケランジェロに制作を命じた。
当初ユリウス2世からの依頼は自分の墓を作ることだった。
しかしユリウス2世はその1年後、注文の内容を変えることになる。
それは彫刻家ミケランジェロに彫刻ではなくフレスコ画を描かせるというものだった。
ミケランジェロはこの命令に大きく戸惑うことになる。
教皇ユリウス2世は当時ぬきんでた才能を持っていたミケランジェロの力を用いることで、その時大きな課題となっていたキリスト教の権威の回復を図ろうとした。
かつてシクストゥス4世が側面に壁画を描かせたシスティナ礼拝堂、ユリウス2世が推し進める壮大なプロジェクトは星空が描かれていた天井に、これまで見たこともないような壁画を描くことだった。
ミケランジェロが4年の歳月をかけて描いた天井画、およそ500屬梁腓な絵は人々を圧倒する迫力で丹念に描かれている。
そこには中世の境界には見られなかった肉体を誇示したおびただしい数の裸体像があふれていた。
その絵には生命の謳歌、人間への賛美、そしてこれまでになかった精神の高揚が与えられていた。
なぜそれまでの伝統とまったく違った絵が描かれることになったのだろうか?

アントニオ・パオルッチ(バチカン美術館館長)「ミケランジェロは裸体を表現のための言語として用いている。
彼は風景や自然、遠近法には全く興味はなく、人間の体にだけ関心があった。」
人間の始まりを描く『アダムの創造』神と人間の関係は中世の絵画とは異なっている。
この絵で神は厳格なる存在ではない。
神の眼差しと同じ位置に並ぶアダム、手を伸ばし、神に信頼をおいた姿だ。
神はアダムにこたえるように手を差し伸べる。
神と人間の直接的な関係が描かれている。

神自身も中世の表現と異なる姿で描かれている。
雲をかきわけ闇から光を描きだす姿、太陽と月を作る姿・・・
中世に描かれた荘厳な神の姿とは異なる忙しく働く神。

旧約聖書に登場する預言者ヨナ、仰向けにのけぞり、足が飛び出してきそうな巨大な人物・・・
下から見上げた時、立体感が強調される絵画となっている。
平面に描かれた絵を立体的に見せる技術は彫刻家ミケランジェロの生み出したものだ。
システィーナ礼拝堂の天井画、これまでの伝統的なキリスト教の絵画とは異なる雰囲気を持ち、人間中心の生き生きとした姿で埋め尽くされた。

教会の伝統とは違うこうした絵をなぜミケランジェロは描くことになったのだろうか?
ミケランジェロの壁画制作の謎を解くカギが出身地フィレンツェの博物館に残されている。
Casa Buonarroti、ミケランジェロは彫刻や絵画だけでなく、詩人としても活躍し、この博物館に手紙や文章が数多く残されている。
ミケランジェロが友人に宛てて天井画政策のいきさつを記した手紙に、書かれたユリウス「2世からの要望は実際に描かれたものとは違っていた。
手紙には、教皇が天井に12使徒を描き、余白の部分は模様で装飾すればよいと命令したことが書かれている。
聖ピエトロ寺院の正面に飾られているキリストとその弟子12使徒の像。
キリスト教の重要なシンボルとなっている。

ユリウス2世の求めた12使徒を描くという構想に対して、ミケランジェロはそれでは貧弱なものになると伝えた。
この時ミケランジェロは、どのような構想を持っていたのか。
アントニオ・フォルチェッリーノ「それまで天井画に物語を描くという伝統はなかった。
しかしこの時物語を描くことが必要とされた。
ミケランジェロはユリウス2世が何を表現してほしいのか、その強い願望をよくわかっていた。
芸術家としての彼はその偉大な理念を表現するべき深い精神性を持っていた。」
ユリウス2世がもっともふさわしいと考えていた12使徒、しかしミケランジェロはあえてそれとは違うテーマで天井画に制作することになる。

絶対的な権力をもつ教皇の注文をどうして変えることができたのだろうか?
その謎を解くカギはユリウス2世とミケランジェロをつなぐ人物にあるという。
アントニオ・フォルチェッリーノ「教皇ユリウス2世はその当時もっとも権力を持った人だった。
彼の周りには様々な人間が集まっていた。
その中で教皇に政治的な影響を与えていたのがエジーディオ・ダ・ヴィテルボという人物だった。」
ローマの北70km、トスカーナ州に位置するヴィテルボ村、中世の雰囲気がいまだに残るこの村は、10〜16世紀にかけて多くの教皇が滞在し、法王の訪れる町として栄えた。
ヨーロッパ全土から芸術家や神学者など多くの知識人が訪れる、キリスト教にとって重要な町となっていた。
村の中心にあるアウグスティヌス修道会の教会、エジーディオはこの教会を中心に活動したという。
この土地で神学を学んだエジーディオは雄弁家として注目されるようになっていた。
後にローマで枢機卿の地位にまでのぼりつめたエジーディオの肖像画がこの教会に残されている。
エジーディオの説教は当時教会の中で大きな影響力を持っていたという。
マリオ・マッティ(トリニティー教会神父)「ユリウス2世は私達が知っている法王の基準とはかけ離れていた。
いわゆる宗教的な人間ではなかった。
彼は戦闘的で活動的な人間だったのでエジーディオのような宗教性の深い、誤りを犯すことのないことのない信頼できる側近が必要だった。」
エジーディオは教会の本来の教えになかったはずの混乱や腐敗が当時のキリスト教会に蔓延していることを憂いていた。
長い歴史の中で数々の堕落が生まれていると説いていた。

15世紀末、ローマの教会は破綻しかけていた。
財政を賄おうとして罪の償いが免除されるとする証書を発行するようになっていた。
免罪符(贖宥状)と呼ばれる証書は献金さえすれば罰が免れるものとして扱われた。
さらに聖職の売買や聖職者の縁故による採用があからさまに行われるようになり、人々からそうした教会のあり方に疑問の声が生まれていた。
こうした教会の混乱に対して是正を求めようとするエジーディオの考えは、教皇ユリウス2世の考えと通じるものだった。
マリオ・マッティ「エジーディオにとっての一番大きな課題は当時の聖職者の意識改革だった。
聖職者とは名ばかりで、キリスト教への愛とその活動をおろそかにし、通俗的なことにばかり興味を持つあるまじき姿になっていた。
こうした悪弊がこの時代教会に蔓延していた。」

エジーディオがローマに行き、バチカンでの仕事を始める前、よく訪れていたという場所がある。
ヴィテルモ村近くの湖に浮かぶマルタ島、エジーディオはこの島にある修道院にこもって、後にユリウス2世にとって重要な意味を持つある言葉について施策を巡られていた。
旧約聖書に書かれた預言者の言葉が、新大陸の発見などが起きていた時代の中で、キリスト教会の新しい姿につながるものだと考えていた。
エジーディオの理想とする教会、それは人々が神に祈ることで信仰につながるという聖書の教えに立ち返るものだった。
そのためには中世のキリスト教が持っていた閉ざされた世界観を変えねばならない。
新大陸の発見などの知らせが次々ともたらされる中で、広がる世界に向けた教会のあり方を作ることが欠かせないと思い描いていた。

マルタ島の滞在の後、エジーディオはローマに行き、ユリウス2世のもとで働くことになる。
エジーディオは教皇の意向をより普遍的な言葉に置き換え、多くの人々に分かりやすく伝えるために様々な方法を模索していた。
教皇の有力な代弁者となったのだ。」
1503年ユリウス2世が教皇に即位、エジーディオはマルタ島で温めた構想を披露することになる。
1507年大航海時代の中で、ポルトガルの艦隊がマダガスカル島を発見したという報告がバチカンにもたらされた。
この朗報を受けたユリウス2世はローマで盛大な祝賀のミサを行った。
この記念の式典で説教を任されたのはエジーディオだった。
その説教は教会の復興を図ろうとするユリウス2世に大きな影響を与えるものだった。

ポルトガルに保管されていた資料の中に、この説教の内容が残されている。
エジーディオが伝えようとした言葉は、旧約聖書の中で預言された黄金時代がユリウスの時代に訪れるとするものだった。
その頃教会が直面していた困難な状況にも関わらず、新世界の発見は教皇ユリウス2世が神から与えられた使命を全うしつつある証だとエジーディオは説いた。
そしてその使命を推し進める方法として教会の拡大という言葉が使われている。
今までとは違う広い世界への苦境をエジーディオはうったえようとしたいた。
エジーディオの考えにはこの時代のもう1つの動きが重なっている。
マッティ「エジーディオの考えはフィレンツェの知識人との交流から生まれたもの。
中世の時代に失われてしまったアイディアをルネサンスの人文主義からもらっていた。」

エジーディオの思想には当時最先端の文化をもっていたフィレンツェの町が関わっている。
14世紀にはいってフィレンツェは都市文化が大きく栄えた。
古代ローマやギリシャを規範とし、人間性の復興を掲げたルネサンスが花開いたのだ。
町は自由な気風であふれていた。
市民の中から人文主義者と呼ばれる人々が出現してゆく。
町の発展は毛織物業や金融業の承認などの新興勢力に支えられていた。
その中でもひときわ大きな力を持つようになったのが、金融で財を成したメディチ家だった。
フィレンツェの中心にあるメディチ・リッカルディ宮殿がフィレンツェの文化活動の中心となっていた。
1420年からメディチぎんこうの経営者となったコジモ・メディチは優れた経営手腕を見せ、メディチ家をフィレンツェ1の財閥へと成長させ、メディチは繁栄の時を迎えていた。
コジモはルネサンスによって生まれた文化活動に理解を示し、その保護者となっていた。
さらにコジモは政治家としても活躍し、市の長官となってフィレンツェの中で権力を握ってゆく。
1439年コジモはある大きな会議を開催する。
長い間交流が途絶えていたビザンツ帝国の東方教会とローマカトリック教会の合同公会議である。
その会議の会場となったフィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)
このころ、イスラム勢力の進出に脅かされる東方教会が助けを求めていた。
キリスト教の合同をはかり、再び結束をはかるための会議は当時のフィレンツェの知識人に大きな影響を与えていた。

メディチ・リッカルディ宮殿の中にはコジモが合同会議を記念して描かせた絵が残されている。
フィレンツェの画家ベノッツォ・ゴーツォリによる東方三博士の行列』、キリスト誕生の時に貢物を持って訪れた3人の博士をフィレンツェ公会議に訪れたビザンツ帝国の訪問者に重ねて描いている。
主催者であるコジモをはじめ、メディチ家の人々もこの絵の中にいる。

東方三博士として描かれたビザンツ帝国の肯定ヨハネス・パライオロゴス8世とコンスタンティノープル大司教、代表者として参加した彼らがビザンツ帝国から多くの文物や思想をフィレンツェに持ち込むことになった。
当時ビザンツ帝国にはギリシャ文化の影響が色濃く残されていた。
フィレンツェ公会議できたビザンツ帝国の国から運ばれた貴重な本、古い手書きの写本、ここにはプラトンという文字が書かれている。
遠くビザンツ帝国から運ばれてきたプラトンのてつがくは、西側のカトリック教会には失われていた貴重な書物、ギリシャ文字で書かれたこうした本がやがてローマの教会に影響を与えてゆくことになる。

当時のフィレンツェを代表する知識人マルシリオ・フィチーノによってプラトン全集がラテン語に翻訳されていった。
フィチーノはプラトンアカデミーを創設し、ギリシャ哲学を教えてゆくことになる。
プラトンアカデミ−のメンバーは、ビラ・メディチ・ディ・カレッジに集まり、古代ギリシャ哲学やユダヤ教など、様々な宗教文化を研究していく。
そしてローマカトリック文化と融合させようとした。
こうした動きを知ったエジーディオはフィチーノのもとを訪ねた。

リッカルディ宮殿からほど近く、サンマルコ庭園跡がある。
フィチノがプラトンアカデミーを開いていたころ、コジモの孫にあたるロレンツォ・メディチはこのサンマルコ庭園で芸術学校を開いていた。
この芸術学校の庭園にロレンツォはギリシャやローマなどの古代彫刻のコレクションを並べていた。
フィレンツェの若い芸術家たちがここに集まり、彫刻を学んでいたのだ。
その中に若きミケランジェロの姿があった。
芸術学校は、ギリシャの彫刻の手法を伝えるだけではない、もう1つの側面があった。
プラトンアカデミーに参加していたロレンツォによって当時フィレンツェの知識人の間で流行していたギリシャ哲学の活発な議論が交わされていた。
ミケランジェロもその中にいた。
ロレンツォが集めた古代ギリシャ彫刻はすでに失われ、往時をしのぐものは3本の糸杉しか残されていない。

ミケランジェロ博物館にサンマルコ庭園の芸術学校の時代にミケランジェロが作った作品が残されている。
16世のミケランジェロが制作した『ケンタウルスの闘い』、ギリシャ神話をもとに描かれたレリーフ。
女を手に入れようとする男達の血みどろの戦いが描かれている。
折り重なる数々の裸、躍動する肉体の激しい動き、その描写はシスティーナ礼拝堂の天井画を彷彿とさせる。
ピーナ・ラジョニエーリ「ミケランジェロはサンマルコ庭園の中で自身の進むべき道は彫刻だと語る。
当時フィレンツェで湧き起っていたルネサンスと人文主義の文化の中で、彼の彫刻家としてのキャリアを作り上げてゆく。
ミケランジェロの作品にみられる感性や古典主義、そして古代への愛は勉強で身につけたものだけではなく、ミケランジェロ自身の魂の内側からも生じていたもの。
このことはケンタウルスの闘いのレリーフにもっともはっきりと表れた。
そしてその後の彼の人生を通しても存在し続ける。」
フィレンツェでメディチ家を通じ、古代ギリシャや異教の文化への関心を持つようになったミケランジェロ、同じころフィレンツェを訪れプラトンアカデミーの中で古代ギリシャ哲学を学んだエジーディオ、やがて作られるミケランジェロの天井画にエジーディオの思想が大きな影響を与えてゆくことになる。

揺れるキリスト教会、その権威を取り戻そうと描かれる天井の壮大な壁画、それはどのようなものなのか。
教皇ユリウス2世と彫刻家ミケランジェロの考えは違っていた。
ユリウス2世が求めた12使徒の絵、それでは貧弱なものとなるとするミケランジェロ、その溝はどのように埋められたのか、この時の経緯を記したミケランジェロの手紙・・・
伝統的なキリスト教の世界を描くことになる12使徒、しかしミケランジェロはルネサンスの時代の人達にうったえる絵を描きたいと望んだ。
そして教皇はミケランジェロに好きに描いてもよいと伝えた。
教皇の答えには信頼する側近エジーディオに存在が関わっていた。
天井画の政策が始まった、4年の歳月をかけて完成した天井画、そこにはエジーディオの考えにつながる異教の土地まで含む広い世界の姿が描かれていた。
12使徒に代って描かれた絵はユダヤの預言者とギリシャの巫女だった。
フォルチェッリーノ「天井画の物語は教皇のもとにいたエジーディオが中心となって考え出されたもの。

エジーディオはギリシャ語のほかにユダヤ教の秘儀やヘブライ語も理解していた。
ルネサンス時代に現れた典型的な万能な人、彼が中心となって物語を提案した。
ミケランジェロの仕事はそれに的確な表現を与えて並外れた作品に仕上げることだった。」
ミケランジェロの思い描く世界がそのまま提示されたシルティーナ礼拝堂の天井画、そこには5人の巫女の姿があった。
古代ギリシャ神話で神の言葉を人々に伝えるのを務めとした女性達。
デルフォイの巫女、太陽神アポロンの神殿で活躍していた。
それぞれの巫女は広がる世界を象徴している。

闇を照らすリビアの巫女はアフリカを意味する。
ニリュトライの巫女はイオニアのシンボル。

ペルシャの巫女は小アジア、クーマの巫女はイタリアの中の異教徒を意味している。

かつてエジーディオが演説で伝えようとした未知の世界までも見つめた教会のあり方、そこで用いられたユリウス2世の代に黄金時代が訪れるという言葉、異郷の地の布教することが本来の教会の姿につながる、エジーディオの示した言葉“教会の拡大amplitudinis”はそうした意味が込められ入てる。
ユリウス2世に示した言葉がミケランジェロの描いた天井画につながっていた。
シリア、ユダヤ、インド、セイロン、そして遠くアジアまで果てしない広がりを持つ世界を示そうとしていた。
5人の巫女と共に7人のユダヤの預言者が描かれている。
預言者というのは神の言葉を伝えるユダヤの男性。
ヨナが異邦人に神の言葉を伝えた。

エゼキエル、ユダヤ教の父と呼ばれた。

エレミヤは災いを預言し、苦悩と悲劇の人生を送った。
ヨエル、神から離れたユダヤの民への警告を伝えた。

預言者ザカリア、ユダヤの民に神に再び立ち返れと語った。

イザヤ、貧しきものへ神の言葉を伝えた。
ダニエル、その名前は神の裁きを意味する。

12使徒に代って異教とされたギリシャ神話の巫女、そしてユダヤ教の預言者が天井画の中に描かれていた。
「システィーナ礼拝堂における壮大なプロジェクトはイタリアルネサンスの最盛期の特徴を備えている。
それは単に宗教的な規範に捉われず、ギリシャ哲学やユダヤ文化とカトリックの文化とを融合させるという考え方に基づいている。
ギリシャ文化を背負った巫女やユダヤの預言者達が描かれたということ、人類の知的な伝統から最良のものを取り入れ、新たな文明を作り出すという広く開放された考え方。
新たな精神の美の文明を作り出すことを目指したのだ。」
ユリウス2世、エジーディオ、ミケランジェロ、この3人によってシスティーナ礼拝堂の壮大な天井画が実現することとなった。

ミケランジェロの作品に描かれる人間の肉体の一瞬をとらえた動き、それまでの宗教絵画に見られることのなかったこうした肉体の描写はどのように描くことができたのだろうか。
そこにはルネサンス時代の最先端の技術が用いられていた。
当時から残るフィレンツェの教会サント・スピリト(Santo Spirito)教会にその秘密を解くカギが残されている。
ロレンツォの芸術学校の後、17歳のミケランジェロはこの教会である秘密の取り組みを行った。
ミケランジェロが作ったとされるキリスト像、しかしスラリとした肉体は後の筋肉質でエネルギーみなぎる作品とは異なっている。
あえて筋肉の動きを強調するのではなく、あくまでリアルな肉体を再現するかのような表現、この彫刻には当時肉体表現を追求し続けたミケランジェロのある執念が隠されている。
それは肉体の解剖だった。

ジュセッペ・パガーノ(サント・スピリト教会神父)「この木彫りのイエス像はミケランジェロがこの教会と修道院長に贈ったもの。
この修道院に滞在しながら、修道院にある小さな病院で解剖することができたからそのお礼に贈った。
ちょうどそのころ1人の若者が死に、ミケランジェロは十字架のキリスト像のモデルとして若者を描写した。」
自ら死体の解剖を行い、肉体の構造を解き明かそうとしたミケランジェロ、当時死体を解剖することは教会によって禁じられていた。
この時代それを許されていたのは医学を研究する大学など、ごく限られた場所だけだった。
パガーノ「ミケランジェロはこの若者の遺体を解剖したいと遺族に依頼したところ、その家族は大いに反対し、逆にミケランジェロはうったえられることになった。
肉体をこのように扱うことは法に反していたのだ。
しかし修道院長と主導戒はミケランジェロを守った。
彼らは天才が素晴らしい芸術作品を作り出すのを目の当たりにして彼の才能を期待したのだ。」

若きミケランジェロが取り組んだ肉体の研究。
その中で身に着けていった独自の技は、人間そのものに関心が向かう。
ルネサンスの動きの中で後のミケランジェロの作品の礎となっていった。
ドメニコ・ラウレンツァ(美術史家)「ミケランジェロが特に興味をもったのは、ずばり人体の形体、それがミケランジェロが解剖の世界に入った理由。
人体の外形を形作っている内側の構造がどうなっているかを理解すること。
彼が特に興味をもったのは人間の裸が動きの中でどう見えるのかということ。
ミケランジェロは人間の裸体を芸術の中に完璧に再現しようとして解剖学に興味を持った。」
デッサン、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の壁画を手掛ける前に描いたもの。
ミケランジェロが実際に解剖して筋肉の構造を研究したもの。
肩の筋肉の動きに注目し、動いている裸体を描くとき、どのように表現するのかを分析した。
筋肉の作りを細部にわたって研究し、肉体の動きを一番エネルギッシュで美しく表現する、それこそがミケランジェロ独自の表現方法だった。
システィーナ礼拝堂においてミケランジェロは人体の動きが生み出す筋肉美を描くことで壁画を埋め尽くした。
アントニオ・フォルチェッリーノ(ルネサンス美術史家)「ミケランジェロはただ裸を描くだけで人間を表現することに成功した。
だからこそ彼は天才なのだ。
ミケランジェロはそれまでの画家のように兵士に威厳を与えるために甲冑をつけて描く必要はなかった。
彼は威厳を肉体だけで表現することができた。
肉体と表情とポーズだけで十分だった。」

独自の技術によって天井画に迫力ある人間の裸体を描き、見る人々を圧倒させたミケランジェロ、この絵にはある秘密が隠されているという。
アダムが手を伸ばす先には神様の姿、その神を中心にとりまく天使達が布に覆われて描かれている。

1990年アメリカのホプキンス大学からシスティーナ礼拝堂の天井画に関するレポートが提出された。
その形はそのまま人間の脳の形状に照らし合わすことができるという。
この絵には神の知恵から人間が生まれたというメッセージが込められているのではないかとこのレポートは結論付けている。
“この傑作には解剖の知識が反映されている。”

現代の医学の専門家によるこの研究がミケランジェロが当時人体の解剖に取り組んだことを示している。
中世のキリスト教を越え、新しい世界観を描いたシスティーナ礼拝堂の天井画には、大胆な肉体表現以外にもこれまでと異なるテーマが描きこまれていた。
ミケランジェロが描いた天井画の4つの角にはユダヤの民の救済の物語が描かれている。
人々を苦しめる巨人に立ち向かう青年の姿、悪行を重ねる巨人を酒に酔わせて退治しようとする女性の姿。
旧約聖書の中にも描かれたこうした逸話は教会で絵画のテーマに取り上げられることはほとんどなかった。
一方ユダヤ教の中では重要な教えとされていた。
当時ユダヤ教はキリスト教会から異教として扱われていた。
特にローマでは中世以来の様々な差別がユダヤ教徒に対して行われていた。
住む場所や職業にも制限が加えられていたという。
そうしたユダヤ教徒に対してミケランジェロは親近感を持ち、ユダヤの文化の理解をもとうとしていたという見方がある。
ロイ・ドリナー(作家)「バチカンの天井画にはキリスト教の教え以外にユダヤ教の教えも盛り込まれている。
天井の4つの角には神様が4回ユダヤ人を助ける物語が描いてある。
その内2つは男性の英雄伝、残りの2つは賢く強い女性がユダヤの民族を助ける物語。
これらは当時システィーナ礼拝堂以外ではどこにも描かれることのなかったテーマ。」

天井画の中でルネッタと呼ばれるアーチの部分に描かれた人々、鮮やかな民族衣装を身につけている。
異国の民を思わせるこうした人々の姿もミケランジェロによって描かれたもの。
エジプト風の髪形や衣装をみにつける家族やインドを思わせる衣装を着た老人の姿。
こうした人々の姿もユダヤ教徒につながるとドリナーは考える。

ドリナー「天井の中心部を取り囲むようにカラフルな衣装の人々が描かれている。
当時ユダヤ人は布地産業に多く関わっていた。
ミケランジェロの親族も布地産業に従事していた。
だからミケランジェロは布地についても詳しく、描かれているユダヤ人の着ていたものも細密に再現している。
ここローマでは生活のすべてをバチカンが支配していた。
ユダヤ教を学ぶことは当然禁止されていた。
ミケランジェロはキリスト教徒だが、ユダヤ教にも大変興味を持っていた。
そういうことで彼はユダヤの教えを天井画に隠し描いたのだろう。

ユダヤ教でもキリスト教でもエデンの園でアダムとイヴは禁断の果実を口にする。
キリスト教ではリンゴ、ユダヤ教では単に果実としか言わない。
ただしその木はイチジクとされている。
システィーナ礼拝堂の天井画にはイチジクの木が描かれている。
その他にノアは大洪水のときに動物や家族を助けるが、キリスト教では船とされ、ユダヤ教の聖書では大きな箱になっている。
システィーナ礼拝堂の天井ではノアは大きな箱に乗っている。」

ミケランジェロによって作り出されたシスティーナ礼拝堂の独自な世界。
教皇ユリウス2世から依頼され、新しい世界観の助けを借りて形作られたキルスト教の世界が完成した。
それはミケランジェロ37歳の時だった。
「当時のローマは宗教、人文、芸術のもっとも高度なモデルが創造される場所となった。
新しい時代を築くため、ギリシャ哲学、ヘブライ人の思想、カトリックの教えが1つになった。
全てが結び付けられた。
この時ローマでは人間は世界のもっとも高度な表現者となった。」

システィーナ礼拝堂の天井画が完成した翌年、ユリウス2世は亡くなった。
ルネサンスの新しい世界の息吹に充ち溢れたバチカンでの大仕事、しかしその後のミケランジェロの人生は一転する。
ユリウス2世が亡くなった後、ミケランジェロはフィレンツェに戻っていた。
メディチ家の墓の彫刻づくりに従事していた。
このころミケランジェロの運命を変える出来事が起こる。
フィレンツェでは兼ねてから市民の間でくすぶっていたメディチ家の支配への不満。
民主主義への思いの高まりによって1527年革命が起きる。
君主政治に疑問を感じていたミケランジェロはメディチ家に背を向けて革命軍に身を投じる。
町と市民を守る城壁を設計した。
だが今度は革命軍の仲間からミケランジェロが裏切られることになってしまう。
メディチ家を裏切り、仲間から裏切られたミケランジェロ。
やがて革命を支持したことで命を狙われる。
ジニ・シロ(サンロレンツォ教会管理人)「1974年の末ごろに新しい法律ができて非常口を作らねばならなくなり、その場所を探していた。
この部屋は物置だったがここには大きな箪笥があり、入り口はその下に隠れていた。
箪笥をどけたところ、忘れ去られた階段と入り口を発見した。
ここには古い家具が山積みになっていて、それをどけてみると・・・」
ミケランジェロが2か月間身を隠した場所。
ミケランジェロは自らの信念を貫こうとし、時代の波に翻弄されていった。
命が狙われている恐怖、世の中に対する絶望、かつての巨匠の姿はそこにはなかった。
16世紀のキリスト教はさらなる苦難の時代を迎えていた。
腐敗と堕落が横行する教会に対し、マルティン・ルターが起こした宗教改革、さらに神聖ローマ帝国の軍がローマを侵略。
略奪を働いたバチカンはそれまでにない危機に直面していた。
当時の教皇クレメンス7世、宗教改革の動きに対して教会の復興への取り組みを決意する。
システィーナ礼拝堂の祭壇に最後の審判を描き、教皇の権威を人々に示そうとした教皇は、この大事業を担えるのはミケランジェロの他にいないと考えていた。

ミケランジェロは再びシスティーナ礼拝堂に戻ることになる。
システィーナ礼拝堂の天井画の完成から23年後、再び取り組むことになった絵『最後の審判』(1541)。
聖書の一場面が人々を圧倒する迫力で描かれている。
凄まじいい力を示そうとする天使の姿、従わないものは地獄に落ちるとして醜い姿に描かれている。。
イエスの横で緊張と恐怖で目を見開いた聖人の姿、そこに描かれた世界はかつての天井画の世界観とは全く異なっていた。
この絵の制作途中から教会の中では賛否の声が上がっていた。

右下の地獄の中に描かれた老人の姿、これはバチカンのビアンジョ儀典長の姿だと言われている。
ミケランジェロの作品を見て裸体ばかりが描かれていると批判した人物。
5年の歳月をかけ、ミケランジェロが66歳の時『最後の審判』の絵は完成した。
フォルチェッリーノ「私はシスティーナ礼拝堂に入ると、天井の絵と祭壇画である『最後の審判』との違いにショックを受ける。
最後の審判は実際の恐怖を描いたもの。
すでに地上の楽園などという希望は全く消えている。
それに代わって大きな恐怖が湧き起っていた。
天井画の裸の若者達が邪悪のものとなったように思えるくらいだ。」

ミケランジェロはこの絵の中に人間の皮になった自分自身の姿を描きいれている。
500年近い歳月、訪れる人々を見守り続けたミケランジェロの絵。
アントーニオ・パオルッチ(バチカン美術館館長)「ミケランジェロはこのシスティーナ礼拝堂の天井画を描いた時は1508〜1512年にかけてのことで、まだ若かった。
33歳で描き始め37歳で仕上げる。
まだ楽観的な世界観を持ち、エネルギーと力にあふれていた。
『最後の審判』はミケランジェロのもっともドラマチックな、もっとも悲観的な部分というべき。
これは明白。
人類の運命に対するくらいヴィジョン。

ミケランジェロは孤独な男で、同性愛者だった。
彼はしばしば神経を病み、孤独を愛し、怒りっぽい男だった。
人間性という意味で非常に不快な人物だった。
物乞いのような生活をして、靴も脱がずにベッドに入り、パンとチーズの皮を食べていた。
耐えがたい人物で他人に対しても実に不寛容だった。
しかし彼はミケランジェロだったのだ。」

ミケランジェロが晩年に書き記した1篇の詩が残されている。
私の人生は今港にたどりつくはかない小舟で、荒海を渡って悪行善行の申し開きをしようとすべての人が降りねばならぬあの港へ。
芸術が私には偶像や君主であるという、あの親愛なる思いがいかに誤りであるかを今私は知るのだ。
人それぞれの望みに反することで、虚しくも嬉しかった恋の思い、私が2度死ねばそれも何が楽しかろう。
最初の死が確かなら第二の死が脅かす。
もはや絵画も彫刻も魂をしずめてくれず、魂は神の愛へと向かい、愛はわれらを迎えんと腕を十字架に広げたもう。」

中世から近代へと変わる時代、バチカン、システィーナ礼拝堂の中には希望と絶望が交差する1人の芸術家の人生そのものが描かれた壮大な絵が残された。
様々な謎を秘めた光は時代の証として今も私達に語りかけてくる。

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プラネットカラー 人類を翻弄した青

青い惑星・地球、漆黒の宇宙空間に浮かぶその青さは奇跡の色。
1961年人類初の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンの言葉「私達の惑星が丸いことはもちろん実感できました。
地球は柔らかいうす青色の光の輪に包まれていました。
そしてその帯びはトルコ石のような空色から、濃い青色、すみれ色へと徐々に暗くなり、石炭のような黒い色となってゆきます。」
青い空、青い海、この地球には青が満ち溢れている。
しかし意外にも地球上の生物に青いものは極めて少ない。
花、虫、鳥、体の青い哺乳類にいたっては皆無に等しい。
神が空と海に青を使いすぎて、その他の創造物に仕えなかったのだろうか?
青は人類にとって、空や海の色として日常的に目にしながら、手にすることが困難な色であった。
頭上に広がりながら、手を伸ばしても届かない空の青、眼前に広がりながらすくい取ってもただ透明な海の青。
たやすく手に入れることのできない青に、人類は恋焦がれ、青を追い求めた。

イタリア南部の都市Amalfi、断崖絶壁にへばりつくように形成された小さな港町。
世界遺産に登録されているAmalfi海岸の中心地、紺碧の地中海を求めて世界中から観光客が集っている。
崖の正面を覆うレモンの段々畑、生産が盛んなレモンの黄色と地中海の青とのコントラストがAmalfiの風景を彩っている。
この町は中世の時代、青色によって歴史の主役へと躍り出た。
その青色とはラピスラズリという青い鉱石だった。

Episode1:国の運命を変えた青い鉱石
Lapisはラテン語で空、Lazuliはペルシャ語で石を意味する。
中世のヨーロッパでは天空の破片と呼ばれる天からの授かり物だった。
溶岩の熱で石灰岩が結晶化した表面は、深い青色の中に黄鉄鉱の金色に輝く模様が現れ、星が輝く夜空をも彷彿とさせた。
古くからダイヤやルビーに順する宝石として珍重された。
ラピスラズリの農耕な青、あのツタンカーメン王のマスクにも使われたように、王侯貴族だけが手にすることができる富の象徴だった。
ラピスラズリの原石は、アフガニスタンのバダフシャーン地方など、限られた場所でしか採取できない希少なものだった。
イスラム圏の貴重な交易品として、エジプトやメソポタミアなどで幅広く取引されていった。
中世の時代、Amalfiはこのラピスラズリのヨーロッパにおける交易拠点として発展していった。
当時の繁栄の跡は、町を見下ろすように絶つ巨大な大聖堂に見られる。

Amalfiがもっとも栄えていた11世紀に建築されたもの。
内部に足を踏み入れて最初に目にするのは天国の回廊。
2本の円柱が建ち並ぶアーチや壁面に施されたタイルのモザイク模様からは、イスラム諸国との交易が盛んだったことがうかがえる。

この小さな港町Amalfiにラピスラズリが集ってきたのは何故だろうか?
Amalfiで生まれ育った郷土史家ジュゼッペ・ガルガーノ「Amalfiは海と崖に囲まれていたため、街が孤立してしまう恐れもあった。
街の発展のため、地中海の交易に乗り出し、アラブ諸国とも取引するようになった。」

958年Amalfi公国建国、首都Amalfiは海洋都市ベネツィアやジェノヴァに先駆けて中東や北アフリカのイスラム諸国との取引をはじめ、ラピスラズリの交易拠点となっていった。
アフガニスタン原産のラピスラズリを中東から運搬してくるのだ。
当時の人々にとって遠く長い航海だった。
それを可能にしたのはAmalfiがヨーロッパで最初に羅針盤を取り入れ、精緻な航海術を持っていたからだった。
11世紀に制定したAmalfi海法は、海上輸送による商取引について定めた世界で始めての法律。
Amalfiは地中海貿易をリードする存在だった。

ヨーロッパの国々がこぞって欲しがったラピスラズリを運搬するには、軍事力も必要だった。
商業都市Amalfiは地中海にその名を轟かせた強大な軍事都市でもあった。
その名残はイタリア海軍の海軍旗に見られる。
4つの海岸国家を表している。
ベネツィア、ヘノヴァ、ピサ、アマルフィ。
青い紋章がAmalfiのシンボルだった。

市内の博物館に残されている中世のAmalfi公国の旗。
ジュゼッペ・ガルガーノ「ライオンは力を現すと同時に強い軍事力、強い要塞も表現している。
女性がまとっている青いマントは気品と正義感を表している。
この女性はAmalfiの象徴で、王冠を被った海の女王として描かれている。」
中世の時代、戦争と交易の2つを巧みに使いわけ、青い紋章と共に地中海を駆け巡ったAmalfi。
しかしその後疫病や津波などの自然災害により、143世紀頃から急速に衰退し、歴史の舞台から姿を消していった。
中世の町並みがそのまま残ったAmalfiは、1997年世界遺産に登録された。
Amlfi海岸に打ち寄せる波の音は、ラピスラズリの交易に拠点として栄華を極めた街の記憶を語り継いでいる。

17世紀イタリアの画家Carlo Dolciによって描かれた『悲しみの聖母』、聖母マリアを描いた作品の中でも1−2を争う美しさ。
西洋絵画の歴史を大きく変えたのも青色だった。
Episode2:神々の青 ウルトラマリンブルー
この極深い青は、マドンナブルーとも呼ばれる。
聖母マリアのマントや衣を描くためだけに使われた。

古来キリスト教絵画では、青色は天の神の象徴色とされてきた。
実はその青の顔料は宝石として珍重されていたラピスラズリを精製して得られる色だった。
ヨーロッパ社会ではこの顔料をUltra Marine Blueと名付けた。
Ultraは越える、Marineは海。
ヨーロッパ人にとっては遠くアフガニスタンから地中海を越えてやってきた神秘的な色だった。
この原石から見たままの青を顔料として取り出すのは簡単なことではない。
長らくその製法の開発は多くの画家達の課題だった。
製法を編み出したのは15世紀イタリアの画家Cennino Cennini
著書『絵画術の書』にはラピスラズリの原石から顔料を作り出すまでの過程が記録されている。
“ウルトラマリンブルーは高貴で美しい、完璧な顔料である。”
そのウルトラマリンブルーとはどんな色だったのだろうか?
現在使用する青の顔料は科学的に合成されたもので、ラピスラズリの原石から作る天然のウルトラマリンブルーはほとんど使われない。
Cenniniの製法に基づき、天然のウルトラマリンブルーを再現する。
はじめにラピスラズリの原石をハンマーで砕く。
乳鉢で細い粉末になるまで丁寧にすりつぶす。
だが青の顔料にするためには黄鉄鉱などの余分な物質も混じっているのでこの状態では灰色がかったくすんだ青をしている。
まだ聖母マリアのマントには程遠い色。
Cennniniの製法では不純物を取除くために松脂などの様々な樹脂を用いた。
数種類の樹脂を調合し熱湯で溶かす。
液状になった樹脂と粉末のラピスラズリを混ぜ合わせる。
これをオイルに浸け込んでおくと青の成分が分離してくるという。
そしてねかせること3週間ほど。
容器の底に青い粒子が沈殿している。
すくい出してみると灰色がかった色が消えて、より青く変化している。
これを乾燥させたものが鮮やかなウルトラマリンブルーの顔料となる。
神の象徴色である青を手に入れるために、中世の人々はこれほどまでに時間と労力を費やしていたのだ。
人工のものは粒子が細かくそろいすぎていて、単調は色合いになる。
一方天然のものは粒子の大きさにばらつきがあるので深みのある色合いができる。
ウルトラマリンブルーの高貴な発色は、宗教画の中でも時に重要な部分にしか使われなかった。
多大な時間と労力をかけても、ラピスラズリの原石からとれる顔料はわずか数%。
ウルトラマリンブルーは精製が極めて難しい高価な顔料だった。

ところがその青を惜しげもなく使った画家がいた。
Johan Vermeer、その青の使い方は当時としては常軌を逸していた。
オランダAmsterdam、17世紀、天然ウルトエラマリンブルーはその希少性と扱いの難しさからほとんど使われることはなくなっていた。
通常の絵の具の100倍以上の値がつけられ、画家達には手が出せなかった。
しかしフェルメールだけは違っていた。
1660年ごろ描かれた『牛乳を注ぐ女』、女性の腰に巻かれた布の深い青に目をひきつけられる。
1664年ごろ描かれた『手紙を読む青衣の女』、部屋にたたずむ女性の服は青一色で統一されている。

真珠の耳飾の少女』は北方のモナリザとも呼ばれるフェルメールの代表作。
少女のターバンの部分には、鮮やかな青が使われている。
フェルメールは作品の多くに天然ウルトラマリンブルーをふんだんに使った。
当時の常識では考えられない使い方だった。
フェルメールには青が印象的な作品が多く、その色はフェルメールブルーと呼ばれるようになった。
フェルメールがこの世を去った時に残されていた多額の借金は、あまりにウルトラマリンブルーを使いすぎたからかもしれない。

イタリアNapoli、ウルトラマリンブルーがこれほどまでに愛されたのは、ヨーロッパ人にとっては日常的に生活の中でも感じる青でもあったからだ。
ヨーロッパ人が青から連想するものとは?
「海を思い浮かべる。
あの深い青が心を落ち着けてくれる。」
「穏やかさとか平和、あとは海を思い浮かべる。」
「絶対海!海のある街で生まれ育ったから。」
彼らにとって青色は、生まれた時からずっと見続けている地中海の色。
誰にも平等に分け与えられてきたもっとも身近な青、しかしその青を独占しようとした権力者がいた。
Episode3:歴代ローマ皇帝が愛した神秘の青
ナポリ湾に浮かぶIsola de Capri、歴代ローマ皇帝が別荘地としたイタリア人も憧れる世界的なリゾート地。
紺碧の海に囲まれた島の外周は17kmほど、夏の観光シーズンには人口およそ19000人の小さな島に1日5000人以上が訪れる。
常に沖合いを行き交う無数の周遊ボートのほとんどが向かう先は青の洞窟Crotta Azzurra
カプリ島に世界中の人々を呼び寄せる観光スポット。
外から見ると海面に水没した狭い洞窟でしかないが、ひとたび中に入ると青い光に照らし出された幻想的な空間が広がっている。
この青い光の正体は洞窟の海底で反射した太陽光線。
特に波長の短い青い光線のみが水中で乱反射し、海水をより青く光らせ、洞窟の中を淡いブルーにライトアップする。
今では誰でも入ることのできる青の洞窟だが、かつてはその青い光を目にすることができたのはローマ皇帝だけだった。
当時洞窟の上に皇帝ティベリウスの邸宅があった。
青の洞窟を独占しようとした皇帝は、自らの邸宅から洞窟へと通じる秘密の地下通路を作ったとされている。

ヨーロッパでは誰もが愛したウルトラマリンブルーの青だが、不思議なことにその色は、歴史上日本には伝来しなかった。
1000年以上前、シルクロードを通って東洋に渡っていったラピスラズリ。
日本には瑠璃という名前で中国から伝来した。
正倉院にはラピスラズリが装飾にほどこされた『紺玉帯』が残されている。
このように石は伝来されたものの、石から精製される青の顔料が伝来した形跡は見当たらない。
その理由は謎。

Episode4:1000年の時を経て日本に舞い降りた究極の青
東京上野、東京藝術大学、油画技法・材料研究室、大西博准教授、日本画家でもある大西さんとラピスラズリの出会いは内戦直後のアフガニスタンだった。
当時文化復興支援のために訪れたバーミヤンで修復していた壁画の青い顔料に注目した。
東洋では純度の高い青を精製するのは難しい。
ラピスラズリは顔料としての価値は認識されなかった。
代わってアズライトという鉱石から抽出する群青色を青としていた。
日本では入手することも精製することも難しいラピスラズリは、顔料ウルトラマリンブルーとしては伝ありしなかった。
しかし2008年、東京藝術大学が日本発のラピスラズリから精製した水彩絵の具を開発した。
その中心となったのが大西さんだった。
本瑠璃、ラピスラズリからわずか5%ほどしか抽出できない時間と労力の結晶。
大西さんはCenniniの製法の中でもより労力のかかる方法を選択した。
樹脂と混ぜ合わせたラピスラズリの粉末を、手作業でもみだすことで、より純度の高い青を抽出したのだ。
チャートで比較してみると、本瑠璃はイタリアで一般に販売されているウルトラマリンブルーよりも農耕な青を発色している。
大西さんは本瑠璃開発の過程でラピスラズリから生まれるのが紺碧のウルトラマリンブルーだけでなく、多彩な青があると考えるようになった。
ヨーロッパ人にとってはウルトラマリンブルーの青はただ1つ。
究極まで純度を高めた青。
しかし大西さんの考えでは純度の高い鮮やかな青から純度の低い淡い青まで、どの色合いでも美しい青が表現できるという。
大西さんはラピスラズリを使いながら、ヨーロッパ人とは全く違う介錯で青い顔料を生み出した。
では日本人にとって青とはどんな色なのだろうか?

Episode5:ジャパンブルー、世界が注目した粋の文化
日本人に幅広く愛されている藍染め、西洋ではジャパンブルーとも呼ばれる日本特有の青。
英国人作家ラフカディオ・ハーンはこう書き記した。
“青い暖簾をした店も小さく、青い着物を着て笑っている人も小さいのだった。『東洋の土を踏んだ日』”
彼にとって藍色は日本の印象そのものだった。
愛染めが日本人に幅広く根付いたのは江戸時代のこと。
幕府は度重なる倹約令で庶民の衣類には赤や黄色などの華美な色合いを禁じ、茶色、ネズミ色、藍色の3系統に制限した。
その中でも虫除け、蛇避けの効果があるといわれた藍染は農民の作業服としてもっとも普及することになった。
日本カラーイメージ理事長、南雲治嘉「藍はむしろ落ち着くとか、リラックスするとか、ある意味反発心をなくさせる効果をもっている。
幕府はうまく活用し、反抗心をなくさせてしまおうとした。」
徳川幕府以前長く続いた戦乱の世、戦国武将は戦意を高揚させるため、兜や旗印に赤や金色を好んで使っていた。
そこで幕府は戦乱の時代の熱を沈静化し、政権をより磐石なものに固めるために青を奨励する政策を打ち出した。
しかし江戸の庶民は幕府の制限をしたたかにかいくぐっていた。
藍四十八色(褐色 止紺 紫紺 紺 藍 納戸 縹 浅葱 瓶覗き)・・・
藍色の濃淡の1つ1つに名前をつけて区別し、多彩な色として楽しんだ。
もっとも薄い瓶覗きからもっとも濃いカチ色まで、様々な藍色を着こなす粋の文化を作り上げていった。
江戸庶民はわずかに許された鮮やかな彩りに溢れる歌舞伎や極彩色の浮世絵で、色彩の渇きを癒していた。
では江戸幕府が奨励した青色とはどんな色だったのだろうか?

徳島県吉野川流域は江戸時代、藍の原料である藍草の一大生産地だった。
日本の3大暴れ川の1つとされる吉野川。
毎年のように繰り返される洪水で、新しい土が入れ替わり、藍の栽培に適した肥沃な土地が形成されていった。
また白花小上粉という最高級の種から栽培される徳島の藍は、その他の地域で生産される藍を品質で圧倒し、日本中に広まっていった。
そのため阿波藍のことを正藍、その他の地域の藍は地藍と呼んで区別するほどだった。

藍染作家、矢野藍秀さん、化学染料を使用せず、江戸時代から続く天然灰汁発酵建てという伝統的な手法を守っている。
天然藍の染料液、中心に浮かんでいるのが藍の華と呼ばれる青い色素の塊。
原料となるのは藍の葉を100日ほどかけて発酵させたすくもと呼ばれるもの。
このすくもに石灰、灰汁、日本酒を加えて染料液が出来上がる。
黒々とした染料液に白い絹糸がまんべんなく浸されてゆく。
3分ほど液にひたしたら引き上げて絞る。
この時が藍染の青が生まれる劇的瞬間。

矢野「藍は空気に触れると発色しないので、藍を十分甕の中で吸わせてできるだけ強く絞って液を落とした後、空気に触れて初めて発色する。」
酸化によって発色する藍染は、液に浸ける時間を長くしても色の濃度は変わらない。
より濃い藍色に染め上げるには、繰り返し甕の中をくぐらせねばならない。
合計10回染料液に浸された絹糸、1回目よりかなり濃い藍色が出てきている。
江戸庶民に愛された多彩な藍四十八色は、染めの回数の差によって生まれていたのだ。

水洗いして不純物を洗い落とすと色はさらに鮮やかになる。
最終的に染め上がった絹糸は、透き通るような青を発色している。
藍染の色の大きな特徴は、染めた後も月日と共に色味が深まってゆくこと。
矢野さんが20年前に染めた着物、染めた直後からは色が変化しているという。
矢野「染め上がった直後はわずかに赤みをもって染まる。
赤みが空気に触れて使うごとに青のみが残り、不純物の灰汁の部分が枯れてゆく。
青がより深くなる。」
天然の藍染めは約100年ほど色の変化を続けるという。

佐藤昭人さんは藍を作る藍師として歴史ある佐藤家の19代目。
昭和40年代、安価な化学染料に押されて藍を作る農家が激減した時、最後の1件になって藍の伝統を守ったのが佐藤家だった。
江戸時代に染められた藍染めが保管されている。
蜂須賀家熨斗目』、約200年前に染められたもの。
徳川家葵紋熨斗目』、約300年前に染められたもの。
濃度が違う2つの藍色、いったい何が違うのだろうか?
佐藤「徳川家のほうは染める回数が多い。
濃いほど藍は長持ちする。」
色あせない鮮やかな青は天然藍でしかだせない色だという。
佐藤「化学染料は粒子が小さく均一、藍の染料は草の葉の染料なので粒子がバラバラ。
光をあてると乱反射し光って見える。」
江戸庶民が愛したジャパンブルーとは時の流れと共に微妙に色を変化させながらも鮮やかに保たれる藍色。
あるがままを受け入れた移ろいさえも楽しむという日本独特の青の文化だった。

Episode6:人類の進化にうち捨てられた青いセンサー
古くから西洋でも日本でも人々に愛されてきた青という色、しかし人類は進化の過程で青い色の感覚を退化させていったという。
人間が知覚する色の源は地球に降り注ぐ太陽光線。
プリズムで分解してみると、様々な色を持つ光の束であることが分る。
人間の目が近くする色は可視光線と呼ばれる波長の長い赤から、波長の短い紫までの範囲。
その中でも生物にとって青い色というのは特別なのだろうか?
立命館大学で人間の視覚について研究している篠田博之教授は、色を知覚する目の構造に原因があるという。
眼球の水晶体から入った光は網膜の一番奥の視細胞によって捉えられる。
この視細胞には3つの種類がある。
長波長の赤い光に反応するL錐体、中波長の緑の光に反応するM錐体、短波長の青い光に反応するS錐体
この組み合わせによって日とはあらゆる色を識別しているが、青い光に反応するし細胞だけ他の2つとは違う点がある。
網膜上の錐体のぶんぷを見てみると、青は緑や赤に比べると半分程度。
だが最初から緑や赤が多かったわけではない。
生物が進化の過程で最初に獲得した色が青だったといわれている。
その時人類の祖先は海の中にいた。
水中での生活領域は太陽の光を感じながらも生態に悪影響を及ぼす紫外線が届かない範囲。
生物がまず最初に見極めなければならない色は海の中の青だった。
やがて陸上に上がった人類の祖先は、また新たな色を獲得してゆく。
陸上生活するようになった人類の祖先は食料となる果実の食べごろを見極めるために新たに緑と赤の色を獲得した。
篠田「光は波長によって屈折率が変わるので、波長が長い赤い光と短い青の光を1枚のレンズで同時にピントを合わせるのは無理。
しかし人間の目はレンズ1枚でそれをやっている。
青はぼけてもよい、赤と緑はシャープな画像を見ようということで、赤のセンサーと緑のセンサーはいっぱい置き、青は少なくして青色がぼけても気づかないようにしている。」
進化の過程で赤と緑の感覚を優先させたのとは裏腹に、青い色を求めてきた人類。
人類と青との歴史はなんとも皮肉な色合いをしていた。

Episode7:青・・・その言葉のイメージ
すっかり一般的になった和製英語、Marriage Blue、Maternity Blue。
いずれも青がネガティブなイメージに使われている。
その由来は欧米人がブルーにもつイメージにある。
欧米人は落ち込んだ気分をブルーという言葉で表現する。
もっともポピュラーな言葉がBlue Monday、終末の休日を終えてまた仕事に向かう月曜日の朝の憂鬱な気分。
っ買うテルの種類にあるBlue Monday、ウォッカベースにブルーキュラソーで作られるものだが、飲むと気分が落ち込むわけではない。
ある日曜日の夜、アメリカのバーで明日の仕事を控えて憂鬱になっている常連客の気分を和らげようと、バーテンダーの洒落で作ったカクテル。
客はブルーマンデーを飲み干して、気分よく帰っていったという。
Blue Mondayは憂鬱な気分を癒すカクテルだったのだ。

またBlue Bloodという言葉もある。
肉体労働をせず、その白い肌に青く血管を浮き上がらせている貴族階級を指す言葉。
今では浮世離れしたお坊ちゃん育ちと軽蔑の意味で使われる。
しかしもともとの意味は違っていた。
共同体を守る特権階級である貴族は世辞に煩わされることなく日頃より武術や学問に励み、有事には戦場に先頭にたって赴く。
Blue Bloodはそんな貴族の誇り高き象徴の言葉。
一方日本語では青春、青二才といった言葉がある。
青い色に若さや未熟さといった意味が込められている。
これは古代中国の自然哲学、五行思想に基づいている。
万物が木火土金水の5つの元素から成り立っているという考え方。
それぞれの元素には色と時間が割り当てられている。
樹木の生長を意味する木の元素には、青と張るが対応してる。
青春とは、春まさに芽吹いたばかりの木の葉のようなものなのだ。

ところで民族によって青が指す色の範囲は異なる。
国際照明委員会による国際規格によると世界共通の青の波長は435nmの光度だが、日本では緑から青、紫と広範囲の色を青と呼んできた。
ヨーロッパでは青から紫、中国では緑から青の範囲を指す。
中国の人々にとって青の典型は青磁の色だった。
緑が飼った透き通る青だ。
3世紀中国、後漢の時代に起源を持つ焼き物が青磁。
その高貴な色彩は歴代の皇帝を魅了してきた。
青磁は宮廷のみで使用できるものとされたため、その青は皇帝の占有する色だった。
中国では青磁の色をこう表現したという。
雨過天青雲破処、雨上がりの雲の切れ間に覗く青空になぞらえた青磁の透き通るような淡い青は、東洋の空の色を目指したものだったのだ。

Episode8:雨過天晴 中国が発見した奇跡の青
青磁の青さは皇帝たちが珍重した翡翠の色でもあった。
中国人はその崇高な青を完璧に作り出すために徹底的
工夫を重ねてった。
青磁は東アジアを中心に伝来していったが、どれも中国の青磁の品質には達しなかった。
その中国の政治に匹敵する雨過天晴の青を実現したのが日本だった。
青磁は歴史上日本文化にも大きな影響を与えていった。
日本で青磁の製法が確立されたのは16世紀ごろ、契機となったのは豊臣秀吉による文禄・慶長の役(1592〜1598)。
戦いのあと、諸大名は優秀な朝鮮の陶工たちを日本に連れ帰った。
大陸の進んだ技術をもつ職人達によって青磁は江戸時代に最盛期を迎える。
当時もっとも青磁の製法を洗練させていたのが九州佐賀藩だった。
佐賀県伊万里市大川内山には江戸時代から続く古い窯元が集っている。
佐賀藩主鍋島氏は政治作りの職人達を山深い小さな里に集め、藩直轄の窯、藩窯とした。
当時は川に橋を架けることすら許されず、人の出入りは関所で厳重に管理されていた。
大川内山では江戸時代に作られた青磁は陶片の状態でしか残っていない。
失敗したものから製法が漏れないように砕いた陶片はそれぞれ別の場所に埋める徹底振りだっという。
佐賀藩が鍋島政治の製法を極秘にした理由は、将軍家や朝廷だけに献上するためだったから。

大川内山で代々続く窯元、長春青磁陶窯9代目、小笠原長春さん、息子の博さんと共に長春窯の看板を守っている。
1つ1つ手作りする小笠原さんの作品はどれもみずみずしい青を讃えている。
現在では釉薬に人工の顔料を混ぜて青く発色させている青磁がほとんどだという。
しかし小笠原さんは人工の顔料を使わず、江戸時代から続く伝統的な製法を守り続けている。
小笠原さんは鍋島青磁最盛期だった約400年前の陶片を収集し、青磁の製法を研究してきた。
それら陶片は青磁の色彩の秘密をひっそりとささやいてくれる。
小笠原「生地よりも釉薬のほうが厚くついている。
薄い色が重なって、水が深くなると段々濃く見えるように、厚く重なることによってこういう青い色が発色する。」
ある日小笠原さんは約400年前から釉薬の原料が採掘されてる場所へ向かった。
地球の原初の姿を思わせるような岩石の山。
青磁の釉薬として最適なのは鉄分を含んだ黄色い岩石。
佐賀藩はこの石の鉱脈も極秘にした。
この黄色い石からどのようにして青磁独特の青が生まれるのだろうか?
石を砕いた粉を原料として青磁の釉薬は作られる。
しかし調合された釉薬は茶色くにごった水のようだ。
小笠原「意思に微量の鉄分が含まれており、焼くことにより鉄の酸素をとってしまう。
すると薄い青色に変化する。」
鉄分の微妙な量で青磁の発色は大きく変化する。
そのため釉薬には不純物が入らないように最新の注意を払う必要がある。
特に神経を尖らせるのが余分な鉄分の混入。
小笠原「鉄がたくさん入ると真っ黒になる。
ちょうど良い具合の鉄の成分だけ粉にしている。」
釉薬はたっぷりつけ生地に定着させる。
この時点では青磁の色はまだ影も形もない。
雨過天晴の青はどの時点で現れてくるのか?
表面が乾燥したところで窯に入れる。
扉を厳重に密閉するのは窯の中で釉薬から酸素を奪う還元作用を起こすため。
火をいれてから約2日間ゆっくり時間をかけて1300℃もの高温で焼き上げる。
温度が十分に下がったところで窯を開ける。
窯の中に雨あがりの空が広がっている。
日本でも最高級の焼き物として発展していった青磁、そのもととなったのは中国の皇帝が愛した雨過天晴の青。
その理想の色を実現するために、中国人のあくなき探究心が大地の底の黄色い岩石を雨上がりの空の青へと変貌させる奇跡の製法を生み出したのだ。

Episode9:神の気まぐれ 青を与えられた生き物達
西洋で、中国で、日本でそれぞれの文化によって求めてきた青は全く違っていた。
自然界には極めて少ない青だが、青を身にまとった生き物がわずかに存在している。
オースタラリア北東部、ケアンズの熱帯雨林は約1億2000万年前から生い茂る世界最古の森。
ここには青い蝶・ユリシス(Ulysses)が生息している。
現地では頭にとまると降伏になるとも言われている。
その美しい青さから、かつてはコレクターの乱獲から数が激減し、今では捕獲が禁止されている。
人々の目を魅了するその青さだが、その羽に青い色素は存在しない。
ユリシスの羽は強度と軽量化のために細かな溝が刻まれた構造になっている。
規則正しく配列された水が短い波長の青い光だけを反射するため、羽を青く見せている。
これは構造色と呼ばれる発色現象で、孔雀や玉虫などにも見られるもの。
青い色素を持たないユリシスは、その羽をすりつぶしても青い色は得られない。
しかし人もうらやむ青を発色してしまうがために、乱獲の憂き目にあってしまう。
神の気まぐれで青を身にまとったユリシスは、青によって運命を翻弄されてしまったのだ。

アオアズマヤドリ(Satin Bowerbird)、濃紺の体に青い目をした30cmほどの鳥。
オスは小枝を集めて東屋を作り、その周りに自分の目と同じような青いものを並べる習性がある。
ペットボトルのキャップやボールペンなど、青いものなら何でも集めてきて東屋を青く装飾する。
アオアズマヤドリは何のために青いものを収集するのだろうか?
それはメスを惹き付けるため。
自然の中に青いものは少ないので、それを集めることで自分の力を誇示している。

茨城県国営ひたち海浜公園、空色の花びらを持つネモフィラ(Nemophila)の名は、ギリシャ語の“森を愛する”の意味で、森の陽だまりに2〜3cmほどの可憐な花をそっと咲かせる。
この公園では空の青と海の青、そしてネモフィラの青、3つの青が楽しめる。
しかし地球上に青い花は極めて少ない。
赤や黄色の花が多いのは、花粉の媒介役である昆虫や鳥を惹き付けるため。
葉の緑色と区別させ、花びらへと誘導するためには赤や黄色など、はと明らかに違う色が必要だった。
青い花は植物が繁殖する上では不利な条件となる。
しかし神の気まぐれとは関係なく、ネモフィラは大地を青い花で覆いつくしている。

Episode10:不可能を可能にした青い発明
その一方で神が気まぐれにも青を一切許さなかった花が、花の女王バラ。
人類のバラの栽培の歴史は5000年以上前にまでさかのぼる。
これまでに生み出されてきたバラの品種は25000種以上。
これだけ数多くの品種がありながら、唯一存在しなかったのが青いバラだった。
英語でBlue Roseというと不可能を意味する言葉になる。
クレオパトラ、マリー・アントワネット、古来バラは多くの権力者に愛されてきたが、全てを手にした権力者にも、青いバラだけは手に入れることはできなかった。
19世紀当初から青いバラを夢見て人類が繰り返してきた自然交配。
元々青い色素を持たないバラが青い花を咲かせるのは不可能だった。
しかし2009年日本でこの不可能が可能になった。
飲料メーカーサントリーが開発したバラ、アプローズApprauseは世界で初めて花びらに青い色素を定着させた青いバラ。
研究チームは他の植物から青い色素を作る遺伝子を取り出し、バラに移植することで青いバラを完成させた。
自然交配では不可能だった人類の夢が遺伝子組み換え技術によって開花したのだ。
研究がスタートしたのは1990年、製品化まで約20年をかけたプロジェクトに入社以来ずっと参加してきた勝元幸久さん、最先端のバイオテクノロジーの技術をもってしても花の女王は中々青い花を咲かせてくれなかったという。
青色遺伝子を移植したバラが花を咲かせるまでには1年以上の時間がかかる。
研究チームは10種類以上の植物から青色遺伝子を取り出し、バラとの組みあわせを試していった。
勝元「唯一うまくいったのがパンジーから取り出した遺伝子。」
青いバラのもたらす可能性は大きい。
将来的には赤や黄色と組み合わせてあらゆる色のバラを生み出すことも不可能ではなくなった。
しかしアプローズはまだ理想の青には到達していない。
より鮮やかな青を求めて今尚研究は続けられている。

冬の夜を彩るイルミネーション、LEDの明かりが街を照らす。
この色鮮やかなLEDの中でも実現不可能な色があった。
それが20世紀最大の発明と言われる青色LED。
LEDとは電流を流すと発酵する半導体のこと。
1960年代最初に赤色のLEDが開発され、続いて黄色や緑色などが製品化されていった。
しかし青色だけは開発が難しく、全世界の科学者が挑戦しながら20世紀中の実現は不可能といわれていた。
それをいち早く実現したのが当時まだ無名だった四国徳島県阿南市、白亜化学工業だった。
開発に参加していたのはほとんどが入社したての若手社員、向井孝志さんもその1人だった。
1993年白亜化学が青色LEDの開発に成功したというニュースは世界中を驚かせた。
青色LEDが社会に与える影響は瞬く間に広まっていった。
LEDを使った信号機は電球のものよりもはるかに耐用年数が長く見やすくなった。
町中の青いイルミネーションはより青く輝き、私達の目を楽しませてくれるようになった。
直接目に触れないものもこの青色LEDの技術が私達にある楽しみを与えてくれた。
それが大容量の記録メディア、ブルーレイディスク
ブルーレイが意味するものとは内部で放たれる青いレーザー光線。
この青い光が何故飛躍的に記録容量を増大させたのだろうか?

東京都品川区ソニー歴史資料館、創業から現在に至るまでそれぞれの時代の最先端の製品が展示されている。
ここでCD、DVDなどの進化の歴史も見ることができる。
ブルーレイの開発に参加した五十嵐修一さんは入社以来一貫してレーザー光を使ったディスクの開発にあたってきた。
五十嵐「CDは赤外レーザーを使っており、DVDは赤い色、ブルーレイでは青紫のレーザー光を使って記録再生する。
レーザー波長をどんどん短くしていったという歴史がある。」
短い波長のレーザー光が必要とされたのはハイビジョン映像などディスクに記録される情報が膨大に増えたからだった。
DVDはアナログレコードと同様にトラックに刻まれた溝から情報を読み出している。
この時レコード針にあたるのがレーザー。
大容量のブルーレイはこのトラックの間隔がDVDよりもはるかに狭く高密度。
微細に刻まれたトラックから情報を読み取るためには今までよりも細いレコード針、つまり波長の短いレーザー光が必要となった。
もっとも波長の短い青色レーザーを使用したブルーレイディスクは究極の最終形。
それが実現したのは青色LEDの開発から10年後。
2003年世界で初めてのブルーレイディスクレコーダーが発売された。
青い光によって記録メディアの新しい時代が幕を開けた。

雄大な地球の青が広がるオーストラリア、Great Barrier Reef、世界最大の珊瑚の海。
その中央に位置する世界的リゾートHamilton Island、多くの観光客が癒しとくつろぎを求めてやってくる。
White Heaven Beach、Heart reef Island・・・
青い空と海の景勝地は必ずといってよいほど地上の楽園と形容される。
温暖な気候と美しい景色が楽園の所以。
そしてもう1つ空と海が作り出す鮮やかな青。
青を知覚することは生命に関わる空気や水の存在を確認すること。
人類は生命の維持という生物としての欲求によって青を追い求めてきたのではないだろうか?

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神の肖像 キリスト教美術2000年の旅 4☆死と復活
『キリストの遺骸』(Hans Holbein 1521年)
力なく横たわる痩せ衰えた男。
体には生々しい傷が残っている。
目はうつろだが、口は開いたまま。
その口からは、恐ろしい臨終のことばが響いているようだ。
“我が神よ、我が神よ、何故私をお見捨てになるのか。”
そして彼は息絶えた。
脇腹と手と足の傷から、これが磔にされたナザレのイエスの体であることが分かる。
彼の全生涯は、棺を模した130cmの額に収められた。
足の上には、この絵が完成した目的と、作者の署名があるが、本当に棺おけに書いたかのように、傾斜し、遠近が付けられている。


イギリス国王に仕えたHolbeinは、ここにもう1人の王を描いた。
これは人間の死体ではなく、死せる神であり、人間イエスではなく救世主キリスト。
神は人間になった。
そして人間のしたことといえば、その神を死に追いやること。
しかし私達の反応は何を信じるかによって違う。
キリスト教徒にとっては、Holbeinが描いた当時の意味そのままに、磔に続く荒涼とした埋葬の光景。
そしてまた信仰なき人々にも、神は死んだと考える人々にも、イエスの復活などありえないという人々にさえ、この絵は意味を持っている。
キリストの物語がもはや顧みられることのない今日、その肖像がなお意味を持ち続けるとすれば何なのか?


19世紀終り、労働者階級の貧しさに憤慨した知識人は、社会主義を掲げ、キリスト教を拒否した。
しかし不思議なことに、キリスト教美術までは否定しなかった。
ドイツの画家Kathe Kollwitzの作品はこのパラドックスをよく示している。
Kollwitzは、医師である夫と共に、悲惨さと病気が蔓延するベルリンの貧困地区に移り住んだ。
1900年Kollwitzは社会への異議申し立てを版画に表した。
『踏みにじられた者達』(Kathe Kollwitz 1900年)
死の天使と思しき剣を持った男が、Holbeinのキリストの死骸そっくりの死体の上にかがみ込んでいる。
向かって右の裸の2人は貧困のため、売春婦に身を落とさざるを得ない労働者階級の女性。
反対側にいるのは、苦悩する現代版の聖家族。
我が子の死を嘆く母親、その傍らでは捨て鉢になった父親が首を吊ろうとしている。
はHollbeinのキリストの遺骸から、宗教性を剥ぎ取った。
この婿の犠牲には、復活などあり得ない。
キリストの体は世の中の圧政の犠牲者であり、彼らの運命を変えるのは神の力ではなく、私達の社会的政治的行動なのだと訴えている。
それが伝統的なキリスト教絵画に対する私達の時代の答。
しかしキリスト教徒にとって、十字架の上のイエスの死は、物語の終りではなく、通過点に過ぎない。
キリストの体は死んでからも教会とその儀式の中心に据えられている。
こうした聖餐式、あるいは聖体拝礼と呼ばれる礼拝では、キリストの体はパンとブドウ酒となって信者達に分け与えられる。


オランダ、Antwerp大聖堂の聖体拝礼は、名画の前で行われる。
Rubensがこの教会のために描いた祭壇画。
『十字架降下』(Peter Paul Rubens 1611年)
観音開きパネルの外側には、聖クリストフォルス(St. Christopher)の伝説が描かれている。
大男の渡し守が、幼子キリストを運んでいる。
クリストフォルスの肩には神と、神が創造した全世界の重みがのしかかる。
この祭壇画は聖クリストフォルスに奉納された。
Rubensは、“キリストを背負う人”という意味のこの聖人の名を、全体のテーマとしている。
パネルを開くと全ての人間にキリストの体を運ぶよう呼びかける絵が現れる。
キリストを運ぶ3つの場面。
左側ではキリストの体が聖母マリアの子宮の中へと運ばれ、マリアの従姉妹エリザベトが、いまだ生まれぬキリストを指差している。
右側は神殿封建の場面で、聖シメオンが幼子キリストを腕に抱き、救世主として認知している。
この受肉と啓示という2つの喜びに溢れた場面に挟まれているのは、埋葬の場面。
キリストの体が慈しみを込めて十字架から下ろされ、埋葬されようとしている。
悔い改めたマグダラのマリアがかつて自分の涙でぬぐったキリストの足を支えている。
梯子の下には、祭壇のブドウ酒のように透明な血を湛えた鉢がある。
教会は墓を模した祭壇の上で、キリストの体が聖餐式のパンになると考えている。
この祭壇で聖体を授かる者は、順々にキリストの体を運ぶことになる。
そしてキリストを首長に頂く教会の一員となる。


キリスト教信仰の最大の神秘はキリストの復活。
この神秘をどう描くかという難問は、数世紀にわたり画家をあくなき挑戦へと駆り立ててきた。
5世紀の小さな象牙の彫刻は、キリストの受難を描いた最古のもの。
今見るとキリスト復活の場面はとても奇妙、5世紀の人々も復活の現場を見たわけではなく、創造で描いているからだ。
キリストが埋葬された墓の両側では、衛兵が居眠りをし、2人の女が嘆き悲しんでいる。
私達は彼らがまだ気付いていないものを見ることができる。
今は壊れている片側の扉が開き、キリストの遺体が跡形もなく消えている。
福音書を忠実に描いているが、どこかチグハグな感じがする。
不在と復活とは、同じではないからだ。
感動を呼ぶ復活を描くには、他の表現方法を見つけなければならない。


最も力強い復活の絵は、16世紀初頭のドイツに現れる。
『イーゼンハイム祭壇画 Isenheimer Alter』(Matthias Grünewald 1512-15年)
バプテスマのヨハネが痛めつけられたキリストの体を指差している。
祭壇画はばらされ、今は別々に展示されている。
両側の扉を開けると、十字架のキリストに涙していた信者の心は左側の受胎告知、中央のキリスト降誕、そして右側の復活という喜びに満ちた場面に癒される。
墓の重い石蓋が急に開き、居眠りしていた衛兵が暗闇の中で弾き飛ばされている。
キリストの体は上昇するに従い、衣装の色が変化してゆく。
はじめ王の衣装のような緋色に、そしてついには金色に。
手と足と脇腹の傷の他、体は損なわれていない。
それぞれの傷は黄金の光を発している。
キリストの顔は太陽のように光り輝いている。
闇を打ち砕く光の勝利。
死が決して終りではないことを示す復活の奇跡。


ロンドン、ナショナルギャラリーは復活の次に来るエピソードの類稀なる美しい絵を所蔵している。
『Noli Me Tangere(我に触れるな)』(Tiziano Vecellio 1510年頃)
Tizianoは1510年頃のVeneziaで、キリストとマグダラのマリアを描いた。
ヨハネによる福音書のクライマックス。
復活祭の朝、マグダラのマリアがやって来て、墓が空であることを発見した。
復活したキリストを最初に見たマリアは、後に続く信者達を迎えている。
右手はつい先ほどまで庭師だと思っていたキリストの方に不思議そうに伸ばされている。
なんとキリストは鍬を持っている。
まるで自分を庭師だと間違えたのは、至極当然だとマリアを安心させるかのように。
キリストの体は優雅なしぐさで傾いでいる。
これが当時のVeneziaのごく一般的な題材であったというわけではなく、ただマグダラのマリアは特徴を捉えやすかった。
この世の肉の快楽を享受し、罪を犯し、多くの男を愛し、なおキリストに受けいられた女性だからだ。
キリストの死後もマリアはその遺体に敬意を払い、彼への愛を示した。
そしてキリストだと分かると触れようと手を伸ばす。
Tizianoの周りには、数多の愛の詩人達がいた。
この絵も何よりもまず、愛の探求であった。
これは地上の肉体的な愛が、その限界を認め、神への愛に昇華する瞬間。
マリアは自分の愛する者にもはや触れることはできないと知っている。
彼女の愛は肉体的にではなく、精神的に叶えられるだろう。
彼女の苦悩は消え去る。
触れることのできない神とは永遠に奪われることのない神だから。


キリストの地上での最後の姿は昇天。
この昇天も、空の墓と同様、画家に難問を投げかけた。
『キリストの昇天』(Albrecht Dürer 1511年)
Durerは子の小さな木版画にキリストの足の裏とガウンの裾だけを下から見上げるような角度で描いた。
キリストは地上に足跡を残し、まるでロケットのように上昇してゆく。
次にキリストが姿を現すのは、教会の信じるところによれば、この世の終りの時。
6世紀ローマにおける侵略と市民戦争は、世界の終末かと見まごう有り様だった。
キリストの再臨は間近と思われる。


その当時建てられたS. Cosma e Damiano聖堂には、昇天とは趣を異にする生き生きとしたキリスト再臨の様子が描かれている。
『栄光のキリスト』(530年)
再臨の場面は福音書に明確に描かれている。
そのためどこか曖昧な復活や昇天の絵とは異なり、常に力強く描かれてきた。
ヨルダン川の向こう側で天国の扉が開き、大いなる力と栄光に包まれた人の子キリストが、雲の中を進んでくる。
キリストは古代ローマの元老院の衣装をつけ、立法の巻紙を持っている。
その体に傷跡や苦しみの跡は見られない。
おごそかな表情は東方の支配者のように顎鬚に覆われている。
キリストの再臨を信じていた信者は、恐怖に駆られてローマの中心に集まり、こうしたキリストに向かって祈ったのだろう。
ここではキリストは厳めしい12使徒と聖人達に付き従われた王であり裁判官。
しかしこれは世界の終末の光景であると同時に約束のイメージでもある。
聖パウロの腕の上で輝く星が、キリストの言葉を示す。
“私は輝く明の明星である。”
その上では永遠の命を象徴する不死鳥が光を放っている。
絵の下の方では、中央にいる神の子羊が12使徒の群れを呼び集めている。
ローマの人々が抱いていたキリスト再臨のイメージを数100年後の今日もありありと浮かべることができる絵だ。
このモザイク画は、主の再臨の栄光を描いた傑作であり、キリストの勝利を預言している。
そして他のキリスト教美術と同じく目的を持っている。
キリストが栄光の中に再び現れ、死者と生者の両方を裁くという瞬間を描く。
たった今私達を最後の審判に備えさせる。
審判を待つ私達の心に、ある疑問が浮かぶ。
信仰があれば地獄に落とされずに済むのか、それとも救われるためには何か善い行いをする必要があるのか。
その答は人間の信仰や生活を何世紀も道徳という観念で縛り付ける。
そしてヨーロッパの画家に絵の題材を与え続けた。


16世紀初頭、ドイツのザクセン(Saxony)で、Martin Lutherがローマ教皇の権力を攻撃し、宗教改革の火蓋がきって落とされた。
ドイツの君主達や町民は、聖書を基礎とし、キリスト唯1人への信仰を中心に据えたLutherの教義を支持した。
ワイマールにある聖ペトロ教会にある祭壇画は、ルーテル派(Lutheran)による新しい信仰を宣言し、キリストの犠牲とキリストへの信仰によってのみ救われるというLutherの教えに血肉を与えた。
『磔刑のキリスト』(Lucas Cranach(子) 1555年)
“神はこの世を愛するあまり、息子イエスを遣わします。
イエスを信じる者に、永遠の命を与えるためです。
これがドイツ・ルーテル教会の信仰の中心です。
十字架に掛けられ、昇天されたイエスが、我々の信仰の中心です。”
この絵は磔という出来事が、いかに重要であるかを力強く語っている。
十字架の下では、ザクセンの宮廷画家であり、この絵の作者の父親Cranachが、キリストの血で罪を清められている。
Cranachの左にいるのはバプテスマのヨハネ。
右側は彼の友人であり、魂の導き手Martin Lutherその人。
反対側ではキリストが墓から起き上がり、勝利を宣言しながら死と悪魔を踏みつけている。
十字架の後ろには、契約の石板を持ったモーセと旧約聖書の預言者達がいる。
けれどもモーセの契約は、死と悪魔の手で地獄に追いやられる。
裸の人々を救うことはできない。
旧約聖書は希望とキリスト信仰を謳う新約聖書に取って代わられたのだ。
このメッセージを理解するには聖書を読むだけでよい。
その頃聖書はLutherの手でラテン語からドイツ語に翻訳され、誰にでも読めるようになっていた。
Lutherは自分のドイツ語訳聖書の言葉を指差している。
イエス・キリストの血が、我々の罪を全て清めてくれる。
この祭壇画は、16世紀のドイツプロテスタントが神の救済をどう捉えていたか、絵で表現した一種の説教画。
Lutherによれば、キリストのただ1度の犠牲が、全ての人間を救う。
そして救われるためにはキリストをただ信じるだけでよい。
これがプロテスタントとローマ教皇庁との熾烈な論争の基となった。


他のカトリック諸国と同じく、スペインの教会も救済に関してLutherとは180度異なる見解を説く。
17世紀にSevillaに建てられた礼拝堂では、今も修道会が慈善活動を行っている。
礼拝堂の装飾は、この世でキリストの王国を実現し、天国で救われるためには、善い行いが必要だとするカトリックの教義を示している。
LutherやCranachが説いた、信仰の力だけが人間を救うというプロテスタントとは対照的。
最初に視界に入ってくるのは、挨拶しようと大股で向かってくる死の姿。
『束の間の命』(Juan de Valdes Leal 1615〜85年)
カマと棺桶と垂れ下がったキョウカタビラ。
私の棺に、私の死装束、死はかつては肉のあった掌で命のローソクの火を消したところ。
束の間の命が終わった瞬間。


振り返ると・・・
『世の栄光の終り』(Juan de Valdes Leal 1672年)
贅沢な装いの騎士と司教の死体が腐り、私達を確実に待ち受ける運命を示している。
死よりも恐ろしい審判の場。
腐った死体の上に、正義の天秤が吊るされている。
左側には7つの大罪がそれぞれ動物の姿で示され、その中央にコウモリの姿をした悪に貪り食われる人間の心臓がある。
この罪の重さは私達を地獄に落とすには十分。
天秤の右側にも心臓が載っている。
しかしこの心臓は王冠をかぶっている。
王冠の文字“IHS"は“イエス人類の救い主”の頭文字。
その下にあるのは悔い改めた行いと、信心深い生活の象徴。
救われるためにはこうした熱心な信仰が必要なのだろう。
天秤は危ういバランスを保っている。
そして天秤を持つ手は、やがて私達を裁くキリスト。
磔にされ、栄光に包まれて昇天したキリストの傷跡のある手。


天秤の傾きは、私達次第なのだろうか?
ローマカトリックによれば、その問いにマタイの福音書の中でキリスト自身が答えている。
キリストが人間を裁きにくる最後の審判の時、救われるのは善い行いをした者だけなのだ。
修道会は、その一員であり傑出した画家であったMurilloに、慈悲の行いを描くよう依頼した。
Murilloは飢えた人々へのほどこしの手本として、パンと魚を増やして5000人を養ったイエスの奇跡を描いた。


祭壇の上方は修道会の最も重要な慈悲の行い、遺体の埋葬を表している。
この修道会は貧しく身寄りのない人の埋葬のために設立された。
特に溺死した水夫や処刑された罪人の埋葬を、率先して行った。
ゴルゴタの十字架の絵の下には彩色した彫刻がある。
『キリストの埋葬』(Pedro Roldan 1674年)
キリストの埋葬の光景、アリマタヤのヨセフがキリストに最後の慈悲を見せている。
しかしキリストの遺体が埋葬されるのは、ただの墓ではない。
天使達に守られた天国の門。
キリストが私達人間に注ぐ、この上ない慈悲の中で、聖体拝礼が行われる。
そして最後の審判の恐れが、日々の善行へ加えてさらに大掛かりで継続的な慈善活動へと人々を駆り立てた。

Hospital de la Caridad

15世紀フランスのBeauneに建てられた神の宿泊所は、王宮のような慈善施設。
施設は貧者に食べ物を分け与え、衣服や寝場所を提供した。
この貧者の宮殿の中心には、贅沢な病室が備え付けられ、たくさんの病人が手厚く看護されていた。
病室の突き当たりは礼拝堂。
病みつかれ死んでゆく人々の心の平安が命を得た場所。
かつて祭壇の上ステンドグラスの下には、祭壇画がかかっていた。
神の宿泊所は現在博物館となり、Weydenの祭壇画は病室の祭壇から取り外され、専用の部屋に展示されている。
『最後の審判』(Rogier Van der Weyden 1443〜51年)
薄暗がりの中で、ライトを浴びた絵は、純粋に芸術として鑑賞するよう求めてくる。
Weydenがこの絵に込めた病人の苦痛を和らげるという宗教的目的は失われたが、この傑作を作らせた原動力は、紛れもなく宗教的な目的。
キリストの復活と最後の審判の厳かな光が世界を照らす。
中央には聖人達を両脇に従えた裁判官キリストが座り、右側に正義の剣、左側には慈悲のユリが描かれている。
キリストの下では大天使ミカエルが死者の魂を秤にかけている。
右側の受け皿は罪の重みで傾き、魂は今にも地獄に落ちて行きそう。
もう一方の受け皿では、信心深い魂が天に昇ってゆこうとしている。
悔い改め、天国へ行こうとする人々がキリストに向かって祈っている。
そして彼らは花咲く牧場に入り、天国への門で1人の天使に出迎えられる。


キリストの右側では罪人たちが地獄へと落ち始めている。
絶望した人々は後悔のあまり正気を失い、自分の手を噛み、耳を引っ張っている。
楽園から追われるアダムとイヴのような男女がよろめきながら地獄の入り口へと進む。
何より恐ろしいのは、地獄の炎で焼かれながら互いに蹴落としあう罪人達の姿。
人々を追い立てる悪魔などどこにもいない。
これらは彼らの罪が引き起こした恐ろしい運命なのだ。
Weydenの絵は、あなたの死の瞬間にどんな意味を持つだろうか?
それは復活への確信と、救済されるという希望。
どんな人にも死ぬまでに魂を清めるだけの時間がある。
どんな貧しい人間にも他人に慈悲をほどこす力はある。
人間は誰でもいつでも悔い改めることができる。
死の床でキリストに慈悲を請い、祝福された人々のように。


病室の入り口の上にはゴルゴタの石の上に座るキリストの彫刻がある。
キリストは足元のベッドに横たわる病人達のように死を待っている。
苦しむキリスト像は、病人達の臨終を慰め、苦しみに耐える手助けをしてくると考えられていた。
この孤独なキリストは、もとは祭壇画の栄光に包まれたキリストと向き合っていた。


今ここに訪れる人々で、最後の審判を恐れて生きている人などいないだろう。
しかし病人や貧しい人々への哀れみは、誰もが持っているはず。
裁判官キリストはいざ知らず、人間キリストの苦しみは今も私達の心に訴えかける。
画家は人々の共感を得るために、キリストを描き続ける。
Kollwitzの『踏みにじられた者達』、宗教画を下敷きにせず、この絵はこれほど力を持ちえただろうか?
現代人間の苦しみを最も生々しく伝える手段は写真。
そして写真かも宗教画に大いに依存している。
磔や十字架から降ろされたキリストのイメージが至る所に氾濫している。
写真家Philip Jones Griffithsは、ベトナム戦争の惨禍を記録した。
母親が幼子イエスを抱く聖母マリアのように、死ぬために生まれた我が子を嘆いている。
この写真は背後にあるキリストのイメージによって個人の悲劇を超え、普遍的な悲しみを伝えている。


一方現代のキリスト教美術はどうなったのだろうか?
今や少数派となった教会に集う人々に、何を語りかけているのだろうか?
ロンドン、St. Paul Harringayは、新しい教会。
祭壇とその背後の飾り壁は現代イギリスの傑出した彫刻家Stephen Coxの作品。
『磔刑』)(Stephen Cox 1993年)
Cox「この作品はゴルゴタのキリストを背後から見るようになっている。
向こう側に見えているのは地中海で、キリストのメッセージがやがて海を越えて伝わってゆくというヴィジョンを表現している。」
祭壇画の一番下に、骸骨が半円形に積まれている。
Cox「ゴルゴタとはシャレコウベの場所という意味。
ゴルゴタの丘は、ローマ帝国が罪人を最も残忍な処刑法で処刑し、死体を野晒しにしておく場所だった。
それで当時はたくさんの骸骨があったに違いないと想像した。」
まず人々の目を捉えるのは空間を貫く3つの十字架。
Cox「これは信仰の十字架。
信仰は自分が触れ得ないものの中に存在する。
実はエルサレムに行った時、十字架があった場所に自分の腕を置いてみた。
するとその体験がこの絵の空間に全く新しい意味を与えてくれた。
実際に出来事が起きた場所、空間が信仰を与えてくれた。」
Coxの祭壇画のキリストは、十字架の影に隠れている。
肉体の不在によって、その精神の痛ましさがいっそう伝わってくる。


『メッセンジャー』(Bill Viola 1996年)
この作品は意外なことに伝統的なキリスト像に回帰している。
カリフォルニアのビデオアーティストBill Violaは、肉体は偉大なる精神を表現することができると断言している。
1996年Durham Cathedralに依頼されたこの作品で、Violaは信者にも、そうでない者にも語りかけようとしている。
Viola「この作品はキリストの復活としても見ることができるし、人間の誕生と死に結びつけることもできる。
私が作り出したかったことは、その結びつき。
人物が水から顔を出し、息をする。
それは命の呼吸。
生と死を分かつ一線。
彼は息をする、そして再び水の中へ戻ってゆく。
呼吸と心臓の鼓動のサイクルは、人間の一生のサイクルを形作っている。
この作品は呼吸、鼓動、思想、誕生そして死の分岐点。
そして命そのものが存在する世界の分岐点。
1秒、1分、1時間、時の流れそのものを記録した映像の中で変化し、動き続ける肖像を見ながら、あなた自身も変化し動き続ける。」
これは人生のサイクルと復活について疑問を提示するのに相応しい表現方法と言える。


キリストの肖像は、誰もが分かり合える世界の原形に導いてくれる。
Viola「キリスト教美術は人と世界を結び付けてくれる原形に満ち溢れている。
その人の信仰や生い立ちがどうであろうと。」
だからこそキリスト教美術は今なお万人の心を打つのだろう。
Holbeinが描いた『死せるキリスト』、神を信じようと信じまいと、この絵は全ての人間の死の苦しみ、全ての死の原形。


ミケランジェロの『ピエタ』は愛する者、息子や兄弟や恋人の死を嘆く、全ての女性の姿。
幼子イエスとそれを優しく見守る聖母は、世界中に存在する全ての子供、全ての母親。


Stockholm、Rembrandtが死の直前に取り組んでいたと思われる遺作。
死を目前にした画家が描いたのは、喜んで死を受け入れる老人の肖像だった。
『幼子キリストを抱くシメオン Simeon with the Christ Child in the Temple』(Rembrandt Harmenszoon van Rijn 1660年代)
マリアとヨセフは生後6週間のイエスを連れてエルサレムの神殿に詣でた。
救世主を見るまでは死なないと神から約束されていたシメオンが幼子イエスを抱き上げて言う。
「主よ今こそこの私を安らかにさらせて下さい。
私はこの目であなたの救いを見たのですから。」
Rembrandtの遺作に、後世の画家が女預言者ハンナを書き加えている。
ハンナは神を見つめ、感謝を捧げている。
これはルカ福音書にあるキリストが救世主として認められた瞬間。
同時に孫を抱いた老人という普遍的な光景にも見える。
ルカ福音書を知らなくても、人々の人生の終りにある者と、始まりにある者との対話を感じ取ることはできる。
これは希望の絵。
老人は目を閉じ、腕の中の幼子は自分の夢を実現してくれるその日を思い描いている。
彼は赤子を腕に抱きながら、両手で歓迎と祈りの仕草をしている。
老人と赤子、どちらがはかなく傷つきやすいかは定かではない。
Rembrandtが人生の終りに描いたのは、救世主を見る老人、ただそれだけではない。
命は復活し、続いてゆくという奇跡を描いたのだ。
生まれてくる子供は皆、死は終りではないという約束なのだ。
この絵は今も私達の心を癒す。
優れたキリスト教美術は、宗教という枠を越える力を持っている。
なぜなら命そのものを描いているから。
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神の肖像 キリスト教美術2000年の旅 3☆十字架
十字架の上の瀕死の男が西洋美術の中心的主題。
そんな時代が何世紀も続いた。
キリスト教信仰の核をなす事件、磔刑。
あらゆる解釈、あらゆる表現方法が可能なこの出来事を通して、芸術家は極限の体験を探求してきた。


スペイン、Seville、Zurbaranが描いたのは犠牲者であり救世主であるキリスト。
『磔刑のキリスト The Crucified Christ』(Francisco de Zurbaran 1650年)
暗い虚空の中、まばゆい光に照らされ、キリストが1人十字架に掛けられている。
彼はまだ生きている。
聖書にはキリストは十字架の上から7度語ったとある。
Zubaranはその1つを描いたに違いない。
イエスの目は上方を見つめ、天なる父に語りかけている。
何と言っているのだろうか?
“我が神よ、何故私をお見捨てになるのか。”という絶望の叫びなのか、それとも“御手に私の霊をゆだねます。”という静かな言葉なのか。
しかしこの2つは臨終間際の言葉。
Zurbaranが描いたのは、おそらく最初の言葉だろう。
“父よ彼らをお許し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。”
イエスは私達のために祈っているのだ。
私達は苦痛を受けると自分のことしか考えなくなり、義務など放り投げる。
しかしイエスは苦悶の只中にいながら、神に私達の救済をとりなしている。
教会はキリストの苦しみと死、すなわち受難について考えつづけ、西洋美術に犠牲と救済という永遠のテーマを与えてきた。


20世紀の最も強烈な十字架のイメージは、第一次世界大戦の無名戦士の墓
その光景は大量殺人という悲劇の象徴として今日もヨーロッパ人やアメリカ人の心をえぐる。
第一次世界大戦の激戦地Verdun、フランス軍とドイツ軍の戦死者の上に立ち並ぶ質素な十字架の列が、敵味方双方の苦しみと大量殺戮という悲劇を雄弁に物語っている。



私達はごく自然に十字架を悲劇のシンボルとして捉えるが、十字架の意味するところはこの数世紀の間に何度も変化している。
初期の十字架のキリスト像は、苦しみではなく死を超越したキリストの勝利を表していた。
その典型的な例が大英博物館にある象牙の彫刻。
元は1つの小箱で、キリスト教がローマ帝国の国教になった420年頃作られた。
4面の1枚に彫刻されているのは、初期に広まった磔の物語。
キリストは真直ぐに立っている。
体に苦しみの後は見られない。
死を越えて勝利を収め、目は大きく見開かれている。
傍らでローマ軍の百人隊長が驚いて手を振り上げて言う。
“本当にこの人は神の子だった。”
反対側には救い主キリストと対象的な裏切り者のユダがいる。
左下にはユダが師を裏切って得た30枚の金貨がこぼれ落ち、その上で絶望したユダが首をつっている。
十字架の傍まで延びた木の枝では、小鳥がヒナにエサを与えている。
この小さな象牙板は、非常にはっきりした目的を持っている。
キリストの勝利の光の中で、私達に選択を迫っている。
キリストを認め、共に勝利を分かちあうのか、あるいはユダのようにキリストを否定し、自らを死に追いやるのか。
命の木であるキリストの十字架と、ユダの首吊りの木、どちらかを選べといっているのだ。


Firenze、サンマルコ修道院には、西洋美術史上最も有名な作品が何点かある。
どれも芸術としてではなく、ドミニコ会士の修行に使うために描かれたもの。
全ての絵が魂を導いてくれる手引き。
ドミニコ会修道士Fra Angelicoの手によるフレスコ画は、キリストは私達の罪をあがなうために苦しんだとする新しい教義に基づいて描かれている。
『Saint Dominic Adoring the Crucifixion』(Fra Angelico 1440年代)
ドミニコ会の創設者、聖Dominicが十字架にすがりついて祈っている。
彼は救世主の苦しみに愛と悲しみを感じて泣いている。
Dominicの慈悲と強い祈りが、キリストを甦らせる。
上階にある見習い僧の房の壁には、異なった姿勢で祈る聖Dominicが描かれている。
これもFra Angelicoとその助手達の作品で、見習い僧が祈る際の手本として描かれた。
十字架の前に跪いて慎ましく祈る聖Dominic。


隣の房には目を覆い、聖書を携えて悲しむ聖Dominicがいる。
次の房には自身をさいなみ、キリストの苦しみを分かち合う姿が描かれている。
見習い僧達は、これらのフレスコ画を通して十字架上のキリストと様々な対話を行った。
修道士達はキリスト磔へと導く全ての出来事について瞑想するよう奨励された。
この幻想的な絵では、キリストが墓の中から起き上がっている。
そして磔の傷跡を見せている。
その後ろには、磔までのエピソードが散りばめられ、1つ1つについて瞑想できるようになっている。
ユダの裏切りの口づけ、ペトロの離反、すぐ下では目隠ししたキリストが中傷され、唾を吐きかけられている。
ユダの金貨30枚、鞭打ちの柱、そして磔のための釘と海綿と槍。
ドミニコ会士にとってキリストの磔は観念と犠牲によって体系付けられた物語。


一方Dominicと同時代に生きたAssisi聖Francescoは、異なる物語を説いた。
知性ではなく、心に訴えかかえる物語。
それはキリスト誕生の瞬間から始まる。
十字架に掛けられたキリストの愛は、誰もが赤ん坊に対して本能的に抱く慈しみに始まると言う。
Francescoが説く神と人との愛を、Murilloほど力強く描いた画家はいない。
1660年代後半、Sevilleフランシスコ会のために描かれた。
『San Antonio con el Niño』(Bartolomé Esteban Perez Murillo 1665-68年)
Francescoの友であり、弟子だったPadovaの聖Antoniusが聖書を読んでいる。
Antoniusが持つユリの花は純潔の象徴。
彼は神の祝福を受け、神の姿を目にする。
丸々とした幼子イエスがAntoniusの聖書の上に座っている。
か弱い幼子を守る聖Antoniusに、やがて救い主となるその幼子から祝福と啓示が与えられる。
聖書の研究が言葉の愛となり、肉体を現ぜしめた。
たとえ文字が読めなくても感じることができる。
聖Antoniusの体験は、万人に開かれている。


もう1枚、聖Francescoの説教を基に描かれた絵がある。
私達は十字架に掛けられ、死にゆくキリストを愛することができる。
生まれたばかりの幼子を愛するように、どちらのキリストも手を差し伸べ、私達を祝福してくれる。
これは全て包含する愛の啓示、体験。
『十字架上のキリストを抱く聖Francesco』(Bartolomé Esteban Perez Murillo 1668年)
Murilloは語る。
キリストは我らのために天を捨てた。
我らはキリストのために俗世を捨てなければならない。
Francescoは世界を踏みつけ、救世主の近くに寄ろうとしている。
天使が指し示しているのは、“一切を捨てないならば私の弟子ではありえない。”という教え。


Sevilleの大聖堂にあるキリスト像は磔刑という事件に対する私達の責任を考えさせる。
『慈悲のキリスト Cristo de la Clemencia』(Juan Martínez Montañés 1603年)
1603年それまでの放埓な生活を悔いた1人の若い僧が、Seville1の彫刻家に十字架像を注文した。
1人礼拝堂で祈りを捧げるためだ。
そのときに交わした契約書がとてもよい状態で残っていた。
若い僧の注文は・・・“十字架の上のキリストは、死を迎える直前であること。
顔を右下に向け、自分の足元で祈る者を見つめていること。
キリストはその者に向かって自分の苦痛を訴えているかのように顔の表情は険しく、目はしっかりと見開かれていること。”
Montanesはさらにキリストが祈る者の目に生き生きと映るように、と依頼された。
まるでキリストの声が聞こえてくるようだ。
“我が民よ、私があなた方に何をしたというのか。
私はあなた方を力強く引き上げた。
その私をあなた方は十字架に吊るしたのだ。」


苦しみのあまり人間を責めるキリストであるなら、人間の苦しみを分かち合いもするだろう。
その情景を生々しく描いた作品がある。
『The  Altarpiece』(Matthias Grünewald 1512-15年)
ドイツの名高い画家Matthias Grünewaldが、Isenheimer病院の礼拝堂に描いたゾッとするような祭壇画。
患者は治療の一貫としてこの祭壇画を見せられた。
この絵には、癒しの効果があったという。
ここでは十字架は身の毛もよだつ処刑の道具。
打ち付けられたキリストの手は、血を失って青黒くなっており、苦痛のためによじれている。
体は茨のムチで酷く打たれている。
茨の冠をかぶった頭は、力なくうなだれている。
腰に巻いた布は、茨のムチでズタズタに引き裂かれている。
体中が傷だらけ。
Isenheimer病院の患者達を苦しませていた恐ろしい病を彷彿とさせる。
足は1本の釘で十字架に打ち付けられ、体の重みが全てかかってねじれている。
にもかかわらず、これは癒しの絵。
病の苦痛のさ中にも、決して1人ではない、見捨てられてはいないと思わせるからだ。
右側にはバプテスマのヨハネがキリストを指差している。
その足元にいる子羊は心臓から鮮血をほとばしらせ、それが聖杯に注がれている。
まるで祭壇で神に捧げられるブドウ酒のようだ。
子羊はキリスト教徒共通のイエスのイメージ。
ヨハネは言う。“見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。”
患者は苦しみを共有する者としてキリストと心を通わせる。
Grünewaldのキリストは、私達を深く愛しているがゆえに、どんなキリスト像よりも衝撃的。
これが西洋美術の苦痛のイメージ。
私達の痛みは、キリストの痛みなのだ。
キリストの苦しみと私達の苦しみは一体となった。
この病院でキリストは人間の苦痛を分かち合った。


1932年Otto Dixは第一次世界大戦の苦痛を思い起こさせようと、ドレスデン戦争祭壇画ともいうべき作品を描いた。
『戦争』(Otto Dix 1929-32年)
ここにはIsenheimer祭壇画のイメージが取り込まれている。
の登場人物は、塹壕の中で負傷に苦しむ兵士達に置き換えられている。
死体となったバプテスマのヨハネが指差すのは、Isenheimerのキリストのように足に弾丸の傷を負い、逆さまになった死体。
死体の青黒い手は、Grünewaldのキリストの手を思わせる。
左下では茨ではなく有刺鉄線を頭に巻きつけた兵士がキリストのごとき苦しみを見せている。
Isenheimerのキリストと一体となることで癒された人間の体が、ここでは無残に損なわれている。
しかし右横では、哀れみと団結を秘めた表情の画家自身が、傷ついた味方の兵士を助け起こし、抱きかかえている。
これはキリスト不在の磔であり、全人類の受難。
そして伝統的な十字架像と同じように、途方もない苦しみと無数の犠牲者に対する哀れみを語っている。
この20世紀のゴルゴタは、2000年に発せられた2つの問いかけに直面しているように思える。
この言語に絶する苦しみは、私達の責任なのか、そして自分は倒れた仲間を助け、その苦しみを和らげる勇気を持っているだろうか。
Dixの祭壇画は、キリストのように振る舞い、自らの責任を果たすよう鼓舞しているからだ。



キリスト教徒は、何世紀もの間、聖地パレスチナに詣でてきた。
しかし1490年代になると、パレスチナへの旅は危険を伴うようになった。
そこで聖地を管理していたフランシスコ会は、キリスト受難の地をヨーロッパに再現することを決意した。


イタリア、ミラノ北部アルプスの麓の小さな丘、ニュー・エルサレムの中央広場にはキリストが逮捕された夜に連れてこられた4つの宮殿が建っている。
Sacro Monte di Varallo


ビアンキ神父(フランシスコ会)「聖Francescoがパレスチナに行くと、スルタンが聖なる宮殿に入る許可を与えてくれた。
パレスチナからイタリアへ戻った聖Francescoは、イエスがその生涯を通じて体験した犠牲ということを深く理解する心を持つに至った。
中でも彼がこの地に再現したいと願った受難への理解を深めていった。」


Varalloではキリストの足跡を1歩1歩たどることができる。
階段を上り、建ち並ぶ礼拝堂を覗くと、受難の1場面1場面を再現した舞台がある。
緻密な書き割りと実物大の人形が、まるで演劇のように生き生きとした場面を作り出している。
これは信仰をテーマとしたメロドラマ。


礼拝堂から礼拝堂へと歩くうち、ゴルゴタの丘へと導かれる。
十字架の重みによろめき、人々に小突かれながら、キリストは聖ヴェロニカが差し出す布に自分の顔を写している。


最後の階段を上ると、十字架の足元にたどり着く。
Jerusalemの丘の頂上には、Varalloの村人達がいる。
地元の大工、かつてこの谷でよく見らた甲状腺腫を患う男。
キリストの受難は私達にとって現実であり、今も私達の責任。


ローマ総督ピラトの宮殿の前で、ヨハネ福音書の言葉が号外ニュースのごとく叫ばれている。
キリストは茨の冠をかぶせられ、引き立てられてゆく。
ピラトが群衆に言う。“この人を見よ。”
ピラトは決断に迫られる。
ここでキリストを解放すれば、暴動になりかねない。
しかし民衆をなだめるために何の落ち度もない男を死刑にすることはできない。


豪快なピラトは、キリストを民衆の手に委ねることにした。
ここで決断を迫られているのは実は私達自信。
この壮大なキリスト受難のパノラマの中で、観光客でいることはできない。
全員が当事者なのだ。


スペイン、Sevilleにも、ニュー・エルサレムがある。
キリストがこの教会まで十字架を運んできた。
礼拝堂に入るや否や十字架を運ぶキリストに出くわす。
まばゆい銀の祭壇に腰をかがめ、苦しげな表情の像がはめ込まれている。
『キリスト受難』(Juan Martínez Montañés 1615年)
これは彫刻の傑作だが、非常に特殊な彫刻。
衣服を着ているので頭部と手と足しか見えない。
また関節がついていてポーズを色々に変えられる。
しかし重要なのは、今まで見てきた多くの作品と同じく、ある特定の瞬間を描いているということ。
それは聖木曜日
最後の晩餐が行われた聖木曜日、キリスト像は町中を練り歩く。


Montañésはあらゆる意味でキリストを動く彫像としてデザインした。
皆群衆の中にいながら、救世主キリストと2人きりになっている。
キリスト像はまるで、受難劇を演じる俳優のようだ。
彼が通り過ぎると、Sevilleの通りはゴルゴタの道に変容する。


ペルー、Cusco、1530年代キリスト像はスペインの宣教師達の手でSevilleからアンデスへ運ばれた。
そして古代インカ帝国の首都Cuscoで驚くべき変貌を遂げた。
フランシスコ修道院のキリストは、苦悩する救世主ではなく、スペイン帝国の征服者。
鎧をつけ、聖Francescoの夢に現れ、“これはあなたの武器である。”と告げ、スペイン軍の武器を指している。
胸当には十字架がついている。
これは勝利する軍人という全く新しいキリスト像であり、その姿はスペイン軍人そのもの。
しかし現在Cuscoで崇拝の対象となっているキリスト像はキリストと古代インカの神アプが一体となった像。
この像は、絵にも描かれ町の至る所に飾られている。
Cusco大聖堂聖歌隊の女性「インカ帝国の時代、アプは神を意味する言葉だった。
山々もアプと呼ばれていた。
インカの末裔である私達は、今も神のことをアプと呼んでいる。」
Cuscoは地震の多発地帯。
1650年3月31日午後1:30、未曾有の大地震が町を襲った。
家は崩れ、火災が起き、余震が数時間続いた。
人々が祈り続ける中、大聖堂の聖像が次々と広場に運び出された。
そしてこの十字架像が出てきた時、地震がピタリとやんだ。
その時からこのキリスト像は地震の神としてCuscoの町の守護神となった。
この像はそれ以来何度も奇跡を起こし、地震を鎮めたという。
ピント修道士(地震の神キリスト会)「1950年にも大きな地震があった。
子供達は泣き叫び、多くの死者がでて、家々は瓦礫の山と化した。
その時地震の神は、大聖堂の扉のところに置かれていた。
人々は地震の神に向かって、揺れを止めてくれるよう祈り続けた。
神は願いを聞き届けてくれた。
地震はやんだ。
Cuscoの町は神に守られているのだ。」
1650年の奇跡を祝って毎年像が大聖堂の外に運び出される。
復活祭間近のその日、行列はSevilleの祭りと同じようにキリストの苦悩を再現している。
Cuscoの十字架像は、犠牲者であり、勝利者、スペインの圧制者ではなく、永遠の命を持つ地震の神。
祭の終わり、地震の神は人々に祝福を与え、大聖堂に帰ってゆく。
市民「祝福を受けると皆泣いてしまう。
私達はいつも健康で暮らせるように祈る。
それだけではなく、人類全てが幸せであるようにと地震の神のご加護をお祈りする。」
十字架のキリストはペルーの文化と接触することで、全く新しい意味を持つようになった。


共同体の信仰がキリスト像を変貌させたように、個人の信仰もまた、キリスト像に影響を与えた。
芸術家がキリストの受難という深遠なテーマに取り組んだ結果だ。
受難は現在に至るまで、ヨーロッパの巨匠達に普遍的かつ強烈な題材を提供し続けている。
1650年代、プロテスタント信者だったオランダの画家Rembrandt Harmensz.van Rijnが、自らの瞑想を銅版画に表した。
『3本の十字架 The Three Crosses』(Rembrandt Harmensz.van Rijn 1653年)
Rembrandtは銅版を5回掘り直し、その度ごとに構図を変えていった。
最初の段階ではRembrandtはルカ福音書の記述に忠実に、キリストの死の瞬間を描いている。
大地が揺れ、空が掻き曇り、絵の中央には光が降り注いでいる。
十字架に掛けられたキリスト、嘆き悲しむ人々、十字架の足元ではキリストが神だと気付いた百人隊長が馬から飛び降りて跪いている。
光の洪水はキリストの右側で磔になっている泥棒にも注いでいる。
だが光を見ることはできない。
目隠しされているのだ。
目隠しはキリストの救済を拒んでいる印し。
キリストの体は真直ぐに立っている。
顔には苦しみと恐れの後がかすかに残っている。
キリストを信じる者は、その死を嘆き悲しむ。
しかし頭上に降り注ぐ光、すなわち神の恩寵を目にした者は救われるだろう。


後にRembrandtは再び銅版を掘り直した。
『3本の十字架 The Three Crosses』(Rembrandt Harmensz.van Rijn 1660年)
その時構図だけではなく、絵が持つ意味も大きく変った。
初めの版に見られた救いの光はほとんど消え失せている。
場面全体が闇に包まれ、泥棒の姿もオボロ。
嘆き悲しむ人々にもはや神の光は差さない。
運命を静かに受け入れていたキリストは、苦痛に顔をゆがめ、息絶えるキリストに変っている。
キリストの死に改心した百人隊長の姿は跡形もなく消されてしまった。
左端には権力側と見られる異国風の騎兵が付け足されている。
もしかしたらイエスを死に追いやり、その責任を逃れたローマ軍総督ピラトかもしれない。
Rembrandt晩年の不遇が、『3本の十字架』を掘り直させたのだろうか?
その心をうかがい知ることはできないが、ここには絶望が漂っている。
最初のほうの版では、キリストの犠牲を照らす光がその光を信じる者を照らしている。
最後の版は暗く、人間の罪深さがキリストの苦しみを長引かせている。
ヨハネ福音書の声が聞こえてくる。“人々はその行いが悪いので、光よりも闇のほうを好んだ。”
初版にあったRembrandtの希望は、絶望によって塗りつぶされた。


その150年前、カトリックのローマで、“死せるキリスト”というテーマに初めて取り組んだ22歳のMichelangelo di Lodovico Buonarroti Simoniには何の迷いもなかった。
『ピエタ』(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 1498-99年)
十字架から降ろされたキリストの体を最後に抱くマリア。
『ピエタ』はサンピエトロ寺院の中にある礼拝堂の祭壇に据えられた。
祭壇の前で人々はキリストの肉体であるパンをいただき、さらに信仰を固くした。
『ピエタ』は人々の信仰を導く上で完璧な作品だった。
Michelangeloは苦しみと嘆きを、崇高な美、理想の愛、ゆるぎない信仰へと転換した。


それから半世紀の後、Michelangeloは再び“死せるキリスト”というテーマに取り組む。
齢70代、死と罪という考えに取り付かれたMichelangeloは、これを自分の墓碑とするつもりだった。
『ピエタ』(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 1555年頃)
サンピエトロ大聖堂にある『ピエタ』の静止した嘆きの瞬間とは対照的な動きのある埋葬の場面。
人物は増え、商店はマリアを外れて十字架から祭壇の上に降ろされたばかりのキリストの大きな体にあてられている。
背後の頭巾をかぶった男の顔は、Michelangeloその人。
しかしMichelangeloの伝記には、この人物はキリストの弟子ニコデモだとある。
ニコデモは遺体に塗る高価な没薬を差し出した。
ヨハネ福音書によると、かつてパリサイ人を恐れたニコデモは、夜を待ってイエスのもとを訪れた。
するとイエスはこの老人に、神の御子は世を裁くためではなく、救うために遣わされたと告げる。
疑いと恐れにさいなまれていたMichelangeloには、ニコデモのような老人でも生まれ変わり、救われるというイエスの言葉は力強い慰めとして響いたに違いない。
中世の言い伝えによると、ニコデモは彫刻家でもあり、キリストに生き写しの彫像を作ったという。
芸術家であり、埋葬のためにキリストの体を清める信者ニコデモの姿は、悩める信者であり、キリストの体を彫り上げることに命を費やしたMichelangelo自身と重なりあう。
夜ランプの明かりを頼りにMichelangeloは石と格闘し、今にも滑り落ちそうなキリストの体と、愛と悲しみで結ばれた人々の姿を掘り出していった。
荒削りな線、ぼやけた表情、救世主の恩寵を取り戻し、自らの信仰を宣言しようとする老いた彫刻家の焦りが感じとれる。
結局彫刻家は石に屈服した。
作品は未完のまま投げ出された。


しかしMichelangeloは“死せるキリスト”を諦めたわけではなく、最後の作品で再びこのテーマに取り組んだ。
数年前に掘った大理石をミラノで掘り直した。
『ピエタ』(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni 1564年頃)
しかしこれも完成することはなかった。
以前に掘ったキリストの右腕が、宙に浮いている。
1564年2月ある土曜日、89歳のMichelangeloが1日中立ったままでキリストを彫刻する姿が目撃されている。
5日後老人は亡くなった。
銅版の上に繰り返し線を刻み付けていったRembrandtのように、Michelangeloも大理石を掘り直した。
そのため石はほとんど削り落とされ、残ったのは瀕死のキリストと、その体を抱きしめるマリアだけ。
キリストの体はマリアの手から今にも滑り落ちそうだ。
その体はノミで削られ続け、痩せ細っている。
キリストの顔は崩れている。
わずかに残った石から、Michelangeloが刻み付けた死の表情がうかがわれる。
聖母マリアは悲しみの中にいる。
青年の頃の美やドラマへの関心は跡形も見られない。
ここにはキリストの受難や死や埋葬といったことの出来事を越えた普遍性がある。
このRodaniniのピエタは、死についての瞑想。
聖母は慈しみを込めて息子を墓に埋葬する。
自らの死が近いことを覚悟していたMichelangelは、最後の瞬間まで石の塊に閉じ込められた生命の息吹を解き放とうともがいた。
この崇高な石の塊は教えてくれる。
神の救済は共同体の中でも求められるだろう。
しかしその実現は神の愛を受け入れる1人1人の魂の業なのだ。
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神の肖像 キリスト教美術2000年の旅 2 幼な子
 『マタイによる福音書』“イエスの降誕に東方の博士達が駆けつけた。
博士達は母マリアと赤子にひれ伏し、黄金、乳香、没薬を献げた。”
毎年クリスマス、『マタイによる福音書』のキリスト誕生のくだりがケンブリッジ大学礼拝堂から放送される。
礼拝堂に生まれたばかりのイエスを崇める3人の王の姿がある。
『三賢者の礼拝 Adorazione dei magi』(Rubens 1634年)
天使が見下ろす馬小屋。
マリアとヨセフに抱かれた幼子キリストが、訪問者の礼拝を受けている。
これは単なる福音書の写しではない。
マタイは東方の博士達とだけ書いており、その人数には触れていない。
しかしRubensは世界各地から募った3人の王を描いた。
金色の衣装と毛皮に身を包んだ豪奢な姿。
マタイ伝の博士達が何故このように3人の王として描かれるようになったのだろうか?
私達は福音書の記述と絵画の間の隔たりには比較的慣れている。
神が人間の子として生まれたという神秘的な出来事は、この数世紀様々に描かれてきたからだ。
Rubensは天上の喜びと、地上の光である神と王を描いた。
いずれも現実とはかけ離れているが、Rubensのこの宗教画は現代のクリスマスに大影響を与えた。
第1にクリスマスプレゼントという習慣を定着させ、世界中の商人を大喜びさせた。
今やクリスマスは子供向けの甘ったるい御伽噺と化し、商業主義がそれをあおりたてるという有様。
クリスマスのカードの絵に至るや、この祝日の元々の意味を想像することさえ不可能。
キリストの誕生とは受肉、つまり神が人間になることを選んだ衝撃的事件なのだ。
神の受肉ということを突き詰めて考えると恐ろしい思いがする。
幼子は私達の罪をあがなって死ぬために生まれてきたからだ。


Rubensは救世主の誕生を祝う王達を尊敬を込めて扱った。
しかしその70年前Pieter Bruegelは、この場面をもっと悲劇的に描いた。
『三博士の礼拝The Adoration of the Kings』(Bruegel 1564年)
全人類を象徴する3人の王が幼いキリストに敬意を払うために集まっている。
しかし豪華で派手な衣装をつけた王達は、人間性の堕落を露呈するだけ。
王達の目は互いの贈り物を値踏みするように疑い深く光っている。
馬小屋を取り巻くのは3人の王達を案内してきた兵士達。
皆ことの重大さを理解していない。
Bruegelは兵士達を不吉な狂言マーシとして描いた。
貧しい善男善女の姿は見当たらない。
商人がヨセフにささやく。“王達の宝を譲ってくれないか?金ならたんまり払うよ。”
丸メガネの男は黒人の王の贈り物を狙っている。
オウム貝の殻、水晶の玉、黄金の船でできた乳香を焚く見事な香炉、宝物の輝きと権力への欲望に
幻惑され、旧約聖書のエゼキエル書にあるがごとく、皆“目はあれども見ず”という状態。
しかしロバだけは違う。
旧約聖書のイザヤ書にあるように、イスラエルが救世主を認めた時も、牛とロバは自分達の主人が誰かを知っている。
多くの画家が取り上げるのは、第1の贈り物の黄金。
しかしBruegelは年老いた王が奉げる最後の不吉な贈り物、遺体の埋葬に使う没薬を選んだ。
死の贈り物を見せられた幼子イエスは嫌がって母親の外套の下に足を隠し、その手にしがみついている。
後ろでは兵士達が押し合いへし合いしている。
いずれ彼らはヘロデ王のお触れに従って、ベツレヘム中の子供を皆殺しにするだろう。
幼子がむずかるのも無理からぬこと。
RubensとBruegelが描いたこの場面は、福音書ではわずかに触れられているだけ。
これは1500年の歳月を経て実を結んだ聖書の解釈であり、芸術的想像。


初期のキリスト教徒は、遺体をローマの城壁の外に埋葬した。
死者の数が増えるにつれ、地下墓地カタコンベの規模は広がり、遺体は壁に沿って積み重ねられていった。
Catacombs of Priscilla
カタコンベの中は今はガランドウ。
肉体の復活を信じていたかつてのキリスト教徒は、埋葬場所をNecropolis、Cemetery、眠りにつく場所と呼んだ。
最後の審判の時、死者も目覚め、地上に再臨したキリストに導かれて天の王国に入ると信じられていたので、カタコンベは希望の場所だった。


Capella Grecaのような室の壁は、神への信仰を表すつたないが大らかな絵で飾られている。
不死鳥が灰の中から蘇る神話の場面、死んだLazarusを生き返らせるイエス。
花々の絵は、復活した魂が天国のキリストと一体になることを祝っている。
東方の三博士もいるが、クリスマスや私達が知っているキリスト降誕の礼拝とは何の関係もなさそうだ。
それぞれ緑、赤、白の質素な服を身にまとった3人の人物。
この時代は3人が王であることを示すようなものは見当たらない。


カタコンベの絵から200年後、キリスト教はもはや少数派ではなかった。
東ローマ帝国の国家宗教となったのだ。
5世紀初頭、西ローマ帝国の首都はミラノからRavennaに移った。
ほどなくRavennaには壮大な宮殿や教会が建ち並んだ。
San Vitale教会をモザイク画で飾り、完成させたのは東ローマ帝国の皇帝Justinianus
モザイク画は莫大な費用を必要とする。
色石や金銀を溶かし混んだガラスが、壁や天井の生乾きの漆喰にはめ込まれ、まばゆい壁画を作り出している。


壮麗な歴代の支配者が重大な決断を下してきた。
祭壇の上方には、キリストの再臨が描かれている。
最後の審判の場面、その左下には大勢の護衛を従えたJustinianus気了僂ある。
皇帝と向き合うように皇后Theodoraの姿が見える。
皇帝も皇后もキリストの誕生に駆けつけて中世を誓った3博士のように、貢物を携えている。


3博士は・・・?
注目を浴びて皇帝達に嫉妬される心配のない片隅にいる。
皇后Theodoraのドレスの柄はカタコンベの絵にそっくり。
3人は裾にたくし込まれた見えない何かに向かって進んでいる。
しかししょっちゅう蹴られ、汚れるドレスの裾に、聖母マリアと幼子イエスの姿があるとは考えられない。


Ravennaにある別のモザイク画では、キリストが王者として扱われている。
ここでもカタコンベと同じように幼いキリストは母親に抱かれている。
しかし聖母マリアは宝石で飾り立てられた玉座に座っており、キリストの姿はさながらローマ皇帝のミニチュア版。


キリストが王として描かれるようになると、3博士とその贈り物は新たな意味を帯びてきた。
贈り物がイエスの資質と運命を物語るようになった。
第1の贈り物は王への正式な貢物、黄金。
墓が見えるようにハチに入れられている。
蓋をした2つの壷は、乳香と没薬に違いない。
乳香は寺院で焚かれ、神にのみ奉げられた尊い香。
遺体の埋葬に使う没薬は、幼子イエスが死ぬために生まれてきたことを予言している。
贈り物を奉げる人物h、しゃれた衣装に身を包み裕福そうで、王の前でも堂々としている。
ただの博士にしては身なりが派手すぎる彼らははたして何者なのだろうか?
研究者達はこの謎を解こうと聖書をくまなく調べた。
手掛かりは贈り物と旧約聖書の中にある“タルシシュや島々の王、シヴァの王達が貢物を奉げるように”という預言者の言葉。
『マタイによる福音書』の博士達と旧約聖書で貢物をする王達を結びつけるのに、さほど想像力はいらなかった。
やがて3博士は王に卓見するだけでなく、自身が王として描かれるようになる。
そのモデルは中世ヨーロッパの国王達だった。


ロンドン、St. James's Palace毎年1月6日、女王がここで幼子イエスに黄金と乳香と没薬を奉げる。
女王の贈り物は王室礼拝堂聖具室長David Baldwinによって準備される。
「イングランド銀行の金準備金の一部。
ヴィクトリア女王の治世から、25枚のソブリン金貨が永久貸与されている。
乳香は聖書に出てくる古代の地サラ(現在の紅海両岸に広がる地域)から取り寄せている。
没薬も同じ地方のもの。
3博士がイエス誕生の時に贈った没薬、またイエスの弟子ニコデモがイエスの埋葬に使った没薬と同じもの。」
以前は国王自身が贈り物を祭壇に供えていたが、現在は女王の代理人が行っている。
Willy Booth(王室礼拝堂、副主席司祭)「儀式は君主の謙遜の証。
馬小屋で贈り物を奉げるためには、腰をかがめ、跪かなくてなならない。
そのようにして王は君主政治性から謹んで王権を受け取る。」
イギリス王室がこの儀式を始めたのは15世紀のこと。


同じ頃イタリアでも3博士との特別な結びつきを賢伝した人々がいた。
Firenzeの銀行家、商人にして大資産家のメディチ家だ。
15世紀初頭Firenzeの実質上の支配者だったが宮殿を建て、城壁に一族の紋章を高々と掲げた。
CosimoはFirenze1の名匠に3人の王との結びつきを祝福する自分専用の礼拝堂を注文した。
黄金や貴重な品を携えて旅をした3人は、富める貿易商人であり、銀行家だったMedici家の守り神となった。
また自分の敬虔さを宣伝するとう目的もあった。


Benozzo Gozzoliの手による壁画は、最後まで丹念に描き込まれ、豪華な顔料をふんだんに使って聖書の世界をドラマティックに表現している。
礼拝堂の壁を取り囲む3人の行列は、聖母マリアと幼子イエスのもとへ私達を導く。
ロウソクと松明の薄明かりで見るために描かれた壁画を、今私達は電気の光で見ている。
東側の壁は夜明け、馬上の若き王は春の色、そして信仰の色である白い衣装をつけている。
3人の王は3つの世代、3つの季節、1日に移ろう3つの刻限、そして3つの徳を表している。
真昼を描いた南の壁の中年の王は、夏と希望を表す緑の衣装。
西の壁の夕暮れの中にいるのは、秋の果実と慈悲を象徴する赤い衣装の白髪の王。


3人の王は森羅万象を表しながら、もう1つの世界、Medici王国の中にいる。
青年王の馬を飾るのはMedici家の紋章。
ヨーロッパ中の国王に多額の資金を貸し付けていたMedici家の自身と自負がうかがわれる。
3人の王に付き従うのはMedici家の当主3世代、それに一族の者や友人達。
左側が家長のCosimo de' Medici、右側はその息子、通風の病のPiero、後に大Lorenzoと呼ばれ、偉大な支配者となる幼い孫息子Lorenzoとその弟Giulianoの姿も見える。
その後ろにはこの煌びやかな壁画を描いたGozzoli自身がいる。
赤い帽子には金文字の誇らしげなサインが見える。


この圧倒的な富を前にしては、王達が幼子イエスに真心、曇りなき良心の証として贈り物を奉げているという解釈は信じ難いものとなる。
この絵から読み取れるのは、富と権力の祝福に他ならない。
この絵は貿易で得た富を神聖視している。
中世の貿易はヨーロッパ世界のフロンティアを限りなく拡大していった。
貿易商人達は香料や香辛料や黄金を求めて新世界の果てへと出かけていった。
そんな彼らに感銘を与えるのは、3人の王の贈り物が持つ物質的な側面のみだったと言える。


13世紀マルコポーロはGozzoliが描く陸路を旅して極東にたどり着いた。
しかし後に続く探検家達はラバやラクダの小隊よりはるかに多い乗組員と武器と食料を積める船で世界に乗り出していった。
それは王達のようにヨーロッパの君主の祝福と聖母マリアのカゴを受けた船出だった。
探検家達のうち、南米にたどり着いた者は、望みどおり金と銀を発見した。
そしてアンデスにあった世界で最も進んだ文明を持つ帝国を永久に滅ぼした。
スペインからやってきた侵略者や宣教師達は、南米の文化を破壊し、あるいは無視し、その上に着々とキリスト教の砦を築いていった。
海抜3812mチチカカ湖の岸に、Juliの町がある。
聖なる山々に囲まれたこの町に、スペインの宣教師達が布教に利用した宗教画が多数残されている。
スペインの植民地行政官にとってここは地の果てで、お荷物で、帝国の厄介者だった。
しかしイエズス会の宣教師達にとっては多くの信者を獲得できる新天地に他ならなかった。
彼らは知恵を絞った。
どうしたら新世界の住人をキリスト教に改宗させられるだろうか。
そして3人の王の物語を利用した。
初期の宣教師達はヨーロッパで誰もが見慣れているキリスト降誕の絵を持ち込んだ。
Rubensの絵のように丸々とした幼子イエス、3つの大陸を表す3人の王。
アフリカの王だけが異国の王達から離れて立っている。


1650年頃、今度は全く違った降誕の絵がフランドル生まれのイエズス会士Diego de la Puente手で描かれた。
ここで初めて先住民の信者達が登場する。
Puenteは年代記作者Pomaの次のような記述をもとに、先住民の信仰を描いた。
ベツレヘムに生まれた幼子イエスは、神がこの世に創られた3つの種族の3人の王から礼拝を受けた。
インディオのMelchior、黒人のCaspar、スペイン人のBalthasarである。
キリストの容貌はヨーロッパ人だが、生後12日の赤ん坊には見えない。
聡明で隙がなく、1月の寒空に裸で堂々としている。
王達はキリストを神として、また王として扱っている。
バルタザルの贈り物、スペインの金貨が地面に置かれている。
黒人の王ガスパルは没薬を差し出している。
神への贈り物である乳香を携えてきたのはインディオの王。
この王はチチカカ湖からやって来たに違いない。
一行の後ろには、Juliの聖なる山々がそびえている。
皆今もJuliの町で見かけるAymara族特有の容貌。
王は髪飾りをつけ、前髪を切り下げている。
部族を偶像崇拝から、唯一信仰のキリスト教へ導くインディオの族長の姿。


Puenteと同じ頃、フランスの画家Bruno La tourが、ごく普通の赤ん坊としてキリストを描いた。
『生誕』(La tour 1640年代)
質素な服の女性が2人、静かに赤ん坊を見つめている。
イエスはごく普通の赤ん坊で、起き上がって歓迎のしぐさをすることなどできない。
死の眠りについているかのような青白い顔、経帷子(キョウカタビラ)のようなおくるみ、ここにいるのは無力な乳飲み子。
マリアは世の母親と同じように愛情と喜び、優しさと心配の入り混じった面持ちで息子を抱いている。
母親の愛なしではこの子は生き延びられないだろう。
私達は彼を崇めるのではなく、愛するように促される。
それ以前には見られなかった表現。
これは神のごとき王ではなく、人間の弱さを分かち合うことを選んだ神の誕生。


こうした絵は、1200年代初頭、Assisiの聖フランチェスコが行った説教に応えて描かれた。
フランチェスコは“神を愛せ”と説いた。
神は人間を愛するあまり、2つの屈辱に耐えることを選択したからだ。
馬小屋で生まれること、そして十字架の上で死ぬこと。


イタリア、Greccio村では、聖フランチェスコがクリスマスを一般に広めた1223年を記念して、毎年式典が行われる。
クリスマスイヴの晩、当時の扮装をした村人達が行列を作り、松明を掲げて聖なる岩屋に向かって歩いてゆく。
聖フランチェスコがキリストの誕生を再現した岩屋。
この降誕劇は、1223年以来続いている。
今ではたくさんの観光客が集まるので、劇は岩屋の上に設えた舞台で演じられる。
電気にはフランチェスコが地元貴族の協力を取り付け、キリストの降誕劇を執り行った様子が記述されている。
フランチェスコは言った。「私はベツレヘムの幼子の誕生を再現したいのだ。
そうすれば皆が自分の目で牛とロバに見守られた飼い葉桶の幼子とその受難を見られるだろう。」
フランチェスコが岩屋に来てみると、劇の準備が全て整っていたので、大いに喜んだ。
このようにして聖なる貧しさが称えられ、神の人間性が全ての人々の心に触れた。
この時からGreccio村は新たなベツレヘムとなった。
フランチェスコが飼い葉桶を置いた時から、この天然の岩屋は小さな礼拝堂となった。
フランチェスコの行いは、人々がクリスマスの物語を理解する上で大きな助けとなった。
降誕劇は神学上の概念に具体性を与えた。
クリスマスの飼い葉桶の中で、受肉は神が人間の赤ん坊としてこの世に生まれた奇跡として人々の心に焼き付けられた。


ロンドンのナショナルギャラリーにある2枚組みの絵は、フランチェスコの説教について描かれた初期のもの。
作者は不詳だが、1260年頃Greccio村の近くで描かれた。
元々は蝶番でつながれており、本のように開閉できる仕組みだった。
金箔や型押しの装飾は、歳月とともに剥がれ、最も偉大な人間が最も弱々しく見える2つの瞬間を強調している。
キリストは私達の愛を必要としている。
その誕生と死の時に。
子供の死を知っているがために、母の喜びは抑えられている。
愛と悲しみが同じ泉から湧き出し、私達はその両方を感じている。
この神学体系を理解するのに知性や富や権力は必要ない。
フランチェスコは幼子イエスに慎ましさを取り戻し、3人の王の影に隠されていた羊飼いを、礼拝の主役に据えた。
ルカは幼子イエスの誕生の晩に、羊飼い達が訪ねてきたと記している。


Rembrandt、あるオランダ人家族のために描かれた絵。
オランダでは母親が子供達に聖書を教えるという習慣があった。
子供向けに描かれた。
イエスが誕生したのは夜、最初のクリスマス。
オランダの農家にあるごく普通の家畜小屋では、牛とロバが静かにエサを反芻している。
マリアとヨセフは赤ん坊を拝みに来た旅人や地元の人々を迎え入れている。
妻や子、年老いた親を伴って来た羊飼い達、皆冬の寒空に衣服を山と着込んでいる。
おくるみを来た赤ん坊や暖かく心地よい干草の上に寝かされ、光り輝いている。
その光は羊飼いのランタンでさえ霞ませる。
ランタンはボンヤリした影を地面に落とし、老いた牧羊犬が吠え立てている。
素朴で暖かな絵。


Francescoの功績は、どんな階級の人でもキリスト降誕を祝えるようにしたこと。
事実クリスマスは世界中のほとんどの地域で祝われている。
ドイツ、Bambergでは、クリスマスには町中、新旧とりどりの馬小屋が飾り付けられる。
町には馬小屋作りの教室もある。
生徒は工夫して自分だけの降誕の場面を作る。


Bamberg1の馬小屋は、大聖堂にある18世紀と19世紀のもの。
降誕がBambergで起きたかと思わせる見事なもの。
ドイツの町でよく見かける石造の家に住むマリアの前に天使が現れる。
隣の建物では、Bambergの人々が集い、子供の誕生を称えている。
一番奥にはBamberg名物ホースラディッシュ売りがいる。
ここでは同時に起こらないはずの出来事が並べられている。
王達の馬をつないだ馬小屋の前では、小麦の脱穀が行われている。
その一方Bambergで今も行われているように果物や花が売られている。
季節ごとの風物詩をクリスマスの1日に凝縮した市場。
Francescoの教えは大衆の教育という点で素晴しい成果をあげた。
何世紀にも渡り、議論されてきた聖書の神学体系を、小さな子供でも理解できるような生き生きとした教義にした。


キリストの降誕と礼拝は深い暗示を含んでいる。
『神秘の降誕』(Botticelli 1500年)
舞台はダンテの新曲に触発された幻想的世界、地獄、煉獄、天国を巡る旅は、聖金曜日の暗い森に始まり、復活祭の日曜日に終わる。
旅の終わりには天使達の合唱を取り囲む永遠の光を見る。
太陽も星をも動かす愛の光。
Botticelliの天国では、天使達が神と人間の和解。
そして平和を象徴するオリーブの枝を持って大喜びで踊っている。
宙を舞う巻物には、聖母マリアへの祈りの言葉が記されている。
そこに吊るされた王冠は、魂の冠で、慈悲という黄金の糸で結ばれ、天使達に守られている。
Botticelliはルネッサンスの遠近画法の巨匠だったが、この絵では一番重要な人物を一番大きく描くという中世の画法に戻っている。
聖母マリアは立ち上がれば藁の屋根に頭がつかえるほど大きく、幼子イエスも巨大。
これは中世の成人の幻に現れたというキリスト誕生の瞬間。
赤ん坊は突然生まれた。
産みの苦しみが全くなかったマリアは、すぐに赤ん坊のおくるみを用意し、跪いて祈る。
絵の両端でも礼拝が行われている。
右手では短い上着の羊飼い達に早く祈れと天使達がせきたてている。
左端では別の天使が3人の男達を案内している。
キリスト誕生の12日後に馬小屋に到着した3博士。
しかしメディチ家の礼拝堂のような飾りたてた馬も、宝石のついた王冠も、華やかな装飾品も持っていない。
この頃のFirenzeは、メディチ家を追放し、厳格な理想を追い求める共和制となっていた。
ここにいつ王はたった1人、平和の王子キリストだけ。
羊飼いも博士の礼拝はキリストが弱さと強さを併せ持つ王であることを示している。
贈り物はない。
天使達が持つオリーブの枝に結ばれた巻物には、バプテスマのヨハネがキリストこそ待ち望んだ救世主と宣言した時の言葉が記されている。
“見よ世の罪を取り除く神の子羊だ。”
キリストが再び現れる最後の審判の時には、天使達が降りてきて人類を天上へと引き上げるだろう。
オリーブの枝を人間に手渡す枝には、『ルカによる福音書』のクリスマスメッセージがくくられている。
地には平和、御心にかなう人にあれ。
人間と天使はいよいよ固く抱擁し合う。
善男善女が天使よりも天高く昇っていくまで。
7つの滞在を象徴する悪魔達と、7つの頭を持った黙示録の邪悪な竜が、黄泉の国に追いやられる。
平和と愛の君臨の始まり。
しかし幸せな結末は容易にはやってこない。
ロバの背中に影を落とす十字架、シュロの日曜日を思い起こさせる受難は、キリストがロバの背に乗ってエルサレムに入場したその日に始まり、キリストの磔を持って終わりを告げる。
降誕の馬小屋は、キリストが埋葬されることになる岩屋を暗示している。
救世主は苦しみと死の暗黒をくぐらなければならない。
信者達を彼方に輝く新しい夜明けの光へと導くために。
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神の肖像 キリスト教美術2000年の旅 1 イエスの顔
1498年ミラノでLeonardo da Vinci『最後の晩餐』を完成させた。
私達にとってこれこそが『最後の晩餐』であり、これこそがイエス・キリスト。
しかし最近まで絵の真の姿は隠されていた。
数世紀の間に損傷が進み、後世の画家達が修復の度に手を加えたからだ。
私達が慣れ親しんだイエスは、加筆されたイエスの姿だった。
近年の修復作業で、da Vinciのオリジナルが現れるやいなや、大騒ぎとなった。
イエスの顔が違うのだ。
しかし私達は何故イエスの顔を知っていると考えるのだろうか?
何故人間はキリストの肖像、肉体を持った神の姿を描こうと情熱を燃やしてきたのだろうか?
その情熱はいかにして西洋美術の傑作を生み出したのだろうか?


ロンドン、National Gallery館長Neil MacGregor「イエス・キリストは、数世紀にわたり西洋美術の主要なテーマだった。
芸術家は絵画や彫刻の製作を通して、イエスの生涯の意味を問うた。
その結果優れた芸術家はより困難な探求へと導かれた。
人生とは一体何なのか?
da Vinci、Michelangelo、Rembrandtといった芸術家達は、普遍的な言葉で私達に語りかける。
信じる宗教は何であれ、人生で最も重要な事柄、喜びと苦しみ、挫折と希望について。


イエスの顔
私達はキリストの肖像を抵抗なく受け入れ、それどころかキリストの顔形を知っていると思い込んでいる。
しかしイエス自身は偶像崇拝を禁じるユダヤ教に生まれ、肖像画の類は一切残っていない。
聖書もイエスの姿形については何も伝えていない。
ところが誰もがイエスのイメージを持っている。
イエスの姿を知っていると思うからこそ、自分の中のイメージと違うイエスを見るとショックを受ける。
Trafalgar Square、Mark Wallimgerのキリスト像の序幕は、様々な反響を呼んだ。
面長に髭、といった伝統的イエス像ではなく、苦悩しているようには見えない。


初めてキリストが描かれたのは、1800年ほど前、古代ローマにできた初期キリスト教の地下墓地・カタコンベ(Catacombs)の中、人々は遺体が
キリストと共に復活することを信じていた。
ユダヤ教は神の偶像を作ることを禁じている。
ユダヤ教からの改宗者が多かった初期のキリスト教徒も、この戒めを固く守った。


カタコンベでもキリストは、文字だけで表現されている。
初期のキリスト教徒は、シンボルを使った。
Priscillaのカタコンベには、キリストの名を表すギリシャ語の頭の2文字が刻まれている。
Χ(chi カイ)とΡ(rho ロー)を組み合わせたモノグラム。
このΧΡがキリスト教徒のシンボルとなった。


カタコンベの奥深くには、キリストを表すさらに複雑なシンボルがある。
の絵、キリストの名を暗号文で表したもの。
魚はキリストの象徴。
ギリシャ語の魚を表すΙΧΘΥΣ(Ichthus
の5文字が5つの言葉の頭文字になっている。
Ἰησοῦς Χριστός, Θεοῦ Υἱός, Σωτήρ
Iēsous Khristos Theou Huios, Sōtēr
「Jesus Christ, God's son, savior.」(イエス・キリスト神の息子、救世主)


やがてユダヤ教以外からの改宗者が増えてくると、キリスト教は肖像画に対して寛容な態度をとるようになった。
200年頃には、絵を利用した布教活動が始まるようになった。
ぎこちない絵は、神の救済を説くために、旧約聖書から選ばれた逸話を描いている。
子羊を見つめるAbraham、今しも神に捧げようとした自分の息子の命を助ける瞬間。


3人の少年が燃え盛る炎から救い出される場面。


Jonahが巨大なクジラの腹の中から吐き出されている。



この中に、ごく初期のキリスト像を見ることができる。
しかし肖像ではなく、人間に対する愛の象徴としての姿。
『ヨハネによる福音書』で、イエスが自分をなぞらえた、良い羊飼い
古代ローマの農夫のような短い衣装に身を包んだ羊飼いは、私達が見慣れたキリストではないが、周りの状況から彼が救世主だということが分かる。


キリストが行った奇跡の1つ、Lazarusの復活を描いたもの。
白い装束をつけているのは墓の中から甦った死者Lazarus。
そして前に立ち、Lazarusを呼び寄せているのはキリストに違いない。


この時代キリストの姿はまだ曖昧に描かれていた。
初期のキリスト教徒にとって重要だったのは、キリストの姿形ではなく、彼が何をしたのか、そして何をするのかだった。
Lazarusを生き返らせ、私達を守ってくれる良い羊飼いで十分だった。
こうしてイエスの肖像画は、その死後数世紀の間描かれることはなかった。


紀元392年キリスト教はローマ帝国の国家宗教となった。
395年、ローマ帝国は東西に分裂。
東ローマ帝国
Constantinopolisに首都を定めた。
西ローマ帝国の皇帝は初めローマからミラノに移り、その後まもなくアドリア海沿岸のRavennaに移った。
西ローマ帝国の教会でも、カタコンベの素朴な絵と同じ題材、良い羊飼いが描かれている。
違うのはその豪華さ。
モザイクは費用のかかる手法。
色をつけたガラスや石のカケラを、光のあたる角度を計算しながら1つ1つ漆喰の壁に埋め込んでゆく。
さらに贅沢なことに、所々ガラスに金箔が裏打ちされている。


どの階級もキリストを自分達の集団に取り込もうとする傾向を持っていたので、この絵のようにキリストがまるでローマ帝国の貴族のような井出達をしているのも不思議なことではない。
羊飼いでありながら、羊を肩に背負って運ぶといった重労働を期待されていないのは明らか。
気品に満ちた金色の長い衣をまとい、エレガントなポーズで座り、優雅に足を組んでいる。
常夏のパラダイスで真っ白な羊達に囲まれてくつろぐ羊飼い。
一見現実味のない御伽噺のようだが、よく見ているうちに宗教的な意味が明らかになってくる。
羊飼いの杖は十字架、羊達は自分のために命を捧げようとする主を、愛をこめて見つめている。
良い羊飼いは自分の羊を知っており、羊も彼を知っている。
羊は彼に従う。
彼の声を知っているからである。
羊にイエスの声は分かっても、私達に彼の顔は分からない。
これも肖像ではなく、象徴としてのキリストだからだ。


5世紀末、Ravennaは東ゴート族の手に落ちる。
ゴート人はキリスト教の中でも異端とされるアリウス派の信者だった。
San Apollinare Nuovo教会のモザイク画に、東ゴート族の王Theodoricはアリウス派ならでわのキリスト像を残した。


このモザイク画は、Theodoricの宮殿とゴート人達を描いている。
しかし後に彼らの異端信仰を憎む者達の手で、王と廷臣達の肖像は剥ぎ取られてしまった。
今では手だけが残されている。
キリストの姿は、天井近くに辛うじて残っている。


カトリックの解釈では、キリストは生まれながらにして、父なる神と一体。
しかしここではイエスは神の子ではあっても神ではないというアリウス派の主張に従って、神の子イエスと人としてのイエスが別々に描かれている。
回廊の一方の壁には人間イエスが描かれ、反対側には神の子イエスが描かれている。
このモザイク画は成人したキリストの最古の肖像画として知られている。
神の子イエスは奇跡を行い教えを説く。
しかし人間イエスは裏切られ、裁かれ、死に至らしめられる。
神聖と人間性、2つの面がキッパリ分けられいる。
Lazarusの復活のような奇跡を行っているイエスは、紫の法衣をつけ、髭も剃って若々しく、まるで古代ローマの神殿に立つ彫刻のようだ。


北側の壁に並んだ絵は、神の子イエスの厳かな続き物語。
ヤギと羊を分けるイエス、どこかよそよそしく無感動な様子。


南側の壁に目を移すと、イエスの死へと至る重要な出来事が描かれている。
ここには人間イエスがいる。
イエスが初めて特定の出身地を持ち、特定の体験を経てきた個人として登場したのだ。
やつれて髭に覆われた顔、ここにいるのはパレスティナ生まれの苦悩する33歳の男性。
ローマ総督ピラトがイエスを民衆の手に引き渡す法定を下しても、抵抗のそぶりも見せない人間イエスは屈服したのだ。
このモザイク画は神の子であり、人であるイエスを描く難しさと、その最も単純な解決法を示している。
2つの資質には2つの顔というわけだ。


しかしイエスの生涯の中で、神聖と人間性を同時に表現しなければならない瞬間がある。
ヨハネから先例を受ける場面だ。
アリウス派の教義では、洗礼はキリストが神から神聖を授かる瞬間。
しかしカトリックの解釈は、キリストは父なる天の神と一体であり、洗礼はその公な宣言の場だというもの。
いずれにしても洗礼は1人の人間をどうやって人であり、神であるように描くのか、という芸術上の難問だった。
ゴート人は古代ローマの神々の彫像を手本にした。
左手には壷を腰にさげた古代の川の神が流れに腰を下ろし、奇妙なザリガニの冠をかぶっている。
中央にはキリストが裸で腰まで水に浸かって立っている。
どこから見ても人間で、生殖器まで見えている。
しかしただの人間ではない。
はつらつとして、異教の神のように超人的に見える。
神が白い鳩の姿を借りて地上に降りてくると、天上から声が聞こえる。
これは私の愛する息子、私の心にかなうものである。
キリストの神聖が誰の目にも明らかになった瞬間。


聖霊である鳩と神の声がどこから来たものであるかを知るためには、向きを変え、天国を見なければならない。
空の玉座に十字架が載っている。
地上のキリストは見えるが、天国にいる神は見えない。
アリウス派は紙の子キリストと神は同じではないと主張した。
私達は神の姿を見ることはできない。
しかし肉体をもって地上に生まれた神の息子を見ることはできる。
この時代の画家は、古代の異教徒が神を表した方法を模倣した。
このモザイク画は、紙を描いてはならぬというユダヤ教の伝統と、都市の至る所に神々の像があった古代の多神教徒との緊張をよく示している。


8世紀になると聖像を巡る争いが起こった。
726年ビザンティン帝国で皇帝レオンが神の像を禁じ、聖像破壊運動が巻き起こった。
帝国中の聖像に石灰が塗られ、破壊された。
ビザンティン帝国は、西ローマ帝国の聖像をも破壊しようと軍を派遣した。
モザイク画を打ち砕くために、艦隊が海を越えてRavennaに向かってきた。
異端信仰を壊滅させ、偶像崇拝や神の肖像、神の光を覆い隠す煌びやかなもの全てを破壊しようとした。
幸いにも船は上陸しなかった。
聖像破壊運動は、ローマではさしたる盛り上がりを見せなかった。
神の像も支配者の肖像も、長い間の習慣となっていた上、ローマ教皇がキリストの名において治めていた都市で、そのキリストの肖像が存在しないなどということは考えられなかった。
8世紀になるとようやくキリストの肖像画が現れる。
その肖像画にたどりつくためには、キリストが裁きを受けたときに上ったとされるScala Santa(聖なる階段)を上らなければならない。


像はSan Giovanni in Lateranoにある。
かつての教皇の礼拝堂、ローマで最も神聖な場所に納められている。
この絵はそれ以前には考えられなかったほどの圧倒的な名声を勝ち取った。
人々はこれこそイエス・キリストの本物の肖像であると信じ、ボロボロになるほど崇拝されてきた。
顔の部分は別の布に書き直したもの。


オリジナルは何世紀も信者に口づけされ、なでられるうち、擦り切れてしまった。
13世紀になると、体の部分は銀の箱で覆われた。
箱の下の方に小さな扉があり、足を洗う儀式の時だけ開かれる。
このキリストの肖像は、聖なる伝説を持っている。
聖母マリアと使徒達の要請によって、ルカが書き始め、天使達が完成させたという。
天使の登場はこの肖像に権威を与えた。
そのような奇跡が起こったとなれば、聖像を否定する人々も黙るしかない。
その上毎日顔を見ている天使が描いたのだから、人間であり神であるキリストの本物の肖像に間違いないという主張が成り立つ。


一方東ローマ帝国の教会は、キリストの肖像を発見していた。
作者はルカや天使以上の存在、キリスト自身。
この肖像は私達が知るキリスト像に一歩近付いている。
東ローマ帝国のキリストの肖像は全て聖骸布と呼ばれる1枚の奇跡の肖像画に由来している。
伝説によれば、ハンセン病を患ったシリアの王アブガルスがキリストの肖像画を請いた。
するとキリストは布を自らの顔にあて、肖像を写し取った。
この肖像画は王の病を癒し、シリアを敵の攻撃から守った。
聖骸布Constantinopolisに持ち帰られ、東ローマ帝国の至宝となった。
この聖骸布の写しは、瞬く間にキリスト教国中に広まった。
最も近年の作と思われるこの写しは、現在ロンドンにあり、女王が所有している。

10th century painting of King Abgar of Edessa receiving
the Mandylion accompanied by a letter from Jesus.


16世紀イワン雷帝は聖骸布を軍旗に用いた。
第一次世界大戦では、ロシア軍はこれを携え戦闘に臨んだ。
聖骸布はロシアの神話となった。


ローマ教会もキリスト自身による本物の肖像画を手に入れたいと熱望した。
奇跡のなせる業だろうか、1200年頃サンピエトロ大聖堂で肖像画が発見された。
キリスト受難の時、その額をぬぐったとされる布に、顔が浮かび上がっていた。
布は重要な遺品としてサンピエトロ大聖堂のドームを支える4本の柱の1本の下に奉納された。
その柱には磔にならんとするキリストにヴェールを差し出し額をぬぐったとされる聖Veronicaの巨大な彫像が祀られている。(モッチ 1629~40)
意気揚々とローマ版の聖骸布を掲げる聖ヴェロニカ。
Veronicaと名づけられた聖なるヴェールへの信仰は、西ヨーロッパ中を席巻した。


彫像の下の階段を下りてゆくと、ヴェールを安置した礼拝堂に出る。
1216年教皇Innocentius靴蓮Veronicaの前での祈りは免罪を与えられ、煉獄での苦しみを10日間減じると布告した。
本物とされるキリストの肖像が数多い中、何故この1枚が西洋美術にとって最も重要なのだろうか?
それは教皇が始めて免罪を認めた肖像だったから。
以後ローマ教会にVeronicaの聖骸布は欠かせないものとなった。
15世紀末、奇跡の肖像という宣伝と共に、聖骸布の写しがヨーロッパ中に広まった。
そして誰もがイエスの姿を知るようになった。
キリスト教徒の家々には、Veronicaの小さな複製画が飾られるようになった。

Veronica's Veil

かつてのVeronicaと同様、現在崇拝されている肖像がトリノ(Turin)の聖骸骨布。
トリノの聖骸布もまた、キリストの遺体に接してできたとされる奇跡の肖像。
その布や肖像の状態がどうであれ、熱狂的信仰を集めてきたことは事実。
カトリック教会は、これが本物の肖像であるという立場はとっていないが、一般公開には何100万人という人々がつめかけ、Veronica崇拝に匹敵する熱烈な祈りを捧げた。
トリノに詣でた巡礼者達の反応が、神の姿を見たいという人々の願いがいかに強いかを物語っている。
この本物の肖像により、誰もが神の姿を知るようになった。
da Vinciがこの肖像を『最後の晩餐』に使ったとしても不思議ではない。
イエスは弟子達に“お前達の1人が私を裏切るだろう。”と告げる。
すると弟子達は口々に言った。
“主よ、それは私ですか?”
12人の弟子達の反応は様々、キリストの右側で後ずさりしているのがユダ。
ユダはパンに手を伸ばしている。
裏切りへの報酬だ。
キリストの左手は運命を受け入れようと開かれている。
天の父の御心はなされ、キリストは郊外の丘で磔になるだろう。
ユダは銀貨30枚で友を売るだろう。
そしてキリストは皆のために犠牲となるだろう。
絵の題材は史実に基づいた瞬間。
しかし同時に裏切りと許しという人間の普遍的な行為を描いている。
da Vinciの『最後の晩餐』は、複製を通して世界中に広まった。
しかしその時すでにキリストの顔は聖骸布のキリスト像に近いものとなっていた。
なので近年の修復作業でda Vinciが描いたキリスト像が明らかになると、人々の間に動揺が走った。
修復以前のキリスト像が、私達のイメージ通りだったことがこの絵の印象を非常に強いものとしたのだろう。
この絵を見た後は、食事の度に自らに問いかけざるを得ない。
かつてこの部屋で食事をした修道士や、今ここに来る観光客も、同じ問いかけをするだろう。
イエスを裏切るのは私なのか?
なぜなら見慣れた隣人であり、愛する友としてのキリストの顔が、そこにあったからだ。
絵は人を感動させもし、欺きもするようだ。


『最後の晩餐』完成直後、宗教改革が起こり、新たな聖像破壊運動が繰り広げられた。
その結果北ヨーロッパのキリスト像は破壊しつくされた。
18世紀ロンドンに建てられたSt Mary Woolnoth Churchには初めから肖像画がなかった。
建築自体は完全にイタリア様式。
しかしその中央にある祭壇は一切のカトリック美術を拒否している。
ローマ様式の祭壇に、キリストの肖像ではなく、神の言葉が刻まれている。
宗教改革は神の肖像を否定した。
この教会では神を表すために、ローマのカタコンベのように言葉だけを用いている。


しかしイギリス国教会の一部の神学者達は、宗教的な熱情を取り戻そうと努め、1840年代には宗教美術を復活させることに成功した。
St Mary Woolnoth Churchのすぐ近くにあるSt Paul's Cathedralには、William Holman-Huntの『世界の光』がある。
1850年代から何枚かの習作を経て、1904年に完成した。
この絵は今尚プロテスタントの信者にイエスの本当の姿だと信じられている。
この絵は肖像画と伝統的なシンボルを巧みに組み合わせた傑作でもある。
題材は『ヨハネによる福音書』の中の、私は世の光であるというキリストの言葉。
Huntは汝の言葉は足元を照らすランプ、道を照らす明かりであるという。
旧約聖書の記述に想を得てキリストにランタンを持たせた。
この絵は黙示録からも着想を得ている。
“見よ私は戸口に立ち、戸をたたく。
私の声を聞き、扉を開けるものを私は訪れ、杯を酌み交わす。
彼は私と共にある。”
Huntは細部を写実的に描きながら、象徴性を持たせた。
コウモリは闇を愛する罪人を案じている。
錆びた扉は生命の衰えを象徴している。
うち捨てられた果樹園にはびこる雑草は、この世の愛の不毛。
Huntの写実的な描写が寓話の魅力を増し、多くの人を魅了した。


1905年この絵の複製が、カナダ、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドに輸出された。
キリストの光で大英帝国の植民地を照らすためだ。
その結果、実に700万人がこの絵を見た。
同じようにスペインの侵略者も南米の植民地にキリストを持ち込んだ。
Peru、Cuszco、フランシスコ修道院に『最後の晩餐』がある。
食卓には聖人の祝日に土地の人々が食べる特別のご馳走が並んでいる。
サルのまる約、アボガド、チリペッパー、土地のパン・・・
ペルーの修道士の多くはインディオの血をひいていたが、キリストの風貌はヨーロッパ人のまま。
白人の優越性を示すというより、当時キリストの姿は議論の余地のないものだったからだろう。


キリストの肖像は、政治目的にも利用された。
1960年代には、革命家Che Guevaraが人民を解放するために死んだ現代のキリストとして祭り上げられた。
イギリスの福音主義者は、逆にキリストをGuevaraとなぞらえた。
キリストもGuevaraと同じく革命の指導者だったというのだ。
ここにおいて肖像を巡る輪は、振り出しに戻った。
キリストからGuevara、そしてGuevaraのようなキリストへ。
神聖、人間性、宗教、政治、そして商業主義が1つに溶け合った。


スペインのSevilleのようなカトリック都市では、今でもキリスト像が店のウィンドウに飾られ、売られている。
Sevilleで1−2を争う聖像製作者に今日の問題点を聞いた。
「昔の肖像製作との大きな違いは、現代に生きている私達には歴史上の情報がまるでないということ。
なにしろ私達が参考にできるものといったらトリノの聖骸布しかない。」
神聖と人間性はどう表現しているのだろう?
「それは我々芸術家にとって大きな挑戦。
聖像の製作者は、神の肉体を描かなくてはならない。
なぜなら人は自分と同じ肉体を持ち、しかも自分よりはるかに優れた存在に向かって祈りたいと願うものだから。
しかしイエスに似たモデルを使ってそれで良しとするわけにはいかない。
イエスは人間としての弱さを見せる瞬間でさえ神聖を保たなくてはならないからだ。
聖週間の行列で、自分が作ったキリスト像を見たのだが、像は命を吹き込まれ、まるで生きているようだった。」
Sevillaの聖週間におけるイエス像は、2000年に及ぶ宗教と芸術を巡る旅の1つの頂点。
人々は一同に集い、神への礼拝を行う。
礼拝の対象は、人間である神であるキリスト像。


ロンドン、Wallimgerのキリスト像は、伝統的な肖像を拒否し、もっぱらキリストの人間性を強調している。
ヨーロッパ人男性の体を鋳型にした像は、人間キリスト以外の何者でもない。
この作品はキリストの姿がどうあるべきか、現代社会でキリストはどんな意味を持ち得るのか議論するキッカケとなった。
他民族、他宗教の社会で、キリストの肖像はなお私達に何かを語り得るのだろうか?
『キリストの洗礼』(Piero della Francesca 1450年代)、画家はここに1つの世界を構築した。
明確に秩序立てられた世界の中で、キリストが私達1人1人に語りかけてくる。
この絵が信仰だけでなく、体験を描いているからだ。
半裸の男性が人々に囲まれて立っている。
世界の中心に立ち尽くす傷つきやすい1人の人間。
間もなく白い鳩が羽ばたくだろう。
頭上には洗礼の水が注がれるだろう。
彼は手を広げて1歩を踏み出すだろう。
川は再び流れ出し、雲も動き出すだろう。
しかしこの瞬間に全ては沈黙し、静止している。
イエスの目を覗き込み、その心の奥深くを見つめると、人はそこに自分自身の望みを発見するだろう。
未来は目の前だ。
自分が変ろうとするこうした瞬間を、誰もが経験したことがあるはず。
Piero della Francescaはキリストの肖像を描いたが、見るものにとってこの絵は、誰もが体験するあの真実の瞬間を語っているのだ。



The Mandylion kept in the Vatican. 3rd-5th Century, tempera on
linen attached to wood, silver, gold, and precious stones.
Considered the oldest image of Christ.



The Mandylion of Edessa from the private chapel of the pope
in the Vatican. Photograph taken in the pavillion of the Holy See during the
EXPO 2000 in Hannover/ Germany.
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