ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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暮らしに役立つ家電の学校★リモコン

リモコンとは、「リモートコントロール」の略、つまり遠隔操作という意味。
テレビのリモコンは何m届く?
答えは5m〜7m、取扱い説明書にも書いてある。
現在の一般的なリモコンの届く範囲は7mが限度。
リモコンが登場したのは1950年のアメリカ、ゼニスエレクトロニクス社が発売したテレビについたものが最初。(「LAZY BONES」)

しかしリモコン誕生当初は有線だった。
消費者から使いづらいという苦情が・・・
コードをなくそうと悩んだ技術者が目をつけたのが電波、戦争中は通信にも使われていた技術。
しかし電波はテレビやラジオ放送と混戦したり、壁を簡単に通り抜けるため、隣の家のチャンネルまでも変わってしまう可能性があり、開発は見送られることに。
線がなく、それでいて壁は通り抜けないものはないか、研究を重ね、ゼニス社が次に開発したのが、1955年に発売したフラッシュマティックというテレビ。

その仕組みは、リモコンに光を利用したもので、懐中電灯に似たユニットをテレビに直接向け操作するというものだった。

開発したのは技術者のユージン・ポーリー、彼こそがワイヤレスリモコンの生みの親。
これは電源のオン・オフ、ボリュームの大小、そしてチャンネルが選べた。
だが太陽の光により誤動作が起こったり、リモコンの光で画面が見えにくいといった欠点が・・・

そこで光方式のリモコンに変わるものとしてメーカーが次に注目したのが音。
しかし操作の度に音がしていたのではうるさく耳障り。
実験を繰り返した結果考えたのが超音波方式だった。
つまり音の中でも人間が聞き取れない高温をリモコンに使おうとした。
とはいえ人によっては聞こえてしまうものもあり、改良すべき点は多かった。

そしてさらに大きな難題が・・・
それはリモコンに電池を使ってはいけないということ。
いったいどういうことなのか・・・
当時のテレビメーカーはこう考えた。
「正常に動いているか外観からは判断できないので、電池が切れたときに苦情を言ってくる人がいるのでは・・」
今では考えられない心配だ。
その後改良を重ね、ピアノの音が鳴る仕組みを利用し、超音波を鳴らす仕組みを開発。
1956年、超音波リモコン「スペース・コマンド」を発売。
もちろん電池はいらない。

超音波式のリモコンは、アメリカ全土に瞬く間に普及、テレビの前で1日中過ごす人が増え、「カウチポテト」という言葉が生まれた。
アメリカから遅れること4年、日本では1960年に有線のリモコンがようやく登場。
だがアメリカと比べ、狭い住宅事情のせいか、リモコンはなかなか普及せず、ガチャガチャと回すのが主流。

経済的に急成長する日本も、リモコンに関しては後進国だった。
いまだに「チャンネルを回す」という言い方が残っているのも、その名残かもしれない。

1971年、ついにサンヨーからリモコン式カラーテレビ、ズバコンが登場。
10m離れた位置から、電源・チャンネル・ボリュームの操作が可能。
未来的フォルムで好評を博した。
ちなみにズバコンとは、ズバリコントロールという意味だとか・・・
さらに改良を重ね、サンヨーは新ズバコンを発明。
広告にはキャンディーズが起用された。

ところが、硬貨や鍵をチャラチャラさせる音などでもリモコンが勝手に動くなどという重大な欠陥が・・・
その誤動作で切ったはずのテレビが留守中に勝手につき、加熱で火事になりかけたという苦情があった。
これは国会でも取り上げられるほどの問題になった。
そして日本列島改造論にわく1972年、その問題を解決する画期的な商品が登場。
松下電器による世界初の赤外線式のリモコンテレビ・マジコンが発売される。
これにより光や音による誤動作の原因を払拭。
リモコン後進国だった日本が、世界に先駆けて発売した赤外線方式のリモコン、現在これが世界のリモコンの主流になっている。
その後リモコンは、エアコンやビデオデッキ、ラジカセなど様々な家電製品についてゆく。
中にはこんなものも・・・

1988年、ソニーから発売されたリモコンと電話を合わせた、留守コン電話。
外出先から電話をかけて家電製品をコントロールするというものだった。
今では音声機能がついたものも登場し、誰でも簡単に使えるようになった。
リモコンを分解・・・

リモコンの赤外線を見る・・・
用意するのはデジタルカメラ、中に入っている撮像素子は、我々が見えない領域である赤外線や紫外線の領域を見ることができる。
赤外線とは?
人間の目で見ることはできない。
太陽の光は赤や黄色など様々な色の成分が集まって成り立っている。

可視光線の範囲以外は人間の目には見えない。
赤外線の1種、遠赤外線はものを暖める性質があり、加熱器具に利用されている。
太陽の光を浴びると暖かくなるのもこの光が原因。
そしてその逆にあるのが紫外線、シミやソバカスの原因。
日焼け止めクリームに書いてあるUV=ultraviolet rays(紫外線)の頭文字。
赤外線はまっすぐ進む性質を持っている。
リモコンを家電製品に向けないと動かないのもこのため。
最近のテレビやレコーダーのリモコンはLEDが2つのものが多い。
これは文字盤を見て操作できるようにというメーカーの工夫。
目には見えない赤外線の光もデジカメを通すとみることができる。

リモコンはどんな情報を送っているのか?
・開始の情報
・メーカーや機器を区別する情報
・実際に命令する情報
どうやって送っているのか?
光の点滅で行っている。
長い点滅と短い点滅を組み合わせて何種類もの命令を送ることができる。
まるで長音と単音の組み合わせにより交信を行うモールス信号のよう。

しかし、点滅しているようには見えない。
あまりにも早い点滅のため、人間の目には認識できない。

リモコンの音を聞いてみよう。
用意するのは太陽電池パネルとラジカセ。
太陽電池のパネルにリモコンの赤外線の信号をあて、それを電気の信号としてラジオにいれ、ラジオから音として出力させる。
聞き比べてみるとリモコンごとに音は様々。
音の違いは信号の違い。
それぞれ信号が違うため、混線せずにリモコンを使うことができる。

人々はどんなリモコンを求めているのか?
一番多い意見は「リモコンを1つにまとめたい。」
そんなリモコンがすでにある。
大阪府大東市にある朝日電器が開発したのは、テレビ、HDDレコーダー、チューナー、エアコンといった1つで4台の家電を操作できるといった万能リモコン。
その開発のきっかけは?
リビングのテーブルの上にリモコンはたくさん散らばっている状況を解決しようと1台にまとめた。
どのような仕組みか?
通常のリモコンはメーカーごとに組み込まれているメーカーのコードが1個組み込まれている。
各社の信号を解析し、ICの部分にすべて入れている。
解析とはどんなことをしているのか?
波形を解析してその信号を解析するソフトを使う。
波形は、ONとOFFを繰り返すような信号の組み合わせにより0と1二進数を表すことができる。
0と1の組み合わせによって、このコードはたとえば1のボタンですよといったことが波形に表されている。
たとえばA社の場合、1チャンネルと2チャンネルの波形はわずかに違う。

2進数で表すと・・・

この微妙な違いで命令を変えている。
違うメーカーで同じボタンを押してみると、信号が全然違う。
桁数が増え、信号の長さが変わっている。
だからメーカーが異なるとリモコンは反応しない。

万能リモコンを作るには、メーカー、製品、機種ごとにボタン1つずつすべて読み取らなければならない。
各社テレビもエアコンも独自の技術をどんどん付加価値としてつけるようになっているので、毎年モデルごとでボタン数が増えると、解析に苦労する。
家にある家電すべてのリモコンを1つのリモコンにまとめることはできる?
まとめることはできるが、ボタンがさらに増えて大きくなったり使いにくくなったりすることもありうる。
まとめる技術はあるが、どういう風に形にするのかが1番の課題。
実際に1つにまとめたリモコンは考え出されたが、使いやすさ、コストなどを考えて、製品化はされなかった。
しかし技術が進めば、1つにまとまるリモコンも登場するかもしれない。

万能リモコンが出す信号を目で確かめてみよう。
使う道具は信号の形を波形にして表す装置オシロスコープ。
同じリモコンでもメーカーごとに信号の形は違う。

私たちの生活を格段に便利にしたリモコン、しかし今のリモコンをさらに便利にする未来のリモコンを開発する会社があるという。
神奈川県藤沢市、慶応大学のキャンパス内にある大学が支援するベンチャー企業。
未来のリモコンとは?
ボタンを押すと、押されたことが無線で送信される。
パッと見は普通のリモコンを変わらない。
しかし乾電池が入っていない電池レスリモコン。

その仕組みは?
中に圧電素子が入っている。
明日力を加えると発電する性質を持っている。(圧電効果)
この会社は、音力発電という振動を電気に変える研究・開発をしている。
人の歩く振動を電気に変える発電床、振動を電池に置き換える振力電池・・・
中にはこんなものも・・・
声を電気に変換する音声発電機。

こうしたものはすでにいろいろなところで実用化されていて、東京都の五色桜大橋では、車が通る振動を電気に変えライトアップしている。
この仕組みを利用し、指の振動を電気に変換し、電池レスリモコンが実現できた。
技術的には商品化できるくらい確立しているが、今は商品化してくれる先を募集中。

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The Link 偉大な発明の意外な起源☆From WaterWheels to Mega Jets水車からボーイング777へ
最大離陸重量352トンの旅客機は、ワシントン州エバレットにある世界最大級の工場で作られている。
300万個以上の部品が完璧な調和を奏でる。
ボーイング777、歴史上最大級に複雑な航空機。
この工場では年間100機を製造している。
どうすればこんな巨大なものが、そんなに早く造れるのだろうか。
その答えはちょっとした工夫にある。
そのちょっとした工夫が数多くの電子機器や乗り物、家電製品を生み、私達の世界に革命をもたらした。
身の回りのあらゆるものの起源を知ろうとするのは究極のパズルをとくようなもの、どんな発明の裏にも隠れた物語はある。
卓越した頭脳、偉大な文明、画期的な発見・・・
全てがリンクして今日に世界を作っている。

ボーイング777、物語の始まりは水、世界最大級の滝の1つナイアガラの滝、毎秒およそ300万リットルもの水がここを流れ落ちている。
水の勢いがあまりにすごいため、岩の表面が年におよそ2〜3cm削り取られる。
このパワーこそが物語の大きなカギ、これのおかげで人間の筋肉を使わなくてよくなったのだ。
昔の生活はとても大変、ただパンを作るだけでも大仕事だった。
なくてはならない材料小麦粉も、自分の手でひかねばならない。
この問題の解決策は意外な場所から生まれた。
中世の修道院だ。
シトー会の大修道院長ベルナールは熱心に神に仕える人物で、その邪魔となる世俗的な楽しみをいっさい避ける生活を送っていた。
彼の体は休むことを拒絶し、舌は味わうことを忘れる。
そして彼は修道士たちにも世間と孤立して生きることを求めた。
孤立した生活を送るためには自分達で何もかもしなければならない。
そこで修道士たちは古代ギリシャのテクノロジーを利用することを思いつく。
彼らが目を付けたのは水の力、水車。

水車が回るとその力が複数の車を伝わって大きな石臼を動かし、いとも簡単に小麦をひけるのだ。
水車1基で100人の修道士が日々の労働から解放され、その分神に仕える時間を増やすことができた。

この技術はヨーロッパ全土に進出していたシトー会修道士の間で急速に広がった。
小麦粉の生産量はみるみるうちに増え、余るほどになる。
そのおかげで唸るほどお金が入るようになり、教会はとても裕福になった。
それを何に使ったのか?
荘厳なゴシック大聖堂だ。
イングランドのソールズベリー大聖堂、1220年に着工し、300人の職人が38年をかけて完成させた。

その美しい尖塔は123mあり、イギリスでも1番の高さ。
98000トンもの石が壁に使われ、1800屬△覯虻全体が鉛で覆われている。
その結果数あるゴシック建築の中でも最上級の傑作となる。
12〜14世紀にかけ、ヨーロッパ全土でこのような大聖堂や教会が何100も造られた。
空高くそびえ立つ大聖堂は、中世世界における奇跡だった。
これほど巨大な建築物はピラミッド以来、大聖堂はまさに楽園の象徴で、高ければ高いほど人々を神に近づけてくれた。
高さが増したことで、大聖堂や教会の中に太陽の光が差し込むようになった。
その結果教会に行く人が増えた。
というのも当時ほとんども家には窓がなかったため、家の中はとんでもなく暗かった。
だからきっと光と色にあふれたこの空間がとてつもなく荘厳に映ったのだろう。

この大きな建物が与えた影響はもう1つある。
人々の時間に対する考えを完全に変えてしまったのだ。
800年前、祈祷や礼拝はクリスチャンの生活の基本だった。
当時は1日7回の礼拝をしなければならず、なかなか時間のかかるものだった。
そしてその礼拝の時間を知らせていたのが鐘、何世紀にもわたり祈りの時間を伝えている。
中世の鐘つき役は、鐘つきの技術の他に正確な時間を知ることが必要だった。
800年前においてそれは結構難しいことだった。
時間を知るために修道士たちはあらゆる種類の道具を使った。
まずは正確さが実証されている日時計、しかし雲がかかると役に立たない。

続いて水時計、こちらは冬になると凍るという欠点があった。
そして最後は蝋燭時計、これにはもちろん火事を引き起こすという悪い癖がある。
求められたのは自動で鐘を鳴らす方法だった。
脱進機と呼ばれる装置、技術史における最大級の発明で、これが大きなカギとなる。
その仕組みは?
鐘つき装置の模型、動力源の錘を吊り下げる糸はシャフトに巻かれている。
錘が落下するとシャフトが回る。
そして鐘が鳴る。

必要だったのは規則的に落下させる方法、それができれば鐘を一定の間隔で鳴らせる。
ここで脱進機の登場、上下にある爪が歯車の歯に交互にあたって錘の落下をコントロールすることでシャフトが規則的にカチカチと回る。
そこで脱進機をこのような装置につなげると・・

一定の間隔で自動的に鐘を鳴らす装置の誕生。
間もなく自動鐘つき装置はまったく別のものに姿を変える。
同じ仕組みを使い、文字盤と2本の針をつけて誕生したのが時計。
クロックという言葉はドイツ語で鐘を意味する言葉グロッケが語源。
この時計が鳴らすビッグベンの鐘は150年間にわたってロンドン市民に時を告げている。
時は私達の生活を支配している。
フライト時刻やテレビ番組の放送スケジュールといった目に見えるものだけでなく、時計はデジタル世界の中心にある。
例えば電波時計は証券取引所や携帯電話の時刻を同期させ、GPS衛星の時計はカーナビに私達の現在地を伝える。

しかし14世紀の人々にとって時間というのは衝撃的な概念だった。
彼らは暑さや寒さ、暗さや明るさといった自然のリズムに従って生活していたのだから・・・
機械時計が教会から町の中心部に広がると、時間は人々の生活の基本となり、社会全体に恩恵をもたらすようになる。
600年前のヨーロッパにおいて、羊は大事な商品だった。
食用だけでなく、羊毛用としても人気があった。
向かしながらの毛刈りの技術、羊をおとなしくさせるコツは?
牧場主「正しく扱うことさ、くつろがせてあげないとね。」
1枚につながっている・・・

14世紀のヨーロッパにおいて、羊毛はビッグビジネスで、中世経済の主力だった。
実際羊毛の需要は非常に大きく、大地主から貧しい農民まで、誰もが羊を育てていた。

まず羊毛を洗って染める、そして糸をつむいで生地を織る。
問題は生産量が一定しないことだった。

求められていたのは労働力を最大限に生かす方法。
時計の登場で工場に新たな概念が生まれた。
勤務時間だ。
季節や天気を問わず、工場長達は従業員を1日中しっかりと働かせることができるようになった。
その結果あらゆる産業において生産性が一気に跳ね上がった。
ベネツィアの町は118の小さな島々からなり、それが運河で結ばれている。
現在は観光の町だが、600年前は貿易が盛んな町だった。
勤務時間が定められると、工場の効率があがり生産量が増加した。
間もなく商売は地元の市場だけでなく、世界へ広がるようになる。
この交際貿易ブームの中心にいたのがベネツィアだった。
ベネツィアは東西貿易の中継基地となった。
しかしこの貿易ブームに対応するため、昔ながらの技術が大改革を迫られることになる。
それまで船はホゾ継という方法で木の板をつなげて作られていた。
ここで問題だったのが荒波に耐えられるよう、非常に厚い板が使われていたため、重いのはもちろん作るのに莫大な費用がかかったこと。

そこでベネツィアの造船所では木の骨組みを使う方法が考え出された。
これにはたくさんの利点がある。
使う材料が少ないため、安くて軽い上に速く作れる。
その結果ベネツィアはヨーロッパ1の造船都市となる。
15世紀には16000人を超える船大工がこのような新しい船を次々と作っていた。
そして間もなく3300隻ものベネツィアの船が様々な商品を載せて世界を行き来するようになる。
あふれるばかりの荷物を載せて、世界の海を縦横無尽に行き来するたくさんのベネツィア商船、誰もがそれにあやかりたいと思いはじめる。
ベネツィア以外の都市も国際貿易に力をいれるようになり、アムステルダムやジュネーブの港から出る商船の数も着々と増えていった。

あっという間に世界の海はあらゆる種類の船であふれかえった。
しかし船が増えればこんなものも増える。
国土全体が海に囲まれた国イギリス、たくさんの船が難破した。
難破した場所の大半は海の沖合ではなく、海岸の近く、港まで数kmという場所も少なくない。
でもこれらの船を襲ったのは荒波でも海の怪物でもない。
岩だ。

エディストーン、エディというのは渦巻きのこと。
この岩は凄まじい渦潮を生む。
エディストーンに下りられる時間は限られている。
それは引き潮の時しか下りることができないから。
数時間たって潮が満ちてくると岩は水の下に隠れてしまい、船から見えなくなってしまう。
この岩から船乗りたちを守るため、1698年に最初の灯台が建てられた。
灯台自体は新しいものでもなんでもない。
しかし沖合の岩の上に建てるとなると話は違う。
自力で泳いで岩に登っていると、岩の面積が狭いというだけでなく、方面には30度の傾斜がある。
1日の大半は波にうたれている。
この岩に灯台を建てるという最初の試みは大失敗に終わったのも不思議ではない。

1755年、2代目のエディストーン灯台は建設からおよそ50年にわたって船の安全を守っていた。
しかしある冬の夜、この木造の灯台で火事が起き、瞬く間に全焼した。
その熱で屋根の鉛が溶けおち、下にいた人たちの顔にあたったという。
当然のことながら次の灯台は木ではなく、石で作らねばならない。
その任務を任されたのがイギリスの土木技師ジョン・スミートン、時の流れに耐えうる灯台を建てるよう命じられた。
第1の課題はすぐ水に沈んでしまう岩の上にいかにして石の建造物を固定させるかということだった。
その難しさを知るため、インペリアルカレッジ、ロンドンにある波の研究施設を訪ねる。
実験・・・考古学者Colin Richars(Experimental Archaeologist)が当時入手可能だったセメントで灯台の模型を作っている。
完成し、2時間おいておく。
その後エディストーンが作る波形の環境にさらす。
当時使われていたセメントは、固まるのに何日もかかったが、乾燥時間が数時間しかなかったため、セメントは流されてしまった。

スミートンはもっと短い時間で固まるセメントの作り方を模索し始める。
Richars「古代ローマ時代に建設された港や神殿などの建築物は、幾度にもわたる暴風雨や激しい波に耐えている。
彼はそのことを知っていた。」
しかしその配合を知る者はいない。
そこでスミートンは古代セメントを分析し、その配合をつきとめた。
不足していた材料は火山灰と焼成粘土。
「とにかくこれらの材料をできるだけ細かい粉にすりつぶさないといけない。
このセメントで作ったモルタルは固まるのが早く、水の中でも固まる性質があるので、灯台のような建物にはうってつけだった。
それぞれの材料と切開の間で化学反応が起こる。
それに空気中の酸素は必要ない。」
先ほどと同じように2時間おき実験すると・・・びくともしなかった。

スミートンが開発した新しいセメントのおかげで1759年に完成したエディストーン灯台は、長く活躍した。
今日セメントは非常に重要な人工建材となっている。
毎年30億トンが生産されており、それは大西洋と同じ広さの土地を舗装できる量。
高速道路、港、超高層ビル、ショッピングモール・・・
現代の建築物には不可欠。
ワシントン州ウェナチー川、18世紀の人々が直面したという問題を直に体験する。
アメリカの東海岸から内陸への旅は非常に困難で、危険を伴うものだった。
陸には巨大な山脈があるし、水の上では何がおこるか分からない。
こんな川を渡って貨物を輸送するなんて想像できないが、当時の人達は実際にこんな目にあっていた。

アメリカの産業化と共に、より安全な輸送手段が求められるようになった。
そこで大西洋岸とアクセスの悪い内陸とを結ぶ輸送手段の改善計画が立てられた。
解決策の1つが運河。
エリー運河はエリー湖とハドソン川を結んでいる。
そしてハドソン川はおよそ500km先の大西洋に続いている。
この運河を建設するにあたっては大きな問題があった。
この水路全体で173mほどの高低差があるのだ。
そこで水位が変わる地点で船を上げ下げするためのこう門を作った。
こう門に最適な建材はセメントで固めた石、しかし当時のセメントは濡れたり乾いたりを繰り返すような環境に耐えられるものではなかった。
そんなことをしたら崩れてしまう。

技師たちは何度か失敗を重ねた後、運河作りを成功させていたイギリスへ向かった。
そこで技師たちは耐水セメントに出会う。
それはジョン・スミートンがエディストーン灯台のために考え出した配合をベースに作ったものだった。
今は遊覧船が通るだけのこの運河も、19世紀は違ったようだ。
毎日何100隻もの交通量があった。
貨物を運ぶには皆運河を使っていたからだ。
運河ができる前は荷馬車で運んでいたので、ニューヨーク州を横切るのに7〜8週間かかったが、それが7〜10日で行けるようになった。
耐水セメントで作られた83のこう門を持つエリー運河は19世紀の高速道路となった。
耐水セメントのおかげでエリー運河が1825年に開通すると、運河建設ブームが起こる。
北米には総延長でおよそ5000kmの運河ができた。
エリー運河は五大湖のほとりにある小さな町を、20世紀におけるもっとも重要な年に変えた。
アメリカの産業地図は大変貌を遂げた。
19世紀デトロイトはエリー運河のおかげで、アメリカ国内でも有数の産業都市に成長した。
大量の鉄や石灰が船で運ばれてくるようになり、鉄鋼の生産や馬車の製造、造船が盛んになった。

そして1899年、それに魅せられた1人の若者が世界の輸送手段に革命をもたらすべくデトロイトに向かう。
当時のアメリカでは馬車が全盛だった。
車もあったがそれを買えるのはわずかな金持ちだけ。
それを変えようとする人物がいた。
彼の名はヘンリー・フォード、16歳の若さでデトロイトへ向かった彼は、一風変わった原動機付き4輪車を考案する。
フォードの夢は普通の収入がある人なら、だれでも買える低価格の車を作ることだった。
彼は試作車の制作にとりかかり、ついにこれを作り上げる。
T型フォードだ。
最初のT型フォードは複数の技術者によって1台ずつ作られた。
12以上かけて5000この部品を組み立てたのだ。
シンプルな構造にも関わらず、基本的な問題があった。
販売価格は850ドル、現在のお金に換算しておよそ2万ドルもした。
これでは誰もが買える車とはとても言えない。
これ以上簡素化するのは無理だと分かっていたフォードは画期的な試みをする。
車の組み立て方を分析したのだ。
本当に誰もが買える車にするには、行ったり来たりして無駄にしている時間をなくさねばならないことにフォードは気付いた。

フォードがインスピレーションを得たのは意外な場所。
シカゴの食肉処理所、そこで彼は止まることなく動いているレールに食肉がぶら下がって移動する様子を目にした。
そしてこの方法を車の組み立てに応用できると気付いた。
フォードは作業員が車に近づいてゆくのではなく、車が作業員のところへ運ばれてくるようにした。
つまり動く生産ラインを作った。
分速2mで進む生産ラインができたことで、作業員はその場を離れずに組み立て作業ができるようになり、時間もお金も節約できた。

ハイランドパーク工場、かつてここはおよそ25万屬砲發錣燭觜大な敷地と何千人もの従業員を要する世界最大の工場だった。
1925年には、まさに材料が運び込まれては完成した車が出てくるという状況だった。
ここでは合計1500万台以上のT型フォードが作られた。
フォードの生産ラインはとても効果的で、850ドルだった車の価格を490ドルにまで下げることができた。
こうして車が大衆にもたらされた。

しかしフォードが導入した動く生産ラインが、ハイテク旅客機にどう関係するのだろうか?
工場では300万個ある部品の一部が組み立てられている。
たくさんケーブルが使われている。
すべてのケーブルを縦につなぐと長さはおよそ216kmになる。

こんなに多くの部品を、どうしたらこんなに早く組み立てられるのだろう?
その答えは実にシンプル、世界最大の動く生産ラインがあるのだ。
機体を載せる台は分速4cmぐらいの速さで動いている。
24時間ほどかけて工場の端から端を動く。
全ての部品は決まったタイミングで供給される。
機体が定位置に動いてきたら、その時に必要な部品が機内に積み込まれ、取り付けられる。
ボーイング社が世界最大級に複雑な旅客機を年間100機も製造できる秘密はここにあった。

おさらいしよう、物語は水車の導入から始まった。
それが教会に富をもたらし、大聖堂の建設にラッシュが起きる。(12世紀)
そしてその鐘を自動で鳴らす仕組みをヒントに時計が誕生(13世紀)、勤務時間という概念が生まれる。
これにより生産性が上がり、国際貿易がブームに、海を行き来する船が増えたことで難破する船も増える。
それが耐水セメントを必要とする新たな灯台を開発するキッカケとなり(1759年)、その同じ技術によりエリー運河ができる。(1825年)
するとデトロイト市が急成長(1908年)、そのデトロイトでT型フォードが開発され、動く生産ラインがその真価を表した。(1912年)

マイカーブームを背景にレストランはドライバーに直接商品を売るという新たなアイディアを思いついた。
しかし注文ごとに1つ1つ作っていたため、なかなか商品をだせず、冷めてしまうこともしばしばだった。

そして1921年、ハンバーガーショップ・ホワイトキャッスルがある解決策と共にオープン、調理スピードをあげるために、厨房に生産ラインを作った。
これが大当り、同じスタイルのレストランチェーンがアメリカ中に次々とできた。
そしてこんな言葉が生まれる・・・ファストフード・・・
ここで終わりではない。
生産ラインは現代社会のあらゆる分野に変化をもたらした。
それは医薬品や洋服から、自動車やその燃料であるガソリンまで。
生産ラインが20世紀の決定的な技術革新の1つであることが疑う余地もない。
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The Link偉大な発明の意外な起源☆From Swords to Spy Planes剣からスパイ機へ

最高の性能を誇る偵察機プレデター、無人航空機、航続距離5000km以上、最長滞空時間21時間、空の究極のスパイ。
パイロットが地上を離れる必要がないことも利点。
プレデターは比類なき偵察機だが、その素晴らしい能力の秘密は、ある重要な技術にある。
その起源はおよそ2000年前にさかのぼる。

身の回りのあらゆるものの起源を知ろうとするのは究極のパズルをとくようなもの、どんな発明の裏にも隠れた物語はある。
卓越した頭脳、偉大な文明、画期的な発見・・・
全てがリンクして今日に世界を作っている。

プレデター偵察機を完璧なハンターにするものは何か、その最初のカギとなるのは2000年以上前の中国で生まれ、歴史を変えた新種の武器。
西安、古代武術・・・
中国武術では、武器を体の一部のように扱えるよう訓練される。

武術の起源は数千年前にさかのぼる。
中国が内乱で分裂していた時代だ。
紛争がピークに達するのは紀元前3世紀頃、過激な武将が率いる小さな国々が天下をとるために争っていた。
しかしこの混乱の時代はある男と革新的な軍事技術のおかげで終結を迎える。
紀元前227年、古代の電撃戦において、始皇帝の軍は敵軍を圧倒していた。
切羽詰まった敵軍は、皇帝に刺客を送る。
しかし言い伝えによると、皇帝は自分が斬りつけられる前に新しい画期的な剣で刺客を倒した。

始皇帝の墓、大勢の陶器の兵士に守られている。
この兵士達が握っていた青銅の剣。

シア・イン准教授(兵馬俑博物館)「本物の秦の時代の剣、実際の戦で使われた。
墓に並ぶ兵士は作り物だが、持っていた剣は本物。
見つかったのは10本に満たない。
優れた武器なので、戦争に赴く人々が墓から盗んだと考えられる。」
この剣が高く評価されるのはなぜか?
中国の鋳物工場、今日でさえ青銅は扱いにくいと言われる。
製造の過程で少しでもミスすると青銅は軟らかく、もろくなる。
剣を作る場合は特に避けたいこと。
だからこそ始皇帝は最高の冶金学者にその調合を研究させた。
兵馬俑の剣は特別。

兵器製造者は複雑な方法で硬い青銅を柔らかい青銅と混ぜて1つにした。
結果として強さとしなやかさを兼ね備えた青銅の剣ができた。
これには重大な利点がある。
従来のものより長さを最高で3割長くできる。
戦いでは非常に便利、剣で人を殺そうとする場合、スパっと斬るか、突き刺すか、長い剣を使えばその分遠くから突き刺せる。
この革命的な武器のおかげで、秦は次々と敵を倒すことに成功した。
そして秦の名のもとに新たな国が築かれた。
中国だ。

平和な統一国家となった中国は、新たな目標に向かう。
金儲けもその1つ、その後200〜300年で経済は発展する。
それに貢献したのが中国特有の製品、全ての始まりは蚕の繭。

ここでは紀元前2700年ギザの大ピラミッド建設よりも前から、ある中国工芸が行われている。
たくさんの繭、お湯の中に入れると次第に軟らかくなる。
ほぐされて1本の長い糸になる。
糸はつむがれ、古代の素晴らしい製品へと生まれ変わる。
中国ではシンチョウと呼ばれるもの、絹。
絹を織ると素晴らしい性質の布ができる。

1度手にすれば、絹がなぜそんなに人気なのかが分る。
見ために美しいだけでなく、暖かくて丈夫、そして軽いので輸送費用が安くすむ。
事実上生産を独占し、国内市場に商品があふれていた中国は、輸出に踏み出した。
1世紀までに絹がローマ帝国に伝わると、市民の間で絹製の衣服が人気を博す。
こうして東西で初めて交易が行われた。
これがシルクロードの誕生、シルクロードと言われるが、実際にはアジアとヨーロッパをつなぐ陸路と海路の全てを指す。

中国はより裕福になった。
また金と発明は通常1セットであるため、新技術の分野でも世界を牽引する立場になる。
古代中国は物を作っていただけではない。
絹はもちろん、手押し車、足踏みの織り機、紙幣、火薬・・・
全て中国の発明品、しかし中国を裕福にした交易路が、一方で中国の首を絞めようともしていた。
シルクロードの登場により、中国はぜいたく品を輸出できたのだが、同時に技術を流出するキッカケにもなった。
いわば古代の情報ハイウェイと化した。
シルクロードが知識を世界に広めた。
知識はヨーロッパに繁栄をもたらす。

中国からヨーロッパに伝わったもっとも重要な技術の1つは、人の手のひらに納まってしまうほど小さな発明品だった。
しかしそれが無数の命を救うことになる。
中世の船乗りは危険な仕事、正確な地図はなく、陸地は見えないため、日中は太陽を、夜は星を頼りにするしかない。
天気が悪くなれば曇っただけでも大問題。

しかし1200年ごろヨーロッパに到達した中国の発明品が全てを変えた。
鉄製の針を磁石でよくこする、それをコルクに刺して水の上に落とす・・・羅針盤だ。
中国では、もっぱら風水に使われていた。
家を建てる際、幸運を呼び込むとされる方角に向けるためだ。
およそ100年も経ってから、ある賢い男が船に使うことを思いついた。
船の羅針盤が発明される。
1日中どんな天候であろうと、羅針盤は常に北を指す。
この古典的なオランダ船がまっすぐ進めるのもそのおかげ。
ヨーロッパの船乗りたちは羅針盤に少しずつ改良を加えていった。
当初水に浮かべていたものを、ジンバルという装置に取り付けた。
まもなくヨーロッパの羅針盤は世界1正確になった。

15世紀までにヨーロッパの羅針盤が船の旅を大きく変えた。
未知の領域への旅を可能にした。
それまでと違い、見張り台に立って目をこらせば、未知の沿岸、未知の大陸さえも見つけられる時代になった。
まさに発見の時代だった。
話を整理しよう、始まりは中国の剣だった。(B.C.3世紀)
そのおかげもあって統一国家となった中国は、貿易を開始、シルクロードが延び、多くの技術が西に伝わった結果、船の羅針盤が誕生した。(A.D.12世紀)
海に交易路ができると新たな市場に投資しようという動きが高まった。
しかし問題もあった。
オランダ、ロッテルダムの港、ヨーロッパ最大のコンテナ埠頭、1日に扱われるコンテナの数はおよそ2万個、その中身の価値は総額およそ4億ドルにものぼる。
しかし400年前は貿易への投資は今日よりもずっとリスキーなものだった。
海上貿易は金のかかるビジネス、例えばコンテナ船も建設費をはじめ、乗組員、装備、燃料等、かなりの費用がかかる。

金がかかるのは16世紀だろうと同じ、羅針盤ができたとはいえ、長距離航海となると3分の1が生還出来ない時代だった。
投資しようにも利益が出せるとは限らない。
そこで海上貿易のリスクを減らせる新たな発明に注目が集まった。
発明されたのは機械ではなく、金融関係。
すべては1人の野心的なオランダ人と、1枚の紙から始まった。
ディレク・ピータース氏にあてられた1枚の文書、オランダの道路建設業社で1606年にアムステルダムに本社を築いたオランダ東インド会社の投資者だった。
600ギルダー分の領収書だが、それよりはるかに深い意味がある。
ピータース氏にこの会社の共同所有を約束するもの、つまり世界初の株券。
貿易のリスクを減らすために、より多くの人とそのリスクを共有するという革新的なアイディアだった。
共同所有によってこの会社は100年以上世界の貿易を支配し、小さなオランダをヨーロッパ経済の中心に変えた。
しかしここで注目したいのは、世界の新技術の中心。
17世紀のシンプルな金融革命で世界有数の裕福な国になったオランダは、夢がかなう場所になった。
新たなアイディアと新たな技術のルツボだ。

17世紀とあるオランダ人が素晴らしい道具を発明する。
裕福な織物商人アントニ・ファン・レーウェンフックは、布の質を調べるために、虫眼鏡を使っていたことから、レンズに興味を持っていた。
より高精度のレンズを作れると確信したレーウェンフックは、レンズの研磨技術を学び、新たな顕微鏡を作る。
世界初とも言われる実用的な顕微鏡だ。
Boerhaave Museum、当時顕微鏡作りに取り組む他の人もいる中、レーウェンフックは単眼式顕微鏡を最初に思いついた。
以上に小さなレンズがついており、小さなピンもついている。
これに見たいものを差し目に近づける。
ネジを調整する。
こうして彼は多くのものを見た。
初期の顕微鏡を多くはレンズが2つだったのに対し、レーウェンフックの顕微鏡には1つ、それは彼が決して明かさなかった研磨技術が使われた小さな玉だった。
拡大力は従来の顕微鏡のおよそ10倍になった。
彼はあらゆるものを顕微鏡の下に置き、精子、血液細胞、生物等様々なものを目にした。
ただし彼のもっとも偉大な発見は偶然の産物だった。
当時オランダの食卓に登場した香辛料・コショウだ。
レーウェンフックはこの舌を焼くような味の原因を知りたくてたまらなくなる。
しかし新しい顕微鏡でコショウを見た彼はギョッとした。
無数の微生物がいたのだ。
彼はこの時世界で初めて微生物を発見したのだ。
生物学や薬学の理解に欠かせない生物、現在の呼び名はバクテリア。
レーウェンフックはこれを微小動物と呼んだ。
しかし17世紀の医療革命に弾みをつけるどころか、この発見はほとんど注目されなかった。
つまりバクテリアの発見は時代を先どりしすぎていた。
実際新しい科学的研究が、この微生物の真の重要性を暴いたのは、そのおよそ200年後だった。
研究が行われたのは医療の発展を願ってではなく、美味しい酒を求めてのことだった。

舞台を産業革命の真っただ中にある19世紀に移そう、アメリカは鉄道に夢中だった。
19世紀半ばには鉄道はビジネスに欠かせないものになった。
列車の登場で、大量の荷物を安いコストで遠くまで運べるようになった。
これは製造業者に大きな利益をもたらす。
しかしある業界では市場拡大の期待が基本的な問題に阻まれていた。
商品が目的地に届くまでもつかという問題だ。
アンハイザーブッシュ社、セントルイス本社、社名は創業者でビール業界のパイオニア、アドルファス・ブッシュにちなんでいる。
この工場だけで毎日1400万本を超えるビールが生産されている。
オリンピック用のスイミングプール2つがいっぱいになるほどの量だ。
しかし1860年には醸造所には大きな障害があった。
ビールを輸送できるのは近距離だけだったのだ。
なぜなら、どうしてだかすっぱくなるから。
そこで200年の時を経て、レーウェンフックが見つけた微小動物が脚光をあびる。
ビールの寿命について長年頭を悩ませてきたアドルファス・ブッシュはフランスの生化学者が偉大な発見をしたという記事を目にする。
彼はわずか2〜3年前に同じ問題の解決を任されていた。
その生化学者の名はルイ・パスツール。
パスツールは以前に酒造りの秘密が特定の微生物の働きにあることを発見していた。
酵母だ。
酵母は生きているため扱いが難しいのだが、パスツールがこれをうまく発行に利用できるようにした。
Tom O'connell(醸造マスター)「発酵性の糖を与えると酵母はそれを分解してアルコールと二酸化炭素に変える。」
パスツールは次に、アルコールが簡単にすっぱくなる原因がこれとは異なる微生物であることをつきとめた。
このすっぱさを生む微生物とはバクテリア。
アルコールがすっぱくなる原因が分かったところで、パスツールはその解決法を探す。
バクテリアは熱を嫌うため、彼は液体を60℃に熱することを提案する。
この温度なら、バクテリアは死ぬが味は残る。
後に低温殺菌法と呼ばれるプロセスだ。
アメリカで初めてこの技術を採用したアンハーザーブッシュ社にとってこれは幸運だった。
ビールの寿命が伸び、全国に出荷できるようになったのだ。
しかし需要の増加にどう対応するかという問題が生まれた。
セントルイスには涼しい鍾乳洞がある。
ここはかつて醸造の過程で重要な役割を果たしていた。

なぜここでビールの保管を?
ラガー酵母というのは温度にとても敏感な酵母で、涼しい所で保管しなければならない。
この鍾乳洞の環境は適していた。
当時氷を運びいれており、中のものをかなり長い時間冷やせた。
かなりの量は入ったが、やがていっぱいになり、別の保管場所が必要になった。
でも外の気温は35℃になることもあり、氷はあっという間に融けてしまう。
というわけでビール会社は製品を冷やしておくより安価で効率的な方法を探すことにする。
カナダ、オタワ市郊外、極寒の地、ビール会社はこうした場所から氷を取り寄せていた。
カナダ国家研究会議の気象実験施設、ここではボタンを1つポンと押すだけで気温を-40℃まで下げることができる。

この施設の技術は120年ほど前にビールの保管問題を解決するために発明されたものとほぼ同じ。
冷蔵庫の裏、冷却剤と呼ばれるガスとコンプレッサーがある。
ガスは1度圧縮され、再び膨脹すると冷える。
その性質を利用して冷蔵庫の内側の熱を吸い取り、後ろ側から外に出す。
つまりガスが冷蔵庫に入り、そこで吸った熱を後ろからはき出すので、後ろ側は常に温かい。
冷えたガスはコンプレッサーに戻り、再び圧縮される。
その後冷蔵庫の中に入って膨張する。
といったサイクルを永遠繰り返す。
人口の冷却装置によってビールを常に適温で保管できるようになり、供給の問題は解決した。
そしてこれに最初に着目したのもアドルファス・ブッシュだった。
これによりライバルたちに差をつけ、国民を虜にした。

しかし科学者や研究者はさらに研究を重ね、温度がどこまで下げられるかを追求することになる。
科学者達は冷却装置の温度をさらに下げようと、意欲的に取り組んだ結果、将来宇宙の道を開く独特の物質を見出した。
19世紀の終わりに大規模な冷却装置が発明されると、今度は装置の温度を下げることに焦点が移った。
その結果地球上のすべての人々の未来を築くことになる素晴らしい液体が生まれた。
極度に冷たいので19世紀にはこれを入れる魔法瓶が発明された。
液体窒素と液体酸素だ。

19世紀の科学者が醸造所の冷却装置と同じ技術を使ってなんでもないところから取り出したのだ。
液体窒素は花を瞬間に冷凍する。

液体酸素にはさらに素晴らしい特性がある。
液体酸素には、普通の空気の4000倍に相当する量の酸素が含まれている。
それと燃料を混ぜ合わせると、非常に燃えやすい混合物になる。
液体酸素をバーベキューにかけると・・・

液体酸素は強力な燃料を混ぜると人を飛ばせる。
1924年ベルリンに最高速度の車を作ることで頭がいっぱいの12歳の少年がいた。
今自分のロケットカーを発射しようとしている。
実際にはたくさんの花火をつけたオモチャのカート。
彼はこの行為で地元の警察に連行されるが、栄光を夢見ることはやめない。
その少年の名はベルナー・フォン・ブラウン、やがてナチスドイツのロケット計画の中心人物となり、液体ガスの潜在能力のすべてを引き出す。
液体酸素とエタノールを推進剤とするV2ロケットは世界初の弾道ミサイルだった。
その開発は戦争に新たな恐ろしい局面をもたらしただけでなく、宇宙時代の出発点にもなった。
1950年代、アメリカのロケット計画は本格化していた。
元ナチスの科学者ベルナー・フォン・ブラウンの力を借りて開発されたロケットは、宇宙飛行士をかつてない高さへと運んだ。
人類初の月への宇宙飛行だ。

プレデター、1機の価格がおよそ1000万ドルもする。
プレデター無人航空機はこれ以上はないハイテクの偵察機。
偵察を無人航空機で行う最大の利点は、まず飛行時間が延びる。
同様の有人偵察機では、同じ量の燃料で3時間半だが、プレデターだと21時間、これによって長時間ほとんど丸1日、対象を集中して監視できる。
しかしパイロットが地上に残るため、すべては通信能力にゆだねられる。
地上からの無線操縦だけを使った場合、プレデターの見通し線は最長でおよそ200km、山岳地帯ならさらに短くなる。
そこで採用しているのがある重要な技術、これを運べるのはロケットだけ。
通信衛星だ。
プレデターの飛行範囲は?
世界中、衛星の電波が届くところならどこでも飛ばせる。
地球上であればほとんどすべての場所で扱える。

おさらいしよう、始まりは青銅の剣、紀元前3世紀、これが中国を統一し、シルクロードが発展、それに伴って船の羅針盤がヨーロッパで造られ(A.D.12世紀)、新たな交易路ができたことで株券が発明される。(1602年)
富が築かれた結果、単眼式の顕微鏡が発明され(1673年)、バクテリアが発見された。
この偉大は発見がビールの低温殺菌法の発明に結びつき(1863年)、冷却装置の開発も進んだ。(1874年)
その裏で生まれたのが液体燃料(1934年)、そしてそれを推進力とするロケットが宇宙に史上初の人工衛星を運ぶ。(1957年)
現在34個以上の人工衛星が地球の上空にある。
それらは日常のあらゆるものを制御している。
たとえばカーナビ、天気予報、テレビ放送など・・・
将来は人工衛星が人類の生と死を分けるかもしれない。
世界の人口が70億人に達すると、とてつもない問題が生じるからだ。
石油の埋蔵量、ガス、水についてもかつてなく懸念されている。
しかし人工衛星が答えを持っているかもしれない。
今日衛星カメラは地下水のある場所や石油やガスを多く含む岩の継目を探し当てられるまでになっている。
またどれだけの肥料を使えば毎年の収穫を豊かにできるのか、農業者に教える技術も開発された。
今私達は何10億人もの生活を変えることになる宇宙技術の新時代を迎えようとしている。

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暮しに役立つ家電の学校☆デジタルカメラ

全世界のカメラの8割以上を日本のメーカーが製造している。
カメラの語源・・・カメラ・オブスクラ・・・ラテン語で“暗い部屋”という意味。
カメラのルーツは暗い部屋にある。

今から2300年以上前の紀元前350年頃、ギリシャの哲学者アリストテレスがあることに気付いた。
暗い部屋に小さな穴をあけると、なぜか外の景色が逆さまになって映し出される。

その原理を応用し、ヨーロッパを中心に研究がすすめられたカメラ、17世紀には持ち運びができるまで進歩した。

とはいえフィルムもない時代、カメラはまだ撮影する道具ではなく、写生する道具だった。
そして1839年、フランスの画家ダゲールが画期的なカメラの開発に成功する。

ダゲレオタイプと呼ばれ、今では世界初のカメラと言われているこのカメラ、中をのぞいてみると、レンズがあるだけ、とかなりシンプル。
シャッターもなくカメラのキャップの開け閉めで撮影をしていた。

その仕組みは、レンズの反対側に特殊な化合物をまぶした銀メッキの銅板を置き、しばらく放置することで、銅板に映しだされたものを浮かび上がらせるという構造。

ダゲレオタイプで撮影された銀板写真、シンプルな構造なのに意外としっかり撮影できている。
1848年、日本にカメラが伝来。
日本で最初に撮影された人物を言われているのは時の薩摩藩主・島津斉彬と言われており、撮影したのが6月1日だったことから、この日が現在でも写真の日とされている。

当時は写真1枚撮るのにも20〜30分かかったという。
それを物語るのが幕末の志士・坂本龍馬の写真。
龍馬が台によりかかっている。
これは撮影が長時間かかるので、固定するためによりかかる台が必要だったから。

その後カメラは様々な発展を遂げ、板がフィルムになり、さらに白黒からカラーへと発展、世界中に普及していった。

では現在の主流であるデジタルカメラはいつ誕生したのだろう?
諸説ある中で有力なのが、1981年の日本、デジタルカメラの元祖、ソニーが開発したマピカ。
その仕組みはCCD(撮像素子)により撮影した光を電気信号に変換、マビパック(フロッピーディスク)に画像を記録。
これはマビカシステムと呼ばれ、その後のカメラの開発に大きな影響を与えた。
この頃は「デジタルカメラ」ではなく「電子スチルビデオカメラ」と呼ばれた。

試作機だったものの、マビカの登場によって、各メーカーはカメラをデジタル化すべく研究をスタート。
そしてある出来事がその開発を後押しする。
それは1984年に開催されたロサンゼルスオリンピック、オリンピック直前、大手新聞社はカメラメーカーに依頼し、電子スチルビデオカメラの画像再生伝送システムを確立。
これにより、アメリカで撮った写真を、電話回線で日本に送り、すぐに日本の新聞に掲載できるようになった。
その経験を生かし、1986年にはキャノンが電子スチルビデオカメラRC-701を世界で初めて商品化。

しかしボディだけで39万円、システム一式で500万円を超える高価なもので、主に報道用として使われた。

その後1988年、バブル絶頂期に電子スチルビデオカメラに新たな変化が訪れる。
今までのカメラはデジタルといいつつも記録はアナログ方式、いわばハーフデジタルカメラ。
音楽でいうなら、レコードからカセットに変わったというところ。
ついに記録方式もデジタルになったフルデジタルカメラが登場する。
世界初のフルデジタルカメラ、現存しているのは世界で1台のみ。
開発したフジフィルムにある。
世界初のフルデジタルカメラFUJIX-DS1P、このカメラから画像をメモリーカードに記録することが可能になった。
といってもメモリーカードに保存できる画像はわずか10枚のみ。
フルデジタルになったことで、音楽がカセットからCD、映像がVHSからDVDになったように、劣化の起こらない写真が撮れるようになった。

ここから各メーカーが一斉に発売し、カメラはデジタルに一直線・・・とはいかなかった。
その理由は、当時普及し始めたビデオカメラ。
ビデオカメラは動画と音声が記録できるのに、電子スチルビデオカメラは静止画しか撮れない。
また画質でもフィルムカメラに劣り、中途半端と揶揄されていた。
しかし1995年、カシオからQV-10(65000円)が発売され大ヒット。(20万台の売り上げを記録)
これにより世の中にデジタル化したカメラの存在が広く知られるようになり、この頃から電子スチルビデオカメラはデジタルカメラと呼ばれるようになった。
QV-10ヒットの理由は、背面に液晶モニターを搭載し、撮影した画像をすぐに確認可能ということ。
また当時はWindows95が発売された時期で、パソコンとつないで画像を保存できたのも大きな魅力だった。
画素数は25万画素と今のデジタルカメラの1/40ほどだが、フィルムを使わないカメラは、世の中に大きなインパクトを与えた。
その後デジカメの開発は急激に向上、1997年には100万画素を超える機種が登場。
そして一眼レフもデジタルへと変化してゆく。

その普及を一気に推し進めたのがニコンD1。
デジタル一眼レフといえば100万円以上の超高級品、そんな時代に65万円という低価格で発売した。
これをキッカケにプロやカメラ愛好家から注目を集めるようになった。
そして2002年、フィルムカメラとデジタルカメラの総出荷台数がついに逆転、さらに進化を続けるデジタルカメラは防水機能、手ぶれ補正など、様々な機能を搭載、写真を見て楽しんでいたカメラは、電気と出会ったことで、今度は誰もが撮ることを手軽に楽しめる家電に生まれ変わった。

新旧デジタルカメラを比較

左:カシオ QV-10(1995年)(液晶サイズ1.8 画質25万画素)
右:カシオ ハイスピードエクシリム(2012年)(液晶サイズ3インチ 画質1600万画素)

今現在デジタルカメラは大きく3タイプに分けられる。
.メラの主流 コンパクトデジタルカメラ(2〜3万円)
持ち運び、操作が簡単
△茲螢廛躬峺が高い デジタル一眼レフカメラ(5〜100万円)
レフレックスミラーという反射板が入っている。
レンズから入った画像がこのミラーに当り、さらにプリズムで反射させてバインダーに画像を映している。
メリットはファインダーで見た画と全く同じ画が撮影可能。
インスタントカメラのようにレンズとファインダーが独立したカメラはファインダーで見た画と撮影した画が微妙に違う。
さらに一眼レフカメラはレンズを交換できるので、撮影シーンによってレンズを変えれば思い通りの絵を撮ることができる。

今注目を集める ミラーレス一眼(5〜15万円)
デジタル一眼レフカメラには、レフレックスミラーが入っているが、ミラーとプリズムがあると、構造上カメラが大きくなる。
そこでミラーとプリズムを省いたのがミラーレス一眼、一眼レフのように高性能でレンズ交換も可能、それでいてコンパクト。

デジタルカメラの仕組み
デジタルカメラは非常にたくさんの精密なパーツでできている。
中でも注目すべきパーツが3つ。

.譽鵐此ΑΑ人間の眼に相当し、遠くのものや近くのものにピントを合わせて物を捉える。
断面図を見ると、1枚ではなく複数のレンズから構成されている。

一眼レフのレンズだと、10枚入っているものもある。

∋A素子(CCD CMOS)・・・フィルムの役割を果たす。
コンパクトデジタルカメラの撮像素子は小さいので、一眼レフの撮像素子を見ると、緑の部分に光が当り、光を電気信号に変換、撮像素子の中に受光素子(フォトダイオード(センサー))がビッチリと並んでいる。
このセンサーの数が解像度。

例えばその素子が縦3000×横4000=1200万画素
数が多いほど、細い部分を再現できる。

しかし受光素子が検知するのは光のみ、色は判断できない。
そこで受光素子に赤、青、緑のカラーフィルターを重ねて特定の色の光を検知、撮像素子から得た電気信号をデジタルデータに変換。

2菫処理エンジン・・・デジタルデータを読み取り、画像に変換、そして裏の液晶モニターに画像として表示。

失敗しないデジカメの選び方
●画素数(受光素子の数であり、解像度のこと)はあまり多すぎてもよくない。
例えばカメラ屋で、L判でプリントするとしたら、600〜1000万画素で十分。
部分的に切り取って、1枚プリントするなどの場合は画素数が大きいと便利。
画素数が多すぎるとノイズが増える。

●ノイズが少ないものを選びたい時にはセンサーサイズを気にするとよい。
センサーサイズとは、撮像素子の大きさのこと。
カタログには、「2.3分の1インチ」などと表記される。

分母の数が小さいほど、センサーサイズは大きくなる。
少しでもセンサーが大きいものを選んだほうが、夜撮るとか室内で撮るなど、ノイズが起きやすい場所では画質が上がる。

●レンズ(遠くの物や近くの物にピントを合わせて物を捉える)で注目したいのはズームの倍率。
見落としがちなのが焦点距離(F値)。
レンズは画角が違う、焦点距離が少ない(24ミリや28ミリ)ほうが撮影範囲が広くなる。
連写速度(1秒間に撮影できる写真枚数)
速度が速くなれば、決定的瞬間を狙いやすくなる。
ただし連写可能枚数がある。
連写速度と見合わせて、連続で何枚撮影できるのか確認しよう。

●液晶サイズは大きいものを選ぶと良い。
撮影時に撮影物を確認しやすいし、メニューを選ぶのも簡単。

カメラの明るさは何で決まるのか?
絞り(レンズに通る光の量)とシャッタースピード(1秒後のシャッターの開閉回数)の掛け算で決まる。
明るくしたり暗くしたりというには、シャッターを開いている時間を長めにするとか、絞りをもっと大きく開けて光をいっぱい取り入れるとか・・・そういった調整をカメラがしている。

日々進化するデジタルカメラの新機能
ソニー製サイバーショットTX300V
●スマイルシャッター
2007年に開発された笑顔を自動で判別して撮影する機能。
どうやって笑顔を判断しているのか?
・・・顔認識技術を誼用、顔認識は目と鼻と口、人間の顔の特徴的な所を認識して判断している。
スマイルに関しては特に、口角の上がり方や目じりの下がり方を認識して、笑顔と判断して撮影している。
ソニー螢汽ぅ弌璽轡腑奪半ι粉覯茱繊璽爛蝓璽澄次崙本だけでなく全世界の人々を笑顔にすることを目的にサイバーショットを作っているので、小さい子から大きい大人、もしくは白人から黒人まで、笑顔のデータベースを作ることが一番苦労した点。
その数は数1000以上。
顔認識でペットと人間の区別にも苦労があった。」
友人同士、恋人同士・・・撮り出すとどんどんまた笑顔を撮りたくなる・・・
●スウィングパノラマ機能
連写した画像をつなぎ合わせる。
●非接触充電機能
専用の台に置くだけで充電できる。

CASIO製ハイスピードエクシリムEX-ZR20
暗闇での撮影でものすごい力を発揮する。
HSナイトショット・・・高速連写合成でフラッシュなしでも明るい写真を撮影可能。

Nikon製クールピクスP510
ズームの能力がすごい。

FUJIFILM製ファインピクスZ1000EXR
スマートフォン送信機能・・・Wi-Fiを使いスマフォに写真を送信できる。

これからのデジタルカメラ
コンパクトデジタルカメラの競争相手はスマートフォン。
スマートフォンを持っている人に、どうコンパクトデジカメを持ってもらうかが、今後の課題。
スマートフォンのカメラはズームできない。
コンパクトデジカメは小さいのに、10〜20倍の写真が撮れるようになる。

今年アメリカで発売されたLYTROは、撮影後にフォーカスを合わせることができる。
写真を適当に撮った後、どこにピントを合わせるか、自分で調整できる。
今年日本にも上陸予定。

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暮しに役立つ家電の学校★電池

電池について街の人に聞いてみると・・・
【20代】
「エネループが出ちゃったんで、使い捨ての電池っているのかなって・・・」
「最近電池使わなくない?」
「バッテリー系は充電して使えるしね。」
「実際あまり使わないので、家にストックがなくて困る。」

【60代】
「一通りは単1、単2、単3、単4までそろえてる。いざって時にないと困る。」
「電池は結構使う用途、ありますよね。」
世代によって電池に対する意識はだいぶ違うようだ。
電池の年間総生産量:50億本
市場規模:約7000億円

電池が誕生したのは1791年イタリア、生物学者ルイージ・ガルバーニがカエルの足の神経に2種類の金属を触れさせると、電流が流れ、足の筋肉がピクピク動くことを発見、これが電池の始まりと言われている。

その後イタリアの物理学者アレッサンドロ・ボルタが電池を発明。
彼は電圧の単位であるボルトとして現代にその名を残している。

その後各国の科学者達が様々な電池を開発、そして日本でも電池の歴史に名を残す男が誕生する。
屋井先蔵、世界で初めて開発したと言われるのが、乾電池。
なぜ彼の発明が画期的だったのかというと、これまでの電池は必ず液体が欠かせなかった。
つまり持ち運びが非常に困難で寒冷地で使用不可。
しかし当時はこの乾電池の性能を怪しまれ、まったく売れなかった。
そんな屋井に天気が訪れる。
それは1894年に始まった日清戦争、主に通信用機械の電源として使われていた電池だが、これまでの液体を使った電池では、満州の寒冷地では使えず、屋井乾電池が大活躍。
その活躍ぶりが新聞で伝わると、日本中に屋井乾電池の名が広がる。

しかし彼はこの後ある問題に直面する。
それは特許、当時特許を取得するには、高額な申請料が必要だったため、屋井は特許の申請を断念。
さらに世界中の科学者が屋井と同じような乾電池を開発し、特許を取得、このことで屋井の発明は、今現在に至るまで、世界ではあまり知られることのない存在になってしまった。
しかし日本では、屋井乾電池の名は広く知られるようになり、屋井は乾電池王とうたわれ、巨万の富を築いた。

そんな乾電池が一般市民に普及したきっかけは懐中電灯。
大正時代には、懐中電灯用の乾電池が盛んに製造された。
そして1923年、松下電器器具製作所が乾電池業界に参入、自転車用の砲弾型ランプを売り出し大ヒット、乾電池は一気に市民権を獲得した。

この頃乾電池の大きさは会社によってバラバラ、その大きさが世界的に統一されたのは、1945年ごろと言われている。
この時日本では、単1、単2といった名称がつけられた。
[単]:電池がひとつの電池のみで構成されていることを表す。

6P型:小型乾電池が6個入っている。
これまで多くの電池が開発されてきたが、その中で一番流通しているのは、もっとも歴史が古く、比較的安価なマンガン電池。(特徴:休み休み使うと回復する。世界で1番流通している。)

アルカリ電池
1964年日本国内で発売開始、容量がマンガン電池の約2〜5倍ある。
マンガン電池やアルカリ電池は、半世紀以上にわたって活躍している。
時代がすすみ、携帯電話やノートパソコンが急速に普及、その立役者となったのが、1990年に日本の企業が世界で初めて開発したニッケル水素電池。(高出力、高容量、長寿命、。1990年松下電池工業、三洋電機が実用化。)
現在では、それを超えるエネルギー密度を持つ電池として、リチウムイオン電池の活躍が目立っている。
製造量・・・(2001年)マンガン電池:18%  リチウムイオン電池:7%
(2010年)マンガン電池:1%  リチウムイオン電池:25%
家電と共に進化を続け、屋井が作った電池は私達の生活に欠かせないものとなっている。

【アルカリ乾電池の製造ライン (単3)】

.廛薀攻匹虜猯舛任△訐偽帽膾沺米鷸晴愁泪鵐ンやカーボンなど)を正極缶に入れる。
粉状のものをリング状に固める。
単3乾電池にはリングが3個入っている。

▲螢鵐阿涼罎縫札僖譟璽拭次併罅砲鯑れる。
→プラス局とマイナス局の材料が混ざらない(ショートしない)ようにする。

E典い鯣生させる電解液を注液。
電解液を15分に渡りしみ込ませる。その数は1万本。
マイナス極の材料である負極材料(亜鉛の粉と強アルカリ液を混ぜゲル場にしたもの)を注入する。

そ古殿痢壁藏砲療典い鮗茲蟒个綱澄砲里弔い審犬鯤弔瓩襦(マイナス端子になる)
ケ嬾海譴靴覆い機械でチェック。
完璧に密封。

Ε薀戰襪鬚弔韻襦

この製造ラインでは、多い時で1日のおよそ200万本の電池を製造している。
リチウム電池の構成は、アルカリ電池をよく似ている。
違いは負極に亜鉛を使わず、リチウムを使うこと。
しかしリチウム電池にはさらに大容量をとるために、構造を変えた電池が存在する。
こうすることでリチウム電池は電圧がアルカリの2倍、電池容量がマンガンのおよそ10倍も大きくなる。
(公称電圧:3V  電気容量:1000〜5000Ah)
電池は何種類あるのか・・・
全部合わせると大きく分類して40種類、細かく分けて4000種類ある。

FDRが開発したとっておきの電池・・・Miluira 超小型電気自動車。
わずか2分の充電で、5km走行可能。
リチウムイオンキャパシター:安全性に優れ、非常に高いエネルギーを生み出すことが可能。
今後いろいろな使い方が考えられる。
ブレーキをした時は、モーターが発電機として働く。
そのエネルギーを電池に吸収する時に急速な充電ができる。
→電車のブレーキ時に発生するエネルギーを充電して、駅構内の電力として活用できる。
自動車や電車が生み出すエネルギーを簡単に貯めて、いろいろな場所で生かすことができる時代がもうすぐ来るのかもしれない。
さらに電池の進化はここまできた。
クレジットカードの中に、すごく薄い電池が入っている。(薄さ0.5ミリ以下、電池寿命5年)

【ディープな電池の世界】
秋葉原、東京ラジオデパートには、見慣れない電子部品の数々を売っている店がたくさんある。
稲電気(創業45年)、マニアックな電池がズラリ。
北海道から買いに来る人もいるという。
ニカド電池(ニッケル・カドミウム蓄電池):モーターなどの大出力が必要なものに適している。
カドミウムが有害で廃棄時に環境へ悪影響があるので、だんだんなくなっている。

【電池と家電の最適な組み合わせを学ぼう】
アルカリ電池が一番性能がよいと思われているが、使う家電によって適している電池も様々。
懐中電灯のような、常に使用しないものの場合は、マンガン電池(長期間入れておいても液漏れしない、休み休み使うのに向いている。)
ラジカセ・・・アルカリ電池(比較的大きな電流が長い時間必要な家電にお勧め。)
アルカリ電池は寿命がなくなる直前まで、大きな電流を放電できる。
ストーブ・・・マンガン電池(一時期に大きな電流を必要とする家電にお勧め。)
マンガン電池は1回使ってしばらくすると、電圧が回復する。
液晶テレビ・・・アルカリ電池(リチウム電池は電圧が高いので、使える家電と使えない家電があるので注意が必要。)

時計・・・マンガン電池(時計やリモコンなど、パワーの少なくてすむ家電にお勧め。)
アルカリ電池より比較的安いマンガン電池を効率よく使うとGood。
全自動カメラ・・・リチウムイオン電池(電圧が高いので、携帯電話など、常にパワーが必要な家電にお勧め。充電できるのでエネルギーを長く保持できる。)
電卓・・・マンガン電池
ヘッドフォンステレオ・・・アルカリ電池
シェーバー・・・ニカド電池(モーターなどの出力が大出力が必要な家電にお勧め。ニカド電池は使わないと自然消耗するので注意。)
車・・・鉛蓄電池(常に大きな力が必要で、安定性も抜群なので、車にお勧め。自動車の他にもフォークリフトや小型飛行機にも使われている。)
ノートパソコン・ビデオカメラ・・・リチウムイオン電池(長時間パワーが必要な家電にお勧め。)

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暮しに役立つ家電の学校★テレビ

家電の王様と言われるテレビ、その普及率を比較してみると・・・
携帯電話は92.9%、冷蔵庫は98.7%、電子レンジは97.5%。
テレビは・・・99.6%「、普及率NO.1!

テレビの語源はTelevision・・・Tele(遠く)+Vision(見る)
ちなみに電話の語源はTelephone・・・Tele(遠く)+Phone(聞く)
遠くのものを一瞬にして見る、という夢のような技術の開発には、世界中の多くの人々が関わっている。

日本でその研究にいち早く取り組んだのは、後にテレビの父と呼ばれる高柳健次郎。
・静岡大学でテレビの研究を始める
・NHKと協力し、テレビ放送を開始に尽力
・ビクターに入社し、VTRの研究にも取り組む
当時大学教授だった彼は、後に発売されるテレビの開発に多大な貢献をした。
そんなテレビの父・高柳が成し遂げた偉業は、電波を使って文字の映像を送り、それをブラウン管に映し出すことに世界で初めて成功した。
(1926年ブラウン管に、世界で初めて「イ」の文字を映すことに成功)
その後メーカーも研究を重ね、戦後1939年、東芝、ビクター、コロンビア3社共同でテレビジョンを完成。
しかし戦争の影響で発売には至らなかった。
そして戦争が終わって8年後、1953年ついに国民が心待ちにしていたテレビが発売される。

【TV3-14T】
早川電気工業(現シャープ)が発売。
国産初の白黒テレビ。
当時の価格は175000円。
当時の公務員の初任給が5400円という時代、今の価値でおよそ650万円という高値。
テレビは一部の富裕層のみが持つことを許される超高級家電だった。
そして発売から1ヶ月後1953年2月1日、NHKがテレビ放送を開始。

テレビ放送開始当時の新聞の番組表を見ると、テレビ欄は・・・
放送は1日たった4時間のみ、録画装置(VTR)がなかったため、生放送が中心だった。
視聴者数は全国でわずか866人、その後テレビは驚異的に発展する。
当初1家に1台ではなく、お店や公園、街頭などに設置されたテレビを大勢の人で鑑賞していた。
大人も子供も、女性も男性も、テレビにくぎ付けになった。
当時大人気だったのがプロレスラー力道山、空手チョップで敵を倒す姿に日本中が夢中になった。
その後当時の皇太子様(現天皇陛下)のご成婚をキッカケに、白黒テレビが普及、この国民的一大イベントによって、白黒テレビは1000万台を売り上げた。
市民権を得たテレビは冷蔵庫、洗濯機と並び、三種の神器とまで言われるようになる。

テレビの普及率も、発売から10年たつころには、ほぼ90%と驚異的な速さで広まってゆく。
この時代のテレビの特徴は家具調、これは当時の生活様式と密接に関係があり、家の中心である居間にあうようにと工夫されたのがこのデザインだった。
そんなテレビに新たな変化が訪れる。

【D-21WE】
1960年東芝が国産初のカラーテレビ(サイズ21インチ)を発売。
価格は520000円。
当時発売されていた一般的な大衆車(スバル450:380000円)より値段が高かった。
東芝科学館に、この貴重なテレビが現存している。

両脇にはボリュームの調整とチャンネル合わせのつまみがついている。
さらに色の微調整も可能だった。
奥行きは67cm。

カラー放送開始当時のテレビ欄を見ると、(色)と表記されているところがカラー、ほとんどが白黒放送だった。
カラーテレビは東京オリンピックをキッカケに普及。(1964年)
この歴史的イベントにより、カラー放送に各メーカーが注目し、技術を競った。
値段も手ごろになり、1973年には白黒とカラーの普及率が逆転。

さらに各メーカーの商品名を見てみると・・・
ナショナルのテレビは「嵯峨」、東芝のテレビは「王座」、三洋電機は「薔薇」、三菱電機は「高雄」など、和風な名前が流行していた。

またこのころ一風変わったユニークなテレビが発売される。
横長のテレビ、上の蓋をあけると、テレビにレコードがついている。

海外メーカーフィリップス社から発売されたヘルメット型テレビ、持ち運びに便利なように車輪がついている。

ソニーから発売されたテレビ、下にテープを入れる機械が・・・
世界初のテレビデオ。

当時テープはVHS[ではなく、U-maticというテープだった。

さらに家庭用ゲームと組み合わせたファミコンテレビ(1983年)、スーパーファミコンテレビ(1990年)といった商品も・・・
そんな進化し続ける日本のテレビは、海外でも注目される存在に。
特筆すべきはソニーが発売したトリニトロンという技術を搭載したテレビ、今までのテレビと比べ、より鮮明になった映像。
何よりその映像を安定して映し出せたことから世界中で大ヒット。
後に全世界で累計およそ2億8千万台売りあげ、世界のソニーとしてその地位を築き上げた。
以降より高画質化、大画面化が進むテレビ。

そんなテレビに再び革新がもたらされる。
2011年7月24日、地上デジタル放送に移行、テレビは薄型化し、液晶テレビ、プラズマテレビが誕生した。
2003年以降、デジタル放送に対応した薄型テレビが続々登場し、地デジ移行により、急激に普及、最近では3Dテレビという夢の商品も発売されている。
家電の王様テレビの進化は止まらない。
●テレビはどのように進化してきたのか?



↑有線のリモコン式テレビ。
↓カラービームスコープ:1962年ビーム電子エネルギーが発売(当時の値段:2950円)、白黒テレビをカラーで見られるものとして、当時大ヒットした。

テレビの値段の比較(1960年当時)・・・カラーテレビ:約50万円  白黒テレビ:約6万円
【ブラウン管テレビの仕組み】
ブラウン管テレビを構成するパーツは大きく3つ。
.船紂璽福次Д▲鵐謄覆らの電波を映像と音声に分ける
▲屮薀Ε鶸鼻П覗を表示する部分
スピーカー:音声を流す部分
ブラウン管テレビの裏側はいたってシンプル。

どのように映像を表示しているのか?
電子銃から電子ビームを照射
→電子ビームは前面にある蛍光体に当たり発光
→蛍光体には赤、青、緑があり、その組み合わせで様々な色を表現
→そして電子ビームは偏向ヨークが発生する磁界により曲げられる
→偏向ヨークの磁界を変化させることで、画面全体に電子ビームをあててゆく
つまりブラウン管は電子銃から照射される電子ビームを高速で動かすことによって、残像を利用して映像を表示している。

【懐かしいテレビ】

↑ボディは木からプラスチックへ変わった。
明暗オート切り替え:テレビは昔から明るいテレビがキレイだった。
明るいテレビが一番お客さんにアピールする点、だから明るくするモードがある。
まぶしいくらいがキレイと感じてもらえる。




【液晶テレビの仕組み】
外からのアンテナの信号はチューナーに入り、中央部分で様々な処理が行われる。
その後、映像信号が液晶に伝わる。
液晶パネルは自ら発光しない。
そのため必ずバックライトが必要。
裏側から表示パネルを照らし、ディスプレイを発光させる。
ブラウン管と比べると映像表示部が薄型化。

液晶テレビはどうやって映像を表示しているのか?
バックライトから電光が液晶とカラーフィルターを通って映像を表示する。
この時液晶は、ブラインドのように開けたり閉めたりすることで、光の量を調節する。
例えば緑の色を表示する場合、液晶が赤や青の部分を閉じて緑だけを通す。
これを素早く行い続けることで、様々な色を表現し映像を表示している。

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暮しに役立つ家電の科学★掃除機

ある電気メーカーが主婦を対象にした調査を行うと、嫌いな家事の筆頭には、掃除、との声が大多数。
その理由は、手間がかかる割にはあまりほめられないから。
確かに“部屋はきれいであたりまえ”というのが昔から続く日本人の考え方。

掃除の前にはゴミ捨て、雑巾がけ、片づけなど、いろいろな面倒が付きまとう。
そんな主婦達から嫌われる掃除を、少しでも手軽に行えるようにと誕生した掃除機。
では、掃除機が登場する前にはいったいどうだったのか?
明治時代、多くの家は和室がメインの日本家屋。

まずは箪笥の上にたまった埃をハタキで落とし、畳の上に落ちた埃をホウキではいて、最後に雑巾で拭く、というのが一般的な掃除の仕方だった。
この負担をなくそうと、1931年電気掃除機国産1号(VC-A型)が、芝浦製作所(現在の東芝)から発売される。
この掃除機は、アップライト型と呼ばれ、吸い込み用床ブラシとモーターが一体化していた。
この掃除機の誕生で、掃除は“掃き出す”から“吸い込む”へと変わった。
当時の価格は110円、大卒の初任給2ヶ月分という高級品だった。

主婦達を過酷な家事労働から解放すると期待された掃除機、しかしなかなか普及することはなかった。
その原因には日本独特の住宅構造が関わっていた。
家の外と内を仕切るものがほとんどなかった。
ゴミの通り道で見てみると・・・
ハタキで叩かれた塵や埃は畳へ。
さらに箒によって室内から板の間、そして外へと掃き出されてゆく。
つまり掃除機で吸い取るよりも掃き出すほうが早かった。

戦後1956年日立が発売したヒーターパックH-H2(17,200円)、その携帯性がうけ、一時代を築く。
しかし普及までには至らなかった。
当時人気の出ない掃除機を何とか売ろうと、1959年三菱電機がTC-203を発売。(初期のキャニスター型掃除機、ボディは金属で、車輪がついていた。)
吸い込み口の反対側を見ると、後ろにもう1つ穴がある。
この吹き出し口にノズルを付けて風を送り、お風呂やストーブの火おこし、ドライヤーにも使えるとし、売ろうとした。

その後1960年代に入り、掃除機はようやく普及し始める。
普及の後押しとなったのは、住宅様式の洋風化。
畳の代わりに絨毯を利用する過程が増え、今までの雑巾では掃除しづらい環境になった。
さらに畳だけでなく、マドにも大きな変化が。
これまでのように木製の敷居ではなく、アルミサッシを取り入れることが一般化した。
この時代背景が掃除機の普及率を劇的に上昇させる。
1968年には53.8%だった普及率が→1975年:91.2%。
現在代表的な方式であるカミパックは、1980年日立が開発したと言われ(CV-8500)、サイクロン式は、その代名詞的存在であるダイソンが、1993年に発売した。(DC-01)

埼玉県深谷市、三菱電機ホーム機器の掃除機工場。
●無人の成形工場・・・掃除機のボディ部分を製造。
プラスチックの原料ペレットを200℃の高温で溶かす
→プレス機へ流し込む
→650トンの力でプレスしてパーツを成形
→成形されたボディはベルトコンベアで運ばれる
●モーター工場(1日2500個生産可能)・・・モーターにはコイルがたくさん巻かれている
掃除機のモーターが他のモーターと比べて違うのは圧倒的な回転数。
毎分40000回転。
洗濯機の脱水で1500回転、扇風機で3000回転前後、車のエンジンでさえ8000回転。
●最終工程 組み立てライン・・・関わるのは7人、掃除機の主要パーツはおよそ30.
成形工場でできたボディがベルトコンベアで流れてくると・・・
1人目:コードリール取り付け、3本のネジを6秒で取り付ける
2人目:モーターへ銅線とスポンジ(モーターの音を小さくする)取り付け
3人目:モーターユニット組み立て(15秒)
4人目:基盤(モーターの回転数をコントロール)組み込み
5人目:モーターユニット組み込み、精密機械のように銅線をまとめる
6人目:本体と上ケース取り付け、フィルターと紙パック取り付け
7人目:上蓋の取り付け(0.5秒)、電源のテスト
7人で掃除機を完成させるまで、7分25秒。
本体が完成したら性能試験をし、人間の目で最終チェック。
クリアしたものを梱包、出荷。

掃除機の疑問1
掃除機の、強、中、弱の使い分けは?
フローリングや畳は弱で十分。カーペットは強。

疑問2
掃除機の耐久年数は?
一般的に7年。(モーターが傷む)

疑問3
掃除機を使う時、何往復したらきれいになるのか?
力をいれず、軽めに動かすほうが効果的。
書き出して吸うのは、押す時より戻す時の方がブラシが回転するので効果ある。

【ゴミを吸う仕組み】
●紙パック式(三菱電機製『雷神』:今までの掃除機に比べ、2倍以上の集塵容積を持ち、紙パックが無駄なく使える。
光触媒フィルターで臭いを分解。
青色LEDにより、光触媒フィルターの効果が再生。)
掃除機を構成するのはモーターとゴミを溜める部分。
モーター・・・ターボファンが回転すると、前にある空気を吸い込み後ろへ排出。
ターボファンが高速回転することで掃除機の中の空気を吸い出し、機内が減圧、吸い込む力が発生。
中の空気をはいて、吸い込む力を発生する仕組みはストローを吸う原理と同じ。
ゴミは途中にある紙パックに溜まり、空気だけが排出される。

●サイクロン式(三菱電機製『風神』:国内メーカーで初めてのフィルターのないサイクロン式掃除機)
紙パック式との違いはゴミの集め方。
紙パック方式はゴミを紙のフィルターで集めている。
サイクロン方式は掃除機内に竜巻を発生させ、遠心分離でゴミを区別。
軽い空気だけは外に排出。
重いゴミは舞い上がらず掃除機内に残る。
『風神』は重さによって3段階に分けてゴミを分離する。(大ゴミ:綿などを分離 中ゴミ:砂などを分離 小ゴミ:花粉などを分離 さらに風でゴミを圧縮)

掃除機のコードは黄色い線まで引くのが基本!
コードをあまり出さずに使うと故障の原因にもなる。

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高性能材料が世界を変える

自然界では数10億年に渡って生き物たちが様々な進化を遂げてきた。
その過程で地球の生き物は、驚くべき能力を獲得してきた。
傷を治す力、飛ぶ力、身を隠す力・・・
自然は人間に多くの知恵を与えてくれる高性能な材料の宝庫といえる。

サメは世界の海でもっとも繁栄している生き物の1つで、その祖先は恐竜よりも先に誕生していた。
サメが生き延びてきた理由としてまず注目されるのは強力な歯。
しかしサメの肌も注目に値する。
今、ざらざらしたサメの肌をヒントに病気と闘う医療用の新しい材料が造られている。
ダイバーはまず餌でサメをおびき寄せ、次に手を伸ばしてサメの鼻先をなでる。
するとサメは動かなくなる。
理由は科学的に解明されていないが、一種の恍惚状態になるのだと考えられている。
サメの体は歯と同じような材質の硬いウロコで覆われている。
ウロコは頭から尾に向かってなでると滑らかで、逆方向だとザラザラする。
このうろこは水の抵抗を減らし、海のハンターらしい素早い動きを可能にする。
このウロコのおかげでサメは静かに素早く滑るように水中を進むことができる。
さらに体に藻が発生するのを防いでいる。
これをヒントにすれば、人間は大きな脅威から逃れることができるかもしれない。
その脅威とは、抗生物質が効かない強力な耐性菌。
医学と農業で抗生物質を使いすぎたため、耐性を持つ菌が生まれている。
アメリカでは強力な細菌による死亡者がエイズの死亡者より多い年もある。
化学工学者シェラヴァンティ・レディはサメの肌をヒントにしたプラスチックフィルムを作っている。
肉眼では分からないが、フィルムの表面にはひし形の突起が並んでいる。
突起の大きさは人の髪の毛の太さの20分の1以下、突起はサメのウロコの模様を真似たものだが、大きさははるかに小さなもの。
実験、サメ肌状のフィルムを小さく切ってシャーレに入れる。
比較のため、同じ大きさに切った普通の滑らかなフィルムもいれる。
そこに細菌を加える。
培養器に入れ、24時間待つ。
滑らかなフィルムの表面に細菌が繁殖している。
サメ肌フィルムは溝の中にいくつか細菌が見られるだけで、滑らかなフィルムにあったような大発生は見られない。
2つのフィルムは科学的にはまったく同じ素材で、違いは物理的な形状だけ。
サメ肌状フィルムを開発したトニー・ブレナン博士は細菌や藻のような小さな生物がどのような物質の表面を好むのかを研究している。
他の模様も試したが、今のところ抗菌作用が見られるのはサメ肌状のフィルムだけだという。
サメ肌状のフィルムはすでに病院で試されている。
ドアやベッドの手すりなど、よく手が触れる場所に使われている。
医療器具に使えば最近の増殖を食い止める新たな手段になるかもしれない。

抗菌作用の決め手となったのは原料ではなく表面の形。
表面の構造が生き物たちに巧みな技をもたらしている例は他にもある。
時にそれは肉眼では見えないミクロの世界。
蝶の輝きは色素のせいではない。
凹凸のある羽の表面で光の干渉や散乱が起こるためだ。
蓮の葉は自然に汚れが落ちる。
表面のとても小さな突起が水をはじくため、水滴が泥を抱き込み、つるりと転がり落ちる仕組みになっている。

超人スパイダーマンは蜘蛛のように壁でもなんでもよじ登れる。
指先に小さなカギ爪があるからだ。
では、高性能な接着剤があれば人も壁を登れるのだろうか?
ヒントを与えてくれたのは蜘蛛ではなくヤモリ、ほとんどどんなところでも登ることができる。
その足は触ってもベタベタしない。
しかし1秒間に最大15回もくっついたり離れたりできる。
いったいどんな仕組みなのか?

ヤモリの能力の謎を解き明かしたのは、オレゴン州の大学で研究する生物学者ケラー・オータム博士、ヤモリの足の毛の数と、デザインに秘密があることをつきとめた。
「ヤモリの足の指には細かい毛が何100万本も生えていて、それが数10億本に枝分かれしている。
その毛先がものの表面にぴったりとはりつき、分子レベルで生じる弱い力が積み重なって大きな力になる。」

ヤモリはファンデルワールス力という力を利用していることが分かった。
1つの原子を踊っているカップルとすると、カップルは別のカップルがすぐ近くに来ると、相手のカップルの異性にひきつけられることがある。
この男女のような原子同士の弱い結びつきがファンデルワールス力。
ただ2つの物質をそこまで近づけるのは容易なことではない。
「机に手をつくと手の表面に机と接触している部分ができる。
しかし本当の意味で接触しているのはその1万分の1ほどの1面積。
手の表面には分子の山脈があり、それを押し付けているような状態。
だから机と接触するのは分子の先端だけ。」
一方ヤモリの枝分かれした毛はまるで森の木々が地面に押し付けられるように壁に接触する。
ヤモリが登る動きをするとひっぱられ、手の先端だけではなく側面も壁に接触する。
こうして足の表面の半分までもが壁に密着し、はりつく力が非常に強くなる。
それがどれほど強力化、測定すると・・・
ヤモリの足の毛が貼りつく力は110kgの錘を持ち上げるほど。」
この小さな足に驚異的な接着力があるのだ。
さらにおどろくのは、いとも簡単に足を放せること。
「必要な時だけ働き、いらない時にはさっと放れる。
高性能な接着剤。」

科学者はヤモリと同じようなものを作れるのだろうか?
スタンフォード大学のマーク・カトコスキー博士はヤモリの原理を利用して壁をよじ登るロボットを作っている。
「つるつるした垂直な壁など、ロボットがどこへでも行けるようになれば、窓掃除などの作業や緊急時の救助、監視業務など、あらゆることに利用できるだろう。
ヤモリ型ロボットの足の裏にはシリコンゴムのパッドが使われている。
ポイントは表面に並んでいる小さなひだで、向きによって接着力が変わる。
下向きにひっぱられると、ぴったり接触して強くくっつくが、それ以外の時にはくっつかない。
「ヤモリが壁面を降りるときは後ろ足を逆向きにする。
そうするとくっつきやすい。」

ヤモリ型ロボットの足の裏のパッドは20kgの錘を支えられる。
では人間は?
こんなに凄い手袋がいずれできるかもしれない。

ヤモリ式接着剤のように生物を真似て作ったもの以外にも、高性能な材料は登場している。
例えば生物のように反応する材料。
ターミネーター2の液体金属ロボットは、まるで生きているのうに感覚を持ち、反応し、自己再生能力もある。
ある会社で不思議な反応をする非ニュートン流体が作られている。
ニュートン流体とは?
水・・・ニュートンが弧の流体の動かしにくさと粘性の相関関係を発見した。
水の中で物を動かす時の抵抗力は、動かす速度に比例する。
2倍の速さで動かすと抵抗力は2倍になる。
ところが水以外の流体にはこの法則があてはまらないものが多くある。
それが非ニュートン流体。
例えばケチャップ、瓶に入った静止状態では逆さにしても流れ落ちない。
分子が流れにくくなる構造を作っているからだ。
しかし力が加わり1度動き始めると分子の構造が崩れ、流れ出す。

もう1つ非ニュートン流体を見てみよう。
コーンスターチと水を混ぜた物(ウーブレック)。
力が加わる速度によって粘性が劇的に変わる。
静かにゆっくり動かすと、液体のようにドロドロだが、強く急激に叩くと表面を走れるほど硬くなる。
強く握ると岩のように硬くなり、手をひらくと液体に戻るのはなぜ?
理由は三バカ大将の効果?
3人でドアを通ろうとしてひっかかる。

コーンスターチも道をゆずりたくない。
押しのけようとして強く押すと硬くなって動かなくなり、そっと押せば液体のように通れる。
固体になるか液体になるかは通り抜けようとする速度による。

非ニュートン流体の粘性を利用して、地震の揺れを吸収することは可能だろか?
橋を引き裂くような風の振動を抑えることは可能なのか?
それを可能にするのが磁気粘性流体(MR流体)。
小さな鉄の粒子が油のような流体の中に漂っている。
磁場がなければ液体の状態だが、磁場があると金属の粒子が整列し、流体の粘土が増す。
MR流体は衝撃を吸収する装置。
ショックアブソーバーにも使える。
大型車両、例えば軍用機、衝撃を吸収して乗り心地をよくするのは快適さのためではない。
いかに安全に速く移動できるか、いかに人間が浸かれないかが軍用車には求められる。
ショックアブソーバーをMR流体を使ったものにすると、乗り心地はどれだけ変わるのだろうか?
標準的なショックアブソーバーはオイルを満たしたピストン式。
車がうける振動でピストンが下に動くと中のオイルは小さな穴を通って上へ動く。
この時生じる抵抗が衝撃をやわらげる。
抵抗の大きさは穴の小ささとオイルの濃さで決まる。
どちらも変化しなければ振動を吸収しきれない。

MR流体が使われたショックアブソーバーは、同じくピストン式だが、鉄の粒子を含んだMR流体が通る穴の部分には電磁石がある。
コンピューターで電磁石をコントロールし、MR流体の粘性を調節できるデコボコ道では、粘性を強めて抵抗を大きくすれば大きな衝撃でも吸収できる。
この調節可能なショックアブソーバーは、様々な大きさの振動にほとんど即座に対応できる。
特殊な性質を持つ流体の使い道はこれにとどまらない。
将来は橋の建設に利用し、悪天候による振動を抑えられるのでは、と期待されている。
建物の地震対策として使うことも考えられる。
揺れをやわらげるかもしれない。

外からの力に反応する高性能な材料を見てきたが、さらに生き物に近い能力で人間の長年の夢をかなえてくれそうな材料がある。
空を飛ぶ鳥の能力に人間は憧れつづけてきた。
しかし飛ぶことに関しては人間はいろいろな点で鳥にはかなわない。
ハンググライダーで飛び立てば鳥が空高く舞う感覚を少し味わうことはできる。
しかし鳥たちは航空機の設計者がうらやむ見事な特徴を持っている。
形が変えられるしなやかな翼だ。
初めの頃の飛行機は今よりも鳥に近い翼が使われていた。
ライト兄弟は針金と滑車で飛行機を操縦した。
翼をまげて方向をコントロールするやり方は、鳥が翼の形を変えて舵を取るのに似ている。
しかし飛行機が大きくなるにつれ、材質は硬くなり、複雑な構造になっていった。
今の一般的な飛行機の翼はいくつもの部分からなっている。
補助翼、フラップ、スラット、エアーブレーキ・・・
モーターや部品が多いため、機体は重く、気流は乱れ、効率は決してよくない。
しかしもし鳥のように翼を曲げて形を変えられたらどうだろう?

バージニア工科大学のダン・インマン博士(機械工学者)は、10年以上前から形を変えられる翼の開発に取り組んでいる。
博士はケーブルやモニターを取り除き、興味深い反応をする、ある物質を細長いプラスチックに埋め込むことで、翼が曲がるようにした。
この物質は圧電セラミックスという。
圧電セラミックスは電気に反応して形を変える。
ここでは飛行機のバッテリーから電気を流す仕組みで、リモコンで地上からコントロールする。
新しい翼を操るには、操縦の練習も必要だろう。
しかし実験機が空を自由に飛び回る様子は、まさに鳥のよう。
いつの日か、飛行機がまた鳥に近いものになったら、座席から外を眺めた時、翼がしなやかに曲がるのが見られるだろう。
さらに素晴らしい記憶能力を備えた金属でできた翼が飛行中に自ら形を変えられるようになるかもしれない。

ニッケルとチタンの合金、ミサイルの先端に使うため、1950年代に開発され、驚くべき性質を持っている。
強く伸ばしても温めるとすぐもとの形に戻る。
科学者達はこれを形状記憶合金と呼ぶ。
バージニア工科大学で作られたクラゲ型のロボットは、形状記憶合金の人工筋肉が使われ、モーターをまったく使わず泳ぐ。
本物のクラゲにヒントを得た設計で、シリコン製の傘に人工筋肉を埋め込んでいる。
電流で温めると人工筋肉が収縮し動き出す。
この研究には、アメリカ海軍が資金を提供している。
目的は目立たずに偵察できるブイの開発。
人の命を救う形状記憶合金もある。

動脈を広げるステントという医療機器、小さい状態で血管にいれて体内で温まると、お湯に入れたように広がる。
新たな材料が、医学に革命を起こしたのだ。
その革命を引き起こしたのは、マサチューセッツ工科大学教授で世界最大の生体工学研究所を運営するボブ・ランガー博士(科学工学者)。
革命までには数10年必要だった。
ランガー博士はマサチューセッツ工科大学出身で、1970年代、科学工学者では水らしく、癌研究の道に進んだ。
当時の医療は身近な材料を利用していた。
医師たちはあれこれ工夫した。
ソーセージの皮を基に作ったのが透析の装置。
マットレスの詰め物は胸を大きくする材料に、女性のガードルのゴムは人工心臓に・・・
こういう集め方に博士は反対だった。
「拾い集めるのではなく、生物学、科学、工学の多角的視点かrあ生み出すべきだと思った。」
やがて博士は薬を体内の送り届ける画期的な手段を開発した。
一定のスピードで最長5年間にわたって薬を放出し続けるプラスチックだ。
スピードと期間はどうやってコントロールするのか?
プラスチックの中の薬の分子は、地図なしで町に出ようとしている車に似ている。
ニューヨークのマンハッタンなら、道が碁盤の目状なのでまっすぐどんどん進める。
これが薬を速く放出するプラスチック。
一方放出が遅いプラスチックの中の薬の分子は、ボストンを行く車に似ている。
道が曲がりくねっているので迷いやすく、抜け出すのに時間がかかる。

さらに利口な働きをするものを博士は研究中。
従来の癌の化学療法は毒性のある化学物質で体を攻撃し、癌細胞を殺すが、健康な組織も大量に傷つけてしまう。
そこで博士は新たな方法を開発した。
ナノサイズのごく小さな薬の粒子をガン細胞だけに届けるのだ。
まず抗癌剤をナノ粒子にする。
それを徐々に薬を放出するプラスチックに収める。
そして体内の免疫システムを欺くために、全体が水の分子に見えるよう、特別なラッピングをする。
最後にがん細胞だけにあう鍵を付ける。
これらは博士が材料科学と医学の間で成し遂げてきた仕事のほんの一部に過ぎない。
彼はこのように薬を送り届ける方法から、ヘアケア製品まで、700もの特許を持っている。

40年前、こうした高性能の材料はほとんどなかった。
しかし今自然を真似るだけではなく、自然を越えるような材料も研究されている。
例えばカムフラージュ、姿を見えにくくする能力。
ミノカサゴはある種の環境では姿が目立たない。
タコは体の色を変え、周囲に溶け込むことができる。
今新たな材料で自然界にはない方法で実を隠す方法が研究されている。
透明人間になるのだ。
研究のキッカケを作ったのは、イギリスの理論物理学者ジョン・ペンドリー博士、常識を超えて光を操ることができる人口の材料を考え出した。
小さな銅のリングをプラスチックで包んだもので、メタマテリアル(超越した材料)と呼ばれるものの1つ。
まだ実験モデルだが、将来世界をあっと驚かせるかもしれない。
ノースカロライナ州のリューク大学に、博士に協力した人物がいる。
初めてその実物を作ったというのだ。
電気工学者デビッド・スミス博士は透明マントを開発している。
そのマントはハリー・ポッターにでてきたもののようなのか?

何かを透明にし、見えなくするということは、その背後にあるはずのものを見えるようにすること。
それには川の水が岩の周りを迂回するように、物体の背後の光を迂回させればよい。

「↑の中央の部分が見えなくなる。
入ってきた光の波がこの材料で迂回させられ、向こう側で元通りになる。」
ただ1つ問題がある。
人間の目では消えたように見えない。
スミス博士が取り組んでいるのは人間の目では見えないマイクロ波の領域。
なので人間の目で見ると物は消えない。
大きな電子レンジのような装置で実験。

透明マントの中央にカエルを置き実験スタート。
この装置を上から見て、マイクロ波の様子を画像で表す。
左からマイクロ波が出ている。
途中に何もなければきれいに右へ流れる。
そこへ透明マントなしのカエルを置くと、波の形を乱してしまう。

もしカエルを完璧な透明マントの中に置いたら、マイクロ波はカエルをよけて流れてゆき、元の波形に綺麗に戻る。

実際は↑。波は少し乱れるが形はかなり戻る。
透明になる領域にいる人には、領域の外は見えない。
もし壁を見たら自分の姿が映っているだろう。
内側からは鏡のように見えるのだ。
可視光線で効果を発揮する透明マントはまだ作られていないが、目標につかづいている。
他にも光を操るメタマテリアルは数々の革命を起こすかもしれない。
新技術で癌を見つけたり、爆発物を検知できたりするかもしれない。
まだ未開拓の分野でその可能性は人間の想像力と同じように無限。
数々の高性能材料や技術を見ると、人間が地球でもっともすぐれた発明家のように思えてくる。
しかし生物は人間が現れるはるか昔から地球上の材料で実験を続けてきた。
数10億年に及ぶ進化が、驚くべき能力を持つ無数の生き物を生み出したのだ。
生物と物質に対する理解が深まるにつれ、自然界の知恵と人間の知恵が結びつくようになった。
そして将来、さらに驚くべき新たな材料が生まれ、私達の世界を確実に変えてゆくことだろう。

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暮しに役立つ家電の学校★プリンター

世界初と言われる小型プリンターが誕生したのは1964年、東京オリンピックが開催された年。
登用の魔女と呼ばれた女子バレーボールチームは金メダルを獲得し、マラソン選手のアベベが大会史上初の二連覇を達成した。
この時プリンターは様々な競技で正確に時間を印刷できる機械として誕生した。
プリンティングタイマーは1000分の1秒まで精密に印刷できるので、タイムでもめることがなくなり、世界中から賞賛を浴びた。

開発したのは長野県諏訪市に本社を置く諏訪精工舎(現在のセイコーエプソン)。
その頃オフィスではそろばんに変わる存在として、電子卓上計算機が普及していた。
このことに注目したエプソンは、小型プリンターの開発に着手。
そして4年半の開発期間を経て、1968年世界初の小型軽量デジタルプリンターEP-101を発売した。(幅:約16cm、高さ:約10cm、奥行き:約13cm、重さ:約2.5kg)
従来のプリンターよりはるかに小さく、電池で動く省電力を実現したEP-101は、国内外で注目を浴び大ヒット。
累計販売台数144万台に及んだ。

しかし当時のプリンターは主に電卓の計算結果を印刷するために作られたものであったため、ひらがなや漢字などを印刷することはできなかった。
そんな中今は亡き天才・スティーブ・ジョブズがプリンター業界にある転換期をもたらす。
それは1977年にApple兇鯣売したこと。(ジョブズ当時22歳)
世界で大ヒットとなる。

パーソナルコンピューターApple兇涼太犬如▲灰鵐團紂璽拭爾梁臀芦修進んでゆく。
これを受け日本でも各メーカーが次々とパソコンを発売。
時代の流れを読んだエプソンは、コンピューターの画面を簡単に印刷できる機械を開発。
1980年10月、パーソナルコンピューター用プリンターMP-80を発売した。(9ピンマイクロドットヘッド搭載。)
海外ではMX-80型の名で大ヒットし、EPSONの名を世界に知らしめた。
時代のニーズを捉えたMP-80は国内シェア60%を記録、驚異的な売り上げとなった。
1秒間に80文字を印刷できるなど、機能面でも大きな進化を果たした。

しかしMP-80の段階でも、印刷できたのはアルファベットと数字だけだった。
その後プリンターはパソコンの普及と共にオフィスのみならず、家庭にも浸透してゆく。
日本のプリンターの歴史を語る上で欠かせない家電ワープロ(Word Processor)。
1978年東芝が初めて日本語文章に対応したワードプロセッサーJW-10を開発。
最大8万語の漢字変換が可能。(当時の価格:630万円)

その後ワープロは手軽に日本語文章を作成し、印刷ができる家電として急速に普及。
パソコンをもしのぐ日本語処理能力を持ち、その使いやすさと手ごろな価格帯で販売されたワープロは、即座に一世を風靡する。
しかしワープロの天下が長く続くことはなかった。
1980年代後半になると、パソコンが安く小さくなり、優れた日本語入力機能を持ったパソコンソフトが普及。
そのためワープロは1989年をピークにその出荷台数は減少の一途をたどった。
そしてついに2002年に発売されたワープロが最後となった。

↑SHARP製WD-CP2(10万円)
日本語という複雑な文字文化を持つ日本で大ヒットした家電ワープロは、プリンターの発展に大きな影響を与えた。
1980年代後半に広く普及したワープロ、当時のパソコン用プリンターとは何が違っていたのか?
それは印刷方式。
1980年代多くのパソコン用プリンターが印刷方式に採用していたのがドットインパクト方式。
小さなピンを動かして紙に直接打ち付け印刷。
画数の多い難しい漢字の場合、非常に読みづらいという欠点があった。
一方ワープロが採用していたのは熱転写方式。
インクのついたリボンを熱の力で転写。
ドットインパクト式のプリンターよりも構造がシンプルなので小型、軽量化することも可能だった。
何より美しい文字の印刷が可能だった。

しかしある印刷方式の誕生により、パソコン用プリンターもワープロ並の印刷能力を身に着ける。
それが今なお多くのパーソナルプリンターで採用されているインクジェット方式。
インクを極小の粒にして紙に直接噴射する。
以前から開発されていたが、インクを出す時に目詰まりすることが多かった。
しかし1994年、インクジェットプリンターの進化を実感させるプリンター、MJ-700V2C(エプソン製)が発売された。(98000円)
圧倒的な高画質を武器に、国内外でヒット、カラープリンターの礎を築いた。
印字速度、華麗な文字、コスト削減など、いずれも従来のプリンターよりはるかに優れた機種。
そして何より驚くべきは、フルカラー印刷を実現したこと。
開発秘話「液体を小さな粒にするが、粒が安定して出ない。
ノズルの穴は当時30ミクロンぐらい、髪の毛の3分の1.
今までのプリンターはインクを写すのに機械的に写す。
しかしインクジェットは機械的ではなくインクを飛ばして写す。
当時カラーの画を出すのは計算処理がいる。
パソコン側でもプリンター側でも計算する。
その処理に時間がかかり、A4で画だと1時間近くかかった。」
その後デジカメの登場でプリンターの需要が高まる。
1994年プリンターの年間生産台数は1600万台を突破した。

そして1995年カラリオシリーズが登場。
1996年には歴史に名を残す大ヒット商品PM-700Cが登場。
プロのカメラマンも認める高画質プリント、印刷スピードも向上した。
化け物商品と呼ばれるほど大ヒットし、発売されるやいなや大ベストセラー。
その後70万台を売り上げ、後のインクジェットプリンターの世界を変えたとまで言わしめた。

PM-700Cの登場により、プリンターはパソコンの画面を印刷する機械から、写真を印刷できる機械へと変貌を遂げた。
さらに手で書く年賀状から、印刷する年賀状へと日本の伝統文化にさえも影響を与えた。
その後もオールインワンと呼ばれるコピーやファックス、スキャン機能がつくなど、進化を続けるプリンター。
このようにプリンターはこれからも私達の生活に大きな影響を与える家電となるだろう。
【インクジェットプリンターの仕組み】
モーターの回転により、ヘッド(インクカートリッジを搭載した部分)が移動する。
同時に紙送りローラーが回転し、紙を移動させる。
このヘッドと紙送りの連係動作により、スムーズな印刷が可能になっている。

どうやって高精度なフルカラーを実現しているのか?
インクは基本的にシアン、マゼンタ、イエロー、ブラックの4色に分かれている。
これは色の三原色に基づいている。
例えばイエローとシアンを同じ分量ずつ混ぜ合わせると緑色になる。
マセンタ+シアン=青・・・3色すべて混ぜ合わせると黒になる。
しかし黒は印刷でよく使うため、他のカラーインクとは別に単独のカートリッジになっている。
インクジェットプリンターは混ぜ合わせた色のインクを噴出しているのではなく、1色ずつ細かい粒状のインクを噴出して、紙の上で重なり合って様々な色を再現している。
インクジェットプリンターはインクの重なり方を計算しながら印刷しているのだ。

【プリンター選びのポイント】
値札の見方がポイント。
〆嚢皺鯀度(印刷できる画質の綺麗さ)
数字が大きいほどきれいに印刷できる。
▲ぅ鵐カートリッジ(独立型 OR 一体型)
主に文章を印刷する人は黒インクばかり使うので、一体型より独立型がおすすめ。
プリンターのオプション機能
両面印刷やDVDプリントなどができるかなど、買った後後悔しないよう確認しよう。

■EPSON EP-804A
無線LAN対応
スマートフォンで撮った写真を直接プリントできる
■EPSON PX-101
印刷機能だけのシンプルなプリンター
モノクロ印刷、HPなどのドキュメントの印刷・・・
使っているインクが顔料タイプのインクなので、普通紙に印刷した時にクッキリとした文字の印刷ができる
■CASIO PCP-200 プリン写ル ハガキ専用プリンター
パソコンを使わずにプリンターだけで完結できる
簡単に年賀状を作ることができる

■HP Scitex XP5100
埼玉県飯能市の山中にあるSigh Artec社所有
世界最大級のプリンター
本体:横9m 高さ2m
最大印刷範囲:幅5m 長さ50m
印刷するのは紙ではなく、店先のテントなどにも使われるターポリン(防水加工が施された特殊なビニール素材)

インクは車のガソリンのように、タンクにボトルで注ぎ込む
最大150/時=幅5mなら1時間に30m印刷可能
特殊なインクUV(紫外線)で硬化する
乾かすのではなく、光をあててインクを固まらせる

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暮しに役立つ家電の学校★洗濯機

料理の“さしすせそ”とは、サ=砂糖、シ=塩、ス=酢、セ=醤油、ソ=味噌。
戦前家事にも“さしすせそ”があった。
サ=裁縫、シ=躾け、ス=炊事、セ=洗濯、ソ=掃除。
この言葉が生まれた背景にあるのは、女性は1日中家事に追われているということ。
昔話でも・・・おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に選択に・・・
と洗濯はもっぱら女性の役割とされていた。
現在のように洗濯機がない時代、主婦達は手作業で1枚1枚洗っていた。
家事の中でも洗濯はかなりの重労働とされ、毎日洗濯するという習慣もなかった。

1930年、この苦労を解消しようと、芝浦製作所(現在の東芝)が、国産初の電気洗濯機・ソーラーA型を製造。
価格は370円、当時の銀行員初任給の5倍以上の高級品だった。
当時の説明書によると、洗濯容量はおよそ2.7kg(約シーツ4枚分)。
自動化されたといっても、洗いからすすぎにかけては自分で排水して、洗濯槽に水をいれてすすぎを行わねばならなかった。
脱水は上部についたローラーで、洗濯物を絞るという形だった。
今の洗濯機に比べるとかなりうるさい音が出るが、この音が、家に洗濯機があるという証、つまり自慢の音だった。
戦前に発表された電気洗濯機だが、値段が高く一般に普及するのは戦後になってからのこと。

1953年、洗濯機は大きく姿を変えて登場。
噴流式洗濯機・SW-55(三洋電機製)(価格:28500円)
大量生産が可能になり、今までの半値近くで発売。
これまでの洗濯機は撹拌式、洗濯機の中央に羽がついていて、往復運動で水をかき混ぜることにより、汚れを落としていた。
一方噴流式では、洗濯槽の横につけられたパルセーター(回転翼)が回り、水流を起こして汚れを落とす。

大まかな仕組みはモーターが回転するだけ。
構造が単純で安く造れるようになった。
その後パルセーターは底に移動、渦巻き式に。
少ない水で選択可能になった。
これが現在の洗濯機の方式の元となっている。
何ね近くになったといっても依然として高価。
さらに“洗濯は手洗いが一番”という古い価値観も壁となり、なかなか普及しなかった。
そこでメーカーがとった戦略は・・・
洗濯がいかに重労働かをアピール。
当時の宣伝文句は“洗濯は1年まとめると、ゾウ1頭丸洗いするようなものだ。
洗濯はまさに洗多苦だ。”
世の女性に、“年間675kgもの洗濯物を手作業で洗っている”と訴えかけた。
これらの戦略が功を奏し、徐々に洗濯機が家庭に普及し始める。
そして洗濯機は、白黒テレビ、冷蔵庫に並んでついに三種の神器と呼ばれるようになった。

当時の洗濯機、脱水はというと・・・
ローラーを手動でコロコロと回し、衣類を絞るというシンプルなものだった。
圧力でYシャツのボタンが割れてしまうこともあった。
そんな脱水の悩みを解決する新しい洗濯機が登場。

経済成長真っただ中の1960年、日本初の二槽式洗濯機・SW-400(三洋電機)(価格:45000円)が発売。
遠心力による脱水で、衣類を絞る手間がなくなった。
洗濯機にいれて、あとは干すだけ。
洗濯の負担を大きく軽減した。

その便利さによって、1956年の普及率が5.6%だったのに対し、7年後の1963年には51.5%にまで上昇。
洗濯機は爆発的な勢いで普及していった。
二槽式洗濯機には、洗い、すすぎの後、自分で脱水槽にいれるという手間があった。
しかしある洗濯機の登場により、その手間もなくなり、ますます便利になってゆく。

それが1980年代に普及した全自動式洗濯機、その背景には共働き夫婦が増えたこと、さらに生活スタイルが、「何度か着て汚れたから洗う」から、「汚れなくても着たら洗う」に変わっていったことがあげられる。
そして2000年代に入ると、乾燥機能がついた洗濯機が登場し、干す手間さえもなくなった。

【洗濯機の形】
ヨーロッパはドラム型、日本は縦型が主流。
日本は軟水なので、石鹸が泡立つ。
だからたくさんの水(溜め水)で泡立てて洗う。
ヨーロッパは硬水なので泡立たない。
だから濃度の高い洗剤水を作って叩いて汚れを出すので、叩き洗いのドラム型。

【二槽式洗濯機とドラム式洗濯乾燥機にはどのような違いがあるのか】
●東芝製・二槽式洗濯機VH-30S
省スペースのコンパクトボディ。
現在も発売されている。
洗い・すすぎと脱水が分かれているので、使い方によっては時短できる。
例えば汚れの少ないものを洗って、脱水している間に残った洗剤水で次の汚れのきついものを洗う。
仕組みが単純で、直感的に操作できる。(水流切り替えスイッチ強!弱!)
●ドラム式洗濯乾燥機
大幅な節水と、乾燥まで自動で行える。
夜家事する人が多くなってきたため、静音声と低振動が大幅に改善されている。
テミリットは少ない水で洗うので、黒ずみが目立つ場合がある。
タオルなどがゴワつくことがある。それは叩き洗いのため、パイルが寝てしまうため。
解決策は脱水後、干さずに乾燥機能を使う。
または干す前に10回ほどタオルを振ると、寝ていたパイルが起きる。

洗濯機は・・・
どうやって洗剤を入れているのか?
どうやって汚れを落としているのか?
どうやって乾かしているのか?
【東芝ZABOON(最新ドラム式洗濯機)の場合】
スイッチを入れると給水が始まる。
洗濯機の上部にある蛇口とつながった給水弁から入った水は、管を通り洗剤投入ケースへ。
流れ込んだ水は洗剤を溶かしながらドラムに流れ込み回転が始まる。
そして洗いの行程へ。
洗剤と混ざった水がドラムに流れ込み回転が始まる。
単純に回転しているだけではない。
この洗濯機では4パターンの洗い方を実現している。
^疥爐鮖ち上げて落とす叩き洗い
△気蕕砲修譴魘くしたパワフル叩き洗い
0疥爐鯏召して汚れを落とす、もみ洗い
ぐ疥爐鮃げて洗う、遠心洗い
回転の仕方を変えることで、いろいろな汚れに対応しているのだ。

次の行程は濯ぎ。
衣類から洗剤成分を洗い落とす作業。
.轡礇錙実ぎ:水を溜めずに上から水をかけながら濯ぐ。
新しい水を入れ続けるのではなく、循環ポンプで何回も水をくみ上げ衣類を濯ぐ。
その行程を2回繰り返して・・・
⇔め濯ぎ:水を溜めて濯ぐ。
洗剤成分を徹底的に洗い落とす。

次の行程は脱水。
衣類の水分を絞り出す作業。
遠心力で水分を飛ばす。
この時1分間に高速1600回転。
脱水時、ドラムは揺れても洗濯機自体は揺れていない。
それはドラムをサスペンションで支え、揺れを吸収しているから。
最後は乾燥の行程。
ドラム内に暖かい風を送り込んで乾かす。
最近ではヒートポンプ技術が使われている。
これはエアコンの仕組みと同じ。
暖房をつけると空気を乾燥させながら暖まる。
ドラム内にエアコンと同じ乾いた風を送って、水分を飛ばし乾かしている。

【洗濯機の疑問】
Q.水を出したままでもホースが破裂しないのはなぜ?
A.給水弁の部分が蛇口の役割を果たしている。
Q.最新の洗濯機はどうやって洗濯量を量っているのか?
A.最初に衣類をいれるとしばらく回る。
回転時の抵抗力によって量を量っている。
抵抗が大→洗濯量が多い、抵抗が小→洗濯量が少ない
Q.軽いけどかさばる毛布の場合は?
A.計量は何回か行われる。
水位と洗濯量を計算しながら必要な場合はまた注水を行う。
Q.標準モードとスピーディーモードの違いは?
A.標準モードは一番電力のかからない洗い方。
スピードモードは消費電力よりも速さを優先する。
濯ぎの回数を減らすなど、どこかの行程を飛ばすということはない。
Q.一番落としにくい汚れは?
A.口紅、油脂分と染料があるため落ちにくい。
油分は結構落ちる。
Q.洗剤の量は多めの方がよく落ちる?
A.多いとかえって落ちにくくなる。
敵量が大事。
特にドラム式の場合、泡が立ちすぎると叩き洗いの時、泡がクッションになり叩き具合が甘くなってしまう。

【最新式洗濯機の新機能】
■HITACHI ビッッグドラム
ドラムの中に時速約300km/hの高速封を吹き付けることで、衣類のしわを伸ばし、アイロンがけの手間を軽減。
今までの自動選択乾燥機で起こったシワが少なくなり、そのまま着られる優しい仕上がりへ。

■Panasonic NA-VX7100 ななめドラム式洗濯乾燥機
泥汚れセンター、汗汚れセンサー、布量センサー、乾燥センサーの4つのセンサーで無駄を見つけて自動で節電、節水する。
例えば衣類の汚れが少ない場合、水と時間をセーブ。
脱水しやすい衣類が多い場合は脱水時間をセーブ。
乾きやすい衣類が多い場合は消費電力をセーブしている。
■SHARP プラズマクラスター洗濯乾燥機
ハンガードライ機能:洗濯槽内に直接ハンガーを吊るし、乾燥が可能。
シワや乾燥ムラが少なく、短時間で仕上がりアイロンがけがしにくいブラウスなどに効果を発揮してくれる。

■東芝 ドラム式洗濯乾燥機 ZABOON
衣類の偏りによる振動を抑え時間通りに洗濯が終わる。
低騒音、低振動。
振動を抑えるのはアクティブサスペンション:電子制御で状況に応じてバネの硬さを変えられる装置。
新幹線や車などにも利用されている。

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