ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
<< December 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
LINKS
カスタム検索
RECOMMEND
PROFILE
SEARCH
おどろき日本の底力!横浜巨大建築物語


横浜ベイブリッジ
主塔から斜めに張ったケーブルで橋を吊る美しい斜張橋。
開通したのは1989年、念願の橋の完成を横浜市民3000人が走って祝った。
開通当初から、橋から見える景色が人気となり、多くの人がおしかける。
橋の上に駐車する人々も現れ、大きな社会問題となる。
橋そのものが観光名所だった。
おりしも時はバブル絶頂期、当初流行していたトレンディドラマの舞台としても度々登場する。
塔と塔の間は460m、当時長さ日本1の斜張橋。
主塔の高さはビル45階分に匹敵する175mで当時世界1。
だが建設は困難の連続だった。
橋の建設が最初に計画されたのは1960年代半ば、その頃横浜港は東洋1の貿易港として世界中から荷を集めていた。
しかし道路整備の遅れが発展に待ったをかけた。
コンテナを運ぶトレーラーで市内の道路は大渋滞、横浜を離れ、神戸や東京に拠点を移す業者も出始める。

港横浜のピンチを救おうと動き出した男がいた。
市の道路局に勤める池澤利明には、あるアイディアがあった。
港の入口に巨大な橋をかけ、バイパス道路でトラックが町を通らなくてすむようにする。
ところが建設省はこの道路を橋ではなく、海底トンネルで作ろうと計画していた。
池澤は納得いかなかった。
この道が通る場所は町のどこからでも見える、だから港横浜の再生のシンボルとなる橋でなければならない。

横浜に相応しい橋を求め、池澤は世界へ飛んだ。
サンフランシスコの吊橋ゴールデンゲートブリッジ、ニューヨーク、アーチ型のヘンリーハドソン橋にトラス型のクイーンズボロー橋、どれもごつすぎて横浜のイメージに合わなかった。

池澤の思う理想の橋、それはドイツで見つかった。
ライン川にかかるクニー橋、当時世界でもあまり例のない斜張橋だった。
長さの違うケーブルで橋を吊るため、強度の計算が複雑で、コンピューターが普及するまで作ることが難しかった。
しかし池澤は、その美しさに一目ぼれした。
池澤の夢は動き出す。

1977年横浜ベイブリッジは斜張橋で建設されると決定、1978年5月本格的な調査がスタートする。

建設には大きな課題があった。

橋をかける場所は日に1000隻豪華客船も通る国際航路、海の幹線道路だった。
従来のやり方では主塔を建てる時、その周りに作る足場などで広い面積が必要となる。
これでは航路にかかり、船の邪魔になる。

そこで海底油田などで使われる工法に目をつけた。
必要な機材をすべて海に浮かぶ作業場の上に載せて海底を掘削し、基礎を打ち込む。

このやり方なら横に張り出す足場も必要なくなり、船の邪魔にならない。
さらにこれを橋の基礎の一部にし、主塔を建てる。

作業場をそのまま建造物にするという橋として世界初のアイディアだった。


1982年、橋の基礎を兼ねた作業場PCバージの建造が13km離れた金沢ドッグヤードで始まった。
45階建てのビルに匹敵する主塔を支えるため、鉄とコンクリートで頑丈に作り上げる。

10ヶ月後、ドッグに水をいれ、この巨大なコンクリートの塊を動かす。
重さおよそ16000トン、小型のタンカーに匹敵するPCバージが完成した。

大きさはテニスコート12面分、タグボートに引かれ、横浜の海を渡る。
到着の瞬間を見ようと多くの人々がかたずをのんで待ち受けていた。
PCバージは無事建設現場に据え付けられた。

1983年8月PCバージの上で主塔を建てる準備が始まった。
しかし基礎を打ち込むための掘削に大きな課題があった。

それは海底の地形、建設予定地の地質図をみると、主塔を建設するのは港の中の最も深い場所。
基礎を打ち込める硬い地盤は60mものヘドロがたまったさらにその下、海面下70mのところにあった。
少しずらせば浅い場所があるが、航路があるため移動できなかった。
海面下70mでは水圧は1屬△燭70トンにもなる。

当時主流だった人がケーソンという巨大な箱のなかで作業する工法では無理だった。
不可能を可能にするミラクルはないのか。
答えは九州の炭鉱にあった。
当時炭鉱は落盤、爆発など多くの死傷者を出す大事故に度々見舞われていた。
こうした危険を少しでも減らそうと開発されたのがロードヘッダー、人が離れた場所で操作できる完全遠隔操作の機能がついている。

問題は想像を絶する超高水圧、機械の隙間から水が入り動かなくなる可能性がある。
解決策は機械の内部を油で満たし、その油に圧力をかけて水が入ってこないようにすること。

試作機を作っては試し4年後ついにベイブリッジ専用のロードヘッダーが出来上がった。
名付けてアクアヘッダー、油圧によって一滴の水も入らない新兵器だった。
1984年アクアヘッダーが水の底に降ろされ、ついに始動する。

順調ならば円を描くように掘削するはず。
正常に作動したことを示す円の奇跡が映し出された。
さらに確実な証拠、削られた岩盤もはき出された。
工事は一気に進んだ。

PCバージの上に主塔が組みあがる。
1987年、主塔完成。

1989年9月、横浜ベイブリッジついに完成。
12年の歳月、そして技術者たちの情熱とアイディアを結集し、純白に輝く横浜の新たなシンボルが誕生した。
その年ベイブリッジを渡った車は1580万台、日本全国の5台に1台の数にあたる。
6車線の道路は横浜の渋滞を劇的に減らした。
ベイブリッジの父、斜張橋に魅せられた池澤が思い描いた横浜らしい粋な橋は市民に受け入れらた。

完成から四半世紀、浜っ子の誇り、ベイブリッジは港の入口を守るように立ちつづけている。
ケーブルの形と富士さんの形、両方とも引っ張る力と塔が持ち上げる押す力、様々な力の絶妙なバランスが橋の美しさを生む。

メンテナンス・・・
非常階段をあがり点検用通路キャットウォーク、高さ45m幅50cm、風や車両の振動で常に揺れている。

メンテナンスポイント‥描のハガレをチェック
橋にとって塗装は命、特に強い海風が吹き付けるペイブリッジでは、塗装のハガレを放っておくと腐食につながるため要注意、少しでも腐食を見つけたらすぐに塗り直す。

メンテナンスポイント⇒論槁瑤離船Д奪
チェックするのは亀裂、溶接部は橋の揺れによるヒズミが溜まりやすい場所、破断につながる恐れもある。

橋げたの下、桁下点検車、橋の下を移動しながらメンテナンスできる。

定期点検では2日間かけて主塔と主塔の間を念入りに調べてゆく。

橋桁は中が空洞になっており、人が入れるようになっている。

橋を見守る秘密兵器地震計、橋の揺れを常に観測している。
地震計は橋全体で36ヶ所、主塔の海面下の部分にもつけられている。
ここで得られたデータは他の橋を設計する際の貴重な資料として活用される。
東日本大震災のデータを解析したもの▼

揺れは予想よりも小さく、橋の安全性が確認された。
主塔のメンテナンスカメラや航空障害灯など橋の安全を守る様々な設備が取り付けられている。

2人しか乗れないエレベーター、高さ175m主塔の上には所せましと様々な保安器具が並んでいる。
航空障害灯のランプは5年に1度取り替える。
総点検は20人で20日間かけて行う。

大桟橋
全長480m、海に向けて長く突き出た大桟橋、ここから旅立つ船は年間300隻、クルーズ船の発着数は日本1、世界に開かれた海の玄関口。

出入国ロビーは国際空港さながら、屋上の送迎デッキのモダンなデザインは世界41ヶ国から国際コンペで選ばれた。

公園として一般にも開放されている。
屋上は波をイメージしたもの。

元祖巨大建築・大桟橋が作られたそもそものきっかけは・・・?
黒船来航、強力な武力を背景にアメリカは日本に開国を迫った。
幕府に激震が走る、外国人が直接江戸に来たらたまらない。
そこで目をつけたのが江戸から適度に離れた横浜だった。

その頃は横浜村と呼ばれ、戸数100足らずの小さな漁村だった。
村人は海で獲れるナマコなどを主な収入源に細々と暮していた。
そんな横浜の風景は開国で一変、外国人が暮す居留地が建設され、数多くの外国船が出入りする近代的な港が築かれてゆく。

そのカナメとして計画されたのが外国船が横付けできる海から突き出た大きな桟橋だった。
平成になって行われた改修工事で当時の大桟橋のとてつもないスケールが明らかになった。
引き上げられたのは大桟橋の土台となった鉄製のらせん杭、先がスクリューのように回転し、深さ20mの海底にねじ込まれた。

鉄を大量生産できなかった日本はこれらをイギリスから輸入した。
その数100本、貴重な鉄の杭を惜しみなく使い、日本の玄関口となる港の建設を急いだ。
こうして明治27年、大桟橋がついに完成した。

港が整備されるにつれて、横浜には舶来の新しい文化が次々と上陸、ここから全国へと広まり、日本の近代化を進めていった。

洋服や自転車、馬車に鉄道、さらにサーカスまで・・・

他にも横浜から広まったものはたくさんある。(ビール、パン、アイスクリーム・・・)

大桟橋で最初に降ろされたものは生きた牛190頭、日本で初めて牛鍋を食べさせる店ができたのも横浜だった。
老若男女が競って横浜を訪れ、ハイカラさを味わった。

大桟橋は物だけでなく、人の交流も推し進めた。
夏目漱石もここからヨーロッパ留学に旅立った。
さらに喜劇王チャールズ・チャップリンや野球の神様ベーブ・ルースなど、多くの外国人が大桟橋を通過した。

日本を変えた大桟橋、その建設を支えたのはチャレンジ精神あふれるある男の活躍だった。
男の名は増田萬吉、明治半ば一旗揚げようと横浜に出てきた若き実業家だった。
両脇に立つ奇妙な井出達の男2人は潜水士。

萬吉が眼をつけたのが大桟橋建設に伴う日本初の海中工事、海中での土木工事には、潜水士の作業が不可欠、海に潜り、地上と同じように建築資材を組み立てたり、測量したりしなければならない。
そこで萬吉はオランダに渡って当時最新の潜水技術を習得、手回しで空気を送り込む潜水具を自ら制作した。

そして海に潜り、大桟橋の周りの基礎工事を行った。
萬吉から始まった海中工事の潜水士、その技は今も受け継がれている。
頼りになるのは地上から空気を送るホース1本、時には100kgもある石を運び、地ならしを行う。

ネジを締めたり溶接するなど、精密な仕事は今も手が頼り。
舞い上がった海のヘドロが視界を奪う。
酷い時は数cm先さえ見えなくなる。

突然の潮の流れに捕まれば、命を落としかねない危険な仕事。
大桟橋以降も潜水士達は埠頭や港湾設備の工事に携わり、横浜の港建設には欠かせない存在となってゆく。

大桟橋の誕生と前後して、横浜には様々な西洋建築が建てられてゆく。

山手地区には外国人が邸宅を構え、今もモダンな洋館がたたずむ。

横浜ランドマークタワー
1993年完成、地上70階、高さ296m、営業中のビルとしては現在も日本1の高さ、その高さならではの魅力がたくさん詰まっている。

展望フロアーへ向かうエレベーター、床に10円玉を置いて上昇しても倒れないほど。
日本で一番速いエレベーター、静かで揺れない、スピードは分速750m。
乗り心地は抜群、およそ40秒で展望フロアーに到着。
高さ273mの展望フロアー、スカイガーデンからは横浜ベイブリッジや赤レンガ倉庫、大桟橋といった横浜の観光名所はもちろんのこと、東京スカイツリーまで見渡すことができる。
その高さゆえ、横浜のどこからでも見える目印、その名の通りランドマークとしてそびえている。
末広がりのユニークな形も訪れた人の印象に残る。

ビルの外壁には花崗岩を使うことでお城の石垣をイメージ。
高層階のデザインは神社の鳥居をモチーフにしている。
さらに外壁がデコボコしているのは窓を多くとり、眺望を楽しんでもらうため。
1〜48階にはオフィス、その上の70階まではホテルが入っている。
その66階、エグゼクティブスイートルーム、広さ88屬離薀哀献絅▲蝓爾紛間。
人気の秘密はその景色、横浜のベイサイドを独り占め。
夜ともなれば、煌めく横浜のロマンチックな夜景を独り占め、この光の大パノラマは訪れた人だけの特権。

建物が高くなると揺れが大きくなり、揺れ方も変わる。
完成からおよそ20年、日本1の超高層ビルとして君臨してきた横浜ランドマークタワー・・・
ぶち上げた高層は高さ296m、それまでの記録を一気に50m以上塗り替えた。
設計チームの中心メンバーの1人豊泉正雄(三菱地所設計担当 当時)「未曽有の挑戦だったので、設計を始めた当初は何が本当の問題点なのかわかっていない部分もあった。」
未知の高さのビルに襲い掛かる揺れ、その最大の原因となったのが風だった。
それまでの日本の超高層ビル、サンシャイン60や東京都庁などはいずれも内陸部に建設されていた。
しかしランドマークタワーが建てられたのは海のすぐ近く。
かつて港町横浜の産業を支える造船所があった場所。

1983年造船所を解体し再開発する計画が始まった。
みなとみらい21、広大な臨海部にオフィスや商業施設を造り、横浜発展の起爆剤とする。
その新しい町のシンボルとなるのがランドマークタワーだった。
しかしここは障害物がほとんどなく、海風をもろに受ける場所、内陸部に比べ、平均風速は1.5倍にもなる。
さらにビルの未曽有宇の高さが困難に拍車をかけた。
風は高い所ほど強く吹き、地上と高さ300mとでは2倍違う。
例えば地上で傘がさせないほどの風でも、高さ300mでは電柱が倒れることもある強さになる。
実際風はビルにどのような影響を与えるのか、風洞実験を繰り返すと意外なことが分かった。
強い風があたるとビルが揺れてしまう。
しかも激しく揺れるのは風の方向ではなく、横方向、この横揺れを起こしているのは特殊な空気の渦。
建物にあたり複雑に乱れた風が大きな渦巻きを作る。
カルマン渦と呼ばれる現象だ。
さらに高さが250mを超えると、風による横揺れは急激に大きくなった。
高さ250mがいわば大きな壁だった。

それまでの超高層ビルはビル全体を軽く柔軟に造り、揺れを受け流す柔構造が常識だった。
1968年に完成した霞が関ビル以来、柔構造が日本のすべての超高層ビルで採用されてきた。
しかしランドマークタワーはこの考え方だけでは実現できない。
250mの壁・・・設計チームはそれを超える画期的なアイディアを生み出した。
地中の基礎、そして8階までの低層階の部分はがっちり固め、ほとんど揺れない構造にする。
そして9階以上はしなやかに揺れる柔構造にする。
足元をまるで大地のように固める疑似大地化、これによりビルの実質的な高さを250mに減らすという画期的なアイディア。

1990年3月、疑似大地化工事ヾ霑誕い蠅魍始、まず地中に硬い基礎を造る。
7月7日その成功のカギを握る前代未聞の挑戦が始まった。
1枚岩のようにゆるぎない基礎を造る。
そのため4.5mの深さまで2日間かけて一気にコンクリートを流し込む。
朝7時注入作業開始、ミキサー車4000台分のコンクリートが用意された。
作業員は300人、休むことなくコンクリートを流し続けた。
夜8時作業員が交代して夜を徹して懸命の作業が続けられた。

7月8日、2日目の朝が来た。
作業員は再び交代し、360人体制でラストスパート。
足がはまらないよう、カンジキのようなものを付けて作業し、表面を丁寧に均す。
再び夜となり、午後10:30、作業員総出でコンクリートの仕上げ作業。
そして・・・
前代未聞の39時間ぶっ続けでコンクリートを注ぐ作業が終わった。
疑似大地化のための地中の基礎がまず出来上がった。

疑似大地化工事低層階、鉄骨で頑丈な骨組みが作られてゆく。
8階までの窓をなくし、壁をコンクリートでガチガチに固めた。
さらに鉄骨の柱の内部にもコンクリートを充填し、硬く重くする。
高さ40mの柱の中に一気にコンクリートを流し込む。
しかしそこには課題があった。
鉄骨の内部には梁があり、コンクリートの行く手を邪魔している。

隙間のできない特殊なコンクリートが必要だった。
そんな魔法のようなコンクリートを開発した男がいた。
東京大学教授・岡村甫だ。
1970年代橋や高速道路でコンクリートのひび割れが見つかった。
原因の1つが工事の際コンクリートが隅々までいきわたらずにできる隙間だった。
そこで岡村教授が開発したのが世界初の高流土コンクリート、まるで水のように滑らかに流れる。
複雑に入り組んだ鉄筋の間を隅々まで流れ、隙間ができない。
従来のコンクリートではそうはいかない。

この魔法のコンクリートを使い、ランドマークタワーの低層階を頑丈に固める作業が始まった。
下から充填した高流土コンクリートは、1時間ほどで柱の隅々までいきわたった。
こうして疑似大地化の作業が完了、人間が大地を造りだしたのだ。(1991年7月)
高流土コンクリートは海外でも高い評価を受けている。
中東ドバイ、世界1の超高層ビル、ブルジュ・ハリファ(高さ828m)の建設にも使われた。
1982年4月、工事はいよいよ未曽有の高さに突入。
高さは250mを超え、時には雲の上の作業となった。
普通のビル工事ではありえない光景だ。
強烈な海風が容赦なく襲いかかる。
強風が吹く高い場所での作業は危険を伴う。
できるだけ地上で柱や梁などをくみ上げてから積み上げた。
そのために日本最大のタワークレーンが作られた。
3階建てのビルほどもある巨大な鉄骨も軽々と吊り上げる。
そしてついにその全貌が現れた。
1993年7月、横浜ランドマークタワー完成。
日本が誇る最先端の技術と画期的なアイディアが横浜に新しいシンボルを誕生させた。

ただ今メンテナンス中・・・
日本最高速のエレベーター、振動も騒音も全くない。
乗り心地抜群の秘密は?

エレベーターで人が乗るのはカゴ室、これがロープで吊るされ、巻き上げ機でロープを巻くとガードレールに沿ってカゴ室が登り降りする。
ランドマークのカゴ室は全長7m、客が乗るのは中央部分、上下の流線型カバーは空気抵抗を減らし、騒音を抑える効果がある。

作業員は流線型のカバーの上に立ち、ロープの緩み具合を点検する。
カゴ室を吊っているのは直径1.8センチのロープ10本、そのロープが1本でもたるむとカゴ室のバランスが悪くなり揺れの原因となる。

ロープを揺らすと、揺れが上までいって戻ってくる。
この揺れが5往復する時間をストップウォッチで測る。
全てのロープで比較すると、たわみ具合がチェックできる。
それぞれのロープのタイム差は0.13秒、問題なし。

そしてもう1つ、エレベーターの要となるのが壁に据え付けられたレール。
エレベーターは電車のようにレールに沿って動く。
もしレールのつなぎ目に少しでも段差があれば、高速で走行すると振動と騒音が発生する。
何10年たってもゆがみもずれもないレール、それを設置する神業を持った男がいる。
山村純裕(エレベーター据え付け技術士)、日本全国、そして世界の高層ビルの現場を渡り歩いたエレベーター職人。
据え付けるレールは1本4m、それをなんと75本も寸分のくるいもなく一直線にたててゆかねばならない。
まず金属の定規をレールにあて、次に取り出したのが薄い板。
わずか0.02ミリの薄さ。
これで隙間をチェックする。隙間があるとレールがまっすぐ立っていない証拠。
100分の1ミリ単位で微調整を繰り返す。

このエレベーターのレールは東日本大震災でもびくともしなかった。
緻密な据え付けと定期的なメンテナンスによって日本最高速エレベーターは支えられている。
ランドマークで培われたこの技術は、世界をリードしている。
2014年中国上海で完成予定の上海中心人厦(高さ632m)、日本のメーカーが作るエレベーターは、分速1080m、世界最高速の記録を塗り替える予定。

69階展望フロア、地上273mに突如現れた清掃用ゴンドラ。
展望フロアはなんといっても眺望が命、こまめに窓の掃除をしている。
普通のビルのゴンドラは屋上から吊り下げて作業する。
しかし複雑な形をしているランドマークタワー、吊り下げ式のゴンドラだと壁の凸凹に邪魔され移動できない。

そこで壁には地上から最上階まで縦にレールを埋め込み、これに沿ってゴンドラをワイヤーで引き上げて移動させる。
さらに各階横方向にもレールがある。
このレールをつたって親機から分かれ子機が出動。
こうしてゴンドラが壁を縦横無尽に動き回るため、隅々まで清掃できる。
全ての窓清掃をするの1ヶ月かかる。
風速10mで作業は中止。

横浜西洋建築物語
横浜赤レンガ倉庫、明治44年、税関の倉庫として完成。
ヨーロッパ直輸入のレンガ建築の技術を持ち多。
レンガ建築の最大のメリットは日本の木造建築に比べ火災に強いこと。
重さ400kgの鉄の扉で倉庫を密閉する防火設備が整えられていた。
火に強い上に見た目も美しい、横浜にはレンガ造の建物が次々と建てられていった。

そんな赤レンガ倉庫にも大きな弱点があった。
それは地震、地震国日本で建設するに当たり、耐震補強をしてはいたが関東大震災で大きな被害を受けた。

その後地震に強い鉄筋コンクリートが主流となり、レンガ造りは町から姿を消してゆく。
そして赤レンガ倉庫も・・・
港の片隅で荒れるにまかされていた。

時は経ち2002年、5年の修復作業を経て赤レンガ倉庫は往年の輝きを取り戻した。
日本が近代化に向かっていたあの時代の息吹、赤いレンガ倉庫は今もそれを感じさせてくれる。

一方赤レンガ倉庫のすぐ近くにある大桟橋、屋上に不思議なマークがある。
塔のような建物が3つ描かれている。

この方向に顔をあげているとキング、ジャック、クイーンの愛称で親しまれる横浜を代表する3つの塔を見ることができる。
周りのビルを消して当時の風景を再現してみよう。
3つの塔が際立つ平らな地形の横浜は、目印になるもがなかったので、船乗りたちが海から見て一目で港とわかるよう、塔が建てられた。
つまり横浜の元祖ランドマーク。

古い順から見てみよう。
ジャックの愛称を持つのは大正6年に建てられた横浜市開港記念館、赤いレンガの塔は関東大震災の揺れにも耐えた貴重な建造物。

キングの愛称を持つ神奈川県庁本庁舎(昭和3年)、一見洋風建築だが、塔の頂には日本のお寺に見られる相隣が漬けられた和洋折衷の建物。

クイーンは横浜税関(昭和9年)、塔の先端はイスラ
ム建築を模したドーム型。
帽子をかぶった女性にたとえられた。

海からの見た目を意識した横浜の建築哲学、今のみなとみらいにも生かされている。
ランドマークタワーから右に向かってビルのスカイラインが下降線を描いている。
ならだかな丘のように海に向かって徐々に低くなるよう設計士、景観の美しさを意識的に作り上げた。
みなと横浜を彩る数々の名建築、機能だけでなくデザインも重視する横浜のDNAは今も受け継がれている。

横浜のもう1つの顔、夜景。
横浜は日本で初めてガス灯が灯された街、街に埋もれていた歴史的建造物もライトアップされ、生き生きと輝き始める。
昭和初期に活躍した氷川丸も・・・

東京湾アクアライン
ベイブリッジから臨む横浜、ここから北へおよそ17km、川崎市の湾岸に東京湾アクアラインの玄関口浮島出入り口がある。

東京湾の真下を貫く全長9.6kmの海底トンネルは、自動車道路としては世界最長を誇る。
東京湾の真上に浮かぶのは豪華客船をイメージしたパーキングエリア・うみほたる。
名前の由来は東京湾に生息するプランクトン、青い光を放つ神秘的な生き物ウミホタル。
アクアラインが開通したのは1997年12月18日、アクアラインは神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ全長15.1kmの高速道路。

海面下60mを通る海底トンネルと巨大な橋、途中には2つの人工島がある。
このアクアライン完成までの道のりは苦難の連続だった。
調査開始から完成まで32年、総工費は1兆5000億円、土木のアポロ計画とまで呼ばれた前代未聞の大工事。
日本の土木にとって大きな飛躍の1歩となった。
東京湾アクアラインを成功に導いた男・内田恵之助(84歳)、大好きな蒸気機関車は部品からすべて内田の手作り。
完成まで6年かかったという。

内田は数々の道路建設を行ってきた道路のスペシャリスト、その経験を買われ、もっとも困難な時期に参加、計画、設計、施工など工事のすべてに携わった。
壮大な計画の始まりは昭和30年代までさかのぼる。
その頃の東京湾はまだ豊かな漁場が広がるのどかな海だった。
「もはや戦後ではない」を合言葉に、全国で様々な巨大建築のプロジェクトが進められた。
一方で首都圏の交通渋滞は大きな問題となっていた。
そこで首都圏の渋滞を迂回するバイパス道路として東京湾を横断するアクアラインが計画された。
当時海底トンネルの工法は、巨大なコンクリートの箱をあらかじめ作り、これを沈めて繋ぎ合わせるというやり方が一般的だった。
ところが海底に巨大な箱を沈めるとヘドロが舞い上がり、海が汚れる。
地元の漁師やのりの養殖業者から猛反発が起きた。
海運関係者からも反対が噴出した。
東京湾は1日1400隻もの船が往来する過密地帯、工事は船の航行の邪魔になる。
強い反対でアクアライン建設計画は頓挫しかかった。
内田はこうした問題を一挙に解決できるある技術に着目した。
それはシールド工法、鋼鉄製の筒の前面についたカッターを回転させながら、トンネルを掘り進む。
それと同時に後ろでトンネルの壁を組み立ててゆく。
当時はまだ下水道や地下鉄工事で使われ始めた技術だった。
トンネルの直径は10m以下、1度に掘る距離も2kmがやっとだった。
だがこの工法なら、海を汚さず船の邪魔にもならない。

ところがシールド工法の導入は簡単なことではなかった。
内田の前に大きくたちはだかったのは、日本道路公団総裁・高橋国一郎、高橋は当初からアクアラインの計画に携わってきた。
しかも瞬間湯沸かし器とあだ名されるほど血の気が多く、怒らせたら怖い。
海のものとも山のものとの分からないシールドマシーンで10kmもの海底トンネルが掘れるのか、内田は高橋を必死に説得した。
根負けした高橋は自らシールド工法の工事現場を歩いて回った。
ある日内田に向かって高橋がポツリと言った。
耐震性はどうなのか・・・
あらゆる疑問を内田にぶつけた末に納得した高橋、とうとうシールド工法への変更を承諾した。
1989年5月、調査開始から23年を経てついにアクアラインの工事が着工した。
成功のカギを握ったという場所へ・・・

海面下60mにあるトンネルのさらに真下に設けられた避難用通路を通り、目的の場所へ向かう。
エレベーターで地下6階から1階(建物の屋上)へ。
目の前に現れたのは2つの巨大な塔、これは東京湾の真ん中に作られた川崎人工島。
現在は航行する船の目印として東京湾のランドマークとなっている。

アクアラインの海底トンネルの長さはおよそ10km、ところが当時のシールドマシーンの性能では、2kmを彫るのがやっとだった。
そこで全工区を8つに分割して8機のシールドマシーンで掘ることにした。
そのためにシールドマシーンを海底に降ろす基地として作られたのが人工島だった。
4機の巨大なシールドマシーンの発進基地となった川崎人工島、しかしこれを作るのが最初の難関だった。

人工島建設の最大のポイントとなったのは巨大な茶筒のようなコンクリートの壁、直径104m、高さ119m、30階建ての巨大なビルを海の中に建てるようなもの。
世界的にも例のない挑戦だった。
内田が何よりも恐れていたのは水圧、水深わずか10mほどでも石油缶を押しつぶしてしまうほどの水の圧力。

人工島の底は海面下119m、水圧は1屬△燭120トンにもなる。
この強烈な水圧に耐える唯一の方法は壁を正確な円、つまり真円に作ること。
海中でこれほど巨大な真円の壁を作る工事は世界中行われたことがなかった。
1990年9月人工島の建設が始まった。

鋼鉄製の二重の枠の間に巨大な壁は作られる。
直径104m、壁の厚さ2.8m、巨大なドラムカッターが海面下119mまで掘り下げる。
許される誤差は直径104mに対してわずか7cm、最新鋭のシステムでセンサーの数値を見ながら海底下のドラムカッターの動きをチェック、慎重に掘削が進められた。

だが東京湾の海底の複雑な地相が作業の障害となる。
硬い地盤が刃を横滑りさせる。
瞬時に地盤を読み、機械をコントロールする熟練の経験と技で難工事に挑んだ。
一瞬の気も抜けない掘削工事、それを終えると鉄骨を建て、コンクリートを打ち込み壁を作る。
続いて壁内部の大量の土砂を排出した。

こうしてついに巨大な真円の壁が姿を現した。
直径104mに対し誤差は5cm以下だった。
壁が完成した川崎人工島(1994年11月)、ここにいよいよシールドマシーンが搬入される。
直径14.1m、操縦w用3150トン、世界最大のシールドマシーンだ。
シールドマシーンを待ち受けているのは160トンにもなる高水圧、さらにマヨネーズよりも少し硬い程度しかない軟弱な地盤。
この厳しい条件の中で2kmを超える距離を掘らねばならない。

そこで導入されたのが泥水加圧式シールド工法、カッター部分に泥水を送り込み、高い圧力をかけることで軟弱地盤の崩落を防ぎながらトンネルを掘ることができる。

しかしこれまでのシールドマシーンには大きな弱点があった。
シールドマシーンの最後尾の4cmの隙間、高水圧の場所だとこの隙間から水が浸入し、最悪の場合大事故につながりかねない。
このシールドマシーン最大の問題を克服することははたしてできるのか・・・

鉄建建設、建設技術総合センター、斎藤雅春はその解決を任された開発チームの一員、シールドマシーンの水漏れを克服する画期的な製品を生みだした。
ワイヤーブラシというテールパッキンの装置、無造作にワイヤーを束ねたようにも見える。
あるものをヒントに開発された。
それは茅葺屋根、茅は1本1本は細くても、何重にもなることで水を通さない。
しかも水分を吸うと膨らむため、さらに水を吸う効果がある。
斎藤たちは茅が水で膨らんだ状態に近づけるために特殊なグリース(潤滑剤)をブラシの間に塗った。
こうしてシールドマシーンの弱点だった水漏れを完全に止めることに成功した。
海底トンネルの工事は着々と進み、1996年5月31日、海の下を掘り進んできた2機のシールドマシーンが出会う日を迎えた。
向かい合った2機のシールドマシーン、そのずれはわずか水平方向に3ミリ、垂直方向に4ミリだった。

1997年12月18日、東京湾アクアライン開通、うみほたるには巨大トンネルを掘ったシールドマシーンの刃が今も飾られている。

シールドマシーンの発進基地として工事成功のカギを握った川崎人工島、今は海底トンネルの換気塔として、「風の塔」の名で親しまれている。
アクアラインの完成後に作られた写真集、“現場こそ工事基本”という内田の思いから生まれたもの。
そこに写っているのは現場で一心に働く人々の姿。

土木のアポロ計画といわれた東京湾アクアライン、前人未到の挑戦を成功させたのは、工事の携わった延べ460万人の力だった。

| poyo | 建築 | comments(4) | trackbacks(0) | - |
Ancient Mega Structures☆Istanbul's Hagia Sophiaアヤ・ソフィア

トルコ、イルタンブール、かつてコンスタンティノープルと呼ばれた町。
その象徴ともいえるのが巨大な大聖堂、暴動が生んだ建造物。
ローマ帝国の栄光を取り戻すべく建てられた。
その広さはウィンブルドンのセンターコートの8倍以上。
崩落を経験するも、地震や戦乱をくぐり抜けてきた。
東ローマ帝国史上最高の教会、それがアヤ・ソフィア。

トルコ北西部、黒海と地中海を結ぶように位置するIstanbulイスタンブール、かつてConstantinopleコンスタンティノープルと呼ばれた場所。
ここを首都とした東ローマ帝国はラテン語ではなく、ギリシャ語を話す地域で、数々の侵略を乗り越えてきた。
しかし1453年にオスマントルコの手に落ち、名前もイスタンブールに変わった。
象徴的な建造物を言えば2つのモスク。
その内の古いほうがアヤ・ソフィア、ギリシャ語で聖ソフィアを意味する。
しかし当初はモスクではなく、東ローマ帝国時代にキリスト教の教会として建てられた。
建てられるキッカケとなったのは、ある暴動だった。

532年1月、町を荒らしまわる暴徒達。
その正体は馬車レースにおける党派を応援する人々だった。
党派とは馬車レースに出場する選手のサポーターというだけではなかった。
近所の人々や家族、さらにはコンスタンティノープルの団体が組織化されたもの。
政治的な団体でもあり、お互いに競い合っただけでなく、6世紀には皇帝をも敵に回した。
荒々しい党員たちの小競り合いは、一瞬にして乱闘に発展する。
やがて数1000人の暴徒が町中で暴れまわり、次々と火を放って行った。
これがニカの乱。
即位してわずか5年、東ローマ帝国に君臨するユスティーニアヌスは帝位を追われかねない危機に直面する。
ニカの乱はユスティーニアヌスにとって由々しき事態だった。
それは彼に対する反乱だったからだ。
高い税金に不満をつのらせ、彼を帝位から引きずりおろそうとしていた。
この暴動で大聖堂が破壊されるが、窮地に立たされた皇帝にとってはチャンスとなった。
暴徒が放火して建物を焼き払ったことによって、町を思い通りに再編するチャンスが訪れた。
皇帝ネロも64年の大火災時にローマの町を自分の思い通りに作り替えた。
ローマの歴史ではよくあること。

しかしユスティーニアヌスの野望は町の再編にとどまらない。
東ローマ帝国の領土を地中海の沿岸全域に拡大し、その全土に教会を建てる構想を描く。
野望の実現で重要視したのがアヤ・ソフィアだった。
ユスティーニアヌスはこの大聖堂が帝国で最も先進的で美しく、最高の教会でなければならないとした。
そして一刻も早く建てる必要があった。
反乱からわずか1ヶ月後には、建設用地を更地にする作業を開始した。
その早さの理由は民衆の支持を取り戻すためだった。
大規模は工事で人々を雇い、暴徒化する暇を与えないためでもあったからだ。
だからこそ大聖堂の建設を急いだ。
ユスティーニアヌスは夢を実現するために、2人の力学の専門家に設計を任せる。
トラレスのアンテニウスとミレートスのイシドロスだ。

2人とも建築家ではないが、ローマ帝国1の教会を造るための素質を持っているとの自負があった。
大聖堂の基本計画はシンプルで、中央に31m四方のスペースを設け、その四隅に建物全体を支える巨大な支柱を設置、この空間の両側には廊下、天井には壮大なドーム・・・
優れた技術が必要な大胆な設計だった。
ローマ帝国や中世の建物は、実験を重ねることで完成度を高めた。
試行錯誤で進められたため、その跡が随所に見て取れる。
それまでの成功事例や失敗事例を参考にすることもあったが、最初から計画が定まっていたわけではない。
素晴らしい建造物を造るために、実験的に進めたり、新たな設計を試したりすることが多かった。
その手法は随所に現れている。
アヤ・ソフィアをじっくり観察すると、ずば抜けた技術の高さが分かる。

一方アンテニウスとイシドロスの大胆な設計に大きな無理があったことも浮き彫りになってくる。
アヤ・ソフィアのような巨大ドームを実現するには、きわめて軽い素材を使う必要がある。
さもなければ支えきれない。

パンテオンのような古代ローマの建造物では、ドームにポソラナを使った軽いコンクリートを使用していた。
ポゾラナは火山灰、主に地中海西部の採石場で入手できた。
ローマの技師はポゾラナに水と生石灰を加えると、非常に硬く耐久性が極めて高い上にとても軽いコンクリートができることを発見した。
この素材はアーチやドームを造る時にとても役立つ素材。
ポゾラナは火山が多いイタリアでは簡単に入手できるが、地中海東部では事情が違った。
アンテニウスとイシドロスは似たような素材を見つける必要があった。
最適な素材でなければドームが崩落することは目に見えていた。

アヤ・ソフィアの輝ける象徴ともいえるドーム、高さ56m、幅は31m以上もある。
身廊という中央広間はゴシック様式の大聖堂の3倍の広さ。
1000年以上に渡り世界1の高さを誇った。
このような壮大な設計を具現化するため、建築家たちは持てる技術を最大限に発揮した。
この巨大なドームを地震が多発する地域に建てるのは容易ではない。
ユスティーニアヌスが指名した建築家アンテニウスとイシドロスは軽くて丈夫な素材を見つけ出すだけでなく、4本の支柱が作る四角い土台の上にドームを設置しなくてはならなかった。
ドームは幅30.5mの4つの巨大なアーチの上に乗ることになる。

しかし直接載せればアーチとドームが接触する部分はわずか。
別の方法で支えなければ、ドームがそれ自体の重さで割れてしまう。
アンテニウスとイシドロスはこの問題を見越して革新的な解決策を編み出す。

▲改築中のドームに組み立てられた足場
Prof.Julian Bennett(Archaeologist)「四角い身廊の真上に丸いドームを設置しなくてはならなかった。
問題は円形のものを、どのように四角いものに載せるか。
そこで接点が8カ所となる土台を作った。
使ったのはペンデンティブ(ドームを支えるアーチとアーチの間を埋めている逆三角形に似た形のもの)。
三角のペンデンティブはドームと同じように緩やかにカーブしている。

ドームと支柱を滑らかにつなぐだけでなく、アーチ部分が外に広がろうとする力を抑え込む。
またドームの重量を支柱に集中させ、地面に逃がす役割もある。
Prof.Ahmec Cakmak(Seismic Engineer)「アヤ・ソフィアの建築家は長方形の土台にアーチとペンデンティブを載せて丸い土台を造り上げた。
そして丸い土台の上に円筒を載せ、その上にドームを載せた。
これは初めての技術。」
しかし実証されていない技術でもある。
そして問題は他にもあった。
ローマの歴代の皇帝たちは自分の前の皇帝よりも大きな建造物を造った。
自分のほうが優れていること、偉大であることを示すためだった。
ユスティーニアヌスも歴代の皇帝が用いた構造を発展させることで権力を証明しようとした。
ユスティーニアヌスが求めたのは東ローマ帝国最大のドーム、巨大なドームを支えるには巨大なアーチが必要。
その大きなアーチが新たな問題を引き起こす。

Ed.Mccann(Civil Engineer)「アーチのカーブには、横に広がろうとする力がある。
広がれば全体が低くなり、さらに下部を押し広げる。
アーチが地面に設置されている場合は、硬い物体を下部の外側に置くことができるので、広がろうとする力を抑えられる。
しかし今回は支柱の上にアーチがあるため、支えを設置できない。
つまりアヤ・ソフィアの課題はいかにして建物の上のほうで広がろうとする力を抑えるか。
2人の建築家が絞り出せる知恵は限界に近づいていた。
アーチの幅をさらに広げると、建物を崩壊する恐れがある。
しかし大聖堂の幅は140m近くあり、そのほとんどを広大な身廊が占めるという設計だった。
巨大な空間を内部にもつ建物を支えるのは簡単ではない。
そこで目の錯覚を利用して実現した。
Bennett「建築家たちは両端に半ドームを突き出させることによって空間を広げるという素晴らしいアイディアを思いついた。
そうすると教会の幅を2倍に広げることができる。
この半ドームはメインのドームに似ているというデザイン性と、アーチを支える役割を持っている。
そのアーチがメインドームを支えるわけだ。
さらに半ドームの下にも、さらに小さな半ドームが設置されている。
両側に支えがついた少し手の込んだウェディングケーキのような感じだ。
これは問題を解決する実に賢い方法。」

メインドームを支えるアーチ部分に半ドームを設置することで、メインドームを支える支柱を動かすことなく身廊の幅を2倍に広げられた。
しかし簡単に解決できない問題が残っている。
ローマのポゾラナのように軽くて強靭な素材が見つからない限り、ドームは作れない。
この問題をどのように解決したかを知るには、アヤ・ソフィア建築計画を克明に記した資料の助けが必要。
1つは歴史家のプロコピオスが書いたもの、大聖堂が完成した20年後にこのプロジェクトにおける皇帝の役割を記した。
もう1つは書き手不明のナラティオという資料、アヤ・ソフィア完成300年後に書かれ、半分神話のような記述。
ナラティオによると、アンテニウスとイシドロスはポゾラナに変わる素材を求めてロードス島を巡った。
ナラヒオは正しいのだろうか、ブロックはこのドームに使う為、ロードス島から運ばれてきたものなのだろうか?

真実へのカギは大聖堂に残っていた。
メインエントランスの端に、毎日多くの観光客がまたいでゆく1つのブロックがある。
そこに製造者のマークが刻まれていた。
全てのブロックにこのマークがついているが、通常は見えないように配置されている。
これだけが逆さまに嵌め込まれたため、マークが見えている。
ブロックのマークには、コンスタンティノープルと書かれている。
つまりアヤ・ソフィアのために造られたブロックだということ。

製造された場所はロードス島だと見られるが、ロードス島の土をコンスタンティノープルに持ち込んで造った可能性もあり、断言はできない。
このブロックの特性を調べるため、一般的なブロックと成分を比較すると、アヤ・ソフィアのブロックの成分はまったく違うことが明らかになった。
「ブロックを調べ、土に含まれる微量元素を分析、ロードス島から来たものだろうと結論付けられた。
ブロックは800℃以下で焼かれていて、多くの穴が見られた。
これは1200〜1400℃で焼かれる場合よりも多い数値。
つまりとても軽い石だった。」

建築家たちは本当に軽いブロックをロードス島に特注していたようだ。
アヤ・ソフィアにはさらに特徴がある。
ブロックとブロックの間のモルタルが通常の建物に比べてかなり厚くなっていた。
さらに砕いたブロックが相当量含まれていた。
ドームとアーチには、ブロックと同じぐらいの割合で強化されたモルタルが使われていた。

Cakmak「アヤ・ソフィアを見ればモルタルの厚みはブロックの厚みと同じか、それ以上だと分かる。
炭酸カルシウム系のブロックを使う場合、モルタルは薄く延ばす。
ブロックの表面を整えるほどの薄さで、くっつける役割はほとんど果たさない。
しかしアヤ・ソフィアではブロックとモルタルが同じ素材でできているため、強固に固定できるのだ。」

それほど軽い素材を使っても、支柱はドームの重さに耐えきれず、外側へと広がってしまった。
しかしアンテニウスとイシドロスには考えがあった。
大聖堂の基礎構造を利用して、アーチを固定するというアイディア。
身廊の両側には、端から端まで通路が通っていた。
その真上にも廊下があり、柱が建ち並んでいる。
このデザインは意図的だった。

廊下を形作っている部分は実はドームを支える巨大な支柱の一部。
このバットレスと呼ばれる構造は、4つの支柱にそれぞれ設置されていて、支柱が外側にしなるのを防いでいる。
アーチが外に広がろうとする力を地面に逃がし、重さを吸収している。
しかしアンテニウスとイシドロスには大きな誤算があった。

Mccan「バットレスに穴をあけると耐久性が低くなる。
どれだけ弱くなるかは穴の大きさや、どの位置にあけるかによって決まる。
バットレスに穴をあけすぎると耐久性がさがるので、アーチが外に広がろうとする力を支える効果が弱くなってしまう。」

ブロックを積み始める前から難題に直面する。
ドームとアーチを支える構造の設計ミス。
もし設計を見直さずにそのまま建ててしまったら、崩壊する危険がある。
問題はそれだけではない。
大聖堂に使われるものの多くが石でできていた。
負荷がかかり過ぎている構造に、さらに重さがのしかかる。
アヤ・ソフィアの崩壊は時間の問題だった。

しかし建設を始めた時点では、この決定的な欠陥が明らかになっていなかった。
ナラティオによると、大聖堂の作業員は5000人ずつの2チームに分かれ、それぞれに50人の指導者がいた。
建設を始める前に、破壊された以前の大聖堂の瓦礫をどけて、新たな基礎を築かなければならなかった。
さらに問題となったのが、使用した素材の性質。
それが後に建築家たちを悩ませることになる。
なぜならアヤ・ソフィアは巨大なだけではだめで、強靭で火災に強いだけでも駄目だった。
美しくなければいけなかった。

ユスティーニアヌスは内装に最高の材料を使うことを求めた。
特に柱には最高級の大理石を使うよう命じられたが、大理石は高価で入手も困難だった。
それだけではない、そもそも全ての柱を1から作るには、5年という後期は短すぎた。
手抜きの跡は今でも分る。
アヤ・ソフィアの新郎の橋には巨大な柱が並んでいる。
その柱は大理石でできている。
しかしよく見てみると、少なくとも30cmも短い柱がある。
特注品ではなく、再利用された証拠だ。

さらに当初の設計では、2階のギャラリー部分の長さも1階の廊下の長さと同じとされていた。
しかしその計画は変更される。
アンテニウスとイシドロスは2階の廊下の高さを低くし、それに応じて柱の場所も変更した。

当初設計されていた柱の場所は廊下に残っている。
新たな計画のもとに建てられた柱がずらされているのが分る。
その理由はいまだ分っていない。

Bennett「上下の廊下の高さが違うことはとっても稀、可能性としては2階用サイズの柱を調達できなかったことが考えられる。
しかし忘れてはならないのが、アヤ・ソフィアが突貫工事で建てられたということ。
2階の廊下に設置するはずの柱が短ければ、例えば20%の労力を節約できた可能性もある。
そうすれば早く建てることができる。」
アンテニウスとイシドロスはこの建造物を、なるべく早く完成させる方法を常に考えていた。
しかしドームの建設にさしかかった時、基礎構造の欠陥に悩まされることになる。

かなりの短期間で建設されたアヤ・ソフィア、確実ではないが、着工後3年でドームの3倍の幅の新郎が広がっていった。
まさに東ローマ帝国でもっとも大胆な建設計画、それを求めた注文の多い顧客が世の皇帝だった。
しかしアーチに取り掛かる段階では、アンテニウスとイシドロスはこの建造物の巨大さを真に理解できていなかったかもしれない。
アーチを建てるためには、作業員はかなり高い場所で作業する必要がある。
作業をするにあたり、ブロックやモルタルを配置するためのセンサーと呼ばれる木製の枠を作る。

Mccan「半円形をしているアーチの構造は、車輪に似ている。
垂直に立つのが軸と呼ばれる部分、放射状に広がるスポークがあり、周りを取り囲む縁の上に石細工が載る。」

木製の型枠は、コンクリートが固まる過程で補助する役割を果たす。
巨大なアーチだけでなく、その上に配置する巨大なドームにも木枠を入れ込んだ。
木製の枠を使って念入りに補修したといえる。
これまでに類を見ないほど巨大な木枠の設置、大がかりな作業となった。
木枠の1つにフライングセンターと呼ばれる手法がある。
基礎構造に組み込む形で横木を設置して、壁にくさびを固定した。

Mccan「この方法の問題点は、両側に広がるような構造になっていること。
梁のようになっている。
下に床があればアーチの下の部分を均等に支えることができる。」
つまりアーチを支える支柱に負荷が集中してしまうのだ。
アヤ・ソフィアで採用されたとは考えられない。
なにを採用したにせよ、アーチの重さで支柱が外方向に押し出されていった。
これこそが最大の弱点だと歴史家のプロコピウスは言う。
彼は建設中のある出来事を紹介している。
“アーチを支えていた柱がアーチの重さに耐えきれなくなり、突然バラバラと崩れ始めた。
そして崩壊寸前となったのだ。”
アンテニウスとイシドロスは一部の柱の外側に、バットレスを設置し、ドームとアーチの重さを吸収させようとした。
しかしアーチの重さがのしかかるにつれ、バットレスの弱い部分が壊れ始める。

Mccan「バットレスにはドームやアーチの重量もかかっている。
そのため壁に大きな負荷がかかり、その壁を支える柱にも負荷がかかる。」
早急に対処しなければ、全体が崩壊する。
あわてて編みだした対策は、今でも大聖堂の基礎構造に見られる。

Bennett「2階の廊下の建設にさしかかるとアーチを作り始める。
その後ドームを支えるメインアーチに着手すると、柱に莫大な負荷がかかる。
あまりにも負荷がかかっていることが分ったため、ここに追加でバットレスを建てる羽目になった。」
アンテニウスとイシドロスは既存のバットレスのアーチを二重にするよう指示した。

しかし時すでに遅し、バットレスの下のアーチは固定されたが、上のアーチは歪んでしまった。

アンテニウスとイシドロスはしぶしぶバットレスを高くし、交差ブレースを追加した上で、一番上のアーチの内部を一部埋めることで強度をあげた。

しかしまだ不十分だった。
アヤ・ソフィアでは今でもドームの重さによって柱が外側に傾いている様子が確認できる。
もし長い期間何もしなければ、ドームは崩れてしまう。
問題の解決策は、大聖堂の外にあった。

メインの支柱から外側に突出した部分は支柱が歪み続けていることが判明してから後に増設されたもの。
外側にしなる力を地面に逃がす役割を担っている。

ゴシック様式の建築に見られるバットレスのような役割をしている。
このようなバットレスの設置が外側に歪み続けるアヤ・ソフィアに対する応急措置だった。

これらのバットレスは9世紀と13世紀、そして1453年以降のオスマン帝国時代にも建てられたとされている。
しかしこれも後のまつり、壁が外側に歪んだため、ドームを載せる部分が正方形ではなくなってしまった。

当初の設計では、2人の建築家は完全な半球のドームをアーチの上に載せる予定だった。
アヤ・ソフィアのような建造物には適した形であり、水平方向に広がる力を最小限に抑え、負荷を建て物全体に分散できる。
しかし土台が正方形でなくなったため、完璧な円は不可能となった。

長方形になってしまった土台にドームを載せるには、より緩やかな曲線の楕円形にするしかない。
しかもこのドームは明かりとりとなる円筒に載っている。
極めて危険なデザイン。

Mccan「ドームが外側に広がろうとする力は高さと直径に関係してくる。
ドームが浅ければ浅いほど、外に広がろうとする力は強くなる。
外に広がろうとする力だけで、すでに大問題となっていたのに、ドームを浅くしたことで、この問題を悪化させてしまう可能性がある。」
しかし着工から4年以上が経過し、選択肢は限られている。
ユスティーニアヌスは大聖堂の完成を今か今かと待っている。
アンテニウスは534年に他界し、イシドロスは一刻も早く答えを見つける必要があった。
2人の作品が目の前で崩壊する前に、皇帝にせっつかれたイシドロス、最後の手を使うしかない。
やむを得ず耐久性が低い楕円形のドームを作るように指示する。
この判断が大間違いだった。

ドームの設置が終わると、イシドロスは内部を装飾する作業に取り掛かる。
息をのむような美しさを誇るアヤ・ソフィアの内装、壁や床には大理石が使われている。
柱の上部には繊細な彫刻が施された。

そしていたるところに金で装飾されたモザイクが施された。
中に入ってしまうとアヤ・ソフィアの構造を見抜くことは不可能。
窓からたくさんの光が差し込み、美しく幾重にも交差しているからだ。
大理石やモザイクが光を反射する。

そして廊下を作るバットレスは柱の部分だけが見えている。
しかしユスティーニアヌスの大聖堂の内装は、現在のアヤ・ソフィアよりもシンプルだった。
完成後少しずつ人物像が足されていった。

王家の人々からキリスト教徒、歴代の皇帝などが描かれていて、これらはユスティーニアヌスの時代の後に描かれた。

当時人物像があった場所には、シンプルに金色をバックにした十字架が描かれていたとされている。
理由は宗教的なものだった。
東ローマ帝国では、人物像とそれが示す対象との関連性がどうなのかということが不明確だったので、それが問題になった。

この問題を回避するため、多くの場合神聖な人物像とされるものを全く使わないようにしていた。
ユスティーニアヌスは個人的な宗教観からか、政治的な理由からか、神聖とされる人物像を描くことを避けていたのではないかと思われる。
そうして人物像にまつわる問題を回避した。

シンプルな内装には、実務的な理由もあった。
シンプルであれば早く仕上がる。
ユスティーニアヌスは建設間の記録も塗り替えたかったのだ。
大理石を見れば一目瞭然、大急ぎで取り付けられたことが分る。

アヤ・ソフィアの内装は駆け足で行われた。
問題だらけだったが、完成の喜びは何にも勝った。
着工から6年近くたった537年12月27日、ユスティーニアヌスはとうとう大行列を引き連れて、大聖堂に足を踏み入れた。
初めて大聖堂に足を踏み入れたユスティーニアヌスは、こう言ったとされている。
“神よ、大聖堂を完成させてくれたことに感謝致します。
ソロモン王よ、私はあなたを上回った。”
そのような発言をしたユスティーニアヌスでさえ、この大聖堂の危うさを十分認識していた。
建物があまりに重かったため、柱の上部の大理石が剥がれおちはじめていたのだ。
しかしこの大聖堂の不安定さはそれ以上の危険をはらんでいた。
完成してから20年後の557年12月14日、アヤ・ソフィアは巨大地震に襲われる。
ドームにヒビが入り、ユスティーニアヌスは修繕を命令する。
大がかりな修復になることは明らかだった。
ドームまで登るには、それぞれ柱の外側にらせん階段を設置しなければならないが、これがバットレスの補強となった。

本当の大変さが分ったのは、558年5月7日火曜日だった。
5時、大聖堂のドームを修繕中に東側のボールトが崩れ落ちた。
それでも地震により露呈したはずの大きな問題を誰も理解していなかった。
Maccan「前よりも重くなったとか、素材が駄目になるとか、そういった変化がない限り、建物は壊れない。
なので建物が数年間建っていられたら、何かが変わらない限りその後も崩れないということ。」
それでは何が変わったのか。
楕円形のドームは安定していたとは言えないが、問題はドームが楕円形であることではなかった。
Cakmak教授率いるチームはアヤ・ソフィアを襲った地震をコンピューターで再現した。
そしてリヒタースケール7.5の地震に襲われると、ドームは予想外の動きをしたことが分った。
Cakmak「6.5〜7.5であれば大きな被害がでるが倒壊はしない。」

つまり倒壊した原因はドームの形ではなかった。
しかしさらに分析を進めたCakmak教授はアンテニウスとイシドロスの設計の、致命的な欠陥を発見する。
「プロコピウスは当初のドームについて、こう説明した。
ドームは円筒状の土台に載っていた。
ギリシャ語でストロンギロンと呼ばれる土台には、40の窓があった。
太陽光が差し込む窓がついた円筒状の土台に上にドームがあった。
ドームが円筒状の土台に載っていると独特の動きをする。
リヒタースケール7.5の地震では、ドームではなく、この円筒の土台が壊れてドームが倒壊する。
Maccan「アヤ・ソフィアはかなり危険な建造物、つぎはぎの構造であり、遊びが無い。
安全のための要素が組み込まれておらず、ちょっとした揺れを受けとめる余裕がない。
そのため地震に見舞われるとめちゃくちゃに揺れて位置関係がずれてしまう。
そうなると構造が変わってしまい、建っていられなくなる。」

イシドロスは大聖堂の完成は見たが地震が起きる前に亡くなっていた。
そのためイシドロスの甥が叔父たちの設計の欠陥を修復することになった。
絶対に倒壊しない建て方はあるのだろうか。
557年に崩落したドームに代わって作られた新しいドームは、設計の妙技がなせる技だった。
イシドロスの甥は問題の原因が円筒の土台にあることを突き止める。
その部分を取り除けば、この建造物の弱点を排除できると考えた。
そして北と南のアーチの上部の設計を変更し、ドームの幅を変えた。

しかし完全な半球を実現しても問題は解決しない。
完全な半球が載る土台ではないため、ペンデンティブにかかる重さが正しく分散されないのだ。
そこでペンデンティブのカーブに合わせるため、ドームの半径を調整、完全な半球ではなかったが、より安定したことは確か。

彼が成功した最大の秘訣は時間をかけたことかもしれない。
ドームの修復にかかった年数は4年、大聖堂自体の建築機関の3分の2にあたる。
決して冒険はしなかった。
ナラティオによると、ドームの中央を支えるための足場は、モルタルが完全に固まるまでの1年間設置されていた。
これ以降1400年の間、新しいドームは幾度もの地震に耐え、建ち続けている。
皮肉なことに地震が多発する地域で今まで建っていられた理由は、アンテニウスとイシドロスに起因する。
2人は耐震性を考えていたのだ。
大聖堂をよく観察してみると、その弱点を補うための工夫が随所に施されているのが分る。

Cakmak「パンテオンではヒビが入っているような場所に、アヤ・ソフィアでは窓が取り付けられている。
ヒビが入っている箇所は負荷のかかっている場所、負荷がかかるからヒビ割れるのだ。
どうせヒビが入るのなら、ヒビ割れる素材をやめ、窓を取り付ければよいと考えたのだ。」
柱には衝撃を吸収する機能があった。
アンテニウスとイシドロスは柱の土台に鉛を使った。
鉛は柱頭にも使われた。
これにより柱はある程度柔軟に動ける。
1500年間建っているということが技術の高さを証明している。

アンテニウスとイシドロスはさらに上をいっていた。
Cakmak教授は使用されたセメントを電子顕微鏡で分析し、その結果に驚いた。
「セメントに塩が混じっていない川の砂と石灰を混ぜるとケイ酸カルシウムができる。
ブロックやモルタルは同じ成分でできているため、固まった時の結合は協力。
なので建物にヒビが入っても時間と共に結合する。」
モルタルに含まれるケイ酸カルシウムのおかげで、亀裂が入っても広がらず、時間が経てば再び結合するのだ。
現在の耐震性があるセメントが発明される1300年近く前に作られていたのだ。

完成後、欠陥を内包しながらも、20年間輝き続けたアヤ・ソフィアのドーム。
1500年間も経っていられるには理由があったのだ。
物語はまだ終わらない。
1453年コンスタンティノープルはオスマントルコ帝国の手に落ちる。
アヤ・ソフィアはモスクに作り替えられた。
加えられた4つのミナレットが敬虔な信者を引きつけている。
そしてブルーモスク、アヤ・ソフィアがモスクのデザインに多大な影響を与えたことは、ブルーモスクを見れば一目瞭然だろう。
今でもキリスト教とイスラム教のシンボルとなっているアヤ・ソフィア、時を超える壮麗な巨大建造物・・・

| poyo | 建築 | comments(2) | trackbacks(0) | - |
東京スカイツリー

Antenna

工事開始から2年5ヶ月経った2010年12月、地デジ用テレビアンテナの取り付け工事が始まった。
500m地点までクレーンで持ち上げる。
腕利きのトビ達がスカイツリーのために開発されたアンテナを取り付ける。
風速110mに耐えられる設計、FRP(強化プラスチック)のカバーもスカイツリー用として開発された。
このアンテナから本格的に電波を送るのは2013年を予定している。

スカイツリーの先端部には、全部で4種類のアンテナが設置された。
1番上が地デジ用、4段ついている。
その下に地デジのアンテナが、もう1種類、そしてFMラジオ、1番下はスマートフォン向放送サービスのアンテナ。

さらにもう1つ、さりげなく取り付けられている3本の短い棒もアンテナ。
ここからの電波を受けるのはタクシー、これまでタクシー無線は、高層ビルなどに遮られ、届きにくいエリアがあった。

Basis 基礎概論
北緯35度42分、東経139度48分、東京都墨田区押上1丁目がスカイツリーの誦諸。
その高さは634m、東京都の旧国名、武蔵にちなんで、この高さに決められた。
使用した鉄骨は、37000本ン、総重量は東京タワーの10倍、41000トン。
工期は2008年7月14日〜竣工2012年2月29日で3年2ヶ月。
工事に関わった技術者は、延585000人。
1番上にあるのはアンテナがついているゲイン塔。
ゲイン塔を支える高さ500mの鉄骨は塔体、展望台が2つある。
高さ350mは天を望む天望デッキ、450mは天望回廊、スカイツリーは世界1の展望タワーでもあるのだ。

Compare 比較
スカイツリー:634m
東京タワー:333m
大阪 通天閣:103m
名古屋 テレビ塔:180m
神戸 ポートタワー:108m
福岡タワー:234m
エッフェル塔:324m
ギザの大ピラミッド:137m
ドバイ ブルジュハリファ:828m

Disign
塔体が描く曲線、反っているラインと膨らんでいるラインがある。
ソリ、ムクリと呼ばれる2つのラインを持つ形は、どのようにして生まれたのだろう?

設計士・吉野繁(日建設計)が取り組んだスカイツリーのデザイン。
世界1の塔の設計は敷地の狭さを克服することから始まった。
建設地は電車の操車場の跡地。
この敷地に四角形の足元を作ると、1辺は60mしかとれないが、三角形なら70mとれる。
タワーを安定させるため、足元は三角形に決まった。

続いて展望台の形の検討が始まった。
360度風景を見たいので、丸に決定。
足元の三角形とどうつなぎ合わせるかが、設計の課題となった。
無数のスケッチが描かれ、40種類以上の模型が作られた。

無理に力がかかる部分をなくすため、丸から参画に滑らかにつながるラインを考えた。
丸と三角をつなぐ曲線は、展望台の大きさによって変わる。
小さくするとソリがない形に、大きくするとビール瓶のようなムクリだけを持つ形になる。
ところがある大きさにすると、ソリとムクリが同時に現れる。
吉野さんたちは、美しさと強度のバランスがもっとも優れたこのデザインに決めた。

Elevator
塔の中心に設置されたエレベーターにも、日本が世界に誇る最先端技術が投入された。
スカイツリーの内側には、細長い空間が12ある。

その内6つに一般客用のエレベーターが入っている。
訪れた人がまず乗るのが、高さ350mを目指すエレベーター。(天望シャトル)
1度乗り継ぎ、450mへと向かう。
エレベーターはどのように作られたのか。
乗り心地の要となるのはレールの精度。
レールは一般的なものよりはるかに大きく、4倍近い強度がある。
何本も上に継ぎ足し、展望台を目指す。

つなぎ目の段差は0.1ミリ以下にする。
レールに設置した直径35cmの車輪で、エレベーターの動きを安定させる。

日本で一番長いケーブルを巻上げるための機械も、スカイツリーのために開発された。
高さ350mの展望デッキまでわずか50秒。

Frame 鉄骨
37000本の鉄骨が組み合わさったスカイツリー、その塔体をよく見ると、縦横斜めに柱が組み合わされ、とても複雑な構造。
そのつなぎ目はたくさんの方向に枝分かれしている。
この部分を塔体建設の要・分岐継手という。

【千葉 駒井ハルテック】
分岐継手は鉄のパイプを複雑につなぎ合わせて作る。
つなぎ目の1つ1つについて、詳細図がある。
パイプでつなぐ角度は小数点以下2桁の精度が要求される。

まず枝分かれした部分の鉄骨をコンピューターを使って切断する。
そして鉄骨に原寸大の図面を貼り付け加工するための記を正確に写してゆく。
丸いラインはパイプとパイプをつなぐ場所。
作るのがもっとも難しい部分。

溶接個所が冷え縮むことも計算に入れ位置を微調整する。
全国19カ所の工場で手分けをして作り上げた鉄骨は37000本。
そのすべてが決められた計算通りに建設現場に届けられる。
複雑な分岐継手の先が他の鉄骨とピタリとつながってゆく。

鉄骨の位置はミリ単位の精度で修正してゆく。(三次元測量機)
正確な位置に仮どめした後、溶接して固定する。

分岐継手によってつながれた鉄骨は、三角形を作っている。
無数の三角形を緻密に組み合わせたスカイツリーは、日本の鉄骨制作技術の結晶なのだ。

牛嶋神社

スカイツリーの地鎮祭から竣工式に至るまで、かずかずの祭儀をとりしきってきたスカイツリーの氏神様。
境内には体の悪い箇所を治してくれる“撫で牛”が祀られている。

タワービュー通り

スカイツリーが一直線に望める。
地元にスカイツリーが建つことが決まった時、通り沿いの町内の人達が、旗を持ってパレードをした。↓

王貞治の母校、業平小学校↓

スカイツリーの真横に住む中沢護さん、家の窓から建設を見守ってきた。
自称・ご近所の現場監督↓

Go Ahead ゴーヘー
「ゴーヘー」という掛け声が聞こえてくるのは、スカイツリーの最前線、クレーンの運転席。
肉眼では見えないはるか下の吊り荷を、ゴーヘーを合図に地上の作業員と息を合わせて持ち上げる。

ゴーヘーは、英語のGo Aheadがなまったものと言われている。
ワイヤーを巻上げるという意味。
地上から持ち上げられた鉄骨が見事におさまってゆく。

もう1つ、オペレーターと作業員が交わす言葉がある。
スラー、クレーンのワイヤー巻下げを意味する。
緩めるという英語Slackenから来ていると言われている。

ゴーヘー=Go Ahead巻上げ、スラー=Slacken巻下げ、2つの言葉を頼りに建設が進む。
クレーンのオペレーターは朝から夕方までずっと運転席にいる。食事の時も・・・
塔体が高くなるにつれて、クレーンも自ら高さを伸ばす。
運転席の上に取り付けられているのは支柱。
継ぎ足した支柱に沿ってジワジワ上昇している。
タワーの成長と共に、上空に伸びていったタワークレーン、まさに建設現場の主役。

Gain Tower ゲイン塔
高度なクレーンテクニックと溶接技術によって、500mまで積み上げられたスカイツリーの塔体、この先634mまでを、どう作るかが最大の難問だった。

理由は天候、上空に行けばいくほど天気は不安定になる。
そこでリフトアップと呼ばれる特殊な工法を採用した。
工事は空洞となっている塔体の真ん中で行う。
風の影響の少ない地上付近で、最上部に取り付けるゲイン塔を組み立てる。
鉄骨を少しずつ持ち上げ継ぎ足してゆく。
溶接とつなぎ目の塗装もこの地上付近で行う。
完成したら500m地点まで一気に吊り上げる。

工事開始、塔体の内部に鉄骨を慎重に運び込み、組み立てる。
組み立て作業が終わった夜20時、集まったのは20名ほどの溶接職人。
火花がでる溶接は組み立てや塗装と同時にはできない。
時間をずらし、夜通し作業を行う。

こうして制作されたゲイン塔は、長さ150m以下、重さは3000トン近くにもなる。
ゲイン塔が塔体の中で上がってゆく様子↓

上から見ると、周りに吊り上げようのケーブルが見える。↓

500mまで持ち上げたところでゲイン塔の揺れを少なくする制振装置と合体させる。
無事ドッキングは成功、この後アンテナを取り付けながらリフトアップしてゆく。
最後に固定して完成。
Helicopter ヘリコプター
スカイツリーの圧倒的な存在感、ヘリコプターからの撮影は、その魅力を余すことなく伝える。
ヘリコプターの振動を吸収する特殊カメラ、左手でズーム、右手でカメラの方向を操作する。
その日の天気で変わった見せ方があるという。
例えば夕日の時には、ちょっと暖かかったり、天気が悪く、雲が上の方にかかっていると、荘厳な感じがしたり、いろんな表情を見せる。

離陸・・・町並みと絡めたスカイツリーの存在、どの角度から見ても違った町の風景が見えてくる。
ビルが見えたり、家並みが見えたり、自然が見えたり、そういったものが変わってゆく様子がこれから楽しみ。
スカイツリーがヘリコプターだけに見せる特別な風景・・・

Illumination 照明演出
スカイツリーの照明は、粋と雅という江戸をイメージした2つのデザインが日替わりで現れる。
粋は隅田川をイメージした青い光で中心を照らし、江戸らしい潔さを表している。
一方雅は紫の照明を柔らかくあてて、江戸の美意識を表現している。
この照明プランを考えたのは、照明デザイナーの戸恒浩人さん。
「1つしかないと明るかったとか、綺麗だったとか、漠然とした印象しか持って帰れない。
2つあると違いを考えてくれる。
その瞬間にデザイナーとしていろいろ思いを込めた、その思いがパスできる。受け渡しできる。
その力は2つがちょうどよいと思った。」

2010年10月、照明の点灯試験が行われた。
照明に使用されているのは、スカイツリーのために開発されたLED.
光の飛ぶ長さ、屋外で100m以上光が届く。
フルカラーのものもある。
巨大な塔体を照らすため、角度を細かく調整する。
1度ずれると100m先で、およそ2mもずれてしまう。
午後18:30、一夜限りのテスト開始。
スカイツリーの鉄骨が、闇夜に照らし出された。
このテストの11ヶ月後、最終的な機材の設置が始まった。
「見た人が例えばスマイルになってくれるとか、もしかしたらプロポーズに使ってもらえるとか、いい影響を与えることが僕たちの仕事の醍醐味で、いろんな楽しいこと、仕掛けを埋め込んでいる。
楽しみにしていてほしい。」

Jack ジャッキ
2010年12月、ゲイン塔を634mまで上げる工事が始まった。
主役は油圧式のジャッキ、全部で12個設置されている。
ワイヤーで吊るされたゲイン塔を、このジャッキで引き上げる。

6分に1度、30cmずつ上がってゆく。
リフトアップ工事の司令室で、12個のジャッキをコントロールする。

ゲイン塔の傾きを調整する数字は小数点以下2桁。
この針の穴を通すような微妙な操作には理由があった。
司令室が気にしているのはゲイン塔の下の部分。
ゲイン塔と塔体の隙間は一番狭いところで7cmしかない。

鉄の塔体は熱によって膨張するため、日があたる側が延びて1日1回大きく曲がる。
曲がった塔体の中でまっすぐなゲイン塔をぶつけないように上げるのは大変。

ジャッキの微妙な調整が必要になる。
繊細なリフトアップを続けること9ヶ月、2011年3月1日、高さ600mに到達。
中国の甲州タワーと並ぶ世界記録。

Knuckle walls ナックルウォール

2011年3月11日、スカイツリーを東日本大震災が襲った。
震度5弱の揺れにも鉄骨構造はまったく損傷を受けなかった。

スカイツリーが揺れに強い秘密は、地下50mにある。
ナックルウォールと呼ばれるコブのついた基礎。

細長いスカイツリーは強い風や地震で揺れると、足元に沈んだり引き抜かれたりする力がかかる。
この時コブが硬い地盤にひっかかり、タワーを安定させる。
コブがないものに比べ、30%も性能がUPする。

スカイツリーの基礎工事の様子を見てみよう。
まず登場するのはスーパーケリー掘削機、地下30mまでの比較的軟らかい地盤を一気につかみ出す。

掘削の間、穴の中には安定液が入れられている。
安定液が掘った穴の壁をコーティングして、崩れるのを防ぐ。

次に活躍するのはハイドロフレーズ掘削機、特殊な合金で、硬い地盤を削り、地下50mまで到達する。

最後にナックル専用掘削機、回転しながら歯を開くことで、硬い地盤をコブ状に掘る。

超音波計測器を入れて形をチェックする。
2つのコブができている様子が確認できた。
コブの直径はおよそ2m、掘削はこれで完了。

次に鉄骨が入った。
鉄筋籠を穴の中に入れる。
ナックルウォールの芯となる部分。

縦に2つ入れて、地下50mまで届かせる。
最後にコンクリートを流し込む。
120個のコブが三角形に配置され、塔体を支える。

世界1の高さのスカイツリーは、深さ50mに及ぶ特殊な基礎工事が支えている。
ナックルウォールが掘る地盤はサラサラに砂、水が浸透すると崩れてしまう。
安定液の場合は崩れない。
少し浸透することによって、水を通さない膜を作る。
横に揺らしても安定している。
安定液の材料は、食品にも使われているもの。(増粘剤、紙おむつなど)
どんな地盤でも対応できるものとして開発された。

Landscape 景観
スカイツリーの設計者・吉野繁さんが必ず口にする言葉がある。
「600mを超えるタワーで時空を超えたランドスケープを・・・」
ランドスケープとは時代のシンボルとなる建物を中心にした景観を指す言葉。
昭和32年、東京タワーの建設が始まった。
建設に携わったのは延22万人、建てられたのは空襲で空地となった場所だった。
東京タワーは戦災から立ち直り、経済成長へと向かう日本が世界に誇るランドスケープとなった。

東京タワーの完成から10年、昭和43年には日本初の超高層ビルが誕生する。
霞が関ビル、地上36階、高さ147m、当時高さ30mほどの建物しかなかった東京に、突如現れたこのビルは、高度経済成長を象徴するランドスケープとなった。
時代と共に新たなランドスケープが生まれ、人々の心に刻まれていった。
吉野さんの言う「時空を超えたランドスケープ」とは?
「古い技術と新しい未来の形を結び付けて、時空を超えたランドスケープを作ってゆく。」
東京スカイツリーが建設された墨田区、江戸時代からの伝統が色濃く残る東京の下町。

日本の伝統技術は、スカイツリーにも生かされている。
例えば塔体の色、ただの白ではない。
江戸時代人々に親しまれた藍染、その中で極めて藍白と呼ばれている。
東京スカイツリーはこの藍白をベースに試行錯誤を重ねて生まれたスカイツリーホワイトで彩られている。

Material 素材
スカイツリーを支える37000本の鉄骨、その素材である鋼にも、これまでにない技術が詰まっている。
スカイツリーの鉄骨でもっとも強度の高いのはここ↓

地震や風で揺れた時、大きな力がかかるゲイン塔のつけね。
ここには80kg鋼と呼ばれる特別な鋼が使われている。
1m屬80kg、1cm四方だと8トンの重さに耐える。
スカイツリープロジェクトでは、日本の製鉄技術を結集し、鋼の開発が行われた。
まず鉄鉱石を1500℃で溶かし、不純物を取り除くなど、成分を調整する。
鉄はまだ熱いうちに形を整える。

そしてこの先が鉄の強さをきめるもっとも重要な工程。
一口に強い鉄といってもその強さには2つの種類がある。
1つは鉄が曲がるまでの強さ。(降伏強度)

もう1つ、鉄がちぎれるまでの強さを表す引っ張り強度、この2つをバランスよく曲げるのは難しい。
熱処理炉の温度の条件と、水冷装置の水冷条件の組み合わせで、鉄の品質は大きく変わる。
加熱と冷却の温度と回数を、どう組み合わせれば目指す鋼ができるのか、1年に及ぶ試行錯誤を行った。
その結果従来のものより結晶構造が複雑な鋼が誕生、2つの強度を満足させることができた。

Night View
まだLED照明が取り付けられていないスカイツリー、工事用の照明で照らされていた。
もう2度と見ることのできない建設中のライトアップ。
1年後のクリスマス2010年12月24日、LED照明の一部が特別の点灯された。
スカイツリーのシルエットが東京の夜空に浮かびあがる。
夏は隅田川花火大会、スカイツリーと花火の競演。
夜景をバックに見る花火。

Observatory 展望台
スカイツリーの2つの展望台は、それぞれ独特の形をしている。
その秘密は?

展望デッキの制作が始まった。
この工事はトビ職人の腕の見せ所。
外側にはみ出すように鉄骨を組み立ててゆく。
仮どめの金具とワイヤーで固定、何重にも安全を確保する。

上にいくほど大きくなる展望デッキ、3つのフロアーに2000人が入れる。
最後に取り付けられるのがガラス窓、設置角度は71度、こうすることで真下の景色が見やすくなる。
職人達の技により、お茶碗のようなフォルムに仕上がった。

高さ350mの天望デッキからのパノラマ、足元には隅田川、奥に見えるのは新宿副都心。
南側の東京湾方向、荒川の向こうにディズニーランド、その先に房総半島が見える。

高さ450mの天望回廊、何かが巻き付いているような外観が特徴。
これは展望台の1番上へと向かうスロープ。

Pictere 写真
建設中から被写体として多くの人を魅了したスカイツリー、連日シャッター音が響き渡った。
2009年3月、スカイツリーの連続写真を撮るプロジェクトがスタートした。

ミッションスタート、カメラは建設に合わせて増やしてゆく。
それぞれ10分に1枚ずつ写真を撮りためていった。
晴れの日も、曇りの日も、そして雨の日にも撮影は休みなく続いた。

天に向かって少しずつ延びてゆくスカイツリーを、6台のカメラが見守った。
コマ撮りならではの不思議な光景。
季節によって太陽の昇る位置は変わる。
塔を包み込む太陽の光・・・

完成間近、クレーンが1つずつなくなってゆく。
撮影した写真は51万枚、世界1のタワーの世界、克明な記録。

Quakeproof 地震対策
地上375m、重さ11000トンの巨大な柱。
その揺れの周期を計るテスト、スカイツリーの中心に設置された柱は心柱と呼ばれる。
新開発の制振装置、東京タワーより背が高い鉄筋コンクリートでできた筒状の柱。
心柱は下から3分の1が塔体に固定され、上は自由に動くようになっている。
地震が起きると心柱は塔体と異なる周期で揺れて、互いの揺れを打ち消し合う。
スカイツリーを地震から守る心柱、その建設には特殊な技術が用いられた。

心柱と周りを囲む壁の隙間は1mしかない。
この狭い空間で作業するために採用されたのがスリップフォーム工法。
まずクレーンで鉄筋を持ち上げて組み立てる。
続いて円筒状の型にコンクリートを流し込む。
固まったコンクリートを足場にして装置が自分でずり上がってゆく。
こうすることでスペースをとらずに建設できる。
わずか6時間半で固まる特殊なコンクリートを使い、1日3mのペースでどんどん伸びてゆく。
作り始めてから236日、2011年7月2日、最後のコンクリートが注ぎ込まれた。

↑クリック
Rogowski Coil ロゴスキーコイル
栃木県、電力技術研究所、スカイツリーに取り付ける計測器の実験が行われた。
塩ビ管の中にコイルが入っている。
電流を測定する装置・ロゴスキーコイル、輪になったコイルの中心に電流が通ると、磁力が発生する。
発生した磁力の強さから通過した電流の量を計る。
何の電流を計るかというと・・・

雷・・・スカイツリーには多い年で年間数10階の落雷があると考えられている。
頂上には避雷針が設置され、雷に備えている。
落ちた雷は、鉄骨を伝って地下に流れてゆく。
中にいる人には落雷の影響はない。
スカイツリーにロゴスキーコイルを設置するのを提案した東京大学・石井勝教授、今後ますます小型化、省電力化する電子機器は、雷の影響をより受けやすくなるという。
被害を防ぐため、さらに詳細に雷を研究する必要がある。
495m地点、ゲイン塔の根元を取り囲むようにロゴスキーコイルが取り付けられた。

Safety 安全
多くの技術者の手によって作られたスカイツリー、安全に作業を進めるため、様々な工夫をしている。
朝行うのは連帯感を高めるスキンシップ。

作業中、もっとも注意すべきなのは物を落とさないようにすること。
鉄骨には青いネットと作業のための足場があらかじめ設置されている。

この足場があることで、次の作業に安全かつ迅速に移ることができる。

高所作業の要、クレーンにも、落下や転倒を抑える工夫がある。
オイルダンパー(衝撃緩衝材)をクレーンに取り付けるのは極めて珍しいこと。
その効果を立証したのが3月11日の地震だった。
なかったら折れていたかもしれない。

Tuned Mass Damper 頂部制振装置
生き物のように揺れる巨大な金属の塊はTuned Mass Damper(TMD)、バネの上にある鉄骨の錘がゆっくり揺れる仕組み。

TMDはスカイツリーのてっぺんに設置されている。
なぜ塔の一番上にわざわざ重い装置を作るのだろう。
その理由は、上空の強い風。

1940年に完成したアメリカ、タコマナローズ橋、風の影響で橋げたがうねり始めた。
共振によって揺れが増幅され、最後には橋が崩壊した。

スカイツリーは強度が高く、共振が起きても壊れることはないが、ひとつ問題がある。
アンテナが取り付けられたゲイン塔、共振を起こすと電波が乱れる恐れがある。
ゲイン塔の揺れを小さくし、共振を防ぐため、TMDが用意された。
TMDの錘はゲイン塔の揺れをタイミングをすらして揺れる。
それぞれの揺れが互いに打ち消し合う仕組み。

Under the Tree 地元の人達
スカイツリーのふもとにある銭湯、洗い場の壁を見ると・・・
至る所にスカイツリーがある。

こんなスカイツリー銭湯にしてしまったのは、ご主人の本田義勝さん(68歳)、飾ってある写真は建設が始まった頃から本田さんが撮ったもの。
スカイツリーを見にゆけないお年寄りのために写真を飾ったという。
この背景画にも本田さんのある思いが込められている。
長引く不況で暗い話題が多い中、スカイツリーの成長と共に町が元気になってほしい、本田さんは希望と期待を込めてオーダーした。

角田元春さん(79歳)、頭にはスカイツリーキャップにスカイツリーバッジ、そして長い立派な髭はスカイツリーの工事が始まった頃から伸ばし続けている。
角田さんは観光客に道案内をしたり、写真を撮ってあげたりする。
遠くから来たお客さんには自分で撮った写真をプレゼント。

「これができる前は、普段家にいた。
散歩に出ても人と話をしないでスムーズに自分の決めたコースを歩いて戻ってくるだけだったし・・・
生活が変わった。」
スカイツリーが運んでくれた新しい毎日、角田さんは今日も天空を見上げる。

Vertical Flight 垂直飛行
2010年6月1代の軽飛行機が建設中のスカイツリーの上空を飛んでいた。
乗っているのは建築カメラマン・工藤政志さn(70歳)、機体を90度傾けてスカイツリーを真上から狙う。
垂直飛行・・・シャッターチャンスは一瞬。

建築写真一筋40年という工藤さん、スカイツリーの施工を担当する大林組の専属カメラマン。
会社の信頼も篤く、建築現場にただ1人入ることを許されている。

万全の安全対策のもと、高い足場から迫力のある構図を狙う。
現場を知り尽くす工藤さんだからこそ、撮影できる究極のカット。
工藤さんの写真には、巨大な鉄の塊と格闘する作業員の姿がしっかりと収められている。

「どんな大きなものでも、人間の力が加わるということですよね。
外から見てると細かいことは分からないが、あの中で日々戦っている作業員、素晴らしいものがあると思う。」
ただ1人スカイツリーのすべてを撮り続けた工藤さん、建設中の写真はおよそ4万枚、世紀の大工事の記録。

Wind 風
スカイツリーの建設地がまだ更地だった5年前、2007年2月、敷地の隣の建物から、白い風船が空に飛んで行った。
これはラジオゾンデ、上空の風速を調べるための観測機器。
GPS付の計測器が風船の下に取り付けられ、位置を計りながら風を計測する。
日本の建築にとって600m以上の高さは未知の世界だった。
その風を調べるため、47個のラジオゾンデが打ち上げられた。

風対策に、こんな試験も行われた。
天望デッキのガラス窓とまったく同じものを試験装置にセットし、耐久性を確かめる。
このガラス窓の内と外に圧力差を設ける。

風速100m相当の圧力をかけ、強い風の中で雨風が漏れないか確かめているのだ。
前例のない建物の建設は、入念な調査と準備が支えていた。

X Day
建設地が墨田区押上に決まってから2年、2008年7月14日、起工式が執り行われた。
かつてない大プロジェクトのスタート。
でも最初は名前も知られていなかった。
高さ100mを超えると中々の存在感になってきた。
着工から1年半で300m超え、その成長と共に、次第に脚光を浴びてゆく。
2010年3月29日、ついに333mを通過。
日本1高い建造物となった。

ここから先は毎日が記録更新、そして2011年3月18日、ついにX Dayを迎える。
最後のリフトアップ工事が始まった。足元にはいつにもましてギャラリーが集まる。
ゴールの634mまであと少し、着工から2年8ヶ月、ついにここまで来た。
2011年3月18日、それはスカイツリーのもとでみんなの気持ちが1つになった1日だった。

Yell エール
2011年11月、東京スカイツリーが世界1のタワーとして認定された。
ギネスワールド・レコーズ社長アリステア・リチャーズさんは、東日本大震災に見舞われた日本が勇気と希望を見出せるよう。エールを送りたいと考えた。

今年新たに出版した本に、その願いが表現されている。

新作映画のPRのために来日したTom Cruiseさん、日本での滞在時間はわずか27時間という過密スケジュール、その合間を縫ってトム・クルーズ自らが訪れたいと願ったのがスカイツリーだった。
“Nothing is Impossible! 不可能なものはない”

Tom「日本だけでなく、全世界にとって、あの震災は大変な悲劇でした。
でも世界中が手を差し伸べています。
日本人は素晴らしい精神、気品と強さがあると思います。
日本の人々に会うと、驚くほどの寛大さを感じます。
日本が立ち直ることを祈っています。」

Zenith 頂点
スカイツリーが634mに到達した翌日、工事はまだ続いていた。
ゲイン塔を完璧に垂直にする作業が残っていたのだ。
日射や風によるわずかな傾きも精密な作業に影響を与える。
深夜、風がやむのを待って全員がハイチにつく。
地上495m、ゲイン塔のつけねで計測が始まった。
ゲイン塔の中心は図面が定める位置から6cm以内に収めなければならない。
これは2階建ての建物で言えばわずか0.8mmの精度。

ゲイン塔の根元には、調整用のジャッキがつけられていた。
これを押し引きして先端を動かす。
その操作は極めて繊細、わずか0.5mmジャッキを引く・・・

この日調整した頂点の動き、最終的に半径2cm以内に納まったことが確認された。
目標の3倍の精度を達成したのだ。

リフトアップ工事が終わった翌朝、技術者達は頂上へと向かう。
634mから眺める初めての朝日・・・
「地球は丸いですね。」

着工から3年8ヶ月、延585000の技術者が1つの目標に挑んだ。
夢と技の結晶、東京スカイツリーの開業は5月22日、いよいよ世界1のタワーがオープンする。

| poyo | 建築 | comments(8) | trackbacks(0) | - |
大聖堂ゴシック建築の科学


古代エジプトのピラミッドよりも高く、広さは自由の女神がすっぽり収まるほど。
重力に逆らって5トンもの石を自在に積み上げ、エンパイアステイトビルと同じくらいの重さの建造物。
建築の歴史に革命を起こしたその建物こそ、ゴシック様式の大聖堂。

フランスで昔ながらの道具だけを使って中世の城の建設を再現する試みが行われている。
建築資材は地元で手に入る石と鉄、材木。
フランス、ブルゴーニュに建設中のこの城は、ゲドロン城(Chateau de Guedelon)と呼ばれている。
建築面積はサッカー場のおよそ半分にもなる。
ゲドロン城は中世建築様式の研究所であり、観光の名所にもなっている。

文献によると大聖堂の建設には古代ローマ時代の兵器を巻き上げ機として使っていたことが分かった。
この方法なら1人で自分の体重の6倍の重さのものを持ち上げることができる。
少しずつ車輪が石を吊り上げてゆく。
その間にモルタルを練る。
これも昔からの手法で、焼いた石灰岩と砂を混ぜ合わせる。
モルタルは石と石の隙間は埋めるが接着力は強くない。
乾きにくく壁の内部にはほとんど空気がないので乾くのに1000年以上かかることもある。
では石材を安定させるために何を使ったのか?

答えは圧力。
6万トンにも及ぶ建物事態の重さが1つ1つの石を固定している。
ただしそれぞれの石の層が水平でなければ壁はたちまち倒れてしまう。
ゴシック様式が現れる以前、高い建物を建てるためには厚く大きな壁を築くしかなかった。
その結果建物は巨大化し、中は真っ暗だった。
やがて聖堂建築に大きな変化が現れる。

1144年6月11日、国王と王妃をはじめ多くのフランスの名士がパリ郊外のサン・ドニで一堂に会していた。
そして王家の教会堂で革新的な建築技術を目の当たりにする。
色鮮やかな光が巨大なステンドグラスの窓から差し込んで、これまで見たこともないほどの薄い壁に降り注ぎ、高くそびえる天井を照らしている。

当時のサン・ドニ(Basilique de Saint-Denis)の修道院長シュジェ、この新しい教会堂の建築様式をモダン様式と名付けた。
しかし後世の批評家はゴート人が建てたように野蛮だという意味でゴシックと呼び嘲笑った。
しかし修道院長にとってはこの教会堂が聖書にうたわれた神の家、ソロモンの神殿に思われた。
聖書には宝石やガラスや黄金が散りばめられた神殿が数多くでてくるからだ。
修道院長にとって光は神の象徴だった。
多くの光を取り込めば、それだけ人々が神に近づけると考えた。

狭く薄暗い家で暮らしていた当時の人々は、高くそびえる光の壁に畏敬の念を抱いたことだろう。
ゴシック建築の技術者達は石ではなく、ガラスを使ってとても薄くて高い壁を築いた。
そしてもろいはずのガラスの窓が高くそびえる石の天井を支えている。
ゴシックの建築家はなぜこのようなことができたのだろうか?
その答えはスペインでばらばらに解体された教会堂にある。

建築様式はゲドロン城の分厚い壁とサン・ドニ大聖堂の高くて薄い壁の中間に位置する。
1931年アメリカの新聞王ウィリアム・ハーストがヨーロッパの教会を買い取り解体して船でカリフォルニアに運んだ。
ところが大恐慌のためにハーストは教会の再建を断念した。
そして今、経験豊かな石工職人フランク・ヘルムホルツがカリフォルニアでこの教会堂の再建に取り組んでいる。
70年前スペインでバラバラに解体された。
多くの石材が倉庫に保管されている。
まずこの石材をすべて分類するのに10年近くかかった。
そしてその後7年かけて教会堂の外観を復元した。

するとこの教会堂は2種類の建築様式で建てられていることが分かった。
教会堂の裏側、分厚い壁のロマネスク様式、丸みのある窓からはあまり光が入らない。
窓は小さく細く作らねば、間部の重さを支えられないからだ。
一方正面はゴシック様式、当時の大聖堂のように薄くて高い壁を持ち、大きな開口部からたくさんの光が差し込む。
アーチの形も違う。
先端が尖っている。
どうやらこの尖ったアーチが大聖堂の壁の高さに関係ありそうだ。

詳しく調べるため、ヘルムホルツはアーチの縮尺模型を作ることにした。
まず木の骨組みを作る。
石が積みあがるまで、この骨組みがアーチを支える。
実物の16分の1の大きさだが、1つ1つの石を正確に置いていかねばならない。
石を斜めに積んでゆくと、重力が作用し始め、応力と呼ばれる圧力が生じる。
半円形のアーチでは応力は横方向に強く作用し支柱を押し広げようとする。
そのためアーチが高すぎたり広すぎたりすると中央が凹み崩れてしまう。
しかしアーチの先をとがらせると応力が下の方向に向くので、高いアーチを作ることが可能になる。
尖塔アーチと呼ばれる先端の尖ったアーチこそが高くそびえる大聖堂を築くための最初の技術革新だった。

しかしこの尖塔アーチにも限界はあった。
その尖ったアーチは重力を下に向けるが、それでも柱の先端部分には応力が生じる。
この問題を解決しなければ、石の継ぎ目が離れてアーチ全体が崩れてしまう。
パリから北へ130kmに崩壊寸前の大聖堂がある。
1220年新興都市アミアンは人口20000人という町に相応しい立派な大聖堂の建設に取り掛かることになった。
当時大聖堂の建築はブームとなっていた。
サン・ドニの教会堂に刺激を受けて、パリ周辺、やがてはヨーロッパ全土にゴシック建築の大聖堂が続々と建設された。
どの町も地上でもっとも高く、光に満ちた教会を目指した。
アミアン(Amiens)大聖堂も他の多くの大聖堂と同じく、十字架の形をしている。
十字架の交差部分には先の尖ったアーチのような高い壁が築かれた。
その高さは12階建てのビルほどもある。
しかしこの高さが構造的な欠陥を招いたと考える人もいる。
カリフォルニアの模型と同じく、このアーチにも石の圧力がかかっている。
2階から見てみると、割れ目や亀裂がよく見える。
ひび割れたアーチの左側んは大きな中央の柱があり、重さが何1000トンもある石の天井を支えている。
つまりこの割れ目は大聖堂の中心部が崩壊の危機にあるという警告なのかもしれない。

この大聖堂がどうなっているのか、ハイテク機器でスキャンする。
レーザー光線、1秒間に数1000回という速度で建物との距離を測定する。
壁全体を見渡しながらレーザーを発射して測定を行い、計測したデータを座標に落として三次元モデルを作る。
わずか数分でアミアン大聖堂の中央部分全体がスキャンされた。
コンピューターが描きだしたきわめて精密な大聖堂の三次元モデル、聖堂の傷み方が分かる。
中央の柱にしぼり、損傷の兆を探す。
柱と柱の間の距離を3つの高さで測定。
柱がまっすぐなら距離は3か所とも同じはず。
一番下で測ると11m60cm、これが基準。
過ぎに3mの高さで測ると11m50cm、10cm狭まっている。
三次元モデルからすぐに石の柱がまっすぐでないことが分かった。
さらに一番上、柱頭のすぐ下で距離を測ると11m70cm、柱の中央と比べて20cmも差がある。
三次元モデルで見ると柱は2方向に動いている。
下のほうでは内側に、上のほうでは外側に歪んでいる。
上でも下でもアーチの石が押し出され、柱に圧力をかけている。
コンピューターが作り上げたモデルから、壁の割れ目の原因は、アーチが柱を押し出しているためだと分かった。
このままずっと押し続ければ、いずれはアーチが倒れ、壁全体が崩れ落ちてしまうだろう。

根本的な原因はアーチに働く応力。
カリフォルニアでも同じ問題に取り組んでいた。
もし今木の骨組みを外せば、応力は柱上の石を押し出そうとしているので、アーチは崩れてしまう。
この応力に対抗してアーチを支える腕木のようなものを作った。
この見事な解決策は飛び梁と呼ばれている。
飛び梁(Flying buttress)をうまく機能させるためには、取り付ける位置が重要。
取り付ける位置が高すぎるとアーチの下の部分が崩れる可能性がある。
逆に低すぎると、アーチの上の部分が押し出されてしまう。
モルタルで固定されていない石のアーチは慎重に迫枠と呼ばれる木の支えを外す。
実際のゴシック大聖堂では飛び梁の大きさは圧倒的なスケール。
入り組んだ蜘蛛の巣のように石の飛び梁は地面から天に向かって高々と延びている。
飛び梁は尖塔アーチに次ぐ
ゴシック建築第2の技術革新。
飛び梁のおかげで大聖堂は天の光を捕え、空に届くほどにそびえ立つことができた。
大聖堂の天井の高さを支えているのは尖塔アーチと飛び梁、ただし大聖堂の構造はトランプで作った家に似ている。
どれ1つ石がかけても建っていられない。
ためしに石を1つだけ動かすと×××
アーチを外側から支える飛び梁がなければ、横方向の力が柱を押し倒し、全体が崩れてしまう。
横方向の力がアミアン大聖堂の中央の柱をゆがめ、倒壊の危機を招いている。

もちろんアミアン大聖堂にも飛び梁はある。
建物の外側からアーチを支えている。
ではなぜ支えきれなかったのか?
ここで再びハイテクの力を借りよう。
三次元モデルを見た専門家はすぐに重大なミスに気付いた。
建物の外の飛び梁の位置が正しくない。
位置が高すぎ飛び梁がほとんど機能していない。
天井のアーチに働く外向きの力を抑えることができなかった。
そこで建設から200年以上たって修理が行われた。
より頑丈な飛び梁を、もとの梁よりも低い位置に取り付け、アーチを支えた。
こうして後世の建築家が新たに飛び梁を取り付け、壁を安定させた。
ゴシック様式で画期的だったのは、なんといっても優れた石造建築の技術、尖塔アーチと飛び梁。
こうした技術革新によって光に満ちた美しい壁がもたらされた。
大聖堂の壁はほとんどがこうしたガラスでできている。
なぜこのガラスの壁で、巨大な石の天井を支えられるのだろうか?

12世紀の教会堂を復元する作業も終盤にさしかかった。
これから中央の12本の柱を取り付ける。
柱の頭部を吊り上げて固定する。
隣では天井の組立作業をしている。
カナメ石と呼ばれる天井中央の石をはめてみる。
800年前の石材がうまく組み合わせられるかどうか試すのだ。
この天井の構造はRib vaultと呼ばれている。
先の尖ったアーチを2つ交差させて作られている。
このRib vaultが天井の重みを柱へ導くため、壁には負担がかからずに済む。
重みは補助アーチに集中するので、アーチとアーチのあいだはすべて窓にすることができる。
リブヴォールトはゴシック様式における3つめの技術革新。
尖塔アーチや飛び梁と共に建物の重さを支え、地面へと導く骨組みなのだ。
こうして重さから解放された壁には色とりどりのガラス窓をはめ込むことができるようになった。

ニューヨークではガラス職人が中世と同じ方法でステンドグラス作りに取り組んでいる。
基本的な工程は今も変わっていない。
粉状にした石英結晶、様々な金属、ソーダ灰の混合。
化学製品の混合物を炉にいれる。
炉の温度は摂氏1200℃、火山の溶岩より高温。
中世の職人はガラスに金属を混ぜると様々な色を作れることを知っていた。
銅を混ぜると緑や赤のガラス、コバルトを加えると青、セレンを混ぜるとオレンジや黄色になる。
熱したガラスを回転させ、円盤状に形を整える。
こうした技術を使って中世の職人たちは万華鏡のように色とりどりのガラスを作った。
そして複雑で精密な図柄を持つ巨大なステンドグラスの窓を生み出した。
ここに描かれているのは聖書にでてくる様々な物語。
アダムとイヴ、ノアの箱舟、イエス・キリストの復活・・・
中世には文字が読める人はごくわずかだった。
そのためステンドグラスの窓が光で語られる聖書となった。
天から差す色鮮やかな光の壁に包まれた広々とした空間、その中で中世の人々は辛い日常を忘れ、楽園の気分を体験した。
広々とした神聖な空間を作ったのは人々を神に近づけるという宗教的な目的のためだった。
しかしそれは技術の革新と結びついて初めて実現した。
尖塔アーチと飛び梁とリヴボールト、この3つの技術革新がなければ大聖堂の建築は不可能だった。

しかし天の光を求める信仰心が技術の限界を追い越した時、大聖堂は崩れ落ちる運命にあった。
アミアン大聖堂が建設されていた頃、60km離れたボーヴェという町の人々もアミアンよりも大きく美しい大聖堂を築きたいと望んでいた。
しかしこの高さが災いを招く。
ボーヴェ大聖堂(cathédrale saint-pierre de beauvais)は建設中の1284年、そしてそののち1573年にも崩れ落ちるという事態に見舞われた。
大惨事を招いたのはボーヴェ大聖堂だけではない。
町同士が競って危険な高さに挑んだため、事故が絶えなかった。
なぜそんなにも高さを求めたのか?

その答えが大聖堂の大きさを示す数字の中に隠されているかもしれないという。
パリのノートルダム寺院、もっとも有名なゴシック様式の大聖堂。

レーザースキャナを使ってノートルダム寺院を調べる。
まず1階と2階それぞれの高さを測った。
各階とも32.8feet、およそ10m。
しかし中世には現代とは違う単位が使われていた。
ステファン・ヴァンリファレンジ(ジョージア大学)「中世の尺度Royal feetに換算すると上下階ともおよそ30Royal feetになる。」

合計すると高さ60Royal feet、この30と60という数字を見て、ヴァンリファレンジはひらめいた。
フランス最古の図書館の1つ、マザラン図書館で、中世の文献の写本を調べた。
ステファン・ヴァンリファレンジ「ノートルダム寺院の建設に携わった司祭Petrus Comestorが12世紀末に記した書物。」
『スコラ哲学的聖書物語』というこの本はノートルダム寺院の建設中に書かれた。
Comestorは旧約聖書の一説を引用し、地上に作られた神の家と称えられるエルサレムのソロモンの神殿について詳しく説明している。

「1階の住居は高さ30Cubits、その上の住居も高さ30Cubitsだった。」
ノートルダム寺院の建設者にとってソロモンの神殿の大きさは極めて重要な意味をもっていたようだ。
1階の高さが30Cubits、2階までの高さが60Cubits、30Royal feetと30Cubits、数字が一致する。
これは単なる偶然の一致なのか、それとも聖書の中の神聖な数字が意図的に大聖堂に組み込まれたのか。
パリの南西およそ90kmにあるゴシック建築の最高峰シャルトル大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Chartres)に手掛かりがあった。

シャルトル大聖堂のステンドグラスはほとんどが800年前のもの、ここでは聖書の物語はステンドグラスだけでなく、石にも刻まれている。
イエス・キリストや聖母マリア、そして12使徒の石像が外壁をとりまいている。
しかしゴシック建築の専門家シャクリーン・ユング(イエール大学)が注目するのはキリスト教が誕生する数100年前に活躍した古代ギリシャや古代ローマの学者達の像。
アリストテレスやユークリッド、そしてピタゴラスの姿もある。
シャルトル大聖堂を建設した聖職者は古代の異教徒を崇めていたのだ。

ここに大聖堂を建設するにあたって聖職者たちは古代ギリシャと古代ローマの思想を研究した。
そして宇宙の究極の美は完璧な比率と理想的な数字に基づいているという考えに注目する。
神は聖なる数学者であり、神聖な数字を用いて宇宙を想像したと考えたからだ。
中世の聖職者は聖書の中の数字こそが神が用いた神聖な尺度だと考えた。
アミアン大聖堂、聖なる数字を探してみよう。
まず十字架の中心にあたる正方形をした部分の寸法を測る。
中央の正方形の1辺はアミアン大聖堂の建設者が使ったRoman feetという単位で測ると50Roman feetだった。
50というのも聖書に登場する重要な数字。
神がノアに作るよう命じた箱舟は幅が50Cubitsだった。
ノートルダム寺院と同じくアミアン大聖堂にも聖書に示された数字が取り入れられているようだ。
レーザースキャンした画像を見直してみた。
カナメ石を1つ選び線を床まで下すと敷石までの距離がでる。
42.55m、測定した距離を中世の単位に変換する。
するともう1つの聖なる数字144が現れた。
この数字は新約聖書の中で神の都と呼ばれる天国の城壁の高さ144Cubitsと一致する。
ヨハネの黙示録の一説でヨハネがアポロンに見た都の城壁を測ると144Cubitsだった。
そしてなんとアミアン大聖堂が完成した時の式典で司祭が朗読したのも、神の都の城壁の高さが144だと記されたヨハネ黙示録の一説だった。

聖なる数字がほかにもないか、一部が崩れかけたボーヴェ大聖堂も調べた。
大聖堂の高さは144.3Cubits、アミアンでもボーヴェでも設計者は大聖堂を神の都と同じ高さに設計しようとした。
ノートルダム大聖堂で30というソロモン神殿の数字が、アミアン大聖堂で50というノアの方舟の数字が見つかった。
他にも大聖堂の設計に聖書の数字が使われていたという証拠が発見された。
ゴシック建築の建設者たちは聖なる数字を取り入れ、大聖堂を地上の天国にしようとした。
人々に辛い日常を忘れさせ、永遠の高みへといざなう神聖な空間を生み出そうとした。
大聖堂の構造にもキリスト教の救済の象徴が取り入れられている。
十字架だ。
大聖堂は人々を天国へと運んでくれる輸送のための手段なのだ。

| poyo | 建築 | comments(1) | trackbacks(0) | - |
ハイテクのルーツ Burj Al Arab


Burj Al Arab、アラブの塔という名のホテル。
このホテルの吹き抜けは世界1高く、地上182m、きらきらと華やかなホテル。
ここではヘリで乗り付けるのは当たり前。
スイートルームはまるで豪華な繭のように外に広がる砂漠から守ってくれる。
このホテルは最初から町の象徴として設計された。
この20年間でドバイは急成長を遂げ、これからはビジネスと観光で富を築こうとしている。

1960年代初期に石油が発見されたが、枯渇することは分かっていた。
Burj Al Arabは石油がなくなった後のドバイの将来設計に組み込まれている。
ホテルの設計者はドバイの歴史から着想を得た。
その昔ドバイの富は海から生まれた。
真珠をとっていたのだ。
ホテルの独特な形はその歴史を思い起こさせる。

曲線ははるか古代からこのあたりの海上を走っていた帆船、ダウ船の形を模している。
象徴となる建物を船の形にすることは課題の1つに過ぎなかった。
建築家たちはさらに上を目指す。
そしてホテルを沖合300mの場所に造った。
人工島の上に建てたのだ。
それにはもちろんお金がかかるし簡単ではない。
25万トンの建物を支えられるほど比較的大きくて丈夫な島を作らねばならない。
なによりも波の力から守らねばならない。

少量の水にも驚くべき破壊力があることを実験する。
人口の波を作る。
Burj Al Arabの堤防を担当したマイク・マクニコルズ「一定の状況で一定の速度になると、水はまるで個体のようになって激突する。
高層ビルで転落防止のために使われている厚さ10mmのガラスでテーブルを作る。
1トンの水が入った袋の底に導火線が輪になってついている。
爆薬が爆発した瞬間に、袋の底が抜けて中の水が一塊になって落ちる仕組み。
本物の波みたいに・・・
これまで水というものは周りを流れる軟らかいものと思われている。
ジェット水流なら洗車できるが1㎥の水を分厚いガラス板にぶちまけるとどうなるだろうか?
5,4,3,2,1・・・バ〜ン!1トンの水は数m落下しただけだが、凄まじい破壊力。

しかしペルシャ湾の波に比べればたいしたことはない。
人工島にうちつける最大級の波は、数100トンのエネルギーがある。
毎回130台の小型車がぶつかってくるようなもの。
どうやって波から島を守ればよいのか。
ジャックスというゲームの駒がヒントになった。
互いにかみ合い隙間ができる。
水が底に渦巻いてエネルギーを失う。
解決策は穴、穴を初めて利用したのは革命的な消波ブロックを作った南アフリカの港湾技術者だった。
南アフリカ盤のジャックスの駒がかみ合う様子に感動してイーストロンドン地区の防波堤を設計し直した。
現在でもほとんどの防波堤がこの穴の概念を利用している。

実験、Burj Al Arabを守る防波堤を参考にして家具を守るための構造を作る。
壁を作って波を止めようとするのではなく、波のエネルギーを吸収するようなスペースに、その秘密はある。
厚み10mmのガラス板の上にタイヤを組み合わせた手作りの防波堤を置く。
タイヤの穴がうまく機能すれば、上から落とした1トンの水は流れが変わってダメージを与えずに下に落ちるはず。
5,4,3,2,1・・・バ〜ン!爆薬が爆発し、袋の底が抜け、1トンの水が一塊になって落ちる。
手作りのタイヤの防波堤が大きな水の塊を砕き、粉々になるのが見えた。
穴のおかげでガラスのテーブルも島もホテルも守ることができる。

ドバイでは波を砕くために用いたのはコンクリート。
その堤防は波らかで洗練された均一な形をしていて国際的レベルのホテルを支えるにはピッタリ。
穴が確実に波のエネルギーを軽減してくれるので島の高さは海抜7.5mしかない。
島を比較的低くすることができたので、海上の船というイメージを保つことができた。
もっとすごいのは堤防の内側にこのような船を作り上げたということ。

島の外側ができたところで真ん中を何かで埋めねばならない。
選ばれたのは砂。
Burj Al Arabの高さはエッフェル塔より少し高い321m、どうして風が吹いても倒れないで砂の上に建っていられるのだろうか。
実は驚くほど単純な科学的原理がある。
表面勝というのは文字通り物体の表面の間の摩擦。
手をこすり合わせると摩擦で熱が生まれる。
実験、2冊の電話帳を交互に1ページずつ重ねてゆく。
力いっぱい引っ張っても引き離せない。
表面摩擦だけでつながっている。
ぶら下がっても大丈夫。

砂のように不安定な素材の上に建物を建てる秘密は摩擦力。
基礎に鉄筋コンクリートの杭を使う。
長い釘のように地面に打ち込む。
この表面摩擦で砂の上にも建物を建てることができる。
杭基礎の強さを見せるために実験を行う。
瓶いっぱいの米、ナイフを米に突き刺す。

表面摩擦は砂の上で高さ320mのビルを支えられるほど強力。
合計9.5kmにも及ぶ杭が、それぞれ地下43mの砂の中に埋まってホテルを支えている。
それぞれの杭が電話帳のページのように摩擦力を強める。
たくさんの杭を使うことで砂は岩のように硬くなり、ビルを支えている。

灼熱のドバイの気温は49℃にも達することがある。
その熱は鋼鉄を扱う技術者や建築家に課題を突き付けた。
金属は温めると膨張する。
瓶の蓋が開かない時に少し温めると膨張して開けやすくなるのはよいが、1日の間でも気温に応じて膨張と収縮を繰り返す巨大な金属のトラスを正確にかみ合わせねばならないとすると簡単なことではない。
Burj Al Arabは鋼鉄の外部フレームを使って建てられている。
ビルの重さを支えている6つのトラスは最長85mで、ジャンボジェットよりも長い。
砂漠の熱にさらされると鋼鉄は5cmも膨張することがある。
精密さを要求される建築においては致命的な誤差。
実験、2つの鋼鉄の三角形はホテルの巨大なトラスの模型、本物は80m、三角形は精密に加工されていて部品を使い固定する。
鋼鉄の三角形はしっかり固定されたが砂漠の熱と、それに伴う膨張の問題にはまだ対応してはいない。

1つ部品をはずし、溶接機で上側の三角形を温める。
部品をはめてみるが合わない、ネジも通らない。
金属が膨張したので穴の位置がずれた。
上の三角形は熱膨張で大きくなるが、下の三角形はそのまま、つまり2つの穴が重なることはない。
80倍の大きさだとずれも相当なものになる。
どうすればよいのか。

鋼鉄のトラスは時間帯や気温に応じて伸縮する。
避けようがない。
そのままではタワーが曲がってしまう。
技術者はエンジンのカムのおかげで素晴らしい解決策を見つける。
カムは車のエンジンに使われる部品。

カムシャフト、エンジンの上の部分、下にある気筒のバルブを操作する部品、素早い開閉で燃料と空気を取り入れ、排気ガスを出す。
カムがエンジンを回転させる。
カムシャフトを回すとカムが見える。
変な動きをしている。
飛び出した部分が部品を押し下げバルブを開けたり閉めたりしている。
この原理は昔から使われてきた。
カムのデッパリは中心からはずれていて、カムシャフトが回転するたびにバルブを開閉する。

Burj Al Arabではこの原理を使って強烈な砂漠の熱が引き起こす問題に対応した。
偏芯組立部品はカムと同じような原理を用いて設計されている。
穴があることで熱膨張に柔軟に対応することができる。
鋼鉄三角形にはめてみる。大きな穴に部品をはめる。
ボルトを動かすとピッタリはまる。
偏芯組立部品の上の穴は動くので、鋼鉄がいくら膨張したとしても下の穴にあわせることができる。
エンジンのカムからヒントを得た技術者は、巨大なトラスが熱で膨張しても正確に設置できるように可動式の組立部品を特別に設計した。
設置後は全てしっかりと溶接された。

今では建物全体が一体となり、形を保ちながら伸縮している。
焼けつくような砂漠の熱さになろうとも、Burl Al Arabの室内は心地よい23℃に保たれている。
しかしこれはなかなか大変なこと。
砂漠にオアシスを作り出し、それを維持することは技術者にとって大きな挑戦だった。
問題はホテルの中と外の大きな温度差を維持せねばならないことだった。
暑い日にはその温度差は20℃にもなる。
温度差によって気圧も差が生まれるが、自然界では大きな気圧差はハリケーンなどの強風をもたらす。
気圧の差は全ての高層ビルに影響を及ぼす。
特に砂漠の中のBurj Al Arabにとっては大問題。
建物への出入りができなくなる可能性もある。

建築構造物理学の教授、ダグ・キムが空調と子層ビルと灼熱の砂漠を組み合わせると、なぜ大問題が起きるのか説明してくれた。
ホテルの吹き抜けを縮小した模型、下に設置した電球はホテル内の人間や窓から差し込む太陽光の熱を表す。
一番上には1kgのドライアイスを置いた。
これは空調設備の冷却効果。
煙で空気の流れを観察する。
1階にいる人や太陽光の熱で空気が上昇する。
そして空調で冷えた空気は密度が濃くなって下降する。
上昇気流と加工気流が生じる。
熱い砂漠に囲まれた冷たい空気の柱が出来上がる。
何が問題?
ダグ・キム「Burj Al Arabは180mの吹き抜け、下のほうにはかなり重い空気がたまっている、
ドアを開けるのは大きな袋に入ってジャガイモを持ち上げるようなものだろう。」
Burj Al Arabの高い吹き抜けと外の砂漠の熱が組み合わさると、ドアを開けるには21kgの力が必要。

スタック効果と呼ばれる気圧差の問題は、高層ビルの登場で注目された。
ニューヨークやシカゴで働くビジネスマンから気圧差のせいで隙間風が吹くだけでなく、ビルのドアすらあけることができないという苦情がでた。
Burj Al Arabに必要だったのはホテルの中の気圧を保つためのエアロックのようなもの。
ちょうど宇宙ステーションで使われているようなもの。
回転ドアは内部が直接外気に触れることがないよう設計されている。
ドアが回転していても建物は密閉されている。
1899年ニューヨークのRector'sレストランで初めて導入され、当時のキャッチフレーズは“いつでもオープン、いつでもクローズ”、建物は常に密閉されているからだ。
回転ドアはスタック効果によって生じる空気の流出を防ぐために必要なエアロック。

快適さにも問題が潜んでいる。
この部屋には考えうるありとあらゆる先端機器が組み込まれていて、すべてリモコンで操作できる。
ワンタッチで天井からテレビが下りてきて、家具が飛び出す。
室温を変えたりドアを開閉したり、照明をおとしてロマンチックなムードにもできる。
宿泊者にとっては素晴らしい機能だが、技術者には頭痛の種。
ぜいたく品はたくさんの電力を消費する。
スウィートルームの照明はイギリスの家庭ですべての電気製品を丸1日使うよりも電力が必要。
そしてロマンチックなムードが衝撃的な結果をもたらすことも。
照明を落とすにはボタンを押すだけ。
しかし証明を暗くするときのコードが異常なまでに熱くなり発火してしまう。

Burj Al Arabの複製の小屋、高電圧の電流が流れていて照明の調節機能がついている。
電気の専門家ポール・ミッチソンが複雑な空気や試験装置を完備したモニタリングステーションを作った。
ポール・ミッチソン「オシロスコープで電流の波形を見てみよう。
この電流が証明をつけている。
重要なのは波形が非常に滑らか、規則的で安全だということ。」
照明を変えてみる。3つの照明を最大にするのではなく、暗めの明かりを6つつける。
電気の量は同じ、6つつけたけど暗い。
しかしオシロスコープを見ると何かが違う。
今は短い時間ずつ証明に電気を送っている。
そうやって電力を半分にしている。
水道の蛇口の場合、蛇口を全開にして水の量が多すぎれば半分にもどすと水も半分になる。
照明も同じように暗くすれば半分の電力が流れるのかと思っていたが・・・
ポール・ミッチソン「どちらかというと蛇口を開いたり閉じたりを繰り返す感じ。」
照明を暗くすると1秒間に120回も電流を遮断しているのだ。

そうすることで照明が最大の明るさに到達しない。
しかし副作用もある。
電力の量は同じでスイッチのオンオフを切り替えている。
どこが問題?
ポール・ミッチソン「断続的に電流を流しているとコードに対する加熱効果が高くなる。」
コードに流れる電流は、一定の熱を発生するものだが、調節スイッチを使うことでさらに熱くなり、危険な場合もある。
スイッチのオンオフで高周波ひずみと呼ばれる混乱状態の電流がコードを流れる。
コードはこれに対応できるように設計されていない。
運悪く熱くなったコードの近くに燃えやすいものがあったとしたらどうなる?
例えば誰かが化粧用コットンでいっぱいのゴミ箱の上にうっかりコードを置いたとしたら?
そしてそのコットンに除光液がしみこんでいたら・・・
6つの照明を弱くして何が起こるかみてみよう。
20秒足らずで火がつき、小屋が燃えた。
高級ホテルでは許されない。
どうしてこんなに危険な調節スイッチを使うのだろうか?

雰囲気を変えようとするたびに、ムードが台無しの火事が起きないのははなぜか。
それはカメラのフラッシュにも使われている防御策のおかげ。
初期のカメラのフラッシュは、火薬で光を出していた。
しかし安全に持ち運べるものが必要だった。
その解決策はコンデンサー、カメラの中でコンデンサーは蓄積したエネルギーを一気に放出してフラッシュを光らせる。
建物の中では火事の原因となる混乱状態の電流を、インダクタと共に排除するフィルターになっている。

「コンデンサーを使うことでエネルギーをゆっくり溜めて照明のほうに流す。
エネルギーを溜めてから制御可能な速度で放出する。」
Burj Al Arabのコンデンサーは建物の奥深くにあり、インダクタと共に贅沢な建物とその宿泊客からホテルを守る知られざるホテルのヒーロー。
このホテルの料金に見合った役割といえば高級感や豪華さを象徴すること。
灼熱の砂漠と海に囲まれているホテルにおいて最高の贅沢とは?
噴水、デジタル制御された100万ポンドの傑作。
水のように見えないことすらある。

噴水の水は普通の水とは動きが違う。
こんな技をさせるためには水の乱れを取り除かねばならない。
層流と呼ばれる非現実的なまでのガラスのような滑らかさが必要。
1930年代高くなったビルの火災に対応するため、消防署はより高く放水する必要があった。
ある技術者が水流の乱れのせいで、空中で流れがとぎれ、距離が伸びないことに気付いた。
消防用ホースの防水を滑らかにする彼の発明が、噴水の秘密。

コーヒーにミルクを入れよく混ぜる。
これをもとにもどせたら?
もとに戻せる液体があるという。
流体力学の専門家、マンチェスター大学トム・マレン教授「色のついた粘り気のあるシロップを透明なシロップに入れてかき混ぜる。
流れを作るためにハンドルを回すとよく混ざる。
しかし反対にゆっくり回すと・・・もとに戻る。」
シロップのように粘り気のある液体は滑らかなので、層流になりやすい。
水のような乱れが生じないため、混ざった塊を元に戻すことができる。
水がこのように動けばコーヒーを分離することも可能。

水の層流を作るためには層流ノズルを使って乱れを取り除く。
乱流では光が散乱してしまう。
層流はガラスのように滑らか。
層流を作る装置、乱流を流すと水は網を通り、乱れのもととなる泡や渦を取り除き、水を滑らかにする。
乱れのない水の流れはより速く滑らか。
ノズルから層流となり出てくる。

1930年代アメリカの技術者フォレス・バーカーが水の乱れを取り除けば、より遠くまで届くと気付いた。
彼が設計した新型のホースは内部に金属製の羽を備え、放水時に水の流れを整える。
バーカーの発明のおかげで放水距離が延びた。
滑らかな水は遠くまで届くため、消防士たちは高層ビルの火事にも対応できるようになった。
現在の層流ノズルはバーカーの装置から1歩進んで水のすべての乱れを取り除き、ガラスのように仕上げる。
Burj Al Arabの噴水には66の層流ノズルが組み込まれている。

Burj Al Arabに必要なのは高級感、その技術も単に生き残るためのものではなく、感動を与えるためのもの。
これらの技術のおかげでBurj Al Arabはドバイにその美しい姿を現している。

| poyo | 建築 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
The Biggest Dam


中国長江、ここに世界最大のコンクリート建造物がある。
その名は三峡ダム、長さ2km以上、高さは60階建てのビルに相当し、延べ40000人の労働者が17年以上かけて造った。
併設の水力発電所は最終的に日本の電力消費量のほぼ1割を賄える22500万メガワット近い発電能力を持つ。
経済的な急成長を遂げている中国。
加速し続ける産業にはより多くの電力が必要。
中国はその多くを国土の中央を流れる長江に建設した三峡ダムから得ようとしている。

このダムの建設にあたってはまず幅2kmにも及ぶ長江の流れを変え、水没する地域から100万人以上の住人を移転させねばならなかった。
このダムには2800万㎥のコンクリートが使われたが、それを直径1mの円柱に伸ばせば地球を1周する。
中国政府は多くの国民にクリーンで安価な電力を供給できる水力発電ダムは建設する価値があると考えた。
このダムがそれほど大量に発電できるわけを知るには過去にさかのぼらねばならない。
Debdon Dam:4kw
Leap1:Power Generation

1800年代イギリスは産業革命の中心だったが、現代生活の魁ともいえるある屋敷の主アームストロングは企業家であり、発明家だった。
家の中には先端技術を駆使したセントラルヒーティングをはじめ、機械仕掛けの昇降機や洗濯機、オーブンなどがあふれていた。
ところが今では必ずある肝心なものがない。
Anthony Burton(Historian)「ここはご自慢のビクトリア調絵画を飾ったギャラリー。
でもこの部屋は昼でも薄暗く、夜になって招待客に見せたいと思ってもロウソクの明かりでは役にたたない。
アームストロングには電気の明かりが必要だった。

発電についてはすでに半世紀前にファラデーが電線のコイルと磁石で電気が起こることを発見済みだった。
その仕掛けは、円盤をコイルの上でまわして電気を起こす。」
これはコイルの上を磁石が通過するたびに微弱な電気パルスが発生するから。
Burton「でも大きな電力を得るには大きな装置がいる。
そこでアームストロングはトムソンボルテックスタービンを買い込んだ。」
トムソンタービンのローターを回すには速い水流が必要だった。
しかし敷地には緩やかな小川しかなかった。
彼は小川を堰きとめダムを作った。
アームストロングは10m近い高さの土手を築き、小川をダムに変えた。
これだけ深さがあると、そこの水は大きな圧力を受ける。
アームストロングはこの底から土手の下をくぐって水道管を引いた。
そしてそれにトムソンタービンを連結する。
このローターの軸が発電機を回し、4kwの電気を起こす。
ところがこれはほんの第1段階だった。
土手下の発電小屋から1km以上も離れた屋敷のギャラリーまで電気を運ばねばならない。
そこでアームストロングは発電機に太い銅線をつなぎ、屋敷まで敷いた。
5トンもの銅を使ってたった1つの電球をつけた。
しかしこれが世界初の偉業だった。
水力発電による照明だ。

中国でも基本的にこの仕組みが取り入れられている。
2003年からこのダムに関わってきたDr.Robin Charlwood(Civil Engineer)「ここは三峡プロジェクトの3つの巨大発電所の1つ。
奥行きは700mもあり、大きなタービン発電機が14基据えられている。
この部屋の向う1km先に2番目の発電所があって、さらに川を渡った向こう岸の岩盤をくりぬいた地下に3つめがある。
発電機は1基ほぼ5000万ドルなので、実に巨大な計画。」
発電機が1基だけだったアームストロングのDebdon Damに比べ、三峡ダムでは32基。
発電量は500万倍に増えた。

それらの発電機を動かすには大河長江の力が必要。
ダムの背後の貯水池はすでに川床から60階のビルの高さまで水が溜まっている。
その水は巨大なコンクリートの壁を通るチューブによって発電機まで導かれる。
そしてその激流がタービンを回転させる。
この回転運動は発電機のローターに伝わる。
ローターには磁石が取り付けられていて、銅のコイルの中で回転し電気を起こす。
この1基で小型の原子力発電所とほぼ同じ量が発電でき、32基で6000満員の暮らしに十分な電力が得られる。

1878年のDebdon Damは小川でも水力発電ができることを示したが、大容量で発電するにはもっと大きな川と格闘しなければならない。
Mareges Dam:128MW
Leap2:River Diversion

1914年第一次世界大戦が勃発、フランスは深刻なエネルギー危機に陥った。
ドイツに炭鉱を抑えられたフランスは、発電所の操業を続けるために石炭を海外から輸入せざるを得なくなった。
そのため戦争が終わると水力発電所の開発を加速しようとした。
しかし流れが急なドルドーニュ川にコンクリートのダムを作るのは難事業だった。
Anthony Burton(Historian)「川にいきなりコンクリートをうつわけにはいかない。
ダムは3つ作らねばならない。
まず仮締切りという1次的なダムを作る。
水を堰き止めるのだがこのままでは上を乗り越えるので、手前に仮排水路という迂回用の水路を作る。
さらに下流からの逆流を止めるために下流側にも仮締切りを作る。
これでようやく排水できるようになったので、本体のダムを作る。」
ドルドーニュでは川を分けるために岩盤を爆破して2本のトンネルを掘った。
そして石を詰めた鉄のカゴを川に落として仮締切りを作る。
さらにコンクリートで補強する。
すると上流側が増水し始めるがトンネルで排水される。
今度は逆流を防ぐために下流側の仮締切りを作る。
最後に2つの仮締切りの間を排水してダム本体の建設現場が現れた。
Burton「幸いなことに水が引いた後に現れた川床は固い岩盤で、ダムを直接その上に作れた。」
放水路を開き発電が始まった。

このMareges Damの完成で、128MWの電力が得られた。
これはリヨンの鉄道を動かし、400km離れたパリの暮らしに使うのに十分な量だった。
一方長江は全長が600km以上、幅もところによっては数kmもある中国1の大河。
巨大ダムは極めて困難な事業だった。
ダムができ、水面が上昇すると流域の600k屬水没してしまう。
上流に住む100数10万人が移転を余儀なくなれた。
移転先は各地に及び、数10万戸の住居が建てられる。
その手当てがすまないと川は堰きとめられない。
三峡ダムの工事の間、川の水をせき止める仮締切りを作るのに使った岩とプレキャストコンクリートのブロックの山。
長江はとても流れが速くて深い世界最大の川の1つなので川を堰きとめるのは大仕事で、仮締切りの構築は工事を安全に進めるためにとても重要だった。
工事ではまず石の仮締切りで水面を四角く囲い、その横に水路を確保する。
次に干上がった川床にダム本体の最初の2セクションを作り、その後川を大量の土砂で埋め立ててその上に今度はコンクリートで別の仮締切りを築く。
こうして水をすべて堰きとめておいて、ダムの残りのセクションを作る。
その後で水がダム内部の発電タービンを通るように仮締切りを取り壊した。
Charlwood「仮締切りは本格的なものだったので取り壊すのも大変。
そこで当初は大きな岩やコンクリートブロックを使った。
これなら従来の建設重機で取り扱うことができる。
でも最後に使ったコンクリート壁の取り壊しには新しい技術がいった。」
Mareges Damとは違い、三峡ダムの仮締切りは背が高すぎて水没しない。
そこで最初から発破のための穴をたくさん開けておいた。
2006年6月6日それらの穴に全部で190トンのダイナマイトを詰める。
何ヶ月もかけて作った仮締切りが数秒で壊されてゆく。
ついたてが亡くなった川の水がダムに押し寄せる。
三峡ダムはこの激しい圧力に耐えた。

1935年のMareges Damは川を迂回させれば大きなダムが作れることを証明した。
しかし1000MWの大台にのるHoover Damでは建設材料の限界が試される。
Hoover Dam:1345MW
Leap3:Concrete
1930年代アメリカは主要な経済問題の1つに取り組むことにする。
それは西部の発展を妨げている水と電力不足。
その解決策は世界最大になるHoover Damの実現だった。
ハイスケーラーと呼ばれた労働者達はコンクリートを流し込んだ時によくなじむように崖の上からロープで吊るされた板に座って推力式のハンマーで崖の表面を砕く。

Hoover Damはかつてない量のコンクリートが使われた。
しかし膨大な量のコンクリートは大きな問題を引き起こす。
ED McCann(Civil Engineer)「発熱をどうするかということが大きな問題。
それはコンクリートの3つの原料から発生する。
原料の1つめはセメント、水と反応し変化する。
3つめは骨材と言われる砂利や砂で、これを混ぜてコンクリートを強く吸うr。
水にセメントをいれると水和反応という化学反応が起き、熱を出す。
水とセメントが混ざると発熱する。
これが膨大なら熱の逃げ場がなくなる。
コンクリートの内部はどんどん熱くなって膨張する。
すると外にひびが入る。」

コンクリートを一気に注げば外側は早く冷めて硬くなる。
しかし内部はまだ熱が上がっているので膨張しようとする。
その結果硬くなった外側に力が加わってひび割れる。
そこでHoover Damではコンクリートを小さなブロックに分けて固めた。
こうすれば冷える時に多少縮むが割れない。
ただし縮んだ後に隙間ができるため、セメントで埋める必要がある。
ところがこの方法でも問題が残る。
McCann「Hoover Domには600万トンものコンクリートが使われた。
もしその熱を全部集めてオーブンにいれることができれば、1日50万枚のパンを3年間トーストすることができたほど。
もしこのダムをそのまま放っておけば冷め切るまでに125年かかる計算だった。
責任者のフランク・クローは短期でせっかちクローと呼ばれていた。
その彼がそんなには待てないからコロラド川の水で冷やせといった。」
クローはコンクリートの中に総延長が950kmにもなる鉄パイプを埋め込む。
同時に水の冷却工場も建てた。
彼は
この工場で川の水を4℃まで冷やし、まだ熱いコンクリートの中に流した。
その結果冷え切るまでの時間を22ヶ月に短縮できた。
McCann「あとは仕上げるだけ。
パイプにセメントを詰めて完全に埋める。
この工事は5000人が予定より2年早い21ヶ月で完成させ、予算も残した。
Hoover Damは350億㎥の貯水量を持つ、当時世界最大の水力発電ダム。
この巨大なダムの完成で、西部は繁栄への道を歩み始めた。
しかし三峡ダムは全く次元が違う。

三峡ダムのコンクリートの量はHoover Damの10倍にもなるため、冷却には最大限の注意が払われた。
Charlwood「既存のノウハウをすべて動員した。
あらかじめ砂や砂利などの材料を冷やしておいたり、水と一緒に氷をいれたり、温度を上げずにすむ方法ならなんでも採用した。
この辺りは特に7、8月の夏の時期が暑いので、霧発生装置を使ってダムの上から霧を降らせた。
そうすることで直射日光を遮り、表面が太陽にあぶられるのを抑えてコンクリートの熱が外に逃げられるようにした。」
1936年に完成したHoover Damは適切に冷却すれば巨大なコンクリートのダムでも作れることを証明した。
しかしダムが大きくなればより多くの水がたまり、凄まじい破壊力を持つようになる。

Grand Coulee Dam:2000MW
Leap4:Flood

ペンシルベニア州ジョンズタウン、1889年5月30日、町では史上最高の降雨量を記録し、ダムの貯水池が不気味な動きを見せる。
雨は24時間降り続き、水面がダムの天端、つまり堤防の一番上の面に達した。
それ以上には上れない。
水はすぐに溢れはじめる。
ダムは決壊し、2000万トンの貯水池が45分で空になる。
18mにも達した水の壁が津波のようにジョンズタウンを襲った。
町は完全に破壊され、2200人以上が犠牲になる。
アメリカ史上最悪の災害だった。

何故ダムはオーバーフローすると決壊するのか?
McCann「天端を乗り越えた水、つまり越流が堤の斜面、つまりの裏面の先を洗って掘り崩す現象で、法先洗掘と呼ばれる。
ダムが決壊すると貯水池の水が一気に谷を下る。」
1933年アメリカ北西部のワシントン州を流れるコロンビア川でGrand Coulee Damの建設が始まった。

幅がHoover Damの3倍あり、3倍以上のコンクリートを使った巨大ダム。
越流は川床を浸食して災害を引き起こす。
そのためこのダムでは水を跳ねさせる跳水式の洪水吐が設けられた。
洪水吐とはダムからの放流水を安全に下流に流すための設備で、跳水式では勢いよく流れ落ちる水を底のランプにたたきつけて渦を起こさせ、力をそぐ。
この仕組みのおかげでGrand Coulee Damは今日に至るまでアメリカ最大の水力発電ダムとして創業し続けている。

三峡ダムでもこの問題の解決策を迫られ、どのような洪水吐にしてダムを守るかが検討された。
Charlwood「ダムは雨の季節に満水になるものだが、この三峡ダムではそれが220億㎥にも達する。
そこでこの下にある46個の洪水吐のゲートをコントロールして安全に放流する。
下に見えている部分は勢いをそぐ減勢工というが、落差が100m以上あるので猛烈な落下エネルギーに耐える設計となっている。」
減勢工はGrand Coulee Damに似た技術で作られている。
水位が上昇すると洪水吐のゲートを開き、動流部の下にスキーのジャンプ台と同じものを作ってある。
Grand Coulee Damでは水中で渦を巻かせたが、三峡ダムでは水を空中に飛ばす。
これはスキージャンプ式と呼ばれ、水を空中で細かな水滴にしてエネルギーをそぐ。
100m以上下流で降る時にはもう破壊力は残っていない。
放水路を開いても心配ない。

1942年に完成したGrand Coulee Damは越流による洗掘を抑えられることを示した。
しかしロシアの大河エニセニではダムと水上交通との両生が新たな課題になる。
Krasnoyarsk Dam:6000MW
Leap5:Shipping
1960年代のソビエトは工業化の拡大を望んだ。
そこで巨大なダムをいくつも建設する計画をたてる。
その初期に建設が始まったKrasnoyarsk Damでは幅が1kmもあるエニセニ川をせき止めて6000MWを発電する計画だった。
しかしこのシベリアの大河は重要な交通の動脈でもあり、ダムを塞ぐわけにはいかない。
そこで船が行き来できるように特別な仕掛けを作る。
それは船が入れるほど大きな鋼鉄製の水槽で、船ごとダムの上まで運び上げる装置。
上は巨大なターンテーブルになっていて、向きを変え貯水池に下りてゆく。
この7000トンの船を運ぶ装置には、油圧ポンプが使われた。
圧力のかかった水のパワーはすごいもの。
ロシアでも船を引き上げるのに高圧の液体を使った。
水槽には油圧ポンプが複数据えられていて、底に設置されたモーターにつながっている。
これらのモーターが大きな歯車を回し、ガイドレールに祖って水槽を動かす。
モーターはとても強力なので、川から貯水池までたった90分しかかからない。
この運搬装置ができると、大勢の市民が見物にやってきた。
この驚異的な装置は世界最大のダムに大きな栄光をもたらした。

一方中国の三峡ダムの交通問題はさらに大きなものだった。
この水路はアジアでももっとも交通量が多い。
Charlwood「長江は河口の上海から中流の九江、さらに上流の重慶まで年間10000トン近い貨物が行き交う。
中国経済に欠かすことのできない物流の大動脈。
高さが100m以上もあるダムで1日170隻もの船を通過させるのは難問だった。
そこでこの世界最大のダムに世界最大の閘門を作ることにする。
下流から来た船は最下段の閘門に入る。
ゲートが閉じ、水が入れられ次の閘門まで上昇する。
閘門は5段階あり、貯水池に抜けるまで4時間ほどかかる。
これは貨物船にはよいのだが長江に数多く浮かぶ客船には時間がかかりすぎ。
Charlwood「そこでもっと短時間で通過できるようにエレベーターを作っている。
36分で抜けられる。」
この装置の秘密はコンクリートの壁に隠されている。
壁の中には巨大なつり合い錘がぶら下がっている。
合計161000トンのコンクリートブロックは周囲の水ごと船を収容する。
鋼鉄製の水槽とケーブルで接続されている錘が下がると水槽が上がり、貯水池まで船を持ち上げる。
Charlwood「エレベーターは高さ130m、3000トンまでなら船ごと載れる。
完成は2015年の予定。」

130年間の技術革新の末にダムは膨大な電気を起こせるようになった。
今日でも水力発電はクリーンエネルギーの代表選手。
しかしこれだけ巨大化すれば周辺環境へのインパクトも大きくなる。
三峡ダムでは下流の農地への自然な養分供給を遮断しないことが求められた。
Tree Gorges Dam(三峡ダム):22500MW
Leap6:Sediment
そもそも三峡ダムは発電が最大の目的ではなかった。
Charlwood「長江は昔から大洪水を起こす暴れ川だった。
過去2000年の間ほぼ10年に1度大洪水が起こっている。
特に1931年の被害は甚大で、犠牲者は135000人、家は200万件流された。
ということで、三峡ダムはそもそも治水が目的だった。」
ダムによって破壊的な水の氾濫を食い止め、いったん貯水池に溜めた後、制御しながら放水する。
すかし近年歴史が証明したように、洪水の制御は別の重大な環境破壊を引き起こすことがある。
エジプトではナイル川の氾濫を制御しようと1970年にアスワンハイダムを作った。
しかしすぐに下流の農民達が収穫量の減少に気付く。
土が痩せ、耕作のために毎年大量の肥料を投入しなければならなくなった。
原因は上流の栄養分を運んでくる洪水がなくなったため。
Andrew Szydro(Chemist)「上流の池で雨水が溜まっている。
そこには好く肥えた表土もあり、動物の糞、それから巻貝の殻(基本成分は炭酸カルシウム)、枯葉も落ちてくる、魚もいる。
さてこの池が猛烈な嵐に見舞われると水がかき乱され、こういったものが全部交じり合って下流に氾濫するだろう。
つまりこれが植物の成長に欠かせない大自然の栄養ドリンクで、窒素やカルシウム、マグネシウム、カリウムなどが含まれている。」
しかしこの水が氾濫しなければドロ状のシルトを含む栄養の粒子は沈殿し始めるる。
これがダムにおける大問題。
長江の貴重なシルトはダムで遮られ、貯水池の停滞した水に閉じ込められる。
そして底に沈殿し、堆積してゆく。
Charlwood「このシルトの流入の問題は深刻。
この貯水池には大きな競技場が何100杯もいっぱいになるような年間5億トン近いシルトはくる計算で、塊にすれば1km四方の立方体になるほどの膨大な量。」

シルトがダムにとどまり続ければ、何100kmも続く下流の農業や漁業、さらに野生生物にとっての栄養がなくなってしまう。
同時に分解して沈殿した汚泥は水質の悪化やダム設備への悪影響を招く。
そこで大量放水の勢いで沈殿物を下流へ洗い流す仕組みが取り入れられた。
三峡ダムでは貯水池では貯水池の深いところに水門が設けられている。
その放水ゲートは1つが数10トンもあり、強力な油圧ピストンを使って開閉する。
ゲートを開くと大量の水が底に溜まった沈殿物を巻き上げながら出てゆく。
政府は少なくとも100年先にならないと沈殿物がダムの発電能力に影響を及ぼすことはないと考えている。
しかしそれでも全ての沈殿物を流しさることはできない。
科学的なアセスメントでも沈殿物が残る割合は3〜6割と評価が割れている。
ただ政府はこれを価値のある代償だと信じている。
たとえ大きなマイナスはあってもクリーンエネルギーと治水の両方のメリットのほうがはるかに重要だと考えている。

完成が近づくにつれ、巨大プロジェクトは益々注目を集めている。
発電設備の一部が未稼働であるにも関わらず、その発電量はすでに世界1になった。

| poyo | 建築 | comments(1) | trackbacks(0) | - |
ハイテクのルーツ★Super Rig

Troll A天然ガスプラットホームは、人類史上最大の移動建造物。
ノルウェー沖合い70km、北海の真っ只中に立つ姿からは真の大きさはうかがい知れない。
ほとんどは波の下。
ここがエンパイアステートビルの最上階だとすると、海は80階のところにある計算になる。
高さ500mもある建造物を作るのは陸地でさえ大変な仕事。
しかもTrollA天然ガスプラットホームは厳しいことで知られる北海に建っている。
足をたたき続ける波に耐えなければならない。
波が3mを越えると海には下りられない。
想定では30mの高波がプラットホームの底を洗うこともあるという。
脚は2060年まで経ち続けねばならず、極めて頑丈だが波の力を受け流せるよう柔軟に造られている。
それには特別なコンクリートが必要だった。

今日コンクリートは世界でもっとも普及した人工の材料で、その起源はとても古い。
ローマでは2000年も前から使われていた。
でもローマのコンクリートは曲がらないので使えない。
柔軟なコンクリートの誕生物語は、19世紀のベルサイユ宮殿で展開する。
造園師のジョゼフ・モニエは木を植えるためにコンクリートで大きな植木鉢を作った。
ところが問題が起きる。
コンクリートは硬いため、根がはると割れる。
モニエは根がはっても割れないコンクリートを作る必要に迫られる。
コンクリートの基本的配合は砂が2、骨材3、セメントが1、これが強さの秘密。
最後に全てをまとめるために水を入れる。
押しつぶす力や圧力に対してはとても強く、長い時間耐えられるが、真ん中にのしかかるような力が加わって曲げたり引張ったりされるととても弱くて崩れたり割れたりする。
コンクリートは押しつぶされる力には強いが、曲げようとする力には弱いのだ。
それがコンクリートの弱点、Troll Aの場合コンクリートは絶え間なく押し寄せる大波の力に耐えねばならない。
厚さ20cm重さ5トンのコンクリートの1枚板をテストする。
3m上から32kgの錘を落とす。
これは4mの波がTroll Aにぶつかるのと同じ。
割れてしまった・・・これが19世紀のモニエが抱えた問題だった。
伸びた木の根っこが植木鉢を割ってしまったのだ。
そこでモニエはコンクリートの弱点を補う曲げや引張りに強い強化材を加えた。
当時それは鉄だったが今は鋼鉄。
強化材をいれるのはとても簡単、鉄筋の周りにただコンクリートを注ぐだけ。
強化材はコンクリートに柔軟性を与えた。
コンクリートは外界から強化材を保護する。
再びテスト、同じコンクリートの板の中に26本の鋼鉄の棒を入れて強化した。
テストに使う錘はさっきの残骸。
5トンもあるので投げ落とせないが載せるだけでもさっきの50倍の荷重がかかることになる。
持ちこたえている。

モニエが発見したとおり、強度を高めるのに大量の鉄筋はいらない。
でもTroll Aは巨大なのでエッフェル塔15基以上の鉄筋が使われている。
一方のコンクリートはロンドンのWembley Stadiumを2つ半造れる量が使われている。
おかげでTroll Aはどんな波にも耐えられる。
でも水が入ってはひとたまりもない。
Troll Aの脚は中空で深度約300mの海底に建っている。
全体の3分の2が生みに沈むため、どんな嵐でも水が入らないようにしなければならなかった。
エレベーターで底まで9分かかる。
エレベーターは脚の中に設置されている。
海底までまっすぐ下りてゆく。
水深300m以上の海底では1c屬△燭衞35kgの圧力が壁にかかっている。
壁は2mもあるが、もし弱いところが破れれば、崩壊してしまうだろう。
いったいどうすればこんな巨大な防水の柱を造ることができるのだろうか?
構造学の専門家グラント・スレルスがもしTroll Aの脚に傷があったらどうなるか実験で見せてくれる。
まず大きなプラスチックのタンクに切れ目を入れてまた塞ぐ。
それからタンクに水をはって、ある圧力を加える。
ちょっとした爆発を起こす。
スイッチ起動、爆破!・・・わざとつけ、直した傷が爆発の大きな力でまた破壊された。

ほんの些細な弱点がTroll Aには致命的。
傷や継ぎ目は弱点になる。
しかしいったいどうやって300mもある柱を1つの継ぎ目もなく造れるのだろうか?
その秘密は連続打設。
1日も休まず24時間造り続ける。
イギリスの発電y蘇、同じ工法で建造中のコンクリートの煙突。
ゴンドラで180mの高さへ上る。
この工法はミネソタ州で画期的な防水式穀物倉庫を建てた建築技師C.F.ハグリンが考案したもの。
建造物を区画割して段階的に造ると、接合部分を完全に防水することが難しいと悟った彼は、水漏れや割れ目が発生しない一体型の建設工法を考えた。
ノンストップで高い建造物を造るためにコンクリートを連続して打設する。
そして型枠をどんどんあげてゆく。
まずコンクリートをシャッターという型枠に流し込むとコンクリートの壁そのものを足場にする。
油圧ジャッキがシャッターを数cm上に上げる。
そこに次のコンクリートを流し込む。
これをスリップ・フォーム工法という。
油圧ジャッキが足場のない劇メンを支えにしてシャッターを上げる。
この塔は1時間に20cmずつ高くなっている。
180mになるまで6週間かかった。
このスリップ・フォームはこのような建造物を最短で造れる工法だが、Troll Aの巨大な脚を造るには1年近くかかった。

打ち継ぎがないコンクリートで水圧による崩壊からは解放されたが、Troll Aは構造そのものにある危険が潜んでいる。
このプラットホームは30mの高波や暴風などの暴力的な力に耐えられるように造られている。
でも実はそれと同じくらい危険な静かな力もある。
とてもシンプルなたった1つの音がその力。
アメリカ西海岸ワシントン州タコマ橋、海峡に架かるつり橋は革命的な工法を用いて架けられた。
コンクリートの自動車道路を直径43cmのスチールケーブルで吊る。
1940年7月1日、この橋は中央のスパンが850mある世界3番目に長い吊り橋として完成した。
でも人々はすぐにこの橋が波打つことに気づく。
風のない日でさえ上下に弾む。
前の車が見えなくなることさえしょっちゅう。
そこで“跳ねるガーティーGalloping Gertie”のあだ名がついた。
でも開通から4ヶ月、人々が呆然と見守る中、頑丈なはずの吊橋がゴムのようにねじれ始めた。
道の両側が9m近くも上下する中、設計に自信満々の技師が橋を渡る。
しかしねじれは益々大きくなる。
橋は奇跡的にそのまま1時間以上耐えたが、限界・・・
幸いにも犠牲者は犬一匹だけだった。
この事故は自励振動という現象が引き起こしたもの。
Troll Aの設計でもこの危険が問題となった。
ある種のストレスにさらされると、最強のコンクリートでさえ崩れ落ちる。
ましてやここは海、それも厳しい北海。
Troll Aの4本の柱は強い波のストレスを毎日繰り返し受けることになる。
Troll Aは70年の運用期間の間に1億8000万回以上の波を受ける計算。
しかし問題は波の高さではない、波のリズム。

一種の巨大な楽器にたとえられるTroll Aは波のような永遠に繰り返す力に対して弱い。
何故そんな弱さがあるのか、音響技師ジョナサン・ハーグリーブスに聞く。
ハーグリーブス「どんな物体にも固有の周波数があって、鳴ったり共鳴したりする。
ワイングラスはよく鳴る。
グラスの振動が空気を震わせて音になる。」
Troll Aにも音、つまり振動する周波数がある。
周波数とは1秒間に振動する回数のこと。
グラスの場合1秒間に約500回。
この周波数こそ致命的な弱点。
ハーグリーブス「実験では音の伝わる順序をひっくり返す。
つまりグラスが振動した音を聞くのではなく、グラスにその音を聞かせる。
するとグラスも共振する。
ギターでグラスの周波数とぴったり同じ音を鳴らすとグラスも共振して一緒に鳴り始める。」
グラス固有の周波数を横に置いたスピーカーで鳴らすとグラスは手で触れなくてもひとりでに振動を始める。
これを共鳴という。
ハーグリーブス「共鳴が大きくなるとグラスは割れる。」
グラスを破壊する音を鳴らすために、ピッタリの周波数になるまでチューニングを繰り返す。
スローモーションで見るとグラスはもはや耐えられなくなるまで振動を続けるのが分る。
パリ〜ン!

共振によって破壊されるのはTroll Aのような大きな構造物でも同じ。
海中に延びた脚は巨大なギターの弦に似ている。
ある高さの波が続くと脚全体が振動し、その振動が構造を破壊してグラスのように崩れ落ちるかもしれない。
タコマ橋の崩壊から半世紀、Troll Aの設計陣はこの問題を深刻に受け止めた。
波が巨大かどうかではなく、ある一定の高さの波が、一定の方向から、一定の間隔、つまり一定の周波数でやってくると簡単に破壊される。
揺さぶる感じ、揺れが続く時間、力の強さ、振幅などの条件が整えば振動する。
最悪の場合全体が崩壊するかもしれない。
そうなれば160億ドルのプラットホームが海底に消える。
共振、あるいは自励振動からプラットホームを守らねばならない。
共振の周波数の変える方法とは?
ハーグリーブス「ギター、振動する弦の長さを変える、つまり振動の周波数を変えると低い音が高い音に変る。
グラスの共鳴周波数、これにダンパーをあてると音が変る。」
Troll Aの設計陣も同じ原理を使用した。
脚の中央にダンパーをあてて振動周波数をあげた。
ダンパーはコンクリート製、ギターで言えばカポタスト
海中のダンパーは脚を固定する役割を果たしている。
ギターのカポタストは音程を上げるために弦を固定する道具。
これで脚の周波数はずっと高くなった。
それほどの高さで脚を揺さぶれるような波はない。

タコマ橋のその後については、崩落から10年たって、橋桁に頑丈な補強トラスをつけた新しい橋が架けられた。
この橋は“跳ねるガーティー”をしのんで“頑丈なガーティー”と呼ばれ今も健在。
設計陣は次の難題に取り組む。
海底への固定方法。
海の底では350年前の真空ポンプが役に立つ。
Troll Aは全長450mを超える世界でもっとも高い建造物の1つ。
この巨大掘削装置はガス田から約300km離れたところで脚とプラットホームを別々に分けて建設された。
その2つを合体させるために300mの中空の脚を水で満たし、ほとんど首まで沈めた。
これが一番危険な瞬間だった。
脚には1屬△燭380トンもの水圧がかかっていた。
その5年前にSleipnerというプラットホームがこの場所で圧力に押しつぶされた。
その衝撃でリヒターのマグニチュードで3.0を記録する地震が起きた。
しかしTroll Aの脚は頑丈だった。
プラットホームを支えて水面の1mのところに浮かせた。
そして技術者が柱からゆっくり水を抜き、少しずつ浮上させた。
あくる日656000トンの建造物が完成した。
いよいよフィヨルドを出て途中の暗礁を避けながらガス田に向かって移動を始める。
狭いフィヨルドのなかを10隻のタグボートが引いてゆく。

Troll Aは人間が地球上で運んだ最大の物体になった。
でもまだ水深300mの海底に固定しなければならない。
水を錘の代わりにするTroll Aは重さが100万トン以上あるが、固定するには軽すぎる。
1654年ドイツの科学者ゲーリケが真空ポンプの威力をデモンストレーションしたが、ポンプの中は空だった。
物理学者ドービー・フィレンティがその実験を再現する。
鍋のような鋼製の半球を使う。
Magdeburgの市長でもあったOtto von Guerickeは、呼吸と燃焼における空気の役割を調べる過程で、真空に興味を持ち、これを発明した。
そして皇帝の御前で2つの半球を合わせた球体から空気を抜き、真空の威力を疲労した。
Guerickeは半球の両端を8頭ずつの馬に引かせた。
実験では馬の代わりにアメフトの選手に引いてもらうが・・・歯が立たない。
球体の中は空っぽだが周りには空気があって表面積1c屬△り1kgの力で2個の半球を両側から押している。
その力は上下左右あらゆる方向から加わる。
たとえば手のひらをかざすとそこには70kgの力がかかっている。
フィレンティ「半球が張り付くのはそこに圧力差があるから。
半球内部には空気がなく、周囲には空気があるので圧力さが生まれる。」
Guerickeの実験では16頭の馬でも外れなかった。
Troll Aの設計陣はMagdeburgの半球の21世紀バージョンを開発してプラットホームを海の底に固定した。
それはサクションパイルを何本も脚の根元に並べて海底に固定する仕組み。
サクションパイルとは何か、ミニチュアを使って説明すると・・・
シリンダーを逆さまにしたようなもので、、底はあいている。
てっぺんは閉じていて開閉できるバルブが付いている。
ドラム缶が海底とし、繊維パルプを水で溶き、海底のドロのようにする。
今バルブは閉じているので空気は抜けない。
パイルを沈めるとすぐに硬くなってそれ以上沈まなくなる。
空気が抜けないのでパイルの中の空気がそれ以上圧縮されずに抵抗になるからっだ。
てっぺんのバルブを開けるとすぐに空気が抜けて、スーッと岩盤にあたるまで入ってゆく。
バルブを閉じて密閉すると、もう空気は通れない。
この状態で無理やりひっぱり上げようとしても上がらない。
中と外に圧力差があるからだ。
まるで海底と一体化しているかのよう。
バルブを開けるとスーッと抜ける。

Troll Aでは35m以上あるパイルが19本海底に埋め込まれている。
これで30mの波も暴風雨もTroll Aを押し流せる。
深海に固定したのはTroll Aの目的を果たすため。
ガスをパイプで組みだし、どのようにしてノルウェーに送るのか。
10年前Troll Aが初めて真下のガス田に穴をあけた時。地下の埋蔵層にはガスが充満していた。
そのガスは水面に噴出し、その勢いで70km先の本土まで届いた。
でも10年経ち、ガスの圧力は落ちた。
ボトルがガス田、コーラがガスだとする。
10年前ボトルの中は天然ガスが充満していた。
キャップの内側に砂糖菓子がついている。
蓋をして上からドリルで穴を開けると砂糖菓子が中に落ちてコーラのタンサンが一気に噴出す。
最初は自噴といって勝手に噴出す。
しかししばらくすると圧力が均衡する。
ガス田と地上との圧力が均等になってでてこない。
こうなると吸い出すしかない。
解決策が必要。
そしてクラッシックカーに着目した。
1902年パリ・ウィーン自動車レース、ルノー兄弟の兄マルセル・ルノーは新開発の装置を使って優勝した。
その装置とはエンジンにより多くの空気を供給するターボチャージャー、現在のレースカーはマルセルのものよりはるかに速いが、彼が1902年に発明したものと同じ原理のターボチャージャーがついている。
このターボチャージャーははでは騒音をたてる。
当時に比べるとエンジンはずいぶん変わったが、チャージャーの本質は変わっていない。
車専門家グレーム・メイ「ターボチャージャーを一言でいうとファン、小さいコンプレッサー。
エンジンというのは空気とガソリンを混ぜて爆発させ、パワーを得る。
コンプレッサーをつけるとより多くの空気を送り込んで爆発力が増す。」
小さなファンをつけるとエンジンの出力を約2倍に増やすことができる。
ファンというのはつまり空気を吸い込んで噴出すもの。
片側では風を感じるが反対側は空気が吸い込まれている。

Troll Aではパイプを通じてファンが地中からガスを吸い込んでいる。
この動脈は心臓であるターボファンにつながっている。
ファンはとてもシンプルなもの、その役割は気体の流れを作ること。
ファン、吹き出し口の上にボールを置くと・・・浮く。
ファンには限界がある。
それを仕事量という。
仕事量を超える重いものを浮かべようとすると・・・
実験、500gの小麦粉袋を置くと、噴出口に落ちて小麦粉が噴出す。
Troll Aのファンはこの袋を900個も持ち上げられる。
これだけ強力なのはガスを送り出すから。
巨大なパイプで本土まで送る。
本土まではったった84秒、秒速830km/s以上。
垂直風洞でそのパワーを確かめる。
天井の巨大ファンでTroll Aと同じだけの空気を吸い上げてみる。
体重65kgの人が木の葉のように飛ぶ。
Troll Aのファンは毎秒1トン以上のガスを噴出している。
Troll Aの驚くべき設計のほとんどは、この巨大ファンの運転を助けるためのもの。
数10億㎥のガスをヨーロッパの8000万ユーザーの下に送り届ける。
Troll Aは現代の科学技術の脅威。
でもその底には過去の系譜が受け継がれている。

| poyo | 建築 | comments(0) | trackbacks(1) | - |
Biggest Tunnel


スイス、アルプス、巨大な山脈の地下で最先端の土木工事が進む。
ゴッタルド基底トンネル、全長57km、世界最長鉄道トンネル。
毎日2000人の作業員がスイス、アルプスの暗い地下へと下りてゆく。
地底に対する本能的な恐怖を乗り越え、熱と土埃をものともせず、巨大土木計画の達成に邁進している。
彼らの任務は中央ヨーロッパの交通問題を解決するトンネルを開通させること。
現在アルプスを越える道路は4本しかなく、どれも慢性的に渋滞している。
しかしこのAlp Transit計画が問題を根本から解消するだろう。

これはスイス最大の都市Zurichと北イタリアのMilanとを結ぶ巨大プロジェクト。
2017年から時速200km/hを超える高速列車が運行を開始する。
しかし完成までには大きな障害を克服しなければならない。
2000m級の山々が連なるゴッタルド山塊を突破しなければならない。
それができるのはスイス人だけだろう。
彼らはトンネル堀を芸術に変えた。
これまで13年間、人と機械がこのトンネルを掘るために日夜働き続けている。
このような長いトンネルがいかにして掘れるようになったかを知るために歴史を紐解こう。

Leap:1 Collapse★Thames Tunnel:370m
19世紀のロンドンでテムズ川の下を通るトンネルの計画が持ち上がる。
しかし川の重さで押しつぶされるのを防ぐ方法が問題だった。
ロンドンの渋滞は今にはじまったことではない。
200年前はもっと酷かった。
大英帝国と言われた19世紀のロンドンは世界でもっとも忙しい港だった。
あらゆる物資が出入りしていた。
川面は大型帆船で大渋滞していたので、渡し舟で向こう岸に渡るだけでさえ、ここからスコットランドへ行くよりも時間がかかったと言われている。
さらにテムズ川を渡る橋も大渋滞し、新しい橋も架けられなかった。
大型帆船が通れるようにするには橋をとても高くしなければならず、アプローチが長くなりすぎる。

マーク・ブルネルというフランス人がテムズ川の底をくぐるトンネルのアイディアを思いついたが、トンネルを掘れば川底が崩れるかもしれず、とても危険。
水槽に水をいれ、テムズの川底を再現。
テムズ川の水はにごっている。
底には砂や砂利が堆積している。
さらにその下には粘土の層がある。
これがトンネルを掘るのによい地質。
問題はこの粘土層の中だけを掘り続けるのが難しいこと。
外に出てはダメ、出水し、テムズが氾濫する。

ブルネルは名案を見つけた。
彼はチャタム造船所で働いており、木造船の材木担当だった。
ある時木に穴をあけるフナクイ虫いう貝の一種を見て思いついた。
このフナクイ虫のようにトンネルも掘った尻から固めればどうだろうかと。
フナクイ虫は体の先端に貝殻がある二枚貝の仲間。
その貝殻の表面はヤスリのようになっており、硬い木でも削りながら穴をあけ、中に入っていける。
しかし木は濡れると膨張して穴を狭くする。
すると閉じ込められ、押しつぶされてしまう。
そこでフナクイ虫はそうならないように良い対策を講じる。
フナクイ虫は体から貝殻になるネバネバした物質を分泌する。
これが穴の内側に付着して固まり、穴がつぶれるのを防ぐ。

マーク・ブルネルはフナクイ虫を大掛かりに真似る機械を作り、シールドマシンと名付けた。
縦3段、横12列の鉄枠があり、それぞれに作業員が入る。
枠の向うには土留め用に木の板を立てておく。
作業はまずその板を1枚ずつはずし、土を10cm分掘る。
そして全部掘れたらその分ジャッキで枠を押し出す。
すると後ろの周囲に10cmの隙間ができる。
そこをフナクイ虫の要領で崩れる前に壁で塞ぐ。
彼はレンガと超強力セメントで頑丈なトンネルを2本造った。
このシールド工法によりトンネルは無事開通した。
テムズトンネルは今も残っているが、作業員の恐怖感はうかがいしれない。
シールド工法はトンネルが崩壊するのは防止できたが、当時下水が垂れ流しだったテムズ川の汚水までは止められなかった。
汚泥がメタンガスを出すので1度に2時間以上は働けなかった。
酸欠で倒れると後ろに下がらせ頬をたたき、息を吹きかえすとまた作業に戻る。
どうしようもない泥仕事で爪まで溶けたという。

今日作業員達が12年かかって掘ったトンネルを、たった45秒で通過できるのは画期的なシールドマシンのおかげ。
ブルネルのアイディアはゴッタルド基底トンネルでも使われている。
切歯の作業チームは彫りながら壁を補強してゆく。
違うのはレンガを積むのではなく、超速乾性のコンクリートを吹き付けることだけ。
これをショットクリートといい、切羽の周囲の地肌に吹き付けてトンネルを硬いチューブにする。

時には地層が軟弱すぎてコンクリートだけでは崩落を抑えられないこともある。
軟弱な地層は簡単に崩落するので鋼鉄製アーチで補強しなければならない。
しかし山が押し下げる力に耐えるには、普通のアーチは役に立たない。
1本の長い梁のようなアーチを入れても、山の圧力でへし折られてしまう。
そのため短い梁を重ね合わせたような遊びのあるアーチを使う。
そのアーチは重なった部分が滑るようにクランプで組み立ててある。
圧力がかかってトンネルの直径が小さくなるとアーチも縮み、最後に全部が密着する。
そして沈み込みが安定するるとショットクリートで固める。
トンネル技師達はトンネルの崩壊を止めるには、山と戦わず、山になじむことだと学んだ。

Leap:2 Blasting★Box Tunnel 2940m
1825年のシールド工法はトンネル技術を革新したが、掘削は手作業でとても時間がかかる。
トンネルの長大化のために、この問題を解決しなければならない。
硬い石灰岩の地層をほぼ3kmも掘ったBox Tunnelでは、より速く掘る方法が求められた。
1833年貿易の拡大のためにロンドンからブリストル港まで鉄道を敷く計画が持ち上がる。
携わったのはマーク・ブルネルの息子イザムバード・ブルネル。
London-Bristol間のほぼ200kmにできるだけ平らな土地を選びながら線路を敷いた。
しかしBeistolの前で最大の難所Box hillにぶち当たる。
そのまま乗り越えようとしても急すぎて登れない。
また迂回するにはあまりにも遠回りになる。
そこでトンネルを掘って突き抜けることを選んだ。
Box hillは石灰岩の山でツルハシとシャベルで掘るのはとても難しい地質。
ブルネルは工事を早めるために軍の技術を借りることにした。
爆薬で山を突き破ろうという。

石灰岩の爆破実験・・・
爆薬を穴に押し込むが、金属製の道具は仕えない。
もしちょっとでも火花が散れば爆発するからだ。
火薬を詰めた穴に砂を詰めて押し固めてから導火線で火をつける。
すると爆発で生じたガスは出口がないので岩の中で圧力が高まる。
火薬はブルネルの武器になった。
彼は掘削作業を加速するためにBox hillの両側から発破を繰り返す。
さらにルート上に8本の縦坑を掘った。
そして縦坑の底から両側に合計16箇所の切羽を作ったので、より多くの同時作業が可能になった。
しかし発破には大きな欠点もある。
火薬の爆発では大量のガスや蒸気、硫化水素、二酸化硫黄、一酸化炭素が発生する。
一酸化炭素はとても有毒、狭い地下空間で発破を繰り返し、そこにたまった空気を吸い続けると、そのうち気を失い、死に至る。
Box hillでは黒色火薬を週に1トンも使っていたので、トンネルの中で働くのは命がけだった。
ついに世界最長の鉄道トンネルが開通した。
ただし完成までに100人以上が犠牲になった。

ゴッタルド基底トンネルで使う爆発物は火薬よりも強力で安全。
しかし発破をかけながら掘削するという手法は当時も今も同じ。
発破は慎重にただし場所に仕掛けねばならない。
もし間違えばトンネルの大きさが変わってしまう。
発破は芸術的な技。
岩盤は均質ではなく、内部にはヒビや割れ目もある。
技師はできるだけ設計図どおりの穴を開けようとする。
もし間違った場所に仕掛けて巨大な穴があいてしまうと余分な空間を埋める建築資材がいる。
逆に小さすぎるともう1度発破をかけるはめになる。
1発1発が真剣勝負。

そこでゴッタルド基底トンネルでは正確に発破をかけるために爆発物を仕掛ける穴をあけてくれる素晴らしい機械・ジャンボを使っている。
3つのレーザー装置があり、トンネルの精密な形と位置座標をプログラムしたコンピューターがドレルアームを動かす。
ドリルアームはたった2分で4mの穴を誤差数cmの精度で掘る。
またジャンボは必要な場所に必要なだけ穴をあける。
これによって必ず正しい場所を爆破する保障が得られる。

Leap:3 Machine Boring★Mersey Tunnel 3920m
1841年のBox Tunnelでは発破でトンネルの掘削速度があがったが、致命的なガスが問題だった。
長さが4km近くにもなったMersey川をくぐるトンネルでは、作業員の命を守るために機械に頼ることにした。
19世紀終わり、Liverpoolはイギリスでもっとも活動的な都市の1つだったが、交通網が脆弱で通勤にも支障が生じていた。
Mersey川を挟んだBirkenheadからLiverpool市内へは動きが遅いフェリーしかない。
1877年間利用客は2600満員にも上っていた。
もっと素早く川を渡る方法が求められていた。

そこで1879年、技師フランシス・フォックスが率いる700人の作業員が川の下にトンネルを彫り始める。
フォクスの部下達は発破は大災害を引き起こすと信じていた。
川底の岩盤は脆弱でひびだらけ。
もし発破をかければ衝撃でさらに割れ、頭上に崩れ落ちて洪水になるかもしれない。
工事の予定と安全を同時に守るというジレンマに立たされたフォックスは、ドリル式の掘削機を導入することにした。
機械の正面には巨大な回転式のアームがある。
そこに鋭い鉄の歯を取り付ける。
歯は岩に食いつき、砕いて取り込む。
ドリルが進むと岩の破片はコンベアベルトに落ちてトロッコに入り、トンネルから運び出される。
機械が進みきると、まず油圧ジャッキで機械本体を持ち上げる。
次にフレームを前に寄せ、また進み始める。
この掘削機によって作業能率は驚くほど向上し、1週間で60mも進めるようになった。
1886年2月1日、Mersey Tunnelは開通し、36000人が利用するようになった。
そして今日でもなお、これがMersey川を渡る1番早い方法。

ゴッタルド基底トンネルが開通するまでには2000万トン以上の岩を掘り出す必要がある。
今では掘削機は極めて高度になり、名前もトンネルボーリングマシン(TBM)と呼んでいる。
ここで使われる歯は全長440m、カッターヘッドはほぼ10mもある。
この金属製の怪物は、最大で1日40mの岩を掘ることができる。
掘削はまず正面のカッターブレードが切羽の岩を削り落とす。
次に縁のバケットが岩クズをすくい上げてコンベアに落とし、後方に運んでコンクリートの骨材にリサイクルする。
カッターヘッドの後ろでは機械式アームがトンネル壁面に保護用の鋼鉄製メッシュをボルト止めする。
後方ではロボットがショットクリートでメッシュを固める。
ヘッドの前進に遅れないように、油圧式の脚が後方の装置を前に送り出す。
その後ろでは作業員が線路を敷けるようにコンクリートを舗装する。
TBMが通り過ぎた後には完成したトンネルが出現する。
この究極の掘削装置は地球上のもっとも硬い岩盤でさえ掘り進むことができる。
花崗岩は極めて硬いので磨り減ったカッターブレードを毎日交換しなければならい。

Leap:4 Ventilation★Simplon Tunnel 19800m
1886年のMerseyトンネルで使われた掘削機は工事をより早く、より安全にした。
しかしトンネルがさらに長くなると問題がでてくる。
スイス、アルプスを19kmに渡って貫くSimplom Tunnelの工事では、作業員が窒息しないように新鮮な空気を送る技術が必要だった。
19世紀は鉄道の世紀。
オリエント急行のような歴史的な豪華列車がパリとイスタンブールを3日で結んだ。
海外旅行ブームが起きた。
しかしヨーロッパの北側からイタリアの有名な観光地に行くのは大変だった。
アルプス山脈が立ちはだかっていたからだ。
鉄道は谷に沿って曲がりくねる急な坂をあえぎながら登らねばならない。
この上り下りを省略しようと山のふもとからふもとまでまっすぐ突き抜ける鉄道が計画される。
Simplon峠に世界最長のトンネルを作るのだ。

この巨大プロジェクトがハンブルグの技師アルフレッド・ブラントに任される。
彼は以前からアルプス山脈を貫くトンネル工事の難しさを知っていた。
70年代に200人近くの作業員が死んだ工事を目撃していたのだ。
彼はその原因が換気不足による酸欠だと理解していた。
そこで単純だが完璧な解決策を考える。
それは大きなトンネルを1本掘る代わりに小さなものを2本掘る。
そして入り口の1つに強力な送風機を設置する。
さらに入り口から200mは行ったところに連絡トンネルを掘り2本をつないだ。
こうすれば1本に外の新鮮な空気を流しこみ、もう1本から有毒ガスを押し出せる。
連絡トンネルは200mごとに掘る。
そして工事の進捗にあわせて手前から順次閉鎖してゆく。
これで常に切羽へ新鮮な空気を遅れる。
作業員達が安心して呼吸できる。
このペアトンネル方式は大成功だった。
1905年Simplonトンネルは開通した。
この世界最長の鉄道トンネルによってベニスまで半日短縮された。

ブラントの優れたアイディアはゴッタルド基底トンネルでも採用されている。
ここでも切羽に新鮮な空気を送りこめるように2ほんのトンネルが中で連結されている。
しかしゴッタルドではさらに別の問題がでてきた。
トラムで2時間かかる切羽に近づくに従って温度が急上昇する。
ここでは温度を下げることが最優先課題。
地底からは常に熱が上がってくる。
しかし頭上の分厚い岩盤に蓋をされて、その熱がこもり、トンネル内部は45℃にもなる。
巨大な冷風機を30台も接地して作業員に冷風を送ろうとしても、機械自体が発する熱で冷房効果が打ち消されてしまう。

そこで天然の資源を利用することにした。
トンネル内部に網の目のように隅々まで冷却パイプが張り巡らされている。
冷風機につながったパイプの中を冷水がきて放出する。
熱を奪ってから外に出てゆく。
これはまさに超巨大エアコン。
これなしではゴッタルドの工事は進められない。

Leap:5 Precision★Channel Tunnel 50600m
1905年のSimplonトンネルでは、巧妙な換気システムが切羽でも呼吸を可能にした。
しかしトンネルの長大化はさらに新しい難題を招く。
イギリスとフランスを50kmのトンネルで結ぶ工事では、英仏階級を両側から掘り進んで中間点で出会えるような高い精度が求められた。
長年にわたってトンネル技師が夢見てきた場所があった。
イギリスとヨーロッパ大陸を隔てる幅34kmの英仏海峡。
産業革命以来、この海峡にトンネルと建設するという夢が幾度となく話し合われてきた。
そして1987年いよいよそれを実現する時が来た。
英仏海峡トンネルは海底の120m下を通り、全長が50kmを超える世紀の大工事。

成功のカギは地質の条件にあった。
砂地は簡単に掘ってゆけるが崩れやすい。
花崗岩は硬くて掘り難いが、きれいに掘れるし崩れない。
チョーク、TBMはスムーズに掘り進める、穴は崩れない、掘るのに最適な地質。
Chalkとは硬くて横に広がった防水性のある石灰岩。
幸いこのトンネルの掘削に最適なチョークが海底の下に分厚い層を成しているのが見つかった。
しかしここでも難題が持ち上がる。
海峡を横断する一番簡単な方法はトンネルを両側からまっすぐ掘りはじめ、中間点で出会うことだろう。
しかしトンネルは上下に波打つチョークの層の内側を掘り進まねばならない。
つまりまっすぐには掘れない。
TBMはチョークの層を追って絶えず軌道修正しながら進まねばならないので、お互いが中間で出会うのは至難の業。
地上では周囲の基準点を参照できるので簡単にルートを決められる。
しかし地下ではそうはいかない。
ほんの少しそれただけでも50kmのトンネルでは大きな誤差になる。
コースを維持する方法がぜひとも必要だった。
そこでまず海底探査線が地盤のサンプルを採取し、各地点のチョーク層の深さを測定した。
そしてチョーク層の真ん中を通るコースを設定する。
さらにトンネル内にレーザー発信機を設置してビームを進行方向に向ける。
コースを変更するには別の発信機を設置してビームを新しい方向へ向ける。
どこまでも直進するレーザーに沿ってゆけば中間点で出会えるはず。
レーザーによるガイドのおかげでトンネルの掘削コースは極めて高精度なものになった。
1990年12月1日両側が出会った時、互いのズレはたった2cmもなかった。
氷河時代から初めてイギリスとヨーロッパが地続きになった。
海底区間としては世界最長のトンネルの完成。

ゴッタルド基底トンネルではエンジニアたちが毎日正確なコース設定に苦心している。
ここでは地底の断層を迂回しながら掘り進まねばならない。
また軟弱な地層では、全体が動いてずれるために、TBMも押されてコースをずれてしまう。
TBMのドライバーも毎日山と格闘している。
山が沈むので鋼鉄製のアーチで支えなければならない。
しかしゴッタルドの奥深くでアーチでも対処できない事故が起こった。
2005年6月隠れた断層を壊してしまい、カッターヘッドが崩れた岩と地下水に埋まった。
建設チームは並行するトンネルから40mのトンネルを掘り、背後から断層を攻略して貴重な機械を救出する計画を立てたが、そのトンネルも同じようにつぶれる危険がある。
そこで先に真横から作業用のトンネルを掘ることにした。
カッターヘッドの先の軟弱な地盤にセメントを注入して固める。
これらの作業のあと、落ちてきた岩を取除き、ようやく救出できた。
断層を通り過ぎたあとで補強工事を行い、当初の計画に戻った。

Leap:6 Safety★Gotthard Base Tunnel 57000m
1994年にはレーザー誘導が英仏海峡トンネルのような曲がりくねったトンネルでも建造可能にした。
今ではどんなトンネルでも掘れないものはないほどになっている。
しかしトンネル技術の究極的な完成にはもう1つ大きな問題があった。
長大なトンネルは避難が難しい。
ゴッタルド基底トンネルでも万が一の際の脱出方法を確立しなければならなかった。
2001年ゴッタルドトンネルの建設現場に通じる道路で、トンネル技師の悪夢が現実になった。
2台のトラックがゴッタルドトンネルの中で衝突、炎上した。
内部の温度は1000℃にも達して多くの自動車が溶け、鉄の塊になった。
火災は24時間続き、犠牲者は11人にものぼる。
このトンネルはヨーロッパでももっとも安全と考えられていただけに、衝撃は巨大だった。
ゴッタルド基底トンネルの建設チームは人々のトンネルに対する恐怖心を払拭しなければならないと考える。
それには安全性を最大限に高めねばならない。
トンネル内部で救助は待てない。
長すぎるので救助隊が現場まで行き着けない。
外からの助けを待てないとすれば、閉じ込められた人々は自分で脱出しなければならない。
建設チームは問題の解決に挑んだ。
そして山の内部に緊急停車用の駅を2つ造った。
駅には耐火性の緊急避難通路でつながったプラットホームがある。
もし走行中の列車に火災が発生すると、運転手は最寄の駅に停車する。
防火扉が開くので、乗客は避難通路に退避する。
しかし煙を避難通路に流入させては意味がない。
その対策はトンネルの上800mに講じてある。
強力な送風機が外気を避難通路に送り込み、その力で煙をトンネルに押し戻す。
こうすれば乗客は火災から安善に離れて反対側のプラットホームで救出列車を持てる。
ゴッタルド基底トンネルの完成は間近。
残りはたった7km、数年後に全線が開通すれば、中央ヨーロッパ交通網は大きな変革を遂げるだろう。
鉄道旅行がカムバックを果たし、鉄道貨物が航空輸送やトラック輸送に対して検討するはず。
ただし初の列車がトンネルを通過するまでにはこれからもまだ何100万トンも岩を削り取り、優れたトンネル技術を駆使して難題を解決しなければならない。
しかし完成のあかつきには、いつかこれ以上に長いものができるまで、このゴッタルド基底トンネルこそが究極のトンネルになる。

| poyo | 建築 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
ハイテクのルーツ Sydney Opera House


完成は1973年、独特な形状から、たちまちオーストラリアの象徴となった。
しかし建設は困難の連続だった。
政治的な問題から費用は超過。
工期も9年の遅れを強いられた。
当時の建築の技術では不可能といわれた構造を克服しなければならなかった。
建設地は路面電車の車庫があった場所。
デンマークの建築家Jorn Utzon海を望む立地条件を最大限に活かそうと考えた。
1956年オペラハウスの建築設計コンペに応募したUtzonのスケッチが始まりだった。
ある説によると、Utznonのデザインは1次選考で落選したが、彼のデザインを気に入った審査員の1人が、選考にもれた作品の中から選びだした。

しかし構造家のOve ArupはUtzonのデザインは実現不可能と感じていた。
問題となったのはシェルと呼ばれるカーブした屋根。
さらにUtzonは支柱を造ることも拒否していた。
もっとも適した素材は鋼鉄だった。
加工しやすく複雑な形状を維持するだけの強度もあり、低価格だったからだ。
しかしUtzonは価格にも扱いやすさにも関心はなかった。
目的は幻想的な巨大彫刻を造ること。

彼が選んだ素材はコンクリート。
完成するかどうかはエンジニアにかかっていた。
Arupはそれぞれのシェルの骨組みを、リブと呼ばれる穴のあいた大きなコンクリートで造ることにした。
しかしここまで巨大なものは前代未聞だった。
最大のリブは高さ55mにも達するので、大きすぎていくつかに分けねばならなかった。
解決のヒントとなったのはオモチャの操り人形。
木製のキリン、いくつかのパーツが糸でつながれている。
底のボタンを押すと糸は緩み、人形は崩れる。
指を離せば再び糸が張って人形は元通り。
この原理をオペラハウスに応用した。
Arupはこのオモチャの要領でセグメントと呼ばれるパーツをつなぎ合わせ、大きなリブを造ることにした。

この技術はポストテンション方式と呼ばれ、コンクリートの強度も高める。
大きな橋を建築するためにフランスのエンジニアが編み出した技術。
10分の1のサイズ(高さ6m)の発砲スチロールで再現してみよう。
まず2ヶ所から組み上げてゆく。
ブロックをすべてケーブルでつないでからテンションをかける。
鉄材で支えながら2本のカーブした柱を造ってゆく。
次にアーチを維持するため、ポストテンション用のケーブルを通す。
下まで通したらケーブルをピンと張る。
これがポストテンション。
今の時点でアーチを支えているのは鉄材。
ケーブルが引張る力が均等であることを確認して鉄材をはずすと・・・
ちゃんと立っている。
アーチの強度を上げるため、さらに張力を加える。
発砲スチロールは圧縮強度があまりないので引張りすぎるとアーチは崩れることもある。
張力が上がればアーチの曲がるまいとする力は強くなるので発砲スチロールは破壊される。
テンションをかけた発砲スチロールのアーチの強度をテストする。
150kgの錘を吊るしても、アーチは安定している。
4分の1トンを吊るしても形は崩れない。
しかしケーブルをカットすると・・・
一気に崩れた。
ケーブルの張力が骨組みを支えていることを確かめることができた。

オペラハウスを巨大な操り人形にすることで、複雑な形状を造ることができたが、建築費用を安く抑えるためには同じサイズ、同じ形のものをいくつも造るのが近道。
それぞれのシェルのリブはカーブがバラバラで、別々の型が必要となり、莫大な費用がかかる。
Utzonが見つけた答のヒントはオレンジの皮。
シェルは1つ1つ形が異なるが、1つの球面から切り出せばよいのだ。
想像してみよう、直径150mの巨大なオレンジ、その皮から屋根を形成するパーツを切り出す。
それぞれはサイズの異なる皮の断片。
1つのオレンジから切り出すので、カーブの曲がり具合は全部同じ。
それぞれのシェルのリブは同じ曲率を持つセグメントを組み合わせて造る。
セグメントが少なければ小さなリブ、多ければ大きなリブ。
こうして製造工程が簡略化された。

屋根の建設は1963年に始まったが、すでに負担は大きくなり、反対勢力が建設費用の増加に対してUtzonを攻撃し始めた。
その後巨大なコンクリートを持ち上げる世界最大のクレーンを導入。
命知らずの特殊作業員達がセグメントを1つ1つ設置していった。
そのうちの1人が命を落としたが、命綱のない状態で14年間作業した。
驚くほど少ない犠牲ですんだ。
続いてそれぞれのリブを鋼線を使って結合、巨大な操り人形の出来上がり。
これらのコンクリートブロックは滑り落ちないように垂直に、バラバラにならないように水平に引張られている。
コンクリートを圧縮すれば、強度も増す。
こうして屋根はUtzonのデザインどおり、より薄く、繊細な形になった。

ポストテンションによって劇場に巨大な支柱を造る必要ななくなったが、ケーブルだけでは完全に安定させることはできない。
コンクリートは熱くなると膨張し、冷えると収縮する。
膨張と収縮を繰り返せば、ピッタリとくっついているセグメントの間に隙間ができる恐れがある。
引張る力が均一でないことも問題になりそうだった。
セグメントが少しでも動けば、屋根全体が崩壊する可能性がある。
すべてを完全に固定させるために、特別な接着剤を使うことにした。
ヒントは入れ歯。
2000年以上前の義歯、厚い金属の留め具で固定されている。
1936年までは入れ歯に適した良質な接着剤はなかった。
しかしPierre Castanエポキシ接着剤を開発。
入れ歯業界に革命を起こした。
この画期的な接着剤ができる前は、木のような吸収性のある素材でなければ接着できなかった。

1930年代モスキート爆撃機のような木製の飛行機は接着剤でしか組み立てられなかった。
接着剤をしみ込ませ、接合部を固めた。
航空機が進化すると、機体はオペラハウスのコンクリートと同様、吸収力のない金属になった。
1940年代の登場した戦闘機Sea-Hornetには表面の分子を結合して金属をくっつける特殊な接着剤が使われた。
エポキシ樹脂も分子結合で硬化する。
入れ歯を固定するエポキシ樹脂がオペラハウスのリブを接合している。
熱でコンクリートが膨張したり、冷えて収縮したりしても絶対に外れることはない。

これで骨格が完了。
次に必要なのは美しい肌。
屋根に使われたタイルは100万枚以上。
Utzonは光沢のあるものとないもの、2種類を使用した。
そして薄いパネルの上に並べると、組み立てた構造体に蓋のように被せた。
こうして屋根は完成した。
勇敢な作業員達がタイルのパネルを構造体に被せている頃、プロジェクトが混乱を極めていた。
増え続ける建設費用を巡り、1966年Utzonがプロジェクトから離れることになった。
しかし建設は続行。
Arup達は新たな課題に取り組む。
それは窓。

Utzonは観客が岬から美しい景観を一望できるような窓にしたいと思っていた。
考えるべき問題は3つ。
窓のサイズ、形、ガラスの種類。
一般的なガラスを使えば観客に被害が及ぶかもしれない。
デザイナーは光が差し込むように窓を大きくしたいと考えていたが、大きな窓は割れやすく、わずかな衝撃でも砕けてしまう。
4mの頭上から窓が落下してくるような事態は避けねばならない。
解決のヒントは第一次世界大戦中、毒ガスに対抗して作られたガスマスク。
ガスマスクの眼鏡部分は割れて兵士の視界を遮らないように設計されている。
その理論を用いた。
ガラス工場では最初に混ぜ合わせた原材料を燃え盛る窯に入れて焼く。
そして出来上がった1枚のガラス板を窓のサイズにカットする。
その窓ガラスで特別なサンドウィッチを作る。
PVBと呼ばれるポリビニールブラチール樹脂の薄いフィルムを2枚の標準ガラスで挟む。
これがラミネートガラス

樹脂をガラスで挟む方法は偶然発見された。
20世紀初頭、とあるフランスの実験室でのこと。
ある不器用な科学者が空のフラスコを床に落としたところ、なぜか割れなかった。
フラスコは洗っていなかった。
つまり残っていた粘着性の硝酸セルロースが膜を張っていたおかげでフラスコは割れても形をとどめていたのだ。
ラミネートガラスの発祥だった。
そして第一次世界大戦、毒ガス兵器から兵士を守るため、ガスマスクが開発された。
しかし標準的なガラスでは、爆弾の破片でレンズが砕け散ってしまう。
ここで初めてラミネートガラスが活用された。
ラミネートガラスはオペラハウスの建築でも問題の解決策となった。
観客はガラスが落ちてくる心配などせずにステージに集中できる。
これでオペラハウスの構造体は完成。

外観も大事だが音響も忘れてはならない。
コンクリートは形状や性質から考えるとコンサートホールに適した素材ではない。
さらにシェルの内側は先が狭くなっている長い空洞。
どんなにパワフルな歌声も消えてしまう。
もっと悪いことにコンクリートでは鏡が光を反射するように音が反響してしまう。
つまり内部は外観と違う素材で、全く違う形にしなければならなかった。
その素材とは木。
天井の形は音をはね返せるように曲線にし、素材は特別な木を使った。
普通の木は重く強度が足りないので巨大な鉄骨で支えねばならない。
解決してくれたのは古代エジプトのミイラ。
1922年ツタンカーメンの墓と一緒に発掘された貴重な古代エジプトの工芸品の中に、精巧な木製の収納箱があった。
ナイル川流域は肥沃な土壌だったが、高品質の木材は不足していた。
そこで古代エジプトの職人は、質の悪い木を、良い木材だと見せかけた。
ツタンカーメンの木箱は何層にも重ねられた粗末な木材の上に、貴重な木の薄い板が張られていた。
別名合板、家具にも利用できる。

Utzonはオペラハウスの内装にピッタリだと思い至った。
合板の性質はコンサートホールの内部の複雑な形状に適している。
木には割れやすい方向と割れにくい方向があり、木目に沿って力を入れれば簡単に裂ける。
一方合板は木目が直角になるように何層ものベニアを貼り合わせて作る。
その結果同じ厚さの普通の木材より強度がある板ができる。
その上ずっと軽い。
オペラハウスの内部はまるでコンクリートのシェルの中に収容された全く別の建物。
天井に上れば2つの構造体だということが確認できる。
劇場の舞台係はここを爆弾層と呼ぶ。
下に見えるのがホール、かなりの高さ。
この空間はホール内に造られた合板のシェルの屋根と、外壁のコンクリートシェルに挟まれた場所。
合板は音響的に優れた素材なので、ホールの内装に適している。
さらに軽く強度もあるので、独立したシェルを造ることができた。
しかしもっとも好都合なのは、どんな形にも加工できる点。
曲線を描いた天井が音をはね返し、その音が観客の耳に届くからだ。

こうしてオペラハウスの外観と内部が完成したが、もう1つ解決すべき問題がある。
観客達は美しい場所にたたずむ彫刻のような建物に日常を忘れるためにやってくる。
では中はどれほど快適なのか、答は海の中にある。
オペラハウスが催すのはオペラだけではない。
バレエ、演劇、コンサートなど様々。
毎朝オペラハウスに集った技術者達が音響や証明の調整など、ショーの準備に勤しんでいる。
しかし最高のショーには欠かせないものがある。
ある暑い夏の夜、シドニーの岬に詰め掛ける人々。
待ちに待ったショーを前に、素晴らしい一夜への期待に胸を膨らませている。
この堂々たる建物に入れば興奮は否が応でも高まる。
そしてワクワクしながら席に着く。
しかしどれほど素晴らしいパフォーマンスでも蒸し暑い中では楽しめない。
何千人も集れば室内の温度は急上昇する。
しかし建物のデザインを考えると大規模な空調システムに必要な煙突や送風機、冷却塔などは外観を損ねてしまう。
そこで違う方法を探した。
ヒントとなったのが船底に銅板を貼った船。

空調システムでは熱を奪う廃熱処理が必要。
煙突がないなら熱はどこへ行くのだろうか?
シドニーハーバー(海水)の地下、空調システムのスタート地点。
その下に取水トンネルがある。
高さ1m、そこから海水が建物に入ってくる。
海水は建物奥の部屋へ。
太いパイプは二重管構造になっていて、海水と真水が別々に流れている。
真水が空調システムの余分な熱を奪い、冷たい海水に移す。
2つの水は決して混ざることはない。
海水は海へ戻ってゆく。
しかし短時間であっても海水は腐食を促すのでオペラハウスの高価な配管にダメージを及ぼす。
そこで船をヒントにした。
19世紀イギリスの海軍は木造の船に穴をあける虫の対策として船底に銅板を貼った。
しかし銅を加えたことで船に使われていた鉄の釘が錆びてしまった。
電流が発生したことが原因だった。

実験、銅と亜鉛、2つの金属を重ねても電気は流れない。
次に2つの間に塩水を紙にしみ込ませたものを挟む。
すると海水が伝導体になり電機が流れる。
海水の中で2種類の金属が結合すると電池になる。
これは錆びの原因となるので船にもオペラハウスにも問題。
全く錆びない金属、金は貴金属の1つだが、貴金属でないものは錆びやすい。
銅も貴金属、錆びやすい金属である鉄板と銅板を水槽に入れる。
2種類の金属のよって発生した電流は、むき出しの金属に集中的に流れる。
車のバッテリーを使い、進行を1000倍に速める。
すると銅板からアワが・・・
銅板は錆びない。
腐食が起こっているのは鉄板側。
水を分解しており、水素ガスが発生。
24時間放置、実際は3年間に相当。
鉄板は腐食。
海水のように伝導性のある液体に電気を発生させ、2種類の金属を入れれば腐食が起こる。
鉄板が腐食したのは銅とは違って貴金属ではないから。
しかしもっと錆びにくい亜鉛を犠牲にして鉄板を守ることができる。
銅板を貼った船の釘を錆から守るために、海軍は錆びやすい別の金属を使った。
船底に交換可能な亜鉛ブロックを取り付け、腐食すると新しい亜鉛と交換した。
35年もの間、莫大な量の海水がオペラハウスの中を通ったが、空調内の配管は今でもそのままの状態。

| poyo | 建築 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
ハイテクのルーツ 海に浮かぶ空港


香港国際空港(赤鱲角國際機場)は、用地を1から造成して造られた。
それは20世紀最大の埋め立て工事の1つだった。
そこはただの海だった。
1980年代の香港は経済的に急成長を遂げていて、それまでのカイタック空港は乗降客がウナギノボリに増えていた。
この空港は危険なことで有名だった。
進入コースの下ではジェット機の熱で洗濯物が乾いたほど。
新空港が必要だった。

でもどこに?
ここには空地など無い。
香港の町は山と海に挟まれている。
狭い範囲にひしめき合って暮らしてきた香港の人々は、土地の高度利用に慣れている。
空港用地として海に目が向けられた。
香港沖のチュクラップコクとラムチャウの2つの島を切り崩す工事が始まった。
その2つの間を全て埋め立てて1つの大きな島に作り変える。

しかし島の間の海底には軟弱な粘土が20mも堆積している。
島の基礎はしっかりした岩盤でなければならない。
つまり粘土を全部取除かねばならなかった。
そのため世界中から浚渫船を集めて吸い上げることにした。
浚渫船は巨大な電気掃除機のようだが、実はこれが今から800年前トルコで発明されたあるものとつながっている。

その昔トルコの王様は川のほとりの荒地を緑で溢れさせたいと考えた。
そしてアルジャザリ(Al Jazari)という天才発明家が灌漑に挑戦した。

彼は世界初の自動吸い上げポンプを造った。(1206年)
古代技術の専門家アルハッサーニ教授「当時を再現した吸い上げポンプ、マウンテンバイクが動力源、水車の代わりに水を汲み上げる。
川そのものを動力源に使ったのだ。
人力でマウンテンバイクをこぐ、装置の主役はピストン、注射器の要領で池の水を吸い込んで右側の容器の上の段に送る。
水はその後上のホースから押し出される。
容器の中のフラップは弁になっていて逆流を防ぐ。
これなら水だけでなく泥も吸い上げられる。」

アルジャザリのポンプは水だったが、香港の浚渫船は海底の泥を吸い上げた。
毎秒10トン、それを2年間続けた。
泥を全て吸い上げた後、残ったのはしっかりした岩盤。
新空港の島は1995年までに完成した。

香港国際空港は建設場所を確保したが、海上空港はある危険な気象条件に遭遇するリスクがある。
まず香港は台風の直撃を受けることで知られている。
しかし台風は何100kmも手前から気象台で監視できる。
空港の設計者が心配したのは目に見えない脅威、ウィンドシアー
予測しにくいので航空機にはとても危険。
ウィンドシアーは局所的に変化する風のことで、香港国際空港はそれが発生するリスクがとても高い。
山と海に挟まれているので風向きがコロコロ変わる。
風の急変は翼の揚力に影響して航空機が急加速したり急減速したりする。
そうなれば墜落するかコースを大きく外れるかもしれない。
航空機をウィンドシアーから守る技術はブラスバンドにつながっている。
音波は近づく時と遠ざかる時に周波数が変るというクリスチャンドップラーの理論を実証するために、クリストフ・ボイス・パロットという科学者がブラスバンドに協力を求めた。
1845年のことだ。
実験に参加したホルン奏者達は、列車に乗って走る。
その原理が働くには条件があり、それは急速に近づいてから離れてゆくということ。
150年前には安全管理は二の次だった。
今ではそんな危険な科学実験は到底できない。
幸い今ではドップラー現象はどんなところでも起こせる。
ラジコン飛行機のエンジン音は騒音だが、近づいてきて遠ざかる時、音が変る。低くなる。
これがドップラー効果。
エンジンを鳴らす音波は一定だが、近づく時には前に出した波に追いつくため、間がつまって周波数が高くなり、音も高くなる。
遠ざかる時には前の波を引き離してゆくので周波数が下がり、音が低くなる。
このドップラー効果の原理が急激かつ危険で、しかも見えない空気の流れ、ウィンドシアーの検知に関係する。

空港から海を挟み12km離れた場所にウィンドシアーと乱気流警報システムの一部がある。
このレーダーは雨などの空中の水滴を観測することで、ウィンドシアーを検知する。
レーダーから発射した電波が水滴に反射して戻ってくる。
その周波数の変化を測定し、雨雲がレーダーに近づいているのか、遠ざかっているのかを観測する。
その変化が急激なら、飛行中のパイロットがウィンドシアー警報を受け取る。
でも水滴が小さすぎたり空気が乾燥していたりすると、せっかくのドップラーレーダーでも検知できない可能性もある。
そこでドップラー効果を利用した新方式の観測装置を開発した。
音を出しながら進むものは全てドップラー効果が生まれるが、音だけではなく波で伝わる光も同様。
香港では特にある特殊な光を利用している。

実験、大型ファンを回すと連続的な空気の流れ、つまり気流ができる。
しかし空気は目に見えないので気流は見えない。
それが航空機を危険にする。
香港では見えない気流を見えるようにしている。
全くの無に思える大気にも、実は細かな粒子が無数に漂っているという事実に基づいている。
でもそれは日が差した室内で埃が漂っているのとは違う。
髪の毛の何百分の1という細かさの粒子。
もしそれが見えれば気流が動くのも見える。
実験、ファンを回すとウィンドシアーが起こる。
空気が動いている。
微細粒子として実験では小麦粉を使う。
ライトの光を当てると空中の微粒子が反射して流れているのが見えるようになる。
粒子は私達の周囲の自然にいくらでもある。
空港ビルの屋上にライダーというレーザー装置がある。
小屋の中の電子機器でドップラー効果を利用して風を測り、ウィンドシアーを検知している。

ターミナルビルでは世界でもっとも広い空間を造る工事が進んでいたが工期がおしていた。
香港の中国への返還が迫っていた。
元々イギリスの置き土産として返還の3年前に開港する予定だっ。
問題は工期だけではなかった。
香港当局は大きさにこだわっていた。
彼らは世界最大の明るく風通しのよいターミナルラウンジを造りたかった。
このビルには幅700m、長さ1km以上もある屋根が必要だった。
建築家は波打つ海をイメージした斬新な屋根を主張した。
これは技術者にとっては悪夢。
これほどの大きさを支える柱は太くならざるを得ない。
しかし建築家は軽快なロビーを希望し、重苦しい柱が並ぶのを嫌がった。
柱の間隔を広くし、数も少なくか細い柱でどうやって支えるのか?
その答は屋根の軽量化。
しかし軽い屋根は弱いという問題がある。

強度を高めながら軽量化しなければならないのは航空技術者も同じ。
イギリスの双発機ウェリントンはドイツに夜襲をかけた爆撃機。
この気体を開発する際の問題は強度だったが、技術者バーンズ・モリスが画期的な方法でフレームを軽く強くするのに成功した。

強度は金属の量ではなく使い方による。
実験、2台の鉄架台に標準的なI型鋼を渡し、真ん中に2トン半の錘をぶら下げる。
すると3トン半で鉄骨は曲がってしまった。
太くすれば耐えられるかもしれないが、重くなる。
しかし逆に細くても強度をあげられる。
ウィリントン爆撃機のように答は幾何学にある。
同じ量の材料を使っても違う方法や形、構造などにすればよいのだ。
三角形を組み合わせたラティス梁は、I型鋼梁より20kgほど軽いが、数学的には逆にもっと強いはず。
負荷はラティスに分散され曲がらない。
ラティスは4トン半を吊り下げてもびくともしない。
素材をどのような形にするかで強度は大きく変るのだ。
ラティスはウィリントン爆撃機のように三角形が組み合わされている。
この鉄鉱製のラティスをカーブさせた屋根が香港国際空港に採用された。
おかげで36mある柱と柱の間を1枚で覆えた。

次は中に収容する手荷物搬送システムが必要だったが、設計者はここでも他の空港の1歩先を目指した。
香港国際空港は年間4000万個の手荷物と350万トンの貨物を取り扱う。
その全てを追跡するのは大変な作業。
チェックインしたら自分の荷物が確実に、自分が乗る便に積み込まれると信じたい。
空港の設計者達はその期待に応えるために信頼性を徹底的に追及した。
世界では預入手荷物の管理はバーコードが主流。
ところがバーコードの読み取り成功率は85%しかない。
つまり香港の場合、6000万個の手荷物と50万トンの貨物が行方不明になる計算。
これでは遺失物の窓口には長蛇の列ができる。
新空港ではこういう事態にならないよう、もっと高度なシステムを開発しなければならなかった。
それにはより高い精度で離れたところからスキャンする技術がいる。

1952年モスクワ、アメリカ大使館で行われたセキュリティ検査で、7年前にソ連から贈られた紋章の中にスパイ装置が隠されていたのが見つかった。
それはバッテリーがなくても作動させられる革命的な盗聴装置だった。
驚いたCIAはこれを“The Thing”と呼んだ。
バッテリーがなくてどうやって動いていたのだろうか?
その答が新しい手荷物搬送システムの解決策。
スパイがThe Thingに、ある周波数を送るとその信号がマイクにパワーを供給して、室内で盗聴する。
香港で手荷物の仕分けに使われているのも同様の装置。

このスパイ装置は今、牧場で羊を分けるのに使われている。
イヤータグ内のマイクロチップが自動的に羊に番号を付与するというのだ。
このタグのことをRFIDタグまたはICタグといい、性別、種別などの情報が入力してある。
自動選別機がタグを読み、羊を選別する。
選別機はイヤータグに電波を送り、マイクロチップを起動する。
タグはIDを解し、それを受けたコンピューターは羊のデータベースを検索してどのゲートを開けるか判定する。
香港は手荷物の追跡にICタグを採用した最初の空港の1つ。
ソ連のスパイのおかげで24時間に4万個の手荷物が高速かつ正確に仕分けされてゆく。
時間内に正しく搭載される割合は97%にのぼる。

広いターミナルは買い物好きにはたまらないが、この広さは設計者に別の難題も突きつけた。
香港は台風がよく来る。
熱帯暴風雨には、国際的な強度スケールがある。
もっとも勢力が強い台風はカテゴリー5、風速は70mにもなる。
これがくると香港は大混乱で、みな対策に大わらわ。
暴風は高い壁面を持つ大きな建物に被害を与える。

台風からターミナルビルを守るために設計者は1930年代のレーシングカーに解決策を見つけた。
どれくらいの風圧で、何が起きるのか知るために、大型風洞で体験。
風速35m(時速130km/h)、この風葬の最高速でも普通の強さより少し強いだけ。
強烈な台風になると強さはこの2倍近くにもなる。
なんとか踏ん張れる。
抵抗が少ないはずの小柄な人でも身動きするのも大変。
巨大なビルならすごい圧力だろう。
ガラスの壁面はその圧力に耐えられるよう強化されている。
屋根はまた違った力を受ける。

航空機が空に舞い上がるには揚力が必要。
揚力を発生させる要因の1つは平面上を急速に流れる空気。
ターミナルビルの屋根はとても大きな平面。
上を強風が吹くと屋根が吹っ飛ぶ可能性がある。
模型を使って風洞で実験すると、台風では2種類の力、壁を倒そうとする力と屋根を持ち上げようとする力がかかることが分った。
しっかりと固定すれば屋根が飛ぶ心配はなくなるが、屋根が重くなるので建築家は嫌がった。
そこで設計者は別の方法を考えた。
カギになるのは柔軟性。
1930年代に活躍したレーシングカー、メルセデスのシルバーアロー、特徴的なサスペンションがついていたおかげで37年のグランプリを席巻した。
この優れた技術はその後すぐ一般用の車にも使われるようになり、今も続いている。

Wishbone、強化スチール製のアームが三角を形作る。
Wishboneはタイヤが上下にいしか動かないようになっている。
柔軟性は剛性より強い。
Wishbone式サスペンションに触発されて、設計者は屋根と壁をフレキシブルにつなぎ、台風に耐えられるよう柔軟性を持たせた。
しかし車と違い空港では3方向に動けるようにしなければならなかった。
屋根は翼のように浮くので、まず上下に動かねばならない。
でも風が壁を押すので前後左右にも独活けるようにビポット軸をスライドするようになっている。
またビボット軸のスライダー自身が回転し、さらに柔軟になっている。
こうして全部で1300個のWishboneが台風に耐える柔軟性を確保している。

| poyo | 建築 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
<new | top | old>