ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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旅したいな21

千葉県匝瑳市の巨木
街を歩けば、イヌマキを生け垣にした槙塀(まきべい)があちこちにあり、家々の庭には見事に手入れされた松やツゲ、キャラが見られる。
巨木、高台の屋敷、谷筋のたんぼ(谷津田)・・・

八日市場植木組合主催の「植木のまち匝瑳市の植木銘木と巨樹巨木めぐり」では、市内の植木造園や、神社の巨樹などをマイクロバスで移動しながら見て回った。
市内外から集まった約100人の参加者は、「植木銘木100選」に選ばれた風格のあるマキなどをはじめとした、植木職人の技の結晶にうっとり。
タブノキやスダジイなど、全国でも有数の巨樹・巨木の迫力を収めようと、熱心に写真撮影をしていたという。

安久山のスダジイ・・・個人宅の裏庭にある巨木。
この巨木は千葉県の「巨木・古木200選」の1つであり、匝瑳市指定の天然記念物であり、樹高が約25mで樹齢は不明である。
この巨木はこの家と江戸中期からの付き合いで屋敷神として崇められているという。
幹の大きなコブや空洞が
老木の風格を感じさせる。
また、この木には、樹木が巨大化し、地中の根で支えきれなくなるとその樹木が倒れないように地表近くの根が板状に発達するという板根がある。

柳生の里 
柳生一族が厳粛な修行の場として選んだ所の1つに天乃石立神社があった。
天乃石立神社は『延喜式』神名帳にその存在が記載されている。
神社の裾に落ち込んでいる渓谷に数多の巨石が累積している。
この渓谷は岩戸谷・戸岩谷・万年渓の名を持つ。
自然成因によって谷間へ岩群が寄り集まった結果だが、岩の全面には苔がびっしりと生い茂り、人の手が介入していない場であることが神域の神聖性を否応なく高めている。
天乃石立神社の祭神は4柱。
天照皇大神(アマテラスオオミカミ)
櫛盤門戸命(クシイワマドノミコト)
豊盤門戸命(トヨイワマドノミコト)
天盤戸別命(アマトイワトワケノミコト)
天乃石立神社の創建由来、天照大神を外に引き出そうと手力雄命(テヂカラノオノミコト)が天岩戸を思い切り開けた時、天岩戸を構成していた岩々が勢い余って地上に落ちたのが、天之石立神社の岩群であるとの言い伝え。
 
天乃石立神社の4柱はそれぞれが1体ずつ岩石にまつられており、そのため本殿はなく拝殿のみ。
また、拝殿から岩石群を礼拝する時、山の方角ではなく麓の方角を向く構造をとる。

神社入口に最も近い位置にあるのが、櫛盤門戸命をまつる「後立磐」。
「後立磐」を「天石吸神社」とも呼ぶ。
後立磐の後ろにある「前立磐」は豊盤門戸命をまつり、これをもって「天石立神社」。
前立磐と後立磐は共に約20度傾いて直立する形。
形成理由は、天乃石立神社周辺の岩質が花崗岩であり、花崗岩特有の垂直にピシッと割れる摂理によるものと考えられている。


さらにその裏に鎮まる「前伏磐」は天盤戸別命をまつる「天立神社」。

前伏磐の南に隣接する球状の巨岩「きんちゃく岩」は、天照大御神をまつる「日向神社」とされている。

この巨岩は昭和28年、豪雨によって神社横の崖から転落してきたものだそうで、その時に氏子の人々によって「天照大神の鎮まる日向神社」としてまつられることになった。

天乃石立神社は江戸時代、柳生藩の篤い崇敬を受けていた。

1645年(正保2年)、柳生藩祖の柳生宗矩が神社参道の整備を実施。

1705年(宝永2年)、柳生宗弘が能舞台と石燈籠1基を寄進。

1742年(寛保2年)、柳生俊平が石燈籠1基を寄進。

柳生新陰流開祖の柳生宗厳(15271606)が、この神社一帯で身体的・精神的修行を行なっていたことを伝える聖跡がある。

それが、天乃石立神社から少し奥まったところに存在する「一刀石」。

一刀石は長さ8m、幅7m、高さ2mの饅頭形の花崗岩で、縦に亀裂が走り岩石が真っ二つに割れている。

言い伝えによると、柳生宗厳がある夜修行していると天狗が現れたので対決し、この天狗を一刀両断した感触があったので戦いを止めたが、翌日その場に見に行ってみると、そこには真っ二つに裂けた大岩があるだけだったという。


岡山 美星町

1989年(平成元年)1122日、全国初の光害を対象とした「星空を守るための専門条例」である「美しい星空を守る美星町光害防止条例」を制定・施行した。
●星尾神社

古来伝えられるところによると、この地は古代より黒田と称し、戸数七十余戸の住民は深く北辰(北極星)を信仰していた。

承久年間、順徳帝の御代に流れ星が落下し水田で光り輝いていた。

この地の豪族・妹尾兼定は、これを採り、この地に小祠を建て奉祀し、住民は明神様として厚く信仰した。

およそ百年後の正中元年、豪族・妹尾平治右衛門が重病を患い神祗星辰に祈願していたところ、ある夜二十八宿の二つ「星尾」を夢に見て以来快方に向かい、全快後明神の御加護御神徳を深く感じ宮社を建立、星尾大明神と名付け祀ったのがその創建と伝えられている。

以来黒田村を星田村に改めたといわれ、現在の美星町星田が当時の星田村。


小淵沢

大滝湧水:社記には武淳川別名(たけぬかわわけのみこと)がこの地を御巡視されたおり、清水の湧出をご覧になり、農業の本、国民の生命、肇国の基礎と称賛せられ、ここに祭祀したと記されている。
また、古くから伝記として井戸水が濁った時、この湧水を井戸水に注入すれば清澄となるといわれいている。
湧水後背地の山林は滝山と称し、江戸時代に水源かん養のため甲府代官が民有地を買い上げ、御留林として湧水の保全を図った。

京都 宮津市 上世屋

上世屋周辺は、地すべり地形の移動堆積地であり、平坦な地形。
植生としては、スギ・ヒノキ植林もみられるが、コナラ、クリ、ミズナラ、シデ等の落葉広葉樹林が広く分布し、良好な森林景観を呈している。

また、棚田や郷土性に富んだ民家がみられる上世屋集落は、周囲の森林と一体となった優れた農村景観を有している。
この棚田や集落などの懐かしい里地里山の風景を構成要素とする新しいタイプの国定公園。

●世屋姫神社:集落へ入る前の棚田のなかに鎮守の森がポツンとある。

●世屋藤布:古くは万葉集に詠まれた古代布の藤布(ふじふ)は、昔は全国各地で織られ、繊維が強く丈夫なため近代になってからは漁網や醤油の搾り布などに使われていた。

3トンの藤蔓からできるのは150キロの糸。
皮をはいで白い部分を薄くへぎ、煮出して長い繊維だけを糸にする。
1本分の糸を績()むには3ヶ月ほどかかる。
この糸で織ったものが藤布で、素朴で暖かみのある独特の風合いをもつ。

水に強く染料も浸透しにくい藤布だが、糊や助剤を加えて染色し、帯地やのれん、ざぶとん、ぞうり、バッグなどに加工している。

大阪 能勢町

菊炭:切り口が菊の花のように美しい事から「菊炭」と呼ばれる。

北摂の山々で製炭され、大阪府池田市へ集積された事から「池田炭」とも呼ばれている。

炭の材料にはクヌギを用い、この樹種は元株が残っていれば何度でも生えてくる木なので、何度でも再生し生産できる循環型産業。

炭には7〜8年くらいたった木が主に使われ、それを万遍なくローテーションさせて伐採していく。

そのため、北摂地域には日本一といわれる里山が残っている。

最盛期には約40軒にものぼっていた炭焼き農家は、都市化によって衰退し、今では、極少数の農家が伝統技術を守り続けている。
 

火力が強くて火持ちが良いこと、香りが優れていることで「茶の湯には最高の炭」と言われている。

長享年間(14878)に池田の椋橋屋治朗助が足利義政に献上しており、文禄4(1595)815日に豊臣秀吉が池田伏尾の久安寺で観月の茶会を催したときこの炭を薦めた記録が残っている。

徳島県上勝町

過疎化と高齢化が進む町だが、一方で、全国でも有数の地域活性型農商工連携のモデルとなっている町。

昭和562月に起きた寒波による主要産業の枯渇という未曾有の危機を乗り越え、葉っぱ(つまもの)を中心にした新しい地域資源を軸に地域ビジネスを展開し、20年近くにわたり農商工連携への取り組みを町ぐるみで行っている。

軽量野菜を中心に栽培品目を増やし(19818品目⇒、8214品目⇒8324品目)、農業再編成に成功。続いて季節的要因の少ない椎茸に注目し、現在の年間売上約5億円と、成功を収めている。

そして町の半数近くを占めるお年寄りが活躍できるビジネスはないかと模索したところ、"つまものビジネス""葉っぱビジネス"1987年にスタートした。

「葉っぱビジネス」とは"つまもの"、つまり日本料理を美しく彩る季節の葉や花、山菜などを、販売する農業ビジネスのこと。

株式会社いろどり代表取締役である横石が「彩(いろどり)」と名づけてスタートした。

葉っぱビジネスのポイントは、軽量で綺麗であり、女性や高齢者でも取り組める商材であること。

現在の年商は26000万円。中には、年収1000万円を稼ぐおばあちゃんもいる。

それを支えるのはPC(ブロードバンド・ネットワーク)。

おばあちゃん達はPCを駆使し、全国の市場情報を収集して自らマーケティングを行い、葉っぱを全国に出荷する。

PCでは自分が町で何番目の売上を上げているかの順位等も分かるようになっており、こういったビジネスモデルの全てが良い刺激になり、更なる発展へつながっている。


竹富島

全島が隆起珊瑚礁でできているため極めて平坦で、展望台を除けば、集落の家の屋根が島で一番高いところである。南北に長い楕円形をなしており、周囲は約 9km。

ヒハツモドキ:東南アジア原産のコショウ科のツル性植物。
沖縄では人家の庭で栽培され、実を香辛料として用いる。
八重山の石垣島では(ピーハチ)、竹富島では(ピーヤシ)と呼ばれ、
八重山ソバには欠かせない香辛料である。

富島では、全周が沖合のリーフで手厚く守られ、リーフの内側に豊かな珊瑚礁の浅瀬を持ち、島の輪郭は白砂の浜と肉厚の海岸防風林で縁取られ、その内陸に農地が広がり、さらに集落防風林に守られた島民の生活がある。

防風林には蝶が舞う。

竹富島の集落は、間に道を介さずに、屋敷地を連続させる中世期の屋敷割りの名残を強く残している。

1771年に、八重山地方を襲ったとされる明和大津波によって、他の周辺離島集落の大半が全滅し、琉球王府による地割制度によって碁盤目状に整然と敷地割がなされたのに対し、奇跡的に難を逃れた竹富島は独自の集落形態を維持している。


一般の琉球集落における屋敷が、四方を石垣で囲み、正面となる南の石垣を開いて入口を取り、ヒンプンを介して屋敷のほぼ中央にある母屋(フーヤ)に至るのに対し、竹富島では、フーヤの西隣に台所となる釜屋(トーラ)を、棟を直行させて配置している。

沖縄地方において赤瓦を葺くようになったのは明治20年代以降で、戦後しばらくの間に新築されたが、茅葺きでは一般的な分棟形式が、堅牢な貫屋造りの赤瓦家屋では、分棟形式は希な存在であるにもかかわらず、竹富島集落の全ての屋敷において分棟形式がとられたことは、固有の、きめ細かなリズム感のある屋根の連続する景観を創り出しているといえる。

竹富島のフーヤの平面(間取り)は、まず例外なく東西辺が南北辺より半間(希に1間)長い長方形。

そこから寄棟屋根を同じ勾配でせり上げるため、どの家も大棟が半間で小さく結ぶことになる。

平面規模の大きな家も小さな家もこの秩序に倣うことで、見た目に規模の違いが現れない視覚効果がある。


熊本 サンワ工務店
熊本市、中心アーケード街から少し離れた上乃裏通りには古着屋、飲食店などが立ち並び、休日は昼夜をとわず若者であふれる。
安い家賃と古民家を改装した店づくりが人気で、出店意欲のある若者が県内から集まった。古民家を活用した店舗作りを手がける山野潤一氏のもと
には出店相談に多くの人が訪れ、コーディネーターとして街づくりに積極的にかかわる。
「1985年に熊本市唐人町にある築120年以上の『三角美術館』をカフェへ改築したのが古民家改装のきっかけです。
また86年、山鹿市にあった築150年ほどの古い蔵を上乃裏に移築し、ビアレストラン「壱之倉庫」に改装した。
この壱之倉庫が若者を中心に話題となり、雑誌などにも取り上げられ、上乃裏通りに客が集まるにつれて出店希望者も増加したのです。
家賃が中心繁華街の上通り、下通りに比べて安く、1坪当たり1階店舗で1万円前後、2階では8000円程度と資金が少なくても出店しやすい環境にありました。
しかもこの地域には築100年以上の古民家が多く、それを活用して、よそでは難しい個性のある店作りができる。

最初は街づくりにまで携わるつもりはなかったのですが、周辺で古民家の改装を何軒も手がけているうちに、家主や経営者とのネットワークができあがり、それが口コミで広がって出店希望者がうちを訪ねてくるようになりました。
若手経営
者の中には実際に店を出すことの難しさを知らない人も多いですから、出店希望者には資金や物資の調達など300項目に及ぶチェック表を渡すようにしています。
古い小物などは私が所有している物を無償で提供することもあります。
すでに出店
して成功している経営者を交えたディスカッションの機会も設けており、厳しいことも言いますが、若者にとっては良い刺激になっていますね。」
徒蔵 東京都台東区
御徒町から蔵前の一帯上野から見て東南のエリアが「徒蔵(かちくら)」と呼ばれ人気スポットになっているという。
きっかけは台東デザイナーズビレッジの卒業生がバッグや生活雑貨の店を近辺に開店させたことが発端。

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旅したいな19

オーロラ

オーロラは、ローマ神話に出てくる夜明けを告げる女神アウロラが名前の由来で、ガリレオ・ガリレイが名付け親。
北欧神話では、夜空を駆ける戦いの女神ワルキューレの鎧の煌きとも言われる。
オーロラは太陽風(太陽から放出された電気を帯びた粒子プラズマ)が、地球の大気と衝突して発酵することでできるもの。
通常は上空約100〜500kmのあたりに発生するが、これはオゾン層のはるか上空、宇宙と地球の境界の高さ。
肉眼で確認できる基本色は赤、緑、ピンクまたは水色で、発酵する原子や分子の種類と高度によって色が変化して見えるという。
●オーロラはどこで見られる?
オーロラと気温の高低は無関係。
太陽風が地球に当る角度が関係しており、その場所が寒い極点寄りの地域。(カナダ、アラスカ、南極など)
南北の極点から少し離れた、およそ経度65〜80度にある地球の軸極を取り巻くように現れる。(オーロラベルトオーロラオーバル
日本でもオーロラの観測記録がある。
もっとも古い記録では、『日本書紀』に赤気と記されている。
現代でも北海道で観測記録が報告されている他、1770年9月17日には長崎で、1958ん園2月11日には北陸から関東にかけても観測された記録が残っている。
●オーロラが見られる条件は?
雲1つなく空気が澄んで天空が晴れ渡っている時が、観測に適しているといえる。
オーロラの光はあまり強くないため、夜でないと肉眼では観測が難しい。
アラスカなどの北極圏では4月下旬から8月頃まで白夜(ほぼ1日中太陽が地平線に沈まない季節)があり、この時期はほとどど観測することが出来ない。
●オーロラはカーテンのような不思議な形
オーロラは1000km以上にわたって長く延びているが、その幅はとても薄い形をしており、離れた場所から眺めると、薄いカーテンのような光の帯が上空に広がり、弧を描いているように見える。
オーロラが頭上近くにある時は、上空の1点から放射状に光のカーテンが広がるような、迫力のある映像が見られる。
カーテンのように動く理由は、町のネオンサインや電光掲示板と同じように、大気中の物質が時間差で発酵しているため。
発酵する時間に差があると、光のウェーブのようにゆったりと動いて見える。
●オーロラにまつわる伝説
その現象が科学的に解明されなかった昔、オーロラは畏怖の対象だった。
オーロラが珍しい地域では、赤い色の光が血や炎を連想させ、戦争や災害が起こる前触れだと言われる一方、オーロラが身近だった北欧などでは、神の世界と人間の席を結ぶ神聖なものと信じられていた。
オーロラの自然美が人間に与える感動は大きく、オーロラからインスピレーションを受けた素晴らしい芸術も多く生み出されている。
『愛の詩』やワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』 など。
Kiwi

ニュージーランドの国鳥キウイは、メスが卵を産み、オスが卵を温めて雛にかえす。
妻に尽くし、家庭を大事にするニュージーランドの男性は、この国鳥キウイに習って「キウイハズバンド」と言われている。
大学丼
市場のおかずをその場で丼の具に・・・
北九州市民の台所、旦過市場(小倉北区)でのユニークなサービス、大學丼。
生みの親は北九州市立大の学生らと同市場が共同運営する「大學堂」。
まず大學堂で丼飯(小100円、中150円、大200円)を購入。
市場を回り、好きな具を買って載せてもらう。
仲間と分け合えば割安になり、500円前後で立派な丼に。
後はお茶や調味料が常備された大學堂に戻って食べるだけ。

♪大學丼のうた♪
作詞・竹川大介

きらめくサバと深紅のマグロ
のせろ丼たましい込めて
丼片手に市場を巡る
ジンダの眠りは百年床だ
DAIDAIダイガクDON
トンソクパンチ!
DAIDAIダイガクDON
アカモクキック!
満腹中枢直撃だ!

あかもく:ワカメやコンブなどと同様の褐藻類に属する海藻。
生命力がとても強く、長くなると7m位まで成長する。
強い粘り気が特徴で、フコイダンが豊富な上、食物繊維、カルシウムも含まれています。低カロリーのため、健康的な食品として注目を集めている。
 
ぬかだき:イワシやサバを醤油で煮て、最後に床を入れて味付けをする。
江戸時代、小倉藩主、小笠原公から現在まで伝わる北九州小倉の郷土料理。
栃木の「しもつかれ」「手拭」

しもつかれとは、栃木県に古くから伝わる魔除け・招福の祈りを込めた郷土料理。
大根・にんじん・酒粕・油揚げ・大豆・鮭などを煮て作り、2月の初午の日に赤飯と共に稲荷神社に供え家中の無病息災を祈る。
呼び名は、しもつかれの他、すみつかれ、しみづかりなど地域によって様々。
使う材料も少しずつ異なるとか。
大根と人参は、竹や木で作った手作りの「鬼おろし」という道具でおろす。

墨田区向島 路地尊
路地尊(ろじそん)とは、路地の安全を守るシンボルのこと。
雨水を利用して災害時の水源を確保している。
近所の子供たちの遊び場、野菜の有機栽培(防災広場)、リサイクルのスポットなど利用され向島の街に溶け込んでいる。


東京都墨田区は早い時期から下水道化が整備された地域であったが、「合流式」下水道が採用されていたため、汚水・工場の廃水・雨水が一本の下水管に流入してしまい、溢れた下水がビルの地下に設置された飲用水タンクに混入する事態が起きていた。
当時墨田区保健所では、このような都市型洪水に対策を講じるべく、水循環の研究を始め、雨水利用に行き着いた。
雨水を溜めることにより下水道に流れ込む雨水の量を減らすことができ、溜めた雨水は渇水や災害時の生活用水として活用できる。
また、木造建造物を多く抱える墨田区にとって、雨水利用は防災対策としても成立した。
1982 年、両国国技館に雨水利用を導入したのを皮切りに、現在墨田区の21 の公共施設で雨水利用システムが採用されている。
公共施設以外にも、地域交流の場に雨水利用システムが一役買っている。
一寺言問地域には「路地尊」(ろじそん)という防災のシンボルが5 つ設置されている。
路地尊には「災害時には避難路、平時には地域の広場になる路地を尊ぶ」意味が込められており、当初はちりとり・箒などの清掃器具や防災設備のついたものであったが、2 号基以降は雨水タンク機能を備えている。
路地尊のうち4 基はポケットパークなどに設置され、他地域にも雨水タンクが13 基設置されている。また、民間の施設では、例えば区内の銭湯で屋上に雨水タンクを設置し、トイレや池に利用するとともに、空き缶・牛乳パックの洗い場を設け、資源回収センターの役割ももたせているところもある。
久地円筒分水

二ヶ領用水の名は、江戸時代の川崎領と稲毛領にまたがって流れていたことに由来しており、現在の川崎市のほぼ全域を流れる神奈川県下で最も古い人工用水の一つである。
慶長2年(1597)徳川家康より治水と新田開発の命を受けた当時の代官小泉次太夫は、約14年の歳月をかけて二ヶ領用水を完成させた。
当時の記録によれば、二ヶ領用水は流域の60ヶ村、2007町4反9畝4歩の水田を潤し、米の収獲量は飛躍的に伸びたと伝えられている。
二ヶ領用水は久地の地に設置された分量樋で、久地二子堀、六ヶ村堀、川崎堀、根方堀の4本の堀に分水されていた。
分量樋とは、堰から溢れ出る流れを木製の門扉により分水する施設で、水路の入口の幅、下流での広がり幅等を規定し、4本の堀の灌漑面積に比例した水量比率を保とうとするものであった。
しかし、水路の水流には独特の物理的性質があり、上流からの流量が変わり、水路の水位が変化することにより、各分水の水路幅を固定していても、分水される流量の比率が違ってくる。
構造上、実際には正確な分水は難しかった。
また、流域の水田の拡大とともに、日照り時等、水不足が深刻となり、水騒動が頻発するようになった。
自分の地域の用水量を増やそうと、分量樋の樋口を堰きとめるなどの妨害を行う農民も現れ、文政4年(1821)に起きた「溝口騒動」をはじめ、用水をめぐる争いが絶えなかった。

近代に入り、より正確な分水管理の可能な分水装置が求められ、その一つとして、大正年間より農業用水の正確な分水管理ができる「円筒分水」は造られていた。
ただ、この分水装置には高低差が必要で、当初は上流に溜池がある所に造られていたが、昭和9年(1934)水路の途中に円筒分水を設置したものが福島県や長野県で造られた。
長野県の場合、川崎市の円筒分水のように円周の比率で分水するのではなく、装置の中央に吹き上げられ放射状に広がった水が直接分水されるので、流れに偏りが生ずる等、若干の欠点もあった。
昭和16年(1941)、かつての久地分量樋のやや下流に円筒分水が造られた。
二ヶ領用水の水は、多摩川の支流、平瀬川の下を2本のコンクリート管で潜り、円筒分水の中央の円筒から噴き上がってくる。
その外側の直径8mの円筒は、噴き上がって波立った水面の乱れを抑える整水壁の役割をしている。
さらにその外側にある直径16m円筒の円周を4本の堀それぞれの灌漑面積に合わせた比率の長さ(川崎堀38.471m、六ヶ村堀2.702 m、久地堀1.675 m、根方堀7.415 m)により仕切って越流落下させることにより、流量が変化しても、各堀に一定の比率で分水されるようになった。
当時としては、最も理想的かつ正確な自然分水装置の一つであり、その技術は、戦後に円筒分水を視察に訪れたGHQの農業土木技師により、アメリカにも紹介されたといわれている
この久地円筒分水を設計したのは、当時の神奈川県多摩川右岸農業水利改良事務所長であった平賀栄治(1892〜1982)である。
平賀は、円筒分水の設計・建設と同時に、多摩川の支流で、大雨になると二ヶ領用水に流れ込んで洪水を引き起こしていた平瀬川の改修にも取り組んだ。平瀬川が多摩川へ流れるように流路を変更し、平瀬川と二ヶ領用水がぶつかる地点で、二ヶ領用水の水を平瀬川の下に潜らせ、上流から流下した用水が噴水のように噴き上げるのを利用したのが円筒分水である。
平賀は、円筒分水のほか、二ヶ領用水の2ヶ所の取水口のある、多摩川の上河原、宿河原の2つの堰堤の設計・建設を行うなど、多摩川の治水に尽力した。
こうして完成した二ヶ領用水久地円筒分水は、都市化の進んだ現在では農業用水としての役割をほぼ終えたが、その後各地で造られた円筒分水の初期の例として、貴重である。

奈良県 清澄の里粟
食材となる大和伝統野菜をはじめとした多種多様の野菜は、周りの畑でスタッフや地元五ケ谷営農協議会のメンバーが栽培している。

三重県との県境に位置する山里・山添村。
浦嶋正幸さんは竹製の茶袋(奈良では「ちゃんぶくろ」と呼ぶ)を作っている。
昔は、茶粥を作る調理道具として欠かせなかった。
白浜銀座 足湯横丁
和歌山県西牟婁郡白浜町、足湯横丁は昭和30年代をイメージした昔懐かしい雰囲気が漂い、湯の街らしい風情を楽しめる。
夜になれば、飲食店などの開店と共に賑やかさを増す銀座通り沿いに立ち並び、足湯に浸りながら、あしゆ亭オリジナル料理「焼きクエ」などを食すことができる。

印南町 赤糖房(ミニトマト)
栽培する場合、赤糖房部会に入会しなければならない。
入会を希望してから1年間部会員のもとで栽培方法を取得しなければならない。
栽培面積など厳しい規約があり、出荷時の厳しい基準をクリアしたもの。
最低糖度8.5度以上。

みなべいなみ農協は、みなべ町特産の梅干しと印南町特産のミニトマト「優糖星」をコラボさせた新感覚の梅干し「tomato‐ume(とまと梅)」、万能だれ「tomato‐ume(とまと梅)だれ」の2商品を開発した。
バイオ燃料 ジャトロファ
http://www.higashijp.com/

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旅したいな18

桑野の蛤
木曽三川河口域で漁獲されるハマグリは昔から「桑名のハマグリ」と称され、徳川家康を初め歴代将軍に献上するのが慣例になっていた。
この地の名物「焼き蛤」は東海道膝栗毛でも紹介され、三重県の特産品として全国にその名が知られている。
かつて木曽三川河口域には広大なデルタ地帯が拡がり、生産性が極めて豊かな海域だった。
日本一の生産量を誇ったハマグリは殻が大きく、肉が充実し、淡美な味わいを特色としていた。
色彩の美麗な殻は桑名産をもって第一と賞され、貝合・貝絵・膏薬の容器に加工された。

昭和40年代に干拓や地盤沈下に伴う生息域である干潟の消失や漁場環境が悪化していった。
年間3000トンを誇った漁獲量は昭和50年代以降に急激に減少し、長良川河口堰の運用がはじまった平成7年には過去最低の0.8トンと減少し、「桑名のハマグリ」絶滅の危機に瀕した。
県内産のハマグリのほとんどを水揚げする赤須賀漁協では、「桑名のハマグリ」の復活をめざして稚貝放流による資源回復に努めてきた。
全国的なハマグリ資源の減少に伴い、放流用稚貝の確保が困難になってきた。
そこで、種苗生産設備を整備し三重県水産技術センターや桑名市の指導のもとに、赤須賀漁協では種苗生産技術開発に取り組み3mmサイズまでの種苗生産技術をほぼ確立することができた。

養老鉄道
養老鉄道養老線は三重県桑名市の桑名と岐阜県揖斐郡揖斐川町の揖斐を結ぶ57.5kmの路線である。
軌間1067ミリの狭軌で、全線単線の1500V直流電化路線となっている。
元は近鉄養老線だった路線。
大垣で運行系統が分けられており、桑名〜大垣間、大垣〜揖斐間での運転となっている。
桑名で近鉄名古屋線、大垣でJR東海道本線と連絡している。

養老鉄道(岐阜・大垣)は2009年3月12日から、「薬膳列車」を運行。
定期列車3両編成のうち1両を貸切にして実施した。
料金は大人5,000円、小児4,500円で、料理代金と養老鉄道1日フリー乗車券の運賃が含まれる。
料理は養老町で採れた食材を使い、地元の薬膳レストラン「寿喜養膳」が調製。
13種類の生薬をブレンドした食前酒から始まり、超黒にんにく熟成発酵、15種配合米を使った山菜ごはん、スギナ入り手作り味噌汁、野菜のマリネ、煮物、ハスの実、アシタバや高麗人参の天ぷらなど14品。
デザートには黒にんにくチョコレートとタンポポティー付き。


三重県 湯の山温泉 僧兵祭

漆黒の夜空に浮き立つ松明の紅。
渓谷にこだまする僧兵太鼓。

天台宗の三岳寺が湯の山に建てられたのは、大同二年(807)と伝えられている。
その760年あまりをへた永禄十一年(1568)織田信長の伊勢進攻によってこの三岳寺も他の天台宗寺院と同じく焼き討ちにあった。そのときに勇敢に戦った僧兵たちの勇姿を、今に伝えるのがこの僧兵まつり。

毎年10月に行われる僧兵まつりは、600キロにもなる大きな樽みこしに、松明百本ほどをつけて練り歩く「火炎みこし」で有名な壮大なまつり。

三岳寺でお祓いを受けたみこしは、寺からロープウェイ乗り場までを約1時間かけておりてくる。
火の粉が激しく飛び散るので、道中ではびしょびしょになるくらいに水をかけてもらう。


イタリア Trevisoの花 Radicchio
早生種のラディッキオは葉が幅広、晩生種のラディッキオは葉が細い、値段は早生種の10倍以上。
赤紫と白がきれいなので、Il Fiore di Treviso(Trevisoの花)と呼ばれている。
夏種まきしたRadicchioは11月、下が2回降りるのを舞って引き抜く。
寒さがRadicchioをきれいな赤色にしてくれる。
1度引き抜いた株を、今度は10日間水の中に差し込んでゆく。
そうすることで古い葉の内側に新しい芯が生まれてくる。
古い葉は1枚1枚手作業でむいて捨ててしまう。
こうして残った白い芯は、甘くてほろ苦く、歯ごたえがある。
多くの手間と時間をかけてこそ、Trevisoの花は生まれる。


イタリア Venezia
Piazza San Marco、VeneziaでPiazza(広場)と呼べるのは、サンマルコ広場のみ。
その他の広場をVeneziaではCampoと呼ぶ。
もとは田畑の意味。
かつてはここに土を敷き詰めて、樹木や野菜を植えたりしていたからだ。
Veneziaには80ものCampoがある。
人々はここで待ち合わせして遊んだり、おしゃべりしたりする。
子供達はサッカーやかくれんぼをし、お母さん達はおしゃべりしながらそれを待っている。
時々ちょっとした劇やステージもある。

Pantalone、Veneziaではとても有名。
Commedia dell'arte(仮面喜劇で16世紀、北イタリアで生まれた。)の登場人物。
この喜劇はCampoに作られた仮設の舞台で頻繁に上演された。
役者は仮面をかぶり、召使いや道化師などを演じる。

PantaloneはVenezia商人、けちで女好きだが、どこか憎めないやつ。
il DottoreもCommedia dell'arteの人気キャラクター。
ヨーロッパ最古の大学があるボローニャ出身の博士。
出っ張ったお腹がチャームポイントで、食いしん坊の異名をもつ美食の街ボローニャの象徴。

長良川鉄道
美濃太田駅を出発!
美濃加茂市、駅から10分ほど歩くとかつての中山道宿場町、太田宿。
木曽川に面した太田宿は、歌川広重の浮世絵にも描かれている。
広重も眺めたであろう景色は現在、日本ライン下りのコースとして人気を集めている。

関駅
関市はドイツのゾーリンゲンと並ぶ世界的な刀剣鍛冶の中心地。
鎌倉時代から700年以上刀作りを続けている。

毎年10月に催される刃物祭には、およそ30万人が訪れる。
この町で生産される刃物は包丁、鋏、ナイフ、爪切りなど多種多様。
その出荷額は年間およそ330億円で、全国第1位。
関市の刃物産業の始まりは1529年、元重という刀鍛冶が良質の鉄、水、土を求めてこの地へ移り住み、刀を打ち始めたと伝えられている。
刀鍛冶師5代、藤原兼房、室町時代から代々続く刀鍛冶、この道一筋35年。
「生涯修行、炎は神だ。」

刀以外でも戦国時代、戦において大きな役割をしたあるものに、刀鍛冶は深い関わりを持っている。
1544年関出身の刀鍛冶が日本で初めて作った画期的なものとは?
火縄銃、刀鍛冶の技術を使い、心棒を作った。
薬品を使わずくっつける技術があった。
鉄の板を筒状に丸め、それを接合する刀鍛冶の高い技術。
国産第1号の火縄銃を作り上げたのは関出身の刀鍛冶、八坂金衛清定。
その匠の技が注ぎ込まれた火縄銃は、種子島で今も保存されている。

美濃市駅
美濃市の長良川沿いにある、川では珍しいものとは?
川湊灯台、物流が水運から鉄道に変わった明治末まで、地元にとって欠かせない存在だった。
主に運び出されていたのは1300年の伝統を誇る和紙。
誰でも気軽に紙和紙の体験が出来る美濃市和紙の里会館や、和紙で作った照明が展示されている美濃和紙明かりアート館など、訪れる人々を魅了している。

みなみ子宝温泉駅
列車を降りる時に降車駅証明書を配っている。その特典とは?
入浴料金が無料になる。(入湯税50円、バスタオルレンタル代100円)
温泉がホームの真横にある。
郡上市みなみ町が管理運営し、1997年にオープン、2002年にはみなみ子宝温泉駅が作られた。
ホームへの出入口に設置された信号機は、列車到着タイマー。
列車が来る30分前には青、15分前は黄色、5分前に赤色に変わる。

長良川鉄道の魅力は鉄道と川との絶妙なコンビネーション。
【長良川鉄道社員が選ぶ絶景ポイントベスト3】
第3位:第1長良川橋梁、湯の洞温泉口駅から北へおよそ900m、車窓からの眺めがお薦め。
第2位:第3長良川橋梁、赤池駅のすぐ近く、川流の橋からの眺めがお薦め。
第1位:第5長良川橋梁、相生浮きから南へおよそ1km、国道156線からの眺めがお薦め、伊勢湾台風で流された時の橋脚の跡が残っている。

郡上八幡駅
昭和4年に建てられた歴史のある駅、木造で風情がある。
水の町、郡上八幡、町の中心を長良川の支流、吉田川が流れ、水と共に暮らす人々の姿を見ることが出来る。
町は年間降水量が2800ミリと全国平均を大きく上回り、周辺の山からの湧水も多い。
そしてこの豊富な水を、町の人々は昔から上手に生活に取り入れてきた。
きっかけとなったのは承応元年(1652)の大火。
藩主・遠藤氏は防火対策として、城下町を整備し用水路を敷いた。
今も受け継がれる北町用水と柳町用水、島谷用水はそのときに敷かれたもので、以後、これらを軸とした小水路が町中に張りめぐらされた。

水舟と呼ばれる共同施設、清らかな水を引き込み、飲料水、洗物に使ったり、近所の人の社交場にもなっている。
段差のある幾つかの水槽からなり、一番上が飲み水、次がすすぎ水、その下が洗い水と使い分けられ、最後は田畑に引かれたり、養魚池を通るなどして水路に流れ込む。
山沿いの個人宅の台所や庭に備えていることが多いが、尾崎地区には「水屋」と呼ばれる屋根付きの共同水舟が道路脇に間隔をおいて並んでいる。

カワドそれぞれ自治会が管理し、水路ごとに洗い物の時間帯、順番、掃除当番などのルールが決められている。水道の発達で利用は減ったとはいえ、常に清潔に保たれており、夏はスイカなどを冷やす光景も見られる。
旧庁舎記念館からほど近いいがわこみちは、民家の間を流れる用水沿いの通路。
共同洗い場が数カ所あり、水の中ではアマゴやニジマス、コイなどが気持ちよさそうに泳いでいる。
水路に放流された魚は単に観賞用ではなく、食器などについた食べかすを浄化する役目も果たすそうだ。
吉田川支流の乙姫川沿いにもカワドが多く、川の流れをすっぽり屋根でおおったものもある。また、周辺の住宅地には手押しポンプ式の共同井戸が残る。
石灰岩を含む岩盤地質で水がたまりやすく、少し掘れば水が出るため、かつては飲み水用に井戸もたくさん掘られた。

夏に開催される郡上踊りをはじめ、多くの観光客をひきつける町。
冬のお薦めは寒ざらし、伝統工芸品、郡上本染は冷たい川で洗い流すことで、色鮮やかな染物に仕上がる。
平成22年は1月22日と2月7日に見ることが出来る。

お正月の風物詩で、郡上八幡が出荷量日本一の特産物とは?
南天、中国原産の南天、難を転じるという言葉にあやかり、日本各地で親しまれている。
南天の魅力をもっと知ってほしいとの思いから、栽培農家が作る南天玉、郡上八幡の冬を彩る風物詩で、この季節町のそこかしこで見ることができる。

郷土料理、朴葉味噌。
火鉢で焼いた鮎の一夜干は、炭火でじっくり焼くので骨までほくほく。
鮎の塩焼きはワイルドに串のままいただく。
ジャガイモのにっころがしは素朴な味。
鱒寿司を朴葉で包んだもの、どぶろく・・・
去年7月に郡上市大和町がどぶろく特区に認定され、今年から製造を開始した。
万場駅
万場の小学生はホタルを育てている。
国鉄時代、蒸気機関車に乗っていた小保田さんは、ホタルおじさんの名で親しまれるホタルのスペシャリスト、週3日学校に足を運び、ホタルの成長を見守っている。
幼虫のエサはカワニナ(巻貝の一種)。

美濃白鳥駅
美濃白鳥地区のお肉屋さんで、3ヶ月間だけ売られているのはシシ肉(猪)。
猟師達は、味噌仕立てでいただく。
獲ってすぐ血抜きをする。
肉に血が回ると臭くなる。
猪の胆嚢を乾燥させたものは、猟師達の間で昔から薬として飲まれてきた。
とても苦いが食べると肉の消化がよくなるという。
終点 北農駅
72.1kmの旅のゴール。
郡上市白鳥町は日本三霊山に数えられる白山の麓に位置する。
長滝白山神社に見られる白山への信仰や、樹齢1800年と言われるイトシロ大杉など、自然と人とのつながりを体感できる町。
落差60mを誇る阿弥陀ケ滝、冬には凍結する。
まさに自然が作り出す芸術。

ご当地ヒーロー

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旅したいな17

洞窟
●沖縄 南大東島 地底湖
断崖絶壁の孤島、中央部は盆地状にへこんでいる。
広大なサトウキビ畑がある。
この島は摩訶不思議が転がっている。


珊瑚礁が起源のこの島は、丸ごと石灰岩でできている。
鍾乳洞やすり鉢状にへこんだドリーネ(穴)がたくさんある。
120前後と推定されている鍾乳洞の数だが、だれもその正確な数は知らない。
だれも入っていない鍾乳洞がまだまだあるという。
そして、ドリーネのその奥へ入ってみると、そこには奇天烈なる闇が待っていたのだ。
洞窟の奥、地底湖は、人知れず、風も吹かず、水面も揺れず、哲学的な静けさを持って横たわっている。


●北海道 ピリカ鍾乳洞 鍾乳洞の湯
北海道今金町は当時開発者だった今村藤次郎と金森石郎、両名の頭文字から付けられた町名。
今でも砂金が取れる町としても知られている。
ピリカ鍾乳洞は、以前「底なしの湯壺」と呼ばれる洞窟であった。
しかし内部を調査した結果、鍾乳石・石筍・石柱などが発見され、最近になって鍾乳洞であることが分かった。
この洞窟下部には35℃前後の温泉をたたえる日本国内では貴重な鍾乳洞。


●山梨県 火山洞窟 氷筍

↑富士山の神座風穴の氷筍。
厚い天井の溶岩層中を降下浸透してきた水に依存・氷筍と氷管が落石の上に成長。

●福島県田村市 あぶくま洞


およそ8,000万年という歳月をかけて創られた大自然の造形美。
全長約620mの洞内は、天井から大きく下がる鍾乳石や床下からタケノコのように堆積してできる石筍など千変万化の神秘の世界が続いている。
したたり落ちる地下水が自らの溶食作用によって創りあげる様々な造形美にはそれぞれに名前が付けられ、訪れる人を魅了する。
三層に分かれる洞内で最大のホール「滝根御殿」では、クリスタルカーテンやボックスワーク、シールド、洞穴サンゴなど、ここでしか見ることのできない貴重な鍾乳石を間近に鑑賞することができ、竜宮殿や月の世界、樹氷、クリスマスツリー、石化の樹林など、見る人を感動させてやまない大自然の神秘が続いている。


☆フローストーン:壁や床をつたわって流れる地下水によって、広く面状に結晶し、柱状に並んで伸びてゆく。
土の上にできる霜柱が一ヶ所に密生しているようなもの。
滝の凍ったような姿だったり、氷河のような姿だったりする。
☆リムストーン:白く輝く石が透き通った地下水を囲む。
フローストーンのくぼみに水がたまり、炭酸カルシウムの結晶がその周辺部の水があふれ落ちる側にでき、ちょうど田んぼの畦のように盛り上がり、よく百枚皿といわれるように、1ヶ所に集まってできるのが特徴。


☆ケイブパール:奇跡の真珠、リムストーンの中にある飴玉や金平糖のような形をした鍾乳石。
岩石や貝殻などのまわりに炭酸カルシウムの結晶がくっついてできたもの。
水溜りの中に偶然砂粒などが入り、水中の石灰分が付着する。
天井の鍾乳石から落ちる滴が数千年の間ケイブパールを動かすことで床につかず、偶然が重なり、奇跡的に生み出された地底の宝石。


日本で最も美しい村連合


2009年8月現在、「日本で最も美しい村」連合に加盟している町村・地域は18。
フランスの素朴な美しい村を厳選し紹介する「フランスで最も美しい村」活動に範をとり、失ったら二度と取り戻せない日本の農山村の景観・文化を守る活動をはじめた。


福井県三国
●東尋坊


日本海の荒波によって侵食された火山岩が柱状節理を形作り、高さ25m30mの断崖絶壁を形成。

柱状節理といえばマグマが冷える過程でできたものだが、この東尋坊周辺の火山活動は約12001300万年前に起きた活動によってできたもので、マグマがそれ以前に堆積していた地層に入り込み、地殻変動による隆起活動によって海面に現れ、波による侵食を受けて現在のような形になっていったと考えられている。
またここには輝石安山岩でできた柱状節理という特徴があり、これは世界でも3箇所しか存在しない貴重なもの。

この岩壁が「東尋坊」と呼ばれることになった由縁
・・・時は寿永、民に巨悪の限りをつくした東尋坊という名の怪力の悪僧。
在所の美しい姫君に心を奪われた東尋坊は、恋敵である真柄覚念という僧と激しくいがみ合ったとされる。
ある時、岩場の上で酒宴を催した真柄覚念は、すきを見て東尋坊を断崖絶壁から突き落とした。
天候はにわかに崩れ、雷と暴風雨が四十九日続いたそうな。毎年命日にあたる四月五日は、東尋坊の怨霊が大波と化し、岩壁を激しく打ち殴り続けた。

●船箪笥


笏谷石のほか、越前和紙・越前焼・越前瓦・越前打刃物・絹糸・絹織物などが北前船で運ばれた。
そうした中で三国が出羽の酒田・佐渡の小木とともに日本三大船箪笥の発祥地として、北前船の必需品となった。
船箪笥には、帳簿・現金・印鑑・筆・硯などを納める懸硯や帳箱・衣類を入れた半櫃など数種の形がある。
懸硯は手提げ金庫・帳箱は、船の備え付け金庫と思えばいい。
堅牢な船箪笥は船が沈んでも投げ出された箪笥は、海に浮いて回収された例が、当時の浦証文となって資料館に残っている。
船箪笥は、外見は堅く丈夫なケヤキ・中の収納部分は物をやさしく包む桐材で作る、隠し扉を付けたり、複数の形の違う鍵穴を開けたりし盗難防止のために内部は複雑で特殊なバネ仕掛けの錠前は、箪笥ごとに違う。ロックするには、指一本で足りるが開ける時は、全て違う合鍵(3〜7本)を使用し開ける。
持ち主でなければ絶対に開けられない作りになっている。
船箪笥は、もともと隙間は前面にしかなく、そこには重い鉄金具がこれでもかというほど打ち付けられている。
当然海中に投げ出された時前面が下になる。
だから前面の空気は逃げようがなく、箪笥の気密性がさらに浮力を生み、海に浮く様に出来ている。
先人の職人達があらゆる場面を想像して、持てる技と知恵を全て打ち込んだのが船箪笥である。


スペイン トレド

Cigarral、トレド旧市街の川の対岸に点在する豪華な別荘は、常に人々の憧れの的になってきた。
約50年前に建てられた典型的なCigarralは、今は改装され結婚式や洗礼式など、特別なパーティー会場として使われ、人気を集めている。
噴水がある庭は、まるでアラーブラ宮殿のようだ。
夏は蝉(Cigarra)が多いので、Cigarralという。
景色がよく、昔はステータスの象徴だった。

浜名湖 ドウマンガニのカニミソ丼
甲羅が硬く、実が詰まっているため高値で売れる。
甲羅が柔らかいものは漁師飯となる。
塩茹でにし、甲羅をはずす。
たっぷりの味噌と身を甲羅の中であえ、熱々ご飯の上へ。
ネギとオオバをのせて完成。


佐渡
●たらい舟漁:
たらい舟とは、宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」にも登場した、千尋を乗せて油屋を脱するのに漕いでいた丸形の舟のことである。
観光用のたらい舟は、おけさ娘の衣装を身にまとった女性が漕ぐ舟を湾の中で体験をすることができる。
1本の櫓を使って8の字を描くようにして器用に漕ぐ。
たらい舟は、もともと漁をするために利用されてきた。
佐渡では、海岸近くの磯で行う漁のことを磯ネギ漁といい、漁で使うたらい舟のことを「ハンギリ」と呼ぶ。
陸で使う飼い葉桶を「混ぜハンギリ」(三尺物の高さを半分にして活用したことに由来)と呼び、漁で使うものとは区別をしている。
たらい舟は、小木町(佐渡市小木地区)固有の生活文化である。
考案されたのは明治の初期頃で、改良を重ねて現在の楕円形になった。
島内でも小木しか見られない。
さらに小木でも実際に漁で使われている地域は、島の最南端、当校の校区にあたる沢崎鼻周辺(犬神平から田野浦まで)の地区に限られる。
約9割の家庭にたらい舟があり、現役として使用されている。夏場はサザエやアワビなどの貝類の他、エゴ草・テングサ・モズク採りに、冬場はアワビ、ナマコ、タコ、岩海苔漁に活躍している。
現在、国内でたらい舟を使った漁を営んでいる地域は、他に茨城県大洗町(海藻採り)、兵庫県中町(ジュンサイ採り)、佐賀県千代田町(ヒシノミ採り)、鹿児島県内浦町(ボラ漁)がある。
過去には、富山県朝日町や能登半島でも使用していたという。
しかし、生業として年間を通じ使用しているのは、この深浦地域だけであるらしい。


起源をたどると1803年、この地域の海岸は、地震により1m以上隆起した。
そのため、海食台が海面にあらわれ、広い岩礁のある海岸が生まれた。
今では、南仙峡といって、国定公園の重要な景勝地である。
岩礁が割れてできた入り江は、狭くしかも岩が見え隠れし、磯舟の出入りに不便である。
しかし、そこは海藻が豊富で波が穏やかなため、魚が集まってくる絶好の漁場でもあった。
冬場の入り江は、波が穏やかなため魚貝が集まり、海藻もなくなるため、海底までよく見え、漁には適している。
そこで、昔の人の知恵から生まれたのがこのたらい舟漁である。
丸形のたらいを海に浮かべ磯舟として利用すれば狭い磯海でも小回りが利く。
風さえなければ安定感があり、多少波があっても漁ができ、しかも丈夫である。
地形の弱みを強みとして変え、活躍してきたのがこのたらい舟なのである。


●宿根木:佐渡が金山で栄えた頃、千石船も佐渡に寄港するようになり、その千石船の船大工が小さな入り江に集落を作った。
石も尾道から運ばれてきたものらしい。
公開民家、この集落でも有力者の家、広い土間というだけでもうお金持ち。

紐を引くと高い窓が開く仕掛、石を置いた屋根、屋根飾りの大黒様、向こう側は戎様。
広い庭の先には洞窟冷蔵庫。

●達者:この集落には目洗い地蔵と呼ばれる安寿地蔵堂があり、少しずつではあるが常に清水が出ている。
そしてここは、「山椒太夫」の物語にある安寿と厨子王とその母にまつわる話が昔話となって残っている。
この安寿地蔵堂には、薪でわかす
お風呂があり、誰でも自由に入る事ができる。
ここのお風呂は、
地元の人がボランティアで毎日お掃除をしわかしてくれている。
この清水の飲み方は、まず地蔵さんにひしゃくで水をかけ、手を合わせてから水を飲む。
飲み終わったらもう一度地蔵さんに水をかけ、ひしゃくに水を入れ元の所に置き、手を合わせる。

達者の地名は、森鴎外の小説[山椒太夫」で知られた、安寿と厨子王伝説に由来する。
その昔、悪者の陰謀で、筑紫の国へ流された父を訪ねて、母と安寿姫と厨子王丸の3人は越後の直江津まで来たとき、人買いだまされて安寿と厨子王は丹後の国へ、母は佐渡へと売られてしまった。
途中、安寿と厨子王はうまく人買いの手を逃れたが、母は佐渡の鹿ノ浦の地で朝から晩まで働かされ、とうとう目が見えなくなってしまった。
そんなおり、母を助けに佐渡へ着いた二人は島の広さに驚き、ふたてに分かれて母を捜すことになった。
安寿姫が鹿ノ浦までやってくると、年老いた母が「安寿恋しやホーヤレホー厨子王見たやホーヤレホー」と唄いながら、粟にたかる鳥を追い払っているではないか、「お母さん、私が安寿です。逢いたかったです。」とかけよったが、目の見えぬ母は「また来たか!このいたずらもんが!」と、いつも近所の子供たちにからかわれていたので本当の安寿姫とはつゆ知らず、鳥を追い払っている棒で殴りつけてしまい、打ち所が悪くこれがもとで安寿姫は息を引き取ってしまった。
後になり安寿姫のお供の者からすべてを知り、実の娘と知った母は泣き崩れ、安寿姫の亡きがらを鹿ノ浦に葬り、せめて厨子王丸とは逢って言葉を交わしたいと、お供の者と一緒に相川の町へと向かった。
その途中で、母は厨子王丸に逢うことが出来、二人は、逢えて良かった、「達者で良かった」と喜び合い、厨子王丸が近くに湧き出す清水で母の目を洗ってあげたところ、目が見えるようになったと伝えられている。
そして、厨子王丸と母が出会った場所は「達者」という地名で現在も残り、この達者にある清水が湧き出る場所はいつの頃からか目洗い地蔵が立ち、現在でも島内の目を患っている人々の助けとなっているという。
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旅したいな 16
北海道 花咲線


釧路駅から根室駅まで135.4km。
有人駅:3 無人駅:18
乗車の際は整理券をおとりください・・・


別保(べっぽ)駅から上尾幌駅は、花咲線で最も駅間隔が長く、およそ15km、15分弱で到着する。
広葉樹や針葉樹が茂る森を走りぬけ、尾幌駅へ。
名前の由来は近くにオッポロ川があり、アイヌの人達の言葉に漢字をあてた。


北海道にはアイヌの人達がつけた地名に漢字をあてた地名が多くある。


仙鳳趾(せんぽうし)
賤夫向(せきねっぷ):チェプ・ポプ・ウシ、魚が沸き立つところという意味。
分遺瀬(わかちゃらせ):ワッカ・チャラ・セ、水がチャラチャラ流れ下るという意味。


昆布森(こんぶもり):古くはコンブムイといい、昆布がとれる入り江という意味。
跡永賀(あとえか):昔海であった所という意味。
浦雲泊(ぽんとまり):船が停泊できる小さな入り江という意味。


尾幌駅を出発すると景色は一変、広々とした牧場が目立ち始める。


厚岸(あっけし)駅で下車。
大黒島、漁船に乗ってアザラシウォッチングツアー
漁師達が仕事の合間に行っているため、3日前までに予約が必要。


別寒辺牛湿原、毎年10000羽異常のオオハクチョウが飛来する。
カヌーに乗って別寒辺牛川くだり、途中チライカリベツ川と合流。
湿原を流れる川は、豊富な栄養が溶け込んだ水を海へ運び、海の生き物達を育んでいる。


夏の別寒辺牛湿原では、子育てをするタンチョウやカモ、運が良ければエゾジカやオジロワシの姿を見ることができる。


厚岸(あっけし)は、カキのある所という意味。
7月8日に解禁になるサンマ(本州では秋が旬)は、北上してくるサンマ。
この時期流し網漁と呼ばれる方法でしか捕ることができないので、漁獲量は少なく、都市部では高値で取引される。
大型のもので1匹1000円ということも・・・
地元の人は醤油に一味をたっぷい入れて食べる。
道の駅厚岸グルメパークでは、新鮮な魚介類を自分で選び、炭火で焼いて食べることができる。


浜中町、酪農が盛ん。
町民7000人に対し、牛の数は23000頭。
キャッチフレーズ“はまなかミルクランド”。


浜中町茶内で酪農が始まったのは大正13年、約100戸の入植者から。


霧に包まれた緑の中を走り、落石駅へ。
漁師さん手作りのトレッキングコース。
草原に立てられた杭がコースの目印。
200円のルートマップを購入するのが入場料代わり。
浜松海岸を見渡すことができる。


花咲ガニ、日本では根室半島近海で捕れるのが全てと言われる。
漁期は7月から2ヶ月だけ。
鉄砲汁、カニ味噌たっぷり溶け込んだ味噌汁。
漁師さんによれば、焼いて食べるのが一番美味しいという。


日本最東端の駅、東根室駅
終点は根室


納沙布岬には、今年5月からラッコが頻繁に現れるようになったという。




漁師飯
●千葉県房総半島 相浜漁港 アジとカンパチの水なます
アジをさばいて細かく叩き、ミソやタマネギ、青じそなどとよく混ぜ、「なめろう」にする。
先ほどのナメロウをお椀にいれ、上からカンパチ入りの冷たいみそ汁をかける。

●茨城県 平潟漁港 ガゼ焼丼 
この地方ではウニのことをガゼと呼ぶ。
ボンベを使った潜水漁業で採った大量のムラサキウニを漁師さんの奥さんがすぐに調理。
まずはウニをあけ、身を取り出す。
食べられないワタの部分をとり、ホッキ貝の貝殻にウニの身をこれでもかというほどてんこ盛りにし、砂利を引いた釜に入れ石焼きにする。
貝から外し、炊き立てのごはんにのせて醤油をかける。

●神奈川県三浦半島 金田漁港 タコの卵を使ったタコの親子丼アカモク和え
白くてぷるぷるのこの卵、熱湯に入れると一気に花開く。
ゆでたタコとアカモクと呼ばれるネバネバした海藻、そして醤油で煮付けたタコの卵を合わせて丼に!


●静岡県沼津 戸田(へだ)漁港 カサゴの肝丼
青唐辛子で風味付け。
残った骨と身に、煮汁を入れ、熱湯をかける→骨湯。

●千葉県いすみ市 太東漁港 コチの親子丼
コチの卵


●新潟県直江津漁港 真鯛の漬け丼
米どころ直江津では、ほとんどの漁師が農業と兼業している。
真鯛をぶつ切りにし、みりんと醤油の甘辛いタレに漬け込む。
ご飯の上に大葉をのせ、その上に漬にした真鯛をのせ、ゴマを振り掛ける。


スペイン
Carmen:グラナダのアルバイシン地区。
高い塀に囲まれたお屋敷。
アランブラに似た造りの建物でプールや立派な庭園のあるお屋敷のこと。
もとは個人の邸宅のカルメンだが、今はレストランに改装されたところもある。

Caserio:Vasco地方、かつての農家をホテルやレストランに改装。

Masia:Catalan Farmhouse、かつての石造りの家をホテルやレストランに改装。


Las Cuevas del Sacromonte:グラナダ、サクラモンテの洞窟に住んでいる人がいる。
滞在型宿泊施設もある。




淵の森
埼玉県所沢市と東京都東村山市にまたがる「淵の森」の自然を守るためのプロジェクト。
このプロジェクトの会長は、映画「風の谷のナウシカ」や「となりのトトロ」などスタジオジブリの映画で有名な宮崎駿監督。
宮崎駿監督は、淵の森を散策しながら「となりのトトロ」の構想を練ったと言われているが、宅地開発の計画がある。
もし開発されてしまったら、コンクリート護岸により、淵の森の自然護岸が削り取られ、柳瀬川を挟んで両岸が緑で覆われている豊かな自然が破壊されてしまう。
そこで緑化運動とともに、その土地を東村山市に公用地化してもらうための寄付を目的とした、募金活動を行っている。



鳥取県岩美町 ボンネットバス
昭和初期を彷彿とさせるレトロなボンネットバスが鳥取駅から鳥取砂丘、浦富海岸を経由して岩井温泉まで運行している。


鳥取県八頭町 ホンモロコ
ホンモロコとはコイ科タモロコ属に分類され、琵琶湖固有種のひとつ。
肉質が甘く、骨が柔らかいことが特徴で、川魚独特の臭いがほとんどないことから、関西・近畿地域で珍重されており、高価で販売されている。
ホンモロコ生産組合では、鳥取大学農学部と鳥取県栽培漁業センターの協力を得て、休耕田を利用したホンモロコ養殖に取り組んでいる。
ホンモロコの養殖は、休耕田の利用と高齢者の就労対策、生態系の維持、水産物の安定供給という点で、有望視されている。
八頭ホンモロコ共和国は、なれずし、マリネ、お茶漬けの商品化に成功。
道の駅などで販売を始めた。
味付けに塩以外の添加物を使わない手づくり自然食品。


久米島 パラシュート漁
パヤオ:海に浮かべたブイのようなもの。
周りに藻やコケがつき小魚が集まる。
その小魚を食べるため、マグロなどの回遊魚も集まってくる。
浮き漁礁。


パラシュート漁、傘をばらし、布の部分にミシンをかけ、三角形の袋を作る。
ムロアジを針につける。
パラシュートに錘の石をいれる。
パラシュートに結ばれた10mの糸を巻く。
糸の先端にはエサがついた針がついている。
それらをパラシュートの中に入れ、ムロアジの切り身と撒きエサ(ふすま)もたっぷり詰め込む。
口を針金でとめる。
海に投げ込む。
パラシュートは水深100mの所まで落とす。
糸を引っ張るとパラシュートが水中で開き、中のエサが落下する。
撒きエサにおびき寄せられた魚が針のついたエサに食いつく。


横須賀 猿島 スカジャン
猿島:横須賀港の約2km沖に浮かぶ、東京湾唯一の無人島。周囲1.6kmの小さな島には豊かな自然と数々の史跡が残されている。
江戸時代には砲台のあるお台場、戦前は軍の要塞だったため、江戸時代の石積みや赤レンガの旧兵舎、フランス積みの切通しなども見られる。
島全体が冒険心をくすぐるような雰囲気をかもし出している。


スカジャン
とは「ヨコスカジャンパー」の略語。
そのルーツが昭和22年創業の横須賀ドブ板通りにあるプリンス商会
昭和54年頃ジーンズにジャンパーが大流行、スカジャンも一世を風靡した。
すべてオリジナルのデザインという店主いわく、「うちではエンブロイドジャンパーと呼んでいます。」
ドブ板らしい刺繍入りジャンパーを英訳しているわけだ。
手縫いの丁寧な刺繍が施されたジャンパーは全部で45種あり、バラが2万800円。


広尾 ナショナル麻布マーケット 祥雲寺
ナショナル麻布マーケット、この周辺は大使館が多い土地柄ゆえか、客の70%が外国人。
扱っている商品も外国からの輸入品が多く、通常の日本のスーパーではあまり見掛けない珍しい物がたくさんある。
調理法の分からない食材、楽しいパッケージやどぎつい色のお菓子、ウサギや七面鳥などの肉、いろいろ。
チーズやワインも豊富。
見ているだけでもワクワクする。


祥雲寺、祥雲禅寺と書かれた石の門柱のある、立派な門を潜ると、その先には、別世界が広がる。そこはまさに寺町。
白壁と立派な植木、そしてお寺の建物、その落ち着いた風情ある雰囲気には、そこが広尾という場所であることを忘れさせる。


黒田長政の墓所。
織田信長が豊臣秀吉の功を賞して愛馬一頭を贈った。
秀吉はその名馬をすぐ黒田官兵衛(如水)に与えた。
戦功はすべて官兵衛の謀にあったというのだ。
ところが、官兵衛はこれを家来の母里太兵衛にやってしまった。
太兵衛の武勇に勝因があったというわけである。
部下の心をつかもうとする戦国武将のテクニックがよく出ている。
この母里太兵衛は民謡黒田節のなかの「日の本一の此の槍を飲みとる」豪快な武士で有名だ。
秀吉幕下の智将といわれた黒田如水は、秀吉死後の天下は徳川家康と見抜いて、関ヶ原の合戦には息子の長政とともに家康方に就いた。
このため、長政は筑前福岡藩五十二万石の領主となった。


長政にもエピソードは多い。
如水の嫡男であるにもかかわらず職場では常に第一線に立った。
如水も長政も、それを当然とした。
黒田軍団が精強を誇った理由でもある。
「名将言行録」(岩波文庫)には、こんな話も出ている。
長政は参勤交代ごとに道を替え、旅亭を定めなかった。
旅亭は、広い道に面し、便利なところを選び、火の用心を厳しく命じた。
絶えず職場の心がけでいたというのである。
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旅したいな15
電車天竜浜名湖線電車
静岡県掛川市の掛川駅から浜松市天竜区の天竜二俣駅を経て、湖西市の新所原駅に至る天竜浜名湖鉄道が運営する鉄道路線。
略して天浜線(てんはません)とも呼ばれる。
旧国鉄の特定地方交通線(二俣線)を引き継いだ路線。


●金指駅 初山宝林寺 金鳴石
金鳴石:叩くと澄んだ音が鳴り、金がなる“金運成就”の石。


普茶料理:インゲン豆を日本に伝えた隠元禅師が、中国福建省からもたらした中華風精進料理。

●無人駅が多い
西気賀駅の駅舎には委託のレストランや、うなぎの蒲焼販売店がある。
遠江一宮駅、待合室に地域住民有志でつくる「遠江一宮駅夢づくりの会」と鉄道会社の協働による「まちあいギャラリー」がオープンした。 
都筑駅はパン屋併設。
気賀駅ラーメン屋併設など…


●公衆トイレ
尾奈駅の鰻トイレ、三ケ日駅の和風トイレ、都筑駅の象トイレ、 東都筑駅のみかんトイレ、浜名湖佐久米駅の牛トイレ…


●寸座駅
寸座の地名の由来は、平安時代の将軍・坂上田村麻呂が美しい景色に足を止め、一寸座ったという説からきている。
「家康がしばらく休息した」説と、「洲沢が変化して寸座になった」説もある。

●切符
西鹿島と掛川を除く各駅員配置駅で社線内の硬券乗車券を発売している。
日本交通印刷製A型、青地紋の様式。
また、戸綿・気賀などでは準常備式の乗車券もある。
仕様はおなじくA型の青地紋。
原谷駅には日付印字器


●木造駅舎 天竜二俣駅


車両基地もある駅。
島式ホーム2面、1線分は使用せずにトロッコ型遊具が置いてある。
もう使われなくなった腕木式信号機も展示されている。


●姫街道
気賀駅と気賀高校駅の間に、お姫様がカゴに乗っているデザインの橋がある。
R362は別名・姫街道と呼ばれている。


奈良時代は「二見道」、近世になると「東海道本坂通」と称された重要な脇街道で、江戸時代末期から姫街道と呼ばれた。
見附宿から入り浜名湖北岸を迂回し御油宿に至る、およそ十五里十町(約60km)の道のり、「もうひとつの東海道」とも云われている。
将軍の上洛にも使用され幕府公認の街道でもあった。
宝永四年(1707)の大地震による津波で東海道の「今切の渡し」が崩壊し、参勤交代の諸大名や旅人が本坂通(姫街道)に殺到した。
「今切の渡し」が復興しても、本坂通(姫街道)の通行は減らず宿は人馬継立てに難渋し時の道中奉行に「本坂通通行差止め願い」を申し出た。
同時に通行が減少してしまった東海道筋の吉田、二川、白須賀、新居関、舞坂、浜松宿も本坂通通行禁止の訴えを起こすと言う珍しい現象を引き起こした。

【由来】
本坂通は江戸末期、「姫街道」と呼ばれるようになった。
「今切の渡し」の「今切(いまぎれ)」が女性にとって「縁切れ」という不吉を連想させ、その上新居関所の「女改め」が厳しいところから「今切」を避け、峠道に向かわせた。
八代将軍吉宗の母浄円院、伏見宮家の息女、公家近衛家や尾張徳川家の姫君などが通行したところから、いつの頃から「姫街道」と呼ばれるようになった。
もう1説は、東海道が整備されると、本坂通は徐々に「ひなびた」状況になり、「ひねた街道」と呼ばれるようになり、響きの良い「姫街道」に転化したとするもの。

↑街道沿い、常夜燈を納めた鞘堂



●天竜二俣駅 秋野不矩美術館


靴を脱いで入ると滑らかでひんやりとした大理石の床の上で作品を静かに眺めることが出来る。
インドの大地から溢れ出した洪水を渡ろうとする水牛の姿が印象的な不矩の代表作『渡河』と、長さ12メートル、高さ7メートルの巨大な寺院のパノラマが描かれた『オリッサの寺院』が飾られている。
不矩は岩絵の具(岩や鉱物を砕き粉末状にしたものに膠を加える。)に対して独特の感性を持っていた。
なめらかな絵肌で優美に描く日本画の伝統には飽き足らず、目の粗い岩絵の具に深い愛着を抱き、油絵のように厚く、強く、激しく描いた。
明治41年生まれの不矩は画家であり、6人の子を育てた母であり、日本画家の沢宏靭の妻でもあった。
人生が大きく変わったのは50歳の時。26年間連れ添った夫と離婚した。
その3年後、当時京都市立美術大学で日本画を教えていた不矩、仏教美術専攻の教師から「日本画の先生でインドの大学に行く方はいないか」と聞かれた際、即座にインド行きを決断した。
インド・西ベンガル州の農村地帯にインドの国民的詩人であるタゴールが創立した大学で、不矩は1年間絵を教えることとなった。
創設者タゴール自身の絵に不矩は深い感銘を受けた。
それは、不思議な世界、時代を超えた抽象、幻想、魂と直結した深い生命力。
日本画の授業は木陰で、不矩は生徒たちの前で黙々と絵を描いた。
困ったのは生徒たちが使う岩絵の具、現地では化学染料か水彩絵の具ばかりで鉱物を粉末にしたものは売られていなかった。
しかし岩絵の具は無尽蔵にあった。
インドの赤や黄色の土に膠を混ぜれば見事な岩絵の具になった。
不矩は大地が生み出す色を発見していった。
求め続けてきた世界が、目の前にあった。
裸のままの本当の色。不矩にとっての約束の地・インドは岩絵の具の大地だった。
1年に及ぶインド滞在を終えた不矩は精力的に作品を発表。
インドの大地に出会い、不矩の世界は開花した。
独特のマチエールは自由を得て、広大な大地へと広がっていった。
53歳でインドに出会った不矩は、その後、取りつかれたようにインドに渡った。
不矩はスケッチをしながら旅を続けた。
いつしか1つの言葉が口癖になっていた。
「インドで死んでも、探さないでちょうだい。それが、本望なんだから。」
ある光景を目にしたのは、83歳の時のインドの旅。
雨季の洪水の河を水牛の群れが渡る姿を目撃した。
世界を呑み込もうとする泥の河。その濁流を行く水牛たちの群れ。
何故、彼らは生死を賭けるのか?大自然の過酷な力に抗い、流されまいとせめぎ合う命。不矩の代表作『渡河』はこうして生まれた。


不矩はそのモチーフを繰り返し描いた。
研ぎ澄まされ、純化されてまるで抽象画の境地にまで高められていった。
長い間広く知られていなかった不矩の存在だったが、東京で84歳の時に開いた『渡河』を含む個展によって注目を浴びた。
平成3年にインドの民家をスケッチした建物がある。
翌年に不矩はこの民家そっくりの建物に日本で出会うことになる。
それは長野・茅野にある、諏訪大社の祭祀を代々司ってきた、神長官守矢家の資料館。
泥壁に黒い板、そして石の屋根。まさにインドの古い民家のようだった。
建築家は藤森照信、その建物は建築家として初めて手掛けた作品だった。
不矩は美術館の設計を彼に委ねようと即決。
数奇な運命で画家と建築家が引き寄せられ、裸の美術館建築が始まった。
秋野不矩美術館の設計を依頼された藤森のプランは全世界を見渡しても何処にもないような建築計画だったが候補地を歩く不矩は反応がよくない。
山の谷間の湿っぽい鬱蒼とした繁みを歩いた時、「わたし、こんな所に埋められたくない」という思いがけない不矩の言葉が藤森の耳に入る。
秋野不矩という画家の本質を知って藤森は愕然とした。
日本画家でありながら、花鳥風月が嫌いなのだ。
湿気を含んだ日本画の風土とは別の世界の人だ、と。
太陽の光、強烈な光が必要だった。
こうして、秋野不矩美術館は当初の天竜市の東山山麓の谷間から、市郊外の羽鳥山に建築が決まった。
藤森は美術館のメインホールの広い壁に『渡河』をと考え、広い空間をとっていた。
しかし、90歳の不矩は何も知らせず、京都・美山町のアトリエで途方もない新作を描いていた。
不矩の『オリッサの寺院』である。
長さ12メートル、高さ7メートルの寺院のパノラマ。
金箔の彩色で描かれた強烈な日差し。
砂に削られ、磨かれ、何千年と建ち続けてきた寺院は命を宿しているかのよう。
砂漠で見た幻のように。
日本画から遠く遥かな地平へ辿り着いた不矩の世界。
人も、生き物も、全て砂塵となって大地に還元されていく。
その乾ききった世界に最後に残る祈りの風景。
美術館完成から3年後の平成13年、93歳で逝去した秋野不矩。
不矩の美術館は石と木と泥で出来た何の虚飾も無い裸の美術館。
まるで、画家の肖像のように佇んでいる。
空に近い日当たりのいい場所に。

↑『オリッサの寺院』

●遠州森駅 大洞院
寺の一角に、森の石松の墓がある。
【森の石松】
三河の生まれ、代々名乗った庄屋も勤めたことのある家柄であったが、石松の父の代に没落し、父親は幼い石松を連れ森町に流れてきた。
ある日神社の祭礼の日雑踏の中で幼い石松は迷子になった。
その頃、秋葉街道一帯に縄張りを持ち、遠近に侠名をはせてた森の五郎親分に迷子の石松は運よく拾われ少年時代を森町で過ごした。
その後、清水次郎長と親交のあった五郎親分は18歳になった石松を次郎長親分の下に預け子分となった。
後に石松は次郎長の下で腕を上げ石松、大政、小政、仙右衛門は次郎長子分の四天王と呼ばれ、その中の一人として仲間からも愛され、また次郎長には子供のように可愛がられた。
ある日次郎長は恩を仇で返した八尾ヶ嶽の久六を仕留めた刀を讃岐の金毘羅宮に奉納を思い立ちこの代参の役目を石松に頼んだ。この代参まいりの帰りに都田村(現浜松市都田)の都鳥吉兵衛兄弟にだまし討ちに会い悲惨の最後を遂げた。万延元(1860)年6月17日であった。
石松は、極めて正直、単純な性格であったが、正義を尊び、不義背徳を憎み、横暴な権力に反抗し、常に弱者の味方であった。当時の侠客社会にあっても稀にみる快男児であったと言われる。


●扇型車庫
登録有形文化財。
転車台とともに、蒸気機関車時代からいままで使われ続けている。


電車佐賀県 浜野浦電車
佐賀県北西部、玄海町。
玄界灘に面した西部は美しいリアス式海岸が続き、山間部は小高い山が連なる丘陵性台地となっている。
対馬暖流の影響で気候は穏やか。
玄界灘は古くから豊かな漁場として名高い。
最近では鯛やハマチの養殖も注目されている。
水はけがよい土壌の特性を生かし、イチゴやキンショウメロン、ハウスミカンなどの果実作りも盛ん。


浜野浦の棚田は、「日本の棚田百選」の1つ。
戦国時代から江戸時代にかけて山を切り開いて作られた入り江の傾斜に、大小283の棚田が連なる。
夕暮れの時間帯は水田と海面がオレンジ色に染まり、美しい景観が広がる。
日没を迎えると、コバルト色のヴェールが天頂からゆっくりと降りてきて、空は群青色から濃紺へと色を深めてゆく。
急峻な斜面を切り開き、石を積み上げ1段1段築かれた棚田。
浜野浦の棚田の平均勾配は1/7。
一般的に平均勾配が1/20以上の水田を棚田と呼ぶので、かなりの急勾配。

沖縄県 久米島
昭和58年、奥武島と久米島を結ぶ橋が架けられる前、久米島の子供達は奥武島の学校へ通う際に竹馬を使ったという。


干潮時に姿を現すシールガチ橋、平成8年に造られた。
この先は、久米島が誇る『はての浜』の北側にあるリーフ(満潮時は水没)へと続いている。
陸地からは遠浅の海が続き、干潮時には干潟になる。
その先でリーフにつながり、歩いて広範囲に海産物などを採っていた。
しかし一方、船は満潮時にしかこの部分を横切れず不便を強いられていた。
そこで水路を掘り、干潮時でも安全に船が行き来できるようにした。
同時に、歩いてリーフまで歩いて行けるよう、この『シールガチ橋』が架けられた。


オニダルマオコゼ、沖縄のリーフではアンボイナ(イモガイの仲間)同様恐れられている生物。
岩や海草に擬態して海底でジツとしているので見分けが付き難く、誤って踏みつけると、背鰭の毒針に刺されて七転八倒、阿鼻叫喚の生き地獄を味わう羽目になる。
この魚1匹で体重20gのマウスを殺せる匹数は11800〜26000匹だという。
人の死亡例もある大変危険な魚でもある。
しかし地元では食用とされており、美味しいらしい・・・


石川県 輪島 白米千枚田


畦に泥をかけ、毎年手作り。
300年以上前に開墾されたが、現在は後継者不足による存亡の危機に瀕しており、全国からボランティアやオーナーを募集し、美しい千枚田を守っている。
オーナーの中には小泉元総理の名前も・・・


兵庫県神戸市 須磨アルプス
ハイキングコースの途中に、険しい岩場が多数ある。
“馬の背”は花崗岩が風化して出来た岩尾根で、馬の背骨のように細いことから馬の背と呼ばれている。


佐賀県 川副町
それまで海に浮かんでいた船を座礁させ、潮干狩り。
有明海は日本一の干満差。


和歌山県 伊都郡高野口町
木造校舎、高野口小学校。
昭和12年に建てられた、優れた学校建築。
小学校の周囲には低い石垣と生垣がぐるりと廻らされ、門柱の向こうに見える式台構えの様な重厚な玄関や、瓦葺の校舎は、江戸時代の藩校のような品格を備えている。


しかし一歩内部に踏み込むと、天井は高く、長さ80mにも及ぶ長大な校舎は大きなガラス窓によって照らされ、翼廊と渡り廊下に囲まれた中庭には生徒達が育てた花が咲き、明るく開放的な空間となっている。
建物には主に桧材を用い、柱を一間毎に建てる堅牢な造りで、柱の総数は500本にも上り、小屋組にも一間毎にトラスを配し、間を筋交いや火打ちで繋いでいる。
壁には筋交いを入れ、基礎は教室毎に布基礎を回すなど、構造的にも大変しっかりした造り。
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旅したいな14
電車愛媛県 久万高原町 岩屋寺デジカメ


四国霊場第45番札所、岩屋寺は断崖絶壁に囲まれた標高581mにある。
遍路の難所。
断崖に仏像があり、住職も間近で見たことがない。
1689年に書かれた『四国遍礼霊場記』に仏像の記録がある。
その中の断崖の梯子がかけられた部分には仙人窟と呼ばれる建物があり、その上に仏像の姿と阿弥陀の文字が書かれている。
さらに仏像は人が簡単には近寄れない場所に祀られていることから、「飛来たるがゆえに飛来の仏という」と記されている。


岩屋寺はまさしく「窟(いわや)寺」であった。三三の峰に四九の窟があるという。
「岩のすがた龍蟠(わだかま)り虎鋸(うづくま)るごとし。奇怪いふにやは及ぶ」
『四国遍礼霊場記』(江戸時代、高野山の寂本という学僧が書いた書物)
「石壁の百丈(約300メートル)ばかり高きが上は後光のごとし」
『四国遍路日記』(江戸時代、澄禅という僧が書いた書物)


【略縁起】
標高約700メートル、巨岩の中腹に堂宇がたたずむ山岳霊場。
弘法大師は弘仁6年(815)にこの地を訪れたとされている。
すでに土佐の女性が岩窟にこもるなどして神通力を身につけ、「法華仙人」と称していたが、大師に厚く帰依して全山を献上したという。
大師は木造と石造の不動明王を刻み、木像は本尊として本堂に、石像は奥の院の秘仏として岩窟にまつり、護摩修法を行った。像や護摩炉壇、仙人堂などは13世紀末ごろまではそのまま残っていたと伝えられる。
『一遍聖絵』には、鎌倉時代の一遍上人がこの地で修行したことが描かれている。
いつからか第44番大寶寺の奥の院とされていたが、明治7年(1874)に第1世の住職が就いた。
同31年には仁王門と虚空蔵堂(こくうぞうどう)を除く全山を焼失したが、大正9年(1920)に大師堂を再建。
昭和に入って本堂や山門、鐘楼を順次復興し、その後も宿坊などが建立された。

電車愛媛県 宇和海 戸島デジカメ


人より猫の数が多い猫島。
ネズミが大発生し、駆除のために役場が持ってきたネコ。
椋鳩十が書いた『ネズミ島物語』は、宇和海で昭和24年に起きたネズミ騒動を題材にした小説。
ネズミ対策に奔走する主人公大久保のモデルは実在すると後書に書かれている。
それは当時愛媛県宇和島事務所に勤めていた久保田さん。
別名「ネズミ課長」。
ネズミとの闘いはおよそ10年間に渡るものだった。
まず試みたのは殺ネズミ剤を餌に混ぜることだったが、ネズミの死体から伝染病が発生する危険があり中止。
続いて導入したのがネズミの天敵、西洋イタチ(フィレット)だった。
しかし水が少ない島では次々死んでしまった。
最後にたどり着いたのが猫作戦。
当時人口2500ほどの戸島に送り込んだ猫の数は300匹以上。
島に猫を送るその日、久保田さんは猫たちに激励文を読み上げた。
昭和36年(1961)6/12、猫の壮行会。
残念ながら猫は港にある魚などを食べてしまいネズミ対策の決定打とはならなかった。
その後ネズミは自然に減り、猫の姿ばかり目にするようになった。

電車愛媛県 今治市 大三島デジカメ
バス停「トンネル下」…しかしトンネルはない。
昔は天井川の下がトンネルだった。
15年ほど前河川改修工事で取り壊された。

電車愛媛県 松山市 51番札所・石手寺デジカメ


領主河野伊予守息利の長子息方は衛門三郎の生まれ変わりといわれ、出生後三歳まで、弘法大師筆の「衛門三郎再来」とか書かれた小石を左手に握っていたと伝えられ、その小石が今も寺宝として残っている。

『衛門三郎縁起 』
昔伊予の国浮穴郡荏原の郷に「衛門三郎」という非常に慾の深い長者がいた。
ある日門前に一人のみすぼらしい托鉢の僧が訪れたが衛門三郎はこの僧が弘法大師である事も知らず僧の持っていた托鉢をとりあげて投げ捨ててしまった。
ところがその後八人の男の子がことごとく死んでしまった。
これには強欲非常な衛門三郎も恐ろしくなり、邪見をひるがえし、家をすて身を忘れて四国巡拝に旅立った。
然しいくら四国をまわっても大師にお会いする事が出来ず遂に二十一回目天町八年阿波の国焼山寺の麓で病に倒れ明日をも知れぬ身となった。
その時突然弘法大師が枕元に現れ彼の手に一寸八分の石に衛門三郎と刻み授けると衛門三郎も安心して息を引き取った。
この衛門三郎の生まれ変わりが河野息利の長子、河野息方と言われている。

参道を抜け、仁王門をくぐって、左の鐘楼前にある与謝野晶子の歌碑。
「伊予の秋 石手の寺の 香盤に 海のいろして 立つ煙かな  晶子」

「道後なる 湯の大神(おおかみ)の御社(みやしろ)の もとにぬる(寝る)夜と なりにけるかな」与謝野晶子 鮒屋旅館にて

大師堂は別名「落書き堂」とも言われ、古くから落書きが絶えない。
夏目漱石と正岡子規もあるというが…
夏目漱石と正岡子規は旧制第1高等中学校の同級生だった。
漱石は学生時代に子規を訪ね松山を訪れた。
その時落書きを残したのかもしれない。
言い伝えによると江戸時代に落書きの習慣ができたと言われている。
寺では落書きが後を絶たないため落書き用の板をはるなど対策をしてきた。
板の奥を覗くと古い落書きがびっしりとある。
寺の許可を得て板をはずして調査すると、現れたのは昭和30年代後半から40年代に書かれた落書き。
昭和36年ごろ壁は塗り替えられた。
赤外線カメラ(遺跡から出土した木製の板にある消えかかった墨の文字を読み取るために使われる。薄い紙や布、ペンキなら透視することができる。)を使い塗り替えられた壁の下を調査したが2人の落書きは見つからなかった。

電車イタリア Umbriaデジカメ
●Teatro della Concordiaは、小さな小さな村にある小さな小さな劇場。



劇場があるのはペルージャから南に40kmほどのところにある村Monte Castello di Vibio。
はこの村の住民の言葉では「世界一小さな劇場」。
劇場を訪れる観光客は劇場の運営をサポートするボランティア団体、Teatro della Concordia協会の人による無料のツアーが体験できる。


常にこの時間を示す時計。


●Norcia


美味しいサラミとトリュフの町。
ヨーロッパの守護聖人サン・ベネデットが生まれた町。
ノルチーノ・ノルチャ人 という言葉には、豚肉製品を作る人の他に、大きく外科医者の意味。
そして、18世紀までヨーロッパ中で大歓迎されていたボーイ・ソプラノの声を持つカストラートの手術者の意味をも含んでいる。       



↑ベネデット派の僧侶
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旅したいな13
電車茨城県 霞ヶ浦デジカメ


●水辺の自然再生仕掛け人、飯島博さん(1956年生れ)(NPO法人 アサザ基金 代表理事)。
1995年に始まった霞ヶ浦再生事業「アサザプロジェクト」(市民型公共事業)は、湖岸植生帯の復元、放棄水田を生かした水質浄化、水源の山林の保全などを、環境教育や保全生態学の先端研究と一体化しながら流域全体で展開。
アサザプロジェクトの中心に有るのは協働の「場」であり、緩やかなネットワークを通じて各主体が自らの目的を達成することで、環境保全が内部目的化される仕組みになっている。
21世紀は「人格の時代」、ひとりひとりの自主的主体的な行動なくして、今日の環境問題は解決できない。
飯島さんはIT技術を通して、個々の人格が機能する中心のないグローバルなネットワークの構築を目指し、目標は循環型社会と世界平和。

●以前は霞ヶ浦でワカサギの漁をするときに使われていた帆曳舟、いまは観光用に出帆。
坂本九さんの祖父である坂本金吉は、霞ヶ浦の帆曳漁(帆引き船による流し網漁)を八郎潟に伝えた人。
金吉は、背も高く、頭も良く、二十代にして明治天皇の近衛兵も務めたと伝えられている。
金吉の職業は、父親から引き継ぐ五十集屋(いさばや)、つまり魚の加工と行商を生業(なりわい)としていた。
ある時、宇都宮(栃木県宇都宮市)へ行商に行った際に八郎潟の情報を耳にし、エビを獲るための仕掛けを持って、試しに八郎潟に出向く。
すると噂通りに魚がたくさんいることから、明治30年代に妻のはま、長男の寛(坂本九氏の父)、長女のちよを連れて霞ケ浦から八郎潟へ移住した。
秋田では うたせ舟と呼ばれた。
八郎潟の「うたせ舟」は、干拓前の八郎潟でワカサギやシラウオをとる底引き網漁に使われていた。
大正から昭和にかけて約100隻のうたせ舟が八郎潟を往来していたが、八郎潟の干拓工事が始まった昭和32年頃を境に次々と姿を消していった。


電車千葉県 館山デジカメ


●館山野鳥の森
「春告げの鳥」ウグイス。
館山野鳥の森は、黒潮が洗う房総半島の最南端、南房総国定公園のほぼ中央に位置する。
南から渡ってきた鳥達が最初に羽根を休め、また南へ旅立ってゆく鳥達が最後に休息する森で、1年を通じて様々な野鳥の姿を見ることができる。
特別鳥獣保護区に指定されており、自然のままの環境が守られている。
森の中には探鳥道が設けられており、バードウォッチングを楽しめる。
ふれあい野鳥館で双眼鏡を無料で貸してくれる。


ウグイス色なので時にウグイスに間違われることもあるメジロは目の周りが白く、愛嬌のある顔。
「高音吹き」と言い、美しい声でさえずる。
昔の人には「長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛」と聞こえたそうだ。
ホオジロのさえずりは、「一筆啓上仕り候」と聞こえてくる。
鳥の声、木々のざわめき、沢の水音、春の森は実ににぎやか。
自然の音のハーモニーは気持ちを穏やかにし、癒してくれる。

●館山の秋の風物詩「南総里見まつり」
甲冑を着た戦国武将達が、館山市内を練り歩く。
戦国時代、「安房国」を治めていた房総里見氏。
館山城は天正19年(1591年)に里見義康公が現在の城山公園に築城され、 その子忠義が慶長19年(1614年)に倉吉に移されるまでの24年間、里見氏の本拠地となった。
現在、城山公園の山頂に八犬伝博物館として蘇っている。
このお城は港を中心とした城下町づくりの中心ともなり、地名の「館山」は元来この城山のことをさした。
江戸時代の伝奇小説、曲亭(滝沢)馬琴作『南総里見八犬伝』の物語の舞台になった館山市。
祭当日「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の玉を持った八犬士が日本各地から館山に集結し、 武者行列に参加する。


犬江親兵衛仁(いぬえしんべえ まさし)
仁:儒教の根本理念で自他のへだてをおかず、一切のものに親しみなさけ深くあること。
  愛情を他におよぼすこと。いつくしみ。おもいやり。

犬川荘助義任(いぬかわそうすけ よしとう)
義:道理。人間として行うべきすじみち。
  利害をすて、条理にしたがって人のためにつくすこと。


犬村大角礼儀(いぬむらだいかく まさのり)
礼:人の行うべき道。
  社会の秩序を保つための生活上の定まった形式。
  敬意をもって、きまりにしたがうこと。うやまっておじぎをすること。

犬坂毛野胤智(いぬさかけの たねとも)
智:物事をよく理解しわきまえていること。
  かしこいこと。是非を判断する心の作用。ちえ。


犬山道節忠与(いぬやまどうせつ ただとも)
忠:真心をつくして忠実なこと。まめやか。
  主君に対して、臣下としての真心をつくすこと。

犬飼現八信道(いぬかいげんぱち のぶみち)
信:欺かないこと。言をたがえぬこと。
  思い込んでうたがわないこと。信用すること。帰依すること。


犬塚信乃戌孝(いぬづかしの もりたか)
孝:父母によく仕えること。父母を大切にする。

犬田小文吾悌順(いぬたこぶんご やすより)
悌:よく兄または長者(年長者など)につかえて柔順なこと。
  弟または長幼間の情誼の厚いこと


『南総里見八犬伝』の主題は、「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)・因果応報(いんがおうほう)」にある。
悲劇の最期を遂げた里見氏をはじめ安房地方の善良なる人々などをとりあげて、馬琴の意のままに大活躍させる爽快な小説。
物語は、結城の戦いに敗れた若武者里見義実(よしざね)が、安房へ落ち延びる場面からはじまる。
やがて安房国滝田の城主になった義実は、隣国の館山城主安西景連(かげつら)の攻撃にあった。
愛犬八房の働きによって敵将景連は討ち取ったものの、その功績で八房は伏姫(ふせひめ)を連れて富山の洞窟にこもった。
姫を取り戻しにきた許婚の金碗大輔(かなまりだいすけ)は、鉄砲で八房を撃ち殺すが、伏姫にも傷を負わせてしまう。
八房の気を感じて懐妊してしまっていた伏姫は、身の純潔を証するため、大輔と父義実が見守るなか、自害してしまった。
このとき、伏姫が幼い頃に役の行者(えんのぎょうじゃ)から授かっていた護身の数珠から八つの玉が飛び散った。
この玉が八方へ飛んで、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉を持つ八犬士が登場してくることになる。
こののち、金碗大輔は出家してゝ大(ちゅだい)法師となり、飛び散った八つの玉の行方をもとめて旅に出る。伏姫の子供ともいえる八犬士たちは、それぞれ思いがけないところで出会い、はなばなしく活躍する。
八犬士たちとめぐり会ったゝ大法師こと金碗大輔は、二十数年ぶりに八人を里見義実のもとへ連れ帰った。
里見家の家臣として里見家の危難を救った八犬士は、義実の八人の孫娘をそれぞれ娶る。
その後、子どもたちに家督を譲ってからは、富山の山中へ姿をかくして仙人になったという。


●戦争遺跡 赤山地下壕
海上自衛隊館山基地(館空)のすぐ南側に標高60メートルの「赤山」と呼ばれる小高い山がある。
凝灰岩質砂岩などからできた岩山の中には、総延長2キロメートル近くの地下壕(要塞)跡と、巨大な燃料タンク基地跡などが残っている。
基地の建設のときに十分な地質調査をし、その後海軍の専門工作部隊によって建設された地下壕と思われる。
大部分は素掘りのままであり、今でもツルハシの跡が鮮やかに残っている。
証言によると、地下壕は1930年代半ば頃から極秘で建設され、掘った土砂は海岸の埋め立てに運ばれたという。
完成した地下施設から随時使用されていたようで、15年戦争の中で実戦用として使われたとすると、全国でも大変珍しい地下施設である。
今のところ記録はほとんど残されていらず、証言も極めて少ないが、「館空」関係者や住民の証言から推測すると、地上にある航空基地の軍事機能の一部を地下壕に持たせていたのではないか。
また、「館空」基地やその周辺の防空砲台を指揮したり、航空戦略の戦闘指揮所の役割をも持っていたとすると、地下航空要塞的な機能があったのではないかと思われる。
地下壕内部の形状から見ても、基地の司令部・戦闘指揮所・兵舎・病院・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫などの施設があったといわれる。


●鶴谷八幡宮例大祭(安房国司祭) やわたんまち
毎年9月(敬老の日の前日・前々日)に行われるこのお祭りは、中古の国司祭が今日まで続いているものであり、千余年の伝統を誇る南房総最大級のお祭り。
近在の神社から10基の神輿が、また5地区から人形山車4台、お船1台が町中を練る。
初日正午、山車・お船は北条河岸付近に集まり合同巡行、午後3時ごろ神明神社に立ち寄る。
神輿は午後、鶴谷八幡宮に集まりお仮屋にて一夜を過ごす。
二日目、館山消防署前に集合した山車・お船が八幡宮へ向かう。
境内では全ての山車が宮入する午後3時ごろ、祭典が行われ、その後館山駅方面へ。
山車が退出した境内では、10社の神輿がモミ・サシを繰り返し、それぞれの神社に還御する。
一方、山車・お船は夕方6時半ごろ駅前に整列、最後の囃子の競演が行われる。


電車徳島県三好市 祖谷 かずら橋デジカメ


材料:しらくちかずら
太いものや撚り合わせたものは、敷綱や雲綱に用い、細いものはもついづな(編むための綱)や化粧(体裁よく見せるためのもの)として用いられる。

さな木: かずら橋の橋床に敷く木片。
杉や雑木などの曲がりにくいものが良い。
長さ7尺(2.1m)程度、直径2〜3寸(6cm〜9cm)程度の丸太、またはこれに相当する割木など。

とり木:かずら橋の幅や、欄干(壁)を決定する、両岸の左右にある木材。
「横木」や「かさ木」と共に「とりい」を構成する。
長さは1間半(2.7m)位である。普通、堅くて腐りにくい栗材か用いられる。

横木とかさ木:かずら橋の両岸に作る「とりい」の上と下とに横たえる木で上方を「かさ木」といい、下方を「横木」という。
かさ木は「とり木」を支え、横木は5本の敷綱を支える。いずれも周囲3尺(91cm)内外の固くて丈夫な木材である。栗材がよく使われる。

ふち木:橋のたもとから、それぞれ橋の両側にそれぞれ2本ずつ出ている腕木ともいうべきもので、このふち木によってある程度橋を吊り下げ橋の揺れをも防止する。
長さ4間(7.2m)直径5寸(15cm)位の杉の木が使われる。

架け替えの世話人「橋もと」:祖谷のかずら橋の架け替えはその昔、部落民全員の仕事であった。
この架け替えの世話人を「橋もと」といった。
日うらの2部落(善徳東・善徳西)と、陰の3部落(今久保・中尾・閑定)に、それぞれ一人ずつ、合計5人の橋もとがいた。
その橋もとたちが相談し日取りや材料の負担額を決定して、部落の総代である十人組の人々に連絡し、その十人組が部落民たちに知らせに回った。
隣家から隣家へ大声で知らせる「触れる」という方法であった。
橋もとは、架け替えの工事の世話と総指揮を行なう代償として、部落の共有地である百人山の下草刈りと、架け替えられた旧橋の古材を取得する権利を独占した。
架け替えは、11月の下旬から12月にかけて行なわれた。
農閑期に人っているし、大雪もまだ降らず、広葉樹が落葉してかずらを採集しやすいからてある。
現在は、村当局から地元の架設経験者にかけ替えを依頼し、5〜6人の経験者が請負っている。
橋もとたちは架け替えに先立ち、その日取りやかずらの所要量などを相談する。
設計図を広げ、昔の景観をそのままに、より丈夫で安全な橋の設計を話し合う。

かずらたち:架け替えに先立って、かずら橋の主材料となるかずらを採集することを「かずらたち」という。
昔は、かずらたちの日取りが「触れ」られると、全戸総出で5〜10人位のグループになって、朝早くから出かけて行った。
日うらの者は、橋とこ(橋畔)から2里半も離れた中津や寒峰などの朝日の当たる場所へ行き、陰の者はl里半位離れた熊谷まで出かけたそうである。
筒袖のじゅばんにタツツケ姿(膝から下をきゃはんのように仕立てた袴)で腰には柄鎌をさし、小さい「のこ(鋸)」をつり、中には「ねそ(棕櫚縄製の綱)」を腰に付けている者もいた。
雲綱や敷綱になるような太くて長いかずらを裁ってきた者には、一人につき2〜3人分の報酬が与えられた。
現在ではかずらが不足しており、架け替えごとに山の奥深く踏み入れなければ得られなくなってきた。
かずらたちは、2週間ほど続けられ、細いかずらや太いかずら、それぞれの用途に合わせ必要量を採集する。大きなかずらであれば、1本のかずらに5〜6人が総がかり。
根本の方から力の限りに引っ張る。採ったばかりのかずらはまだ柔らかいので、ぐるぐると巻いて束ね、背中に背負って下山する。

綱揃えとさな木の持ち奇り:採集してきたかずらを一か所に集めて、用途に応じて仕分することを「綱揃え」という。
また、このとき同時に「さな木」にする丸太を用意する。
さな木は全部で200本ほど必要である。
昔は、各戸で1本ずつ持ち寄って集めた。

かずら焼き:採取してきたかずらを橋の材料とする前に、かずらを焼く作業が行なわれる。
かずらは熱すると、どんなに太いものでも柔らかくなって自由に曲げられるという性質がある。
また焼くことによって害虫を防ぎ、風雨にさらされても朽ちにくくなる。
焚火でほどよく焼いたかずらは何重もの輪にし、一方を固定した丸太に掛け、もう一方を短い丸太に掛けて引っ張り、よじり、また引っ張る。
この力仕事によって自然のままのかずらは、屈曲自在で強靭な天然口一プに変身するのである。

【かずら橋架設】
古橋落し:まず「雲綱」を切り落とす。
太く長い雲綱は橋下の川面へと落ちていく。
次に橋の欄干部分の「壁綱」を取り外す。
橋床の部分だけが残った橋は、中央で5本の「敷綱」が切断される。
2〜3人ずつの2グループとなり、橋の中央から両側に向かって「さなぎ」と「敷綱」、その両者を縛り付けていたかずらを柄鎌やなたで取り外していく。
両岸までたどり着けば5本のワイヤーロープとそれを固定するコンクリート製の「よこ木」だけが残り、古橋落しは完了する。
この作業には、綱揃えの後の半日を要する。
昔は、雲綱やふち木吊りのかずらを取り払った後、橋の両端で一時に敷綱を切ったので、かずら橋は祖谷川の渓流に音を立てて一挙に崩れ落ちた。
その眺望は、あたかも奈落の底へ落ちるが如く凄じいものであったらしい。

烏居作り:両岸に生育している杉や樫の木を利用して鳥居を作る。
鳥居は、敷綱や壁綱を支える重要な役目をする。形が鳥居のように見えるから、この名がつけられたのであろう。
5本のワイヤーを固定している「よこ木」に垂直となるように2本の「とり木」(長さ約2.7m)を設置する。
しかも、その2本の「とり木」の間隔は橋幅を決定し、5本のワイヤーの固定位置の総間隔でもある。2本の「とり木」の上方は「かさ木」(長さ約5.5m)が支え、その「かさ木」は両岸の生育している2本の木に支えられる。
「とり木」と「かさ木」が、「かさ木」と生木が交差する箇所は、X字型に何重にもかずらを巻いて固定する。

壁のワイヤー張り:橋の欄干となる部分を「壁」という。
「壁」も「敷綱」と同じく、橋を渡る時に重量がかかる部分なので、土台となるワイヤーを張る。
一方の岸の「とり木」からもう一方の岸の「とり木」ヘと、上下2本のワイヤーが渡される。左右で合計4本のワイヤーが張られることになる。

璧のワイヤーの固定:壁に頼って橋を渡る場合、より安全に渡るためには「壁」と橋床を固定する必要がある。
つまり、左右の「壁」の上下2本のワイヤーと、橋床の5本のうちの両端のワイヤーとを針金で固定する。
これによって敷綱と壁の接着が安定し、橋床をはさんで強固な欄干の土台か出来上がる。

敷綱張りと壁綱張り:「敷綱張り」は丈夫で太い50mほどの長さのかずらを、5本のワイヤーに沿わせて対岸に渡す。
この作業にはウィンチを用いる。ワイヤー相互の間隔は約1.8mである。
昔は1本で両岸を結ぶほどの大きいかずらが多く採集できたが、現在ではかずらが不足しており、細いかずらを2〜3本撚り合わせて使用している。
50mもの綱を編むのは総がかりの力仕事である。
これを5本編む作業には、まる1日を要する。
「敷綱張り」は「敷綱はわし」ともいう。
橋梁たちがかけ声を合わせて長い敷綱を運ぶ情景には、かずら橋架設の火蓋が切って落されたという緊張感がある。
「壁綱張り」も敷綱と同じように編んだかずらをワイヤーに沿わせていく。
下方のワイヤーには1本のかずらを沿わせるが、上方のワイヤーには2本のかずらでワイヤーをはさむようにして沿わせていく。
上方の壁綱を「うわでとり」、下方を「なかでとり」という。これらには丈夫なかずらを用いる。
また4の壁のワイヤーを固定している針金にもそれを隠すようにかずらを取り付けていく。

さなぎ編み:かずら橋の橋床は「敷綱」と、その上に置かれる「さな木」とで作られる。
「さな木」は、曲がりの少ない雑木を用いる。
上になる方を削って歩きやすくし、また大きすぎるものは二つ割にして用いる。全部で200本程度を要する。
「さな木編み」の作業は、両側から中央に向かって進められる。
5本の敷綱に「さな木」を20cm〜25cmの間隔で置いて、かずらでくくり付けていく。
この時のかずらは、採取してきた中で最も細いものを、火で焙ってよくしごき柔らかくしてから用いる。
「さな木」を「敷綱」にくくり付けるには、交差部を下図のようにかずらで編み付けていく。
手元のかずらをさな木の上にはわせていって向う側の敷綱の下をくぐらせ、再びさな木の上をはわせて手前に引き寄せる。
そこで、敷綱と手元からのかずらを巻いて締める。その後、今編み付けたさな木の下をくぐらせて次のさな木の編み付けにかかる。かずらの続く限り繰り返し、途中でかずらが足らなくなったら継ぎ足す。
短くなったかずらに次のかずらを撚り合わせ、その撚った部分を、継ぎ足したかずらで巻いて締めるようにして固定しながら「さな木編み」を続けていく。

壁もつい:「壁」を「編む(=もつう)」ことを「壁もつい」という。
上段は、壁の「うわでとり」と「したでとり」の間を、細いかずら(もついづな)で、一方の岸からもう一方の岸へと体裁よく編んでいく。
下段も「なかでとり」と1番外側の敷綱との間を同じように編んでいく。
上段は、「なかでとり」と4の壁のワイヤーを固定した針金との交差部から、その上方の「うわでとり」ヘとジグザグに編んでいく。
下段は、上段と対称になるように、「なかでとり」と4の壁のワイヤーを固定した針金との交差部から、その下方の敷綱へと、ジグザグに編んでいく。編み上がると、「もついづな」が菱形を形作るような格好になる。

ふち木吊り:「さなぎ編み」と「壁もつい」まで終えると、吊橋としての基本的な形が一応整えられたことになるが、これだけではあまりにも揺れやすく危険である。
そのため補強用に、ふち木と雲綱が付け加えられる。
「ふち木」は、橋のたもとから突き出されて橋を約30度の角度で吊り上げ、橋の動揺を防ぐ。ふち木の根本は土に埋める。両岸にそれぞれ2本ずつ、計4本の大きな丸太が用いられ、およそ1日の作業である。

ちり木の取り付け:「ふち木」を吊り上げるために、左右のふち木の上に「ちり木」をわたしてかずらを巻いて固定する。
「ちり木」はその横に生えている樫の立木の幹や梢にくくりつけられ、かずらを何重にも巻く。
端的に言えば「ふち木」と敷綱を結び、その「ふち木」を「ちり木」で引き上げるのであるが、それぞれの交差部はかずらをたくさん使って巻き、揺れを防ぐためにその中央も巻いて(「化粧」という)固定する。
ただ巻くだけではなく、形のよいものに仕上げる。
全作業段階で木にかずらを巻く場合、古タイヤなどのゴムで木肌を包み、切り目を入れた板札を針金でつなぎながら巻き上げる。
その上からかずらを巻くと、巻かれた部分の摩滅や歪みを防ぐ効果がある。

雲綱張り:雲綱は、さながら「蜘蛛綱」である。雲綱張りに先立って雲綱編みの作業が行なわれるが、敷綱を編むのと同じ要領である。
丈夫に編まれた8本の雲綱が必要である。
雲綱の上端は、両岸に自生する大木の、下から20mあまりの所に細いかずらで結び付けて斜め下に垂らし、下端は壁にかずらで固定され、壁の外側を沿って敷綱に結び付けられる。
余った部分はそのまま敷綱に沿わせて数カ所を止めつける。この時、両岸からの雲綱の交差部は番線で固定する。
さらに、その雲綱と平行になるように、別の雲綱の上端を、先ほどの雲綱の約2m下の幹に結び付け、同様に壁から敷綱へと結び付けられる。
このように、両岸の左右から2本ずつの雲綱が橋を吊り上げ、合計8本の雲綱が美しいタブルエックスの形を作り上げるのである。
この「雲綱張り」は1番危険で、至難な作業である。
かずら橋架設のクライマックスといえる。
昔は、雲綱を1本張ることによってl人役が与えられたという。この作業が終ると、2週間ほどの架設作業は幕を閉じるのである。
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旅したいな12
ねこたさん、完成版。島根県 美保関newRED


島根半島の東端、神々のふるさと美保関町。
国引き神話、国譲り神話の舞台であるこの地には、
今なおいにしえのロマンあふれる数々の荘厳で神秘的な祭事が
人々の暮らしの中に息づいている。
『国引き神話』
ある日のこと八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)は、出雲国を見渡して、「なんと狭い国だ。小さく造り過ぎたから足らないところを継ぎ足してやれ」と朝鮮半島の一部を引っ張って来た。
これが現在の日御碕から平田までの一帯。
まだ足りないので高志の国(北陸地域)から佐伎(さき)国、良波(よなみ)国、都都(つつ)の岬の一部を同じように引っ張ってきた、という壮大な国造りの話。
都都岬から引っ張ってきた半島が三穂碕(みほのさき)、現在の美保関という事。
また、神話の中で大国主命と高志の国のヌナカワヒメとの間に生まれた姫が、三保津姫命といい、三穂碕はこの名に由来すると言う。

●関乃五本松節
♪ハー関の五本松、1本切りゃ4本、あとは切られぬ夫婦(めおと)松♪
江戸時代、「西回り航路」の発達により山陰第一の要港美保関は北前船をはじめとする大小の船舶が往来し大変にぎわっていた。
長い航海を経て、美保関に入津する船は、海上に島根半島の影が現れると、西側入り江近くの小高い山にそびえ立つ五本の黒松を目当てにしていた。
江戸時代、松江藩主は、美保神社に月参りかたがた関所及び施設の巡視を行った。
その際、路面が狭いことや眺望が遮られるという理由で、五本の松のうち一本を切らせてしまった。
船人達は藩主の横暴さに怒りを感じていたが、表だって抗議することもかなわず、ふたたびこのような暴挙がなされぬ事を願うばかり。
民謡「関乃五本松節」は船人達のやり場のない気持ちから自然とほとばしり出た唄だといわれている。
横暴な藩主への痛烈な批判とともに、せめて残りの松は夫婦松として末永く栄えるようにと祈りを込めて歌われたものと伝えられている。  


●隕石
平成4年(1992年)12月10日、雷雨が吹き荒れる夜の9時頃、美保関町の民家にいん石が落下! 轟音と共に屋根と2階の天井、床を突き破り、さらに1階の畳を突き抜け、床下まで一気に貫通。
家人は雷が落ちたかと思ったそうですが、翌日、穴の開いた1階の床下を探ってその正体が判明。そこには、重さ6.38圈大きさ25.2×14.1×10.6僂里い鸚个あった。
調査研究の結果、46億年前の太陽系誕生と共に生まれ、6100万年もの間楕円軌道上を回り続けていたことが明らかになった。


●板わかめ
板ワカメのことを出雲地方で「メノハ」と呼ぶ。
ワカメ(若布)の語源は、葉の部分が羽のように深く裂けていることからワカレメ(破海藻)だったとされ、それがメノハ(布の葉)に通じたとされる。
また、板わかめは、薄く広げて干すのがポイントで、食べるときも軽く火であぶり、香ばしさがたちのぼったところで火から下ろす。
それを手でもみほぐしたものを、焚きたてのご飯にふりかけて食べるのが簡単で美味。
出雲地方では、昔から「ホイロ」と呼ばれる火鉢が使われる。
繊細な中にも磯の風味が凝縮された島根を代表する特産品である。


●北前船
美保関神社の参道となる美保関の「青石畳通り」。
海辺の石を切り取り、通りに敷き詰めたのは江戸時代中頃とされている。
長さが約200m、幅約3mの参道全部が石で覆われるまでに約100年かかったと言われる。
江戸時代に、近くの美保関港に寄港する北前船に積荷を乗せようと大八車が通りを往復したために固い道路が必要となり、住民が結束して、石畳にしたと言われている。


●船宿
美保関は古くから朝鮮半島、九州、北陸方面への交易船の寄港地になるとともに、遠流の島隠岐への中継地として歴史の舞台に登場する。
この港がもっとも繁栄するのは、日本海帆船時代の幕末から明治中ごろにかけてであった。  
船乗りたちは海の神さま「事代主命」を祀る美保神社で航海安全を祈る一方、女たちのいる船宿で酒宴を催しながら、風待ちのひとときをすごした。
あの関の五本松節も、このような宴席の騒ぎ歌としてうたい継がれたものである。
ラフカディオ・ハーンは二回にわたる美保関滞在で、このような港町のさまざまな表情をペンでとらえた。
ハーンらが美保関での常宿とした船宿島屋は、漁港の東側、美保小路にあった。
当時この宿は、鳥取県西伯郡渡村(現境港市)出身の門脇寛一が経営していた。
ハーンらが二回目に泊まった明治二十五年夏から島屋の遠縁で近くに住んでいた恩田カネが頼まれてセツ夫人の髪を結った。
カネがそれまでの「銀杏返し」を「丸髷」に直したところ、ハーンが上品だととても喜んだだという。

●美保神社


三穂津姫命(みほつひめのみこと)は大國主神の御后(おきさき)神で、高天原から稲穂を持ち降り耕作を導き給うた農業及び子孫繁栄の守り神。
事代主神(ことしろぬしのかみ)は大國主神の第一の御子神(みこがみ)で、「ゑびすさま」すなわち漁業・商業を始め広く生業の守護神として敬仰され、美保神社も全国各地にあるゑびす社3385社の総本社として、ことに水産・海運に携わる人々から広く敬い親しまれてきた。
古来、「ゑびすさまは鳴り物がお好き」との信仰があり、海上安全をはじめ諸処の祈願とともに、夥(おびただ)しい数の楽器が奉納され、その内846点が現在、国の重要有形民俗文化財に指定され、日本最古のアコーディオンや初代萩江露友(おぎえろゆう)が所有していた三味線など、名器、珍品もその中に含まれている。


ゑびす信仰は、本来漁村で「海幸の神」として信仰されたもの。
その起源になった地、コトシロヌシが鯛釣りをされた沖の御前、地の御前(いずれも島で美保神社の飛地境内)があり、4〜5月にかけて産卵のために藻の生えた浅瀬(美保湾)に集まってきた鯛の群れは、より鮮やかな朱色になる。
室町時代以降、鯛とゑびす様が一体化したのは、朱色に輝く鯛が「海に浮かぶ太陽」に見立てられ「海幸の神」であるえびす様と結びついたと考えられる。

本殿は「美保造」、大社造の本殿を左右二棟並立させ、その間を装束の間でつなぎ、木階を覆う向拝を片流れに二棟通しでつけるという特殊な様式として、また屋根についても桧皮葺の共皮蛇腹で国の重要文化財に指定されている。
12月3日の諸手船(もろたぶね)神事と、4月7日の青柴垣(あおふしがき)神事は、古伝祭としてあまねく知られている。


美保神社はハーンが訪れたころ、本殿が今の御手水社あたりに位置するなど、ずっと港ぎわにあった。
一の鳥居の前に石造りの唐獅子一対が置かれ、石畳の参道がそのまま船着場までつづいていた。
この石畳は、文久元年(1861)、たたら製鉄で知られる島根県飯石郡吉田村の田部家や諸国の船主たちの寄進によって、玉垣、井戸などとともに造られたものである。  
大社造りの本殿は文化十年(1813)の造営という。
大国主命の御子事代主命をまつる右殿と、その儀母美穂津姫命をまつる左殿の二棟建て。その間を装束の間でつなぐ特殊な構造から比翼造りとも美保造りとも呼ばれている。
大正八年から昭和三年まで、火難防止をかねて 行なわれた境内拡張工事で、背後の旧神宮寺跡までそのままの姿で移された。
舞殿をかねる拝殿はそのさい新築されたもので、四方開きのうえ、屋根組みが内部から見えるよう吹き抜けになっている。
大天水鉢は戦時中に供出されて今はないが、唐獅子は今も「嘉永三年」の寄進年号を刻んで境内に残っている。

美保関では鶏が忌み遠ざけられてきた。
それは、昔、美保神社の祭神事代主命が揖屋「八束郡東出雲町」の女神のもとに通われていたとき、鶏が早く朝を告げてしまい、あわてられた命が帰途、舟のカイを失って足でこいでいるうち、鰐がかみついたのによるという。
もっとも足をかみつかれたのは、后美穂津姫命のもとへ通われた大国主命であったという別の伝説があるところから、鶏を忌む習慣がまずあり、それを土地の祭神と結びつけて理由づけしたのではないかともみられている。
いずれにしても、この風習は昭和二十年代まで厳しく守られてきた。
昭和二年夏、地蔵埼沖合の日本海で連合艦隊が戦闘訓練中、衝突事故が起き乗組員百十余人が海に沈んだが、訓練前の上陸地美保関の宿舎で卵の殻がたくさん見つかったことから、地元の人々は「タブーを破ったためだ」とささやき合ったという。
しかし昭和三十年代、観光客の増加とともに、タブーはゆるみはじめ、同昭和四七年の境水道大橋開通以後は地区内の食堂、旅館で鶏肉、鶏卵を用いた料理献立がおおっぴらに出されるようになった。
だだし、地区内では今も鶏を飼わないし、美保神社に奉仕する宮司、神職はじめ古伝の神事に従う当屋神主たちは、日常生活から鶏を遠ざけている。

●美保関燈台
島根半島の東端 地蔵崎の馬着山に、1898年(明治31年)フランス人の指導により建設された山陰最古の石造灯台。
「世界灯台100選」に選ばれた灯台 でもあり、「日本の灯台50選」にも選ばれている。


美保関灯台をぐるりと一周すると、裏手の崖に静かに佇む鳥居を見つけることができる。本殿はなく鳥居の先は海。
真下の海中には「地の御前」と呼ばれる島が鎮座し、美保神社の飛地境内とされている。鳥居は、この「地の御前」の結界である。
古来、本殿のない神社は、神を呼びおろす装置として知られてきた。

この鳥居の中央から見える、4km先の小さな島にも鳥居がある。
「沖の御前」と呼ばれ、「地の御前」と同じ由緒をもつ美保神社の飛地境内社。
この島の海底には、神楽の音のような響きがあり、神異奇端の島と伝えられている。
『国譲りの神話』では、美保関で魚を釣っていた事代主神(えびす様)が海中に身を隠したと伝わる。
「地の御前」「沖の御前」は、事代主神がタイを釣っていた場所と信じられ、現実に美保関灯台の沖合はタイの漁場となっている。


●旅館 美保館


美保関は、古くから海上交通の要所、風待ちの港として栄えてきた。
朝鮮半島等との環日本海交易の拠点である美保関は、たたら製鉄による鉄の輸出港として繁栄し、足利時代には将軍の直轄領にまでなった。
当時は幕府の年間化粧代を美保関だけで賄うほどの上納金があった。

 
源平合戦、源氏軍の東の大将、松田十郎藤原貞秀が美保関に落ち、定住したのが美保館のルーツとなっている。
その後日鮮貿易を取仕切り、代々庄屋、年寄職にあって屋号を「東」と称した。
江戸期に入ると、美保関は北前船の入津(三十三カ国の廻船)で賑わいを取り戻し、 中でも「東」は廻船業界最大規模の交易量を誇る北国七ヵ国(出羽、佐渡、越後、越中、加賀、能登、越前)、 米子・後藤船、松江・宍道船を独占、屋号も「北国屋」に変わっていった。
17世紀初頭、北国屋18代 定秀一郎右衛門から当地に分家され、泉州地方の廻船商人との取引を主に行い、屋号を「和泉屋(泉屋)」と称した。
「和泉屋(泉屋)」は為替方設置の際も出資者の一人として名を連ね、松江藩と深く結びつきをもった商人であった。
山陰初の鉄道開通(明治35年)を機に、美保関での海上交通の要所としての役割の限界を感じた和泉屋は、明治38年、美保関で初めて本格的な旅館として「美保館」の営業を開始した。
当時逗留された乃木希輔夫妻や伊藤博文(登記以前の船宿時代に逗留)の足跡などが残る。
その後、現在の石畳より山側に二代目の美保館(現在の美保館 旧館(北館))が、海側の三代目美保館(現在の美保館 本館(南館))が建築された。
複雑に組んだ数寄屋造りは、当時の指物師・大工達の高度な技術を見ることができる。
開館以降、皇族の方々を始め、多くの文人墨客が逗留、多くの足跡や、書や画などの作品を残している。

●醤油蔵


●ヤリイカ


ねこたさん、完成版。富山県砺波平野 あずまだちnewRED


富山県の砺波平野には、広大な田園に屋敷林で囲まれた家々が点在する地域がある。
この屋敷林の中に建つ農家の伝統建築が、「吾妻建 あずまだち」の住居。
あずまだちは、家の入口を「妻」の部分に造る、いわゆる「妻入り」の建物で、入口の上にある「妻壁」に、「妻梁」や「束」を化粧に見せて壁を白漆喰で仕上げるという美しい外観が特徴。
そのルーツは金沢あたりの武家屋敷の形式にあり、それをこの地方の格式のある家や寺院の庫裏などで取り入れ、明治以降に一般の人たちの間にも広まったといわれている。

●砺波チューリップ公園


砺波市特産で市の花でもあるチューリップをテーマとした四季折々の花を楽しむことのできる都市公園。

ねこたさん、完成版。島根県の石見地方 石州瓦newRED


焼成温度が高いため(約1300℃)強度に優れており、日本海側の豪雪地帯や北海道などにおいてシェアが高い。
独特の赤い色で知られ、赤い屋根の町並みや集落を山陰地方では至るところで見ることができる。
この色は、同じ島根県の出雲地方で産出される含鉄土石「来待石」を釉薬に使用することに起因する。

縁桁造

ねこたさん、完成版。愛媛県今治市 蟹御殿newRED


今治市はタオル、造船で有名。
波止浜地区は江戸時代から塩の生産で栄え、現在は造船所が立ち並ぶ港町。
蟹御殿を建てさせた八木亀三郎さんは、蟹工船、北洋の蟹魚魚で財をなした人。
小林多喜二の小説『蟹工船』(昭和4年)で知られる蟹工船とは、カムチャツカ半島沖で捕った蟹を船の上で加工する蟹缶詰加工船。
波止浜で代々製塩業を営んでいた亀三郎は、塩の取引先だったロシアで、カムチャツカ半島の近海で捕れる蟹に着目し、大正13年日本初の蟹工船を建造した。
缶詰をアメリカなどに輸出し、莫大な富を得た。
銀行やガス会社の経営にも乗り出し、大富豪になった亀三郎、その象徴が蟹御殿だった。
昭和2年、亀三郎が頭取だった今治商業銀行が破綻の危機に直面。
第一次世界大戦の終結に伴う不景気から、「取り付け騒ぎ」が起きた。
この時亀三郎は私財をなげうって市民の預金を保証する声明を発表。
経済の混乱をおさめるために奔走した。
さらに何度も国と掛け合い、日本銀行から全国第1号となる特別融資をとりつけ、地域の経済を守り抜いた。


ねこたさん、完成版。愛媛県西予市 白い焼き芋newRED
明浜地区、明治初期から昭和50年代まで石灰の産地として栄え、最盛期だった明治の末、灰屋と呼ばれる石灰工場が80件以上あり、セメントの材料などとして出荷していた。
工場では石灰関を焼き、生石灰を作る。
さらに水を加え、生石灰にする際、200℃近い熱が発生。
この灰屋の熱を利用して、焼いた芋が「白い焼き芋」(灰屋芋)だった。
現在、灰屋芋組のメンバーが復活させるべく、保育園などで実演している。

ねこたさん、完成版。愛媛県伊予市 伊予神社 こまうさぎnewRED
伊予神社は月夜見命(つきよみのみこと)と愛比売命(えひめのみこと)を祀った神社。
月夜見命を祀った時、月夜から想像されるウサギを置いて石仏とした。

ねこたさん、完成版。愛媛県愛南町 遍路道に大穴newRED


高知県宿毛市との県境、松尾峠。
今は周囲から土が落ち、浅くなった大穴。
戦時中松並木だった。
その松を船舶の用材に使い、根は「松根油」とした。
太平洋戦争末期、日本は国をあげて松根油の生産に取り組んでいた。
当時の松根油生産のスローガン「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる。」
昭和19年から全国で30000を超すカマが作られ、延べ690000人が携わった。
しかし松根油は飛行機の燃料として使われないまま終戦を迎えた。

ねこたさん、完成版。奈良県桜井市 大神神社 なでうさぎnewRED


大神神社(おおみわじんじゃ)、本殿が置かれておらず、拝殿からご神体である三輪山を
拝するという原始形態の神祀りの様式をとっている。
参集殿の入口に、なでると御利益があり、手足の痛みを取ってくれると言われ「なでうさぎ」が鎮座している。

ねこたさん、完成版。佐賀県 くど造りnewRED


佐賀平野を中心に西は長崎県境、東は福岡県の一部から熊本県北部に見られる「くど造り」。
小さな屋根を組み合わせ、棟(むね)が、T、L、冂などの形になっている。
かまどを上から見ると、漢字の冂(けいがまえ)に見える。
下の方が焚き口。
かまど(竈)のことを、「くど」と呼ぶことから「くど造り」と言われるようになった。
「なかえ」「いたのま」「ざしき」「なんど」の4つの部屋で構成されている。
佐賀県鹿島市の中心街から国道444号線を5〜6km行くと、今でもくど造りの草葺民家が点在する三河内の集落がある。
しかし、草葺屋根は朽ちかけていて、空き家になっている家もある。
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旅したいな11
ねこたさん、完成版。広島県尾道市newRED


「坂の街」「文学の街」「映画の街」として全国的に有名である。
●林芙美子『放浪記』
作家、林芙美子は1903(明治36)年に生まれ、大正、昭和の激動期を駆け抜け、1951(昭和26)年に48歳で急逝した。
林は下関で生まれ、本籍は鹿児島県である。
8歳のとき、母は再婚し、20歳年下の男と結婚する。
母と義父は行商をして各地を転々とする。その中で、尾道には長く滞在し、林は苦労して尾道高等女学校を卒業する。
尾道は林にとって故郷であり、現在では尾道は林芙美子が住んだ町として喧伝されている。
林は生れ落ちてからと言ってよいほど貧乏にとりつかれていた。
特に義父が行商をしていたころは赤貧洗うがごとしであった。
尾道では家を借りることなく、木賃宿に住んだ。
林は木賃宿から学校に通ったのである。
学校は夜働きながら卒業した。
女学校を卒業すると、林は学校時代から恋仲になっていた因島出身の大学生を追って東京に向かう。
このとき大正15年。
『放浪記』は林が東京に出た大正15年から5年間雑記帳に書きためた日記を本にしたものである。
東京に出てから、林の貧乏には拍車がかかる。その日の食費もなく、泊まるところもないという状況。
貧乏と切り離せないのが林の男運のなさ。
因島の男にはだまされ、それから新たに出会って同棲までする俳優や詩人たちからもひどい仕打ちを受ける。
職を転々とするがどれも長続きはしない。
下女、女中、事務員そしてカフェの女給など…
なぜか苦界には身を沈めなかった。

(八月×日)
海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。
汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。
赤い千光寺の塔が見える、山は爽やかな若葉だ。
緑色の海向こうにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。
貧しい私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど…
小林正雄による書
「ねえ、お母さん!私達の東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」
しょぼしょぼして隠れるようにしている母達を、私はこう言って慰めたものだけれど…
だが、あれから、あしかけ六年になる。
私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。
気の弱い両親をかかえた私は、当もなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。
海添いの遊女屋の行燈が、椿のように白く点点と見えている。
見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった海辺の朽ちた昔の家が、五年前の平和な姿のままだ。
何もかも懐かしい姿である。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。
尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、銀杏返し、何度も水をくぐった疲れた単衣、別にこんな姿で行きたい家もないけれど、とにかくもう汽車は尾道にはいり、肥料臭い匂いがしている。

船宿の時計が五時をさしている。
船着場の待合所の二階から、町の燈火を見ていると、妙に目頭が熱くなってくるのだった。
訪ねて行こうと思えば、行ける家もあるのだけれど、それもメンドウクサイことなり。
切符を買って、あと五十銭玉一ツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思い出していた。落書だらけの汽車の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、汽笛の音がしている。
波止場の雑音が、フッと悲しく胸に聞こえた。
「因の島行きが出やすんで…」歪んだ梯子段を上って客引が知らせに来ると、陽にやけた縞のはいったこうもりと、小さい風呂敷包みをさげて、私は波止場へ降りて行った。
「ラムネいりゃせんか!」
「玉子買うてつかアしゃア。」
物売りの声が、夕方の波止場の上を行ったり来たりしている。
紫色の波にゆれて因の島行きのポッポ船が白い水を吐いていた。
漠々たる浮世だ。あの町の灯の下で、「ポオルとヴィルジニイ」を読んだ日もあった。
借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰ったままの私は、「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うてであった…」と嘘をついて母が、侘し気にほめてくれた事もあった。
あの頃、町には城ケ島の唄や、沈鐘の唄が流行っていたものだ。
三銭のラムネを一本買った。

夜。
「皆さん、はぶい着きやんしたで!」
船員がロープをほどいている。
小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。
この島で長い事私を働かせて学校へはいっていた男が、安々と息をしているのだ。
造船所で働いているのだ。
「この辺に安宿はありませんでしょうか。」
運送屋のお上さんが、私を宿屋まで案内して行ってくれた。
糸のように細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねている。
私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷包みをおくと、私は雨戸を開けて海を眺めた。
明日は尋ねて行ってみようとおもう。
私は財布を袂に入れると、ラムネ一本のすきばらのまま潮臭い蒲団に長く足を延ばした。
耳の奥の方で、蜂の様なブンブンと云う喚声があがっている。

●志賀直哉『暗夜行路』
父直温との言い争いの中で、売り言葉に買い言葉のやりとり直哉は家を出る事になる。
そして京橋木挽町の永楽館に月三十円で下宿する事とした。
しかしそこはすこぶる不適当であった。
祖母や義母や妹たちが、友が頻繁に出入りする中、何とか心機一転、物価の安い、知り合いのいない遠い土地へのがれる必要があった。
最終候補地と思い定めた広島県の尾の道だった。
たまたま満州から帰って来た友が、汽車の窓より見た尾道の風景をしきりにほめる者がいたらしい。
又永楽館の女将が尾道出身であった。
そして決まった。

住まいは『暗夜行路』そのままに「三軒の小さな棟割長屋の一番奥」で部屋は六畳と三畳の台所のつつましいものであった。
直哉は暖をとるためにはガス会社から借りた「ガスストーブ」を用いてガスの使用量 は尾道中で2番目であったというエピソードも残る。

将棋は腕がほぼ互角であってこそ楽しめる。
当然相手が強すぎると面白くない。
逆に弱すぎても、また張合いがない。
だから、“駒落ち”でお互いの力を拮抗させ勝負のあやを楽しむわけだが、腕の差に、関係なく、いつも平手で指したのが志賀直哉であった。

『暗夜行路』
塩屋、舞子の海岸は美しかった。
夕映えを映した夕なぎの海に、岸近く小舟で軽く揺られながら、あぐらをかいて、網をつくろっている船頭がある。
白い砂浜の松の根から長く網を延ばして、もう夜泊まりのしたくをしている漁船がある。
謙作は楽しい気持ちで、これらをながめていた。
そして汽車が進むに従って夜が近づいた。
彼はまた睡くなった。目まぐるしい、寝不足続きの生活のあとではいくら眠っても眠足りなかった。
彼は食堂へ行って、簡単な食事を済ますと、和服に着かえてあいている座席に長くなった。
そして十一時ごろボーイに起こされ、尾の道で下車した。


旅行案内に出ている宿屋は二軒とも停車場の前にあった。
彼はその一軒へはいった。思ったより落ちついた家だったが、三味線の音が聞こえていたので、彼は番頭に「なるべく奥の静かな部屋がいい」と言った。
二階の静かな部屋に通された。
彼は立って、障子をあけて見た。
まだ戸が締めてなく、内からさす電灯の明りが前の忍び返しを照らした。
その彼方がちょっとした往来ですぐ海だった。
海と言っても、前に大きな島があって、河のように思われた。
何十隻という漁船や荷船がところどころにもやっている。
そしてその赤黄色い灯の美しく水に映るのが、いかにもにぎやかで、なんとなく東京の真夜中の町を思わせた。
金火鉢を持ってはいって来た女中が縁側にいる彼に、「おあぶりやす」と言った。
彼は黙ってはいると、障子を締め、火鉢の前へすわった。女中は抹茶と菓子を彼の前へすすめた。
「今からでもあんまを頼んでもらえるかい?」
「えーえ、あんさんのためなら」となれなれしく言って女中は出て行った。
あまりなれなれしいので彼は普通の宿屋でない家へはいったかしらとちょっと思った。
彼はあんまから、西国寺、千光寺、浄土寺、それから、講談本にある拳骨物外の寺、近い所では鞆の津の仙酔島、阿武兎の観音、四国では道後の湯、讃岐の金刀比羅、高松、屋島、浄瑠璃にある志度寺などの話を聴いた。彼は東京からの夜着その他の荷の着くまで一週間ほど、どこか旅してもいいと考えた。
あんまは話に気をとられると、だんだん弱くなった。
「もう少し強くやってくれないか」
あんまは急に強くしだした。ちょうど水車の杵が米をつくように肩の上でぐりぐりと乱暴にひじで肉をつきおろした。
「なんという流儀だね?」
「長崎の緒方流と申しやんすけん」
彼は前日新橋で別れて来たハイカラな緒方と、この薄ぎたないあんまの緒方流とで、なんという事なし、一人微笑した。
海のほうで、ピョロッピョロッと美しい鳴き声だか音だかがしている。ちょうど芝居で使う千鳥の鳴き声だ。
もう人々の寝静まった夜更け、黙ってこれを聞いているとなんとなく、さびしいような快い旅情が起こって来た。
「あれはなんだい?」
「あの音かえな。ありゃあ、船の万力(せみ)ですが」


あくる日十時ごろ、彼は千光寺という山の上の寺へ行くつもりで宿を出た。
その寺は市の中心にあって、一目で全市が見渡せるというので、そこからだいたいの住むべき位置を決めようと彼は思った。
いいかげんな所から左へ鉄道線路を越すと、前に高い石段があってその上の山門に獅子吼(ししく)と勢いよく書いた大きな行燈が下がっていた。
光明寺という寺で、彼は寺内を出抜けて山へかかったが、うねり、くねったわかりにくい小道がいくつもあって、そのどれを選んでいいか見当がつかず、ある分かれ道に立って休んでいた。
「寄せ来る敵を、みなみな殺せえ−−」突貫ラッパの節で大声にうたいながら、十二、三になる男の子が上のほうから元気よく、細い竹の棒を振りながら駆けおりて来た。
「千光寺へ行くのはこれでいいの?」彼は行く手をさしてその子にきいた。
立ち止まった子供は彼といっしょに山を見上げていたが、どう教えていいか迷うふうだった。
「口で言うてもわからんけえ。わしがいっしょに行きやんしょう」
子供は彼の返事も待たずに、今降りて来た細い坂道を前こごみのからだを快活に左右に振りながら、先へ立って登りだした。
斜めに右へ右へと登って行った。
しばらく行くと左手に高く、二、三寸に延びた麦畑があって、その上に屋根の低い三軒長屋があり、その左の端の貸家の札が下がっていた。
彼は子供に礼を言って別れ、その家を見に行った。
日向で張り物をしていたかみさんが、いろいろと親切に教えてくれた。
それから斜めに一町ほど登って行って、彼はまた三軒長屋で、東の端が貸家になっているのを見つけた。
見晴らしは前の家よりよかった。
ここにも親切なばあさんがいて、彼のきく事に親切に答えてくれた。
彼には今の子供でも、かみさんでも、このばあさんでも、皆いい人間に思えた。
こういうたまたま出会った二、三人の印象からすぐ、そう思うのは単純すぎる気もしたが、やはり彼はそれからこの初めての土地になんとなくいい感じを持った。
ようやく千光寺へ登る石段へ出た。それは幅は狭いが、ずいぶん長い石段だった。
段の中ごろに二、三軒のガラス戸を締め切った茶屋があって、どの家にも軒に千光寺の名所絵はがきを入れた額が下がっていた。
段を登りきって、左へ折れ、また右へ少し、幅広い石段を登ると、大きな松の枝におおわれた掛け茶屋があった。
彼はそのショウギに腰をおろした。
前の島を越して遠く薄雪を頂いた四国の山々が見られた。
それから瀬戸海のまだ名を知らぬ大小の島々、そういう広い景色が、彼にはいかにも物珍しく愉快だった。
煙突に白く大阪商船の印をつけた汽船が、前の島の静かな岸を背景にして、時々湯気を吐きちょっと間をおいて、ぼーっといやに底力のある汽笛を響かしながら、静かにはいって来た。
上げ潮の流れに乗った小船が思いのほかの速さでその横をすれ違いにこいで行く。
そして、幅広い不格好な渡し船が流れを斜めに悠々とこぎ上っているのが見られた。
しかし彼はこういう見慣れない景色をながめていると、やがてこれにも見あき、それがいい景色だけにかえって苦になりそうだというような気がした。
彼はうで玉子を食いながら、茶店の主から、前の島が向かい島、その間の小さい海が玉の浦だというような事を聞いた。
玉の浦については、この千光寺にある玉の岩のてっぺんに昔、光る珠があって、どんな遠くからでも見られ、その光で町では夜戸外に出るにも灯りがいらなかったが、ある時、船で沖を通った外国人が、この岩を見て売ってくれと言いに来た。
町の人々は山の大きな岩を売ったところでまさかに持っては行かれまいと、承知をすると、外国人は上の光る所だけをくり抜いて持って行ってしまった。
それからは、この町でも月のない夜はほかの土地同様、提灯を持たねば戸外を歩けぬようになったという話である。
「今も、岩の上には醤油樽にふた回りもあるおおけえ穴があいとりますがのう。
まあ今日らで申さば、ダイヤモンドのような物じゃったろういう事です。」
彼は町の人々が祖先の間抜けだった伝説をそのまま言い伝えているところが、なんとなくのんきで、おもしろい気がした。
−−中略−−


景色はいい所だった。
寝ころんでいていろいろな物が見えた。
前の島に造船所がある。
そこで朝からカーンカーンと金槌を響かせている。
同じ島の左手の山の中腹に石切り場があって、松林の中で石切り人足が絶えず唄を歌いながら石を切り出している。
その声は市のはるか高い所を通って直接彼のいる所に聴こえてきた。
夕方伸び伸びした心持ちで、狭いぬれ縁へ腰かけていると、下のほうの商家の屋根の物干しで、沈みかけた太陽のほうを向いて子供が棍棒を振っているのが小さく見える。
その上を白い鳩が五、六羽せわしそうに飛び回っている。そして陽を受けた羽根が桃色にキラキラと光る。
六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。
ごーんとなるとすぐコーンと反響が一つ、また一つ、また一つ、それが遠くから帰って来る。そのころから、昼間は向い島の山と山との間にちょっと頭を見せている百貫島の燈台が光りだす。
それはピカリと光ってまた消える。
造船所の銅を溶かしたような火が水に映りだす。
十時になると多度津通いの連絡船が汽笛をならしながら帰って来る。
へさきの赤と緑の灯り、甲板の黄色く見える電灯、それらを美しい縄でも振るように水に映しながら進んで来る。
もう市からはなんの騒がしい音も聴こえなくなって、船頭たちのする高話の声が手に取るように彼の所まで聴こえて来る。


●小津安二郎監督 映画『東京物語』


尾道に住む平山周吉70歳(笠 智衆)と、とみ67歳(東山千栄子)が、東京で暮らす子供たちの所へ旅をする。
東京で病院を営んでいる長男幸一夫婦(山村聡、三宅邦子)や美容院をやっている長女志げ(杉村春子)、戦死した次男昌二の未亡人で28才の紀子(原節子)の所に遊びに行く。
しかし子供たちはそれぞれの生活、仕事を持っており、なかなか老夫婦の面倒を見ることができない。
唯一東京見物につきあってくれたのは血のつながりのない戦死した次男昌二の未亡人紀子(原節子)。
それでも二人は元気で働いていている子供たちを見て安心して東京を去る。
しかし とみが帰りの列車の中で体調を崩し尾道に帰ってから死去。
子供たちは母危篤の電報で尾道に呼び戻される。
葬式の後、子供たちはそれぞれの仕事に戻っていく。

●大林宣彦監督 映画『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』


『転校生』
尾道の中学校に転校してきた一美(小林聡美)は、幼なじみの一夫(尾美としのり)と再会。
しかしその直後、ふたりは神社の階段から転げ落ち、そのはずみで心と身体が入れ替わってしまう…。

『時をかける少女』
ある土曜日の放課後、実験室で不思議なラベンダーの香りをかいで失神した、高校生の芳山和子。
その日から、奇妙なタイムスリップ現象に襲われていく。


『さびしんぼう』
高校生のヒロキは、ひそかに思いを寄せる美少女に「さびしんぼう」と名づけ、いつも遠くから眺めていた。
そんな彼のもとに、ある日突然「さびしんぼう」と名のるピエロ姿の少女が現れ、次々と騒動をまき起こしていく。
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