ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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先住民の叡智に学ぶ☆砂漠の民ベルベル人、貴重な水を分かち合って生きる

アフリカ北西部モロッコに広がる乾ききった大地、サハラ砂漠へと通じるこの乾燥地帯では、気温は40℃を優に超え、限られたごくわずかな植物しか育つことが許されない。
この厳しい環境の中、たくましく活きる先住民族がいる。
砂漠の民ベルベル人だ。
そこにあるのは過酷な風土、だからこそ育った特有の文化と強い結びつきをもった社会、わずかな水を頼りに生きるすべを見出した来た彼らの暮らしは私達にいったい何を教えてくれるのだろうか?

月尾嘉雄教授「20世紀が石油の世紀と言われるのに対して、21世紀は水の世紀と言われることがある。
地球に有限の資源水は、最近急速に増加する人口や農地の拡大に次第に対応できなくなりつつある。
現在世界では人口の約20%に相当する12億人が毎日安全な水が手に入らない状態にあるし、その結果約14万人の人々が不衛生な水が原因で死んでいる。

極度の乾燥地帯はほとんど水のない環境、しかしこの一帯に先住民族ベルベル人は水の乏しい中で、数千年間たくましく生活してきた。
今回世界有数の乾燥地帯に生活するベルベル人の社会を訪ね、人類が水の世紀に対処する知恵を探っていきたいと思う。」

アフリカ大陸北西部、東西に横たわるアトラス山脈はモロッコ、アルジェリア、チュニジアと3つの国をまたぐ巨大な山脈、この3〜4000m級の山々を有するアトラス山脈を沿岸部から内陸へ超えると、そこに広がるのは乾ききった荒涼とした風景。
サハラ砂漠へと続くこの乾燥地帯で、アトラス山脈がもたらすわずかばかりの水、来たアフリカの千住民俗ベルベル人はこの水を頼りに生きてきた。
ベルベル人とはベルベル語を話す人々の総称、そのルーツは未だはっきりとわかっておらず、現在では西アジアや地中海、アフリカ南部など、様々な地域の種族との混血が進んでいるため、肌の色から体格、顔つきまで実にさまざま。
総人口は1500万人以上、東はエジプト西部の砂漠地帯から、西はモロッコ全域まで、北アフリカの広い地域に渡って暮らしている。
今回モロッコのベルベル人の暮らしを訪ねるのは東京大学の月尾嘉雄名誉教授、情報通信が専門だが、世界の山や川を探訪する中で、自然の大切さを痛感、環境問題の解決に挑戦している。

月尾教授が訪れたのはごろごろとした石や岩で覆われたレキ砂漠が広がるアトラス山脈のふもと、荒涼とした風景の中、取り残されたかのようにポツンと存在するオアシス・アルギュン村、25世帯ほどが暮すベルベル人の集落。
出迎えてくれたのはヴェルウーズ・ムハンマドさn(38歳)。
最初に用意してくれたのはお茶のセット、モロッコでは客を招いた時、歓迎の意味を込めて必ずお茶を出す。
客人を大切にする習慣があるベルベル人の家庭、このおもてなしはその表れ。

ムハンマドさんの案内で村の畑へ、夏のこの時期はトウモロコシの栽培が始まったばかり。
収獲時期を迎えているのはアーモンド、そして子供達が収穫しているのはナツメヤシの実デーツ、古くからベルベル人に食されてきたという。
デーツは1年中収獲することができ、この地域の貴重な現金収入の源になっている。
ナツメヤシはデーツだけでなく、その木事態も彼らの生活に役立てられている。
大きく広がる葉は箒などの日用品に利用される一方で、調理をするときの燃料としても欠かせない。

さらに幹は家の柱や梁などに使われ、砂漠で暮す彼らにとって貴重な木材となっている。
ナツメヤシはこの畑に生育する植物にも恩恵を与えている。
畑の縁沿いに生えるナツメヤシは、砂漠から吹きつける砂の侵入を防いでいる。
また背丈のあるナツメヤシは、畑へ降り注ぐ強烈な直射日光を遮り、適度な日陰を作ることで40℃以上にもなる暑さから畑の植物を守っている。
人々の暮らしを支え、過酷な環境でも成長するたくましさから、ナツメヤシは、は生命の木とも呼ばれ、オアシスになくてはならない存在。

しかし問題はナツメヤシなどを育む水、この周辺地域の年間降水量は200mm以下とも言われ、東京のおよそ8分の1、特に乾季の時期は何週間も雨が降らない日が続く。
畑の横を流れる川に出てみると、からからに乾ききっている。
しかし畑の中にはちゃんと水の通う水路が・・・
ハッターラ(地下水路)、アトラス山脈を水源とする水を地下水路を通して村に引いているのだ。

ムハンマド「ハッターラで運んでくることで、水をキレイに保てる。
雨が降ったら川の水は汚れてしまうが、ハッターラの水はいつもキレイなので畑にも家畜にも飲用にも使える。
さらにこの暑さで水が蒸発するのを防ぐことができる。」

大切に運んでくる貴重なみずだからこそ、その利用法もしっかりと決められている。
自分の畑へ水を引く準備をしているモハさん、以前にこの畑に水が送られたのは5日前。
モハ「家庭ごとに水を使う順番が回ってくる。
畑の面積に応じて使用時間も決まっていえる。」

ハッターラからの水を溜めておく貯水池、栓をあけ畑へと水を送り込む。
畑までの共同水路では、大切な水が無駄にならないよう小さなつまりも見逃さない。
水が得られる時間は畑の場所や貯水池からの距離などが考慮に入れられている。
限られた水を公平に配分する工夫が施されているのだ。
モハさんんおトウモロコシ畑に久々の水が浸みわたる。
水路に水が通っているのを見計らい、女性達がやってきた。
はじめたのは洗濯、この小さな村ではハッターラがもたらす水は村共有の財産であり、生活のすべて。

月尾「比較的水に恵まれた日本に生活する我々は、水と言えば川に流れている水や湖に貯えられた水、すなわち見える水を想像する。
しかしこの乾燥地帯では、表面に見える水はほとんど存在しない。
ベルベル人はこの見えない水を巧みに集落まで導き、それらを争うことなく利用している。
その精神は水の利用にとどまらず、集落を維持する仕組みにまで発展している。
今世紀もし世界に巨大な紛争が発生するとすればその原因は水を巡る争いになるだろうと指摘されている。
今後ますます水を巡る関係が厳しくなる。
世界はこのベルベル人の水を分かち合うという社会の仕組みをおおいに参考にすべきだと思う。
アルギュン村には土壁の家々が建ち並ぶ。
木が育たない土地柄のため、古くから土が材料とされてきた。
土壁はこの土地の気候にあった作りとなっている。

ムハンマド「土壁は厚さが50cmくらいあるので外が暑くても中が涼しい。
ブロックだと厚みがないので断熱効果がない。」

しかし土壁は耐久性があまりよくないため、時折修復もしなければならない。
家の修復作業を始めたのはムハンマドさんの弟アイマットさん(20歳)、この日はひび割れなどの傷みがでてきた内壁の修復を行う。

材料はいたってシンプル、土と藁、そこに水を混ぜるだけ。
しかも土は家の近くで掘り出してきたもの。
今年20歳を迎えたアイマットさんだが、ムハンマドさんから見ればまだまだ半人前、教えなければならないことがいろいろある。

素焼きできた水がめの中の水を飲むととても冷たい。
この地域は極度に乾燥しているため、甕からしみ出た水はどんどん蒸発する。
その蒸発するときに熱が奪われる気化熱によって水がめは冷やされ、中の水が冷たくなる。
台所でアルキーヤさんが作っているのはベルベル人の伝統料理タジン。

この日は牛肉がメイン、煮込み料理にも関わらず、タジンを作る時には水をほとんど使用しない。
そのわけはこの特徴的な鍋の形にある。

タジンの鍋の蓋は高さがあるため加熱しても先端部分は温度が低く抑えられるようになっている。
そのため食材からでた蒸気が冷やされ水滴となって鍋へ戻ってゆく。
煮込むこと2時間、野菜たっぷり牛肉のタジンが出来上がった。
右手でパンに挟みとりながら食べるのがベルベル流。
水が貴重な風土が生んだ料理法だ。

アトラスの山に日が渋む頃、モロッコのほとんどの町がそうであるように、アルギュン村にもある放送が村中に響き渡る。
モスクから流れるアザーン、礼拝の時を告げるもの。
ベルベル人のほとんどはイスラム教徒、敬虔な者は毎日5回のお祈りを欠かさない。
村人がそろったところでモスクの責任者の1人が呼びかけを始めた。
「明日朝8時からハッターラで作業を行います。
みんなで行きましょう。」
モスクに集まる1番の目的はお祈りだが、アルギュン村では村人が一斉に集めるこの機会が互いに連絡を取り合う場として利用されてきた。
翌朝ハッターラには多くの村人たちが集まっていた。
2ヶ月に1度行われる清掃作業だ。

作業は村の男性陣総出で行われる。
水路の流れを妨げる岩や泥、草などを力を合わせて取り除いてゆく。
子供達もしっかりとお手伝い。
まだ手伝いができない小さな子供も大人達の仕事ぶりをしっかり見つめている。
清掃作業中村人たちの掛け声のような歌を聴くことができる。
村人「この歌は水路の掃除や道路工事などをするときに神様が私達と共にあり、助けてくださるように願うもの。
この歌を聞いた人は手伝うために集まってきてくれる。
心の底から幸せだと感じて手伝いにきてくれる。」
厳しい環境だからこそこの村では村人同士の助け合いが必要、そしてそれがさらなる仲間意識を生み出し、砂漠で生き抜く強さを育んでいる。
ハッターラから運ばれてくる水はこの小さな村にとっても決して十分とはいえない。
それでも村人たちは大きな喜びをもってこの貴重な水を迎え入れている。

月尾「乾燥地帯に生息するサボテンの葉が針のような形をしているのは、その葉から蒸散する水の利用を抑制するため。
このように生物の形状や構造は、その生活する環境、とりわけ水の状態に左右される。
この過度の乾燥地帯に生活するベルベル人の生活様式も同様、彼らが畑に植える作物はほとんど水を必要としない植物であり、伝統料理タジンもほとんど水を使わずに調理する。
しかしもう1つ重要なことは彼らの日常生活に、“足るを知る”という精神が浸透していること。
彼らは日が低い間に洗濯、水汲み、畑仕事などをし、日中の酷暑の間は室内でのんびり過ごし、夕方涼しくなってから再び仕事をするという抑制のきいた日常生活を送っている。
日本には“湯水のごとく”という言葉があるように、これまで水に配慮する生活には比較的無縁だった。
しかしこれから世界でますます水が基調になる時代に、ベルベル人の“足るを知る”という生活から我々は数多くのことを学ぶ必要があると思う。」

砂漠地帯で暮すベルベル人がいる一方で、アトラス山脈の山間部で生活を営むベルベル人がいる。
標高およそ1600mにある村タシュデルト、出迎えてくれたのはブイグダル・ブラヒムさん(35歳)。
ブラヒムさんの家は1回で家畜を飼い、2回が居住スペース、平地が少ない山間部ならではの住まい。
ここでも最初はお決まりのお茶をよばれる。
近所の友人も集まっての歓迎、お茶の入れ方にもいろいろと作法(手順)がある。
今回用意してくれたのはミントティー、ミントには体を冷やす作用があり、暑いモロッコではよく飲まれてきた。
砂糖をタップリいれる。

ブラヒムさん、お父さんと一緒にある場所へ行く。
村でもひときわ大きな建物イグレム(村の共同倉庫)、小さなトビラ1つ1つが各家庭の倉庫になっている。

500〜600年前に建てられたものだが、今なお使用し続けている。
イグレムには様々な決まりごとが定められている。
まず利用する時にはイグレムの管理人オガルダさんの立ち合いが必要、そして倉庫を開けられるのは家長であるブラヒムさんのお父さんだけ。
家から運んできた家畜のエサを倉庫へしまう。

ブラヒム「ここには小麦やトウモロコシなど畑で獲れたものやお金などの大切なものを保管する。
家はいろいろな人が出入りするので、ここの方が安心。」
イグレムは彼らにとって単なる倉庫ではなく、村のシンボルでもある。

村の大事な方針を決める会議もイグレムの脇で行われる。
その名も岩会議。
今ブラヒムさん達はイグレムに関係するある伝統を復活させようと考えている。

翌朝、イグレムにはある儀式の設営に追われる男達の姿があった。
女の子たちはおめかし、ヘンナという魔除けの意味を込めて行われるおまじないの一種、お祝いの席で施される習慣。

今日開かれるのは村の男の子のためのお祝い事。
ブラヒムさんのまな息子イリアス君も主役の1人。

ブラヒム「かつてはこの村では集団で割礼の儀式を行ってきた。
しかしもう30年ほど行われていない。
そこで今回集団割礼の儀式を復活させることにした。」
イグレムではコーランの一説を唱える声が響きだした。
こうして場を清め、いよいよ集団割礼の始まり。

イリアス君は正装に身を包み、家を出発。
割礼をうける男の子は祝福の歌を歌う女性達に抱かれ、イグレムへと向かう。
あちらこちらから響き渡る女性達の歌声、この日は11人の男の子が参加する。

イグレムに着いたところでイリアス君は男性の手に。
イグレムは女性の立ち入りが禁じられている。

会場にはすでに順番を待つ子供達の姿が。
手術用に張ったテントの中では町から招かれた医者によって割礼が施されてゆく。

頑張る子供達へ向けて次第に熱を帯びてくる女性達。
ブラヒムさんも少し落ち着かない様子。

テントからイリアス君が出てきた。
無事終わったようだ。
そして来た時と同じく歌声に包まれながら家路につく。
手術が全て終わるとイグレムにはタジンが運ばれてきた。
老いも若きも一緒になってタジンを囲む。
この儀式には近郊の村の人や、この村を離れて言った人も大勢かけつけ、一緒に祝うことができた。
30年の時を経て、村の伝統が見事に復活をはたした。

ブラヒム「共同倉庫イグレムはベルベル人にとって宗教的にも特別な存在。
皆が協力し合って今まで伝統が残されてきた。
親が私達に伝えてきたように、私も後世に伝えてゆきたい。」

集団割礼のお祝いは夜になっても続く。
ここからは男女一緒になっても宴。
1度はすたれてしまった伝統だが、タシュデルトの村人たちにはずっと変わらず共に喜びを分かち合う心が残っている。
そしてこれからも村人たちはこの村で絆を深めてゆく。

月尾「集団割礼の祭礼は宗教色が強いものの、日本の村祭を思わせる。
伝統の衣装を着た人々が伝統の料理に舌鼓を打ち、伝統の舞踊を楽しく踊ると共にこの地域から各地に出ていった人々が戻ることにより、伝統文化の継承と地域社会の維持が図られている。
今回の祭礼は、この集落の若い人々の強い意志により30年ぶりに復活したもの。
これが集落の人々の結束をさらに強め、厳しい環境での地域社会の維持に強く貢献しているという印象だった。
祭礼に参加した人々の喜びに満ちた顔を見るにつけ、日本は失われつつあるものを再び取り戻す努力をする必要があると思う。」

タシュデルト村の畑で栽培されているのはどれも乾燥に強い作物ばかり。
山間部といえども乾燥地帯、厳しい条件の中での暮らしがあるのだ。
ブラヒム「夏は水が足りなくなるので常に水を流すことはできない。
少ない水を近郊の村と分け合って使っている。」

この地域では水源を近郊の5つの村で分け合っている。
タシュデルト村にくるのは10日間で2日だけ。
その水をさらに村の中で分配している。
山に日が落ちる頃、水路の切り替えが行われる。
その水源は5つの村を支えるにはあまりにも頼りない水量。
切り替え作業が始まった。
水が乾ききった村へと流れ出す。
このか細い水流が多くの村人の生活を支えている。
わずかな水を分け合って生きるベルベル人の人々、彼らの暮らしに根付く祖先からの伝統や教え、そして大切に育てられてきた地域の絆が、この厳しい環境での暮らしを支えている。

月尾「数10年前エジプトのナイル川中流域にあるそれほど豊かではない農家を訪れた時、突然の訪問にも関わらずミントティーと手作りの菓子をふるまってくれた。
数年前にモンゴルの草原に生活する遊牧民の住居ゲルを訪れた時も同様だった。
今回ベルベル人の集落のどの家庭でも甘いお茶と菓子がでてきた。
いずれも水が豊かではない地域でこのような習慣があるのは、限られた資源であっても全員で公平に配分するという精神が根付いているから。
これは水に限らず穀物の共同倉庫の仕組みにも反映している。
このような世界が存在する一方、先進諸国の多くでは、強欲な資本主義の支配が進んでいる。
それは単位社会の格差を拡大させるだけでなく、仮想経済が実体経済を何代も上回り、リーマンショックが象徴するように、世界を破綻させるような出来事がおき始めている。
ベルベル人の社会に限らず、先住民族の多くの社会に根付く、限られた資源を公平に配分するという精神を私達はもう1度見直すべきだと思う。」

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先住民の叡智に学ぶ★熱帯雨林に維持される多様な文化〜南米大陸アマゾン源流


南米ペルーの北東部にあるイキトス、町の東側を流れているのが世界最大の流域面積を誇るアマゾン川。
河口からかるか4000km近くさかのぼったこの地でも、海抜はわずか100m、川幅は50m以上に及ぶ。
人々の暮らしを支えるアマゾン川からの豊かな恵み。

開発が進むアマゾン川の源流地域には、自らの文化を大切に守り続ける先住民族がいる。
彼らが受け継いできた様々な知恵は、今の私達に何を教えてくれるのだろうか。

月尾嘉男(東京大学名誉教授)「工業社会から情報社会への巨大な転換が進んでいるが、その社会の中心となる概念も大量生産を背景にする画一から情報の特質を反映する多様へと転換し始めている。
環境についても同様で、自然を開発して同じような環境をつくる時代から、自然を維持しながら利用する時代に転換しつつある。
ペルーは生物多様性について世界有数のホットスポットだが、とりわけアマゾンの源流地域は生物多様性よみならず、文化多様性についても誇るべき地域。

しかし17世紀以降、西洋諸国が生物資源を求めてこの地域に進出し、2つの多様性が急速に失われつつあり、将来が心配されている。
ところが最近自らの多様性の重要さに気付いた地域の人々が、自然と文化を多様性を維持しながら、地域を発展させようという新しい動きを始めている。
世界各地で発生している失われた自然を取り戻す1つの典型を探し求めて、このアマゾンの源流地域を訪ねてみたいと思う。」

日本から飛行機でおよそ20時間、南米大陸の北部に、世界最大の流域面積を誇る河川、アマゾン川がある。
本流の長さ6516km(世界第2位)、流域面積7,050,000k屐弊こβ茖碓漫
標高6000mを超えるアンデス山脈から流れ出た、いくつもの支流が熱帯雨林の雨水を集め、一体となり大西洋にまで注いでいる。
この地にいつ頃人類が住み始めたのか、確かなことは分かっていないが、遅くとも11000年前には、ユーラシア大陸のモンゴロイド系の人々が陸続きだったベーリング海峡を渡り、南米大陸に到達したと言われている。
今回アマゾン源流を旅するのは、東京大学の月尾嘉男名誉教授、情報通信が専門だが、世界の海や山を探訪する中で、自然の大切さを痛感、環境問題の解決に取り組んでいる。

アマゾン川上流に位置するイキトス、人口およそ80万人、川と熱帯雨林に四方を囲まれているため、町へと入る手段は船か飛行機しかない。
陸路で到達する事のできない世界最大の町ともいわれ、今も発展を続けているイキトス、そのきっかけはある植物だった。
パラゴムノキ(トウダイグサ科の常緑樹)、天然ゴムの材料となるこの植物を、西洋人が初めて目にしたのは18世紀の中頃。

以降ゴムブームに沸くイキトスの町に入植者達が大挙押し寄せた。

町の中心には、当時の面影を残す建物が今も残されている。
鉄骨と鉄板をボルトでつなぎ合わせた鉄の家。
エッフェル塔で有名な建築家ギュスターブ・エッフェルの設計。

1889年のパリ万博で展示されていたこの建物を買い取り、アマゾン上流よりわざわざ船で運ばせたのは、当時ゴムの取引で大金持ちとなったフランス人実業家。
しかしこの地に暮らす先住民族にとって、ゴムブームは悲劇の始まりだった。
ボラ族の酋長ウモパ・グワッコさん(38歳)、部族内で語り継がれてきた当時の悲惨な物語を語ってくれた。

「スペイン人と減住民との混血の人々がジャングルへと入ってきて、ボラ族など様々な部族を奴隷にし、ゴムの採取へと駆り出した。
ゴムを採取する際、奴隷達にはノルマが課せられた。
少ししか採取できない者は、薪集めを理由に森へと連れ出され、暴力を振るわれた上に集めた薪を使って焼き殺された。」
反抗するのは難しかったのか?
「当時の私達にとって、混血の人々は恐ろしい存在だった。
彼らに近づくと伝染病の観戦や、暴力を振るわれる危険もあったので、私達は近づくことさえできなかった。」

19世紀末には、およそ2万人いたとされるボラ族だが、今では9分の1(約2300人)まで減少。
さらに当時ボラ族が暮らしていたのはコロンビアの南部、襲いかかる様々な危険からのがれるため、500km以上離れた現在の場所まで辿りついたと言われている。

ボラ族の人々は今、どんな暮らしをしているのか?
ウモパさんの集落を訪ねる。

アマゾン川の支流へと分け入ることおよそ1時間、60人のボラ族が暮らしている。

▲運動場

集落の中には小学校や中学校、幼稚園も備わっている。

▲家族5人で暮らすウモパさんの自宅
町からそう遠くないボラ族の暮し、集落のはずれには・・・

▲マロカ(集会所)中は直径20m、高さ12mほどの巨大な空間
「今も皆でマロカに集まって集落についての話し合いを行っている。」

▲マングワレ
「これを使って様々な情報を伝達することができる。
楽器ではない。
遠くにいる人を呼び出すとき等に使う。
左の太鼓は女性を表している。(高い音が出る)
右の太鼓は男性を表している。(低い音が出る)
バチの先は天然ゴムでできているので音がよく響く。
男女の太鼓の音を組み合わせることで、人を名指しで呼ぶことが出来る。
この音を聞いて、名前を呼ばれた人がやってくる。」

名前だけではない。
どこで何をしてほしいのかまで、この2つの音で伝えることができるという。
「もっと大きなマングワレを使えば、25km離れても音が届く。
周りが静かであれば、さらに遠くまで届けることが可能。」

月尾教授を歓迎するため、ウモパさんがマングワレを叩くと、1時間後続々と現れたのは、周辺に暮らすボラ族の人々。
マングワレの音を聞き、マロカへ集まってきた。
今も大切に受け継がれているボラ族伝統の通信方法、しかし酋長ウモパさんには心配なことがある。
「ボラ族は今、伝統を忘れつつある。
“みんな集まれ”というメッセージは子供達も理解できるが、どう叩けばよいのかまでは分っていない。
こうした伝統は私達の財産なので大切に受け継いでゆきたい。」

月尾「現代の情報通信社会を象徴するインターネットの内部では、1日に世界中で約3000億通のメールがやり取りされている。
素晴らしい技術だが、残念ながらその9割に相当する約2700億通は迷惑メール等、不要なメール。
これを除去するために人々が使っている時間を金銭に換算すると、世界で1年間に160兆円にもなる。
これは世界全体のGDPの3%に相当する。

現代の情報通信社会は、このような大量の無駄の上に成立しているということができる。
一方ボラ族の伝統的通信手段マングワレは、必要な時に必要な人に、必要な内容だけを送信するという通信手段本来の姿を示している。
この一見素朴な手段から、私達は情報通信社会の将来を見出すことができるのではないか。」
ボラ族の女性達がカゴを手に出かけてゆく。

ここは集落全員の食事をまかなう大切な畑。
収穫しているのはユッカ(トウダイグサ科 イモノキ属)、国によってはキャッサバとも呼ばれ、日本ではタピオカの原料として知られる。
ボラ属ははるか昔から栽培してきた。

「この畑では3種類のユッカを育てている。
普通のユッカと、甘みの強いユッカ、さらに毒のあるユッカ。
3種類の中でも一番多く栽培しているのが毒のあるユッカ、そのまま食べると死んでしまうほど強い毒を持つ。
毒のあるユッカからはでん粉をたくさん採ることができる。
でん粉に加工すれば日保ちがよいので、数日間食べ続けることもできる。
普通のユッカからはあまりでん粉が採れない。」
どのようにして毒を取り除くのだろうか?
まず皮をむいてキレイに水洗いし、おろし金ですりおろす。

これを大きなザルへ。
手で押しながら水分を抜いてゆく。

1晩寝かせておいたユッカを椰子の葉で作った網に敷きつめ、さらに水分を抜いてゆく。
ユッカの毒は水に溶けやすいため、こうして何度も灰汁抜きを行うことで、次第に毒が抜けてゆく。
仕上げに数日天日で乾燥させれば、毒の抜けたユッカのでん粉の完成。

この粉から作るボラ族伝統の料理カサベ、粉のまま熱く熱した鉄板の上で5分ほど焼くと、パンのような生地が出来上がる。
ボラ族の食事には決して欠かすことができないという。
さらにユッカのでん粉は炒めるだけで大切な保存食になる。

「こうして加工しておけば、2年ほどは腐ることなく食べられる。(ファリーニャ)
遠いところへ行く時には必ずこれを持って出かける。
そのままでもいいし、水に混ぜて食べることもできる。」
中央アマゾンが発祥とされているユッカ、土壌が豊かでない場所でも、効率よく育つため、世界の生産量はここ50年で3倍以上増加、特に増えているのがアフリカ諸国や東南アジア、人口の増加に伴兄、食料不足が深刻化する今、このユッカに世界が注目している。

月尾「これまで南米大陸が世界を救った植物は数多くあるが、最大の貢献はジャガイモ。
インカ帝国を滅亡させたフランシスコ・ピサロは、大量の金銀と共にジャガイモをヨーロッパに持ち帰ったが、そのジャガイモが救った世界の飢饉は数多くあり、持ち去った金銀よりもはるかに価値があると言われている。
同様にマラリアの特効薬であるキニーネを造るためのキナノキや近代産業を支えた生ゴムを採集するパラゴムノキなども同様。

さらに現在70億人を突破した世界の人口に、新たな食料源を供給するなど期待されているのがユッカ。
ところがジャガイモ、キナノキ、パラゴムの木などを供給してきた南米大陸の人々が受け取った大小は殺戮、搾取、強制労働などだった。
しかしバイオ・パイラシー(生物資源を持ちだし、利益を独占する行い)が国際的に議論されるようになった時代、今回こそは正当な報酬が受け取れることを期待したいと思う。」

ボラ族の朝、酋長ウモパさんがどこかへ出かけてゆく。
やってきたのはジャングル、ナタを使って木の皮をはぎとり、服を作るという。
使うのはさらに内側にある軟らかい層、これを木の棒で叩きながら少しずつ伸ばしてゆく。
叩き続ける事およそ1時間、幅10cm程度だった樹皮が倍近くにまで広がった。
あとは木から絞った樹液を使い、生地に模様を描けば完成。
ボラ族の民族衣装ヤンチャマ、筒状に縫い付けてあり、男女ともつかーとのように腰にはく。

ボラ族の人々がこうして様々な工芸品を作り続けるのには理由があった。
工芸品として観光客に販売し、貴重な収入源となっているのだ。
早くから文明と接触せざるを得なかったボラ族の暮しには、近代化の波が押し寄せている。
いつ頃からお金を稼がないと生活ができなくなったのだろうか?

ウモパ「最初にお金と井う考え方を持ちこんだのは、集落に現れるようになった行商の人々。
米や砂糖はお金で買わなければ手に入れることはできない。
物を買うためにはお金が必要だと・・・
そこで初めて知った。
さらに私の娘が町の高校へ通うためには、毎日8ソル(約240円)が必要。
お金があれば娘に必要な交通費や生活費、学費等も支払うことができる。」

どのようにして収入を得るのか、アマゾン奥地の先住民族にとって大きな課題。
そんな中、新しい取り組みが始まっている。

アドレ・デ・ディオス川の支流、タリカヤ自然保護区、フェルナンド・ロッセンベルグさんは地元の人が定期的に収入を得るための方法を考え出した。
フェルナンド「ここは様々な作物を栽培している農場試験場、柑橘系の果物や花、パイナップル、バナナ、イモ類などを育てている。」

農業は土地さえあれば始められるため、簡単に収入を得る事ができる。
しかし問題が・・・
「この周辺で行われているのは森の影響が非常に大きい農業。
森を切り拓いて畑を作り、2年ほどでまた別の場所へ写って新しい畑を作る。
これ以上森を減らさないために、移動しない農業を行うのが私達の理想。」

土壌があまり豊かではないアマゾンの土地、1種類の作物だけを大量に栽培しつづけると、畑は2年ほどで痩せてしまう。
やみくもな農地の拡大は、アマゾンの貴重な自然を傷つける大きな原因の1つとなっていた。
一方フェルナンドさんが行っているのは様々な種類の作物を栽培することで、土地が痩せるのを防ぐ方法。
わずか100m四方の土地でも、収穫時期が異なる作物をうまく組み合わせることで、収入が安定するという。

フェルナンド「最小限の土地を、最大限に活かす農業ができれば、森に与える影響を最小限に抑えることができる。」
アマゾンで有名なマホガニーの木もこの方法で再生させることができるという。
高級木材として知られるマホガニー、丈夫で加工しやすいため、家具や楽器の材料として用いられている。
しかし行き過ぎた伐採によって、その数は激減、現在はワシントン条約によって取引が制限されている。

「アマゾンの貴重な森林資源、正確な数字はよく分っていないが、7年ごとに間伐を行い、それを出荷すればよいと考えている。
売るのは間伐材で、大きな木は残す。」
30年以上成長を待たなければ市場の価値がつかないと考えられてきたマホガニー。
しかし植林する際の密度を高くし、7年ごとに間伐を行えば、短い期間でも収入を得る事ができるという。
切り出した間伐材は様々な工芸品に加工することができる。

▲ランプスタンドの柱
「これが完成したら市場で約50ドル(約4000円)で売ることができる。
農家にとっては作物以外から得られる貴重な収入だ。」
森を破壊することなく貴重な収入を得るための様々な栽培方法、フェルナンドさんの取り組みは、今や90世帯の地元農家にまで広まっている。
気候変動と自然破壊との悪循環を解決できなければ、2030年までにアマゾンの森林の6割近くが消滅する。(WWF)
自然を守るための新しい取り組みが少しずつ実を結び始めている。

月尾「最近ハイゼンベルグの不確定性理論の見直しが話題になっている。(ミクロの世界は一定以上の精度で測れず、正確な位置と運動量を同時に知る事は不可能である。)
簡単にいえば、あちらを立てればこちらが立たないという内容。
これは人間社会の経済と環境の問題についても同様。
農業を発展させようとすれば、森林の伐採が進み、森林を守ろうとすれば、農業の発展を阻害する。
ところが今回訪れたアマゾン川源流地域では、その両方を両立させるような新しい動きが始まっている。
およそ120年前、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルは、エコロジーという新しい学問体系を提唱した。
それは個別の生物をいくら深く研究しても、自然全体を理解することはできず、あらゆる生物の関係を研究することが重要だという意味。
そのような視点からすると、人間の経済活動であるエコノミーも、自然を保護しようというエコロジーも、十分に両立可能。
今回訪れたアマゾンの源流地域での様々な活動から、私達は両者を統合したエコロミーとでも呼ぶべき新しい学問分野を開拓してゆくべきだと思う。」

若い男女の結婚式、マロカの中に男達が新郎新婦が座る特別な席を組み立てる。
女性達は肉や魚等、ボラ族にとって御馳走となる食材で料理。
集落の皆が総出で祝ってくれる結婚式、主役の2人も作業に加わるのがボラ族龍の感謝の表し方。
普段はTシャツ姿の彼らも、この日は正装に着替える。
酋長の呼びかけで新郎新婦の入場、付き添っているのは2人の恩人だというナコード、結婚のためのものや資金を援助してくれた町のお金持ち。

まずは集落を代表して酋長の兄から御祝いの言葉を贈る。
「結婚おめでとう、絡み合うモリノ木のように、末永く一緒にいられるよう、皆で祈っています。
2人を分かつものはもはや死以外にはありません。」
緊張がほぐれてきたところで、マロカの中央へと招かれる新郎新婦。

♪これから家族になる2人へこの歌を贈ります。
新しい家族の調和が保たれるよう、元気な子供を授かるよう、そして死ぬまで永遠に幸せが続くよう、この輪があなた達を守り続けます。〜♪

♪新しい世代のために力を与えましょう。
家族に災いが起きないよう手を貸しましょう。
私達の守り神である大蛇アナコンダの加護があらんことを。♪

アマゾン川の源流地域で様々な伝統文化を大切に守り続けてきたボラ族、近代化の波が押し寄せる中、彼らの心の中に今も変わることなく息づいているのは様々な知恵を伝えてくれた先祖たちへの感謝とボラ族としての生きる誇り。

月尾「6500kmという距離を、およそ4万分の1という極めて緩やかな勾配で流れるアマゾン川を反映して、この流域に生活する先住民族の人々も10000年以上、極めてゆっくりとした変化の中で生活してきた。
しかし数100年前、西洋諸国が進出するようになり、彼らは激動の時代に直面するようになる。
その激動は残念ながら人々を豊かにするものではなく、数多くの苦難をもたらすものだった。
しかし現在その激動に巨大な変化が発生している。
国際連合の加盟国数は創立以来、およそ4倍近くに増えた(1945年創立時:51ヵ国  現在:1931ヵ国)
が、これは世界が統合から分割へ進んでいる証拠。
また産業は工業中心から情報中心の時代へ変化している。
そして観光についてもひたすら開発する時代から、環境を回復しようという時代に変化している。
これらは一言でいえば画一から多様への変化、そのような世界の変化の潮流を反映して、このアマゾンの源流地域でも新しい活動が始まっている。
これらの活動は世界の画一化の流れの中で、数多くの自然環境や伝統文化を失ってきた日本にとって大変参考になるものだと思う。
世界有数の辺境であるアマゾン源流地域で始まりつつある活動を参考に、私達は日本の自然と文化のあり方について新しい構想を考えるべきではないかと思う。

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先住民の叡智に学ぶ☆原生林に実現する究極の質実生活☆南米大陸アマゾン源流

南米ペルーの南東部に位置するマヌー地域、世界最大の流域面積を誇るアマゾン川、その源流に広がる熱帯雨林・・・
古より変わることのない豊かな自然が残されているアマゾン奥地の秘境。
多様な動植物が生息するこの地はまさに生き物たちの楽園。
この地に暮す先住民族は10000年以上もの長い間自然からの恵みだけを糧に狩猟採集の生活を送ってきた。
彼らが受け継いできた様々な知恵は今の私達に何を教えてくれるだろうか。

月尾嘉男(東京大学名誉教授)「アート・バックウォルド(1925〜2007)(風刺に富んだコラムで有名なアメリカの評論家)に、『誰がコロンブスを発見したか』という一見愉快なしかし痛烈に文明を批判した評論がある。
いうまでもなく1492年コロンブスがカリブ海の島々に到達した時、10000年近くそこに生活し、コロンブスを出迎えた人々がいたというのだ。
ここアマゾン川の源流地域でも事情は似ている。
この一帯を資源の宝庫としか見ることのできなかった西洋の人々が18世紀頃から急速に進出し始め、資源以上に価値のある多数の民族の多様な文化を消滅させ、同時に人間までをも消滅させてきた。
発見された人々の視点で発達してきた現代衣文明が、環境問題、資源問題など様々な問題に直面している。
現在改めて発見した人々の視点で世界を見直すことにより、これからの世界の新しい方向を見出せるのではないかと思う。」

日本から飛行機でおよそ20時間、南米大陸の北部に世界最大の流域面積を誇る河川・アマゾン川はある。
本流の長さ:6,516m(世界第2位)
流域面積:7,050,000k屐弊こβ1位)
標高6000mを超えるアンデス山脈から流れ出たいくつもの支流が熱帯雨林の雨水を集め、一体となり大西洋にまで注いでいる。
この地にいつごろから人類が住み始めたのか、確かなことは分かっていないが、遅くとも11000年前にはユーラシア大陸のモンゴロイド系の人々が陸続きだったベーリング海峡を渡り、南米大陸に到達したと言われている。
かつては1000を超える部族が暮らし、多様な文化を築いていたとされるアマゾン川流域。
しかし19世紀以降、ヨーロッバ人による本格的な入植が始まると、強制労働や伝染病などによって、その数は激減。
現存する部族は今や300ほどと言われている。
今回アマゾン源流を旅するのは東京大学、月尾嘉男名誉教授、情報通信が専門だが、世界の海や山を探訪する中で、自然の大切さを痛感、環境問題の解決に取り組んでいる。

月尾教授が向かったのはマヌー地域、アマゾン川の源流の中でも特に豊かな自然が残されている場所。
もっとも人口の多いマチゲンガ族の家族を訪ねる。
家族5人で暮すモレノさん(42歳)一家、着ているのはマチゲンガ族伝統の服クシュマ。
モレノ「すべて綿製だが、男女で模様が違う。
女性は横の模様だが、男性には縦に模様が入っている。
畑で綿花を育てており、それを紡いで糸にする。
あとは縫ったり模様をつけたり、すべて自分達でやる。
自宅は屋根と床だけのシンプルな作り。
高床式の家は通気性がよく、雨の多い雨季でも快適に過ごせる。

モレノ「シャパハというヤシで編んだ寝床に家族みんなで寝ている。
屋根の内側はクリスネハというヤシを編んで作った。
外側はシャパハ、柱はウィクンゴという種類のヤシを使う。」
屋根には防水効果の高いヤシを、柱にはシロアリに食べられないよう幹が硬いヤシを使う。
同じヤシでも異なる特徴をうまく組み合わせている。

隣にあるのは台所、水は小川から汲んでくる。
お金で食べ物を買うことは全くない。
モレノ「畑ではイモ類やバナナ、サトウキビなどを育てており、川には魚が、森には動物がいるのでそれを家族で食べている。」
月尾「驚くのはものがほとんどないということ。」

収穫のため畑へ行く。
歩くことおよそ30分・・・これが畑。

モレノ「今は雨季なので危なくてこの畑には普段来られない。
横を流れる川が増水してとても危険。
増水するとこの畑は水浸しになる。
作物が水に流されてしまうので収穫に来るのはとても危険。」
マヌー地域の雨季(11〜4月)畑を耕すことができないこの時期、作物はどこで育てているのだろう?
高台に畑があり、季節に関係なく収穫ができる。
にもかかわらず、川沿いに畑を作ったのには理由があった。
「バナナなどは高台の畑でも収穫できるが、すぐに枯れてしまう。
川沿いにある畑なら土がよいので乾季には何度でも収穫ができる。
川が毎年新しい土を運んできてくれるので栄養が豊富。」
雨季の間川がもたらしてくれる肥沃な土が畑の作物に欠かせないのだ。

さらに歩くこと数10分、雨季でも浸水することのない高台の畑。
ここでパイナップルやイモ類などを育てている。

高さ10mほどの木の上には色鮮やかな実が・・・
ヤシの一種にだけなる実で、ピファーヨと呼ばれている。

様々な種類の作物を育てているモレノさんの畑、中でもマチゲンガ族にとって一番大切な作物がある。
それがユッカ(トクダイグサ科イモノキ属)、大きく太った根の部分が食用、栄養が豊富な畑でも年中収穫できるため、主食となっている。

その日の夜、鍋の中に入っているのはユッカを発酵させて作った飲み物、マチゲンガ族が水代わりに飲むというマサト。

その作り方はとても独特、皮をむいたユッカを水で茹で、軟らかくなったところをヘラを使って潰す。
そして・・・つまみ食い?
しかし口に入れたユッカをなかなか飲み込もうとしない。
それどころか、鍋に吐きだしてしまう。
口に含み、唾液を混ぜることでユッカを発行させているのだ。
まんべんなく混ざったところで3日ほど寝かせればマサトの完成。
ヤシの木になっていたピファーヨの実は、そのまま茹でて頂く。

モレノ「雨季の間しか食べられない実。
あなたの家にもピファーヨはなっていますか?」
月尾「木になる実で似たような味のものはあるが、遠いところで採って運んできたものを買って食べている。
みなさんみたいに、すぐ横へ行って採ってきて、ただで食べられるのは本当に幸せだと思う。」
モレノ「ここではお金を払う必要なんてありません。
どんどん食べて下さい。」

月尾「日本でも地産地消の重要さが認められつつあるが、それでも食料の6割、木材の8割、鉱物資源に至っては、ほぼ全量を輸入に依存している。
日本の自給率・・・食料:39%(平成22年度)
木材:26%(平成22年度)
鉱物資源:0%(平成18年)
しかしモレノさん一家の生活を見ると、食べ物は付近の畑で栽培した作物や、自然の果実、近くの湖の中の魚、森の中の獣を食べ、住居は周辺の木材やヤシの葉で作り、衣服クシュマは畑で栽培した綿花で作っている。
究極の地産地消だが、さらに重要なことは、それらは太陽、空気、水でできた循環可能な資源で成り立っていること。
その結果彼らの時間の感覚は我々とは全く違う。
畑に行ってこのユッカはいつ植えたのかと聞いた時、最初彼らはその意味が理解できなかった。
食べ物が必要になれば畑に行って食べごろのものを掘り出せばよいので、いつ植えたかということに意味がないからだ。
翻って日本をはじめとする先進諸国では、1日を細かく切り刻んでその時間に追われるように生活している。
もちろん究極の地産池消のできない現代社会では、計画は必要だが、その計画によって何を得るかということを考えることが重要だと思う。」

日の出とともにモレノさん一家の1日は始まる。
奥さんが朝食に調理しているのはユッカ、火にかけて20分ほど茹でる。
発酵したユッカの飲み物マサトは朝にも飲む。
まずは家長であるモレノさんが口をつける。
そして子供たちへ・・・
器は1つしかない。
家族で少しずつ回し飲みをする。
火にかけていたユッカも茹であがった。
飲み物も食べ物もすべてユッカ、マチゲンガ族にとっていかに大切な作物なのかが分る。
朝食後、モレノさんと息子さんが手にしたのは弓。
モレノ「森に入ると2日は帰ってこない。
獲物が見つかるまで探して、捕まえられれば帰ってこられる。」

家族が肉を食べられるかどうか、すべては男たちの腕にかかっている。
ところが森の様子が急変、雨季の雨は風を伴って激しく降る。
こんな時は無理して外へは出掛けない。
1時間ほどで青空が戻ると、いよいよ出発。
森に入って20粉が経ったとき、モレノさんが何か発見した。
地面に残されていたのは動物の足跡。

モレノ「バクの足跡。
雨季には地面が湿っているので動物の足跡が見つけやすい。」
アマゾン川流域に生息するバク(ウマ目哺乳類)、大きいもので体長2m近くに成長する。
草食なので肉に臭みがなく軟らかい。
獲物への期待が高まる。
歩くことおよおs1時間、森の中にポッカリと開けた空間が現れた。
モレノ「動物たちが集まる場所で、コルパ(塩場)という。
ここの土を食べた動物たちが集まってくるので、いつもこの場所で狩りをする。
昼にはサルやペッカリーが、夜にはカピバラやバクも現れる。」

不足するミネラルを補うために、草食動物がこの場所の土を食べにくると考えられている。
さらにこうした動物たちを狙って、肉食のジャガーが現れることもある。
モレノ「ジャガーに姿を見られたら、すぐに襲われるので、隠れ家を作って待つ。」
隠れ家作りに使うのはヤシの葉。
地面に突き刺しドーム状に重ねてゆく。
完成したら、あとは獲物が現れるのを待つだけ。
しかし残念ながらこの日、動物はコルパに現れなかった。

後日、撮影隊は赤外線カメラを使い、貴重な野生動物の姿を捉えることに成功した。
深夜2時を回った頃、体重200kgを超える巨大なバクだ。
周囲を警戒しながらコルパの土を食べている。
ジャングルは野生動物達に、様々な恵みを与えているのだ。

獲物に出会えなかったモレノさん、このまま帰るわけにはいかない。
やってきたのはジャングル野中にある湖・三ケ月湖。
森で見つけてきたスリと呼ばれる幼虫を針につけ、湖に投げ入れる。
肉が取れなかった分、魚で挽回しようというのだ。

湖であれば獲物はすぐに捕まる。
鋭い歯を持つ肉食の淡水魚ピラニアだ。
釣りの成果は上々、これでようやく家に帰ることができる。

早速奥さんが魚を調理、内臓を取り出し、中に塩を塗り込む。
あとは火にかけて完成、ところがこの魚、すぐに食べるわけではない。
モレノ「燻製にしておけば腐らないし、虫に卵を産みつけられることもない。
魚だけじゃなく、動物の肉もこうして燻製にして保存する。」
燻製にしておけば、湿気の多いアマゾンの気候でも貴重な魚や肉を長期間保存することができる。
マチゲンガ族は厳しい自然環境に順応する技を受け継いでいるのだ。

月尾「技術の主要な目的は、人間により安全でより便利でより快適な生活を提供する事。
そのために技術は人間に環境を合わせる努力を重ねてきた。
しかしその技術があまりにも急速に発達し、あまりにも広範に浸透しすぎたために、資源問題やエネルギー問題など、様々な地球規模の問題を引き起こしているのが現在の状況。
マチゲンガ族の人々の生活は、その対極にあると思う。
一言でいえば、人間に環境を合わせるのではなくて、人間が環境に合わせる生活をしているのだ。
もちろんこの地域の数1000倍の人口密度を持つ日本でそのような生活を誰もが送る事は実際不可能。
しかし日本には、晴耕雨読という言葉もあり、天候にしたがって仕事をし、生活をするという伝統がないわけではない。
ぜひ、マチゲンガ族の人々の生活を参考に、新しい世界の生き方を探ってみてはどうかと思う。」

今も様々な先住民族が暮らすアマゾン川の源流地域、マチゲンガ族が暮らす森から東へおよそ180km、マヌー地域の玄関口となっている町がある。
プエルト・マルドナード、人口10万人ほどの都市、1970年代以降、ペルー政府の経済政策によって、この町の主要な産業へと成長したのが金。
町の郊外に立ち並ぶのは、採掘した金を現金に交換するための取引所。
今もジャングルを切り開きながらの採掘作業が続けられている。
この町に仕事を求めてマヌー地域から移住してきた先住民族がいる。
ピロ族のホセ・フェルナンデスさん(33歳)、川を航行するボートの船頭として働いている。
「平日の朝7時から夕方5時過ぎまで働いている。
給料は月750ソル(約2万3千円)」

町へ出てきたのは10年前、キッカケはジャングルの変化だった。
「昔はたくさんの動物がジャングルにいたけど、どんどん数が減ってきた。
材木業者などが入って、動物たちを森の奥へと追いやってしまった。」
アマゾン川源流地域に押し寄せる開発の波は、彼らが暮しに様々な変化をもたらしている。
仕事を終えたホセさんは、奥さんと共に町の市場へ。
タマネギ:1.80ソル(約55円)/1kg
ニンジン:3ソル(約90円)/1jkg

ホセさん夫婦がこうした野菜を食べるようになったのは、町暮らしを始めてから。
雨が多く湿度が高いアマゾンの気候では、玉ねぎやニンジンは育たない。
町の市場に並んでいるのは、標高の高いアンデス山脈から運ばれてきた野菜。
町へと移った生活が、彼らの食文化をも変えようとしている。

肉は買わないのか?
ホセ「お肉は値段が高い。
森では狩りに行けば手に入るけど、ここでは高くて手が届かない。」

町の中心から車で20分、川に面した一角に、ホセさん達ピロ族が暮らす集落がある。
水を沸かすのに使うのは、オンベ式のガスコンロ、さらに作り置きしたおかずは冷蔵庫で保管している。
この日の晩御飯は町で買ってきたパンとトマトスープのパスタ。

ホセ「みんなうちの家族。
両親と兄弟、あとはその子供たち。
子供たちの学校がすぐそばにあるので、ここは本当に良い場所。
ここに住んでいる方が子供たちも幸せだと思うので。
学校を卒業したら町で仕事に就けるよう願っている。」

さらに今プエルト・マルドナードは好景気に沸いている。
町の東に掛けられた長さ700mの橋、2011年9月に開通したばかりのビリングハースト橋が大きな経済効果を生み出している。
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロからペルーのサン・フアンにまで至る、大陸横断高速道路・インテルオセアニカ(総延長約5500km)、その最後の未開通部分がプエルト・マルドナードのこの橋だった。
橋の開通は大西洋と太平洋を結ぶ巨大な大陸横断道路の開通でもあったのだ。
道路整備によってますます激しさを増す人々の往来、アマゾン川の源流地域にもたらす影響が懸念されている。

月尾「10000種類の本を備えた図書館と、10万種類の本を備えた図書館と、どちらが豊かかといえば、いっぺんには後者。
社会に置き換えてみても同じで、より多種多様な文化が存在するほど、豊かな社会ということができる。
ところが交通手段が普及すると、全国各地で同じような食事が提供されるようになり、通信手段が普及すると、全国に同じようなファッションが一気に普及するという現象が登場する。
社会の発展というのは、多様性を喪失してゆく過程ではないかと思う。
鉱毒道路インテルオセアニカは、この豊富で多様な文化が存在しているアマゾン川の源流地域を急速に単調な社会にしてゆくのではないかと思われる。
この社会の流れを変える事は、なかなか困難だが、せかいでは地産地消、地域通貨、伝統文化の復興など、様々な試みが始まっている。
ここプエルト・マルドナードの光景を眺めながら、これからの社会で多様性をいかに復活してゆくかを考えてみたいと思う。」

アマゾン川の源流地域に暮らすモレノさん一家、ジャングルという厳しい環境の中で生きてゆくため、マチゲンガ族は様々な知恵を培ってきた。
この日モレノさんの奥さんが森で見つけたのは珍しい木の実、ウィトと呼ばれている。
すりおろしたウィトを水とよく混ぜ、モレノさんの足に塗りこんでゆく。
モレノ「ウィトを塗ると狩りの時、蚊が近寄らなくなる。
さらに乾燥すると色が黒くなるので、狩りの時の隠れ蓑にもなる。
獲物に気付かれずに目の前で弓を射る事ができる。」
1時間もたつとモレノさん親子の足は真黒に・・・
1度塗ると1ヶ月は色が落ちない。

様々な知恵を受け継ぐモレノさんに、ジャングルでの暮らしについて聞いた。
1番隣の家は?
モレノ「僕の足で1時間位かかる。」
怪我をしたらどうする?
モレノ「問題ない。
ここに医者はいないが、森にある薬草を使えば治すことができる。
薬草や狩りの知識があれば子供たちも森で生きてゆけるので、今一生懸命教えている所だ。」
この日モリノさん親子がジャングルで出会ったのはヘビ。
ジャングルには様々な危険が潜んでいる。
モレノさんは、子供に話す。「ドクヘビに噛まれた時には、このエスニンガという薬草を使うんだぞ。
茎の部分を潰して蛇に噛まれた箇所に当てるんだ。
水があれば沸かして、水がない時でもおしっこに入れて飲めば効くぞ。
怖がって何もしなければジャングルでは死んでしまうんだぞ。」
マチゲンガ族は文字をもたない。
彼らの知識は代々こうして親から子、さらにその子供へと伝えられてきた。
最後にモレノさんが私達に伝えてくれたこと・・・
モレノ「この森で家族一緒に暮らしてゆく、それが私達にとって何よりの幸せ。」

月尾「モレノさん一家の生活を見ると、数1000年前、人類が農業を手に入れた初期の段階にタイムスリップしたような印象を受ける。
家族はクシュマという衣装を1人2着、日常生活も森の中でも裸足で過ごし、食料の備蓄はゼロ。
体の調子が悪い時には家の周りにある薬草で治すという生活。
現代の技術に関係するものといえば、わずかな炊事道具のみといっても過言ではない。
究極のシンプルライフ、しかし視点を変えると個の生活は人間の社会が長年身につけてきた贅肉を明確に教えてくれるものではないかと思う。
1年に1回着るか着ないかの数10着の洋服や、数10足の靴を保管し、食事のたびごとに食器を変え、大量に買い込んだ食料のかなりの部分を捨てるという生活。
これが文明の発達と考えられなくもないが、しかしその文明が環境問題の主要な原因となっているとすれば、今回訪れたモレノさん一家の生活から、豊かになり過ぎた文明が何をするべきかのヒントを得られるのではないかと思う。」

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地球アゴラ☆未知の国、伝統文化

アゼルバイジャン

世界最大の湖カスピ海に面し、北海道とほぼ同じ広さ。
人口:930万人  言語:アゼルバイジャン語
アゼルバイジャンといえば、忘れてならないのが石油、カスピ海沿岸にあるバクー油田は20世紀初めには全世界の産油量の2分の1を生産した。
そしてこの国では、石油はただ燃料として使うだけではない。
薬局に売っているナフタラン、皮膚の炎症や関節炎に効く塗り薬。
アゼルバイジャンの1地方の名称でもある。
ナフタラン地方で採れる石油には、薬用効果があり、その成分を使った塗り薬が作られている。
子供からお年寄りまで多くの人に使われている。
石油は肌のシミを防ぐ効果があるので、化粧品やスキンクリームなどにも使われる。

石油を使って病気の治療を行っているという病院の原油風呂・・・
原油に含まれる成分が皮膚病や関節炎などに効果を発揮するという。
しかし体にまとわりつく不快感・・・臭い・・・浴槽はすべる・・・

この風呂に使われている原油もナフタラン地方で採れたもの。
およそ100年前、薬用効果が発見されてから、医師の指導のもとで入浴が行われている。
石油の粘つく感じは1週間取れない。
どうやって洗い落とすのか?
靴ベラを渡され、肌をこすって大まかに石油を落としてからシャワーを浴びる。
伝説によると、シルクロードを往来していた商人がアゼルバイジャンの辺りを通りがかり、隊長のラクダが1頭皮膚病にかかって動けなくなった。
旅を続けなくてはならなかったので、泣く泣く他のラクダを見つけて旅を続けた。
帰りに同じ場所に来た時、見捨てたラクダに出会うと、皮膚病が治っていた。
その場所は油田から油が出ており、それがラクダの皮膚に付いていたので、これは・・・と思った。

アゼルバイジャンは歴史以前の時代から石油が出ていた。
天然ガスも豊富。
地面から浮きだした天然ガスが自然発火し、燃えている場所があり、観光ポイントになっている。
国のキャッチフレーズに“火の国”がある。
例えば火の国大学、テレビのコマーシャルのバックイメージとして火の映像が使われ、建設中の高層ビルフレイムタワーは炎の形をしている。

ラトビア
140年ほど前から、5年に1度開かれてきた、歌と踊りの祭典。
3万人を超える人々が大合唱を繰り広げるラトビア最大のイベントは、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。
日常的に歌声があふれている国。
合唱では、いろんな曲を歌うが、2000年以上の歴史があるダイナ(ラトビアの民謡)を歌い継いでいる。
元々シャイで控えめな国民、歌でコミュニケーションをとっているような人々。
どの町にも必ず1つは合唱団がある。

1600人が暮らすアルスンガとう村、主婦仲間で結成した合唱団を訪ねた。
歌詞のないような弱い男をからかい、憐れむというもの。
♪知恵を絞って考えたわ、この男をどうすればよいかを
あんたは私の家に来な、ひもじい思いはさせないよ
冬には氷、春には草をかじらせてあげるから♪
相手や状況に応じて即興で歌詞を作るのもダイナの特徴。
恋の歌を歌いながら農作業をすることもある。
村人「ダイナを歌うことは息をするのと同じくらい自然なこと。
元気がない時でも歌うことで乗り越えられる。」
♪車は回転し糸が紡がれる
暖炉の向こうでコオロギが鳴く
コトコトコト コロコロコロ 暖炉の向こうでコオロギが鳴く♪
ラトビアの首都リガにはダイナを次世代に伝える資料館がある。
口伝に歌われてきたダイナの歌詞をカードに書きとめ、記録を残している。
その数21万曲以上。

1991年、ソビエトからの独立を求める市民集会で歌われた希望の歌があった。
♪夜明けに火が出て、それは初めての明かり
おはよう!神々のご加護あれ!
それは初めての言葉♪
当時ラトビア語は政府から話すことを制限されていた。
自分達の言葉で表現できる唯一の手段がダイナだった。
ダイナはラトビア人の支えだった。
他国の人はラトビア語を理解できないので、言いたいことを歌に込め、不満を解消した。
ラトビアが独立した時、ラトビア人とはどういうものなのかということが、ラトビア人の中で問われて彼らのアイデンティティとして選ばれたのが歌うことだった。
ラトビアはいろんな国から統治されてきた歴史がある。
今ラトビアの人々が味わっている幸せは、日常的なように見えて実は非日常的であるかのような見え方もできるのではないか。
いつまた自分たちの自由が奪われるかわからない。
その中で歌を自由に謳歌できる、歌を歌って人生を楽しめるというこの瞬間を皆が楽しんでいる。
日常生活の中に歌があり、体を動かしながら口から風が吹くような感じで歌が出てくる。
歌が楽しすぎて手が止まってしまうこともある。
ダイナの数・・・資料館に所蔵されているものは約20万と言われている。
それ以上、400万くらいあるとも言われている。
♪どんな不幸が起こっても不幸を嘆いたりはせぬ
不幸は石の下に置き、歌いながら石をまたぐだけ♪

いろんな国から統治されていた中で、自分たちの自由は保障されない。
そういった中でも受動的に不幸を受け入れるのではなく、能動的に耐えしのぐ、そういう状況ですらも楽しもうではないかという前向きな力強さを感じる。
同じ旧ソビエト、アゼルバイジャンでは、詩を読む事が人気、そこらへんにいるおっちゃんでも、いくつも代表的な詩人たちの代表作を暗唱できる。
詩人や文学者を尊敬し、バクーの町に立っている銅像や肖像画も多くは政治家や軍人より、詩人などが多い。
日本でも和歌や短歌で気持ちや思いを伝えてきたが、現代の日本人はその情緒を忘れているのでは?

▲アゼルバイジャン ドーガ▲
ヨーグルトを使ったオジヤのような料理。
材料は米、羊の肉団子、豆、玉ねぎなど。

普通のヨーグルト以外にも、様々な種類の菌や製法を用いたヨーグルトがある。
カスピ海ヨーグルトなどを食卓に添えて、いろんな料理と一緒に食べる。

▲ラトビア ビエシュズッパ黒パン添え▲
ビーツを煮込んで玉ねぎやキューリを加えた冷たいスープ。
サワークリームやヨーグルトを混ぜて食べる。

▲ベリーズ ライス&ビーンズ▲
お米と豆をココナッツで炊いた料理、スパイスで煮込んだチキンなどを添えて食べる。

ベリーズ
メキシコのユカタン半島とグアテマラに隣接するマヤ文明が栄えた都市。
お米が採れ、主食としている。(他の中南米はトウモロコシを主食にしていることが多い。)
ビカドというマヤ独特のスパイスを使っている。
ベリーズはイギリス領だったが、1981年に独立、国土の7割を占める森林地帯では、紀元前から16世紀にかけて、マヤ文明が栄えた。
マヤの人々は、建築学や天文学、数学など、高度な学問を身に付け、その一部は現代にも受け継がれている。

マヤ伝統の病気の治療法がある。
マヤの人々が暮らす集落の診療所を訪ねる。
ブッシュドクター:ヘリバート・ココムさん「これは瓜、中にミツバチがいる。
ミツバチから採った蜂蜜を薬にして、白内障や結膜炎、喘息の治療に使う。」

ブッシュドクターは、森の植物を利用して700種類もの薬を作る。
ツリーメリスの葉は頭痛に効く。
トゲトゲの木のトゲは針として使う。
内側に感染しているものを治癒する力がある。

森の植物に宿る力を上手に利用するマヤの医療に、今も多くの人々が信頼を寄せている。
「植物の生薬や癒しの祈りを通じて、神の力の奇跡を見ることができる。」

ココムさんは森の恵みを与えてくれる神々への祈りの儀式もつかさどる。
最近では、こうした伝統儀式にマヤ以外の市民も参加している。
ベリーズシティでは、青空マーケットやショップでも小袋で薬を売っている。

マヤの人たちは5000年以上前から住んでいた人々、イギリスの植民地となり、アフリカの奴隷を連れてきた。
そういった中で元々あったものを尊敬しながら共存してゆこうという国。
国旗にも世界で唯一黒人と白人が一緒にはいっている。
マヤがあったからこそ、いろんな人たちが入ってこられて、今の人種があると思われている。
マヤといえば、2012年でマヤの暦が終わるので、地球が滅亡するという映画もあったが、ベリーズでは、どう見られているのだろうか?
マヤの人たちはたくさんのカレンダーを持っていて、その1つの区切りになるということで、また新しい時代が始まると思われている。
地球が終わるわけではない。

日本人が忘れている文化の1つ、上履き、床の清潔さを保つ、外の世界と中の世界の区切りとして、靴を脱ぐだけではなく、中の生活スタイルも上履き1つでできている。
「いただきます。お疲れ様。」など口癖になっているが、その外にある相手を気遣う文化。
伝統とは先人が残すべきものを伝えてきた意志の現れなのではないか。
アゼルバイジャン人は自分たちの文化や伝統に自信や誇りを持っており、それを正直に人に話す。

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地球アゴラ☆驚き世界のシェアライフ

オランダ ヒルヴェルスム
50世帯、およそ150人が暮らす集合住宅。
とある家族の家は85m2 3LDK 家賃6万円(フィットネス機器等の使用料金はタダ)
キーワードは合理化、共同で使えるものは、極力シェアすることで個人の出費を減らし、同時に快適な生活を追求しようとしている。

シェア \濯機&乾燥機
集合住宅の一角に共同の洗濯スペースがある。
5世帯あたり3台の洗濯機と、2台の乾燥機がある。
必ずしも家の中に置く必要がないものは皆でシェアしようという発想。

たまにしか使わないけど、あるととても便利というものも、皆でシェアしている。↓
シェア◆々具
工作室には100種類以上の工具がズラリ、日曜大工で困ることもない。
こうした物の購入資金は、住民たちが出し合う積立金で賄われている。

高価なものもシェアの対象↓
シェアフィットネス機器
家に置くには場所もとるのでちょっと・・・
そんな悩みもシェアで解決。
9種類のフィットネス機器を、思う存分使うことができる。

他にもサウナや緊急医療機器AED、卓球台、遊具など、充実した暮らしを送るため、様々なものをシェアしている。
住民リーダー「ここで暮らすと、少ない出費でたくさんの共有物が使える。
シェアすることで生活の質が上がる。
まるで大邸宅に住んでいるみたい。」
シェアするものは住民会議で決める。(月1回)
学生がルームシェアしたり、家族、公務員、音楽家、ファイナンシャルアドバイザーなど、世代も様々。
集合住宅にはオープンカフェもある。
住民が積みたてたお金で作った。
みんなが無料で利用でき、交流の場になっている。
大型プロジェクターも購入、定期的に上映会が開かれ、より多くの住民が集まるようになった。
住民「他人と物をシェアするこおtで、人間関係が広がり、結束力が強まる。」
何か用がある時、鍵がかかっていなければ、他人の家の中に入っても良い。
拡大した家族みたいな感じ。
10個のグループに分かれており、グループごとに家族みたいになっている。
住民を選ぶ時、フィーリングがあうかどうか調べるためインタビューする。
週1で一緒にご飯を食べたり、ベビーシッターをしたり、病気の時は助け合ったりする。

日本人はディスカッション、議論、対話が苦手。
ものを介して誰かとつながってゆくという方が、日本人も海外の人もコミュニケーションをとりやすい場合が多い。
日本の昔の集落では、水の取扱い、川で皆が洗濯したり大根を洗ったり、水をどういう風に取り扱うかのルールを皆と一緒に話し合っていた。
その時は水に向けて話しているので、あの人は嫌いだとか好きだとか言っているわけではなく、水に対して話をしているので、そうですよとか、ちょっと違うんじゃないかといった話し合いはスムーズにできる。
面と向かって、さあ話をしましょうと言うと緊張したり、うまくディスカッションできないということが多い。
サモア 南太平洋に浮かぶ島

人口およそ18万人、住民の多くは農業や漁業、観光業で生計を立てている。
種とのアピアから車で1時間、500人が暮らす集落。
サモア伝統の住宅、壁がなく外から丸見え。

サモアでは、必要なら他人の物でも使ってよい。
自分の携帯電話が壊れてから、ずっと友人の電話を使っている。
住民「この国ではどんなものでも分かち合うのが伝統、もしテレビを持ち帰りたいと言われたら、喜んで渡すよ。」

自転車も友人の家から持ってきたもの。
自分が持っていた自転車は現在、別の人が使っている。

隣近所なら声をかけずに物を拝借することもある。
物干しに吊るされている腰巻も・・・
「人間関係さえあれば、声をかけずに持って行ってもいいんだ。
この前は靴を履いて帰ったよ。」

でも黙って持って行かれた方は腹が立たないのだろうか?
「誰かが困っていたら自分の物を渡すのは当たり前。
そうすることで皆が幸せになるからね。」
どうしても持っていかれたくないものは、箱に入れ鍵をかける。

サモアの路線バス、混雑した車内で・・・
来客の1人がお菓子を取り出し見知らぬお客さん達に、はいどうぞ・・・

次のバス停で1人の女性が乗り込んできたが、車内は万席、座る場所がない・・・
すると初対面の人の膝の上に座ってしまった。
その後も乗り込んできた客は次々と膝の上に座ってゆく。
男性同士も・・・
サモアでは立って乗るのは禁止。

小学校では持ってきた弁当をみんなで分かち合って食べる日が設けられており、分け合いの文化に小さな頃から親しむ。

日本など先進国で経済が発展してゆく過程で(資本主義の状態の中で)、1が2、2が3、3が4になってゆく。
どんどん豊かになってゆく。
いろんなものがあり、お金もいっぱいあって、「消費するというのが豊かさ」という概念がどこからか根付いていいる。
サモアはシェアすることが生活の満足度につながるというまったく対局。
今日本において飽和しているような上京、自分達が今まで持っている概念の豊かさというのが、この先何があるのかという状況に差し掛かっている。
豊かさとは何か・・・
資本主義の中でも、お金に換算される資本、エコノミカルキャピタルをたくさんあげてゆこうと思われているが、全部所有すれば、誰かと共有する必要がなくなってくるので、人間関係の方は少なくなってくる。
これをソーシャルキャピタルという別の資本と呼ぶようになってきている。
ソーシャルキャピタル、人との人間関係の資本をどんどん減らしながら、お金の方の資本をあげてきたのがこれまで、これで資本主義は成功したかというと、孤独死や自殺、鬱が増えている。
環境の資本も相当食い散らかしながら、お金に換算できるようなものにしてきた。
人間関係の資本もどんどん少なくなってきている。
もう1度環境のことも考え、あまりたくさんの物を持とうとしないようにするとか、誰かと共用することによってつながっている安心感を持とうとするとか・・・そうすると若干お金の方の経済は少しダウンさせてもよいのではないか。
ニュースなどで、株価が変動して落ちましたとか、経済の成長率が延びませんというスタンツで物事を捉えると、今危機だという状態になる。
成長する必要がもともとない、シェアすりゃいいじゃんというふうになってくると、まったく変わってくるのではないか。
成長幻想、成長市場主義はかなり長い間あり、ニュースなどでマイナス成長という言葉が使われるマイナスがつくなら成長じゃないのに、成長とつけとかないと安心しない、私達はそんな社会の中に生きている。

アメリカ ニューヨーク
市がスポンサーをつけて、600カ所に10000代の自転車をマンハッタン地区、ブルックリン地区に置いて、どこでもピックアップしてどこでもドロップオフできるという取り組みが始まろうとしている。

住民「新しい物好きのニューヨーカーには最初は話題になるだろうが、地下鉄も便利、自転車を持っている人も多いので、市民から求められているサービスとは思えない。
観光客向け?
またスポンサーがついている割に、値段設定が高く、根付くのは難しいと思われる。」

車社会のアメリカでは、通勤などに車を使う人が多いので、渋滞の原因にもなっている。
そこで新たなコンセプトを持った自動車を作ってみんなでシェアしてゆこうというプロジェクトを進めている。
今年1月市民にカーシェアリングを普及させようと、革新的な自動車が発表された。
マサチューセッツ工科大学のアイディアを基に、複数の企業が共同開発した電気自動車の試作品、特徴は小回りがきき、コンパクトに折りたたむことができるユニークな車体、従来の自動車に比べ、駐車スペースを大幅に減らすことができる。

町の異たるところにこの電気自動車を止める拠点を作り、大勢の市民で共有しようという発想、電気自動車のカーシェアリングはボストンやサンフランシスコ導入が検討されている。

オランダでは自転車シェアが盛ん、駅に設置してあり、年間10ユーロ払い、毎回の使用量(300円くらい)でシェアできる。
ヨーロッパでは自転車シェアが溶け込んでいる。
なぜ、アメリカでは難しいのか・・・ヨーロッパ人は合理的な考え方、アメリカ人は個人主義。
アメリカの影響を受けた日本も、自立して生きてゆきなさい、個人でなんでもできるようにしてゆきなさいと育てられてきた。
20世紀、アメリカ型でゆこうと思ってきたが、ふと気づくとちゃんと勉強して良い会社に入り丘陵をもらい、誰にも迷惑かけないようにして、自分で生きてゆきなさいと育てられてきた人達が、皆とのつながりを自ら経つような自立した個人になってきている。
そんなに頑張りすぎなくてもよかったんじゃないか。
江戸時代のお母さん、お父さんは、困っている人がいたら助けなさいとか、もし自分が困ったら助けを求めなさいと育てたかもしれない。
アメリカはいろんな宗教、価値観があり、それを皆統率し、シェアは難しい。
最低限の人の責任までシェアされるとトラブルになる。

オフィスシェアも流行っているが、簡単にビジネスを始められるからこそ、ちょっと危機に面した時に諦めてしまう、覚悟が足りない。
責任はどうシェアするのかとか、自分の持ち物ではないという安堵感から乱雑になる。
物に対する愛情が薄れる。
物によって、どういう物がシェア向きで、どういう物が個人で持っていたほうがよいかがある。
自分の持っている物に対して責任を持ったり、自分の持っている物をよりよくしてゆくために、物事を頑張ってゆく姿勢が今までの社会を推し進めてきた。
ただ一方、今は有限のスペースや資源があるので、オランダのように合理的な考え方を取り入れながら、シェアできるものはシェアしようということ。
それにはサモアのような価値観も見習うべきなのではないか。

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世界の年の瀬の過ごし方(バーレーン 東ティモール パナマ マーシャル諸島)

マーシャル諸島
太平洋に浮かぶサンゴ礁の島。
マグロ、カツオ漁が盛ん。
人口63000人、その半数は首都マジュロに暮らしている。
住民のほとんどがキリスト教を信仰し、クリスマスは待ちに待った楽しいシーズン、毎年12月25日になると、地域の教会に集い、職場や学校のグループで、ビートと呼ばれる踊を披露する。
2ヶ月前からグループごとに練習を開始、オリジナルの歌と振付を考える。
ビートの特徴は日常生活の動きを取り入れた振付。
あるグループは海に潜り、真珠貝を採るしぐさを踊りにした。
マーシャル諸島では、古くから生活の様々な仕草を踊りにしてきた。
こうした踊りに西洋の音楽が融合し、ビートが生まれたと言われている。
今も昔と同じように、暮らしの1コマを踊りで表現し、自然の恵みに感謝する。
マーシャル諸島には文字がなかったので、漁や農作業の仕方など、島での出来事を踊りで伝えてきたと言われている。
地元の人「ビートを踊るとハッピーな気持ちになる。」

バーレーン
ペルシャ湾に浮かぶ島国。
海水から人工的に真水を作っており、緑が豊富。
人口80万人、経済は石油と天然ガスに支えられ、首都マナマは中東の金融の拠点としても注目されている。
イスラム教徒が多く住み、イスラム暦で宗教行事を行う。
イスラム暦は月の満ち欠けによるものなので、年末年始の日にちが西洋暦とは異なる。
今年は11月27日に新年を迎え、新年から数えて10日目、アーシューラーと呼ばれるシーア派の宗教行事が行われた。
新年からアーシューラーの日まで人々は普段と違う過ごし方をする。
アーシューラーはシーア派の人々がいる国イランなどでは一般的な行事で、中でもバーレーンはシーア派が国民の70%を占めるので、町の雰囲気がガラリと変わる。
12月5日、マナマの旧市街、アーシューラーを控え大勢の人が繰り出した。
1300年以上前に殉教したイマーム・フセイン、勇猛果敢に敵と戦った英雄的な指導者として、シーア派の人々に敬愛されている。

年の初めは10日間にわたりイマーム・フセインを追悼する。
町の至る所でロウソクが灯され、厳かな雰囲気に。
町の人「イマーム・フセインの思想を忘れないために、毎年ロウソクに火を灯す。」
子供達はイマーム・フセインが殉教するまでの物語を絵にする。
子供「家族の手首を切られ、フセインの母親が嘆き悲しんでいる所を描いている。」
子供のころからこうした場面を描くことで、イマーム・フセインへの思いを深めてゆく。

この時期、あちこちで炊き出しが行われる。
追悼に参加する人達の気持ちを1つにしてゆくためだ。
伝統料理マラグなど、料理はボランティアの人達によって作られる。
隣の部屋では女性のボランティアが集まり、サンドウィッチを作っている。
炊き出しの料理は10日間にわたって、朝昼晩と配られる。
主婦は料理をしないで済み、女性も家事から解放され、追悼に参加する。
行事に参加する人達は、同じ釜の飯を食べ、一体感を深めてゆく。

12月6日、追悼行事のクライマックスを迎える。
男達が町を行進、人によっては白装束が真っ赤になるくらい、鮮血を流す。
自らを剣で傷つける男達、殉教したイマーム・フセインと同じ痛みを感じることで、敬愛する指導者を今年も忘れないことを誓う。

これがバーレーンの1年の始まり。
ハイダル(流血の儀式)・・・流血グループの前後に救急車が待機している。
手で胸を叩くのはその代り、多くの人は流血の儀式の代わりに行う。
子供も手や鎖で胸を叩く。

パナマ
2014年パナマ運河が完成から100周年を迎える。
今パナマ運河を拡張しており、景気がよい。
人口350万人、16世紀にスペインの植民地となり、その後コロンビアの一部となり、1903年に独立。
スペインの文化が色濃く残っている。
パナマの年越しは願掛け、特に大晦日から年明けにかけては願掛け尽くし。
いろんなやり方で新たな年への願い事をする。
パナマで一般的な大晦日の料理↓

鶏肉の炊き込みご飯、豚のハム、赤カブを使った赤いポテトサラダ・・・
小皿のトウモロコシ、米、豆、穀物、硬貨は、食べ物やお金が不足しないようにと食卓に並べる。
願掛けに欠かせないのはブドウ、年が明けた瞬間、12粒手に取り食べる。
12粒は1年の12月を表し、ブドウを食べた後、種の数を数えて置き、その数をその年のラッキーナンバーにする。(そのナンバーの宝くじを買う)
年が明けるとすぐ願掛け。

↑古着に藁や紙を詰めた人形ムニュコ・デ・マニョ・ビエホ(古い年の人形)
年越しの願掛けに使い、0時になると燃やす。
その年に悪い噂のあった人、スキャンダルがあった政治家など、有名人がモデル。
人形が去年の象徴のようになっており、それを燃やすことで、悪い思い出や悪いできごとを全部燃やしてなかったことにしてしまう。
旅行に行きたい人はスーツケースを引っ張り出してきて椅子の上にスーツケースを持って立ち、「旅行にいくぞ!」・・・すると旅行に行けると信じられている。
新年があけるとビーチに行って海(潮水)に浸かると悪い運が流れてゆくと信じている。
パナマ人は楽天的で運任せ、カトリックの国だが信じていれば、神様が見ていて願いをかなえてくれるという信条がある。
東ティモール
熱帯の小さな島、海がきれい、独立してもうすぐ10年。
はるか昔、年老いたワニがティモール島に姿を変え、自分達が住めるようにしてくれたと信じ、ワニを敬っている。
ワニに食べられてしまう人もいるが、その人は悪いことをしたのではないかと思われる。
人口106万人、人口の50%以上が若者。
面積14800k屐粉篌蠍とほぼ同じ)。
元々ポルトガル領だったため、90%以上の住民がキリスト教を信仰。
長く厳しい紛争が続いてきたが、1975年ポルトガルから独立宣言。
しかしすぐにインドネシアが武力侵攻、紛争が勃発した。
2002年5月、ようやく独立を達成するが、その後も各地で内乱が続き、国土のほぼ全域が荒廃。
この30年ほどの間に20万もの人々が犠牲になったと言われている。
独立後も続いた紛争は、2008年にようやく終息。
この3年間は復興に向け歩んでいる。

首都ディリ、平和を取り戻した町は今大きく変わりつつある。
色とりどりの携帯電話、3か月前には国内で初めて大型ショッピングセンターもオープンした。
クリスマスシーズンを迎え、町は華やいだ雰囲気に包まれているが、深刻な問題も抱えている。
50%以上と言われる高い失業率、急増する労働人口に対して雇用は少なく、将来に希望を持てない若者が増えているという。
そんな中この国の将来を歌に託す青年がいる。
ビクター・シモエスさん(25歳)、ストリートミュージシャン。
ある日小学校でクリスマスソングを教える。
ビクターさんは7人家族、両親は小さな雑貨店を営んでいるが、学費を払えず高校を中退、今はアルバイトをしながら大学へ通っている。
子供の頃は家の周りで紛争が続き、家族で山に隠れていたこともあった。
人前で歌えることが夢のようだとビクターさんはいう。
ビクターさんは毎日のように広場などでこの国の未来に希望を持つことの大切さを伝えている。

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知られざる物語 京都1200年の旅★清水寺

清水寺へと向かう参道、古の息吹を肌で感じることができる道。
正面に、聖徳太子が建てたとされる法観寺五重塔八坂の塔の名で親しまれている。
幾度も消失と再建を繰り返し、今の姿は室町時代に建て直されたもの。
京都で2番目に古い五重塔。
今は五重塔しか残されていないというこの寺、塔のみでありながらも強い存在感、まさに京都の人々の心のよりどころともいえる場所。

八坂の塔のすぐそばにあるユニークな寺、金剛寺(八坂庚申堂)に祀られているのは猿。
60年ごとにおとずれる庚申の日に寝ずにお参りすれば、どんな願いも叶うのだという。
見猿 言わ猿 聞か猿の3匹の猿が人々を見守る。

境内の至るところに吊るされた色とりどりの人形は、手足を縛られ動けなくなっているくくり猿、人間の欲望を抑え、望みがかなえられるよう、この人形を吊るす。

八坂の塔を過ぎると見えてくるのが二年坂
石畳の道が醸し出すことの情緒。
三年坂とも呼ばれる産寧坂、昔から残る2つの坂を上り清水寺へ。

賑わいをみせるメインストリート清水坂、多くの店が軒を連ねるこの道をまっすぐにのぼると姿を現すのは京都の町を守るように建てられた美しい朱色の門。
清水寺の玄関口・仁王門の真ん中には、平安時代に書かれたという清水寺の文字が。
鮮やかな朱の色から赤門とも称される清水寺の正門。
今の建物は室町時代に再建されたもの。
周りには鮮やかな朱に生える緑のスノコがあしらわれている。
屋根は入母屋造り。
平成になり修復が行われ、再建当時の色合いが蘇った。

さらに進むと見えてくるのが赤く彩られた三重塔
上に行くほど柱の間が狭くなっており、実際より高く見えるのだという。
屋根の東南に置かれたのは青龍の鬼瓦
火を防ぐ守り神である龍、火事から逃れられるように、との願いを込めたと言われている。
門を彩るのは美しい極彩色の文様。
金と漆をふんだんに使って描かれた桃山様式と呼ばれる緻密な装飾。
この塔の内部に祀られているのは密教における根源的な仏・大日如来
天井や柱などには密教の仏画が華やかな色使いで描かれている。

清水寺の中門である轟門、龍の口からでる手水が参詣者を迎える。

そして境内を進むといよいよ見えてくるのが本堂。
この奥に清水寺の本尊・十一面千手観音菩薩が祀られている。
慈悲の仏である観音菩薩は観音様の名で親しまれる馴染深い仏の1つ。
この観音は独特な姿が特徴。
頭上に4つ、左右に3つずつ、そして後ろに1つ、合計11の面。
40本の腕には25の人々を救う力が宿っているため、千の手を持つと考えられている。
長い手を伸ばし、頭の上に掲げているのは化仏と呼ばれる如来。
このように腕を頭上に高く掲げ、如来像をいただく観音は他にはなく、清水寺型と呼ばれる独自の物。

33年に1度開帳される貴重な十一面千手観音菩薩の横で観音を守っているのが二十八部衆と呼ばれる神々。
千手観音を支えるだけでなく、その強い力で観音を信じる者達をも守ると言われている。
秘仏である本尊、十一面千手観音、開帳の時以外は実際に見ることはできない。

代わりに訪れた人が拝むのが御正体、銅板を貼ったヒノキの板に浮彫の観音像が取り付けられたもの。

そして清水寺と言ってまず思い浮かぶのが多くの人が訪れる清水の舞台
しかしなぜこのような大きな舞台を清水寺は持ち合わせているのか?
参籠(神社、寺院などに一定の期間籠って祈願すること)をする人が増え、手狭になり少しずつ拡張された結果舞台になったのだという。
たくさんの人々が籠って祈願した清水寺、崖にせり出すその部隊の大きさがこの寺の人気を物語っていた。
『枕草子』(平安時代)に、当時の様子が記されている。
400枚以上のヒノキを敷き詰めた、その名の通りのヒノキの舞台では、歌舞伎、能、相撲など、様々な芸能が奉納されたという。
この舞台は傾斜の急な崖に建てられた懸造りと言われる構造、舞台造りとも呼ばれる。
支えるのは高さ数十メートルの18本のケヤキの柱。(樹齢400年以上)
ケヤキやヒノキには樹齢の倍の耐久性があると言われる。

京都市左京区井ノ口谷で育っているのは清水寺の舞台に使うための木。
京都府内の3箇所の山林を清水寺が購入し、ケヤキとヒノキを6000本以上植えている。
この木々が清水寺の舞台に使われるのは数百年の後の事。
そんなはるか未来にまで歴史を繋いでいくための努力が、すでに始められていた。

清水寺の舞台を下ると見える2すじの清流、音羽の滝
寺を抱く音羽の山から1200年以上にもわたってわき続ける聖なる水。
こここそが清水寺の名の由来となった場所。

かつてこの地には行叡居士と呼ばれる仙人が住んでいたという。
清水寺が建てられる前の奈良時代、200年以上生きたとされる伝説の人物。
行叡居士はこの地に小さな庵を造り、滝に打たれて修行していた。
この庵こそが清水寺の起源と言われている。
その後この地に清水寺の建物を作ったのが坂上田村麻呂
ある時妻の出産を控え、安産に良いとされる鹿を刈るため音羽山に入った。
そこへ行叡居士に庵を譲られ、千手観音を祀って修行を続けてきた延鎮上人にである。

延鎮上人は坂上田村麻呂に鹿を殺すことは観音の教えに背くのだと諭した。
深く感じ入った田村麻呂は妻と共にこの地に清水寺を建てた。
その物語を今に伝えている場所、清水寺の境内にある田村堂
お堂の中には田村麻呂とその妻の像が安置されている。
貴族の正装をした高子婦人の像(三善高子命婦坐像)、正面を力強く見据え、当時の正装をした坂上田村麻呂の像が並ぶ。

音羽の滝の真上に建つ清水寺の奥の院、いわば清水寺発祥の地。
清水寺で毎年年末に行われる今年の漢字が披露される場所としても知られる。

観音を心から崇めていた坂上田村麻呂、当時東北地方を支配していた蝦夷討伐の前に清水寺に祈願して、見事に勝利を収めたという。
その活躍の褒美として桓武天皇から立派な邸宅を賜った田村麻呂は、その屋敷をそのまま清水寺へ移築、それが今の本堂の原型だと言われている。

本堂の屋根は上の方はふっくらと膨らみ、下の方はへこんだ曲線を描く独特の形。
ムクリソリという日本の伝統的な屋根の特徴は田村麻呂の邸宅の名残。
東京スカイツリーにもムクリやソリを応用したデザインが採用されている。

平安時代紫式部も清水寺を訪れたという。
廬山寺、京都御苑の傍らにひっそりと建つ紫式部ゆかりの寺。
夏にこの寺に美しく咲き誇るのは源氏物語にも描かれた桔梗の花
紫式部はこの寺でほとんどの作品を執筆したという。
紫式部にはかつて宮殿で仕えた皇后の病の回復を祈願し、清水寺に籠ったという逸話が残されている。
“清水の方ぞ光多く見え
人のけはひもしげかりける
この尼君の子なる
大徳の声尊くて
経うちよみたるに
波だののこりなく思さる”

桂川に架かる渡月橋を渡って南へ下り自然に囲まれた嵐山へ。
時代が変わると貴族だけでなく、武士も清水寺を参るようになる。
まるで外の世界を忘れさせるように続く美しい竹林の道を抜けると、たどり着くのは足利尊氏が創建した天龍寺

数度にわたる大きな火災を経て、現在の建物は明治以降に再建されたもの。
凛とした厳かな雰囲気が漂う広いお堂。
その奥に広がる美しい庭。
緑が目にもまぶしく美しい自然豊かな境内。
大きな池を中心とした庭園は、後ろにそびえる嵐山をはじめ、周りにあるすべての景色をその長めの一部に取り込んで造られたという。
当時のそのままの形で残る3枚の石、日本最古の石橋であると伝えられている。

室町幕府初代将軍・足利尊氏も清水寺に自身の願いを託したという。
その願いとは?
天龍寺総務総長・栂承昭「尊氏がもっとも恐れていたのは怨霊。
だから一生懸命いろんなところに祈願した。
観音様や神仏に頼る。
清水信仰もその一環。
戦いにより弟を亡くし、自責の念が大きかった。」
尊氏は弟・忠義への思いをつづった願文を清水寺に収めた。
16世紀に描かれた『清水寺参詣曼荼羅』は、清水寺がその時代、いかに篤い信仰を集めていたかを示すものの1つ。
身分を問わず様々な人達が観音のご利益を求め、この寺を訪れる様子が描かれている。
彼らはこの場所で修行や祈願など、それぞれの目的で時を過ごした。
この曼荼羅は清水寺への参詣を全国に呼び掛けるために作られた。

清水寺には他にもさまざまな人物の逸話が残っている。
本堂にある弁慶の指跡、武蔵坊弁慶がつけたとされる傷。
弁慶と牛若丸が出会ったのは、実は清水寺だったとも言われる。

室町時代に書かれた歴史物語『義経記』には弁慶が清水寺の舞台で牛若丸に勝負を挑んだという一説が・・・
敗れた弁慶はその後、牛若丸の家来になったと言われる。
そのため清水寺には弁慶の杖や鉄下駄などの品、伝説の数々が後に作られたいった。

安土桃山時代、大公豊臣秀吉も、観音の加護を求め、何度も清水寺を参ったという。
母親が病から回復するよう、秀吉が清水寺に祈願し収めたという願文が残っている。
その甲斐あって母親は無事に回復。
後に秀吉はお礼として一万石を寄進したという。

清水寺の周りにはかつての参道である風情ある坂道がある。
その道沿いには様々な店が建ち並び、今も多くの人でにぎわう。
中でもよく知られているのが清水焼
谷口松韻堂は清水寺と共に発展した焼き物の文化を今に伝える店。
店内に並ぶのは色も形もとりどりの清水焼の器。
この店では300年物昔からこの場所で清水焼を扱っている。

店主「清水寺のふもとで良い土が出て、三年坂から上などの傾斜地を利用した登り窯があった。
盃とご飯茶碗は薄くて上品。
網目模様の茶碗、中外切れ目なく続く模様は、シルクロードを伝って中東からきた。
真ん中から見るとオアシス(命の水)。」

清水焼団地は清水焼の歴史を今に受け継ぐ場所。
伝統の焼き物を造り続ける商人達、1つ1つが丁寧な手作業。
そもそも清水焼が発展したのは都に暮す美に造詣が深い人々の厳しい注文に応えてきたため。
高いろくろ技術による洗練された美しさで時代を越え、高く評価されている。
それぞれに違った表情を見せる清水焼、繊細で色鮮やかなデザイン、決まりに捉われない自由な作風がその特徴であり最大の魅力。

もう1つ、清水寺の周りで発展した伝統工芸が扇子。
このあたりは昔から竹財が多かったため、扇子づくりが盛んになった。
扇子は元々扇と呼ばれ、平安貴族の象徴として儀式などで用いられていたという。
鮮やかに彩られた京扇子、飾りに使うものから能や茶道で使われるものまで、その種類は様々。
扇子には京に古くから伝わる美の心が現れている。
清水坂と産寧坂の交わる場所に建つ七味唐辛子の七味屋
創業は江戸時代の初め、風情ある店構えが伝える350年の歴史。
当時は茶店として清水寺を詣でる多くの人々が立ち寄った。
清水坂を登る参拝客や修行僧に、冷えた体を温めるため、さ湯に唐辛子をふりかけた辛子湯を出したのが始まり。
元々は漢方薬として日本に伝わったという唐辛子に、山椒、ゴマなどの薬味を合わせてこの店独自の七味唐辛子が生まれた。

清水寺の建物のほとんどは江戸時代に再建されたもの。
徳川家光の時代、本堂をはじめ建物の大部分は大火災により焼失してしまう。
しかし清水の観音を深く信仰していた家光の大きな援助を受けて、清水寺は無事建て直された。

寺の南側の丘の上に建つ子安の塔、現在修復中の子の塔から、これまでの説を覆す新たな事実が発見された。
これまで子安の塔も江戸時代、本堂と同時に消失し再建されたと考えられてきた。
しかし今回の修復作業で、これまで考えられていたより130年も古い時代に再建されたものだと分かった。
子安の塔に使われている木材の1つからそのことを物語る貴重な証拠が見つかった。
マス、屋根の軒を支える材料の1つに、明応9年5月4日という年号が書かれていた。
今の子安の塔は室町時代に建て直されたものであることが明らかになった。
現在その当時の姿に復元されようとしている。

清水寺の境内にある忠僕茶屋にもある物語が隠されている。
幕末、安政の大獄により幕府に追われた清水寺の月照(清水寺成就院第24世住職)は西郷隆盛を頼り、薩摩へとのがれる。
しかし時の薩摩藩は月照を受け入れず、2人は入水自殺を図るも月照のみが命を落としてしまう。
忠僕茶屋は月照をしのび、彼のしもべが始めた店だという。

鮮やかな朱色をした清水寺の正門・仁王門の少し奥にひっそりとたたずむもう1つの門・西門
ひと際目を引く神殿風のたたずまい。
全体は朱色に彩られ、要所に散りばめられるのは極彩色の華やかな装飾。
細部には華麗な彫刻や文様も。
京の町が一望できるこの門から見る日没は心奪われるほどの美しさ。

清水寺は平安京に遷都される前からここに祀られていたというが、おそらく縄文弥生の時期からここは冷水が沸く聖地だったと思われる。
水はとても貴重だったので、神として祀られていた。
水に対する信仰がもともとあって、そこに清水寺が建てられたのではないか。
水に対する信仰、太鼓よりの信仰がもとにあり、そこに清水のお堂が建ち、信仰が重ねられ、現在に発展した。
ゆえに現在でもなお、人々を魅了してやまないのではないか。

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私の国の冷蔵庫

中国 絵が描いてある冷蔵庫

見た目重視、お客様を招き、中においしいものが一杯入っている立派な冷蔵庫を見せたい。
リビングルームにおいてあるので、おもてなしの時、すぐ冷菜やビールを取り出せる
中国ではもてなしを大事にし、もう食べられないというくらい料理をだす。
料理は男女両方がするし、冷蔵庫を選ぶ時も男性も参加する。

オーストラリア 男の冷蔵庫

ガレージにおいてあり、女性には触らせない。
オーストラリアではお客様が来ると男性がバーベキューや飲み物を仕切る。
客は勝手に冷蔵庫から飲み物を取り出す。
男の冷蔵庫は家族や友達とコミュニケーションするためになくてはならない存在。
男性はガレージに籠り、女性は友人と外にショッピングに行ったり、カフェで美味しいワインを飲んだりする。
持ち運びできる冷蔵庫もある。
キャスター付きの冷蔵庫はビールでいっぱい。
野外に持って行けるクーラーボックスタイプの冷蔵庫には肉や野菜をいれる。
コンセントのほか、シガーソケットもついており、プロパンガスでも冷却できる。

エジプト 巨大な冷蔵庫

高さ1.8m、幅1m、容量660リットル、日本の標準的家族向け冷蔵庫のおよそ1.5倍の大きさ。
大きすぎて手狭な台所に納まりきれず、置いてあるのはリビングルーム。
妻は料理のたびにキッチンとリビングを行ったり来たり。
食材の買い物は伝統的に男性の役割。
キュウリ5kg、グアバ2kg、キウイ2kg・・・全部合わせて30kg・・・
大量にまとめ買いするのが一般的な買い物のスタイル。

男性社会だったので、お休みの金曜日、合同礼拝の後に男性が1週間分買いだめし、奥さんのところへ持って行く。
奥さんがあまり外へ出る必要がないように、重いものを持たせないようにということもある。
今は変わりつつあるが、女性が外に出るとよくないという習慣があった。

かつて社会福祉政策の1つとして配給制度があった当時、中東戦争時は物資が不足し、ある時に買いだめしていた。
大量に仕入れると安くなるということを売りにしているスーパーがある。
特に金曜、土曜日は客を呼び寄せるため、スーパーも工夫している。
お買い得商品は皆恐ろしいほど買い込む。
労働者階級は労働時間が長く、毎日買い物に行く時間がない。

インド 鍵付きの冷蔵庫
インドの家庭のキッチンに冷蔵庫はない。
置いてあるのは8m離れた部屋。
10人家族なのにサイズは小さめ。
インドでは毎日食べる分だけ買ってすぐに調理する。
鶏も必要な分を買ったその場で裁いてくれる。
だから食事を保存しておく必要がない。

インドでは冷蔵庫のほとんどが鍵付き。
中身は水と食べかけのケーキ、チョコレート菓子、伝統の菓子ミターイ、薬、化粧品・・・
鍵をかける理由の1つは子供が甘いものを食べすぎたり、冷たい飲み物を飲み過ぎないよう管理するため。
猿が家内に入ってくることもあるため・・・?
電力事情も安定しておらず、停電することもよくある。


ちなみに・・・私の冷蔵庫

美術館のミュージアムショップ、アイルランドやマルタ島を旅行した時に買ったマグネットがペタペタ・・・

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先住民の叡智に学ぶ★ブータン王国〜「足るを知る」生活で伝統を守る

ヒマラヤの山懐に抱かれたブータン王国、人々は急峻な斜面を切り開いて自給自足の生活を送っている。
彼らの生活にはチベット仏教の教えが深く根付いている。
月尾嘉男(東京大学名誉教授)「1995年から現在までのおよそ50年間に日本の電力供給量はおよそ18倍に増えた。
しかしその間人口の増加は1.4倍にしか過ぎないので、1人当たりの電力供給量は12倍に増えたことになる。
この豊富なエネルギーが産業を発展させ、人々の生活を豊かにしたことは間違いないが、視点を変えれば人々の欲求のままにエネルギーは資源を供給してきたということがいえる。
このような方向に世界全体が突進した結果、現在の地球規模の環境問題が発生し、そして各地で資源紛争が発生しているのではないかと思う。
今回訪れる敬虔な仏教国ブータンでは、人々が仏教の『足るを知る』という教えを守り、国民総所得は1人当たり日本の19分の1にしかすぎないが、豊かな生活をしていると言われている。」

ブータン王国はインドと中国に国境を接する小さな国。
面積は九州とほぼ同じ、人口はおよそ70万人。
大部分がチベット系の民族で残りがネパール、ミャンマー系の人々。
様々な民族が交流する中で生まれた多民族国家。
またブータンはチベット仏教を国教とする世界で唯一の国。
8世紀後半にチベット地方からやって来た僧侶によって広められ、人々の生活のよりどころとなっている。

タシガン地方の首都ティンブーから直線距離では200kmほどだが、険しい渓谷に沿って曲がりくねった道が続く、標高3000m級の山をいくつも越えねばならない。
3日間走り続けてようやく到着、山の急斜面に家が点在しいる。
この地域に暮す人々は、チベット仏教が入ってくる以前から遊牧や農業を営んできた。
12件の家が寄り添っている集落ラディ村ツァンカル。
この家の家長ティリン・リンチェンさん(40歳)が出迎えてくれた。
タシガン地方では長女が家を継ぐ。
父ケザンさん(87歳)、母ショデンさん(60歳)、長男ウゲン・ジャムツォ君、そして3年前近くの集落から婿入りしてきた夫のチョゲル・リンチェンさん(23歳)、生後3ヶ月の次男カルマ・ティンジン君の6人家族。

家はブータンの代表的な作り、木造2階建てで壁は土壁。
屋根裏は食料品の貯蔵庫、風通しのよい構造になっている。
2日前採ったマンゴー、熟すのを待っている。
ニンニクはブータン料理の必需品、きらさないように大量に保存している。
ラッキョウのような形の玉ねぎ、トウモロコシの食べかすは冬の暖房の燃料にする。
1階も貯蔵庫、巨大な米櫃、1人で1日1kgは食べる。
日当たりのよい2階はリビング兼寝室。
大きな仏壇がある。
拝むのはティリンさんの日課。
一家の長として家族が1日を無事に過ごせるよう祈る。
夫のチョゲルさんは赤ん坊を背負って乳搾り。
この地方の男性は家事も子育ても実によくこなす。
おばあさんのショデンさんは体を悪口手いるため、孫の世話に専念。
ブータンでは3世代、4世代の家族がそれぞれに役割を持って一緒に暮らしている。

ティリンさんが田んぼを案内してくれた。
ブータンの田んぼは急峻な山を切り開いた棚田。
ブータンは世界1高い場所に水田がある国と言われ、場所によっては標高2700mの高地でも稲作が行われている。

山の斜面の棚田を夕日が照らす頃、ティリンさんの家で月尾教授は伝統のもてなしを受ける。
マテという自家製のお酒、トウモロコシから作る。
ティリンさんの家に近所の人たちが、夕食を食べに集まってきた。
同じ集落の人達とは家族のような関係。
昔から食事を分け合ったり農作業を助け合ってきた。
エマダツィ、ブータンの代表的な家庭料理、全てトウガラシ。
ブータンではトウガラシは野菜として様々な料理にふんだんに使われてきた。
そのためブータン料理は世界1辛いと言われている。
高地でよく育つので、ブータン中で栽培されている。
自家製のチーズとヤクのミルクを皮の袋にいれ、1年以上かけて発酵させる。
トウガラシとチーズを煮込めばユマダツィの出来上がり。
もう1品はトウガラシと干し肉を炒めたもの。
手を使って器用に食べる。

素朴な料理を囲みながらつながるティリンさん一家と集落の人々。
もし生活に困った場合には引き取って家族同様に面倒を見るという。
助け合いの伝統は、険しい山岳地帯で生き抜く知恵なのだ。
月尾「ブータンはンガロッパ、ツァンラ、ローツァンパなど様々な人種が生活する多民族国家。
しかし多くの人々の風貌は日本人と似ており、また熱心に仏教を信じ、主食は米であるなど、日本と似た点が多い国。
しかし3世代から4世代の大家族制度が残り、また地域の弱者を地域社会全体で面倒見る仕組みが残っているなど、日本では希薄になった社会構造が色濃く残っている。
日本では限界集落や無縁社会など社会の基本的な構造が崩壊しつつある。
一見世界から取り残されたようなブータンの社会に私達はもう1度近代社会の過程で失たものを再発見するべきではないかと思う。」

民俗衣装で町を行く人々、ブータンではごく日常的な光景。
東部の山岳地帯に住む人々は、民俗衣装を自分達で作ることで知られている。
農作業の合間を縫ってティリンさんが大きな鍋にお湯を沸かしている。
糸を染めるのだという。
まず自宅近くで採れるセルジムの葉を細かく刻む。
これを鍋に入れて煮だす。
染めるのは町で買ってきた絹糸。
煮立ったセルジムの鍋に浸ける。
「まず黄色く染めてから赤に染めると鮮やかな色になる。」
赤い染料には昆虫のカイガラムシを使う。
お湯に浸してよくすりつぶす。
布でこすと鮮やかな赤い染料になる。
そこに黄色く下染めした糸を浸け、また1時間ほど煮込む。
待っている間にラニヌァンという植物の茎を煮る。
「ここに浸けると色落ちしなくなる。」
材料は全て身の回りにあるものを利用する。
天然の素材を使うため素朴な味が出る。
後は干して乾かすだけ。
絹糸が見事な赤に染め上った。

ティリンさんは布も自分で織る。
この地方の女性は手先が器用。
パンタという織り機を巧みに操る。
無地の布なら1日に2mほど織りあげてしまう。
タシガン地方では機織りは女性のたしなみの1つ。
織りあげた布は大切に保管されている。
手織りの生地はきめが細かくて美しいと評判。
柄も色合いも実に様々、どれもブータンの伝統的なデザイン。
生地はブータン中から買いに来る。
女性用で高いものは平均月収の3ヶ月分もする。

稼いだお金は何に使うのだろう?
「米やトウモロコシは作っているが唐辛子などは少ししか作っていないので買わなくてはならない。
そんなに売れることはない。
もしたくさん売れてお金が入ったら大きな法要をやりたい。」
必要以上のお金を手にしたとしても決して贅沢はしない。
タシガンの人々には「足るを知る」仏教の教えがしみ込んでいる。
身の丈にあった暮らしから得られる幸せは何ものにも変え難いのだ。
月尾「相当の時間を費やして織り上げた織物がもし売れれば、これまで貧しくて十分にできなかった仏様の法要をしたいという農家の主婦の言葉は感動的。
多くの先進国では収入の増大が物やサービスの消費の増大につながり、その連鎖が世界規模の環境問題や資源問題の主要な原因になっているとすれば、どこかで歯止めをかける必要があると考えざるをえない。
このブータンの農村では、欲求に歯止めのかかった社会が維持されており、そこに私達は日本、そして世界のこれからの方向を見出せるのではないかと思う。」

夫のチョゲルさんが民俗衣装に着替えて出かける準備をしている。
目指すのは集落の近くにそびえる山の頂、急な山道を登ることおよそ2時間、ようやく到着した標高2000mの山頂にはお寺がある。
このお寺はチョゲルさんが暮す地域の菩提寺、ナムデチョリン。
地元の人々の心のよりどころ。
チョゲルさんはお供え物を取り出す。
中に入っているのはお米。
何かを相談すると、住職がおもむろにお経をめくり始めた。
住職「日々のお祈りを欠かさないことが大切です。
自宅にお坊さんを呼んで法要を行うのもよいですが、仏壇にお祈りする以外、何か特別なことをする必要はありません。
毎朝必ずお線香をあげてお祈りしてください。
それでよくなるでしょう。」
チョゲル「お義母さんの調子がよくないので相談しに来ました。
お坊さんは私達家族の生年月日から法要を行う必要があるかどうか教えてくれます。
先祖代々からの習慣です。
まず最初は病院ではなくこうしてお寺にきます。
地元のお寺で相談して、それでも直らない場合は病院へ行きます。」
タシガンのお坊さんは地域の万相談役。
夫婦喧嘩の仲裁、酔っぱらいへの説教などなんでも行う。

そもそも仏教は紀元前5世紀にインドで起こり、その後2つの大きな系統に分かれて広まった。
東南アジアへ伝わった上座部仏教は、1人1人が修行を通して悟りを開く。
日本へも伝わった大乗仏教は修行を積んだ人の教えを聞くことで、人々が救われる。
ブータンの仏教は大乗仏教系統だが、チベットから伝わり独自の発展を遂げたもの。

チョゲルさんの村の近くにはブータンでも有名な寺院がある。
この寺院は1人の高名なお坊さんが世界中から寄付を集めて建てたもの。
ランジェンエッセルチョリン、タシガンで有数の規模を誇っている。
80人者修行僧が読経する光景はまさに壮観。
この寺院は全寮制の学校も併設している。
普通の授業のほかにお坊さんになるための勉強もする。
13年かけて仏教について勉強する。
最初の6年で法要の基礎を学び、その後7年かけて様々な仏典について詳しく学ぶ。
この学校は政府からの支援は受けていない。
個人の寄付のみで賄っている。
ブータン各地から集まってくる生徒は授業、衣服、食事などすべて無料。
この寺でお葬式を行うこともある。
経済的な余裕がなく、お葬式を出せない家には寺からお坊さんが無償で出かけ、食事なども提供してくれる。
ここで学ぶ修行僧の多くは貧しい家庭の出身、でもそれを少しも恥じることはない。
むしろ彼らの家はお坊さんを出したことで尊敬される。
卒業後、彼らは人々の寄付への恩返しとして全国各地のお寺で勤めを果たす。
仏教は人々の生活を精神面だけでなく経済面でも支えている。

月尾「世界規模の調査によると、日本では無宗教と答えた人が52%にも及んでいる。
その証拠に多くの日本人は七五三は神社に参詣し、結婚式はキリスト教会で挙式し、葬式は仏式で執り行い、最後に先祖代々のお寺の墓に眠ることにほとんど抵抗がない。
しかしブータンでは農家の主人が我々にとっては難行苦行と思えるような急坂を上り山頂の寺院の僧侶を訪ねた目的は自分の母親の病気の治癒だった。
ブータンではチベット仏教が日常生活の隅々まで浸透している。
一見時代遅れのようだが、それが社会を安定して維持する力になっているとすれば、ここでも我々は近代日本が失ったものを再発見できるのではないかと思う。」

仏教が人々の生活に根付くブータン、今から35年前、当時の国王ジグミ・シンゲ・ワンチェクは注目すべき国家理念を発表した。
GNH(Gross National Happiness) is more important than Gross National Project)
・・・国民総幸福量は国民総生産よりも重要である。
以来ブータン政府は国民の幸せを最優先する政策をとってきた。
幸福を支えるものとは何か?
月尾「日本は約150年前に開国を決断するまで、オランダ以外の国とは鎖国状態にありました。
開国をキッカケに多くの知識やもの、産業技術などが日本に流れ込み、米国に次いで世界第2位の経済大国となりました。
しかしそれと引き換えに多くのものを失いました。
伝統的文化や家族の絆です。
最近では年間3万人以上もの老人達が誰にも看取られることなく死んでいます。
とても悲しいできごとが日本では起きているのです。」

ジグミ・イェゼル・ティンレイ首相「老人の孤独死は日本特有のものではないと思う。
それは世界各国で起こっている問題。
特に裕福は国で起きている。
他の何よりも誰よりも家族よりも自分のことが大切になってしまったのです。
貧しい発展途上国では未だ家族の絆は強く、結婚することが大切だと思われています。
我が国ではGNHを推進するうえ拡大家族ネットワークを重要視している。
両親と子供だけではなく、叔父、叔母、祖父母、従兄弟なども含めた家族です。
個人の豊かさはこの拡大家族の絆に見出すことができると考えられるからです。
経済的な支えだけでなく、精神的な支えにもなります。
政府のつくる社会保障制度はあくまで人為的であり、たとえ裕福な国であっても最終的には持続不可能なものです。
もっとも自然な形の社会保障システムは家族に他ならない。
大家族であればあるほど持続可能で強力なものになります。
私達はこの点を重視してきました。
そして幸福なことにブータンでは未だ家族は大切な存在です。
お寺や祭りなど、どこに行っても世代を超えた人々の姿を見ることができます。
祖父母と孫たちが一緒にやってくるのです。
人々が孤独死することはありません。
そうならないようにしているのです。」
月尾「我々は経済的な成功ばかりを追い求め、文化や伝統精神など、多くのものを失いました。
ブータンがとても幸福な国になることを願い、そこから私達も学びたいと思います。」

8月3日の朝、普段なら農作業をしているはずの水田に人影がない。
今日は村の休日、お釈迦様が初めて説教をしたと言われる日。
他人tの争いごとをしてはならないとされている。
家族そろって穏やかな気持ちで1日を過ごす。
お茶を飲み終え、チョゲルさんは長い竹竿を持って出かけてゆく。
やってきたのは村のはずれに仏塔が建つ神聖な場所。
文字が書かれた布を竹の竿にくくりつけてゆく。
布にはチベット仏教の経文が印刷されている。
ブータンではこの旗を折に触れいろいろな場所にたてる習慣がある。
様々な願いを風に載せて天に送るのだ。
ルンタ・・・仏教の伝統的な5つの色は森羅万象を表している。
木に登り高い所に吊るして風になびかせる。
仏教と寄り添うタシガンの人々の暮らし、時がゆっくりと流れてゆく。

月尾「大国となった日本からブータンの平和でのどかな農村地帯を訪れると、江戸末期から明治初期にかけて日本を訪れた西洋の人々が抱いたのと同じような感じを抱く。
それは世界に現存する数少ない桃源郷のような神秘な国である一方、この桃源郷が次第に世界に開かれてゆくことによって、やがて様々な苦難に直面するのではないかという危惧。
このような状況にも関わらず仏教の「足るを知る」という教えを守る敬虔な仏教国が多くの国々とは違う選択をし、これからの世界にあたらし方向を示してくれることを期待したい。」

男達が弓を持って集まっている。
チョゲルさんの村の弓道大会だ。
この地方の男達の最大の娯楽。
的が置かれているのは136mも離れた場所。
決して多くを望まず、人との絆、仏様との絆を大切にして生きる、それが幸せを求めるタシガンの知恵。

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旅したいな20

群馬県吾妻軍六合村(草津温泉)
チャツボミゴケ・・・硫黄泉など酸性泉に限り成育する特殊なコケ。
日本では草津、阿蘇山等限られた火山帯にだけある。

六号の花
・・・宿根草を中心とした少量多品目を「六合の花」のブランドで東京方面に出荷し、有利販売している。

穴地獄・・・ここではpH=2.8という強酸性の鉱泉が毎分、7000リットル湧き出している。
この強酸性水の中、チャツボミコケの群落がある。
かつては、この苔とバクテリアが関与して生成した鉄鉱石が、流域に10メートル〜30メートルの厚みを持ち、長さ2キロに渡る鉄鉱床を作っていた。
穴地獄では今でも、このバクテリアとチャツボミコケによるバイオミネラリゼーション(=生物が関与して鉄鉱石が生成するプロセス)が進行していることが観察できる。

群馬鉄山・・・今から約50年、ここには群馬鉄山があり褐鉄鉱を採掘していた。
第二次大戦で鉄が不足する中、国策として鉄山を開発する必要があり、群馬県渋川から長野原まで鉱石運搬のための鉄道(現在のJR吾妻線)が急遽敷かれ、さらに専用線や索道が作られて昭和19年に鉄鉱石を出鉱開始した。
昭和44年までに延べ300万トンの鉄鉱石が露天掘りで掘削された。
戦後しばらくは海外からの良質な鉄鉱石は輸入できず、その間釜石鉱山に次ぐ第二の鉄山として戦後の復興の一翼をになった。
ここは鋼管鉱業(株)の発祥の地。

三重県伊賀 昭和ハウス

懐かしい昭和家電、雑貨などのコレクションを見ることができる。
店横に「ソースもん研究所」の看板も掛かっており、お好み焼きと駄菓子、希少品のジュースなども売っている。


徳島県三好市 「篪庵」(ちいおり)
アレックス・カー「大学4年生だった1973年に、徳島県祖谷(現在の徳島県三好市)にあって誰も住まなくなった民家にものすごく“惚れて”大学生の分際でありながら購入したんです。
それが現在の「篪庵」(ちいおり)です。 」

「お城に住みたい」それはアレックスさんの少年のころからの夢。日本全国を旅するアレックスさんは四国の祖谷で出会った一軒の茅葺きの古民家に心を動かされました。
まわりを囲む緑深い山々、やさしく素直な村の人たち、雲上の世界のような祖谷で、昔の美しい暮らしを残すこの家こそが探し求めていたお城。
アレックスさんが愛する日本の美と伝統を守り、未来へ伝えるための活動はここからはじまりました


京都に2つめの住まいを持ち、アレックスさんは外からの視点で日本を見ています。
外国人として、欧米やアジアで暮らした体験を通して見えてくるものがあるそう。
それはわたしたちが気づかない感性の根っこのようなもの。
例えば日本の文化がどのようにはぐくまれてきたのか。
わたしたちが心地よく、美しく感じる理由はどこにあるのか。
アレックスさんは外から見て、その答えの手がかりを投げかけてくれます。
千葉県鴨川市 棚田
大山千枚田は、棚田の里。
この美しい景観を後世に伝え、里山の環境を保全するために、地元農家が中心となり「大山千枚田保存会」が発足され、毎年広く棚田オーナーを募集し、田作りから収穫までのさまざまな共同作業とイベントを通じて棚田の保存に努めている。

オセアニア諸島ナウル
Guano・・・海鳥等が天敵を避けるために、離島や海上の岩を営巣地に選ぶ事がある。
その営巣地に長い年月をかけて鳥の糞が堆積して行くと、大量の糞が固まって化石となった地層が出来る。
この糞の化石の事をグアノと言い、元が糞だけに窒素や燐を多く含んでいるため、良質な化学肥料の原料となった。
又、グアノが更に年月を経て出来る硝石は、黒色火薬の最も重要な原料。

ほっとゆだ駅
JR北上線、温泉付易者。
浴場には列車の到着を知らせる信号機もある。
砂ゆっこ・・・砂風呂
穴ゆっこ・・・洞窟風呂

花巻温泉の鉛温泉
深さ約1.25m、立ったまま入る日本1深い岩風呂。

花巻マルカン食堂の名物・・・10段巻の巨大ソフト140円。
割り箸で食べるのが地元流。

厳美渓の郭公(かっこう)団子

店は渓流をはさんだ対岸にあるが、そこに張られたロープに下がる籠に注文と代金を入れて木槌を鳴らすと、籠は引き上げられて代わりに注文しただんごとお茶が入って降りてくる。
だんごの入った籠が宙を滑り落ちてくる様は面白いが、籠の中のお茶もこぼれず手元に届くというのは長年の経験によるものという。

一関・平泉もち街道
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この地区の人々は、事あるごとにもちをついて食べる。
その回数は年間60日以上と言われ、もちつきに関する行事が記された「餅カレンダー」も存在するほど。
江戸時代、農家は伊達藩の命により毎月1日と15日に神様にもちをお供えしなければならなかった。
その日は神様に平安息災を祈願し、休息日とする習わしだった。
しかし、年貢を納めるのが精一杯。
神様のお供え分だけ白いもちを作り、自分たちはくず米や青米の粉と雑穀を練り混ぜた「しな(しいな)もち」を食べていた。
このしなもちを何とか美味しく食べる方法はないものかと工夫し、様々なもち料理を編み出したというわけ。

万治の石仏←クリック
岡本太郎が「こんな面白いもの見たことがない」と絶賛した「万治の石仏」。
自然石の胴体に別の石で彫られた仏頭が載せられている。
石仏は、原則として一個の石から刻出されなければならないという。
なぜ、このような類例のない石仏がつくられたのか。
万治の石仏は、長野県下諏訪町奥山田、諏訪大社下社春宮の西を流れる砥川対岸の道を150mほど入ったところにある。
「万治」の名は、胴石に「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれ、その左に「万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉広春」の刻銘があることによる。
万治三年とは江戸時代初期の西暦1660年、今より346年前、明誉と心誉という二人の人物が、この「あみだ様」をつくったことを示している。

落合の石畳
中山道の落合宿と馬籠宿の間は急峻な坂道で、この急な坂の通行の便を図りまた大雨による道のぬかるみを防ぐために、自然石を敷き詰めて整備されたのが石畳。
文久元年(1861)皇女・和宮が将軍家に嫁ぐ際に改修されたことが記録されている。
長年、木の葉や土砂に埋まっていたのを補修し、全長840mが完全に復元されていて、その内の一部が岐阜県指定史跡になっている。

JR鉄道最高地点
南佐久郡南牧村野辺山、標高1,375mに「JR鉄道最高地点」の標識が立つ高原鉄道JR小梅線。
2007年環境に優しいハイブリッド鉄道車両を導入した。
桃介橋
大正11年9月に完成。
木曽川の水力発電開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が読書発電所(大正12年完成)建設の資材運搬路として架けたもの。
その後、昭和25年から村道(現在の町道)として、両岸集落の交通や、高校生・中学生の通学など地域の交通に大いに役立っていたが、昭和53年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋寸前となっていた。
この間、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園整備に併せて近代化遺産(南木曽町有形文化財)として復元し、大正時代の長大吊橋の本格的な保存と活用をめざした。

この橋は、木製補剛桁を持った吊橋としては、日本有数の長大橋であり、下部石積み・上部コンクリートの主塔3基を有し、この種の吊橋としては当時(大正時代)我が国の土木技術の粋を集めためずらしい4径間の吊橋。
3基の主塔はデザインも大変すぐれており、特に中央の塔からは水辺へ降りる石段が設けられている。
また、それぞれの主塔から斜吊索が張られ19世紀末のアメリカの吊り橋によく似ているといわれている。
橋の中央に資材運搬用のトロッコのレールが敷かれていたため、その痕跡が分かるように復元してある。
明日香・稲淵

日本最初の橋といわれる飛び石。
夏にはホタルが飛び交い、春にはツツジとアザミの花が咲き、秋には川岸にヒガンバナが咲く。

大井川 蓬莱橋(静岡県)
全長877.4mの木造歩道橋。
今では数少ない賃取橋。
平成9年12月30日、「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてギネス社に認定された。
農道しての需要な役割を担うほこ、貴重な歴史的土地改良施設として県内外から観光客が多く訪れる。

徳島 かずら橋
〇祖谷のかずら橋
平家一族の哀話を秘める、秘境“祖谷”にあるかずら橋。
冬場の厳寒な山野で採取した自生のシラクチカズラ(重さ約5トン)で作られたもので、長さ45m・幅2m・水面上14m。
昔は深山渓谷地帯の唯一の交通施設であった。
3年毎に架替えが行われる。

かずら橋の由来は、祖谷に巡行された弘法大師が困っている村人の為に作ったという説や、追っ手から逃れる平家の落人が楽に切り落とせるようシラクチカズラで作ったという説等諸説が残っている。

〇奥祖谷二重かずら橋
約800年前平家一族が剣山、平家の馬場での訓練に通うため架設したといわれている。高山に自生している「シラクチカズラ」を利用しており、奥祖谷かずら橋キャンプ場への通路となっている。かずら橋が2本並んで架かっている為、通称「男橋女橋」とも「夫婦橋」などとも呼ばれている。

長崎 ヤドカリ
長崎ではヤドカリを食すらしい

南紀 富田の草堂寺
熊野参詣道大辺路の富田坂の北麓にあり、山号は南昌山、臨済宗東福寺派で、古くは真言宗で円光庵と称し、慶安3年(1650年)高瀬村(現白浜町)の中岩久煕の弟、洞外が再興し草堂寺と改称、禅宗となり、洞外に帰依した一条家および九条家の祈願所だった。
本堂は天明6年(1786年)までに再建、草堂寺観音堂(円通殿)は1本の欅(けあき)から造られており、1本堂とも呼ばれている。
観音像は、平安時代の仏像で、長州の日頼寺(山口県下関市)から東福寺を経て当寺に安置され、聖観世音菩薩。
天井絵は、山本秀が草花を描いており、十二支がそれぞれの方位に彫られている。
また、天明7年(1787年)丸山応挙門下の画家、長沢蘆雪が来寺して障壁画を残し長沢蘆雪の寺の名でも知られている。

長沢廬雪は円山応挙に師事し、天明6年(1786年)に紀南地方に来訪した際、串本の無量寺、西向の成就寺、富田の草堂寺に180面を超すふすま絵などを制作したという。
ここ草堂寺には障壁画71面、屏風5隻、「龍と仙人図」「黄安仙図」等の水墨画9点が納められている。
廬雪30歳中頃の作品で才能が今まさに開こうとしている時期の作品で、国指定の文化財として伝えられている。
長沢芦雪の作品↓


安曇野
うぐい:清流・犀川では、産卵期を迎えたウグイの伝統漁「つけば漁」が行われている。

わさび:花言葉は『めざめ』。
安曇野に真っ先に春を告げるわさびの花は、幸せを運ぶ花だといわれている。

静岡伊豆急行線
今年で開業20年、昭和36年伊東駅〜伊豆急下田駅開通、その沿線は日本を代表するリゾート地としても発展してきた。
全線が電化され、車体はアルミボディー、ローカルな雰囲気はないが、座席のハイチを見ると、横座り隻とボックス席に分かれ、8000系車両の座席。
伊東駅出発。
伊藤氏は景勝地を楽しんでもらおうと、伊藤八景に認定しアピールしている。(オレンジビーチ、一碧湖、汐吹公園、小室山、松川、巣雲山、城ケ埼海岸、大室山)
■川奈駅
その美しさから、伊豆の瞳と呼ばれている一碧湖、数多くの一碧湖の自然を歌にした歌人・与謝野晶子はその風景をこよなく愛し、多くの歌を詠んだ。

■伊豆高原駅
大室山:およそ3700年前、噴火の際噴き出したスコリア(黒色の軽石)が降り積もってできた山。
軽石は風化しやすいが、噴火当時の姿を保っていることが学術的に評価され、国の天然記念物に指定された。
周囲1kmに及ぶ噴火口は、ぐるっと1週で斬るハイキングコースになっており、360度の眺望を楽しむことができる。
観光リフトで山頂へ、標高580m、伊東の町を見下ろすことができる。

小室山:4月下旬〜5月上旬にかけ約10万本のつつじが、また12月〜4月にかけ、4000本のつばきが咲き乱れる。
小室山山頂までは山麗からリフトで3分。富士山から伊豆諸島まで360度のパノラマが広がる。

松川:川のほとりに建つ温泉旅館・東海館、昭和初期の建築様式をそのままに残す伊東市の指定文化財。

伊東市には6つの温泉がある。
北川温泉の露天風呂・黒根岩風呂は湯船につかりながら朝日が見える。
熱川温泉の露天風呂・高磯の湯、大川温泉の露天風呂・磯の湯

築城石慶長8年(1603年)徳川家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた。

その後江戸幕府2代将軍 徳川秀忠が就任する前年(1604)6月、それまで一大名の居城にすぎなかった江戸城(皇居)を、徳川幕府の城郭にするための大拡張工事が徳川家康から発表された。

慶長11年(1606年)3月、工事着手までの間、石船(築城石を運搬する船)の建造・採石・運搬などの準備が大掛かりに行われた。

城郭石材を採取、運搬すべき命令は、28家の大小名に下り、その役高合計は530万石にのぼり、高10万石につき「百人持ちの石」(人夫100人で運搬できる石)を1120個宛て課せられた。

課役大小名の役高合計から数えると、「百人持ちの石」数は59360個にも及ぶ。

石材は伊豆石(主に伊豆半島東岸産の安山岩)が採用された。

この夥しい数の石材を、伊豆から江戸まで運ぶための石船建造を課せられた主な大名は、浅野幸長、福島正則、蜂須賀至鎮、細川忠興、黒田長政といった外様大名28家や、尼崎又次郎という堺の大商人らである。

幕府は石船建造の補助金11,925両をあて、浅野幸長385艘、黒田長政150艘、島津義弘150艘、尼崎又次郎100艘など合計約3000艘を建造した。

このときの手伝普請(幕府が藩主に命じて行う土木工事)は、西国の諸大名15家で本丸、外郭、天守台、虎の門、大手門、曲輪などの石垣修築が行われた。

さらに石船建造、採石運搬、石垣工事など、二重、三重に命ぜられた藩もあった。

東伊豆で切り出された「百人持ちの石」は3000艘の石船に積み込み、江戸城へ向けて運ばれた。

三代将軍徳川家光は寛永13年(1636年)最大規模の助役を諸大名に命じ、全国から動員された大名の役高総計は6645000石であった。

西国大名が主として石垣、枡形工事を、関東大名が壕・土手工事を担当し江戸城外郭工事が行われた。

こうして徳川三代、30年におよぶ江戸城大修築は寛永13年の普請を以ってひとまず完成を迎えた。

ねこさいの日(4、5、9月の毎週日曜日):ねこさいとは定置網のこと。(根=海底の岩礁 こさい=拵える、建設する)
北川漁港の目の前に設置された定置網から朝水揚げされた新鮮な魚を捌いてすぐに焼き、海の幸をみんなで味わう。

■片瀬白田駅を過ぎると波打ち際を走り絶景・・・

■伊豆稲取駅
稲取ではひな祭りや端午の節供に吊るし飾りをする。

■河津駅
河津桜原木カワヅザクラの原木は、伊豆急河津駅から天城山へ向かって1.2kmの地点、河津町田中の飯田氏宅の庭にある。

樹高約10m、樹巾約10m、幹周約115cm 

昭和30年頃の2月のある日、飯田勝美氏が、河津川沿い(豊泉橋上流の田中地区側)の冬枯れの雑草ので芽吹いていた約1メートル位育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まり.

10年後の昭和411月下旬、やっと花が咲き始めた。

同年4月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け永眠した。

後にきれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もあったが、思い出の桜の為手放さなかった。

当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ、親しまれていた。

その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年に河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され、昭和504月河津町の木に指定された。

大噴湯公園大正12年頃、当時峰温泉を一大温泉地にしたいと強く願った稲葉時太郎氏により温泉の掘削が行なわれ、大正1511月に爆音と共に地上50mまで噴き上がったといわれている。
当時は「東洋一の大噴湯」と呼ばれていたこの大噴湯を整備し、平成2121日にオープンした。

 

天城隧道天城トンネル(正式名称=天城山隧道)は、静岡県伊豆市と、同県加茂郡河津町を結ぶトンネル。
現本線の新天城トンネルと区別するため「旧天城トンネル」と呼ばれている。
明治38年に築造され、全長445.5m、アーチや側面などすべて切り石で建造しており、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のもの。
総石造りの馬蹄形をしたトンネルの入口や内部は、非常に重圧な構えとなっていて明治末期を代表する歴史的トンネルであるとし、平成10925日に有形文化財に登録され、平成13年には道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定された。

その旧天城トンネルに続く道は川端康成作「伊豆の踊り子」でも有名な旧天城峠。
ブナ・カエデ・ヒメシャラなどの樹木が自然のままに生い茂る風情は、今も「伊豆の踊子」の世界そのもの。
道の途中には、伊豆の踊り子文学碑や氷室、あの名曲「天城越え」の歌詞に唄われている寒天橋や、風光明媚な二階滝(にかいだる)などもあり、気軽なハイキングコースとして人気がある。

河津来宮神社の大楠のご神木二千年の樹齢にあやかり、古くからこの大楠を一廻りすると一年寿命が延びると伝えられている。

また、願い事のある人は思うことを誰にも云わず一廻りすると願い事がまとまるとも伝えられている。


キノミヤ信仰:古代の日本民族は、大きな木、岩、滝など巨大な自然創造物に神々が宿っていると信じ、其の自然創造物の前で祭祀を行い、感謝し祈りを捧げる神籬磐境信仰を持っていた。

時が流れ建物の文化が進み、それらを中心に社殿、鳥居が建立され神社が形成されたといえる。

熱海鎮座の来宮神社は江戸末期まで『木宮明神』と称し、現在の『来宮』ではなく、『木宮』の字で古文書等記されている。

また伊豆地方に『キノミヤ神社』という社は十数カ所あり、各社とも必ず千年以上の御神木があることから、『木』に宿る神々をお祀りする神社として崇敬を集め、古来生活文化に欠くことのできない木に感謝する信仰を有していた。

今から百二十年前の嘉永年間に熱海村に大網事件という全村挙げての漁業権をめぐる事件が勃発し、その訴訟費等捻出のため、境内に聳え立っていた七本の楠のうち五本は伐られてしまった。

古記によると、残されているこの大楠をも伐ろうとして樵夫が大鋸を幹に当てようとしたところ怱然として白髪の老人が現れ、両手を広げてこれを遮る様な姿になると大鋸は手元から真っ二つに折れ、同時に白髪の老人の姿は消えてしまったという。

これは神のお告げであるとして村人等は大楠を伐ることを中止致した。

この木が即ち現在ある御神木。

寒天橋:寒天の材料である天草漁は、江戸時代より白浜を中心に伊豆で盛んに行われていた。
現在でも漁から仕分けまで、すべてが手作業で行われ、その品質の高さは古くから知られている。
天草を煮て冷やし、固まったものがトコロテン、トコロテンを寒ざらしにしたものが寒天、つまり寒天を製造するためには寒く乾燥した地域が適している。
そのために冬が長く晴天が続く長野へ、天草は天城峠を越えて運ばれていった。
♪『天城越え』♪わさびざわ かくれみち さよしぐれ かんてんばし〜♪

山葵駿河区中平の見城家には、慶長9年(1604)の古文書が残されている。その中の古文書には、朝鮮通信使の食材として山葵が提供された記述がある。

そもそも有東木の山葵は伝承によると慶長年間から山里で自生していたものを、村人が湧き水で栽培したのが始まりという。


慶長17年(16127月に、大御所家康公に山葵を献上したところ、家康公は「天下一品」と褒めたたえたという。

以後有東木の山葵は、この土地から一切持ち出すことを御法度とした。

ところが延享元年(1744)、伊豆の住人がシイタケ栽培のため派遣された折、密かに山葵を弁当箱に忍ばせて伊豆に持ち帰った。

こうした経緯で、伊豆でも山葵栽培が盛んになったという。

↑山葵の花のおひたし、おろしたての本山葵の山葵丼
河津七滝(ななだる):この地域では滝のことを“たる”と呼び、およそ1kmの川に沿って7つの個性ある滝を巡ることができる。
(えび滝 蛇滝 初景滝 かに滝 釜滝 出合滝 大滝)
それぞれの滝には遊歩道が整備されているので、マイナスイオンたっぷりの森林浴を堪能できる。

■伊豆急下田駅
ペリーが下田の港に上陸したのは1854年、この時行進した道は、現在ペリーロードと呼ばれ、下田の昔ながらの風情が残されている。
条約交渉の舞台となった了仙寺は、ペリー率いる音楽隊の演奏により、日本で最初の洋楽コンサートが行われた場所。
下田駅の広場では黒船のモニュメントが訪れる人々を迎える。
駅の改札も黒船。

坂本竜馬:1854年日本和親条約に関してさらに追加で定めた下田条約が締結されるなど、下田は日本開国の舞台になった。
1863年土佐藩主・山内容堂と勝海舟が坂本竜馬に関する取り決め・脱藩赦免を行った。
その会談を行った場所が残っている。

文久3年(1863年)1月、運命の嵐に導かれ、第15代土佐藩主、山内容堂一行と土佐脱藩浪士を弟子とする、後の幕府軍艦奉行、勝海舟一行が下田で鉢合わせをした。

坂本龍馬らの脱藩の許しをほしい海舟は、わずかな供を連れて同寺に参上、容堂は海舟が酒を飲めない事を承知で、「脱藩の罪を許してほしくばこの酒を飲み干してみよ」と大杯に酒を注ぎ詰め寄った。

それをためらい無く飲み干す海舟…。

その約定の証を求める海舟に、容堂は自らの白扇に「ひょうたん」の絵を描き、「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」と署名し渡したとされる。

龍馬の活躍はここから始まるのである。ここには、その歴史的会談があった「謁見の間」の一部が当時のまま残され、この時、容堂と海舟が酌み交わした大杯の実物を見ることが出来る。

 

〜勝海舟が山内容堂に龍馬脱藩赦免を願い出る〜

薩長同盟、大政奉還を成し遂げた維新回天の立役者、坂本龍馬は、土佐を脱藩した当初、国抜けの重罪人として、幕臣勝海舟に身を寄せる一脱藩浪人であった。

しかし、幕臣でありながら開国論を説き、世界をも視野に入れた、グローバルな考え方を持った勝海舟にとって、坂本龍馬は不思議な魅力に溢れており、両者の間には身分を超えた深い信頼関係があったという。

文久三年(1863)、時勢の急変によって大鵬丸にて上洛途上、後の板垣退助らを随伴した山内容堂は、天候不順から下田の宝福寺に身を寄せて日和待ちを続けていた。

気の短い板垣などは、「何の為の蒸気船か!」と船長らを批判しその声に押されるように一行は出航する。しかし遠州灘沖で猛烈な嵐に遭い命からがら下田に舞い戻る。

そんな折、坂本龍馬ら後の海援隊メンバーを伴った勝海舟が、悠然と幕船順同丸に乗って下田に入港する。

幕末の鍵を握るキーパーソン達が下田に集結した。

「酔候」と自称した山内容堂は、なお続くひどい船酔いに苦しみながら、操船者への不満をいだいていた。高名な幕府高官勝海舟入港の知らせを聞き、「ちょうどよい、勝を呼べ。」と使いを遣る。

当事、名は知れていたものの、勝海舟は奉行並の役職であり、土佐一国二四万石のご隠居からの誘いを断るべくもなく、わずかな人数を連れて宝福寺に参上、謁見する。

 

宝福寺での会談:土佐側は容堂、その側近1 名、大鵬丸船長、そして航海術顧問格の旗本2 名、計5 名。

海舟側は、勝本人と航海術研修生2 名の計わずかに3 名。

対談が始まった。

容堂は大大名の前藩主とはいえ現在は隠居の身、一方の勝は堂々たる幕臣である。

双方敬意を表しながら慇懃に最初の挨拶は終った。

椿事が起こった。勝は居住まいを正し、船長と旗本2 名に向かって云う。

「この航海は容堂様にとって初めての経験だ。よほど慎重に天候を選ぶべきだ。

しかるに悪天をついて出航し、挙句瀕死の目に老公をおあわせになるとは、何たる失態だ。

以後注意めされよ!」。

船長、旗本いずれも一言の反論もなく、うつむくばかり。

さらに海舟は表情を穏やかにして容堂に向かい・・・

「私の船には、尊藩を脱した坂本龍馬ら脱藩浪士が乗船しております。どうか、脱藩の罪を許し、彼らの身を私に預けて頂けないでしょうか」と懇願した。

これに対し容堂は、勝が酒を飲めない事を承知で、「ならば、この酒を飲み干してみよ」と杯を手に取り、海舟に渡し親酌する。

杯に満たされた酒鏡に、龍馬らの顔が浮かんだ。海舟は、ためらうことなく一気にそれを飲み干した。

まるで、これから起きる激動の時代を飲み込むかのごとく。


容堂は「勝が飲んだ、勝が飲んだ」と手を叩きながら、子供のように喜んでいる。

そんな容堂を海舟は冷静に見つめながら、「老公は大酒家でいらっしゃる。

明朝赦免のことなど覚えていないとおっしゃるかも。

是非赦免の証を頂きたい」と願い出る。

海舟の真剣な眼差しに、容堂も白扇を取り出し、瓢箪を描き、その中に「歳酔三百六十回、鯨海酔候」と署名をして手渡した。

翌二月、正式に脱藩は赦免され、その後、まるで足かせが取れたように龍馬の維新回天の活躍が始まる。

豪胆と見識で龍馬を活かした海舟、そしてその心意気に応えて、東奔西走、海舟の構想を実現に導いた坂本龍馬。

二人しか知りえない絆がここにある。

龍馬の二度目の脱藩の際にも、海舟は容堂にこの日の約定を持ち出し、決して厳罰に処することなきよう説得したと伝えられる。

近年、坂本龍馬の師として注目されている樋口真吉が龍馬を評するに用いた「坂竜飛騰」(下界にうずくまり力を蓄えた龍が突然天上界に向かって爆発急上昇する)という言葉がある。

宝福寺、下田は「坂竜飛騰」の地と言っても過言ではない。

龍馬は伊豆下田の宝福寺で、その身にまとわり付く手かせ・足かせを振り払い、文字通り天空を天がける天馬ペガサスとなったのだ。

海水浴場:白浜には大小9つの海水浴場がある。
地元おすすめは田牛海水浴場、波の浸食で複雑に変化した海岸線を持ち、混雑が少ない穴場的スポット。
サンドスキー場:海から吹きつける強い風によって砂が舞い上がり降り積もってできた砂の丘。

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