ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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ありえへん 江戸の世界
江戸時代に人気だったレンタルのお店とは?

江戸時代、大繁盛していたのは・・・ふんどしのレンタル屋さん
当時ふんどりは、新品を買う場合、今の価値にすると6000円ほどし、高額だった。
それをレンタルすると約1500円と割安だったため、繁盛したという。
しかも借りるとき、自分の汚れたふんどりを持ってゆくと洗濯してくれるというサービスも・・・
ふんどしは男のお洒落、祭りや遊郭に行く時などに勝負ふんどしをレンタルしていた。

そのほか江戸時代には今では考えられない様々な職業があった。
全身唐辛子の格好をした、唐辛子売りや、耳の垢取りを専門に行う人・・・

ありえへん、超恥ずかしい職業とは一体?
屁負比丘尼・・・屁の身代わりをすることを職業としていた。
当時若い女性が人前でおならをすることは非常に無礼な事で、お嫁に行けなくなるぐらいの大事だった。
そこで裕福な武家や豪商の娘には、屁負比丘尼(へおいびくに)という本来身の回りの世話をする女性がつき、娘が人前で屁をしてしまった時には身代わりとなって誤り、ピンチを救う役割をしていた。

ありえへん、江戸の寿司
当時寿司は屋台でも提供されていた今でいうところのファストフード的な存在だった。
江戸時代、鯛やヒラメなどは高価だったのに対して、マグロは安く庶民の間で気軽に食べられていた。
当時大トロは脂が多すぎて下品なものと嫌われていたため、捨てられていた。
また当時の寿司は、現代の寿司の3〜4倍の大きさ、今の一口サイズになったのは、近代以降のこと。
食べづらいため、人によっては2つに切って提供していたのが、現在寿司が2貫単位で提供される由縁と言われている。

ありえへん、カステラの食べ方
カステラは室町時代、ポルトガルから伝わり、江戸時代よく食べられていたお菓子。
その食べ方は・・・わさび醤油につけて食べる・・・さらに味噌汁の具に・・・
当時のカステラは現代の者ほど甘くないこともあり、こういった食べ方がされた。

ありえへん、江戸の制度
おでこに謎の文字?
大髭禁止令・・・徳川家綱が発布。
江戸初期、髭を生やすのが大流行し、生えない人は付け髭をつけたり、墨で髭をかく人が続出するほどの異常事態となり、禁止されたという。
おでこに犬と書かれた人が・・・
軽犯罪を犯した時の刑罰で、「犬」と額に入れ墨を入れられていた。
地域や犯罪の種類によって文字が変わり、中には○や又や✘というものも・・・
さらにオデコだけでなく腕に「悪」という字を入れ墨されるものも・・・
恥ずかしいこれらの刑で犯罪を抑えていた。

壮絶!離婚した妻のありえへん行動
江戸時代の離婚率は現在の約2倍、武士は10人に1人が離婚していたと言われている。

「うわなりうち」をしに行く謎の女性集団、皆かなり険しい顔、手には棒、しゃもじ、ほうきを持っている。
後妻打ち(うわなりうち)とは夫と別れた元妻が友達を引き連れて再婚した男の家を襲撃するという風習。
一種のストレス発散のようなもので、暴れて一通り気が晴れたらかえっていった。
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よみがえる江戸城

その城の本当の姿を私たちは誰も目にしたことがない。
東京の中心、皇居に建っていた江戸城、天下を治める徳川幕府の本拠にして、日本史上最大の規模を誇った江戸城、その城はおよそ150年前の幕末、大火に見舞われた。

そのほとんどが地上から消え失せ、実像は多くの謎に包まれてきた。
幻の城と呼ばれてきた江戸城、その真相に迫ろうと、研究者による調査や貴重な図面の徹底的な検証が進められ、徐々にその姿が明らかになってきた。
そこでNHKは、研究者と共にコンピューターグラッフィクスで江戸城の徹底復元に挑んだ。
制作期間は5年、床下の礎石や柱、梁など建物の構造を明らかにし、わずかな誤差も許さず江戸時代の姿そのままに造り上げた。

10000坪の敷地に800もの部屋をそなえた江戸城本丸御殿を蘇ることに成功した。
大広間、本丸御殿の中で最も重要な部屋で、将軍が全国の大名を支配するための空間だった。
将軍が武士の頂点に君臨し続けるためにこの部屋で仕掛けた壮大な演出とは?
城内1長い松之廊下、忠臣蔵の発端となった刃傷事件の舞台。
今回の復元から、これまでの城跡を覆す驚くべき廊下の姿が浮かび上がってきた。
最新の調査が物語る真の刃傷事件とは?

1000人近くの女性が暮らした大奥、この特殊空間は単位将軍の世継ぎをもうけるためのものだけではなかった。
幕府が大奥の女性たちに求めた知られざる役割、そして裏ルートの存在とは?
本丸御殿の入り口表玄関、高さ9.8m、屋根の幅16.6m、柱の1辺が33cm、1回り1.3m江戸城で最も太い柱。

本丸御殿には、表玄関の他にもいくつも玄関があり、どこから入るかは身分によって厳しく決められていた。
城内で働く幕府の役人たちには、造りの小さな中之口や納戸口を使わせた。
その奥、風呂屋口は将軍の親戚にあたる御三卿専用。
そして当時日本最大だったと考えられる表玄関、幕府がここを通らせたのは、全国の大名や朝廷の使者たち。
巨大な玄関をくぐらせることで、幕府の力を感じさせる。
そんな心理的効果を狙っていたことがうかがえる。
では建物の中へ・・・

玄関からすぐ広い廊下を通り虎之間、全長2mを超える虎が7頭描かれている。
広さ76畳、襖や壁に描かれた障壁画は、全面金箔をあしらった絢爛豪華な造りになっている。
この虎之間には大きな役割が託されていた。
戦に明け暮れた戦国乱世が終わり大きな合戦がなくなった江戸時代、武士を束ねる徳川将軍家が軍事力を示す機会は少なくなる。

その代わりに武力を示したのが虎たち、虎は武威の象徴、ここを通る全国の大名たちににらみをきかせた。
虎之間は当時はもっと暗かった。虎が不気味に見えた。
江戸城に入った大名たちが立て続けに目にした表玄関と虎之間、幕府の力を見せつける舞台装置の役割があった。

江戸城の基礎を築いたのは徳川家康、天正18年(1590)、豊臣秀吉の命令で江戸に移った家康は、秀吉亡き後それまで小さな城郭だった江戸城の大改築に乗り出す。
全国の大名に手伝いが命じられ、工事に関わった大名の数は延べ250以上にも及んだ。
その後拡張に拡張を重ね、ようやく完成したのは孫の家光の代、50年にも及ぶ大工事が行われた。
こうして造られた将軍の居城、東西の長さは5.5km、南北の長さは3.8km、外堀の長さは16km、日本の歴史に現れたいかなる城をもしのぐ史上最大の城だった。
その中心にあったのが今回CGで復元した本丸御殿、役割によって主に3つの空間に別れていた。
幕府の公式な儀式を行う場で政治の中心でもあった表、将軍が日常生活を送った中奥、そして将軍の性質や女中たちが暮らす大奥。
この御殿の総工費だけで今のお金で約1800億円と言われている。
技術の粋を集めた将軍の居城、それが江戸城だった。
およそ45mの高さを誇った天守は築城後まもなく焼失、以後再建されることはなかった。

○建物復元までの道のり
今回作られたCGは、江戸時代に建てられた実際の城と寸分たがわぬ精度を追究した。
畳を取り払うと柱をのせる礎石まで現れる。
さらに柱の位置や太さ、天上の梁まで復元している。
なぜこんなことが可能だったのか?

東京都立中央図書館、書庫の最も奥に保管されているのは重要文化財の江戸城の図面。
建築の責任者だった甲良家が残した600点を超す資料。
その中で最大の大きさを誇るのが・・・
長さは3.6mと5.1m、広げると畳11畳分もある。
表と中奥を描いたこの図面でも御殿全体の半分ほどしかない。
縮尺は1/65、柱の位置から部屋の間取りまで、筆で書いたとは思えないほど正確に精密に描かれている。

復元チームのリーダー、江戸城を60年近く研究している平井聖(昭和女子大学特任教授)によると、本丸御殿は何度も焼失したが、再建の旅に同じ構造・様式で建てられてきた。
様々な図面が残る中、平井さんが特に注目したのが幕末の万延元年、江戸城が最後に再建された時の図面。

大広間と呼ばれた部屋の図面、建物を建てるうえで基礎資料となる平面図や立面図が残されていた。
大広間だけで186枚、すべての部屋を合わせるとその数377枚、本丸御殿の全体像が十分つかめるものだった。
復元チームは、その万延の図面をもとにCGを作成するため現代の建築図面に書き起こしていった。

○障壁画復元までの道のり
城内を彩る障壁画も当時のままに再現した。
東京国立博物館、昭和61年ここで貴重な資料の存在が明らかになった。
江戸城に描かれた障壁画の下絵、これは伺下絵と呼ばれ、障壁画を描く前、将軍に絵の内容をチェックしてもらうためのもの。
実に246巻残されていた。

描いたのは幕府の御用絵師を務めた狩野派、この伺下絵の存在により、火災で失われた江戸城のどの部屋にどんな絵が描かれていたか明らかになった。
たとえば白書院と呼ばれた部屋将軍が政治の模範とするため、中国の偉人をモチーフとした故事が描かれていたことが分かった。

大奥の1室には雅な平安貴族が・・・
しかしこれらの下絵はあくまで画題の確認用として描かれたため、色彩や絵の細部は簡略化されている。

そこで力をふるったのが日本画の画家たち、下絵では省略されている色彩や絵のディティールを知識と経験をもとに再現していった。
狩野派が描いた絵は二条城や名古屋城などの城に残されている。

それらを参考に描いてきた経験を生かしながら描いた枚数は572枚、1年の歳月を費やし、障壁画に命を吹き込んだ。

描き上げた障壁画はコンピューターに取り込み、本物の質感に近づけてゆく。

1枚1枚貼られていた金箔の境目まで表現、粉状の金を振りかける砂子という手法まで再現していった。
さらに部屋のつくりから日の光の差し込み具合を計算し、CGに陰影をつけてゆく。
こうして天下一の城・江戸城を現代によみがえらせることに成功した。

江戸城内で最も広い大広間、縦横の長さ50m、畳500枚近く、別名・千畳敷と呼ばれていた。
虎之間を後にした将軍たちがいよいよ将軍と面会するのが、大広間、4つの空間から構成されていた。
一番格式が高かったのが上段、中段、下段の3つからなる部屋、その隣に二之間、三之間、四之間と続いていた。

この広大な大広間は、将軍の就任式や新年のあいさつなど、幕府の重要な行事で使われた。
まさに徳川幕藩体制を象徴する空間だった。
描かれた松の高さ4m、枝を広げた長さは12m、虎と同様、訪れた全国の諸大名に徳川家の圧倒的な権力を見せつける狙いがあった。
松は冬でも葉を落とさない常緑樹、江戸時代は未来永劫の繁栄を意味する縁起の良い木とされてきた。
大広間に描かれた松は特に立派で国内最大の大きさを誇ったという。
もう1つ好んで描かれた画題、鶴、鶴は千年と言われる通り、古くから長寿の象徴として崇められた鶴、大広間には春夏秋冬、四季の自然を楽しむ鶴の姿が描かれた。

大広間の画題に松と鶴が選ばれたのは、徳川の世の末永い繁栄を祈ってのことと言われている。
装飾には当時の最高級の技術が惜しみなく用いられた。
釘隠し、木材をつなぐ釘を隠している飾り金具、金と墨で彩られ、長さは76cm、牡丹の花束の真ん中を和紙で包み込む畳紙形と呼ばれるデザインで、彫金技術の極みを見ることができる。

江戸城の中でも最も重要な部屋、縦24m横8m、縦長のつくり、上段中段下段と3つの部屋がそれぞれ21cmの段差で階段状になっている。
上段には将軍様がお座りになる。

この部屋には段差以外にも身分の差を表す仕掛けが施された。
その1つが天井、下段は格子が入った格天井、描かれていたのは花唐草。

中段は中央部を一段高くして格の違いを出す、折上格天井、しつらえもより華やかになる。
幸福や富貴を意味する牡丹の花があしらわれた。

上段は二重折上格天井、中央部が2段高いつくりになっている。
もっとも格式の高いつくりとされ、将軍が座る場所に使われた。

描かれた絵は太平の世に飛来するという伝説の鳥・鳳凰。
大広間に段差や天井の仕掛けを設けた理由は、この部屋で対面する諸大名に将軍との圧倒的な立場の違いを見せつけ、将軍家に逆らう気を起こさせないようにする狙いだと考えられる。
この大広間が最も効果的に使われたある儀式がある。
毎年正月、将軍は全国の大名を前に年賀のあいさつを行った。(立礼)
平伏しているのは各地の諸大名たち。
将軍へ挨拶を行う場合、諸大名はこのように大広間の二の間、三の間に一度に集められ、お目見えを行った。
まさに大広間の巨大空間を最大限に生かした権威づけの演出。

立礼には厳しいルールが定められていた。
大名たちはお目見えを間中顔を上げることが許されなかった。
一方の将軍は立ったまま、しかも挨拶と言っても、「いずれもめでたい」と一言いうだけだった。
明治になって描かれた立礼の様子↓

新しい将軍の就任式の場面だが、二の間、三の間、さらには廊下まで大名たちが並んでいる。
大広間は幕府の大名統制に欠かせない空間だったのだ。
立礼の他、将軍と大名が1対1で対面する独礼という挨拶が行われた。
独礼を許されたのは仙台藩・伊達家、長州藩・毛利家、盛岡藩・南部家など大きな領地を持つ外様大名。
独礼の時大名はどこに座ったのか?
伊達家は下段の後ろから2枚目の畳、毛利家は下段の1番後ろ、南部家は廊下(部屋の外)。
独礼を再現!!
将軍「それへ!」(もっと近くへ来い)
膝行・・・大名は顔を見せてはいけない
将軍「息災そうに見えて一段な」(元気そうで何より)
大名は一何も言わず、頭をあげずさがってゆく

部屋の中に入れない南部家の独礼は?
将軍「それへ!」
体をくねくね横へ揺らす不思議な動き・・・畏れ多くて前に進めない様子を表す

江戸城にやってくる大名たちが懐に忍ばせていたもの、懐中図(携帯用の城内の見取り図)
大事な儀式のときに迷子になり、時間に遅れては一大事。

○現代の江戸城紀行
江戸城の正面・大手門の前にある交差点・・・ここは江戸事亜ぢ登城する大名が馬を下りる下馬だった
家臣はここで主君の帰りを待ちながら噂話に興じた

「人物の評判」を意味する「下馬評」という言葉はここから生まれたという
大手門・・・大丸御殿に向かう大名が通った門
大手は「正面」「大きい」という意味、「大手企業」などの言葉で今も使われる
外側の「小さな門」と内側の「大きな門」2つで1セット
「小さな門」は敵にとって攻めにくく「大きな門」からは味方の大軍を送り出せる
本丸入り口へ

中之門跡
巨大な石を加工し隙間なく積む「切込みはぎ」という技法で作られた
巨石を美しく積むことで幕府の権威を見せつける狙いがあった
中之門前に警備の武士が待機する場所があった
百人番所
100人を超える武士が24時間体制で城の警備にあたった
この先がいよいよ本丸御殿跡
大広間、権威を見せつける効果をもたせた結果重大な欠点が生じた。
それは?
段差を作ったため下にスペースが生れてしまい、敵に下から襲われる可能性が生じた。
今回の調査で床下のスペースに対する備えは万全だったことが推測された。
断面図に描かれた床板、下段と中段はほかの部屋と同様に14cmの床板が1枚入っているだけだった。

しかし将軍が座る上段の床板は二重構造で、35cm、2倍以上の厚さがあることが分かった。
この明確な理由は記録に残っていないが、将軍が床下から刀や槍で狙われることを防ぐためだったのかもしれない。
このほかにも大広間には将軍の命を守るための工夫があった。
正月、酒に酔った男があろうことか将軍の前に現れ、将軍に近づいてゆくと・・・
城内の警備を行う番士たちが男を捕える。
将軍にもしものことがあっては一大事、上段の間には、警護の武士が控える、通称・武者隠しと呼ばれる隠し部屋があり、いつでもここから飛び出せるよう控えていた。
将軍が暗殺などされてしまっては、幕府の権威が失墜し、太平の世が維持できなくなる恐れが生ずる。
大広間の仕掛けは平和を保つための工夫だった。

○将軍24時間
午前6時、将軍の1日はこの一声で始まる。
「もぅ〜〜〜」(もう将軍がお目覚めになっているという意味の暗号 将軍の行動は最高機密なので、こうした暗号を使って御付のものだけが分かるようにしている)


これは将軍が起きたという合図、起床の時間は決まっていて、たとえ幕府の最高権力者であろうと好きなだけ寝ていられるわけではない。
続いて歯磨きと洗顔が始まる。
歯磨きはフサヨウジと医師が調合した歯磨き粉や赤穂から取り寄せた塩を使い、舌の汚れまできれいにとる。


洗顔に使うのは木綿のぬか袋、この時洗う手を後ろから小姓が支える。
朝食は午前8時、将軍に出す前にまず御膳奉行のところへ運ばれ毒見が行われる。
冷めたものは火鉢で温めて出される。
今日の献立は1の膳が汁・飯・刺身・酢の物、2の膳が吸い物・キスの塩焼き・・・
キスという漢字は鱚、魚へんに喜ぶと書く、縁起が良いのでほぼ毎日出る。


食事中には髪を結われたりする。くつろぎとは無縁。
それほど忙しいのだ。
昼を過ぎると将軍は政務に入る。
あがってくる様々な案件を処理する。
内容は主に人事や刑罰について。
御用取次が書面を読んで、それを聞いて判断する。
案件が多いと3人同時に読み上げたりする。
聞き取れなくても将軍が何も言わなければ決済されることになっていて、例えば悪い老中が勝手な案件を紛れ込ませるとそのまま通ってしまう。


議会などないので将軍しか決めることができない。
城内の人事から役人の処罰まで1人でやるのは大変だろう。


江戸城ツアー、さらに奥へ・・・城内で最も長い廊下
松之廊下、全長55m、100本近くの松が描かれている。
海辺の松原にかかる金色の雲、そして優雅に飛ぶ千鳥も・・・

松之廊下といえば忠臣蔵。
時は元禄14年(1701)3月14日、犬公方で有名な5代将軍・徳川綱吉の時代、この日松之廊下で朝廷の使者の接待係を務めていた赤穂藩主・浅野内匠頭が、吉良上野介に突如斬りかかる事件が起きた。
世にいう元禄赤穂事件だ。
吉良は幕府の儀式を取り仕切る元締め的存在、接待役を命じられた大名たちは吉良に、指南行として謝礼を渡すことが慣例となっていた。
しかし浅野内匠頭は曲がったことが大嫌いな男、謝礼金を出し渋ったため、吉良の怒りに触れてしまう。
吉良は浅野に執拗に嫌がらせを行った。
儀礼の服装やもてなしの料理について偽りの情報を教えたという。
そして事件当日、現場となった松之廊下で浅野は吉良に目の前で罵られ、感情が爆発、とっさ的に斬りつけた。
浅野は即日切腹、赤穂藩もとりつぶし、あとは御存じのとおり、大石倉之助ら赤穂47士の討ち入りへと物語は進んでゆく。

松之廊下は中庭に面しているが、当時は暗かった。
この暗さの秘密は松之廊下の図面に描かれていた。

松之廊下の庭に面した側には板戸や障子が入っていたことが分かった。
さらに唯一の光の取り入れ口である明り取りは、せり出した屋根に覆われ、火の光はさえぎられていた。

イメージされる松の廊下は明るい空間だが、実際は板戸と障子で閉ざされた薄暗い空間だったのだ。

薄暗い廊下で、どうようにして刃傷事件は起きたのか・・・
実際に事件の現場に居合わせた人物の日記が残されている。
『梶川頼照の日記』旗本の梶川頼照は、吉良と立ち話をしていたまさにその時事件に遭遇した。
「この間の遺恨覚えたるか」
と浅野が突然声を発した。
そして吉良の後ろより背中を切りつけた。
再び浅野は振り向いた吉良を切りつけ、逃げようとする吉良にさらに二太刀、そこで取り押えられた・・・

この時何が起きたのか?
浅野は吉良をどのように襲ったのか?
凶器として使った殿中刀とほぼ同じ長さの竹刀で検証、浅野はこうした刀で背中と額、合わせて4回切りつけた。
では、浅野は相手に気づかれずに、背後何mまで近づけたのか?
3m背後まで近づいたとして実験、この距離では切りつける前に相手に気づかれ、かわされてしまう。
2m背後では?切りつけたのは背中ではなく腕。
1.5mまで近づくと?竹刀は背中にあたり、逃げる吉良を切りつけるためには相手を執拗に相手を追い回さねばならないことが分かった。
浅野は吉良の1.5m背後まで近づけたのは、廊下の暗さを生かすことができたためと考えられる。

浅野の動機は?
芝居や小説では、浅野の動機は吉良の個人的ないじめへの仕返しとして描かれることが一般的。
しかし当時の資料を見ると、幕府という巨大組織の中での浅野の立場が事件に深く関係していることが分かる。
浅野は老中から接待費を例年の千二百両から七百両に減額するように指示され、それに従った。
しかし吉良がこれに異議をとなえ、浅野と吉良は不和になった。
幕府の首脳部から経費削減を命じられる一方、接待の責任者である吉良から、従来通りの予算を求められた浅野。
両者の板挟みになっていたことがうかがえる。
実際の松之廊下は薄暗く、相手に気づかれずに行動するにはうってつけだった可能性がある。

では事件当日の廊下は、どのような暗さだったのか?
30年以上にわたり江戸時代の天気を研究している三上兵彦さん(帝京大学教授・歴史気候学)、気象予報士の資格を持っている。
江戸時代の藩の日記『日新記』、日付の下に天気が書かれていることがある。
三上教授の研究チームは各地を廻り、各地の日記に残された天気の記録を集めている。
事件当日の江戸の天気は?
調べてみたが当日の様々な江戸日記にも天気は記されていない。
しかしほかの場所の日記に記された天気を連続的に見てゆくと江戸の天気がある程度推測される。
三上さんの調査によると元禄14年の天気が残っていたのは、津軽、日光、伊勢など全国8ヶ所。
では、ここから江戸の天気はどのように推定されるのだろうか?
事件の3日前の天気図↓

対馬、京都、伊勢で雨が観測され、それ以外の場所で晴れたことから西日本に低気圧があったとみられる。
そして事件の2日後の天気図では、東北の八戸や南部、日光で雨、津軽では雪が観測されている。
そのため東北にかなり発達した低気圧があったことが分かる。
こうして推定された事件当日の天気図では、西日本は高気圧に覆われ晴れ、一方関東の沿岸部には西日本を抜け、後に東北に雨や雪を降らせる前線がかかっている。
江戸の天気は良くなかったと推定される。
得られた情報を基に、再現・・・
元禄14年3月14日、この日は朝から陰鬱な曇り、時より雨がちらつくような天気だった。
明り取りにはほとんど光は入らず、いつにもまして薄暗い廊下だった。
儀式の会場は松之廊下の先にある白書院、吉良上野介は朝9時頃、白書院近くの廊下に控えていた。

一方この時、吉良の補佐役だった浅野内匠頭は、別の接待係たちと廊下で待機していた。
この時接待費をめぐり、幕府と吉良との板挟みとなり苦しんでいた浅野内匠頭、薄暗い廊下で待つ彼の胸中にはどんな思いがよぎっていたのか?
2時間後の午前11時頃、吉良を探す者が現れる。
後に事件の日記を残すことになる梶川頼照だ。
梶川は儀式の段取りが一部変更されたことを聞き、すべてを取り仕切る吉良にその詳細を確認しに現れたのだ。
梶川が自分を探していることを知った吉良は、梶川のもとへ向かった。
浅野の前を通り過ぎる吉良・・・
段取りの変更を確認する2人・・・
吉良の背後およそ1.5mまで近づいた浅野内匠頭・・・
背中に一閃、眉間に一太刀、執拗に追いかけさらに二太刀、ここで浅野は取り押えられた。

○江戸城紀行・後編
現在の皇居・東御苑の中心に大きな広場がある。
本丸御殿跡、800もの部屋を備えた壮麗な御殿、その面影はない。
広場の小道には1つの石碑・「松之大廊下跡」がある。
広場の奥あるひときわ大きな石垣・天守台(高さ44.8m 日本1の天守が建っていた)。
花崗岩の城さが美しさをより際立たせる。
建設を担当した加賀藩は遠く瀬戸内から石を調達、幕府への忠誠の深さを示した。
築城を担った大名の努力の跡は石の意匠や積み方に現れている。

石の表面に細かな線をいくつも刻み込んだ「すだれ」、石を亀の甲羅模様に加工し積んだ「亀甲積み」、角の石材の色を変えアクセントを付けた石垣・・・

当時の姿を残す数少ない遺構・富士見櫓、どこから見ても美しいことから「八方正面の櫓」と呼ばれた。
将軍もここに登り両国の花火を楽しんだという。



政治を執り行う表の一番奥にある黒書院は、大広間と同じく将軍が大名と面会するための部屋、毎月3回、親族の御三家や老中たちから挨拶を受けるときに使った。
室内の装飾は大広間に比べ絢爛豪華なものではない。
墨で描いた山水や花鳥の絵を壁や天井に貼りつける押絵という手法が使われている。

そこに金をあしらうことで、格式を保ちつつも落ち着いた空間に仕立てている。
大広間に比べ将軍との距離も近く言葉も交わしやすい黒書院、権威ではなく、親しみやすさで大名の心をつかむ演出空間だったのかもしれない。
ここからは中奥、将軍の生活空間、住まい。

御休息之間、将軍がくつろぐための部屋、朝食を食べたり日中勉学に励んだりする部屋だった。
意外に質素と思われるが、将軍といえどもこれくらいが落ち着くのだろう。
このくつろぎの部屋に描かれたのが、江戸時代に流行した名所絵。
神奈川の金沢八景の1つ、野島、江の島。

上段の床の間には富士山、気軽に旅行に行けなかった将軍のささやかな癒しだったのかもしれない。
中奥の最も奥にある中奥小座敷、ここまで来ると、お付の小姓と言えどもめったに入ることは許されない。
将軍が大きな決断を下すときなど、ここに1人でこもって考えた。
誰かに対して権威を見せつける必要がないためか、部屋の装飾はごくわずか。
権力者は孤独と言うが、絶大な権力を握った将軍は、この部屋で孤独と戦っていたのだろう。
○将軍24時間
午後、トイレでさえも小姓が手伝う。
袴を脱ぐのが大変なので、尿筒(しとづつ)を差し入れて用を足す。
大便器の下には引出しがついていて、取り出して毎回調べる。
15時からは諸大名との面会。
17時、入浴、小姓たちが付き従い顔と手足、背中をそれぞれ別々ぬか袋を使って洗う。
また体を拭くのに手ぬぐいなども使わず、白木綿の浴衣を着せて水けをとり、また新しい浴衣を着せてはとりを繰り返す。
20時、将軍が大奥へと入る。
女中は将軍が来る前に髪をとかれ、入念なボディーチェックを受ける。

大奥の入り口・御鈴廊下。
入り口の扉には中から鍵がかかっており、紐を引いて詰所の鈴を鳴らす。
すると・・・

大奥で最もいろい対面所、将軍の正室の応接間。
13代将軍・家定の正室・天璋院(篤姫)と公明天皇の妹で14代将軍・家茂の正室となった和宮との対面の時、天璋院は床の間を後ろとした上座、座布団の上に座った。
対する皇族出身の和宮は部屋の下座に座らされた。
2人の立場はこの部屋の対面によって決定づけられた。

将軍の正室は貴族の名門家から迎えていた当時、対面所の障壁画には平安貴族の華やかな暮らしぶりが描かれた。
貴族たちが満月の夜に月の宴を催している様子↓

こうした絵が描かれた理由は京都から迎えた性質に寂しい思いをさせない気配り、一方徳川幕府には平安時代権勢を誇った貴族を上回る力があることを見せつけるためとも考えられる。
御庭御目見、将軍様に女性たちを披露するのだが、将軍がどこで見ているかというと・・・

もっと近くで見たいが、将軍は身分の高い方、女性たちと対等に面を合わせることはできなかった。
御庭御目見で披露されるのは、いずれも大奥で器量よしと言われた女性たち、世継ぎを残すため、こうした方法で相手が選ばれた。

大奥小座敷、将軍がくつろぐ部屋、御庭御目見とは別に、そうぶれ、毎朝たくさんの御姫様候補が集まって将軍の相手が決められていた。
夜になっても将軍には窮屈な決まり事があった。
両側にたてられた屏風のすぐ裏には、お添い寝役と呼ばれた監視役が、一睡もせずに2人の睦言を聞いていた。
お添い寝役たちは、将軍の身の安全を守ることはもちろん、相手の女性が勝手なおねだりをしないか監視し続けた。

大奥の一番奥に新発見の部屋があったことが分かった。
それは男子といれ、将軍専用、小便器と大便器。
これまで将軍は大奥の入り口付近にしかいかないため、トイレもその周囲にしかないと思われてきた。

ところが調査に使われてきた図面から、最も奥まった場所に将軍専用のトイレが3つもあったことが分かった。
歴代の将軍がそれだけ長い時間大奥で過ごしていたことを意味する。

天下泰平の世と呼ばれた江戸時代、火山の噴火や深刻な飢饉、世継ぎの休止など、幕府の根幹を揺るがす出来事が頻繁にあった。
幕藩体制を動揺させない、そのために一役かったのが大奥だった。
例えば11代将軍・徳川家斉、前将軍の世継ぎが急死し、混乱する政局の中将軍に就任した。
家斉は将軍になるや、大奥に頻繁に通っては、歴代最大となる50人の子供をもうける。
そして会津藩や加賀藩など、全国20の大名家に嫁がせたり、養子として送り込んだりした。
幕府が各地の大名との結束を強め、威信を保つ。
大奥はそれを支える重要な役割を担っていた。

大奥も幕府の重要な組織の1つであり、内願を仲介する役割を担っていた。
正式には表(大名・役人)が、老中から将軍へ・・・ろいうルートが公式なもの。
それとは別に奥のルートが存在し、老中に匹敵する奥の役職が老女、内願は非公式なルート。
例えば「幕府の役職に就きたい」というお願いは内願。

内願の事例↓
ある大名が家臣を通じ、大奥に出させた内願の手紙『津山藩江戸留守居方日記』
手紙の主は津山藩主・松平斉民、11代将軍・徳川家斉の息子で、岡山の内陸部、津山藩に養子に出されていた。
斉民が内願で訴えたのは、実りが少ない土地を差し出す代わりに、海に面した小豆島が欲しいというもの。
残念ながら全部はもらえなかったが、一部はいただけたらしい。

大奥という組織は、女性の知的レベルの向上にも貢献した。
大奥に奉公するためには、読み書きはもちろん、和歌が詠める、遊芸(歌舞音曲)ができ、大奥に入りさらにそれが磨かれ、何年かお勤めした後に寺子屋の師匠になったり地域で唄を教え、地域の女性たちの知的水準を上げる役割を担っていた。

日本の首都・東京の発展、人々の暮らしを支えてきたのが江戸城が残した遺産。
江戸城を守る大事な防御施設だった内堀と外堀、さらにそれらを結ぶ運河をたどる。
今も昔も交通の要衝となっている日本橋から出発、この場所から外堀と合流する水道橋までの4kmの水上紀行・・・堀や運河の上を延々高速道路が覆いかぶさっっている。
江戸時代、堀は経済を支える水運の大動脈としても機能した。
その一部が今も残っている。

1960年代の高度経済成長期、日本の消費が拡大、東京オリンピックの開催も決定し、物流の大動脈として高速道路の建設が急務となる。
しかし当時の東京には道路を通す十分な土地が残っていなかった。
そこで江戸城の堀や運河がその受け皿となり、高速道路が次々と造られていった。
高速道路の土台も、堀の石垣が巧みに利用された。
さらに内堀と外堀は都内の交通に欠かせない環状道路として私たちの暮らしを支えている。
その名も内堀通り、外堀通り、堀に沿った土手や堀を埋め立てた上を利用して造られた道。

東京の地下の発展も江戸城なしに語れない。
都内を走る地下鉄の多くはかつて内堀と外堀があった場所に造られている。
銀座線に丸ノ内線、千代田線などその数は8つ。
江戸城の北部、およそ6kmにわたって外堀が当時に近い状態で残されている。
ここでは憩いの場として人々の暮らしに寄り添っている。
もう1つの遺産は、江戸城を中心に造られた武家屋敷。
当時江戸城の周りには全国の旗本や大名の大きな屋敷が密集し、実に江戸の68%を占めていた。
これらの土地は都心の開発に適したまとまった土地を提供してくれている。
およそ7400坪あった土佐藩の屋敷は、明治に誕生した東京の府庁として使われ、今は東京国際フォーラムとなっている。
およそ18000坪あった尾張藩の屋敷は、外交の窓口としてオーストリア大使館となり、その後上智大学として利用されている。
このほか六本木ヒルズは長府藩の屋敷跡、東京大学は加賀藩の屋敷跡、国会議事堂は彦根藩の屋敷跡に造られた。
天下一の城・江戸城があったからこそ、発展を続ける東京の今がある。
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金閣の謎を解き明かせ
金閣があるのは、京都北西部の北山、豊かな水と緑に囲まれた景勝の地。
ここに今からおよそ600年前、室町幕府三代将軍・足利義満は、北山殿と呼ばれる山荘を築いた。

金閣はその中心的な建物、3階建ての建物は、当時極めて珍しいものだった。
しかも2階と3階のすべてに金箔が貼りつめられている。
総数20万枚、なぜこれほどまでに金が用いられたのだろうか。
その訳は、室町時代の古文書を紐解くと分かる。
金閣は元々舎利殿だった。
舎利、つまり釈迦の遺骨を安置するところとして建てられた。
古い仏教の経典『大般涅槃経』には、釈迦入滅後、舎利は黄金の容器に納められたと記されている。
金閣では、舎利は3階に安置されていた。
だから3階は内部まで黄金に輝いている。
仏舎利を納める巨大な舎利容器、舎利殿だからこそ金閣は金色に荘厳された。
この世で最も美しくかつ永遠にあり続けるという奇跡はどう実現されたのか、そこに金閣の大いなる謎がある。

★金閣 美しさの謎
岡田文男(京都造形芸術大学教授)は、文化財の科学的研究の第一人者、古今東西の作品を調査してきた。
岡田さんに必要なのは、わずか1mmの破片、その断面を観察する。
どのような材料を用い、どのような技法で作ったのか、表面からではわからない真実を読み取ってゆくミクロ観察のスペシャリスト。
岡田さんは金閣の輝きの下には知られざる世界が広がっているという。
岡田「金閣は金箔で覆われているがが、その下には漆があり、その漆の仕事がすごく重要。」
昭和62年、金閣の改修工事が行われた時の映像に、驚くべき光景が記録されていた。
外壁に金箔を貼る前に漆を塗っていたのだ。
金箔の下には、一面、漆黒の世界が広がっていた。
しかもつややかな光沢を称えた芸術品のような美しさ・・・
この漆こそが金閣の美の秘密のカギだと岡田さんは言う。
漆は漆の木の樹液を原料とする塗料、美しく、耐久性に優れているため、縄文時代以来、装飾品や器などに用いられてきた。

漆自体高価なため、広範囲に塗る必要がある建物に使われることは稀。
それが金閣ではふんだんに用いられた。

元々金閣では、どのように漆が塗られていたのか?
しかし金閣は昭和25年に焼失したため、当初の様子はわからない。
そこで岡田さんは、同時代の建物からの類推を試みた。
金閣と並び称せられる銀閣だ。かつては2階に漆が塗られていた。

近年解体修理が行われた時、岡田さんは銀閣の漆を調査した。
判明したのは、銀閣では、極めて高度な技が用いられていたこと。
漆塗装は、木の上に下地を施し、さらに漆を塗り重ねて幾重もの層を作ってゆく。
その1つの層に岡田さんは注目した。

漆に煤を混ぜるのは高度な技法、漆の黒を長く保つために、奈良時代以降、最も優れた職人だけが用いた技だという。
「職人は、天皇や将軍のためには最高の仕事をしたのだと思う。
金閣ではこれと同じか、これ以上に丁寧は仕事がなされた可能性は高い。」
最高の漆塗りがなされていたとされる金閣、漆の上に金箔を貼ったのはなぜだろうか?
そもそも建物に直接金箔を貼るのと、どう違うのだろうか?

漆芸家・人間国宝(蒔絵)・室瀬和美さん、蒔絵とは、漆に金粉などの粉をまき、絵や文様を描き出す伝統技法。
漆と金に深く通じる室瀬さんに比較実験を依頼した。
金閣の建材である檜の板と、檜に漆を塗ったもの、2つに金箔を貼ってゆく。
金箔の厚さはわずか1万分の1ミリ。
2つの差は歴然としていた。漆に金箔を貼った方が、圧倒的に滑らかで美しい光沢を放った。

室瀬「木に直接金箔を貼れば、木の凹凸、質感も全部映し出す。
当然ツヤもないし、黄色味を帯びてくる。
肌が整った堅い漆面に貼ることによって、光も強く色調も黒を映し出して色が濃く、赤みを帯びた金箔として発色する。
この黒く堅く強い日本の漆に金箔を貼ることで、金箔がまた生きる。
両方とも活かす最高の表現。」
舎利を納める建物は、この世でもっとも美しくあってほしい、現実には叶え難い望みを奇跡的に実現したのが、漆と金の組み合わせだったのだ。
★金閣 永遠性の謎
金閣は野外にある。この地で金閣は数百年もの間風雪に耐えてきた。
漆と金の組み合わせは、このことにも関係しているのではないか?
京都市産業技術研究所は、長年漆の化学的分析を手掛け世界的に知られている。
その専門家チームに実験を依頼した。
まずテストピースを作成する。
金閣の建材である檜、檜に漆を塗ったもの、その上にさらに金箔を貼った漆箔。
それを促進耐候性試験機にかける。太陽光や温度、湿度などを人工的に再現し、ものの劣化を促進させる機械。
今回は、漆や漆箔が野外で紫外線を受け続けた状態を再現する。
照射時間は120時間、およそ4ヶ月間、直射日光にさらした状態にしてから取り出した。
漆のみを塗ったものは、紫外線によって白く変色していた。
一方漆箔のほうは見た目に違いはない。
一体何が起きたのか?断面を分析する。
漆のみのもの、紫外線を受けていない漆の表面はなめらかだが、紫外線を浴び続けた漆は表面に凹凸ができ荒れている。
岡田「紫外線があたって表面から分解が進む。漆が分解した。
それが表面から見た時には白く、白化現象になる。
長い時間当たると、さらに劣化が進んで漆がやせてゆく。」
では漆箔の方は?
「漆層の表面を見ると、非常に滑らかな状態を保っている。
金箔が紫外線を遮断して漆層を守っていることが見て取れる。」

一番下が檜の層、その上に下地から表面に至るまで何層も塗り重ねた漆の層、分厚い層で木を守る漆をさらに金箔が、紫外線から守っていた。

煌めく黄金とつややかな漆、最高の技術の組み合わせが生んだ奇跡の美。
金閣はまるで掌に載せて愛でる工芸品のように、精緻な技巧を持って作り上げられていた。
高さ10mを超える巨大な工芸品、いったいどこに飾ったらよいのか・・・
池のほとり?
鏡湖池、鏡のように金閣を映し出す仕掛け。
そして山、美しい緑の稜線、さらに四季おりおりの移ろいが、金閣を彩ってゆく。
金閣は周囲の自然ととけあうことで、工芸品を超えたさらなる美の高みを目指した。
しかし完全無欠に見える金閣だが、およそ600年前に作られた当時、その光景はずいぶんと違ったものだったという。
『臥雲日件録』、室町時代の僧侶の日記の記述は衝撃的なもの。
舎利殿北 有天鏡閣
金閣の北に天鏡閣があった・・・
金閣とは複道(空中廊下)でつながっていた・・・
つまり3階建ての金閣の北に、天鏡閣という2階の建物があり、空中廊下が結んでいた。
当時は2階建ての建物も稀、いわばスカイウォーク付の摩天楼がここにあったのだ。
島尾新(学習院大学教授)さんは、常に理性と完成を駆使して美と対峙してきた。
専門は室町美術、金閣と天鏡閣が形作っていた600年前の幻の光景をよみがえらせる。
天鏡閣とはどんな建物だったのか。
島尾さんは数少ない同時代の記録の1説に注目した。
天鏡閣には、15間の会所があったという。(『教言卿記』)
15間はおよそ30畳、会所とはどのようなものだったのか?
奈良、𠮷水神社に現存するもっとも初期の会所がある。
会所とは、人をもてなすための場所、鎌倉時代末頃から作られるようになった。
物を飾って人の目を楽しませるため、違い棚などもしつらえられている。
この部屋はおよそ12畳、天鏡閣はその倍以上の部屋をそなえた巨大な建物であると考えられる。

★天鏡閣 位置を探る
天鏡閣はどこにあったのか?手掛かりは金閣の北側にあったということだけ。
島尾さんはCG制作会社に依頼し、北山の地を三次元化、視点を自在に動かして景色を探ってゆく。
天鏡閣は当時珍しい2階建て、しかも人の集まる会所があった建物、眺めがよい場所にあったに違いないと考えたからだ。

金閣の北側にあって、金閣と池、周囲の木々がもっとも美しく見えるところはどこか、それこそが天鏡閣があった場所。
島尾「金閣とこの島が重なってできるここの風景、もう1つはここに❝抜け❞がとれている。
全体を見渡してもここが一番バランスがいい。」
こうしてベストビューポイントから、天鏡閣の位置が割り出された。
それは現在の金閣の北側、やや西によった場所だった。

★天鏡閣 外観を探る
天鏡閣はどのような外観の建物だったのか?
島尾さんは、藤田盟児(広島国際大学教授)さんの力を借りて、建築と美術、2つの視点から探り当てる。
天鏡閣の姿を記した資料は存在しない。
その外観を探るとき、何より参考とさるのは、金閣そのものの姿。
金閣は1階から3階まで、階ごとに異なる様式でた建てられている。
1階には、蔀度という平安貴族の建物に特徴的な戸が見られる。
寝殿造りという和風様式だ。

2階は引き戸、武士の家でよく使われていた書院造り。
こちらも和風。

そして3階、花頭窓に桟唐戸は、中国風のデザイン。
ここだけは中国・漢のイメージ。
金閣は、和と漢の2つのイメージ、そして異なる様式を組み合わせたユニークな建物。

金閣と並ぶ建物はいかなるものか、3つのモデルが作られた。
最初のモデルは、金閣とは反対にあえて1階2階とも、同じ様式にした。
参考にしたのは、姫路の圓教寺食堂、同時代に造られ、現存する数少ない2階建て建築。

2つめは金閣と同じように1階と2階で様式が異なる和風の建物。
1階は禅宗的な永保時観音堂、2階は住宅建築風の東福寺龍吟庵方丈を参考にした。
いずれも同時代の建物。

3つめは漢のイメージの濃厚なモデル。
2階が開放的な楼閣風建築、中国絵画を参考。『月夜看潮図』(南宋13世紀)

まずは金閣と並べてバランスを見てみる。
この時、最初のモデルが候補から落ちることになる。
和漢の様式を繊細に組み合わせた金閣に対し、このモデルは1階2階の様式が同じため、一層存在感が強まって見え、アンバランスと判断された。
他の2つは、いずれも金閣とのバランスは悪くない。
しかしそれ以外の判断基準が見いだせない。
金閣、天鏡閣ともに例のない建物だからだ。

そこで2人は、改めて天鏡閣がなぜ造られたのか考察した。
足利義満が北山殿に金閣と天鏡閣を建てたのは、14世紀末のこと。
この時期にこそ、謎を解く鍵があるのではないか。
当時義満が最も心を砕いていたこと、それは中国・明と貿易を行うことだった。
東アジアの超大国・明、この国と国交を結び、貿易相手となれば、莫大な利益を手にすることができる。

義満は、明の使節を繰り返し北山殿に招いたことが知られている。
島尾さんたちは、義満が天鏡閣という比類のない建物を建てることによって、明に自らの実力を示し、相手として認めさせようとしたと考えた。
天鏡閣は、明の使節を迎え入れるための建物とされた。
その時問題となったのは、30畳の会所がどこにあったのかということだった。
そこは正式な儀礼が行われた場所だからだ。
結局2人は、大切な相手をもてなす30畳の会所は、1階、外観はフォーマルな場にふさわしい和風、そして2階は眺望を楽しむ開放的な場とし、中国の楼閣風の外観だったと推定した。
1階は2番目、2階は3番目のモデルが元となった。

では会所のしつらえはどのようなものだったのだろうか?
内部の様子をうかがわせる唯一の資料が、『北山殿行幸記』1408年、義満が北山殿に天皇を招いた時の記録。
自らの威信を示す舞台で、義満は天鏡閣の会所に、唐物、中国美術を並べたてた。
それは当時世界最高と目された芸術だった。
義満は唐物を天鏡閣にどのように配置していたのか。
島尾さんは復元してゆく。

具体的な記述はなく、学識と審美眼を頼りに幻の光景を探った。
これがよみがえった600年前の姿。

天鏡閣は、確かな存在感を持って背後から、黄金に輝く金閣を支えている。
そして趣の異なる2つの建物を、空中廊下が結び付けていた。

内部、30畳の部屋は義満が天皇や明の勅使と対面する、いわば貴賓室。
正面には7ふくもの中国絵画の傑作がずらりと並ぶ。

義満が自ら集めたもので、主に日明貿易で手に入れたと推測される。
そして中国風の椅子に座り、ゆったりと会談を行う。
そんな贅沢な空間だった。

隣には趣向のことなる部屋。
義満が天皇に進上した唐物がぎっしり並ぶ。
ここにもとっておきの中国名画、さらに色とりどりの花瓶や漆器、違い棚には天目茶碗や香炉、付書院には品よく取り合わせた文房具。
まるで一大展覧会を凝縮したような豪華な部屋がそこにあった。

この部屋を訪れた貴族の言葉。
唐国にてだにも なおありがたき物どもを ここはとあつめられたれば 目のかがやき 心もことばもおよばずぞありける。
(中国本国においてさえも貴重なものをここぞとばかりに集められたので、見る人の目は輝き、心も言葉も奪われてしまった。)
時に中国の使節を、時に天皇や貴族を圧倒して、縦横に力を発揮した義満。
金閣と天鏡閣は、義満のみが創造しえた唯一無二の光景だった。

舎利殿である聖なる金閣と、人々が集まる会所という俗なる天鏡閣。
聖と俗、2つの世界が立ち並ぶ、その姿こそまさに600前の光景だった。
そして2つの世界を結んでいたという空中廊下、そこからの眺めはどのようなものだったのか?

空中廊下は、黄金に輝く聖なる世界金閣の扉へと続いている。
そして眼下に広がるのは木々の緑と鏡のように澄み渡った池。

当時の人はこの空中廊下の道行きを虚を歩む、すなわち宙を歩んでいくようだと記している。
そしてたどりつく聖なる世界。
視界すべてが黄金に輝き、その中に吸い込まれてゆくようだ。
これが義満の狙いだったのか?
それにしても義満は、なぜここまで空前絶後の仕掛けを用意したのか?

金色の輝きに目を奪われて、つい忘れがちだが、屋根の上にひときわ光を放つものがある。
鳳凰為政者が善政を行うときに現れると信じられてきた伝説の鳥。(高さ1m)
ここに金閣の人気の秘密と、金閣を作った義満の巧妙な策略を読み解くのは佐藤可士和(アートディレクター)さん。
アートディレクターとして、様々な商品のデザイン、企業のブランドイメージなどを手掛けている。
対称の本質をつかむという独自の哲学によって、すべてを新鮮かつ明快に表現してきた。

佐藤「もしかしたら義満はスティブ・ジョブズみたいな人だったのではないか?」
スティーブ・ジョブズは、IT企業を率いて、未来を先取りする製品を次々と送り出し、人々のライフスタイルまで変えてしまった男。
斬新でシンプルなデザインによって、世界中を熱狂させた。
佐藤さんによれば、義満はこの世界屈指のIT革命家に勝るとも劣らないイメージ戦略の達人だった。
そのことを3つのキーワードから明かしてゆく。

.▲ぅ灰鵝(かりやすい絵記号
『洛中洛外図屏風』京都の名所を描いた屏風で、室町から江戸時代にかけて、100を超える作品が残っている。
そこに金閣がどう表されているのか、人々の心に焼き付いているのか調べた。
描かれた金閣の形は一転していた。
いずれも池のほとりにたつ四角い形の建物。
屋根の上には鳳凰が必ず鎮座していた。
佐藤「非常にアイコン的に造られたものだと思う。
四角い建物・上に鳳凰が乗っている・池のほとりにある。
非常にキャッチーな要素でシンプルにまとめあげられている。
ランドマーク的なものにしようという意思が最初からあったと思う。

▲ぅ瓠璽検/佑鯑阿す力
1368年、足利義満は11歳で将軍の座に就いた。
祖父尊氏が室町幕府を開いてから30年余り、いまだ各地の敵対勢力が独立や反乱の機会をうかがっていた。
義満は独自のイメージ戦略によって、この苦境を乗り越えたと佐藤さんはみる。
中でも注目するのは、義満が毎年のように各地への遊覧を繰り返していたこと。
天橋立、富士山、厳島神社・・・
実はその多くは、敵対勢力がひしめく場所だった。
しかも遊覧の際、自らは派手な衣装に身を包み、引き連れた供回りにも奇抜な格好をさせたという。
そこに義満の策略が潜んでいた。
「アウェーな状況をどういうやり方で打破するかを考えていたと思う。
その時に努力ではなく、派手な格好をすることである強烈なインパクトをもったイメージを提示して、周りを威嚇する。
イメージの力をわかっていたと思う。」
自らは戦場で刀を振るうことはなかったにもかかわらず、義満は権力の頂に立った。
それはイメージがいかに人の心を動かすかを知り抜いていたからだと佐藤さんはみる。

ストーリー 自分の物語を創る
晩年の義満が権力の集大成の場とした北山殿、ここでも義満はイメージ戦略を展開する。
今度はストーリー・物語によって自分の価値を高めようとしたと佐藤さんは分析する。
義満は平安文学の傑作『源氏物語』を利用したのだ。
主人公・光源氏が最も輝かしく描かれ、人々に愛されていた『紅葉賀』の一場面↓

光源氏は青海波の舞を天皇の前で披露する。
それは40人もの楽人を従えた豪勢な舞。
神々しいまでの光源氏の舞に、見るものすべてが涙したという。
この名場面を義満は金閣のある北山殿で再現して見せた。
しかも時の天皇を招いてご覧にいれた。
見る人々は自ずと源氏物語を思い起こし、義満を光源氏と重ね合わせたという。
佐藤「今度はストーリーを持ってきてある場面場面で照らし合わせて人々にそれを感じさせる。
自分を光源氏に見立てて、自分のポジションや完成を表現している。」
義満の没後まもなくして、北山殿は解体されてしまう。
しかし金閣だけは残された。
そしてその後幾度も戦火を潜り抜けてゆく。
数百年も金閣が生き続けたこのことにこそ、義満と金閣の本質があると佐藤さんはみている。
佐藤「金閣という非常に明快かつ大胆なコンセプトがイメージが風化せずに現代まで息づいている。
コンセプチュアルなものを造った義満は、政治家でありながら、まさに表現者だった。
表現者ということでスティーブ・ジョブズではないか。
クリエイティブの力を存分に使って政治をやった人。」

金閣というアイコンは600年という時を超え、21世紀の人間たちにも強烈に訴えかける力を持っている。
残念ながら義満の造った金閣は昭和25年に焼失、現在の金閣はその5年後に再建されたもの。
しかし創建当時のものが1つだけ寺に伝わっている。
鳳凰の像、創建当時金閣の上にあったものだが、火災の時、幸運にも外されていたため難を逃れた。
かつては黄金に輝いていたというが、長い間の風雪にさらされその輝きは失われてしまったように見える。
しかし羽の裏にわずかに金箔が残っている。
幾世相の時を得てもなお、王者の風格を漂わせる。
まさに日本の頂点を極めた男いふさわしいシンボル。
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古事記の世界2

和銅5年(712年)神官・太安万侶が申し上げる。
かつて天武天皇はおおせになりました。
「諸家に伝わっている歴史や言い伝えは誠とは異なり、多くの偽りが加えられている。
ゆえに正しい歴史を選び、言い伝えを調べ、偽りを削り、誠を定めてのちの世に伝えようと思う。
そこで天皇はおそばに使える稗田阿礼に命じて、歴史と言い伝えを読み習わせた。
しかし天皇がお隠れになり、時は移りいまだその事業は成就しておりません。
安万侶はキンジョウ陛下の詔に従い、稗田阿礼が読むところの歴史と言い伝えをとり記し、献上いたします。

第1話「国生み」のあらすじ
天と地が初めて起こった時、高天原に神々がなった。
アマツカミの命を受け、伊邪那岐命と伊邪那美命は、アメノヌボコで始まりの島・淤能碁呂嶋をおつくりになる。
島に降り立った二柱の神は、天の御柱の周りを廻り、言葉を交わされた。
「ああなんて素敵な乙女なんだ。」
「まあなんて素敵な殿方何でしょう。
そして二柱の神は契りを交わされ、国土となる島々をお生みになった。
さらに自然や人々の暮らしにまつわる多くの神々を生んでいった。
しかし伊邪那美命は火の神をお生みになったことで火傷を負い、亡くなってしまった。
伊邪那美命を比婆之山に葬った伊邪那岐命は火の神をお斬りになった。
そして今一度伊邪那美命に会いたいと黄泉の国へ向かわれたのだった。

第二話「黄泉の国」〜日本人の死生観に迫る〜
「イザナミ〜、イザナミよ」

「愛する我がミコトよ、私とそなたで作った国はまだ作り終えていない。
ここから一緒に帰らぬか。」
「ああ悔しいこと、もっと早く来てくださっていれば。
私はもう、黄泉の国のカマドで炊いた食べ物を口にし、この世界の住人になってしまいました。
もう戻ることはできません。
でもいとしいミコト様がわざわざお出でくださったのだから、何とかして帰りたい。
黄泉の神と相談してみましょう。
その間決して私の姿を見ないでください。」

しかしいくら待っても伊邪那美命は戻られなかった。
「遅い、一体どうしたのだ。もう我慢できぬ。」

伊邪那美命の体には蛆がたかり、雷の神が現れていた。
「うわ〜!」
「よくも私に恥をかかせましたね。
者共、ミコトを追うのだ。」
伊邪那岐命が黒いカヅナの髪飾りを投げ捨てると、たちまち山ブドウの実がなった。
黄泉の国の追手は夢中になって山ブドウを食べ始めた。
次にツマブシの刃を折って投げ捨てると、たちまちタケノコが生えてきた。
追手はまた夢中になってタケノコを食べ始めた。

「雷神どもよ、1500の兵を率いて追うのだ。」
黄泉比良坂にて、伊邪那岐命が桃の実を3つ取って投げつけると、黄泉の国の軍勢はことごとく逃げ去った。

「桃の実よ、お前が私を助けてくれたように、うつしき青人草が、悩み苦しんでいる時に助けてやってくれ。
お前には意富加牟豆美命の名を授けよう。」
そしてついに伊邪那美命は自ら伊邪那岐命を追ってきた。

「よいかもはや私たちは夫婦ではない。
そなたは黄泉の国へ帰ってくれ。」
「いとしい我がミコト、あなたがそのようなことをするのならば、あなたの国の人々を1日に1000人殺しましょう。」
「いとしい我がミコトよ、そなたがそのようなことをするのならば、私は1日に1500の産屋を建てよう。
こうして人は1日に1000人が死に、1500人が生れることになった。
黄泉の国へ戻った伊邪那美命は黄泉津大神と呼ばれた。
黄泉比良坂をふさいだ巨大な千引の岩は、道反之大神(ちかへし)と名付けられた。

『古事記』
其の石(いは)を中に置き 各対(おのもおのもむか)ひ立ち而 事戸度す(わたす)時
伊邪那美命言(まを)さく 愛(うつく)しき我が那勢命 如此為者(かくせば)
汝(いまし)の国之人草 一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむとまをす
しかして伊邪那岐命のらさく 愛しき我が那迩妹命
汝然為者(いまししかせば) 吾一日(あれひとひ)に 千五百産屋を立てむとのらす


横穴式の古墳には玄室につながる羨道がある。
生きている人たちは羨道を通ってしばしば死者の肉体が変化してゆく様子を見ていたらしい。
古代人は死者を穢れとして見ていなかった。
その当時殯(もがり)といい、通夜が長かった。(長いと2年間)
医療が発達していない時代、死んだと思っていても実は仮死状態で息を吹き返したことがたまにあると、諦めるまでにあらゆることをしたのだろう。
その間が殯であり、でもどんどん腐ってゆく。
どこかで死者と区切りをつけようという思いが色々な葬送儀礼に含まれているのだろう。

初めて人間が登場するシーン・・・
尒して伊邪那岐命 桃子に告らさく 汝(なれ)吾(あれ)を助けしが如く
葦原中国(あしはらのなかつくに)於有ら所る
宇都志伎青人草之 苦しき瀬に落ち而 患へ偬む時 助く可し

うつしき青人草とは現実の青々として人である草、人間は草である、草と同じように生えてきた。
生れて芽吹いて花が咲いて実がなって、枯れて・・・その循環がとても大事だったのだろう。
旧約聖書では、人間は神が作った土人形に神の息を吹き込んで生まれた、アダムが生れた、となっている。
「人は草である」という発想は湿潤な日本の気候に合っていたといえる。

神話の舞台として名高い出雲、この地に黄泉の国への入り口と信じられている場所がある。
日本海に面した小さな漁村にある猪目洞窟、人1人がようやく入れるほどの洞窟の先には深い闇が広がっている。
一体どのくらいの深さがあるのか、まだわかっていない。
縄文時代の人骨が多数発見されたというこの洞窟、夢でこの洞窟を訪れると、必ず死ぬという古い言い伝えが残されている。
猪目洞窟の50kmほど先には古事記にその名が伝わる伊賦夜坂がある。
其の謂はゆる黄泉比良坂者 今に出雲国之伊賦夜坂と謂ふ
黄泉比良坂・・・現世と黄泉の国とをつなぐ生と死の境目の地。
死後の姿を見てしまったことから、妻の怒りをかった伊邪那岐命、黄泉の大群に追われながら、この坂を走った。
坂の終わりに現れたのは、道をふさぐように置かれた巨石、重さ5トンはあろうかというこの巨石の名は千引の石。
伊邪那岐命が黄泉比良坂をふさぐために置いた岩であると伝えられている。

夫婦の神は、この岩を境に言葉を交わし、永遠に別れることとなった。
伊賦夜坂の近くには1300年以上の歴史を持つ揖屋神社がある。
ここに伊邪那美命が祀られている。
この神社では年に1度本殿に祀る伊邪那美命を、ある場所へとお連れする祭がある。
400年以上前から土地に伝わる一つ石神幸祭、御神体を神輿に乗せ、船で向かう先とは・・・
それは神社から2kmほど離れた湖沿いにある。
ここで年に1度悲しい別れをしたイザナミとイザナキが会うという言い伝えがある。
この場所が逢引の場所。

潮が引いたときにだけ姿を現す一つ石と呼ばれる50cmほどの石、土地の人々はこの石を依代とする漁業の神に、伊邪那美命と共に、豊漁を祈願してきたという。
それがいつしか人々はこう信じるようになる。
祭の日、この一つ石に夫の伊邪那岐命が降臨し、夫婦の神がこの場所で再開を果たすのだと。
この地で離れ離れとなった夫婦の神、しかし土地の人々の思いが、新たな再会の物語を作り出したのだ。

なぜ物語の舞台の出雲が選ばれたのか・・・
今までは西は暗い死の世界につながると説明されていた。
最近様々な発掘があり、出雲から大量の銅・青銅製品、鉄器が出土した。
出雲には大きな勢力があったのではないか、と言われている。

愛する人を死者の国から連れ戻そうとする話はギリシャ神話にも登場する。
竪琴の名手オルフェウスは、毒蛇にかまれて死んだ妻エウリュディケを追って冥界に行く。
そして冥界の王ハデスに、得意の竪琴で、妻を返してくれるよう頼む。
悲しい琴の音色に心動かされたハデスは、冥界から出るまでは決して後ろを振り向いてはならないという条件をつけてエウリュディケを返す。
しかし冥界からあと少しで抜け出すというところで、不安にかられたオルフェウスは、後ろを振り向いて妻の姿を見てしまう。
それが2人の最後の別れとなった。

見てはいけないと言われると、ちょっと覗いてみたくなる。
物語の世界を見ると、「覗く」とは「真実が見える」ということ。
普通に見ても出ているのは表面だけ、壁・窓の隙間から中を覗くと本当の世界が見えると物語は展開してゆく。
似た話はあちこちにあるが、それが伝播したものなのか、自然発生的にそれぞれの土地に出たものなのか・・・
日本人のルーツは南方系民族と北方系民族が混じり合っている。
この話も中央アジアを通って入ってきた神話の1つだったのかもしれない。

ひどく汚らわしい国へ行ってきてしまったものだ。
早く禊をし、この体の穢れを清めなければ。
イザナキの大神は、筑紫の国ヒムカのタチバナのオドの阿波岐原にお着きになると、禊を始めるため身に着けていたものをお外しになった。
この時投げ捨てた杖から悪霊を祓う神、帯から道中の安全を守る神、袋から時を量る神、上着から煩いを逃れる神、冠から口を開けて穢れを食う神がなった。
手首に着けていた腕輪からは海辺の神々がなった。
水で体をすすぐことによって、また多くの神々がなった。
汚れた垢から現れた禍いの神々、その禍を防ぐ神々、海の神々である。
そして顔をすすぎ、左の目を洗った時、天照大神がなった。
次に右目を洗うと月読命がなった。
最後に鼻を洗うと建速須佐之男命がなった。
「私はたくさんの神々を生んだが、最後に三柱の尊い子を得た。
そなたは高天原を治めよ、そなたは夜の国を治めよ、そなたは海原を治めよ。」

こうして伊邪那岐命のおおせに従い、皆委ねられた国を治めていたが、須佐之男命だけは己の国を治めず、あごひげが伸びて胸より長く垂れるようになっても泣きわめいていた。
そのため山々は枯れ果て、川や海はことごとく干上がった。
悪しき神々の声が辺りに満ち、禍が起こった。
見かねた伊邪那岐命が姿を現した。
「なにゆえそなたは委ねられた国を治めずに泣きわめいているのか。」
「私は母の国である根之堅洲国へ参りたいのです。
ですから泣いているのです。」
「そのようなことではこの国に住むことはできぬ。」
こうして須佐之男命は追放されてしまった。
こうなったからには高天原にいる姉の天照大神に事の次第を申し上げ、それから根之堅洲の国へ参るとしよう。
須佐之男命が天へと昇って行く時、山川はことごとく揺れ動き、国土はみな震えた。

「我が弟のミコトが昇りくる訳は、必ず良い心からではないだろう。
我が国を奪おうと思っているに違いない。
天照大神は、髪をといて男の髪型のミズラに結いなおし、背に千本もの矢が入る靫、肘に威勢のよい高鳴りのする鞆をつけ、弓を振り立て堅い地面にももまで踏み込み、淡雪のように土を蹴散らし、雄々しく踏み勇んで待ち受けた。
はたして天照大神と須佐之男命の対決の行方は・・・?

スサノオノミコトを追放し、国づくりを終えた伊邪那岐命、その御霊が鎮まったとされる場所がある。
淡路に国の一ノ宮、伊弉諾神宮、古くから聖域と崇められてきたこの地が伊邪那岐命の療護であると伝えられている。
神宮で行われる結婚式では、今も伊邪那岐命と伊邪那美命の国生み神話に倣った儀式が執り行われている。

あなにやし いをとめを(なんと素敵な乙女だろう)
あなにやし えをとこを(なんと素敵な殿方だろう)
この言葉は古事記に登場するもの。
天から下った伊邪那岐命と伊邪那美命は天の御柱を回り声をかける。
そして契りを交わし国を生んでゆく。
伊邪那岐命 先づ 阿那迩夜志 愛袁登売袁と言ふ
後に妹伊邪那美命
阿那迩夜志 愛袁登古袁と言ふ
神話が息づく地で新たに夫婦となった2人。
境内にそびえる御神木、夫婦大楠が2人の未来を祝福する。

伊邪那岐命が鎮まった後、古事記の神話は天照大神を中心に進んでゆく。
その天照大神を祀っているのが伊勢神宮。
実は伊弉諾神宮から見て伊勢神宮は、ちょうど真東の方角。
同じ緯度上に位置している。
そしてその中間点には古事記編纂の時代の都、藤原京がある。
つまり都から見て真東に伊勢神宮、真西に伊弉諾神宮を拝む形になる。
都の人々は、東の方角より出る日の出を、天照大神の象徴として拝み、西の方角に沈んでゆく夕日を、国づくりを終えた伊邪那岐命の象徴とし、拝んでいたのかもしれない。
国の礎を築いた伊邪那岐命、今も沈みゆく夕日のように穏やかに日本の行方を見つめている。

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古代最大のミステリー邪馬台国はどこに?
日本古代史最大のミステリー邪馬台国はどこにあったのか?
そもそもの発端は『魏志倭人伝』3世紀の中国で書かれた歴史書。
文字数はおよそ2000、とりわけ邪馬台国への道のりを記したわずか83文字は、所在地をめぐる論争の大きな引き金になってきた。
❝初めて海を渡ること千余里 対馬国に至る
 ❞
これは今も同じ名をもつ対馬のことだと考えられている。
❝南に海を渡り一支国 さらに海を渡り末蘆国❞
ここで九州に上陸し、いくつかの国に立ち寄った様子が受け取れる。
ところがここからの記述が読む者を混乱させる。
❝南に水行二十日・・・水行十日・・・陸行一月・・・邪馬台国に至る・・・女王の都する所なり❞
具体的な距離は明記されていないが、これだけの日数を南に進むと九州のはるか先、何もない海の中にたどりついてしまう。
どう受け止めればよいのか、これがすべての謎の始まりだった。

邪馬台国論争、300年の始まりは江戸時代半ば、忠臣蔵・赤穂浪士の討ち入りと同じ時代。
当時江戸幕府を代表する学者であった新井白石が魏志倭人伝を読み解いたのがきっかけだった。
所在地の謎を解くために白石は方位と距離の記述をあえて無視(『古史通或問』)、記された国名の読み方だけを手掛かりにした。
すると、一支国は壱岐、末蘆国は松浦半島、伊都国は怡国群島、奴国は那珂、不弥國は宇美・・・
魏志倭人伝に記された国名は九州の地名に当てはまっていった。
しかしこの方法でたどりついた邪馬台国は、実に意外な場所、奈良県の大和、近畿説を立ち上げた。
❝邪馬台国と唱えしは 今の大和の国を言いしなり❞(魏志倭人伝)
ところが後年白石はもう1つヤマトという地名を見つけてしまう。
九州、福岡県の山門(やまと)・・・こうして白石はさらに九州説を立ち上げた。
地名に着目した推理の結果、図らずも近畿、九州の2ヶ所にスポットが当てられる。
この2つの説をベースにして、以後300年、様々な人が、様々な推理を繰り広げ、論争の輪を広げてゆく。

明治時代、近代化の時代、論争は学者の間で本格化する。
明治43年、日本の東西2大学、東京大学と京都大学の学者が真っ向衝突した。
❝南に水行十日、陸行一月で邪馬台国に至る❞
ここに書き間違いがあるという対立だ。
東京大学で東洋史学の権威だった白鳥庫吉が注目したのは❝陸行一月❞。
「一月」が「一日」の書き誤りであると推理した。
これを基に九州のなかに邪馬台国を置く。
これに反論したのが以前から白鳥とライバル関係にあった京都大学の内藤湖南。
書き間違いは日数ではなく、南とあった方位が実は東と推理した。
邪馬台国は、瀬戸内海を東へ向かった近畿地方であると。
日数か、方位か・・・たった1文字の誤りをめぐって、学会全体を巻き込む大論争となった。

さらに戦後、邪馬台国は一躍国民的ミステリーへと拡大してゆく。
そのきっかけとなったのは、昭和を代表するミステリー作家・松本清張、邪馬台国を推理小説の題材として、その謎解きの楽しさを広くアピールした。
同じころ邪馬台国探しをテーマにした本が50万部を超える大ベストセラーになった。
著者は宮崎康平、長崎県の郷土史家だった。
盲目の宮崎は妻の和子さんと、九州を実際に歩き、謎に挑んだ。
目の見えない宮崎のために和子さんが作った九州の立体地図↓

赤い紐は川筋を表している。
❞水行十日❞は海ではなく、入り組んだ水路を進み、日数がかさんだためだと宮崎は考え、自らの故郷、長崎県島原こそ邪馬台国であったと推理した。
宮崎に触発されるかのように、全国各地が次々と名乗りをあげ、邪馬台国探しの熱狂は日本中に広がっていった。

奴国まではほぼ確実に場所が特定される。
ここからが謎解きの始まり・・・
不弥国は現在の飯塚市付近だという説と、考古学的には福岡県の少し北東よりの宗像市など。
❝南 邪馬台国 水行十日 陸行一月❞
これをまともに解釈すると九州のはるか南海上の・・・ジャワ、インドネシア、エジプト?

邪馬台国が栄えた3世紀半ばはどのような時代?
弥生時代と古墳時代の境界。
弥生時代は地域の割拠状態が大きい、古墳時代は奈良に大きな前方後円墳がどんとでき、それに呼応するように全国に前方後円墳ができた。
そこに葬られる有力者の間に政治的な統合が生じた。

小さな村々から大きなクニができ始める時代。
弥生時代から古墳時代に至るまで、3世紀の空白の時、日本にとって大切なことが起きた。
邪馬台国とヤマト王権のつなぎが分からない。
空白を埋める中国の文献もない。
中国の歴史書は日本のために書いているわけではない。
『三国志』の執筆者・陳寿にとって邪馬台国は重要な意味を持つくにだったので、これだけ詳細に記録が残った。

『三国志』と邪馬台国の意外な関係
『議事倭人伝』は3世紀の中国が、魏・呉・蜀の3つに別れ相争っていた時代を記録した『三国志』の一章。
魏の国が外交関係を持っていた倭国の記録であることから、『魏志倭人伝』と呼ばれている。
三国志の時代、魏・呉・蜀の3つの国が激しい戦いを繰り広げていた。
北方の国魏はこの状況を打開するため、敵対する呉・蜀の背後にある国との連携の道を探っていた。
そんな折、海を越え、倭国の女王・卑弥呼の死者が魏の都を訪れた。
これを喜んだ魏は、卑弥呼に親魏倭王の金印を授けた。
中国の皇帝にとって金院は重要な意味を持っていた。
周辺に役に立つ国があれば、そこの支配者を中国に従う王と認め、金印を授けて味方につけていたのだ。
当時同じように魏の皇帝から金印を受け取った国がもう1つあった。
それは魏のはるか西に位置する砂漠の国・クシャーナ朝、儀はライバル蜀の背後にいるクシャーナ朝を味方につけ、絶好の位置から蜀を牽制することに成功した。
魏の皇帝は東にある邪馬台国にも同じような役割を期待した。
それは宿敵・呉を牽制する役割。
呉を挟み撃ちにできる絶好のポジション、大陸の盗難の位置に邪馬台国が位置していると思い込んだ可能性が高い。
こうした期待と幻想が、魏志倭人伝における邪馬台国の位置を狂わせたのではないか?
当時の世界観に規定されて記述が事実と異なってゆく。
世界の中心たる魏の皇帝が金印を授けた邪馬台国、それは宿敵・呉の背景にあるという地理的要件を満たしていなければならない。
こうして邪馬台国の位置を示した議事倭人伝の記述は、現実とはかけ離れて記されたのではないか?

この時代邪馬台国を記した日本の文献はない。
正史と呼ばれた『三国志』だが、正史とは正統性を示すための歴史書。
この当時の世界観とは?
洛陽(魏の首都)、中国の天子(皇帝)は中国だけを支配するのではなく、天下を支配するという考え方があり、遠くから民族が来るほど得が高い。
呉の国と戦ってゆくとき、三国志で一番有名なのは赤壁の戦い(レッドクリフ)では、魏は水上戦に敗北。
魏は騎兵を主体とする戦力で水に弱い、呉と戦った時に呉が海の方へ逃げてゆくと追えなくなってしまう。
邪馬台国が↓の位置にあると呉が逃げられない。

実際セイシンという国が三国を統一したときに呉は水上に逃げられなかった。
それはこの国があったおかげなのだ、ということを書くと歴史書としては正統性を示すことになる。
そのためには日本が現実の場所にあっては困る。
中国にとって邪馬台国は不思議な国だったろう。
中国史には登場しない女王が占いをしている。
また古代中国の先入観で書いている。
東方の異民族は体に入れ墨をしている。
南方の異民族は顔に入れ墨をしている。
東南(倭)の異民族は体と顔に入れ墨をしているべきだという先入観・・・
顔が汚れていた人がいると・・・やっぱり・・・
当時の世界観を知ったうえで『魏志倭人伝』を読まねばならない。

『魏志倭人伝』の記述をめぐって、300年にもわたり研究者たちを悩ませてきた邪馬台国。
一方考古学者は発掘調査を積み重ね、物証から邪馬台国に迫ってきた。
近畿か・・・九州か・・・
出土品から、どこまで邪馬台国が明らかになってきたのか?

もしもこれが発掘されれば、卑弥呼がいた場所を確定する決め手が2つある。
1つは卑弥呼が魏から授かった金印、邪馬台国の中枢部で大切に保管されたと考えられる。
もう1つは魏とのつながりを示す装封、重要な贈り物が勝手に開けられないように施された特別な封。
魏から卑弥呼に送られた荷物を泥で封印し、そこへ皇帝の印象を押したことが予想される。

この2つの物証は未発見。
では現在まで見つかっている有力な出土品とは?
九州説を裏付ける出土品・・・
九州北部の島、壱岐島で、当時の文化の先進性を示すきわめて重要なものが見つかっている。
発掘が進む原の辻遺跡。
壱岐から大量に出土する鉄の延べ棒↓

実用品というより、日本で鉄を加工するために鉄の素材としてもたられたもの。
当時日本で使われていた主な金属は青銅、そこに新たに登場したのが鉄。
鉄製の武器は全国手に見ても九州の出土数が圧倒的に多い。
このことから、そこに当時の都・邪馬台国があったという説が九州説の論拠。

一方近畿説を裏付ける注目の出土品がある。
奈良県天理市黒塚古墳、1997年に大量の銅鏡が発見された。
その数34枚、1か所から見つかった数としては最多。

発掘された鏡、かつては金色に光り輝いていたと推測される。

鋭く三角に尖った縁、その中に神と獣が同居することから、三角縁神獣鏡と呼ばれている。
鏡を使って宗教的な儀礼をおこなったことがうかがえる。

『魏志倭人伝』には鏡について次のように記されている。
❝景初3年 魏は卑弥呼に 銅鏡百枚を贈った
卑弥呼に我々魏と 国交を結んだことを 国中の人に知らしめるよう申し伝えた❞
つまり卑弥呼は魏と国交を結ぶんだ記念に銅鏡百枚を贈られ、日本中に配布したと考えられる。
黒塚古墳と同様の三角縁神獣鏡は日本中から出土している。
中には景初三年と刻まれたものも見つかっている。
これは卑弥呼が鏡を贈られたまさにその年。
こうした事実からこんな仮説が立てられた。
卑弥呼は黒塚古墳を拠点にして鏡を全国に配ろうとしたのではないか。
近畿で鏡の出土数が多いのは邪馬台国があった証拠に他ならない。
ところが三角縁神獣鏡が魏から卑弥呼に贈られたと決定づけるには、まだまだ不明な点があるという。

黒塚古墳の発掘にかかわった卜部行弘さん「三角縁神獣鏡は中国では出土していない。」
日本でしか出土していないこの鏡が本当に中国で作られたものなのか、断定できないというのだ。
博多遺跡は朝鮮半島からの鉄を陸揚げし加工していた場所、そこに近畿地方の土器がいっぱい出土している。
近畿の人が九州の鉄を買いに来ていたのだろう。
銅鏡について、北部九州が近畿ほど鏡に興味がなかったという解釈もできる。
卑弥呼の金印はどこへ?
そういったものは当人の死後返却される。
しかし模造品を持っていたり、墓に入れたりすることもある。
なので出土する可能性もある。
考古学では物が動くことを配慮する。

邪馬台国は九州か、近畿か・・・
これを探ることは、闇に包まれていた大和王権以前の3世紀の日本の姿を明らかにしてゆくことでもある。
大和王権は近畿地方、奈良で発生。
邪馬台国はどこにあったのか?
それは日本の歴史の始まりを大きく左右することになる。

この20年余りで人々の注目を大きく集めた古代都市の遺跡が2つある。
80年代後半、邪馬台国につながると大きく報道された佐賀県吉野ヶ里遺跡。
この遺跡の姿は魏志倭人伝に記された邪馬台国をほうふつさせるものだった。

❝楼観(物見櫓)城柵を厳かに設け 常に兵士が守っている❞
吉野ヶ里遺跡からはこれらの楼観、城柵に重なる遺構が発見された。

集落全体を取り囲む深い堀、環濠、その規模は驚くべきもの。
敵の襲撃に備え、堅い防御が必要だったことを物語っている。

さらに鉄の矢じりが体内に残り、戦争で亡くなったと思われる人骨の発見もあった。
魏志倭人伝にはこの状況と重なる興味深い記述がある。
小さな国々が70〜80年に渡り戦争を続けたという「倭国大乱」の時代。
この戦いの後、卑弥呼は王になったとう。
吉野ヶ里遺跡こそ倭国大乱の中心であり、邪馬台国は九州にあった。
人々のロマンは大いに掻き立てられた。

加熱してゆく期待をよそに考古学者の着実な調査が進められた。
遺跡の全体像から浮かび上がってきたのは、九州北部で数百年続いた文化圏の姿だった。
吉野ヶ里遺跡は日本が大陸から稲作や金属を取り入れた紀元前6世紀から始まる。
古墳時代の初め(3世紀後半)まで継続した非常に珍しい集落。
吉野ヶ里遺跡は弥生時代の九州が大陸の先進文化を取り入れながら戦争を繰り返し、徐々に大きな都市になっていったことを示す貴重な遺跡。

2009年、まさに邪馬台国そのものと大々的に報道された古代都市遺跡がある。
奈良県桜井市纏向遺跡。
ここは最古の前方後円墳が見つかったことでも知られ、大和王権発祥の地とも言われている。
出土したのは巨大な館の跡、その広さは畳150畳にも及ぶ。これこそが纏向の中枢部ではないかと考えられている。

この建物は大規模であること以上に重要な意味を持っていると発掘した橋本さんは言う。
掘り進むにつれ、ここからは4つの建物跡が見つかった。
そのすべてが東西一直線にそろえて建てられていたのだ。
纏向遺跡は日本最古の方位を意識した建物だっった。
都市整備という思想が中国や朝鮮半島から入ってきて、それを導入して建てられたのが纏向遺跡なのだろう。

さらに纏向遺跡からは様々な形の土器が出土した。
土の成分から、土器は日本各地で焼かれ、持ち込まれたことが分かった。
土器は多くの高床式住居の跡から出土している。
当時のリーダーたちが暮らしていたと考えられている。
纒向は列島各地のリーダーたちが集い大陸の影響下で計画的に築いた都市だったのだ。

邪馬台国との結びつきで脚光を浴びた2つの遺跡(吉野ヶ里遺跡、纏向遺跡)、その発掘成果から見えてきたのは、知られざる古代の日本の姿だった。
九州には、紀元前6世紀から大陸の優れた文化を吸収し、ある時は戦争を行いながら発展した文化圏が広がっていた。
一方これと入れ替わるように近畿でも、大陸の影響を受けながら各地のリーダーたちが集まる大規模な計画都市が生れている。
これが後のヤマト王権につながっていると考えられる。

日本の歴史の原点、3世紀の日本の空白部分が次第に見え始めてきた。
邪馬台国は2つの文化圏の一体どこに当てはまるのか。
常に湧き上がる邪馬台国探しの熱い期待を背負い、研究者は発掘現場においてどのような思いで探求を続けているのだろうか?
纏向遺跡の発掘を指揮する橋本輝彦さん「金印や封泥を狙うような方法では決着はつかない。
宝くじの当たりを期待して調査を続けても何の意味もない。
遺跡から得られるデータの中でどれだけ歴史を組み立ててゆくか・・・」
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ジャガイモ(potate)、サツマイモ(sweet potato)、サトイモ(taro)、ヤマノイモ(yam)・・・
日本では地面の下で根や地下茎が肥大してできる炭水化物主体の野菜を総称して芋と呼んでいる。
日本人が食べている芋のほとんどは外国原産のもの、しかしヤマノイモは日本原産、特に自然の野山で採れた天然ものは高級品として珍重される。

長芋は中国から伝わった。
ヤマノイモや長芋、ヤマトイモ、つくね芋など山芋と総称されるこれらの芋の特徴は粘り気が強いこと。
すりおろしたものに味をつけ、とろろ汁にして味わう。
東海道五十三次の鞠子宿の名物はとろろ汁だった。
とろろは生のつく食べ物とされ、旅人達はとろろ汁で英気を養った。

日本に稲作が伝わるよりも前、縄文時代に伝わったとされるのがサトイモ、サトイモは大きな親芋から子芋、孫芋ができることから子孫繁栄の象徴として祝い事の料理にも使われる。
また茹でたサトイモを醤油で甘辛く味付けしたにっころがしは素朴な家庭料理の1つ。
毎年9月、山形市でサトイモが主役のイベントが開かれる。
直径が6mもある日本1大きな鍋で郷土料理の芋煮が作られる。
オタマの代りにショベルカーですくう。
元々この地方では芋煮を野外で楽しむという伝統がある。
それを大掛かりにしたこのイベント、去年はサトイモ3トン、牛肉1.2トンを使い、3万食がふるまわれた。

17世紀に入ってから日本に伝わったのがサツマイモ、鹿児島県の薩摩地方で盛んに栽培されたことからこの名がついた。
熱した小石の上でじっくり熱を通して甘みを引きだす石焼き芋、昔から人気の高いおやつ。
屋台で石焼き芋を売り歩く姿は冬の風物詩。
鹿児島ではサツマイモを原料にした酒、芋焼酎も多く作られている。
サツマイモのデンプンを発酵させて蒸留したアルコール分の高い酒。
同じころ日本に入ってきたのがジャガイモ、最初は花を観賞するための植物だった。
かつて日本ではインドネシアのジャカルタをジャガタラと呼んでいた。
そこから伝わったため、ジャガイモという名がついた。
肉ジャガ、カレーライス・・・多種多様な芋を料理してきた日本人、芋は安くておいしく満腹感を得られる食材として人々に親しまれている。

1732年不純な天候が続いたのに加え、西日本では稲の害虫が大発生し、農作物は大凶作となった。
多くの餓死者をだした享保の大飢饉、江戸時代日本では凶作や飢饉が絶えなかった。
そんな時代の日本人を救ったのが後に甘藷先生と呼ばれた青木昆陽、儒学や医学、薬学を学んだ昆陽は飢饉を救うための研究を始める。
そして中国の文献に書かれていた、痩せた土地でも栽培しやすいというサツマイモに注目した。
サツマイモは中国から琉球王国を経由し、江戸時代の初めには九州に伝わっていた。
しかし日本全体にはまだ普及していなかった。
サツマイモは種イモを直接植えるのではなく、芋から伸びる茎を切り取り、苗として畑に植えて育てる。
こうすることで1つの種イモからおよそ30個収獲することができた。
非常に生産効率の良い作物だったのだ。

それだけではない。
サツマイモは栄養豊富で、悪天候や害虫にも強いことが分かった。
昆陽は研究の成果を『蕃藷考』という本にまとめた。
これをきっかけに昆陽は幕府からサツマイモによる飢饉救済という大役を任されることになる。
1735年の年明け、九州から1500個の種イモが届く。
昆陽は芋をひとまず保管し、春にどこに植えるかの選定にとりかかった。
ところが思わぬ障害が現れる。
当時サツマイモには毒があるという噂が信じられ、農民たちが栽培に反対した。
さらに取り寄せた種イモが江戸の寒さで傷んでしまった。
その結果植えることができる種イモはわずか3分の1に減ってしまった。
そんな中ようやく栽培地を決め、苗を植えるところまでこぎつけた昆陽、それからは毎日のように畑に通い続けた。
そして11月、昆陽は江戸で初めてサツマイモの栽培に成功した。
こうしてサツマイモは飢饉に備える作物として全国に広まり、多くの人々を飢えから救った。

近代に入って日本が再び食料困難に見舞われたのは第二次世界大戦、そして戦後の混乱の時代。
米やサツマイモは配給制となったが、十分にはいきわたらなかった。
そこで人々は学校のグラウンドや公園など、空き地という空き地にサツマイモを植えた。
自然発生した闇市ではサツマイモが盛んに売り買いされた。
また都市に住む人々は満員の汽車に乗り、サツマイモを求めて農村い買い出しにいった。
農村では、輸送手段がないことから収獲しても売ることのできないサツマイモが余っていたのだ。
今では考えられないような苦労をしてサツマイモを手に入れ、飢えをしのぐ・・・
そんな時代だった。

現代の日本、東京銀座のデパートでは、サツマイモの庶民的なイメージを覆す高級な焼き芋が売られている。
100gあたり368円、厳選された高品質のサツマイモを使ったとびきり高級な焼き芋だ。

群馬県甘楽町、群馬はコンニャクの生産量が日本1。
コンニャク芋は収穫までに3年もかかるサトイモ科の植物。

日本に伝わったのは縄文時代とも奈良時代とも言われている。
しかし生の芋には毒が含まれているため、昔から独特な加工を施して食べてきた。
工場ではまず皮をむいた芋をすりおろし、水で流しながらふるいにかける。
こうしてグルコマンナンというコンニャクの主成分を取り出す。
水を加え憲上に固めた後、さらに凝固剤の水酸化カルシウムを加えて練ってゆく。
それを型に入れ、素早く形を整える。
そして80℃に熱した石灰水で2時間加熱、コンニャクならではの弾力が生まれる。
一晩水につけて灰汁を抜き、透明感がでればプルプルとしたコンニャクの完成。
コンニャクは栄養もカロリーもほとんどない上に、そのままでは味もない。
それでも日本人はコンニャクの舌触りとノドごしを好んできた。

江戸時代の百科事典『和漢三菜図絵』にはコンニャクは腹の中の砂を出すという記述がある。
コンニャクには食物繊維が豊富に含まれ、腸の働きを整える作用がある。
18世紀富士山が噴火した。
火山灰を吸い込んだ人たちが健康に不安を覚え、こぞってコンニャクを買い求めたと伝えられている。
カロリーがないコンニャクはおやつに食べるゼリーやコメに混ぜて炊く粒コンニャクなど、現代ではダイエット食品として人気を集めている。

薄く切ったコンニャクを真冬の屋外で干して作るシミコンニャク、夜凍ったコンニャクは、日中日の光を浴びて溶ける。
それが夜再び凍るということを繰り返す中で、スポンジ状になる。
食べる時には水でもどす。
こうすることで通常のコンニャクより味がよくしみ込み、歯ごたえも増す。
これと同じような製法で作られているのがコンニャク製のスポンジ、水につけると石鹸なしでも肌をつるつるに洗うことができる。

コンニャク芋は兵器つくりにも使われていた。
第二次世界大戦で日本陸軍が秘密裡に開発した風船爆弾だ。
直径10mの巨大な風船に水素を詰め、爆弾を吊り下げて日本からアメリカ本土に向けて飛ばした。
この風船の素材は和紙、和紙を5層に貼りあわせていた。
その時使ったのがコンニャクを溶かした糊だった。
以外にも和紙とコンニャクの風船はアルミ並の強度があり、水素の漏れを防ぐことができた。

富士山のふもとで穴を掘る1人の男性、深い穴から掘りだしたのは自然薯。
日本原産の芋、ヤマノイモの別名。
栽培ものもあるものの、山に自生する自然薯はねっとりとした味わいがまた格別。
栄養豊富で滋養強壮の薬にもなるとあって日本では昔から自然薯堀を楽しむ習慣があった。
静岡県に住むトラックの運転手、ミオノリユキさん、自然薯堀の魅力にとりつかれたのは5年前、以来ミオさんは少しでも大きな自然薯を掘り当てることに並々ならぬ執念を燃やしてきた。

自然薯の旬は冬、しかしミオさんは芋のある場所の目星をつけておくため、秋のうちから山に入る。
冬を迎え、芋の蔓が枯れて分からなくなってしまう前に見つけておくのだ。
自然薯は夏場、木の上に蔓をのばし、カサと呼ばれる葉を広げる。
カサから伸びる蔓、その先の地面の下で何10年もかけて芋が成長してゆく。
11月下旬、葉が枯れ始めるのを合図に自然薯堀のシーズンが始まる。
秋に目を付けておいたところをまるで鑑識係のように探すミオさん。
見つけたのは蔓の断片。
冬枯れた蔓はバラバラになって落ちてしまう。
そんな蔓の痕跡から地面の下に隠れた芋を探す。
落ち葉に紛れた自然薯の茎、いったいこの下にどんな大物が隠れているのか。

さっそく掘り始める。
使うのは自然薯堀専用の細長いクワ。
白い芋が姿を現した。
しかし岩に守られこれ以上掘ることができない。
「負けた敗北だ。でもこれがあるから面白い。あ〜くそ〜。」
残念だがキレイに採れないものはきっぱり諦め埋め戻す。
最近大きな自然薯は激減している。
この山はかつて大物が撮れたと聞くポイント。
何年も人の目を逃れてきた大物に違いない。
「あれがカサであの辺まで蔓が見えてる。
かなり太い。」

しかし見つけたのは小さな茎。
はやる気持ちを抑え掘り始める。
ところがいくら掘り進めても芋の先が見えてこない。

そしてついに・・・
掘り当てた芋はミオさんの最大記録、長さ2.3m、重さ3.3kgの超大物。
残念ながら1カンはなかったが10年もの以上であることは間違いない。
山の恵みに感謝しながらさっそくその火の収穫をいただく。
天然ものは香りも高く風味も濃厚で、栽培物が遠く及ばない味。
そしてまた今日もミオさんは大物との出会いを求めて山に入る。
ミオさんは環境を守るために芋の上の部分を土の中に残し、また小さなものはとらないようにしている。

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謎解き江戸のススメ☆奥の細道・芭蕉の暗示

古池や蛙飛び込む水の音
世界中で翻訳されているこの俳句の作者は松尾芭蕉(1644〜1694年)。
東京・深川、芭蕉が暮らし慣れ親しんだ場所。
元禄2年(1689)、芭蕉は庵を処分し旅に出る。
もう戻れないかもしれない、そう覚悟して・・・
旅の友は弟子の河合曽良、奥の細道の旅の始まり・・・

江戸から東北、北陸、美濃、大垣に至るおよそ2400km、150日に及ぶ紀行文。
その有名な書き出しは・・・
月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也
漂泊の思いに駆り立てられた芭蕉、46歳、芭蕉はなぜ旅に出なければならなかったのか。
そこには芭蕉のもう1つの顔が見え隠れする。
17文字に隠された芭蕉の心のメッセージ・・・
奥の細道の真の目的とは?

深川を出た芭蕉と曽良は元禄2年(旧暦3月27日)隅田川を登り、まずは千住に立ち寄った。
ここで詠んだのが・・・
行春や鳥啼き魚の目は泪
過ぎ行く春を惜しみ、鳥は啼き魚は泪を流している。
魚の涙とはどういうことなのか?
魚とは芭蕉を金銭面で支えてくれていた弟子、魚問屋・杉山杉風(さんぷう)のこと。
句には別れを惜しむ杉風への感謝の気持ちが込められていた。

弟子たちに見送られ、千住を経った芭蕉がこの旅で楽しみにしていたことがあった。
それは憧れの松島の月を見ることと、古の歌人達が詠んだ枕詞の地を巡ることだった。
芭蕉と曽良は草加、春日部を通り、奥州街道を北へと進む。

立ち寄った先が日光だった。(旧暦4月1日)
東照宮は徳川家康を祀った神社。
当時は非公開であり、拝観には許可証が必要だった。
芭蕉は事前に江戸で紹介状までもらい、この地を訪れることを決めていた。
そしてこんな1句を・・・
あらたうと青葉若葉の日の光
日差しを浴び輝く新緑の若葉、その輝きは徳川家の威光でもあると言われている。

わざわざ日光へと立ち寄り、将軍家をたたえる句を詠んだ芭蕉、ここで浮上するのが幕府のスパイだったという公儀隠密説、芭蕉は本当に幕府の隠密だったのか?
実際の奥の細道の中にはそれを疑わせる不可解な行動が多い。
1つが随行した曽良がつけていた旅日記とのズレ、奥の細道では深川を出て千住についたのは3月27日、ところが曽良の旅日記では、20日になっている。
曽良が正しければ芭蕉は7日間千住に滞在したことになる。
空白の7日間・・・
光田和伸(国際日本文化研究センター准教授)「千住には伊奈半十郎家の代官屋敷がある。」
伊奈家は幕府の要職である関東代官頭を務める一族で、新田開発や治水を手掛けていた。
芭蕉とのかかわりも深く、深川の芭蕉庵は伊奈家の土地にあった。
では千住滞在の7日間、いったい何をしていたのか。
光田「これからの旅の注意すべきこととか、基本的なレクチャーを主に曽良がうけていたのだと思う。」

曽良の本名は岩波庄左右衛門正字、武士であり幕府の遣いで長崎に赴くなど、幕府のために務めていた。
光田「奥の細道の旅の真の目的は曽良が幕府から担っていたことを遂行するにあたって、芭蕉は曽良を守る役割だった。」
俳諧の有名人芭蕉と一緒にいれば、幕府の任務を阻止しようとする者達もうかつに手は出せない、というわけだ。
もし奥の細道が曽良のための旅だったと仮定してみたらどうだろう。
光田「『土芥寇讎記』というそれぞれのお殿様がどのように藩を治めているかという本が、奥の細道の翌年、元禄3年に完成している。
曽良の仕事はおそらくそれと関係していただろう。
曽良と芭蕉が担当したのは東日本の大名の統治の実態を、良いか普通か悪いかという調査を徹底して行うことであったと思う。」

曽良は諸大名の調査を、芭蕉はその協力者だったのか?
2人の旅の後に完成されたという『土芥寇讎記』、日本に唯1つの貴重な写本が東京大学に所蔵されている。
43冊からなる『土芥寇讎記』、元禄3年時点での大名243名の人物評定が記されている。
いわば大名の通信簿、宇都宮藩主・奥平昌章の評価・・・
“文武両道は夢の程も知らず 行跡悪敷男色女色ともに猥に好み”
とかなり辛辣。
鶴田啓教授(東京大学史料編纂所)「これだけの本なので幕府あるいは将軍の関係者が関与しているという推測は以前から行われていた。
はっきりしたことは分らないが、幕府の役人がひそかに各大名の城下まで行って、そこで色々な話を聞き取って、それを収集した可能性はある。」
諸大名の行状を探る任務を、芭蕉と曽良が背負っていたなら、ターゲットはどこだったのか?

三重県伊賀市、芭蕉こと松尾宗房は、寛永21年(1644年)松尾与左衛門の二男として生まれた。
松尾家とはどんな家だったのか?

▲上の城下町之図(正徳5年 1715)
福井健二(伊賀文化産業協会)「芭蕉の生家があったところは芭蕉が生まれた頃、百姓町という町名だった。
松尾家は無足人という家、無足人とは給料をやらない侍という意味。」
松尾家は藩からの俸禄はなく、農業で身を立てていた。

父親が亡くなると、13歳だった芭蕉は奉公に出される。
その先は、伊賀上野を治めていた藤堂家の一族、藤堂新七郎の家。
芭蕉は年の近い嫡男、藤堂良忠の世話役を任されるまでになっていた。
この時良忠の影響により出会ったのが俳諧だった。
芭蕉23歳の時、良忠が病により休止、これが人生の転機となる。
後ろ盾を失った芭蕉は一転、俳諧を極める道を選ぶ。

そして29歳の兄・半左衛門に家を任せ、江戸へと向かった。
江戸での芭蕉の暮らしとは?
神田川は江戸時代、家康が飲料水を確保するために整備した上水。
門を入った小高い丘の上、芭蕉がいた庵がある。


▲名所江戸百景せき口上水端はせを庵椿山(歌川広重)
嵐山光三郎(作家 実際に奥の細道を旅した芭蕉研究家)「芭蕉の本業は水道工事、水道といっても当時は木で作った管の修理。」
芭蕉が伊賀上野で仕えた藤堂家は、徳川家康の副審で、城造りの名人と言われた藤堂高虎の一族。
高虎が江戸の治水整備を任されていたこともあり、藤堂家はこの事業でかなりの功績を残していた。
そこに仕えていたのだから、芭蕉に治水の知識があったとしてもおかしくない。
実際江戸に来た当初、芭蕉は生計を立てるため、上水を流す木樋の工事をしていた。
田中善信(白百合女子大学名誉教授)「総ざらいといい、浚渫工事(上下水道の掃除)の請負を芭蕉はやり始める。
いわゆる公共事業なので、町年寄なんかにも頻繁に出入りし、芭蕉は役人との人脈があった。」
公共事業を任されたので、当然幕府との接点もあった。
一方で俳諧師としても精進を欠かせなかった。
奥の細道は幕府の密使と俳諧師という2つの顔を持った芭蕉の人生をかけた旅だったのだ。

嵐山「当時幕府の敵は伊達藩、3代家光将軍の時、日光東照宮を建てる際、伊達藩がいくらだすか日航奉行と対立があった。
それを調べるため、芭蕉の目的は、日光東照宮の工事調査だった。
7日間千住に留まったのは、工事が始まっていなかったから。」
日光東照宮を見終えた元禄2年旧暦4月2日、芭蕉と曽良は一路北へ。
その道すがら、念願だった歌枕の地を訪れている。
平安時代に西行が歌を詠んだ那須、遊行柳を前に・・・
田一枚 植えて立去る 柳かな

数々の歌に詠まれた白河の関、福島では恋の歌枕、文知摺石を巡った。
旅の途中、芭蕉は訪れた地で度々句会を開いている。
句会は自分の俳諧を広める場であり、謝礼として旅の資金を得る事もできた。
複数の人が句を詠み、評価し合う句会。

【俳諧結社獅子門】
まずは五七五の発句が読み上げられる。
“此の道や行く人なしに秋の暮れ”
発句に七七の脇句(下の句)をつなげ、1つの歌を作る。
“山の端出づる円かなる月”
次の人は前の句を受け、五七五の上の句(第三)を詠み・・・
“露の世に親しく膝を寄せあひて”
またその次の人が七七の下の句(第四)を詠む。
これを繰り返し連歌を作ってゆく。
こうして連歌の発句の部分が後に独立し、五七五の俳句になった。

実はこの句会こそ、芭蕉の隠密説をにおわせるもの。
武士から町人まで、様々な身分の人が参加する句会は、情報を入手するのに格好の場だった。
江戸を経っておよそ1ヶ月、芭蕉と曽良は仙台藩の領内に入る。
仙台藩は独眼竜の異名を持つ伊達正宗が築いた東北最大の藩。
北上川をはじめとする多くの川が流れるこの地では、正宗の頃から水運の整備や治水事業が盛んに行われてきた。
さらに新田開発にも力をいれて、豊富な米の収穫量を誇り、江戸で流通する米の多くは仙台藩のものだった。
江戸の経済にも大きな影響を及ぼす仙台藩を、幕府は警戒し、内情を知りたがっていた。
芭蕉の旅の最大の目的は、仙台藩の調査だったのか?
実は仙台藩での芭蕉の行動には、不可解なことが多い。
まずは頻繁に行っていた句会を1度も開いていないこと。
光田「俳句の会をすると、そこに参加してきたその土地の人々が、後後まで仙台藩から目をつけられ、不利益を被る恐れがあるということを心配したのではないか。」
次にこの旅で一番の楽しみにしていたはずの松島には、わずか1泊しかしていない。
芭蕉は奥の細道の中に、句を残すことさえしていない。
そして平泉の中尊寺を見ると、それ以上北へは進まず、まるで目的を達成したかのように折り返していった。
芭蕉と曽良が仙台藩の領内に滞在したのは12日間、そこで2人がしていたこととは・・・・
嵐山「芭蕉の目的は仙台藩の治水調査、水路の研究。
水路というのは川であるとか軍事施設。
最上も行くし、水辺を渡り水路を視察した。
芭蕉の本心を考えると、お役目で水路を辿ってゆく旅が大前提だったが、その中で本心は景色を見ながら自分の音色を奏でる句を詠んでみたいという気持ちがすごく強かった。」
仙台へ行き、松島に行くことを楽しみにしていたが、いけなかった。
それは、後部でそんなことは必要ないと言われたのか?」
曽良が詠んだとされる
松島や 鶴に身をかれ ほととぎす
曽良の句として出したが書いているのは芭蕉。
奥の細道には、随行した曽良の句がいくつか出てくるが、ほとんどが芭蕉の句。

俳諧賭博・・・例えば“古池や 蛙飛び込む 水の音”の場合、「蛙飛び込む」の部分が伏せてある。
そして中七を皆が当てる。
商品がすごく、皆が夢中になり、身を持ち崩す者が多くなり、幕府が俳諧賭博禁止令を出した。
芭蕉も、俳諧を賭けにするとはとんでもないという・・・
文芸をギャンブルにしたのは日本だけ、なんでも面白がるのが江戸の庶民。

▲『奥の細道』の代表作
平泉を出た芭蕉が幕府の密使とは別に俳諧師として旅を楽しんでいたのもまた事実。
仙台藩での緊張が解けたのだろうか、尾花沢では奈良飯などを食し、のんびりと10日ほど滞在。

そののち芭蕉達は大周りしてある場所へ立ち寄った。
山寺こと立石寺、東北の比叡山ともいうべき霊場。
ここで芭蕉は、あの有名な句を残す。
閑さや 岩にしみいる 蝉の声
賑やかな蝉の声が静けさを一層感じさせるという名句。

この句に登場する蝉の声は、後にある論争を巻き起こす。
山形県出身の歌人・斎藤茂吉は、この蝉の声は群でなくアブラゼミで、そのうるささがより静寂感を感じさせるのだと主張。
それに対し、文芸評論家の小宮豊隆は、「しずかさや」とか、「岩にしみいる」といった表現は威勢のよいアブラゼミにはふさわしくない、この蝉はニイニイゼミであろうと反論。
互いに譲らず、平行線のまま。
しかしその後、蝉論争はあっけなく決着する。
曽良の旅日記によると、芭蕉が立石寺を訪れたのは旧暦の5月27日、新暦では7月13日、この辺りにはその時期、アブラゼミがいないことが判明。
今では蝉の声はニイニイゼミというのが定説となっている。

しかしこの句にはもっと深い芭蕉のメッセージが込められている。
嵐山「芭蕉が23歳の時伊賀上野を発って、46歳でここに来た。
ちょうど23年経っている。
蝉の声の蝉というのは、藤堂良忠という自分の主君の俳号が蝉吟だった。
だから「しずかさや〜」という風景の描写でありながら、自分に俳句を教えてくれた2歳上の若殿のことを追悼している。
句を掘るというが、1つの蝉とは何かと考えてゆくと、あ〜蝉吟だと思う・・・
風景、情景だけでなく、そこに込められた芭蕉の思い、二重のメッセージがあるのだ。」
松尾芭蕉、奥の細道の旅は日本海を望みながら南へと下ってゆく。

江戸を発って150日余り、美濃の大垣で旅を結ぶ。(元禄2年 旧暦8月末)
戸田藩10万石の城下町だった大垣は、運河に囲まれた水郷の町として知られている。
なぜ芭蕉はこの大垣を奥の細道結びの地に選んだのか?
大木祥太郎(奥の細道むすびの地記念館 学芸員)「大垣は、芭蕉がまだ売り出し中の頃、若い頃から芭蕉を慕う文殊が多かった。」

故郷に近かった大垣には、気心が知れた古い仲間が多く、長い旅の終わり、疲れをいやしてくれる場所だった。
さらにもう1つの理由が水運。
大垣は揖斐川を利用した水運の要所。
運河を利用し治水も発達していた。
芭蕉は最後まで水にこだわっていたのかもしれない。

芭蕉は大垣に2週間程逗留、奥の細道をこんな句で締めくくっている。
蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ
実はこの句にこそ、芭蕉が奥の細道のたびに出た真意が隠されていた。
嵐山「曽良と今まで一緒に旅をしてきたけれど、蛤のようにフタミに分れて行く。
それから伊勢に帰る前に二見ヶ浦へ行く。
だから二見の裏へ行くから二見ヶ浦。
もう1つ、芭蕉は胃癌だから、兄が家を守ってくれているから自分は江戸に出て、俳諧師として成功し、帰ってきた。
だから兄に感謝する意味で、兄の好物が蛤だった。」
芭蕉はいくつもの顔を持つ人生の中で、いくつもの旅をしながら俳諧の道を極めていった。
思うままに生きられたのも、兄・半左衛門が実家を守ってくれたからこそ。
家を出た自分と家を守る兄、その二身。
芭蕉は陸奥の名称を文章に綴る事で、郷里を出られない兄に旅の気分を味わわせたかった。
幕府の隠密でありながら、俳諧師としての名を挙げた芭蕉。
完成した『奥の細道』を最初に渡したのが、兄・半左衛門だった。(元禄7年 1694)
嵐山「奥の細道は芭蕉が46歳の時に旅して、51歳まで、5年間かけた。
書き終わった年に死んだ。
400字詰めの原稿用紙にすれば30枚、それを5年間かけて推敲して仕上げた。
日本、江戸文学の最高傑作だ。」

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エコの作法〜明日の美しい生き方へ★音

耳を澄ませば聞こえてくる自然の音、波のリズム、風の歌、虫の調べ・・・
そこには命の鼓動がある。
日本人は昔から、森羅万象の響きを敬ってきた。
だからだろうか、この国には安らぎの音楽があふれている。

音×震わす
空間、大地、そして心震わす日本の音、今日もどこかでこだまする、古から続く日本の音。
マーティ・フリードマン(ギタリスト)アメリカ、メリーランド州出身、ヘビーメタルバンド“メガデス”のギタリストとして活躍後、日本の文化、特に音楽に魅せられ来日(2000年)、以後ジャンルを問わず、あらゆるメディアで活躍している。
マーティ「日本の音楽について思っていたことは、“シンプル・イズ・ベスト”ということ。
例えば三味線など、日本人は単音で楽しむ。
僕は和音を重ねて豪華に楽しむ。
単音で楽しむからこそ、日本には三味線や琴など、国を代表する音がある。
ひょっとしたら、日本人は世界1音楽が好きな人種だと思っていた。」

三味線
華やかな音色の三味線、実はエコなヒントが隠されている。
三味線専門店で教えてもらったのは、シンプルなその構造。
芝崎勇生(亀屋邦楽器)「簡単に外れ、バラバラになる。」
三味線はどこでも演奏ができるとあって、近世以降日本の芸能文化で大いに花を咲かせた。
でもそれだけではない。
壊れた部分だけ取り換えればよいのだ。

三味線には物を大切にする心が宿っている。
三味線の最大の特徴は“さわり”(弦の振動が棹に触れるひずんだ音)
さわり、それこそが日本の音における最大の特徴、倍音。
マーティ「日本では年寄りの人はひずんでいるギターを聴いたら全然大丈夫。
演歌の間奏とか、ギターソロはいつもひずんでいる。
日本では伝統を通してこの音が耳に慣れているから、ひずんでいるギターを聴いても全然平気。
だから年寄りでもヘビメタとかロックでも普通に聴ける。」
芝崎「日本の三味線の場合は、あまり和音を使わず単音で聴かせることが多い。
日本は1音に対して想いを込める。」
日本人の心に寄り添う和楽器、その音色にはまだまだ秘密がありそうだ。

音に宿る日本人の感性とは?
藤原道山(尺八奏者 東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業、14歳から人間国宝・山来邦山に師事し、20歳で師範となる。
邦楽だけに留まらない幅広い音楽活動で尺八の可能性を広げ続けている。)
極めてシンプルな構造の日本の楽器・尺八、けれどこれほど奥行がある豊かな音色はどこから生まれるのだろう?
日本の音階とは・・・
藤原道山「西洋はドレミファソラシドの7音階、日本は宮商角微羽の5音階。
5音階でも音色を変化させることで音に奥行きを出している。」

日本の音色・特徴‖
息の出し方によって色々な音色が出てくる。
繊細な音、荒々しい音・・・
同じ高さの音でも息の強弱で音色を変える。
日本の音色・特徴∋
同じ高さの音でも指使いで音色を変える。
日本の音色・特徴首
音程を変えるには首を縦に動かす。
横に振る事によってビブラートになる。
回すことによってさらに大きな表現の変化、音のゆらぎを出す。
首の動かし方で繊細な音色を表現する。

道山「尺八の場合1音でどれだけ表現できるかを、すごく大事にしている音楽でもある。
日本の音楽は音を大切にする表現を残してきた。
それは日本人の感性が息づく響きだから。」
♪鶴の巣籠♪
▲クリック

日本の音の源流を訪ねて・・・
原始より伝わりし美しい響き、それは人には作り出せない自然の奏で。
母なる海、波の音、空高く吹きわたる風、大地を潤す恵みの雨・・・
八百万の神が宿る自然に畏敬の念を抱いた日本人。
そしていつも聞こえてきたのは四季を豊かに彩る神秘的な調べだった。
春、小鳥のさえずり、小川のせせらぎ・・・
夏、蝉の声・・・
秋、鈴虫の調べ・・・
冬、ふきつける雪・・・
季節の到来を告げる命の息吹、この音が私達の五感をやしない、独自の感性を生んだ原点。

自然、そして宇宙までをも音楽にしたものがある。
平安時代初期に完成した雅楽だ。
その完成度と歴史的深さは類を見ず、世界最古のオーケストラと言われている。
雅楽には楽器のみの合奏“管弦”の他に、舞いを伴う舞楽がある。
今でも重要な神事の際に奉納される雅楽は、そもそも宮廷音楽として発展した。
貴族のたしなみの1つともされ、1300年以上前の法律・大宝律令には、国を挙げて雅楽を確立することが記されている。
古代の音楽をほぼそのままに伝える雅楽は、世界の音楽史上でも大変貴重とされている。
『舞楽 蘭陵王』

京都、市比賣神社、若い人達に雅楽の大切さを伝えている市比賣雅楽会。
平安時代から雅楽は、楽器、演奏形態、音楽理論に至るまで、何1つ変わっていない。
マーティ「先頭に大きな太鼓があって、人が見えないのはなぜ?」
西洋オーケストラでは、打楽器類は全て後ろ、弦楽器は前、管楽器が間に入ってくる。
雅楽ではこの形も決まっている。
1列目には演奏をリードする打楽器、2列目の弦楽器はリズムを担当、そして一番後ろにメロディを奏でる管楽器。

雅楽の特徴
音を合わせやすい合理的な並び。
指揮者がいなくても打楽器に合わせて音色を重ねてゆける。
雅楽の特徴
不安定なリズムと日本特有の間。
西洋音楽の概念が当てはまらないのが雅楽、拍子の取り方も一定ではない。
マーティ「お琴のタイミングと笛のタイミングが僕の感覚で何のリズムをフォローしているか分らなかった。」
それは日本特有の間。
演奏する者同士の呼吸や感情が高ぶれば、鼓動が速く動くのと同じこと。
自然の摂理に則った間の哲学が込められている。
雅楽の特徴
自然の摂理に則った奏。
マーティ「旋律に関して、たまにはもっていたが、不協和音の時もあった。」
雅楽には不協和音も楽しもうという考えがあり、それをスレという言葉で考えている。
ヨーロッパで交響曲ができるはるか1000年前、すでに完成していた雅楽は、自然に則して生まれた。
調律した和音と不協和音・・・しかし何をもって不協和音というのか、と考える。
我々が自然の中にいる時に、小川のせせらぎが聞こえるだとか、虫がリンリンと鳴いている。
それらの中に身をおいていると非常に心が安らぐような感じがある。
その音達の中に調律した和音がどれだけあるのだろうか?
だから日本の国では自然を愛でる心のようなものが昔からたくさん育まれているが、音楽自体にもそれを取り込んでいるのではないか。

マーティ「全体的に非常に世界観が伝わってくる。
体の中に平和的な、鳥肌が立つようなピースな瞬間になる。
音楽の魔法と感じた。」
声明

マーティさんは世界中を駆け巡り、音楽を極める中で気付いたのは、日本にこそ求めていたものがあることだった。
マーティさんを惹きつけた日本の音楽、実は心震わされた日本の音楽に多大な影響を与えているものがある。
それは祈りそのもの。
京都、大原来迎院、声明発祥の地として知られている。
声明とは、経分などに節をつけて唱える仏教儀式の古典的声楽曲のこと。
声明は浄瑠璃、民謡、演歌など日本の歌の原点とされている。
日本に仏教が伝来して以来、節をつけてお経を唱えたのが声明の始まり。
およそ1200年前、比叡山に伝わった声明は、7つにわかれていた。
それを1つにまとめたのが来迎院の創設者・リョウニンだった。
今も受け継がれる声明、演歌のコブシの源流とされるのが声明の塩梅。

声明の楽譜・博士、演歌につながる節回しやコブシの原点・塩梅が記されている。
1文字歌うのに2〜3分かかるという。
塩梅とは1音1音の微妙なつながり、これが演歌のコブシへと変化したのだ。
塩梅により5音階の幅を広げられる。西洋にはない特色。
『君が代』も声明、♪まぁぁぁで♪声明ではウツリという、音が順番に移ってゆき、“で”に到達する。
マーティ「終わり方がなにか物足りないような、これで終わりですか、という気持ちになるのだが、それも声明のところですか?」
「それは、よいところで終わる、とそういう風にしてある。」
マーティ「ここにきて無視できないのは美しい自然の音。」
「やっぱり音の響きのよいところを探したと思う。
そうするとここであったということで、903年前に来迎院が建立されたと思う。
実際ここは、音がよく響く。
自然と調和するということもある。」
来迎院の近く、伝説が残る場所がある。
その昔僧侶達が声明を唱えていたという滝だ。
その名も“音無の滝”、滝の音と声明が混じり合い、すいには滝の音が消え、朗々とした声明のみが聞こえたと伝えられている。
祈りが自然と一体になり、心震える日本音楽の源流の1つ、声明。

はるか昔から自然の発する音を繊細に感じ取ってきた日本人、私達はその音を聴くだけで、知らず知らずのうちに色や温度までも感じている。
透明感や冷たさを感じる水音、ススキのそよぐ音には黄色く色づく秋の風景を思い、炭が燃える音には火のぬくもりや赤い色までを感じる。
音によって五感が呼びさまされ、見た目の風景だけでなく、心地よさまでが再現される。

太鼓
日本の音を響かせる楽器の1つ、太鼓、その歴史は縄文までさかのぼり、和楽器の中でもっとも古いとされている。
原始的でシンプルな構造のため種類も豊富。
宮本卯之助商店、太鼓館は世界初の太鼓専門博物館。
和太鼓は大きく分けて2種類、鋲で皮を張っているものと、紐で締める締太鼓。
誰でも簡単に音を出すことができる楽器・太鼓、だからこそ演奏となると音を出すだけでなく、叩くスタイルにも多くの決まりがある。
横に立って叩くとバチンバチンという音がでる。

真正面に立って、下半身をどっしりと構えて、右と左を片方ずつ力強く叩く。
これほど単純な野に、どうしてこうも響きが違うのか・・・
それは姿勢にあった。
昔は太鼓は、打って音を鳴らすだけのものだったが、最近の太鼓は人の前で演奏したり、イベントで演奏したりという、見られる太鼓に変わってきた。
そのため、スタイルや音色を気にするようになった。

その音、打つ姿が世界中の人の心を震わせる和太鼓、今注目を集めているのは坂東玉三郎さんが演出を務める佐渡島の鼓童。
新潟県佐渡島、海と自然に囲まれた周囲2600kmの島、ここで30年前に和太鼓を中心とした新しい音楽芸能が誕生した。
音楽芸能集団・鼓童、鼓童とは、多くの演奏者が一斉に和太鼓を奏でる音楽芸能。
1981年に佐渡島で誕生し、今では全国から集まったおよそ60人のメンバーが佐渡を拠点に活動している。
見留智弘(鼓童代表)「佐渡島は修行の地というのだろうか、いろんな雑念がないので、集中して稽古に迎える。」
鼓童が目指すのは自然の中で音楽を作り、そして自然に学び、自然と共に生きること。
佐渡の地で磨かれた音楽は、国境を越えて高い評価を受け、日本人アーティストとして初めてノーベル平和賞コンサートへも招かれた。
これまでに世界46ヶ国で3500回を超える講演を行う。

▲クリック

この夏で25回目となる国際芸術祭アース・セレブレーション2012が佐渡で開催された。
注目は歌舞伎界を代表する役者であり、人間国宝の坂東玉三郎さん演出の打男DADAN。
玉三郎さんは和太鼓が持つ原始的な日本の息吹に魅せられたという。
玉三郎「コンサートよりも身近に聴ける。
ドンドンという人間の原始的な、ただ叩くという行為の中の組み合わせから音楽的に聴こえる。
日本の味、和太鼓ということで国の色というものが海外の方が楽しんで頂いた理由。
その中の源流として質の良い太鼓を打てるグループであってほしいと思っている。」
12年前に鼓童と出会って以来、足しげく佐渡に通ったという玉三郎さん、初めて演出を手掛けたのが2003年、それをかわきりに鼓童との講演も果たしてきた。
3年前に発表された打男DADANは、90分に渡り太鼓を打ち込む鼓童の新境地といえる作品。
玉三郎さんは今年、鼓童の芸術監督に就任した。
この芸能の将来を見据え、表現するすべてに責任を持つ大役。
玉三郎「歌舞伎は江戸や京都の小さい小屋でやっていたものが、だんだん大きくなって、今の大きな都会的な出し物になった。
きっと鼓童もこれから都会の中に入って、いろいろな洗練された劇場の出し物と並ぶと思う。」

DADANのステージが始まる。
大人も子供も、体全体で楽しみ、酔いしれる・・・
大地を震わす太鼓の音は、国境や時代をも超える、日本の新しい伝統を育んでいる。
唯一無二な日本の音・・・
マーティ「国により、それぞれの音楽の楽しみ方があるが、日本の音楽はルーツが深いと思う。
ルーツが深いから日本人は年齢関係なく、いろいろな音楽を楽しんでいる。
都会の雑音では楽器を弾きたくならないが、自然の音の中は心地よいので、この1000年前と同じ音の中でもし園そうしたら、世界の一部になれる気がする。」
かけがえのない日本の音は、この豊かな自然があったからこそ生まれた。
古から変わらないその音色を、未来につなぐために必要なこと。
果たして1000年後、この国はどんな音を響かせることができるのか、それは今生きている私達にかかっているのだ。

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日本人は何を考えてきたのか☆魂の行方を見つめて〜柳田国男、東北を行く〜

魂になってもなお、生涯の地に留まるという想像は、自分も日本人であるゆえか、私には至極楽しく感じられる・・・[柳田国男]

日露戦争から第1次世界大戦を経て1等国となった日本近代化の中で、古来から人々に伝わる風俗や文化が失われようとしていた地方に残る伝承に光を当て、日本人の精神のありようを見つめ続けた人々がいる。
柳田国男と民俗学者達だ。
柳田は90年前、津波の被害を受けた東北を歩いた。
柳田が目にしたのは津波で失われた暮らしの記憶を伝えようとする人々だった。
柳田の代表作『遠野物語』、三陸の津波によって妻を失った男の記憶が描かれている。
死者の魂はどこへ行くのか、柳田は生涯をかけて考え抜いた。
一瞬にして2万人近い命が奪われた東日本大震災、柳田を通して魂の行方を見つめる・・・

2011年5月宮城県名取市閖上中学校、時計は地震が発生した14:46で止まっていた。
重松清(作家)「浜辺から1.5km離れた校庭にあった漁船、地震と大津波が町の風景と多くの人達の生活を一瞬にして奪い去ってしまったことを深く感じさせる。」

門の先に祭壇があり、いくつもの花が手向けられていた。
1年前にはなかった記念碑には、亡くなった14人の生徒たちの名前が記されていた。

柳田が三陸を訪れたのは大正9年(1920年)、目にしたのは津波の被災地の現実だった。
その24年前に東北を襲った明治三陸大津波(明治29年 1896年)、22000もの命が奪われた。
柳田が東北を旅して人々の記憶や伝承をつづったのが『雪国の春』、仙台から石巻、気仙沼まで鉄道もなく、徒歩や船で辿ってゆく。
その足取りは東日本大震災の被災地と重なっている。
小さな汽船にのって訪ねたのが唐桑半島の宿だった。

[雪国の春 柳田国男]
唐桑浜の宿という部落では、家の数が40万戸足らずの中、ただの1戸だけ残って、他はことごとくあの海嘯で潰れた。

2階に子供を寝させておいて湯に入っていた母親が風呂桶のまま海に流されて裸で命を全うし、3日目に屋根を破って入ってみると、その児が疵もなく活きていたというような珍しい話もある。
死ぬまじくして死んだ例ももとより多かろうが、この方はかえって親身の者のほかは忘れて行くことが早いらしい。

宮城県気仙沼市唐桑町宿、この地域では明治の津波では74人が犠牲になった。
東日本大震災では71戸が流され、8人が亡くなっている。
海辺で唯一残された神社、柳田が1戸だけ残ったと記したのは、この早馬神社とされている。
2011年3月の津波は、海抜12mにある神社の拝殿も襲った。

7月初め潮が満ち、低地は水没していた。
宿では東日本大震災で被災した家屋の多くが高台に移転することになっている。
『雪国の春』で柳田は、震災後の復興に目を向けている。
生活のために高台を下り、元の海沿いの低地に戻ってしまう人々の姿を描いた。
文字にならない津波の記憶が消えてゆくのを憂いている。

回復と名づくべき事業は行われがたかった。
智慧のある人は臆病になってしまったという。
元の屋敷を見棄てて高みへ上がった者はそれゆえにもうよほど前から後悔している。
これに反して夙に経験を忘れ、またはそれよりも食うが大事だと、ずんずん浜辺近く出た者は漁業にも商売にも大きな便宜を得ている。
あるいはまた他処からやってきて委細構わずかってな処に住む者もあって結局村落の形は元のごとく人の数も海嘯の前よりはずっと多い。

重松「柳田は大津波という経験を忘れ去ってはいけないと訴えている。
民俗学は今と過去の生活を記録するだけでなく、故郷の復興、すなわち未来をも見据えていることに驚いた。」
日本民俗学の父・柳田国男、日本人とは何か、その答えを求め『遠野物語』をはじめ100数10冊を著した。
柳田は明治8年1875年、兵庫県辻川村、現在の福崎町に生まれる。
父は村の国学者、柳田は8人兄弟の6男だった。
[故郷七十年 柳田国男]
私の家は日本1小さい家だ。
この家の小ささという運命から私の民俗学への志も源を発したといってよいのである。

12歳の時兄を頼って移り住んだのが茨城県利根町布川、利根川縁の農村地帯だった。
ここで柳田が目の当たりにしたのが貧困に喘ぐ人々の姿だった。
ある日少年柳田は、布川の徳満寺で終生忘れることのできない衝撃を受ける。
間引き絵馬、母親が生まれたばかりのわが子の命を奪っている姿が描かれていた。

[故郷七十年 柳田国男]
その図柄は産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。
障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。
その傍らに地蔵様が立って泣いている。
その意味を私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も覚えている。

貧困と向き合った柳田が東京帝国大学で専攻したのが農政学者だった。
卒業後農商務省に入り、農村の実態を調査研究してゆく。
学問は結局世のため人のためでなくてはならない、そう考えた柳田が目を向けたのが東北地方、幾度となく津波や飢饉に襲われてきた土地だった。

遠野の五百羅漢は江戸中期の飢饉で餓死、病死した数万の人々の供養のため、1人の僧侶が5年かけ、刻んだものとされている。
柳田は東北の苦難の生活の只中を歩き、人々が語る記憶に耳を傾けてゆく。
日本の津々浦々の生活や伝承を集め研究するため、柳田は全国の民間研究者達を組織してゆく。
東北福島出身の門徒もいた。

山口弥一郎、半世紀以上取り組んだのは津波の問題、明治の大津波から37年後、再び東北を津波が襲う。
昭和三陸大津波(昭和8年 1933年)、山口は被災した村々を徹底的に調査した。
山口の故郷・会津の資料館(磐梯山慧時資料館)に生涯かけて集めた資料が残されている。
山口地震が被災した人々の声を丹念に書き留めたノートもあった。
8年を費やして書き上げたのが『津浪と村』、東日本大震災後復刊された。
多くの聞き取りをもとに災害のない街造りを提言していた山口の研究が今、脚光を浴びている。
経世済民=社会を治め人々を救うこと、すべて人々の幸せのために学問はあるべきだという信念は、柳田ゆずりのものだと思われる。
明治、昭和、2℃の津波で甚大な被害を被った宮古市姉吉を訪ねた時のメモ↓
此処より下に家を建てるな

姉吉では明治の津波で全戸が流出し、80人が死亡、昭和の津波では再び全戸が流出し、117人が亡くなった。
東日本大震災の津波は最大40mの高さに達し、漁業関係施設すべてが流された。
しかし姉吉の集落は浜から離れた高台にあり、今回の津波で被災しなかった。
命運を握っていたのは1つの石碑だった。
昭和の津波の直後、最高到達点より高いおよそ50mの場所に建てられたもの。
高き住居は児孫の和楽
想へ惨禍の大津浪
此処より下に家を建てるな
2度の大津波がもたらした悲惨な記憶を伝えたい、人々の思いを刻んだ石碑が姉吉の集落を守ったのだ。
[津浪と村 山口弥太郎]
千米の坂道を毎日浜へ通い、かつ漁業を生業とする者が、全く海を眺められない山峡に、山をのみ見つめて生活することは堪えられぬごとくにも見えるが、今度こそは下るまいとお互いが戒めあっているわけである。
三陸を歩き集落の高台移転の必要性を繰り返し訴えた山口、取材ノートには“幾歳経るとも要心あれ”という石碑の文言が力強く書かれている。
明治の津波を『雪国の春』で記録した柳田、その志を継ぎ、被災地を見つめた山口、記憶を伝承することを訴え続けた。

閖上小学校の体育館では、高津浪によって流された持ち主不明の無数の写真を、海の水が混じった泥を洗い流し、体育館いっぱいに吊るされていた。
笑っている写真が多い。皆幸せそうだ。
そこには被災する前の故郷の風景と人々の記憶があった。
家族や友人の記憶を大切に受け継ごうとする残された人々・・・

柳田も90年前記憶を繋ぎとめようとする東北の人々と出会った。
釜石の海辺の寺を訪れた柳田、津波の犠牲者の姿を留めた肖像画を目にする。
[雪国の春 柳田国男]
鵜住居の浄楽寺、自分は偶然その本堂の前に立って、しおらしいこの土地の風習を見た。
新旧の肖像画の額が隙間もなく掲げてある。
大部分は江戸絵風の彩色画であった。
柳田が記した浄楽寺は、東日本大震災で全壊した。
寺にあった彩色画は津波ですべて流された。
しかし彩色画の写真は被災した常楽寺の仮事務所に残っていた。
3人5人と一家団欒の態を描いた画も多い。
海嘯で死んだ人達だといった。

柳田が見たのは明治の大津波でなくなった一家の姿だった。
生前の思い出なのか、死後の世界での幸せを祈る絵なのだろうか。
柳田は死者が幸せであってほしいという東北の人々の願いを彩色画に感じていた。
こうして寺に持ってきて不幸なる人々はその記憶を新たにもすれば、また美しくもした。
まことに人間らしい悲しみようである。
こうした風習は岩手県遠野地方を中心に多く残されている。
喜清院(遠野市)には柳田が見たのと同じような彩色画が掲げられている。
亡くなった人の追善供養のために描かれた供養絵額だ。
例えば大人と子供が混ざって描かれているものもある。
子供が亡くなっても1人ではなく、あの世で家族に守られて楽しく暮らしていてほしい、1人ではない、あの世で飢えずにお腹いっぱい食べてもらいたいという思いを描きこんでいる。
宴会、酒を呑んでいる人も多く描かれている。あの世での饗宴か・・・

重松「亡くなった人を忘れたくない、亡くなった人は私達と遠く離れていない場所で幸せになっていてほしい、という残された人々の願いを柳田は誠に人間らしい悲しみようであると言った。
そんな東北の死生観が柳田が魂の問題と向き合う原点の1つになったのではないだろうか。」
柳田國男はなぜ三陸に目を向けたのか?
赤坂憲雄(学習院大学教授)「柳田は、あの時三陸という東北の中でもある意味辺境、交通もない、道もない所を旅して見たこと、聞いたこと、感じたことを書きとめた。
そのセンスは素晴らしいと思う。」
重松清(作家)「なぜ東北だったのか?あの時代の東北は特別だったのか?」
赤坂「明治以降東北は米所となる。
つまり気候風土にある意味抗う形で国策として米を作ることを強制された土地だからこそ飢饉(東北では“けがち”という)が東北では残ってしまった。
明治以降東北というのが、遅れた陸奥(みちのく)の文化の歴史を背負った、東北が浮かび上がってくる瞬間があったと思う。
つまりそこに古い日本の文化がうずもれていると、皆予感しながら東北に向かったが、柳田の場合は取り分け『遠野物語』を仲立ちとして東北に入ったので、すでに西日本で失われた神話や伝説が今も生きてそこに存在する。
そういうエリアとして柳田は発見したのだと思う。
東北と沖縄が柳田民俗学の出発点となったが、僕は今回震災を通してそれは避けがたい、必然だったのだと改めて思った。
柳田の読み直しに関わる発見というよりは、僕らが見ていなかった東北がむき出しに見えてしまったという感触がある。
90年代に本格的に歩き始めて、もうすでに“おしん”のような貧しい、暗い、寒い東北はほとんどなくなっていた。
でも震災を経てふと気がついてみると、“おしん”につながるような世界は実はまだ至る所に転がっていたのではないかという気がする。
とりわけ三陸は、内陸よりも少子高齢化と過疎化が厳しい形ですでに進んでいた土地、それは震災を通して20〜30年時間を早回しするような現実が目の前に現れてしまったという感触がある。
重松「いろんな週刊誌の仕事をルポタージュで廻ると、今の瓦礫の山とか被災地の風景が、建物がなくなってしまった風景もあると同時に、たくさんの方々が亡くなってしまった風景なんだなというのが忘れてはいけないのだが、復興復興と前のめりになってしまうと、それを忘れがちで、いつまでも亡くなった人のことばかり考えていると、先に進めないだろうと言われたり、まさに経世済民と魂のせめぎ合いが東北を描くときに僕たちでさえも感じている。
だから柳田も、あの当時の東北に対しての飢えと魂への思いが大きかったと思う。」

岩手県の山間の地にある遠野市、明治43年、柳田は遠野出身の青年から聞いた伝承をまとめた。
『遠野物語』には山に囲まれて生きる人々が伝える不思議な話が伝えられている。
オシラサマ、ザシキワラシ、ヤマノカミ・・・
それまでの柳田の生活からは想像もできなかった山人の暮らしや信仰があった。
山奥には無数の伝説がある、と感じた柳田は言う。
願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。
日本の民俗学の出発点となった『遠野物語』の自筆原稿が残されている。
晩年の柳田はラジオでこう語っている。
[昭和35年NHKラジオ 私の自叙伝]
記録にも何も現れない人の生活というのは、日本には80%以上もあるのですよ。
悪いことも良いことも両方ともしないと記録に残りはしないから、つまりうずもれてしまって一生終わる。
訴える道がなくなってしまうだろう。
犯罪もしないが良いこともしない人が、ただなんとなく息吸っていくのを惜しがって・・・
それに関する知識を残そうとしたのがフォークロア(民俗学)という言葉なんですよ。

柳田の関心は、やがて稲作を営む普通の人々に向かう。
柳田は彼らを常民と呼んだ。
歴史に残らない常民の習俗を見つめることが民俗学の役割だと確信したのだ。
119話からなる『遠野物語』山に囲まれた遠野地方の伝承だけではない。
明治三陸大津波にまつわる物語も記されている。
第99話だ。
物語の舞台は岩手県山田町田の浜、主人公は津波によって妻と子供を亡くしている。
その名は福二、ある月夜、福二は霧の中に男女の姿を見る。
女は亡くなったはずの妻だった。
[遠野物語99話 柳田国男]
福二という人は、海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先手の大海嘯(つなみ)に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる2人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて1年ばかりありき。
夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所にありて行く道も浪の打つ渚なり。
霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女2人の者の近寄るを見れば、女はまさしく亡くなりし我妻なり。
思わずその跡をつけてはるばると船越村の方へ行く。
埼(みさき)の洞のある所まで追い行き、名を呼びたるに、ふり返りてニコと笑いたり。
男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。
自分が婿に入りし以前に、互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。
今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。
死したる人と物言うと思われずして悲しく情なくなりたれば、足元を見てありし間に男女は再び足早にそこを立ち退きて小浦へ行く道の山陰を廻り、見えずなりたり。
追いかけて見たりしが、ふと死したる者なりしと心付き、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。
その後久しく煩いたりといえり。

福二は実在の人物だった。
山間の遠野から海辺の田の浜に婿養子に入った。
福二は晩年病で伏せるようになり、昭和4年68歳で亡くなった。
福二さんの4代後の子孫、玄孫がいる。
長根勝さん、山田町の仮設住宅に、妻のり子さんと娘と暮らしている。
先祖が『遠野物語』に描かれていることを知ったのは20代の頃、教えてくれたのは母・享さんだった。
田の浜の海岸に近かった長根さんの自宅は、東日本大震災で全壊、今は基礎を残すだけ。
『遠野物語』を教えてくれた母・享さんは津波で流された。
赤坂「遠野物語のかなりの部分は、100年前に実在した人たちの生きていた世界の記憶を語っている。
だから99話だけではない。
遠野物語は日本昔話ではなくて、切ると血がでるくらい生々しい話だと思う。
遠野物語はどんなふうに読まれてきたかというと、キチンと読まれていなかったと思う。
今回の震災で遠野物語の中に、そういえば津波の話があったよね、ということで読み直しが始まった。
福二さんが語らなければ誰も知らない、なぜ福二さんは語ったのかを考えてみた。
被災地を歩いていると、99話のような幽霊との遭遇がいたるところで語られている。
家族の中でも、何か戸がガタガタとして小さな子供がお父さんが来たとか、叫ぶとか・・とういう話がたくさんある。
あるいは三陸の海岸で夕方になると、浜辺の方から人が一斉に逃げてくる声がする、というのが広まると、子供を亡くした母達が、黄昏の時間になるとそこに集まってきて待っている。
そういう話を聞いたりする。
つまり幽霊をめぐる話が生きている人達にとってどういう意味を持つのだろうと考えた時に、僕は死者達との和解をしようとしているのではないかと感じた瞬間があった。
震災と共に時間がたちきられてしまうわけで、もう戻れない。
だからその時の、あるいはそこで凝固してしまっている何か関係の記憶みたいなものを解きほぐすことが永遠にできない。
だからこそ幽霊という形でも会いたいのだと思う。
会って言葉を交わしてあの時言えなかった、例えばゴメンナサイという言葉を言いたいとか、妻との気持ちの和解をしたいとか・・・」
『遠野物語』の第99話、福二が結婚する前、妻には深く心を通わせる男がいたことが語られている。
赤坂「福二さんも妻に対する疑いを抱え込んで生きていたと思う。
それを溶かすことができないままに、妻は去ってしまった。
僕は福二さんは妻から決定的な言葉をいわば伝えられたと思うが、でもそれによって現実と和解することができた。
妻との和解も出来たと思う。
だからこそ彼はそれを語ったと思う。」
重松「今の読み方でいくと、本当に福二さんが奥さんのことを好きだから現生では自分と夫婦になったけれど、向こうでは本当に好きだった人と夫婦になっているんだなと、そうしてあげたわけだ。
だから福二さんは、すごく奥さんの心を我が物に出来ずに苦しみながら、それでもあの一夜の巡り合いによって何か救われたのかな、福二さんも・・・
急に何かあの物語が救いの物語に生まれ返ってきた。」
赤坂「救いと許しの物語だったのかなと思う。」
重松「福二のような話は、今の時代だって皆僕達の救いと許しの物語は必要だと思う。」
赤坂「だからこそ幽霊話が一斉に沸き起こっているということなのかな。」

柳田国男が後半生をかけて取り組んだのは、仏教伝来以前から日本人が抱いていた他界観だった。
死後魂はどこへ行くのか、『雪国の春』の取材から半年後、柳田が渡ったのは沖縄だった。
そこで長く伝えられてきた他界観に触れることになる。
海の向こうにある他界、ニライカナイだ。
死者の赴くところであり、また神がすむ所でもあった。
[海南小記 柳田国男]
遠い大洋の水が眺められる初夏の暁の静かな海を渡って、ここに迎えらるる神をニライ神加奈志と島人は名付けていた。
民俗学者の谷側健一さん、日本人の魂の行方について研究を続け、生前の柳田とも交流があったという。
柳田はなぜ魂の問題に取り組んだのか、なぜ他界観を追い求めたのか、人間と他界の関係を谷川さんに聞く・・・
谷川「人間は他界を考え、夢見る動物である。
他の動物と人間は共通の点がたくさんある。
ただ他の動物は他界を夢見る事はできない。
人間は特別なものではないが、ただその1点だけは違う。
民俗学は死と共同体があって初めて成立する学問。」

柳田の勧めで沖縄を旅し、日本人の他界観について自らの思索を高めていった弟子がいる。
古代の研究をしていた折口信夫だ。
歌人の岡野弘彦さんは、晩年の折口の家に6年間暮らし、教えを受けていた。
岡野さんは折口の柳田への傾倒ぶりを鮮明に記憶している。
大正10年、折口は沖縄を訪問、2年後には宮古、八重山にも足を延ばし、祭や民間信仰を調査した。
古代日本人は死者の魂の行く先を常世(とこよ)と呼んでいた。
折口はこの常世を沖縄で出会った海の向こうにある他界・ニライカナに重ね合わせる。
[古代研究 折口信夫]
沖縄本島のにらいかないは、琉球神道に於ける楽土であって海のあなたにあるものと信じて居る地だ。
こうして人間死して稀に至ることもあると考えられた様である。
神は時あって此處から船に乗って人間の村に来ると信じた。
折口は死者の国である常世から現世にやってくる魂を“まれびと”と名付けていた。
石垣島で見た祭がその考えを裏付けることになる。
石垣島の伝統行事アンガマ、あの世から現れた面をつけた男女の先祖の霊が、家々を訪ねて歩くという祭。
先祖の霊はその家々に福をもたらすとされている。

国学院大学折口博士記念古代研究所に、折口が沖縄を訪れた時に記した取材ノートが残されている。
ノートには、石垣の祭アンガマに触発された折口が、まれ人の考え方を確信してゆく様子が記されている。
小川直之(国学院大学教授)「仏教ではなくて日本人の心の中にあるのは、死者の先祖の魂があの世とこの世を行き来する、それを具体的に形に表現されたものがアンガマ。
古典から得た知識として持っていた“まれ人”というのが具象化された形で目に見えることができた。
それによって彼のマレ人理論は飛躍的に大きくなってゆく。
沖縄ではニライカナイの発見が大きかったと思う。
ニライカナイとこの世を行き来する儀礼、祭を一生懸命捉えた。
まれ人は海のあなたから時あって来り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味して居た

柳田が魂の行方について渾身の力を込めて迫った著作がある。
昭和20年空襲警報のただなかで書かれた『先祖の話』だ。
3年8ヶ月に及んだ太平洋戦争、日本人だけで310万の命が失われていった。
若き人々の魂への思いから先祖の話は執筆されたのだ。
[先祖の話 柳田国男]
この度の超非常時局によって国民の生活は底の底から引っかきまわされた。
少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは何としてもこれを仏教のいう無縁ぼとけの列に疎外しておくわけにはいくまいと思う。
魂はどこへ行くのか、柳田が『先祖の話』で繰り返し説いたのは、山中他界と呼ばれる他界観。
人は死すとその魂は郷土の近くの山に登ってゆくという、日本に古くから伝わる考え方。
[昭和32年NHKラジオ 朝の訪問]
昔から日本人が考えてきたのは、だいたいどの辺に先祖の霊がいるのか。
私は里の見える山の上にいるのだと、子孫のことを考える気持ちがあったら、死損の田園の見えるところ・・・
山の見えるところだと必ず山を祀るのです。
田植えの初めに・・・
理由があるのですね、山から水が流れてくるでしょ、その水が田を養うのですから。
こんなきれいな水を上から送ってくれる人は親切な人に違いない、我々の繁栄を念じている人に違いない。
重松「丘の上から皆を見下ろしているというイメージは、逆に生きている人から見れば、いつも見られている、見守られているという感覚になるのかもしれない。
見てくれているんだよ、そばにいるし・・・
その見守られているとう感覚が、人々を励ましたり、元気づけたりする。」
折口信夫もまた太平洋戦争によって、魂の問題を深く掘り下げてゆくことになる。
養子・春洋が硫黄島の闘いで戦死したのだ。
天命を全うせず若くして死んだ春洋の魂、折口はこうした魂を未完成霊と呼び、その行方に思いを巡らせる。
柳田同様、死者の魂はやがて神になると考えた折口、しかし柳田とは異なった考えを突き詰めてゆく。
昭和24年、柳田と折口は双方の霊魂観をぶつけ合う対談をする。
柳田は、人は死ぬとその魂は先祖の霊になるとした。
その上で先祖の霊・祖霊は子孫の耕す田んぼごとに降りてくる家の神になると主張する。

[日本人の神と霊魂の観念]
柳田「必ずある定まった家の田にのみ降られる神がすなわちその家の神であり、それがまた正月にも盆にも同じ家に必ず降られる祖神だったろうということを、私はもう民間伝承によって証明しえられるとも思っています。」
一方折口は、人は死ぬとその魂は1つの集合体になってゆくと考えた。
常世から魂は祖霊として共同体である村に帰ってくるものの、個々の家に降りてくるものではないとした。
[日本人の神と霊魂の観念]
折口「常世の国なる死の島、常世の国に集まるのが祖先の霊魂で、そこにいけば男と女と各1種類の霊魂に帰してしまい、簡単になってしまう。
それが個々の家の祖先というようなことでなく、単に村の祖先として戻ってくる。
私はどこまでもマレビト1つ1つに個性ある祖先を眺めません。」
重松「柳田と折口の民俗学を比較して、折口の方が非常に厳しい民俗学で、柳田は優しい、温かい民俗学であるというように、比較なさっていたが、柳田が祖霊が見守ってくれるんだという、死んだらいずれ祖霊になって見守ってゆくのだよという発想を生み出したものは何だったのか?」
谷川(民俗学者)「日本人が古代から今に至るまで孜々営々として生きてきましたね。
喜びも悲しみも含めて・・・
それを尊重しているのではないかと思います。柳田は・・・
しかし折口のいうことは古代的な発想、古代というのは集団の生とか死、個人の死とか生ではない。共同体の中のある人の死であるけれども、共同体から離れたある個人の死ではない。」
重松「折口が魂にももう人格はなくて、集合無意識のような感じになっている。
しかし柳田はそこでも田ごとの神というか、我が家の神、家の神というふうに共同体の中でギリギリの個人とは言わないまでも、家というものに引き戻そうとしている感じがする。」
谷川「家の観念が柳田にはちゃんとある。
折口は共同体はもちろんあるが、家まで細分化した概念は見当たらない。」
折口は昭和28年(1953年)他界した。(享年66歳)
死の直前まで折口の後述筆記を続けた岡野さん、その死を柳田に報告した。
「柳田先生は、折口君が僕より先に死ぬということがあるものかと言って、涙をこぼしているのではないかと思うほど激しい口調で言った。
それだけ先生は頼りにしておられたと思う。
自分が亡き後は、折口は民俗学をまとめてゆくだろうと思っていたと思う。」
日本人の魂の行方を見つめ続けた柳田国男、昭和37年(1962年)、87年の生涯をとじた。
[魂の行方 柳田国男]
魂になってもなお生涯の地に留まるという創造は、自分も日本人であるゆえか、私には至極楽しく感じられる。
できるものならば、いつまでもこの国にいたい。
そうして1つの文化のもう少し美しく開展し、1つの学問のもう少し世の中に寄与するようになることを、どこかささやかな丘の上からでも見守っていたいものだと思う。」
柳田国男が至った他界観や魂の行方についての考え方は、結局どういうことだったのか?
赤坂「太平洋戦争の時に、300万とか400万人の日本の若い兵士たちが亡くなっている。
その魂の行方をどういう風に考えるのかということは大問題だった。
だから昭和の20年を境とするあの時期は、柳田にしろ折口にしろ、まさに日本人にとっても魂の行方。
あの世の問題というのを必死に考えた。
だから先祖の死者達がいずれ神になる、そしてお盆などに家に帰ってくるという信仰をもっとも原型的なものとして柳田は取り出したのかなと思う。」
重松「それに対して折口は、家には帰らないというのか。」
赤坂「折口は同性愛者だったので、家族を営まない、つまり自分の子孫をこの世に残さないという選択をした人。
それで春洋という養子にした若者は南太平洋の戦場で死んでいった、つまり自分の養子にした愛する若者の、その魂はどこに行くのだろうかという問いを深刻につきつけられたと思う。
そうすると結婚とか家という制度の外に逸脱してしまった。
自分達の帰るべき場所っていうのは、柳田の語った家とか田んぼを単位とした、それを見下ろす丘といったところにどうしても同調できなくなったのだと思う。」
重松「取材をして廻って、まさに丘の上から故郷を見る気持ちになってみたが、なんかすごく良いなと思うのと、その一方でそれは本当に故郷の村があるというのが大前提であり、あるいは田んぼ、家、代々そこで暮らしてゆくという設定、いろんな大前提がたぶん数10年前にはあったものを今本当にその前提がなくなりつつあるのではないかだろうかという気がした。」
赤坂「確かに霊魂とか魂といっても、あるいはあの世とか他界といっても、我々にとってはずいぶん遠いテーマではなくて・・・
だって2万人近い人たちが一瞬にして亡くなっていった。
遺体があがらない亡くなられた方達もたくさんいて、今ここでそれを引き受けなかったら前に進めないような問題になっている。
だから僕は被災地で本当に宗教的なものがあらゆる場面で露出しているのに驚きを覚えた。」

6月半ば、赤坂さんと重松さんは宮城県南三陸町志津川を訪ねた。
防災対策庁舎を15.5mもの津波が襲った。
最後まで防災無線で非難を呼び掛けた遠藤ミキさん・・・
南三陸町では、567人が亡くなった。
震災から2ヶ月たった頃から祭壇ができていた。
南三陸町を訪ねると皆ここで手を合わせる。

赤坂「生きている人達は生きている人たちだけで暮らしているのではなく、亡くなった人達と一緒に暮らしている、活きているという感覚があると思う。
西洋的な考え方では、共生というのは生きている人達の関係だと思う。
でも我々にとって共に生きると言うのがあるとしたら、生ける者と死せる者、共に生きてきた、そういう共生の感覚があると思う。
こういった場所は震災の記憶を語り継いでゆく聖地として守られていったらよいと思う。
神戸はほとんど撤去してしまった。
それが今になって、あの震災の記憶を語り継ぐ、共有する事を難しくしているということも、我々は体験しているので・・・
死者たちの記憶を何より大切にする文化が、この東北にはある。
おそらく日本文化のいちばん深い所にもそれがある。
そういうことを柳田や折口は我々に教えてくれている。
それだけで十分、そこから先は我々自身が考えるしかないと思う。」

重松「死者を愛する、これは柳田の言葉だが、亡くなった人達や先祖の魂、記憶とどう付き合ってゆくのか、生きている人は死者とも一緒に生きているという感覚を・・・もう少し一般的に言ってしまえば、おそらくそれは記憶を持ちながら生きているということだと思う。
だからすごく東北の3.11の記憶を東北の人も、東北じゃない東京、関西、日本中、世界中の人達が、これをどんなふうに記憶として持つのかをこれから考えなくてはいけないのではないか。」

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浅野温子1300年の出雲路をゆく★神話が語る日本の始まり


旅に出よう、そんな気持ちで乗った夜行列車、夜の帳が明けると迎えてくれたのは神々の国・出雲。
浅野温子「優しい光に包まれたこの場所で、目を閉じると聞こえてくる風の声、それは古からのメッセージなのでしょうか。
神楽の音色が神話の謎を呼びさまします。」

▲万九千神社:11月17〜26日、八百万の神々は出雲に集まり、この神社から旅立ってゆく。

古事記、それは太安万呂という人物によって書き記された日本で最も古い歴史書。
この国の始まりから推古天皇の時代までの系譜、伝承が記されている。
完成したのは今から1300年前、元明天皇の時代、西暦712年のことだった。
神話で重ねられた始まりの物語。
天上界に住む神が地上に落とした一滴、日本という国の始まり・・・

●神話から読み解く真実
神話の多くは島根県の出雲市を舞台にしている。その訳とは?
新谷尚紀名誉教授(国立民族博物館)「大和の王権は出雲の祭祀の力、祭の力、神祭り、霊的な力で大和の王権を守るんだということが書かれている。
大和王権は出雲の力で国を護る。
出雲にはどんな秘密が隠されているのか、日本の神話は今の私達に何を伝えようとしているのか・・・
●日本海地殻変動の秘密
神話の謎を求めて島根半島へ・・・
はるか昔、この地には大きな地殻変動があったという。
島根半島はどのようにして誕生したというのか・・・

●海底遺跡の謎
●出雲一大勢力の謎
銅剣などの出土品が示す真実とは?
●巨大古墳の謎
大和王権より先駆けて存在した出雲の古墳が語る歴史とは?
●日本の覇権、大和王権誕生のなぞ
日本を統一へ導いた大和王権、なぜ出雲を必要としたのか?
天武天皇、持統天皇が必要としたもう1つの宗教的権威、それが出雲の存在。
●巨大神殿の謎
地方一帯に伝わる巨木伝説、かつて出雲にあった巨大神殿の姿とは?

今回出雲路を旅するのは女優・浅野温子さん(国学院大学客員教授)、舞台で古事記神話の読み語りを続けている。
大学の客員教授も務める浅野さんの考える古事記とは?
古事記の神話に流れるテーマとは?
浅野「神代の時代に夫婦別れ、夫婦喧嘩があった。
非常に人間っぽい、やっぱりこれは男と女の普遍的なテーマなのだろう。」

物語の主人公はヤマタノオロチ退治のスサノオ、出雲大社に祀られるオオクニヌシ、そして太陽の神にしてスサノオの姉アマテラス。
神々の地に眠るなぞを求めて・・・
神話はどんな真実を語っているのか?
出雲路、この国の始まりを解き明かす旅・・・

浅野「私が日本の神話に興味を持ったのは、そこに日本人の心の原点を感じるから。
1300年も変わらず受け継ぐ和の精神・・・
この旅は、私達が失ってはならない心のあり様を探す旅でもある。」

▲一畑電車 出雲大社前駅
出雲大社、訪れる人の絶えない、神が鎮座するところ。
大和王権始まりの時代から存在したと言われている。
出雲大社に足を踏み入れると、そこに立ちこめる荘厳な気配によって、現代と神代の時代が交わるようだ。

神話・因幡白兎:鰐鮫から皮を剝された白兎がオオクニヌシによって救われる物語(舞台は鳥取)
浅野「私のオオクニヌシはウサギとの対面の時はもっと若い年を設定している。
現代のイメージのキャスティングでいうと6〜7歳くらい。」
オオクニヌシ『なにしてるんだい?』
ウサギ『向こうに行こうと思ったら、皮を剥がれたんです。
痛ぁい、痛ぁい。』
オオクニヌシ『じゃあ真水で洗って緯度のそばで風にあたらないようにしておいで。』
といって治してあげる。
どちらかというと少年とウサギ、子供と動物というホンワカムードのイメージで作った。
だいたい普通は青年とけなげなウサギというイメージだが。」

縁結びの神として特に女性の心をつかむオオクニヌシ、国づくり、五穀豊穣の神でもあり、多くの別名を持つことでも知られている。
このオオクニヌシが中心となり、出雲は統治されたと言われている。
オオクニヌシから6代さかのぼる祖先はヤマタノオロチ退治伝説で知られるスサノオの神。
そのスサノオの姉がアマテラスの神とされている。

▲神楽殿のしめ縄(長さ13m、胴回り8m、重さ4.5トン)
神話の物語には、この国の誕生だけではなく、家族への愛情、苦しみ、悲しみ、そうした日本人の心のあり方が描かれているというのだ。
出雲を舞台にした古事記、その神話には現代に通じる真実が隠されている。

/澄垢旅顱出雲の謎 地殻変動の秘密
清少納言が『枕草子』野中で称えた玉造温泉、この地も神話のくる里。

▲特産であるメノウの原石を敷きつめた風呂(玉造グランドホテル長生閣)
玉造の湯は美人の湯
として出雲神話にも登場する。
旅の楽しみの1つ、地元日本海の食材を使った料理の数々、その中でもこの地ならではの特産品はシジミ。
謎を紐解く入口となる。
雨にも映える松江城、松江市は島根県政治の中心地。
島根はいくつもの国を引き寄せて誕生したという国引き神話が伝えられている。
シジミ漁が行われる宍道湖、淡水と海水が交わるこの湖は、国引き神話の謎を紐解く場所。
穴道湖の近くにある湖に浮かぶ大根島由志園、島根の特産品の1つでもあるボタン。
日本の生産量の9割ほどが島根で栽培されている。

そのボタンが大根島で育つ理由に、山陰地方誕生の秘密が隠されている。
千酌港の海岸に、この地方誕生の歴史が刻まれているという。
宮崎県の鬼の洗濯板と同じ階段状の姿をしている。

瀬戸浩二(島根大学汽水域研究センター)「黒い所が泥で、白い所が砂、砂と泥が交互に溜まっている。
砂より泥のほうが侵食されるので、こういったでこぼこができる。
地層そのものは1600万年前のものだが、例えば地震等のショックを受けて砂が上から降ってくる。
それが地上に現れた。
それは海水がひいたからではなく、地殻の変動によって400〜500mの深い海底が隆起して、今は表層に現れている。
その証拠に泥の中からは、深いところに住むホタテ貝の仲間などが化石として出てきている。」

▲ホタテの仲間の化石:400〜1000mの深さに生息している。

「地層が曲がっている。
元々向こう側が古くて、こちら側が新しい。
順々に溜まってきているが、ここだけグニャっと曲がっている。
それがグシャッとなった部分がこういったところ。」

かつて日本海では、活発な地殻変動があった。
その活動にこそ、出雲を含む山陰地方誕生の秘密が隠されていた。
地層が滑り、折れ曲がり、その後隆起した地層。

最大1000mの深さの海底が盛り上がることで、この地方が誕生した。
まるで国引き神話のような出来事が実際に起こっていたのだ。

日御崎:荒波が打ちつける崖、雄大な姿には地球の営みが隠されている。
かつてこの地は火山活動が活発だった。
縄文時代には今よりも30m地殻海水面が低くなっていたという。

この崖には五角形、六角形をした岩がある。
これは溶岩が急激に冷やされてできた形。

島根にはかつての地殻変動や溶岩の痕跡を今も見てとる事ができる場所があるという。
中国地方で最高峰の火山、大山を望み東へ進む。
出雲市から車で1時間半、大根島にはおよそ20万年前の火山の噴火によってできた竜渓洞と呼ばれる場所がある。
溶岩の通り道が地下空洞、すなわち溶岩トンネルとなってつながっているという。
門脇和也(島根県自然観察指導員)「これがその時流れ出した溶岩、これはみんな中にあった溶岩をここまで持ち出して、ここに積んで入口にしている。」

瀬戸「岩の種類は玄武岩、この岩の特徴は、多孔質。
気泡のようなものがある。
火山性のガスが抜けたあと。
それによって水を保水したりする。
朝鮮ニンジンなどを作るためにはこういった岩が必要。」
ゆっくり下り階段を抜けると、トンネルが100mに渡って広がっている。
火山から産まれた溶岩が、水はけのよい土地となり、特産の牡丹の栽培に適した場所となった。
水はけがよい証拠に、植物の根は洞窟の中にまで届いている。

火山口の跡にて・・・門脇「普通、火口は山の頂上にあるが、ここは地下の洞くつの一番隅にある。
ここからあふれ出した溶岩が、今私達が来た方向へ流れていって、洞窟を作った。
だからこの洞窟は火口に直結している。
その意味で貴重な洞窟と言われる。」
瀬戸「ここは標高0より上、陸上で噴いて溶岩道としてできたのだろう。
年代測定の結果、20万年前のものと言われている。

約20万年前の火口、かつて溶岩が噴出した場所・・・
島根県のこの地域は、いたるところで溶岩が噴出し、溶岩道を作っていたのだ。
これは海底火山の活動によって多くの島が作られたハワイと同じ。

ここには20万年前の姿が刻まれている。
そのあとが見られるのはここだけではない。
町の中には同じような溶岩道がいくつかある。
この地方に伝わる国引き神話は、地球創世の物語でもあったのだ。

⊃澄垢旅顱出雲の謎 太陽神アマテラスの秘密
浅野「古事記には、今の日本人にもつながる世界観が記されているという。
その1つが黄泉の世界、私達が持っている死生観は、太古の昔を生きた人たちと共通しているのだろうか。」

▲猪目洞窟:縄文時代中期〜古墳時代後期、人骨、土器、貝類の飾り等を出土。
高さ8m、幅30m、奥行30m
ここは弥生時代から古墳時代にかけて、埋葬地として使われていた。
13体もの人骨が見つかっている。
浅野「なんでその時代の人々はそういうふうに、ここを思ったのだろう。
思わせる何かがあったのだろうね。」
ここはかつての墓としてこの世とあの世の交わる場所。

▲黄泉比良坂(よもつひらさか):古事記では、この世とあの世(黄泉の国)は、黄泉比良坂によって仕切られているという。
太陽の神アマテラスの父、イザナキは、亡くなった妻を追ってこの地から黄泉の国へと入る。
しかし体は崩れ、変わり果てた妻の姿、恐れおののき逃げ出してしまう。

怒ったイザナミは、夫イザナキを追いかける。
その際にイザナキは黄泉の国の入り口を、大きな石で塞いでしまい、イザナミと別れの言葉を交わしたと神話は伝えている。
死の世界を封印したイザナキからは、新たな子供が生まれた。
それがアマテラスと弟スサノオだった。

太陽の神アマテラスと弟スサノオが仲良く祀られている日御碕神社(社殿は徳川3代将軍・家光の命で造営 権現造り国重要文化財)
北半球1ともいわれる見事な夕日を望む岬に建立された神社。

アマテラスが祀られている日沈宮(ひしずみのみや)、伊勢神宮が日本の昼を守るのに対し、この宮では日本の夜を守るという神勅により祀ったのが始まりと伝えられている。
そのアマテラスを慕うように、弟のスサノオはすぐ上にある神の宮に祀られている。

神話『よみ語り』の物語について・・・浅野「アマテラスオオミカミとツクヨミノミコトと、スサノオノミコトという3人の兄弟、一番上の姉が末っ子を、自分の罪をキチンと悔い改めさせるために、弟と縁を断ちきるのだが、彼の為に立ち切ったわけだが、でもそれは彼に対してはそういう態度をとったけれども、あはり兄弟の絆というのは切っても切れないものだという・・・」

『よみ語り:天の岩屋戸にお隠れになった天照大御神〜月読命の語れる〜』
[脚本:阿村礼子]
兄妹、家族の絆、再生を描いた物語

アマテラスオオミカミは天上界を統治している神様だが、その弟のスサノオが罪を犯し、アマテラスオオミカミは天の岩屋戸という洞窟に閉じ籠ってしまう。
困った神様たちは、アマテラスオオミカミを外に連れ戻すために一計を案じた。
私はツクヨミノミコトと申します。
母イザナミノミコト亡きあと、父のイザナギノミコトは、自らの体から3人の子を産んだ。
私はその真ん中に生を受けた子供です。
上に姉のアマテラスオオミカミ、下に弟のスサノオノミコトがおります。
私達兄妹は生まれた時からそれぞれに統治する国が定められていました。
尊い神々が住む天上の世界を高天原というが、その国の統治者は神々の中でもっとも高い位に位置する。
父はその国の統治を姉に任命した。
アマテラスオオミカミという名も天に照り輝く太陽の神様という意味で名付けられた。
姉は太陽のごとく大らかで、慈愛に満ち、真の勇気を秘めた女性。
父の期待通り高天原の統治者として立派に君臨している。
2番目の私は静かな夜を司る月の国を任せられた。
姉と違い私は人の表に立つのが得意ではない。
慎重に物事にあたることを旨としている。
今のところ父の怒りを買うこともなく、自分なりのやり方でこの国を治めている。
問題は海原の統治を命じられた弟のスサノオ、スサノオには昔から大胆なところがあったが、成長するにつれ、粗暴な行いが目立つようになった。
末っ子だということがあるのだろうか。
亡くなった母への思慕がいつまでも建ちきれないようなのだ。
母を思い、駄々をこねているうちは良かったのだが、このごろでは統治任務をほったらかしにし、母のいる黄泉の国へ行きたいとわめき、暴れることが増えた。
それがとうとう父の逆鱗にふれてしまった。
お前はいつまでも何をぐずぐずと言っている。
そんなに母に会いたいなら、黄泉の国でもどこでも行くがよい。
しかし二度とここに戻ることは許さん。
はっきりとした訳は分からないが、父は亡き母に会いに黄泉の国へ行ってからというもの、母を忌み嫌い、話しがでることすら嫌がっている。
本心をいえば私にしても母を思う気持ちはスサノオと同じ。
しかし父の様子を見ていると、とても母のことなど口にはできない。
スサノオは正直と言えば正直だが、人の思いを察することのできない心の狭さは身を滅ぼす元かもしれない。
父に追放されたスサノオは、姉アマテラスのいる高天原へ向かう。
しかしそこで乱暴狼藉を働き、ついには神々の着物を織る織女を殺してしまう。
悲しんだアマテラスは岩の奥へ身を隠し、そのため世の中から光が失われてしまう。暗黒は地上からそれまでの豊かな暮らしを奪った。
アマテラスを岩から引き出すために、知恵の神オモイカネが一計を案じるクライマックスへと続く。

誰か鶏をたくさん集めてくれ、鍛冶屋のアマツマラは鉄を打ってくれ、イシトリドメは鏡を作ってほしい、勾玉を通した長い玉飾りも必要だ、アメノコヤネとアメノフタタマには祭の儀式をやってもらう、榊の金に玉飾り、鏡、それから白や青の布飾りを下げるのだ、さあ皆、仕事にとりかかってくれ。
オモイカネの指示につられ、皆動き出した。
準備は着々と整ってゆく。
オモイカネがまた声をあげた。
誰かタジカラヲとアメノウズメを呼んできてくれ。
タジカラヲは高天原1の力持ち、アメノウズメは相手を圧倒する力を持つ、不思議な力を持つ巫女。
アメノウズメがやってくると、オモイカネは彼女に笹の葉を持たせ、蔓をたすき掛けにさせ、伏せた桶の上に立たせた。
タジカラヲは岩屋の扉の脇にこっそり立たせた。
いいかタチカラヲ、私が合図をするまでそこを動くなよ。
タジカラヲは、オモイカネの指示通り、巨体を縮め、じっとしている。
アメノウズメのフトダマが榊を岩戸の前に据えると、アメノコヤネが祝詞をあげ始めた。
すると鶏が一斉に鳴き始めた。
オモイカネがあげていた右手を振りおろし、アメノウズメに合図を送る。
アメノウズメはまず桶の上で両足を踏み鳴らすと、高いカンササの葉で拍子をとりながら踊りだした。
神々も皆楽しい気分になって体を揺らしたりしている。
アメノウズメはだんだん興に乗ってきて、桶の上でくるくる回ったり、首を右に左にかしげ、色っぽい仕草をするので男の神々がはやし立てる。いいぞいいぞアメノウズメ、もっと踊れ・・・
さらに勢いづいたアメノウズメは体をくねらせ、のけぞって狂わんばかりに踊るので、上着の紐がほどけ、前がはだけ、お乳もおへそも丸出し。
それでもかまわず腰を振ったり足をあげたりするもので、男神も女神も腹を抱えて笑い出した。
ハッハッハ〜・・・

これまでシーンと静まりかえっていた外の世界が急ににぎやかになったので、岩屋の中のアマテラスオオミカミもさすがに変だと思ったのだろう。
何が起こったというのだ、なぜ皆は笑い声をあげているのだ。
岩戸に耳をあてて、外の様子をうかがう。
騒ぎは激しくなるばかり、とうとうこらえきれず、少し岩戸をずらし、隙間からのぞいてみると、なんとしたことか、目の前でアメノウズメが裸同然の格好で踊り狂っているではないか。
そしてアマテラスは外に出され、地上に光が戻ってきた。
この話はオモイカネのお手柄とされ、長老たちにもいろいろと信頼が厚くなった。
しかし私は今でもこれを姉の深い思慮の賜物だと思っている。
アマテラスオオミカミが天の岩屋に籠れば世界は闇に封じ込められ、様々な災いが起こる。
姉ははじめからそれを承知で籠ったのだ。
姉にとってもまさにそれは命がけの行為だった。
これもスサノオに罪の深さを気付かせ、心から悔い改めさせるため。
彼は二度と同じ過ちを繰り返させないことこそが高天原や地上の国に真の平安を取り戻すことだと姉はそう信じたのだ。
スサノオは天上界から追放されるにあたって、最後に一言アマテラスにお詫びがしたいと願い出たそうだ。
しかし姉は今後一切の面会まかりならん、高天原にも二度と戻ることを許さんと伝えよ、と突き放したとか。
弟のしたことを考えれば追放はやむを得ないこと、ならばせめて地上に降りてゆくときには正しく尊い心を取り戻していてほしい、と姉はそう願ったのだろう。
だからこそきっぱりと弟と縁を断ち切り、スサノオに深い悔恨の思いを味わわせたのだと思う。
他の神々の前では決して言えないが、私は、そう姉もスサノオが自分の生きるべき場所を見つけ、そこで胸を張ってどうどうと生きてほしいのだ。
その気持ちは姉も一緒。
姉も私も切り離せない兄弟の絆を心の奥深くに感じ、そこから生まれる親愛の情というものを体で噛みしめながら、弟の幸せを密かに願っているのです。

古事記の神話から現代に通じることとは?
浅野「人間というのは不完全だから、間違えることもある。
でも必ず立ち直れる、その力を持っている。
人と人との絆、兄弟の絆、親子の絆が非常に大事だということを古事記は言っているのではないかと思う。」
神々の中でも最高の位置に君臨する女神アマテラス、そもそもどんな神なのだろうか?
新谷「アマテラスという神様には2つの性格がある。
1つは文字通り太陽の神様、天皇家の古い時代から太陽の王であるということ。
もう1つは自分の子孫、皇祖神、先祖の神。
天皇家にとっては先祖の神であると同時に太陽の神である。
この2つの面がアマテラスにはある。」
太陽の神アマテラス、神話に描かれたアマテラスの雲隠れとは、今でいう自然現象、日食から想像させたものかもしれない。

神々の国・出雲の謎 海底遺跡の謎
かつてアマテラスが祀られていたという新たな場所が海の中にあった・・・
出雲大社から車で20分ほどの小さな漁村、日御碕、目の前にあるのはアマテラスが降臨したという島。
この島は今でも一般の人の立ち入りが禁止されている神聖な島。
ここにどんな謎が隠されているのだろうか。

波に侵食された奇岩、経典の文を積み重ねたように見えるため、経島(ふみしま)(アマテラス降臨の島)という名がついたと言われている。

神宿るこの地で、あるものが地元ダイバーによって見つけられた。
海底遺跡と思われるものだ。
日本を代表する潜水チームに調査を依頼。(海外ドキュメンタリー映画『オーシャンズ』撮影メンバー)共に地元ダイバーの話を聞いた。
岡本哲夫(AQUA工房)「約1500年間マツリゴトをやられて歩いた跡、ずーっと道となっている。
それは洞窟の中、出てからも砂の道ができている。」
今は海の底に沈んでいる場所に、はるか昔神殿があり、神事が行われていたということを形となって見る事ができるのだろうか?

島から200mほど離れた目的地へ向かう。
この地域の海は縄文時代、現在よりも水面が20〜30m下であったことが科学的に明らかにされている。
この海の底に、アマテラスへ捧げられたかもしれない神殿が眠っている可能性がある。
大きく浸食された岩の間に残されたかつてのマツリゴトの場所を探す。

まるで参道のような趣が目の前に現れた。
どこへ続いているのだろうか。

広く平らな所に出た。
かつてここで神事が行われていたのだろうか。

この先はトンネルになっている。

見つけたものは玉砂利のような丸い石。
ここは神を祀る場所へと渡る通路だったのだろうか。

ここだけ角のない丸い石が一面に敷きつめられたように存在している。

かつてここが地上であった時、祈りの舞台として使われたのではないだろうか。
人工的な階段だろうか、歩くために岩を切り取ったかのようだ。

さらにここでマツリゴトが行われたことを彷彿とさせるものがあるという。
それは亀石といわれる、祈りの時に使う石。

海底にひっそりとたたずむ神殿のようなものは、私達に何を問いかけているのだろう。
海底遺跡の謎を解くためには、専門家によるさらなる調査が必要だろう。
しかしこの風景には、神代のロマンを感じさせるものが確かにある。


『素戔鳴尊』芥川龍之介著


生きる事に悩み、苦しみ、自らの歩む道を模索するスサノオが次の物語の主人公。
荒ぶる神スサノオの苦悩・・・
スサノオが歩いた軌跡を辿ってみる。
縁結びの神としても有名な八重垣神社(祭神:スサノオノミコト イナタヒメノミコト)、スサノオが妻のクシナダヒメと共に祀られている。
スサノオが大蛇ヤマタノオロチを退治した後、2人はここで新居を構えたと言い伝えられている。
クシナダヒメが自らの姿を映したと伝えられる鏡の池、今では縁結びや心願成就の占いをする人々の姿が絶えない。

かつては本殿にあり、神社建築史上最古の壁画が重要文化財『六神像壁画』、描かれているのは美しい微笑みを浮かべるクシナダヒメ、そしてスサノオ。
スサノオとはどのような神だったのか?


た澄垢旅顱出雲の謎 大蛇ヤマタノオロチ 鉄剣の謎
よみ語りの脚本『ヤマタノオロチ退治』の新しい解釈について・・・
浅野「大蛇の8つの頭をもった、胴体を1つにした親子、大蛇の親子である。
大きい首がお父さんで、次がお母さん、お兄さんがいて、子供たちがいるという設定。
スサノオが自分の大事な人を守るために大蛇を殺さなくてはならない。
しかしそれはやる者、やられる者、そして生きるために闘わないと自分たちを守る術がない、そこにある種の苦悩を感じる。」

『よみ語り:ヤマタノオロチ〜スサノオの悔恨と成長』[脚本:阿村礼子]
天上界を追われたスサノオは、出雲の地に下り、そこで老夫婦と若い娘の親子と出会う。
そして娘の命を救うためにヤマタノオロチという大蛇を退治する。
皆さまも御存じのお話しだと思う。
ヤマタノオロチは一般には、娘を食って殺す恐ろしい大蛇として描かれているが、私達のよみ語りでは、ヤマタノオロチの悲しみという視点をまじえ、新しい解釈をしている。
高天原を追われたスサノオは、出雲の国に降り立った。
斐伊川の川上に歩いてゆくと、小さな草ぶき屋根の家があった。
低い竹垣越に部屋の中が見え、白髪の老人と妻らしき老婆、そして若い娘が泣いているようだ。
スサノオは思い切って声をかけた。
何か事情があるとお見受けした。話してくれれば力を貸せることもあろう。
これはこれはどなたか存じませんが、有難い申し出、どうぞお入りください。
私はアシナヅチと申します。これが妻のテナヅチ、これが娘のクシナダヒメでございます。
実は私達夫婦には8人の娘がありました。
それが7年前の秋のこと、越の国にヤマタノオロチという得体のしれない蛇の化け物がいるのを御存じですか。
若い娘を食って自分の体を肥やすというその大蛇が、あろうことかはるか離れたこの出雲の地に現れたのです。
1つの胴体に頭が8つ、尾が8つあり、体長は8つの谷と尾根を渡るほど、体には歪んだスギアシの木が生え、皮膚は苔で覆われています。
腹は見にくくただれ、常に血をしたたらせている。
そのオロチが血走った眼で狙っていたのは、そう私の大事な娘たちを狙っていたのです。

アシナヅチとテナヅチの8人の娘たちは、8つの頭を持つ大蛇の妖怪ヤマタノオロチに狙われ、最後の1人だけが残っていた。
そのオロチを退治するために、スサノオは力を貸すことになる。
それはこのクシナダヒメです。
しかしまた今年もあの魔物がやってくる季節がやってきました。
アシナヅチが悲痛な声をあげると、妻のテナヅチが言った。
安作尽き果て思いついたのが、私が娘の身代わりになって、オロチを欺く事でした。
それで娘には質素な衣を着せ、私はこうして鮮やかな深紅の衣をまとっているのです。
この子が食われるくらいなら、私が食われた方がどれほどよいか・・・
お母様、もうおやめ下さい。
お姉さま達は私を守るために亡くなっていきました。
お母様までが私の犠牲になるなど、耐えられません。
何をいうのです、お前は私が生んだ大切な子供、お前は私の命そのものなのですよ。
お前が亡くなるというのは、私自身が消えてしまうのと同じこと。
お前はまだ若い、これから新しい命を産むこともできるのです。
それは父や母、また亡くなっていった姉達の命をつなぐことでもあるのです。
だからお前は生きて、どんなことがあってもその命の光を絶えさせぬよう、生き延びておくれ。
母子のやり取りを聞きながら、スサノオは姉アマテラスオオミカミとの別れを思っていた。
アマテラスオオミカミは何故、ご自分の命をかけてまで、天の岩屋に閉じ籠られたのか。
ずっと解けずにいた謎がこの親子を見ていて分った木外s田。
姉上が御身を呈してまで守ろうとしたもの、それはほかならぬ弟の私だったのかもしれない。
こんな愚かな私にも生き延びる機会を与えて下さった、そのおかげで私は今、ひとつの命が他の命を愛する重さを知った。
生まれた命の火が次へとつながってゆく尊さを知った。
私はなんと惨い事をしたのだ。
姉上があれほど大事になさっていた織女を亡きものにしてしまうとは・・・
これから新しい命を産む事もできたはずの若い命を、この手で断ち切ってしまった。
その罪の重さからすれば、私は織女が味わった以上の苦しみを味わわされて当然だったのだ。
しかし姉上はそうなさらなかった。
その代わり教えてくれた。
織女と同じようにこの私の命もまた、父上や母上、さらに遠い祖先から受け継いだ尊いもの。
私1人の勝手で自らの命の火を止めてはならない。
お前は生きながらえて、自分の犯した罪を悔い改めよと、姉上、私はようやく気付きました。
今私がすべきこと、それは娘の命を守ってやることなのですね。
スサノオは目の前の3人を愛しい眼差しで見つめた。
私が必ずオロチを退治してみせる。
その時はヒメを私にくださらぬか。
恐れ多いことです。私はまだあなた様のお名前も存じません。
私はタケハヤスサノオノミコトと申す。
天上界にいらっしゃるアマテラスオオミカミと親を同じにする弟である。
今まさに天上から下ってきたところである。
お〜!喜んで娘を差し上げます。
スサノオは家の周りに垣根を巡らし、8つの門を作り、酒を満たした桶を置いた。
あっという間に酒を飲み干し眠ってしまった。
ヤマタノオロチの頭をスサノオは持っていた剣で1つ1つ切り落としてゆくのだが、そのヤマタノオロチの気持ちに気付くとくクライマックス・・・

その瞬間閉じていたオロチの目がカッと見開き言葉を発した。
タバガッタッナ
その顔には、しくじったという無念の表情が浮かんでいた。
父上〜・・・
突然背後から別の声が聞こえたので、スサノオが振り返ると、今切り捨てたのより一回り小さな頭が目を覚まし、尾をばたつかせている。
他の頭たちを落として逃げようというのだろうか。
したたか酔っていて、身動きがとれない。
スサノオはそちらに歩み寄り、桶からフラフラと頭をあげたオロチの喉元に剣を突き刺した。
ニャー・・・
物悲しい声をあげ、息絶えた。
なぜでしょう、スサノオの心の中を、たとえようのない虚しさが駆け抜けた。
しかしその思いを振り切るように、続けて1つ、また1つと切っていった。
ほとんどの頭は眠ったまま苦しむことなく切り捨てられた。
ただ首を落とされる時、どの頭も決まってフニャーフニャーと産声のような鳴き声をあげて果てていった。
スサノオはこの時初めて気付いた。
あー、なんとしたことだ。
ヤマタノオロチは胴体を1つにした、8つの頭を持った大蛇の親子だったのだ。
最初に切り捨てた頭が父のオロチ、そして2番目に切ったのは、きっと上の息子、他の頭はまだ生まれたばかりの赤子だったに違いない。
とすれば・・・
スサノオは最後に残った頭に目を凝らした。
そう、これが母のオロチ、この大蛇の主となる頭。
この頭を切らねば、ヤマタノオロチの息の根を止める事は出来ない。
しかしこれほどまでに母を恋い慕っていた私が、たとえ大蛇の命を絶つことでしかクシナダヒメの命を守ることができぬとは・・・
ようやく命の火が教える大切な意味を知った私に、神々はまた、どのような試練を与えなさろうというのか。
スサノオは頭を垣根にもたげてぐったりしている母のオロチを憐れむように見つめた。
すると母のオロチがうっすらと目をあけ、周囲を見回した。
フニャーフニャー・・・
この世のものとは思えない、悲しく痛々しい響きだった。
目から血の涙を流し、半開きの口から必死に首を伸ばして、転がっているわが子の頭を舐めようとしている。
しかし遠過ぎて届かない。
子の母のオロチも愛しいわが子を守るために、村の娘たちを食い殺してきたのだろう。
自分達一族の命をつないでゆくために、人を殺めて生きねばならぬとは、思えばこれもなんと哀れなさだめか・・・
スサノオは先程切った頭を1つずつ引きずって一所に集め、1番上に父のオロチの頭を載せ、子供たちを守るような形に積み上げた。
そうした後再び、母のオロチの所に戻り、後ろに回りこんだ。
大きく1つ息を吸い込み、剣を振り仰いで構えると、天に届けとばかりに声をあげた。
母よ、愛する者達と共に行け・・・
大きく思い切り剣を振り下ろすと、母のオロチの頭は綺麗な弧を描いて飛び、父のオロチの頭の横に見事におさまった。
スサノオは最後の仕上げとして、オロチの胴体を剣で切り刻み、尾っぽを1つずつ切り裂いていった。
4つ目の尾っぽを切り付けた時、堅いものが当って剣の歯が欠けた。
手を突っ込んで引っ張ってみると、それはそれはみごとな太刀が現れたので、スサノオはアマテラスオオミカミに献上した。
この太刀が後の世にいう三種の神器のうちの1つ、草薙の剣。
さてスサノオはクシナダヒメとめでたく夫婦となり、須我の地に立派な神殿を建てた。
そしてアシナヅチとテナヅチも呼び寄せ、アシナヅチを神殿の長に迎えたとか。
クシナダヒメも自分の親を大事にしてもらったことを深く感謝し、スサノオを大切にして生涯お尽くししたという。

ヤマタノオロチを退治するスサノオの成長について・・・
浅野「相手も生きなければいけない。
だから自分たちの立場だけじゃなくて、相手のこともキチンと分ろうとする。
そこまで大きくなったというのが、彼をどんどん再生させてゆく、成長させてゆく。
それは理解するということ。
それが彼を非常に大きくした。
そして人を愛することを知った時に、またもっと男としても非常に大きくなったのだろう。」
スサノオの足跡を追う。
ヤマタノオロチを退治したスサノオは、須我神社(主祭神:スサノオ 和歌発祥の地)を訪れ、日本で初めて和歌を詠んだとされている。

もう1つ霊験あらたかな神社とされている須佐神社(1554年戦国武将・尼子晴久が造営寄進 本殿は大社造り 高さ12m)、スサノオ終焉の地とされている。
本殿の裏には樹齢1000年以上ともいわれる大杉が天に向かってそびえている。
スサノオの魂が今もここに息づいているようだ。
温泉神社(スサノオの妻クシナダヒメの両親・アシナヅチとテナヅチを祀る)に、スサノオが退治したヤマタノオロチの首が埋められている。
8つの首を埋めたあと、8本の杉を植えたという言い伝え。

神話『ヤマタノオロチ退治』が語る歴史とは?
新谷「ヤマタノオロチを退治し、お尻の所を切ったら鉄の剣が出てきた。
スサノオが持っているのは銅剣、ところが尻尾からは鉄剣が出てくる。
考古学の知識を使えば、神話を読むとき、銅剣、銅矛の弥生時代から、銅鏡、鉄剣の古墳時代へ、大きく時代が変わったことがそこには込められている。」
スサノオがオロチ退治によって手にした鉄剣は、新しい時代の話。
物語の主人公はスサノオからオオクニヌシへと移る。
九州筑後平野(福岡県久留米市)に生まれ育ったようせつの天才画家がいる。
青木繁、彼は古事記をテーマにした作品を残している。

▲『大穴牟知命』
いわゆる後のオオクニヌシが神話最後の謎を解く主人公・・・
出雲の国の謎を求めて・・・
出雲大社はどのようにして誕生したのか?
この大きな神社誕生のなぞ、そこには日本の覇権の歴史が隠されていた。
かつて出雲には、大和王権に匹敵するような一大勢力が存在したという。

▲大阪堺市、仁徳天皇陵、出雲の勢力とこの巨大古墳、そこにはどんなつながりがあるのだろうか。

タ澄垢旅顱出雲の謎 巨大古墳の謎
今市大念寺古墳跡(古墳時代 6C後半)・・・大型前方後円墳、横穴式石室(長さ3.3m、幅・高さ1.7m)、石棺(全長12.8m、高さ3.3m)
日本最大級の大きさの石の棺には、かつて豪族が埋葬されていた。

石棺の周りは石が崩れないように積み重ねられ、2000年以上の時を経てもなお、主の墓を守り続けている。
大きな古墳を作れたということは、何を意味しているのだろうか?

荒神谷遺跡、出雲にまつわる歴史的証拠が発見された場所。
足立克己(島根県立古代出雲歴史博物館 学芸部長)「ぜんぜん想定外のものが出た。
6〜7世紀ぐらいの集落、あるいは6世紀頃のお墓を想定していた。」
1984年実際に発掘してみると、日本の歴史学上画期的なものが発見された。
4列に整理された銅剣が358本、この数は当時日本全国で出土した銅剣の合計300本を超えるものだった。
さらに銅鐸6個と銅矛16本も出土した。

発見された現物が保存されている島根県立古代出雲歴史博物館。
358本の銅剣は武器ではなく、マツリゴトの道具だった。
銅矛も銅剣と同じ目的で使われていたもの。
そして銅鐸、神を呼ぶ鐘としてマツリゴトで使われていたという。
銅剣、銅矛、銅鐸が発見された価値とは?・・・
足立「基本的には銅剣、銅矛は武器の形をしている。
これは中心は北が九州で使われていたお祭りの道具。
銅鐸は近畿のもの、それが1ヵ所で出るということで、特に銅矛と銅鐸が1つの遺跡から一緒に出るということは今もない。
なので九州と近畿地方との交流をしながら、出雲独自にお祭りの文化を発展させたということが考えられる。」

それまで銅剣、銅矛は九州中心、銅鐸は近畿中心のマツリゴトの道具と考えられてきた。
ところが出雲では、この3つが同じ場所で見つかったのだ。
しかもこれら祭の道具を大切にしまい込むかのように、整然と埋められていたのだ。
青銅器を埋めた理由は?・・・
足立「青銅器を使ったお祭りの社会がなくなって、新しい社会が多分始まってゆく。
それはよその勢力に抑えられたというのではなく、出雲独自の、出雲の地域の中で新しい社会体制というものが出来ていった可能性がある。」

青銅器文化の終りに起こった事とは?・・・
新谷「出雲はいち早く銅剣、銅鐸を埋めてしまい、使わなくなった。
何が変わって出てくるかというとお墓、武力的な王の登場。
四隅突出型の古墓が一番最初に出雲に現れる。」
出雲は四隅突出型と呼ばれる墓が多く見つかっている地でもある。
西谷墳墓群(長方形の四隅を突出させた形態(四隅突出型墓) 弥生時代中期末〜後期 紀元前1世紀〜紀元後3世紀半)
弥生時代のものとしては日本最大級の大きさを誇る。
まさに王家の墓と呼ぶにふさわしいもの。
このあとに訪れる巨大古墳時代は、ここ出雲から始まる。
弥生時代から古墳時代への変化について・・・
考古学では青銅器の時代(銅剣 銅矛 銅鐸)=弥生時代
その次の時代は古墳時代=武力王の登場(副葬品:鉄剣 銅鏡)
マツリゴトに使われていた青銅器を埋めるという行為は、武力王を中心にした新たな古墳時代への幕開けを告げるものだったのだ。

稲佐の浜は、神話『国譲り』(オオクニヌシがアマテラスの治める天上界に出雲の国を譲る物語。
その見返りとして、天まで届くほどの大きな社を建てることを約束)の舞台。
かつて出雲には一大勢力があった。
それを治めていたのがオオクニヌシだとされている。
そんなオオクニヌシの若き日の情熱的な恋を描いた神話が古事記には記されている。
出雲大社に祀られているオオクニヌシとその祖先スサノオの神話の物語。
オオクニヌシはどのようにして出雲の国を統治したのだろうか。
若いころオオナムチと呼ばれていたオオクニヌシは、兄弟から命を狙われ、自らの祖先スサノオのもとへと向かう。
現代に通じるスサノオの気持ちは?嫁ぐ娘への気持も描かれた神話について・・・
浅野「現代の花嫁の父、本当に父親としては娘を人にやるときには立派な人にもらってもらいたい、幸せになってもらいたい。
これは現代でもっとも皆分りやすい気持ちではないか。」

よみ語り『義父が与えた最後の試練』[脚本:阿村礼子]
さて年月は流れ、今は地底の国に暮しているスサノオノミコトのもとに、オオナムチという若者が訪ねてきた。
娘のスセリヒメと恋に落ちたオオナムチにスサノオは次々と過酷な試練を与える。
それは娘の夫としてふさわしいかどうかを見極めたいという、父としての重いからだったが、2人には辛い仕打ちとしか映らなかった。
父と娘、そしてその夫の間で交錯する思惑や愛情、せつなさを描いたお話し。
スサノオが根の堅州国という地底の国を統治している時、地上の国から逃げ込んできた1人の若者がいた。
スサノオの6代目の子孫で、オオナムチという。
オオナムチはのtのオオクニヌシの神を名のり、地上の国づくりに多大な功績を残す神様。
オオナムチにはたくさんの兄がいて、しかし兄達は一番末のオオナムチをいじめ、ついに死に追いやるような酷い目に合わせる。
それを案じた母は、オオナムチを奇異の国に逃がしたが、兄達は執拗に追いかけてきた。
そこでオオナムチは祖先のスサノオを頼って地底の国まで逃げてきた。
さあてようやくたどり着いたオオナムチを神殿の入り口に出迎えたのはスサノオの娘・スセリヒメだった。
姫を一目見たオオナムチは、何という情熱的な瞳だ、その瞳に射すくめられて身動きができなかった。
これまで女性の方からあれほど熱い視線を向けられたことなどなかった。
女性というものは皆自分の想いをひた隠し、男から行動を起こすのを待っているものだと思った。
私は幼いころから臆病で、自分の一歩を踏み出すことができなかった。
いつも大勢の兄弟達の後ろに隠れて、自分の匂いを隠すよう努めていた。
そしてそんな男らしくない自分をさいなんでいた。
オオナムチ、あなたはそのままでいればいいのよ、ただ1人そう言って抱きしめてくれたのは母だった。
スセリヒメはその母の面立ちに似ていた。
彼女に惹かれたのも、母への思慕が重なったせいかもしれない。
あなた様のお名前は?
私はスサノオノミコトにお目にかかるため、地上の国から来たオオナムチと言います。
私達は一言かわしただけで、たちまち恋に落ちて、互いを求めあい、その場で夫婦の契りを結んだ。
私を訪ねて地上から若者がやってきたろう、いまどき1人でこんな所へ来るなど、ろくな者ではあるまい。
まさか地上で追放の身になって逃げてきた乱暴者ではないだろうな。
気になるのは娘が麗しい男性と言ったことだ。
見れば目の前の娘の頬に、ほんのりとさした明かり、濡れたようにうるんでいる瞳・・・
まるで恋でもしたようではないか・・・
いったいどんな男が娘を惑わせているのだ。
私は神殿の門へと急いだ。
スセリヒメが後ろから小走りについてくる。
門前でこちらをうかがっていた男は私の子孫の1人だった。
なんだ、葦原醜男(葦原色許男神 しはらしこを)ではないか。
私はそいういうと、スセリヒメが言葉をはさんだ。
お父様、この型はオオナムチ様とおっしゃるのです。
確かにそんな名前も持っていた。
もっとも他の名前で呼ばれていたことも知っている。
しかしこの若造には“ただのぶおとこ”という意味の葦原醜男(葦原色許男神 あしはらしこを)で十分だ。
私はオオナムチが兄達から逃げているのは知っていた。
もしここに来ればかくまってやるつもりもあった。
しかし娘がこの男に向ける視線のあつさはなんだ、まさかもう契りを結んだとでもいうのか。
許さん、断じて許さんぞ


オオナムチはスサノオから死んでしまってもおかしくないような3つの試練を与えられたが、愛するスセリヒメの力でその試練を無事に乗り越え、2人で逃げ出す。
オオナムチを娘の夫として認めるつもりになったスサノオは、はなむけの言葉を送ろうと2人を追いかける。

あの2人はなんと早まったことを・・・
私とてかわいい娘の気持ちが分らぬわけではない。
ただ宝のように大事な娘を託すのだ。
せめて本当に任せられる相手かどうか確かめたかった。
そして、とにもかくにも私が与えた市江rんに、オオナムチは耐えた。
今は娘の幸せを祈るばかり。
だから最後に父として、夫になるオオナムチに言葉を手向けて2人を送り出したいのだ。
あ〜走らねば、もっと速く・・・
2人が地上の国に行ってしまう前に追い付かなければ、二度とこの気持を伝えられない。
私達は暗闇の中をひた走り、ようやく黄泉比良坂に辿りつきました。
ここまでくれば安心だ、少し休もう。
オオナムチ様はフラフラする私の体を支えて岩の上に座らせ、はれ上がった私の足をさすって下さいました。
オオナムチ様の大きな背中を見ているうち、ふいにその姿が父に重なって、思いがけず涙がこぼれました。
どうした、私と行くのが辛いのか。
辛いわけなどありません、愛する人と一緒になれることの、これ以上の喜びがあるでしょうか。
例え二度とこの国に戻れなくても、父と会えなくても、オオナムチ様と一緒なら、幸せになれる自身があります。
その気持ちは今も、一点の曇りなく、迷うところなどないというのになぜ、こんなに切ない涙があふれるのでしょう。
オーイオーイ遠くから声が聞こえた。
追手がやってきたのかもしれない。
2人とも、はじかれたように立ちあがった。
オオナムチ、待つのだ。
それは紛れもなく父の声だった。
私達が振り向いたのが分ったのでしょう。
父はその場にとどまり、呼びかけてきた。
オオナムチ、よく聞け、地上に戻ったら、今お前が持っている太刀と弓矢で兄たちをやっつけてやれ。
お前は地上の国を治め、偉大なる統治者となるのだ。
オオナムチという名を捨て、オオクニヌシの神と名乗れ。
そして出雲の地に立派な神殿を建て、わが娘を正妻として迎え、生涯大事に守るのだぞ。
娘を悲しませるようなことがあれば、私が許さんからな。
決して約束を違えるなよ、わかったな。
そして最後に、絞り出すように私に言いました。
スセリヒメ、幸せになるのだ。
お父様・・・言いかけましたが胸が詰まって声になりません。
変わってオオナムチ様が答えました。
今の言葉、しかと胸に刻みました。
私は立派に地上の国を治めてみせます。
姫は必ず私が幸せに致します。
父は大きくうなずくと、踵を返しゆっくりと戻ってゆきました。
オオナムチ様は今、私の隣で勇ましくお立ちになっています。
そのお姿は自信にあふれ、とても眩しく見えます。
オオナムチ様は私の手をとって、強く力を込めました。
この手は決して放さない、私はこの型を生きてゆく、たとえ私達にどんな困難が降りかかろうと、強く握りあったこの手があれば、なんでも乗り越えられる気がします。
これから向かう地上の国には、根堅州国にあった永遠や絶対はありません。
そこには不安や絶望、嫉妬や憎悪、また死の恐怖が渦巻いているそうです。
でもその代わり、明日につながる玉手箱があるのです。
あ〜オオナムチ様、いえオオクニヌシノカミ、さあ、私達の国に参りましょう。
行こう!そして2人で豊かな国を造ろう。
私達のゆく手に、希望の光で眩いばかりに輝いている地上の国が見えます。

古事記の神話に共通したテーマとは?
浅野「根底は人間が不完全であるということがテーマだと思う。
天上界のトップの方たちは、どの弱さを見せて、弱さの中に強さがるということをキチンと言ってくれる。
それは折れない強さ。
日本と言うのは、この輪の中、いつでも転がれるから傷つかない、折れないみたいな、そういう強さがある。
これは民族なのかな・・・
それが日本人の非常にしなやかな、ダイナミックな民族性ではないかと思う。」

神々の国・出雲の謎 巨大神殿の復元
島根県には、数々の謎がある。
その1つは弥生時代に出土した土器に描かれたもの。

▲線刻絵画土器(弥生時代中期 鳥取稲吉角田遺跡出土)
高層建築を思わせる高床式建物、はたしてこのような巨大神殿は本当にあったのだろうか。
平安時代の貴族の教科書ともいえる書物『口遊(くちずさみ)』にはこう記されていた。
“雲太 和二 京三”
京三、すなわち日本で3番目に高いのは平安宮大極殿
和二、二番目に高いのは、およそ45mの高さを誇る東大寺大仏殿
そして雲太、日本で一番高いのは、出雲神殿と謳われていたのだ。
出雲の神殿は東大寺の大仏殿よりも高く、48mもの高さがあったと言われていた。
でも巨大神殿には欠くことのできないものがある。
それは柱となる大きな樹木、巨大神殿を可能にする巨木。
はたしてそれは存在するのだろうか。

三瓶小豆原埋没林公園、建物の地下部分に巨大神殿の秘密を解く糸口が隠されている。
太古の森にかつて生育していた巨木が発見されたのだ。
10万年前から活動していた火山、三瓶山の噴火によって地下に埋もれ、そのままの姿で残っていたのだ。

巨木が初めて見つかったのは1983年、その後の調査で新たに直径2m、高さ13mもの大きな杉が4000年前と同じ状態で地中から発見された。
地下に埋もれていたこの巨木の出現で、にわかに出雲の巨大神殿の可能性は高くなった。
はるか昔から存在していたという事実、それは巨大神殿の存在を裏付ける証拠に違いない。

さらに出雲大社に伝わるかつての出雲大社の設計図、金輪御造営差図を見ると、大きな3本の柱を金輪で束ね、1つの柱にしていたことが分る。
しかしこれだけでは空想の域を出てはいなかった。
ところがそれを実証するものが発見された。
鎌倉時代の出雲大社の、本殿の柱が、まとまった形で出土した。

宇豆柱:直径1.3m、これが3本合わさると、直径およそ3mもの柱になるのだ。
これを9本用いた巨大神殿とは?
蠡舂啻函過去に巨大神殿の可能性について研究したチームがある。

勝山里美(大林組 CRS室副部長)「出雲大社に関して言うと、8丈(約24m)の高さの建物があったわけだが、出雲大社の社伝によると、16丈(約48m)の高さだった。
そんなものがあの時代にできたのだろうかという疑問があり、そこから建設会社として、その可能性を確認したかった。
実際にどうやって建てたのだろうとか、構造計算、シニュレーションをやると、可能だったのではないだろうかと・・・」

この設計図を作成するために、最新の科学で様々なデータを検証したという。
そこでさらにそのデータから、巨大神殿を再現する試みを行った。

▲出雲大社48mのコンピューターグラフィックス
いったいなぜ、このような大きな神殿を造る必要があったのだろうか。
新谷「仏教に対抗する、巨大な寺院建築に対抗する意識があった可能性があるように思う。
なぜ大きかったのかというと、日本を、ヤマトの王権を、宗教的に護る使命。」
出雲大社はヤマト王権の守り神だったのだ。
さらにこれだけではない言い伝えが出雲大社にあるという。
綿田剛志(島根県神社庁参事)「こちらの方に伝えられている古記録や伝承によると、今の倍の16丈、中古にはあったと言われる。
さらにさかのぼる上古、その倍の32丈あったと言われている。
今のメートルに換算すると、約96mを超えるような・・・
こうなるとまさに、高層ビルを仰ぐかのような壮大な神殿が存在していたと言われている。」

出雲に伝わる、高さ96mもの神殿、それは出雲の力でヤマト王権を護る象徴だった。
その巨大な神殿には、この国が平和で争いのない国であってほしいという願いも込められていたのではないだろうか。
私達日本人が受け継ぐ和の心、お互いが支え合い、助け合うことの大切さを、出雲の国は教えてくれる。

時を経て奈良、平城京の時代、ヤマト王権はその支配体制を着実に固めてゆく。
桓武天皇は遷都を重ね、律令制度によって国を統治する。
さらに中国から日本にもたらされていた仏教を、国家安定の手段として機能させようとした。
その仏教の中でも当時最先端の教えであった密教までをも取り込み、国を護ろうとした。

さらに中国にはない日本独自の守護神を加える。
それが伊勢神宮、そして出雲大社だった。
神々から始まる歴史、そこには人間同士の絆や希望が・・・
私達日本人の心に刻まれているのだ。
日本の神話、それは私達の心の支えとして未来へと歩む勇気を与えてくれる。

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