ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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古代文明 たけしの新世界七不思議 大百科 第2巻

Entry No.1  消された美女ネフェルティティの胸像

第1の扉 なぜネフェルティティは歴史から消されたのか

ドイツの首都ベルリン、激動の20世紀を象徴する都。

哀愁漂う街にはかつての変革の跡が残されている。

ベルリンの壁崩壊から25年、歴史と文化の重みが人々を魅了する。

市内には美術館や博物館が20以上も集中しており、全てを総称してベルリン美術館と呼ぶ。

旧博物館、ローマのパンテオンのような円形大広間、この博物館には古代ギリシャの美術品が多数展示されている。

ペルガモン博物館、エーゲ海に臨む都ミレトスに築かれたローマ帝国の建造物、遺跡を分解しトルコから丸ごとドイツに運び込んだ。

紀元前6世紀の新バビロニア王国を象徴するイシュタール門、色鮮やかなレンガの装飾が見る者の心を捉える。

エジプトの美術品を集めたコーナーにはネフェルティティを発見に導いたものが展示されている。

紀元前14世紀の粘土板、楔形文字が刻まれている。

1887年エジプト中部の村アマルナで畑の中から数多くの粘土板が発見され、アマルナ文書と名付けられた。

そこにはいるはずのないファラオの名が記されていた。

その名はアクエンアテン王、エジプトの歴代のファラオの名が刻まれた王名表、アクエンアテンが入るべき位置に、なぜかその名前はない。

記録から抹消された幻のファラオがいるのではないか、フランスやドイツの考古学者たちがアマルナへ押し寄せた。

大規模な発掘で宮殿の遺構が発掘され、かつてこの地に都があったことが判明、アクエンアテン像も見つかり、幻のファラオは実在することが証明された。

そして1912年12月、誰もが息をのむ発見があった。

ドイツ人考古学者ルードヴィヒ・ボルハルト率いる調査隊が1つの遺物を発掘、それこそアクエンアテンの后ネフェルティティの胸像である。

一連の発見によって紀元前14世紀アクエンアテン王と妻ネフェルティティがエジプトを統治していたことが分かった。

しかし奇妙なことに2人の存在はエジプトの記録から抹消されていた。

消された歴史の謎3400年前に一体何があったのか?

それは宗教革命、古代エジプトの宗教は多神教、多くの神々が共存していた。

冥界の神アヌビス神、天空の神ホルス神など、その数は1000以上。

多神教の世界で権力を握っていたのは神を司る神官たちだった。

強力な青磁集団としてファラオを脅かす存在になりつつあった。

アクエンアテン王は神官たちとの権力争いに明け暮れていた。

そんな時ネフェルティティは悩める夫にある助言をした。

「神官たちの力の及ばないただ1つの神をお祀りください。」

后の言葉に従い、アクエンアテン王は多神教を廃止、人類史上初めて一神教を唱えた。

「エジプトを支配するのは太陽神アテンのみ

それ以外の神は認めぬ。」

唯一の神は太陽神アテン、人間や動物の姿をした神とは全く異なる円盤のような太陽を崇めた。

さらに都をテーベから現在のアマルナに移し、猛反発する神官たちを一掃した。

若い2人の夫婦は力を合わせて自分たちの理想郷を作ろうとした。

異端の王として恐れられたアクエンアテンにとって、ネフェルティティだけがよき理解者であり心の拠り所であった。

アクエンアテンはこんな愛の言葉を残している。

「美しきかな 王を喜ばせるその声 ネフェルティティ 永遠に 永久に」

しかし悲劇は訪れる。

アクエンアテン王が治世17年目に死去した。

一説には暗殺とも言われる。

アクエンアテンの息子ツタンカーメンが即位すると、勢力を失っていた神官たちは幼い少年王を操り、再び多神教に戻そうと画策した。

ツタンカーメンが即位して3年目、ネフェルティティは突然死んでしまった。

ネフェルティティの死によりアテン信仰は壊滅し、多神教が復活、再び権力を握った神官たちはアマルナの神殿や王宮を破壊し、ネフェルティティが生きていた痕跡をすべて消し去った。

こうして王妃の存在は幻と化してしまった。

古代エジプトの人物の名前にはそれぞれ意味が込められている。

例えばアクエンアテンとは「アテン神に愛される者」。

ネフェルティティという名前の意味とは?

「やってきた美女」という意味。

ネフェルティティは元々ミタンニ(現在のイラク・シリアあたり)出身であり15歳の時エジプトのファラオに嫁ぐためにはるばるやってきたと言われる。

第2の扉 なぜネフェルティティは二度消えたのか

アクエンアテンとネフェルティティが共に築いた都アマルナでは、全く新しい芸術が花開いていた。

アマルナ美術、異端の王は芸術においても革命を起こした。

その象徴がアクエンアテン像、おなかは極端に膨らみ、腰は細く、顔は異様に面長。

全体的に奇妙な印象を受ける。

これまでは、どんなファラオの像も画一的なデザインだった。

威厳を第一に描かれてきたからだ。

しかしアクエンアテンはそれを真っ向から否定、人それぞれの身体的な個性をデフォルメする手法で独特の美の基準を築き上げた。

こうした流れの中でネフェルティティの胸像も生まれた。

ただ不気味なアクエンアテン像とは一線を画している。

発見された古代エジプト王妃の胸像をCTスキャンしたところ、意外な事実が判明した。

調査を行った画像科学研究所のアレクサンダー・フッペルツ博士「分析の結果、トトメスがどのようにして胸像を作り上げたかが分かった。

CTスキャンで見た胸像の内部、トトメスは石灰石を掘り、ほぼ完成品のような美しい顔を作っていることが分かる。

非常に高い技術。

その後薄さ1mmほどの漆喰を塗って形を微調整し色を塗って仕上げた。」

トトメスの仕事ぶりからネフェルティティへの深い愛が感じられると博士は言う。

「トトメスはあえて胸像を完璧な美にしなかった。

注意深く見ると顔にはしわがある。

このしわは元々の石灰石の像にはない。

口元のしわも、最初はなかった。

トトメスはきれいな完璧な顔を作った後、最後にあえてしわを付け加えたのだ。

また両耳は形が違い左右対称ではない。

トトメスはこの胸像を人間味溢れる像にしたかったのだろう。

ネフェルティティへの深い愛が魅力的な作品を生んだのだ。」

1912年ネフェルティティの胸像を発見した考古学者ボルハルト、その美しさに魅せられ、胸像を祖国ドイツに持ち帰るため執念を燃やす。

アマルナでの発掘品は、エジプト政府がその所有権を主張するのは目に見えていた。

そこでボルハルトはいっけいを講じる。

胸像をわざと泥まみれに汚したまま、他の発掘品に紛れ込ませた。

無事審査を通過したネフェルティティの胸像は秘密裏にドイツへと運ばれた。

ボルハルトの執念で3400年の眠りから目覚めたネフェルティティだが、またもや悲劇に見舞われる。

第二次世界大戦が勃発、ベルリンは大規模な空襲を受け町は火の海に包まれた。

多くの文化財や美術品が失われ、ネフェルティティの胸像も破壊されたかに思われた。

しかし不思議なことに被災した博物館の瓦礫からネフェルティティはその破片すら見つからなかった。

ネフェルティティを隠した男がいたからだ。

アドルフ・ヒトラー、独裁者は美しき胸像をこう呼んだ。

「匹敵するものがない 名作で真の宝物」

戦争によりネフェルティティが傷つけられることを恐れたヒトラーは、胸像を安全な場所に移すよう極秘命令を下していた。

ベルリンの南西400kmに位置する田舎町メルカーズ、岩塩の産地として知られる。

ヒトラーはメルカーズ岩塩抗の内部に数多くの美術品を運び込ませた。

エレベーターで地下500m、地底にはどんな世界が広がっているのか。

岩塩校には無数の坑道がアリの巣のように張り巡らされている。

構内の面積は大阪市とほぼ同じ。

車で走って10分、扉の向こうに驚きの光景が・・・

ヒトラーが保管させていた美術品が9000箱以上、ベルリン美術館の収蔵品の3分の1にあたる。

その中にネフェルティティの胸像も眠っていた。

1945年4月アメリカ軍は隠された美術品の情報を聞きつけメルカーズに侵攻、岩塩抗の内部をくまなく捜索し、美術品を押収した。

ネフェルティティの胸像もアメリカ軍によって発見され、無事地上へと運び出された。

数奇な運命の中で王妃は永遠の美しさを輝かせている。

世界1美しいと言われるネフェルティティの胸像、左目だけ、なぜか瞳がない。

失われたのではなく、最初から存在しなかったと言われている。

彫刻家のトトメスはなぜ片方だけ瞳を入れなかったのか?

胸像はトトメスの工房から見つかった。

未完のまま自分だけのものにしたかったのだ。

Entry No.2 インド チッタウルガル城砦

2013年インドで新たな世界遺産が登録された。

インド・ラジャスタンの丘陵城砦群、しかし日本人の多くはその存在さえ知らない。

ラジャスタンの丘陵城砦群の中でも最大のチッタウルガル城砦、7つの寺院や10の宮殿、ゆたかな水を湛えた無数の貯水池、そのすべてが東京ドーム42個分の巨大な岩山に設けられている。

8世紀から16世紀にかけて繁栄したヒンドゥー教の国メワール王国の城砦都市である。

チッタウルガル城砦はその強さと壮麗さにおいてインド国内に匹敵するものはなく、難攻不落の城を恐れられた。

しかし一体なぜこれほど優美で巨大な城塞都市が築かれ、滅びていったのか?

その謎はほとんど知られてはいない。

第1の扉 難攻不落の城砦はどのように誕生したのか。

アジアでも最大級の巨大な城、いったいなぜここまで巨大な城を築くことができたのか?

その謎を解くカギは城砦の中にあった。

これはヒンドゥー教ではなく、ジャイナ教の塔、なぜ異教の塔が建っているのか?

広大な砂漠地帯が広がりインドで最も面積が広いラジャスタン州、町には色鮮やか民族衣装に身を包んだ女性も多い。

デリーの南西500kmにあるウダイプル、町の中心に大きな湖があることから湖の町と呼ばれる。

早朝から沐浴する人々・・・

ラジャスタンの伝統料理、ひよこ豆とヨーグルトのカレーの味はまろやかで美味しい。

ウダイプルから北東へ車で走ること2時間、チッタウルガルの町。

町のはずれに屹立する巨大な城塞、周囲を高い壁に囲まれた城砦の規模は東西が800m、南北が2.5km、面積は東京ドーム42個分にあたる。

当時は城砦の内側にあった街を含むすべての建造物が高さ180mの巨大な岩山の上に築かれていた。

まさに城と町が一体となった天然の巨大要塞都市。

城砦の中へ・・・

まず見えてくるのが歴代の王が住んでいたという宮殿の跡ラーナ・クンバ宮殿、チッタウルガルで最も大きい宮殿、今では廃墟と化しているが、まるで往時の繁栄ぶりを物語っているようだ。

これほど巨大な城砦を築き、ここで暮らしていたのは一体何者だったのだろうか。

中世この地方には戦闘を得意とし、高い地位を持ったラージプートという一族が住んでいた。

ラジャスタンとは「ラージプートの土地」という言葉が語源になっている。

インドの最西端に位置するラジャスタン、ペルシア帝国やイスラム帝国など、強国からの侵攻の危機に常にさらされた結果、一族は強靭な武力を身につけていた。

7世紀イスラム勢力がラジャスタンに侵攻する中、あくまで抵抗をつらぬきチッタウルガルを都とするメワール王国を建国した(734年)王がいた。

ラージプート族の王パッパ・ラワルである。

イスラム帝国への抵抗の象徴ともいえる建造物が残っている。

チッタウルガルで最も目立つ塔ヴィジャヤ・スタンバ、別名「勝利の塔」。

15世紀メワール国王がイスラム軍との戦いに勝利した戦勝記念として建てたもので、9階建ての塔の高さは37m、建物内外にヒンドゥー教彫刻を施したものとしてはインドで最も高い建築物と言われている。

勝利の塔へ登ることができる。

狭い幅の内階段には、とても変わった工夫が施されている。

外側のらせん階段と中央のらせん階段を交互に登らないと上へあがれない仕組みになっている。

最上階の天井はドーム型。

チッタウルガル高い建築物であったため、当時は監視塔としても使われていた。

城砦内に建つもう1つの塔キルティ・スタンバ、別名「名誉の塔」。

壁面にはおびただしい数の像や、まるで中から顔をのぞかせているような彫刻、さらには衣服を身にまとっていない人物の像が中央に刻まれている。

この塔はヒンドゥー教ではなく、ジャイナ教の塔。

ジャイナ教は元々インドでの主流であったバラモン教に対抗する形で誕生した。

ジャイナ教には5つの厳しい戒律があり、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有と、虫を殺すことすら固く禁じられている。

また仏教と共に現在のヒンドゥー教へも大きな影響を与えたと言われている。

ジャイナ教にはいくつか宗派があるが、この塔を建てたのは裸行派、頭の上には空、足の下には地面、それ以外は何も所有しないという考え方の一派だった。

だからこの彫刻も一切衣服を身につけていない。

裸行派の僧は今でも衣服を身につけない。

髪の毛は、文明の刃物を使うと体に悪いので全部むしっている。

なぜヒンドゥー教の王国に異教の塔が建っているのか?

そこにこそ難攻不落の居城誕生の秘密があった。

元来この土地にはジャイナ教徒たちも住んでいた。

彼らは少数派であるがとても商売上手で裕福だった。

そんな裕福なジャイナ教徒の存在に目を付けたのが当時のメワール国王だった。

王はジャイナ教徒たちに寺院などの建造物を建てることを認め、代わりに彼らから税金を徴収した。

その結果ジャイナ教徒たちのお金を使い武器の調達や城壁の補強が可能となった。

インドでは1%にも満たないジャイナ教徒がなぜ裕福だったのか?

ジャイナ教徒が経済的に豊かな原因となった戒律とは?

ジャイナ教の最大の教えである不殺生は、虫を殺すことさえ禁じている。

そのためジャイナ教徒は畜産業や農業などができず、多くが貴金属業などの商業に従事していた。

バラモン教は特殊な宗教、エリート宗教でトップの階級の人だけがやっており、庶民はほったらかしだった。

そんなことはないだろうと、ジャイナ教ができ、仏教もできた。

それはいかんとバラモン教が心を入れ替えできたのがヒンドゥー教。

第2の扉 チッタウルガル城砦はなぜ悲劇の城を呼ばれるのか。

2013年新たにユネスコの世界遺産に登録されたチッタウルガル城砦、この城砦には無数の貯水池があるため、水の砦とも呼ばれる。

しかしここは巨大な岩山の上、一体大量の水はどこから来るのか?

チッタウルガルの貯水池は全部で84あり、水は全て雨水、ラジャスタンで最も降水量が多いこの地域には、モンスーンの時期に大量の雨が降る。

その雨水を溜め生活用水として使っていた。

当時のチッタウルガルはデリーのような大都市で、多い時には城砦内に35000人もの人が住んでいた。

巨大な岩山と高い壁、さらに水があるため都市機能まで備えていたチッタウルガル、まさに難攻不落の要塞都市だ。

一方この城砦は悲劇の城としてインドの人々に語り継がれている。

1303年メワール国王の首都チッタウルガルはイスラム勢力による包囲攻撃を受ける。

イスラム軍が攻めてきた目的、それはクレオパトラにも例えられた絶世の美女、王妃パドミニだったと言われている。

チッタウルガルを攻めたのは北インドを支配していたデリー・スルタン朝の王アラウディン、自らの第二のアレクサンドロス大王と称すほどの勇猛果敢な王。

そのアラウディンがインド中で評判の美女パドミニをわがものにしようとチッタウルガルに攻め込んできた。

ところがあまりに屈強な城砦を前に攻略は失敗、そこでアラウディンはパドミニの夫であるメワール国王にこう切り出した。

「パドミニを一目拝ませてくれ、そうすれば諦めて立ち去ろう。」

この申し出は聞き入れられ、パドミニはアラウディンに姿を見せることとなる。

この時パトミニがアラウディンに姿を見せた場所が今も残る貯水池の中に浮かぶ小さな宮殿、パドミニ宮殿と呼ばれる3階建ての白亜の宮殿。

その日パドミニはこの宮殿にやってきた。

伝説によるとアラウディンはメワール国王に呼ばれ、貯水池の水面に映るパドミニの姿を見せられたという。

すると「パドミニは私のものだ・・・」

アラウディンは諦めるどころか、パドミニを奪うため圧倒的な兵力で猛攻をしかけ、国王を含む城を男たちを皆戦死させてしまった。

パドミニをはじめ城に残された女性たちは、あまりにも悲しい決断をする。 

抵抗が無駄としるや、女性たちは正装し城の一角へと集まった。

そして自ら火を放ち、次々日の中へと自ら火の中へ身を投げ殉死していった。

こうしてチッタウルガル城砦は陥落、イスラム軍の手に渡った。

その後ラージプート族は2度チッタウルガルを取り返すも、1567年3度目のイスラム軍による攻撃の際、ついに当時のメワール国王ウダイシンはチッタウルガルを捨てることを決断、新たな場所へ移り住んだ。

その場所が湖の町ウダイプル、ウダイプルとは、ウダイの町という意味で新なメワール国王の首都となった。

チッタウルガルに残ったイスラム軍は数年で引き上げ、城砦はその後廃墟と化した。

今でもチッタウルガルの町を歩くと至る所で目に付く名前がある。

そう、パドミニ。

インド全国でパドミニは今も愛されている。

死をもって夫への忠誠を貫き、チッタウルガルのためにその尊い命を捧げたパドミニをみんな尊敬しているのだ。

メワール王国はその後20世紀半ばのインド共和国発足まで独立を守り通した。

メワールの王は指導力の高さから、マハラジャではなく、マハラーナ(武王)と呼ばれ、あるものを馬につけていた。

それは象の鼻、自らの力を誇示するため、力の象徴である象の鼻を戦闘の際に馬につけていたという。

Entry No.3 ローマ帝国のシンボル コロッセオ

第1の扉 人類史上最大級の建築を生んだ最先端技術とは?

2000年近くローマのシンボルとしてそびえ続けるコロッセオ、5万人もの収容人数を誇るスケールと現代のスタジアムに勝るとも劣らない仕掛けの数々。

中でも驚くべき仕掛けが水で満たされたアリーナに大型の船を浮かべ戦闘を交える模擬海戦だった。

果たしてそんなことは可能だったのか。

その水はどこから来たのか。

当時ローマの町に張り巡らされた水道網の総延長はおよそ350km、ローマ人の生活を支えた驚愕すべき水利技術とは?

第2の扉 なぜローマ帝国はコロッセオと共に栄え滅亡したのか。

スタンドに木霊した5万人の歓声、自らグラディエーター剣闘士としてアリーナに立った史上最強の皇帝、その熱狂が最高潮に達したときローマは崩壊の兆しを見せ始める。

殺戮ショーというエンターテイメントに酔いしれ、誰もが永遠だと信じた帝国の繁栄、しかしローマは永遠の帝国になりえなかった。

1000年の都とうたわれたローマを繫栄させ、滅亡へ追い込んだものとはいったい何だったのか?

イタリアの首都にしてヨーロッパを代表する国際都市ローマ、街中には今なお発掘中の遺跡や大帝国ローマの栄華を忍ばせる荘厳な大理石造りの建物が残る。

ローマ市内、NERONEという名のピザ屋、ネローネとはあの悪名高き皇帝ネロのこと。

「ネロ」という名のピッツァ、気性の荒い火のような皇帝をイメージして、辛いサラミソーセージ入り。

コロッセオという名前も、その場所にネロの巨象コロッサスが立っていたことから、コロッセオと呼ばれるようになった。

コロッセオを建設したのはネロの跡を引き継いだ皇帝ウェスパシアヌス、貧しい人々のパンの材料小麦を与え、同時にただで娯楽を提供する、ローマ皇帝の基本的な統治政策パンとサーカスを確立するためだった。

紀元80年、日本がまだ弥生時代と呼ばれていたころに誕生したコロッセオ、一体なぜこれほどの建築が2000年も前に可能だったのか。

コロッセオは周囲527mの楕円形、外壁の高さはおよそ50m、外観最大の特徴は3層からなるアーチの壁面。

コロッセオの外に並ぶ不思議な石は、アリーナに幌を張るためのロープを止める石、数百人の海兵がコロッセオの外壁をよじ登り、天井に巨大な幌を張ったという。

つまりコロッセオは、雨や強い日差しを避けることのできる全天候型スタジアムだったのだ。

絵の中に描かれたコロッセオ、水で満たされたアリーナに大型の船が何艘も浮かんでいる。

コロッセオでは敵味方に分かれた船が戦闘を交える海戦が行われていた。

2000年前、巨大なコロッセオに満々と水を湛えることがどうしてできたのか。

その答えはローマの町に張り巡らされた水道にあった。

豊富な水は数十キロも離れた水源から水道橋を通ってもたらされた。

ローマの人口が100万人に達したころ、合計11本の水道が建設され、1日当たり110万㎥を超える水が供給されていた。

その水道網のおかげで発達したのが公共浴場。

ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』で知られる漫画家に当時の公共浴場について聞く

「ローマが経済的に最も潤っていた時期はトラヤヌス(第13代ローマ皇帝)の時、全部で1000個の公共浴場があった。

しかし古代ローマが衰亡してなくなる寸前と時には3000個あったと言われている。

それぐらい古代ローマの人にとって公共浴場は大事なものだった。

画期的な浴場施設という形でお湯につかれたりとか、冷水浴ができたりというものを軌道にのせていたのはネロ。

ネロは審美眼が鋭く繊細で、ギリシャ文化に傾倒していた。

ギリシャ人に培われた肉体美、人間というものの調和性を彼は大事にしていたので、ジムを併設した風呂を造ったりとか、一大総合レジャー施設のようになり、図書館、学校、歓楽施設すべてがそこの中にあった。」

ローマ人の生活を支えた驚嘆すべき水利技術とは?

「紀元前312年に最初の水道、アッピア水道が完成。

それから全盛期に至るまでの226の最後の水道に至るまで11本の大きなメインの水道があってそのうちの2本は現役。

未だにローマの家庭に引かれている水はローマ水道を通っている。

もっと凄いのが彼の水道の技術、水道橋は重力を利用しないといけないので傾斜をもたせないといけない。

1kmにつき35cmぐらいの傾斜。

水がなければお風呂文化も活性化していかなかった。」

最近2世紀のローマの沈没船から発見された鉛製のポンプ、水を利用するあることに使われた。

魚を生きたまま輸送するための水槽用ポンプ、ローマ人は水を使って活魚の輸送までやっていたと考えられる。

ローマ人は食道楽だった。

大プリニウスの『博物誌』によれば紀元前1世紀にセルギウス・オラタがナポリ湾で牡蠣の養殖を行っていた。

イギリスまでローマ帝国が行ったのは牡蠣の漁場を探すためだった。

牡蠣の名産地を抑えながらノルマンディーなどに行った。

アッピキウス、裕福な貴族階級出身でローマ時代の美食家として知られる。

あらゆる食材に精通しており世界最古のレシピ集を残した。

フラミンゴの舌からラクダのコブなど、食べると長生きするとか、美味しいものを財産をつぎこんで集めた。

日本円にして32億円の財産が残っていながら酷い飢えで死ぬのを恐れて服毒自殺した人もいた。

第2の扉 コロッセオが消えた背景にはいったいなにがあったのか

古代ローマ最大の英雄カエサルは民衆の支持を得るためにパン(食料)とサーカス(娯楽)という人心掌握術を生み出した。

サーカス、つまりエンターテイメントの殿堂こそ人類史上最高傑作の円形闘技場コロッセオだった。

果てしない血を浴びながらローマ帝国になくてはならないシンボルとなる。

やがて史上最強のグラディエーター剣闘士がローマを熱狂の渦に巻きこんだ。

しかしローマ市民にとって不幸だったのは、その男がローマ帝国を統治する皇帝だったこと。

ローマ帝国最強にして最悪、暴虐帝とまで呼ばれる第17代ローマ皇帝コンモドゥスの時代、大帝国ローマは栄華の頂点を極め転落への道を歩み始める。

ローマのほぼど真ん中に位置するコロッセオ、一体なぜローマの中心に建っているのか。

紀元54年16歳で第5代ローマ皇帝として即位したネロとはどんな人物だったのか。

ヤマザキマリ「政治家だったり皇帝という役割、技能というよりは彼の頭の中には自分は芸術家であるという認識のほうが強かったのかもしれない。

主に音楽が好きだった。

また喜劇や悲劇を見るだけでなく自分でも演じ、みんなに見せていた。

第9代ウェスパシアヌス、後にコロシアムを建てた良い皇帝とされている人は無理やり呼び出され、聞かされて眠ってしまってつまみ出されたエピソードがある。

彼だけでなくいろんな人が、閉じてる瞼に目をかくような気持ち、怖く、そこにいたと思う。」

自らエンターテイナーとなり、あらゆる欲望を思いのままに叶えようとしたネロは、雑然とローマの街並みを大改造し、その中心に黄金宮殿を建設しようともくろんでいた。

紀元64年ローマ大火が発生、市内は火の海となった。

黄金宮殿を建てたくて史上最大の大火事を起こしたのはネロではないかと言われている。

人々はネロがローマの町に放火したと噂した。

腹をたてたネロは犯人をでっち上げた。

犠牲になったのは信者が増え続けていたキリスト教徒たちだった。

ネロはキリスト教徒たちに放火の罪をきせ、1日に何百人もの命を奪った。

ある者は野獣の毛皮を着せ、猛獣の餌食にし、ある者は十字架に磔にし、処刑そのものを見せ物にした。

ここにローマ帝国によるキリスト教徒迫害の歴史が始まる。

贅の限りをつくした黄金宮殿で、国政も顧みず自らの歌を披露するために舞台に立ち続けるネロ。

正そうとする部下や近親者を殺害、ついに反乱軍が全国で立ち上がった。

最後にローマ脱出を試みたネロだったが、彼に従う者はわずか4人の奴隷だけ。

追い詰められたネロは命を絶つ寸前、こう叫んだという。

「この世から卓越した芸術家が消えていくのだ。」

史上最悪の暴君は消えたが、ローマ市民の政治への信頼は地に落ちた。

そんな中皇帝として立ったのがネロに劇場からつまみ出された将軍ウェスパシアヌスだった。

彼は離れた人心を取り戻すため、黄金宮殿の跡地に巨大なコロッセオを築いた。

壮大なエンターテイメントの殿堂コロッセオによってローマは再び活気を取り戻した。

しかしローマ市民以外の虐げられ、貧しさにあえぐ人々はキリスト教に救いを求めた。

支配する側とされる側、物質的な豊かさを求める者、精神の安らぎを求める者、その対立が深まる時、ローマ帝国は崩壊の兆しを見せ始める。

やがてコロッセオにローマ帝国市場最強の剣闘士が登場する。

自らをギリシャ神話の英雄ヘラクレスに例え猛獣の毛皮を身にまとい、棍棒を手にするコンモドゥス、第17代ローマ皇帝である。

歴代皇帝の中でもコロッセオで検討しとして戦ったのはコンモドゥスただ1人であった。

たった1人で百頭のクマを殺し、ある時は皇帝の観覧席から直接アリーナに降りてゆき、自分に向かってくる猛獣を残らず切り倒した。

大帝国ローマはこれを境に転落の道を歩み始める。

それからおよそ100年後、コロッセオにピリオドをうつ男が登場する。

ローマ市の支配権をめぐる戦いで苦戦を強いられていたコンスタンティヌスは、ある日太陽が西に傾きかけたころ、天空に輝く十字架を見た。

そして空から不思議な声を聞く。

「汝 これにて勝て」

一体これは何を意味するのか。

その夜コンスタンティヌスの夢にキリストが現れた。

「軍旗に十字架をつけよ」

キリストの言葉に従い、軍旗に十字架をつけたコンスタンティヌスは戦いに勝利、内乱を鎮めた。

そして312年ローマ帝国の皇帝として初めて、今まで迫害の対象だったキリスト教を公認したのである。

さらにローマ的なるものを次々と葬り去り、コロッセオでの野蛮な行為を禁止、200年以上続いてきたコロッセオの火を消した。

コロッセオがある限りローマは続く

コロッセオが滅びるとき ローマも滅びる

コロッセオを造ったウェスパシアヌスは、ローマ帝国のために身を粉にして働き、安定した政府と健全な財政を築き上げた。

そして69歳の時、ついに崩れ落ちるようにして倒れ、そのまま息を引き取る。

その時ウェスパシアヌスが残した最後の言葉とは・・・

「皇帝は立って死ぬべきだ」

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人体から学ぶ地球の歴史
およそ45億年の時を経た現在の地球、その過去は謎に満ちている。
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私たちはその答えを探し続けてきた。
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●HOW THE EARTH●Taught Us To Throw なぜ人は投げることができるのか
アメリカンフットボールは19世紀の終わりごろから発達し、今では多くのアメリカ人が休日のキャッチボールを楽しんでいる。
親子のキャッチボールという日常の風景から、何百万人ものファンが見守る中狙った場所に正確に投げる能力が勝負を分ける試合まで、環境は違えどこの投げるという技術は人間だけが持っている。
人類学者のベンジャミン・キャンベル博士によると、この能力は私たちの体と先史時代をつなぐカギだという。
「クゥオーターバックが遠くにボールを投げるのと似たような動作は昔からあった。
少なくとも40万年前にはすでに存在していただろう?」
もし博士が正しければ、正確に投げる能力が人間の体に備わった原因は遠い過去に存在していることになる。
アメフト会のスター「試合でボールを投げるときに気を付けることは、タイミングや正確さ。
数cmでも目標からずれたところに投げてしまったらディフェンダーにカットインされてタッチダウンに持ち込まれてしまう。」
正確に投げるためには骨と関節の角度、投げるときの力加減、ボールを離すタイミングのすべてがそろわなければならない。
1つでもかければミスにつながる。
しかし人間であればある程度正確に投げることができる。
キャンベル博士「アメフトのボールを投げる動作と槍を投げる動作は似ている。
少なくとも40万年前には人間は槍を投げていた。」
地球がある転換点を迎えた時、人はこの投げるという動作を身に着けた。
260万年前、地球は今にも変化しようとしていた。
大陸が北半球に向かって移動を開始し、それに伴って海流が変わり始めると、一気に地球の気候が変動した。
それ以降地球は何百万年の長きにわたる氷河期に突入する。
氷河期を生きることがどれほど困難なことなのか、現代に生きる私たちには想像すらできない。
だがアフリカ大陸に住んでいた私たち祖先の敵は、氷ではなく、乾燥やそれに伴う森林火災だった。
当時地球上の水の大部分は氷床に閉じ込められていた。
砂漠は広がり、湖は干上がり、森林は焼け、そして食料は突如として消えた。
私たちの祖先は狩りの腕を上げなければならなかった。
鋭い顎や爪を持つ動物たちは直接獲物を仕留めることができるが、人間は遠くから倒さなければならない。
5〜6m離れた場所から獲物に向かって槍を投げ仕留める、こうしたやり方が効果的なのは一目瞭然、命を守るために。
私たちは当たり前のように的に物をあてているが、この能力は人類固有のもの。
260万年前、氷河期は人間を進化させた。
正確に投げるための運動能力が体と脳を発達させたのだ。
私たちの体には地球の歴史の謎を解き明かす手掛かりが他にもある。
●HOW THE EARTH●Gave Us Hiccups なぜ人はしゃっくりをするのか
しゃっくりはこの世に生まれる前から人間に備わっている。
胎児の時子宮で呼吸を練習していたのかもしれない。
しゃっくりが起きると突然筋肉が収縮し一気に空気を吸い込む。
「ひっく」という音は空気の通り道の蓋が閉じることで鳴る。
バルブの役割を果たしている喉頭蓋と呼ばれる喉の弁が閉じ、それによって呼吸が止まることで、しゃっくりの音が出る。
ではしゃっくりのルーツはどこにあるのか。
そのカギは古代魚が握っている。
オタマジャクシにも同じことが言えるのだが、彼らの特徴は、あるときはエラ呼吸をし、ある時は肺呼吸をする点。
水中で呼吸するときは弁を閉じて水が肺に入らないようにしている。
しゃっくりは人間と異なる種をつなぐ接点であり、ある特異な時代へとつながる接点でもあった。
ある特異な時代、それは私たちが水中と陸上で呼吸をしていたころ、魚だった時代。
4億年前の地球は、現在の地球からは想像もできない姿をしていた。
その頃地球には2つの大きな大陸があった。
北には現在の北米とヨーロッパの一部、グリーンランドからなる塊、南にはそれ以外の部分からなる塊があった。
その2つの大陸以外は全て水に覆われていた。
何十億年もの間、全ての生命は水に宿り、陸は実に殺風景だった。
4億年前の地球は荒れ果て、一面砂や泥で覆われていた不毛の地だった。
だが再び地球は姿を変える。
突然植物が生え、地球は緑であふれた。
そして蜘蛛、サソリ、ヤスデなどが陸の上に住み始めた。
植物や昆虫などに続き、いよいよ我々の祖先・魚が陸に上がる時がきた。
しかしそのためには水陸両方で呼吸しなければならない。
しゃっくりは古代の水の世界から陸の世界へと移行したときの名残なのだ。
私たちの体にはこの時代へとつながる手がかりがもう1つある。
腕、手首、肩の骨と筋肉を使い、体の重みを抵抗として、レバーのように自分の体を持ち上げる・・腕立て伏せ。
この動きから地球の歴史にまつわるどのような謎が明らかになるのだろうか。
古生物学者のテッド・デシュラー博士によると、その答えはエルズミア島にあるという。
カナダの北限にある凍てつく荒れ果てた島だ。
博士は凍ったまま時が止まったこの島で進化に関わるきわめて貴重なものの発見に成功した。
キクターリクと呼ばれる古代魚である。
この魚には未発達な腕がついていた。
肩や肘、手首もあった。
人間の直接的な祖先と密接な関係があるはず。
人間を含め現存するすべての動物には、キクターリクと同じような原始的な骨の構造がなにかしらの形で残っている。
コウモリの羽と人間の腕の構造は全く同じ、コウモリはその構造を飛ぶために使っているが、人間はそれとは違う用途で使っている。
腕立て伏せで使っている骨は基本的にはキクターリクの骨と同じ。
3億7000年前のエルズミア島は今の姿とはだいぶ違う。
赤道からさほど離れていない場所にあって、現在の北米やグリーンランド、ヨーロッパからなる大陸の一部だった。
小川や氾濫圏もあった。
当時小川に生息していたキクターリクには人間でいう腕立て伏せの能力があった。
つまり水から陸へと上がることができた。
水中の生活から陸上の生活へ。
この地球の転換期に私たちの授けれた能力こそがシャックリ、そして腕立て伏せ。

私たちの身体に残る古代の水の世界へとつながる手がかりはこれだけではない。
子宮内で手を形成する遺伝子と魚のヒレを形成する遺伝子は、ほぼ一致している。
バランス機能をつかさどる内耳リンパ液は、マスが水流を進むための脳に相当する。
また膝関節が痛むのは、古代魚の手足を二足歩行に適用させたときの歪。
水から陸への移動によって、私たちの運命は変わった。
だが地球最後の変化はまだ先の話である。
地球を回る軌道に乗って、5億年分の変化を上から見ることができたら、大陸が常に動いていることが分かる。
氷床が現れては消える、地球は常に変化している。
ある地点から地球の歴史を早送りで見てみると劇的な変化が見て取れる。
巨大な氷の塊が地球を覆い、山が形成され、空に向かって隆起し、火山が噴火し、噴出した火山灰が空一面を黒く覆う。
あっという間の出来事。
手がかりは私たちの中にある。
皮膚に浮き出る鳥肌、不快感による感情の急変、デジャブという不思議な感覚、ゲームで遊ぶ時の興奮、こうした手がかりと地球の歴史をたどっていた先には、いかに地球が人間を作り上げたか、その壮大な物語がまっている。

もっとも深い渓谷から高くそびえる山脈に至るまで、1つ明確な事実がある。
地球は劇的な変化を遂げてきたということだ。
この地球の劇的な変化への手がかりは、私たち人間の中にある。
例えば史上最大規模の大量絶滅の謎を解き明かすヒントが人間の耳に隠されていた。
●HOW THE EARTH●Sharpened Our Hearing なぜ人の聴覚は発達したのか
運転中のあなたはラジオから流れるお気に入りの曲を聴いている。
あなたの耳には低周波のリズム音だけでなく高周波の歌声も届いている。
幅広い音域を聞き分けられるのは、耳の中の3つの小さな骨のおかげ。
人間の骨の中で一番小さく18mmに満たない。

この3つの骨は鼓膜から伝わった音を増幅させながら、さらに耳の奥へと伝えてゆく。
私たちのするどい聴覚はこのおかげなのだ。
この3つの骨が私たちをある時代へとつないでいる。
奇妙な生物が地上を闊歩していた時代だ。
2億6,000万年前、人間はおろか恐竜さえ生まれていない遠い昔、超大陸パンげアを支配していたのは古代の爬虫類たちだった。
その1つがギメトロドン、剃刀のように尖った歯、背中に生えた長い帆、一見恐竜のようだが、実はティラノサウルスより人間の方が共通点は多い。

テキサス州北部の人里離れた牧場で古生物学者ロバート・バッカー博士とその助手たちはギメトロドンの骨の一部を発見した。
その骨はウィリーと名付けられる。
もともと耳の小骨はギメトロドンに代表するバンリュウ類の顎の骨の一部だった。
その後哺乳類へと進化する過程で今のような形に変化していった。
ここで発見されたのはウィリーだけではなかった。
地球上の生命の中で最大級の試練となったある事件、大量絶滅の証拠がでてきたのだ。
後に大絶滅と呼ばれるようになったこの悲惨な大量絶滅が起きたのはギメトロドンの時代が終わった直後だった。
2億5000万年前、陸上の生物の70%、水中の生物の95%が突然この世から消えた。
超大陸パンげアで火山が大爆発し、噴出した毒ガスによって窒息死した、というのが大量絶滅の有力な説。
辛くも生き延びたギメトロドンの仲間がやがて哺乳類へと進化する。
ギメトロドンの体や骨は、私たち人間へと確実に引き継がれている。
大絶滅を生き延びた爬虫類から私たちが引き継いだものはほかにもある。
体温を一定に保つ能力、様々な形の歯、呼吸と同時に咀嚼できる能力もその1つ。
だが大絶滅が最後の大量絶滅ではなかった。
地球規模の大量絶滅は少なくとも5回、平均して1億年に1どの割合で起きている。
一番近い大量絶滅は直接私たちへとつながっている。
その手掛かりは人間の皮膚の下に隠されていた。
●HOW THE EARTH●Gave Us Goosebumps なぜ人は鳥肌が立つのか
そのルーツは人間の体が毛でおおわれていた時代に遡る。
興奮したり恐ろしいと感じたりすると毛が逆立つ。
私たちが寒さや恐怖を感じると、立毛筋と呼ばれる小さな筋肉が収縮し、皮膚の毛を押し上げる。
かつては毛の中に熱を閉じ込め敵に自らを大きく見せるためのものだった。
今や私たちの祖先にあった体毛はなくなり、現象だけが残っている。

6500万年前、地球を1億年以上にわたって支配していたが恐竜、巣穴の中で生きていた私たちの祖先である小さな哺乳類は、恐竜に食い殺されないよう感知能力を駆使して生き延びていた。
再び世界は変化する。
比較的大きな小惑星が地球に衝突し、それによって生じた地球の変化が恐竜を絶滅に追い込んだと考えられる。
小惑星の衝突によって大量の熱が生じ、燃え盛る炎が地球の大部分を覆いつくした。
まさに灼熱地獄・・・
恐竜はそのほかの種と共に一瞬のうちにこの世から姿を消した。
だが私たちの小さな祖先は危うく難を逃れることができた。
進化の過程でたまたま小さな体をしていたおかげで、地面の下に隠れ、この危機を乗り越えることができた。
最後の大量絶滅を乗り越え、体毛、鳥肌といった哺乳類の特徴は人間へと引き継がれた。
●HOW THE EARTH●Jolted Us Awake なぜジャーキングは起きるのか
あなたは眠りに落ちてゆく。
瞼が重くなり、体温は下がり、今にも意識を失おうとしている。
すると突然身体が痙攣し、あなたは眠りから引き起こされる。
人が眠りに入ると筋肉は弛緩し始める。
能はこの状況を落下していると判断し、体制を立て直そうとして筋肉が痙攣する。
なぜ落下の感覚によって起こされるのだろうか。
数百年前、私たちは他の霊長類と同じように木の上で寝ていた。
落下の感覚はそこから来ているのだろう。
1500万年前、哺乳類は数えきれないほどの種に分かれ、その1つが霊長類へと進化した。
膨大な熱帯雨林がアフリカを覆い、人間の祖先である霊長類の寝床はその熱帯雨林の木の上にあった。
睡眠時の痙攣によって、木からの落下を防いでいたが、危険なのは落下だけではなかった。
真夜中に木から落ちるとその音で自分たちの存在が肉食動物に気づかれる。
食物連鎖の中で霊長類は食べられる側にいた、という事実が考古学的な物証によって明らかになっている。
私たちは狩りをする側にはいなかった。獲物として狙われる側にいたのだ。

●HOW THE EARTH●Relaxed Our Minds なぜ人はリラックスするのか
私たちは開放的な景観を好む。
心を落ち着かせる効果があるからだ。
筋肉を緩め、呼吸を穏やかにする化学物質が能から放出される。
なぜそうなるのか。
アフリカの風景が現代の私たちの心に焼き付いている可能性があるという。
実験、被験者に4枚の風景画を見てもらい、一番リラックスする絵を選んでもらう。
4枚の絵のモチーフは、一面に広がる砂漠、うっそうとしたジャングル、花咲なだらかな丘、そして雪に覆われた山。
同様の実験は世界中の様々なバックグラウンドを持つ人々に対し行われている。
何度やっても選ばれるのは開放的な景色だった。
ジャングルや島に住む人々もである。

「ここなら、寝そべっても大丈夫な気がする。安心感がある。」
「見通しがきくのがいいね。」
なだらかな風景が一番落ち着くというのは、当たり前というのかもしれない。
だが進化論的な説明づけは可能だ。
この光景が私たち祖先を敵から守っていたとしたらどうだろう。
見通しの良い場所であれば肉食動物が近づいてきても事前に逃げることができる。
安心感が生れるのは開放的な風景が生化学反応の引き金となるからだ。
脳内の神経伝達化学物質によって人は安心と感じる。
危険の回避は生物化学的な本能、危険を避けることで人は安心する。
その能力が私たちに備わっているのだ。
一方ある絵は正反対の反応を引き起こした。
丘と比べてジャングルに住みたくないと思ったのは、どうしてなのだろう?
「明らかに危険な感じがする。」
「安心感が全く伝わってこない。」
ジャングルの絵が不安になるのは敵が近くの木の上や茂みに隠れていても分からないから。
少なくとも敵の存在には気づける場所を人は好む。

400万年前、私たちの祖先である霊長類は、うっそうとした森と開けたサバンナの境界線で暮らしていた。
狩りをしたり食料を調達するときには森へ入り、一方大草原やサバンナで肉食動物を見つけたら姿を隠し身を守るといった生活をしていた。
開放的な光景を見て私たちがリラックスするのは、かつて祖先が眺めていた光景を無意識のうちに思い出しているのかもしれない。
眠りからおこされるのも、開放的な眺めを楽しむのも、全ては私たちが食うか食われるかの時代を生き抜いてきた名残なのだ。
肉食動物に対する恐れの痕跡はほかにもある。
私たちが忌み嫌うヘビと蜘蛛、アフリカの森に生息する彼らはかつて大きな脅威であった。
進化によって優れた色彩感覚や三次元の視角を手に入れたのは、近くで息をひそめる敵を見つけるため。
また恐怖を感じたときに汗をかくのは、敵に捕まらないよう皮膚を滑りやすくしていたためとも考えられる。
●HOW THE EARTH●Made Us Cringe なぜ人は身がすくむのか
身の毛がよだつ音、黒板に爪を立てる音に人は反応してしまう。
なぜなのか。
リーン・ハルパン博士はこの全世界共通の反応にまつわる秘密の解明に乗り出した。
人がどんな音に最も拒絶反応を示すか、実験で検証する。
心地よい音からぞっとするような音まで様々な音源が用意された。
耳心地の良い音として鍵が鳴る音、他にも自転車の車輪が回転する音を録音、深いな音として金属製ケースを引きずった音、発泡スチロール同士をこすり合わせた音を用意した。
学生たちはそれぞれの音を10段階で評価する。
だがある音が他より不快だという結果を博士は予言した。
「板の上でガーデニング道具を引きずる音が最も不快なはず。」
板の上でゆっくりと金属を引きずってみる。

黒板に爪を立てる音の変わり。
この音を聞かせた時、色んな行動や表情が見て取れた。
背筋を伸ばしたり、目をつむったり、心理的な反応ではなく、全て肉体的な反応。
この音と地球の歴史にどのような接点があるのだろうか?
この音に対して全世界共通の反応が見られるのは、進化の過程で退化した私たちの祖先が持っていたある能力の名残と考えられる。
黒板に爪を立てる音と近いのは一体なんであったのか?
黒板に爪を立てる音と一部の霊長類の発する鳴き声が似ていると仮説をたて、まず森でマカク猿の鳴き声を録音し分析した。
結果は黒板と爪の周波数成分と雌のマカク猿が我が子に危険を知らせるときに発する鳴き声の成分が非常に似ていることが分かった。
周波数を分析したところ、不快と感じる原因が高周波ではないことが明らかになった。
人を不快にさせる周波数成分は低い周波数帯にあることがわかった。
この不快な音が私たちを地球のある転換期へとつなぐ。
400万年前のアフリカの奥地、私たちの祖先は森とサバンナの境界で暮らしていた。
日中は二足歩行でサバンナを歩く、そして夜が訪れると木の上に引きこもる生活だった。
現在とは違って日が暮れてしまうと辺りは完全な暗闇に包まれる。
曇った月明かりのない夜は漆黒の闇、そんな暗闇の中では音で危険を察知していた。
何百万年もの間、暗闇の中で肉食動物に付け回される生活、そんな中危険を知らせる手段が耳をつんざく鳴き声だったとしてもおかしくない。
人間が狩る側となった現代とは違い、当時の社会を牛耳っていたのは肉食動物。
彼らを殺せないならば避けるしかない。
視覚的手段と違い、音による警告は暗闇の中でも効果的だった。
直観的に素早く音に反応することが種の生存にとって重要だった。

●HOW THE EARTH●Made Us See Faces なぜ人は顔を認識するのか
空に浮かぶ雲を見て、人の顔に見えたことはないだろうか。
雲の中に顎、鼻、頭の輪郭がふと浮かび上がる。
他にも、シンプルな形のコンセント、前から見た車などを人の顔に変換できる。
不規則なパターンに人の顔を見出すことをパレイドリアといい、私たちの心を密接な関係がある。
黒板に爪を立てる音と同様、パレイドリアは、食うか食われるかの時代の名残なのだ。
この能力によって近づいてくる肉食動物の目を瞬時に捉えることができる。
これは生き延びるために欠かせない能力。
私たちの脳がどれほど早く顔に反応するかを測定するため、被験者を最新式のスキャナにかけた。
被験者には複数の写真を見せる。

人の顔に見えるオブジェクトのの写真を混ぜておく。
人の顔に見えるオブジェクトが顔認識に欠かせない脳の一部を刺激することがわかった。
人の顔と同じ反応。
能が人間がそこにいると判断したのだ。
わずか0.17秒、瞬きの2倍のスピードで、私たちが全く気付かぬうちに、脳は人の顔に見えるオブジェクトを人の顔として認識した。

非常に早い信号、つまり見ようとしなくても見える。
パッと目の前に顔が浮かび上がる感じで。
自分の仲間か見分けるために顔を認識していることはほぼ間違いない。
子供が母親の顔を見分けるように。

だがこの電光石火の反応は人の生死を決める戦略としての機能であることもこの実験結果は示している。
実際には存在しない顔がどうして見えるのか、古代の暗く混とんとした世界においては、用心するに越したことはないということだったのかもしれない。
攻撃を仕掛けてくる敵はいないか、私たちは常に周囲の状況に目を配る必要があった。
恐怖を感じる脳の中枢部が常に警告を発し、危険を見逃さないよう、入ってくる情報を監視している。
顔がなくても顔を認識できるほうが、顔があるのに認識できないよりいい、生き残った者は前者のタイプ。
この能力は現代にも引き継がれている。
2004年グリルチーズサンドウィッチに聖母マリアの顔が見えると話題になり、26000ドルで落札された。

1956年、カナダの紙幣に描かれたエリザベス女王の髪の毛の一部が悪魔に見えるとして、その図柄が変更された。
人間のこうした行動のルーツは、食うか食われるかの世界にあった。

だが逃げる時代は終わりを告げる。
今私たちが走ったり攻撃的な衝動にかられたりするのは、地球が人間を追われる側から追う側へと変化させていった時代と、私たちがつながっているからだ。
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人体から学ぶ地球の歴史 後編

21世紀を迎え、70億人もの人たちが世界の隅々にいきわたり、今人間は食物連鎖の頂点に君臨している。
だがここに至る道のりは長かった。
現在人が動物に食べられることはまずない。
しかしここに至るまで、虎やライオンはもちろん、人間を獲物とする動物たちに食べられるという脅威に常にさらされてきた。
パワーバランスはいつ変わったのだろうか。
どのように追われる側から追う側へと変化していったのだろう。
その手掛かりはやはり私たちの肉体に隠されていた。

●HOW THE EARTH●Made Us Run なぜ人は走るのか
人は走る動物だ。
サッカー場やジムのランニングマシーン、人間の体は走るのに適した構造へと変化した。
大きな膝関節、優れた体温調整、人間の体がいかに長距離を走るのに適しているのか、気づいていない人もいるだろう。
Diane Van Derenは、世界有数のスーパーランナーだ。
「プロとして耐久レースに出場している。
専門は160km長ですね。何十時間も走るようなレース。」
42.195kmはウォーミングアップに過ぎない。

アキレスけんと人体が体を前に押し出すバネの役割を果たす。
他の霊長類にはこのように走るのに適した構造が備わっていない。
走ることに関していえば、こんなに持久力のある種は、人間をおいて他にはいない。
かつてこの持久力が人間の武器となった時代があった。
動物は人間の持つ持久力に勝てない。
人間に走り負けた動物の中には倒れてそのまま死に、人間の食料になることもあった。
長く走ることは、もともとは狩りの戦略だったと考えられる。
では、その戦略をどこで身に着けたのか。
260万年前、気候の変化に伴い、アフリカのうっそうとしたジャングルはサバンナへと姿を変えた。
新たな環境では新たな戦略が必要となる。
ダイアンのように長い距離を誰もが走れるわけではないが、昨今の高まるマラソン熱を考えると、走るという行動には先史時代のサバンナにつながる別の理由がまだあるに違いない。
マラソンの人気が高いのは疲れるから。
でもなぜわざわざ疲れたがるのか、それはその疲労感がハンターだった時代の記憶を呼び覚ますものだから。
ハンターとしての名残は別の形でも残っている。
動物の生態を見てみると、生きるためにしなければならないことは、何かしら楽しいと感じているもの。
狩りに相当する現代の活動には、そうした楽しさが残っていて、例えば球を投げたり売ったり、シューティングゲームなどもそう。
●HOW THE EARTH●Made Us Violent なぜ人は凶暴になるのか
どんなに愛想がよい人にも怒りの衝動はある。
怒りがこうじて暴力の衝動へと駆られてしまう沸点が私たち1人1人の中に存在している。
人は皆心の奥深くに闇を抱えているのだ。
人が持つ闇とは?
チンパンジーは2つの種に分かれている。
チンパンジーとボノボ。

ボノボにはあるユニークな特徴がある。
ヒヒ、チンパンジー、ゴリラ、人・・・霊長類は皆自らが生き残るためなら資源の争奪に加わることを辞さない。
だがボノボだけは違う。
人間とチンパンジーには闇があるという点で似通っている。
ボノボにはそれがない。彼らは殺さない。
なぜボノボだけが暴力と無縁なのか?
実験、1匹のボノボには手が届く範囲に食料を置く。
ドアを隔てた向こう側には、もう1匹別のボノボがいる。
ボノボがとるべき選択肢は2つ、独り占めか、分け合うか。
ボノボは扉を開けて仲間を招き入れ、一緒に食べた。
生死を分ける場面で人は分け合うか戦うか選択する。
だがボノボは平和を選び、仲間に食べ物を分け与えた。
いかにも無力で凶暴性の欠片も見えない。
なぜ人間にはボノボと違い闇があるのだろうか。
コンゴ川はアマゾンに次いで2番目に流量が多い川、クエスチョンマークのような形。
全長4700km、幅最大12kmに及ぶコンゴ川は100万年以上前に誕生した。

100万年前、コンゴ川の北側にはチンパンジーと人間の祖先が、南側にはボノボが暮らしていた。
ボノボは泳ぎが苦手だったので、巨大な川を渡れなかった。
その結果ボノボとチンパンジーは、川を隔てた別々の森で進化を遂げていった。
氷河期によってアフリカの資源は枯渇してゆくが、隔離されていたボノボには食料を争う敵はなく、仲間内で分け合うことで生き延びることができた。
一方コンゴ川の北側では霊長類たちは生き残るための戦いを余儀なくされていた。
人間の奥深くに潜む、攻撃、暴力への衝動は、かつて暮らしていた環境に原因があったのかもしれない。
様々な面で、私たちは先史時代のアフリカ大陸に深く根付いている。
古代アフリカの地理的な影響は別の形でも現れている。
私たちの平らな爪は、かつてうっそうとしたジャングルの木に登れるよう鋭いカギ爪だった。
また二足歩行が始まったのは、アフリカの森林が乾燥したことで、木から木へ歩いて移動せざるを得なかったためだ。
だがこの先にさらに大きな変化が待っていた。
人間が人間たらしめる由縁のある体の一部が進化の最終段階で大きな変化を遂げたのだ。
そう、脳である。
その手掛かりの1つが私たち人間に残された不思議な現象、デジャブに隠されている。

足の骨から顔の筋肉に至るまで、私たちの体は人間が進化を遂げてきた地球への手掛かりを握っている。
だが私たちの心は、さらに不思議な秘密を解き明かすカギを握っていた。
古代世界の選択、淘汰の力は私たちの骨や筋肉といった肉体だけではなく心も変えた。
脳の様々な部位が進化を遂げた瞬間があったのだ。
脳のひだやしわには、変貌を遂げてきた地球の歴史が刻み込まれている。
その驚くべき例は、私たちが進化の歪を感じる原因に隠されていた。
●HOW THE EARTH●Gave Us Deja Vu なぜ人はデジャブを体験するのか

あなたは友人とコーヒーを飲みながらたわいもないおしゃべりをしている。

突然あなたはなんとも不思議な感覚に支配される。

この光景はどこかで見たことがあると・・・

そうではないとわかっていても過去の出来事を細かい部分まで追体験しているような錯覚を覚える。

誰でも一度は経験したことがあるだろう、デジャブ・・・

ローレンシア大学神経解剖学者マイケル・パーシンガー博士によると、デジャブは脳の2つの重要な領域で起きる軽い発作が原因だという。

「耳の上にある右と左の側頭葉、記憶と意味をつかさどる領域。」

雷が落ちるように軽い発作が記憶をつかさどる側頭葉に作用するという。

「人間の脳は特に夢を見ている時に軽い発作を起こすことが分かっている。

睡眠中の脳を調べてみると電気的な活動が見られる。

デジャブも同じ。」

博士によると、研究室でデジャブの感覚を再現することができるという。

右の側頭葉を刺激すると、脳に変化が起きる。

この時デジャブと同じ感覚が得られる。

デジャブのルーツは古代にあり、地球の物語のある重要な時期と不思議な接点を持っていた。

200万年前、私たちの祖先は氷河期の中もがき苦しんでいた。

地球の気候は急激に変化し、突然の干ばつや山火事に見舞われた。

不安点な気候を生き抜くため、人間には新たな生きる術が必要だった。

そして人間の脳は急激な進化を遂げ、3倍の大きさにまで成長したのである。

もっとも急速に発達した脳の部位を新皮質という。

側頭葉も新皮質の一部。

メーカーが新しいCSの市場投入を急ぎすぎて大量のバグを発生させてしまうように、脳の急速な発達によってデジャブという歪が生じたのだ。

一般的にデジャブの原因となる発作は危険なものではない。

だが稀なケースとしてこうした進化の歪が制御不能に陥り、時にテンカンの症状を引き起こす場合もある。

その稀なケースがダイアンに起きた。

「その時母と車に乗っていた。発作を起こした瞬間は覚えていないが、我に返ると頭痛がひどくて、何がどうなっているのか全く状況がつかめなくて、トラックにぶつかるみたいな感覚で・・・

症状は次第に悪化していった。回数もどんどん増え、最終的には週に5回も発作が起きた。」

テンカンの発作が起きる前には、必ず強いデジャブの感覚があったという。

「見たことのある場面が出てきたり、次に何が起きるか分かったりするのだ。

まるで自分の中で何かおかしなことが起きているのを知らせてくれるみたいに。

脳の中で何かが爆発しているような感覚。」

症状が悪化してきたことで、ダイアンは手術を受けることに。

検査の結果発作は脳のある一部で起きていることが判明した。

切除されたのは右の側頭葉の一部だった。

手術後発作は出なくなり、デジャブも消えた。

ダイアンのような極端なケースから私たちが体験するデジャブまで、私たちの心に埋め込まれた痕跡は、ある時代へとつながっていた。

それはより大きな脳の持ち主として地球が人間を選んだ時代。

ダイアンの事例は地球が私たちの心を急速に進化させていったことを如実に物語っている。

そして心の進化の痕跡は別の形でも残っている。

地球は人間にデジャブというひずみを残す一方、電光石火の判断という能力も与えた。

その能力は日々の生活に役立てられている。

クオーターバックがボールをどこに投げるかを判断する時間は、わずか3.5秒だということが調査の結果わかっている。

本能に基づいて行動しているのは、私たちも同じである。

瞬間的な判断が求められること、例えば車の運転中は瞬時に判断している。

私たちは考えたうえで行動していると思いがちだが、実際には私たちの行動のほとんどは、無意識に本能に従ったもの。

その本能はどこから来たのだろうか?

人間が何をどう考えるかは進化の歴史によって決まっている。

●HOW THE EARTH●Shaped Our Instincts なぜ人に本能が備わったのか

心理学者のフレッド・クーリッジ博士によると、人が判断する仕組みを作ったのは地球だという。

ルーレットに招かれた3人の被験者がどのように判断するのか。

運しだいのルーレットで人はどのようにかける数字を決めるのだろうか。

「賭けに興じている人は、合理的でないのはわかっている、根拠は特にない、なんとなくそんな気がする、そう口々に言う。

心理学者は彼らのそういう心理に注目する。」

1人の女性がチップを8番に置いた。

そしてその後も8番に賭け続けた。くる確率は低いと分かっているのに。

確立はわずか38分の1、しかし彼女は自分の直観を信じた。

女性「根拠なんてない、全て運だから。自分と他人の運は同じでしょ。

だけど8番がすごく気になったの。

だからその直観に従ったわ。8番にオーラが見えた気がしたの。

念というのか、それとも気合なのかな、うまく言えないけど見続けてたら来るような気がする。

当たらなかったのは念が足りなかったからだ。

玉から目を離さずに集中して自分の賭けた番号に来るよう、もっと強く念じることができたのに。」

彼女は物理的な手立てはないことはわかっていて、それでも精神的な方法は有効だと思っていた。

ベテランのギャンブラーは合理的な勝ちパターンを編み出すかもしれない。

だが私たちの脳は不合理な本能に支配されていることがこの実験で明らかになった。

いわゆる直観というのは比較的古い脳の奥の構造によって呼び覚まされる感情的な反応のこと。

この反応を例えるとしたら、何百年も前にインストールされたコンピューターのハードウェアみたいなもの。

こうした直観はなぜ人間に備わっているのだろうか。

100万年前、脳の成長に伴い人は慎重かつ合理的に考える能力を身につけた。

だが突発的な危険はなくならない。

地球自体が生きてゆくには危険で厳しい環境だった。

安全と管理が行き届いた現在とは違い、祖先たちは今の私たちよりはるかに弱い存在で、火山の噴火や雷などの災害で死んでしまってもおかしくない環境にいた。

こうした脅威に常に対処しなければならない状況だった。

突然の災害という脅威にさらされ続けた時代に、現代のように考える時間が常にあるとは限らない。

そうした中で従うべきは原始的な本能だった。

虫が光に吸い寄せられるように、ねずみが猫の臭いを嗅ぎ分けられるように・・

動物としての本能が私たち人間に根付いている。 

そんな人間の本能の中でも極めて強力なものあがある。

●HOW THE EARTH●Gave Us Disgust なぜ人は不快と感じるのか

レストランでの食事中目の前に座っている友人が額の汗をふきとる、肌をかきむしる、食べかすを指でとる、鼻をかむ、その光景を見たあなたは、つい顔をそらし、目を細め、口をすぼめ、体を遠ざけようとする。

科学者の調査によると、人間の最も強力な本能は、不快感であるという。

人は特定のことに拒絶反応を示す。

理屈抜きの感情、不快と感じるときどう反応するかは、世界各国違いは無い。

顔にも共通する表情が現れる。

それはこういう表情で、体をひく。

ギャバン・フィッシモンズ教授によると、不快感の表情には一定のパターンが存在するという。

オレンジジュースにさっき消毒したあるものを浸す・・・

この状態のオレンジジュース飲めるかな?

鼻にしわがよって、上唇が上がる、目を瞬く場合もある。

身体を遠ざけ手で口を覆う、こうしたとっさの反応で感染源となりうるものから自分の目と口を物理的に遠ざけている。

つまり無意識のうちに自らの身を守っているのだ。

消毒したゴキブリはスーパーの果物などより安全と言っても無駄なのである。

不快感ははるか昔から存在する根源的な感情であることがわかった。

人類の歴史を通して、私たちの祖先が生きていくうえで大きなネックとなってきたものの1つが病気。

人類の歴史の中で突然変異や進化する病原菌は、火山の噴火や地震、肉食動物よりはるかに大きな脅威であった。

病気が死に直結する時代、時に不快と感じ、時に逃げることで、病原菌と戦ってきたのだ。

あの何気ない反応は、かつて病原菌から身を守る術だった。

19世紀半ばにルイ・パストゥールが病原菌を発見する前に、私たちは心が進化する過程で無意識のうちに感染を避けるようになっていたのだ。

この本能はあまりに強く、時に制御不能に陥る。

人は本能に支配されてしまう場合がある。

例えば1日に何百回と手を洗う人がいるが、これは強迫性障害といって本人たちも意味がないとわかっている。

やめたいと思い困っているがやめられない。

激動の地球の歴史は、はるか昔およそ45億年前に始まった。

そしてその歴史は今を生きる私たちにも不思議な方法で影響を与え続けている。

例えば性に関する不可解な統計がある。

世界中の出生記録を調べたところ、地震発生直後の数日間で出生率が跳ね上がっていることが明らかになった。

自然災害と出産には大きなかかわりがあるようだ。

もう1つ明らかになったことがある。

災害からちょうど9か月後に出生率が再び跳ね上がるという事実だ。

災害は出産を促すだけでなく、無意識のうちに人間に生の営みを働きかけている。

災害は人類の生存を常に脅かす存在だった。

私たち人間の特徴をたどってゆくとすべて巨大地震や津波、大規模噴火といった出来事に行き着く。

人間は自然の力の前では無力。

●HOW THE EARTH●Rewrote Our DNA なぜDNAは書き換えられたのか

科学者世界中の人々の遺伝子を調査した結果、驚くべき事実が判明した。

この世に生きている人は皆7万年前のおそらく数千人規模の非常に小さな集団の子孫であることが分かった。

7万年前というのは、ちょうどインドネシアのトバ火山が突然噴火した時代と一致する。

7万4千年前、後に世界を混乱に陥らせた史上最悪の災害がインドネシアのスマトラ島で今にも起きようとしていた。

トバ火山の地下から2500㎦のマグマが噴出したのだ。

大噴火というと1980年のセントヘレンズ山を思い出す人もいるかもしれないが、トバ火山の噴火はその何千倍の規模。

噴火の影響でその年の冬は相当厳しいものだったはず。

噴火によって地殻変動が起き、空は暗くなり、氷のような寒さが6年間続いて、人類は絶滅の危機に陥た。

この大噴火により、人間の数はわずか数千人にまで減少、これは現代の劇場を満席にすることもできない人数。

私たちはみな、トバ火山の大噴火の幸運な生き残りの子孫なのだ。

この噴火の痕跡は、現代に生きる私たちの体に刻まれている。

その証拠を握るのがDNA。

多様に見える人間だが、DNAの配列は99.9%以上一致しているという。

これは動物としては異例で、ハエですら人間より10倍遺伝的多様性を持っている。

この人間の驚異的な類似性は、トバ火山の集団消滅によって、必然的にもたらされたと考えられている。

私たちの目の色、骨の形、そして心のメカニズム・・・

わずかな手がかりが、私たちを作り上げた意外な地球の姿を浮き彫りにする。

そしてそうした人間の体や心に隠された手がかりを広い集めた今、地球の歴史の全貌が明らかになる。

全ての手掛かりから浮かびあがる真の物語だ。

206本の骨、640個の筋肉、膨大な数の細胞、人間の体は私たちを取り巻く地球の創造物だ。

私たちの体の内部には、地球の歴史を解明する仮想マップが埋め込まれている。

はたしてつじつまは合うのか、手がかりをつなぎ合わせ、地球規模の変化、そして想像をはるかに超える混乱にまつわる壮大な物語を今から解き明かしてゆこう。

●HOW THE EARTH MADE MAN●人体から学ぶ地球の歴史

今からおよそ45億年前、燃え盛る大量の溶岩の塊としてこの世に生まれた地球は、生命が宿るような環境ではなかった。

しかし10億年物月日で地球の温度は下がり、やがて表面に水の塊が現れ、最初の単細胞生物が住み着いた。

それから30億年、地球はすさまじい変化の嵐を耐え抜き、生命は顕微鏡を使わない大きさのままだ。

5億年以上前、大気中の酸素が増加したことで、より高等な生物が住む環境が整う。

この時人間を含めたすべての動物の基本構造ができあがる。

3億7000万年前、古代魚に手足が生え、陸上へと這い上がる。

これが人の体を動かす腕の仕組みの原型となる。

2億5千万年前、トカゲに似た生き物が史上最大の大量絶滅を生き延びる。

その顎の一部が私たちの耳の骨へと進化、優れた聴覚が備わった。

6500万年前、ねずみに似た哺乳類へと進化した私たちは、小惑星の衝突という大惨事を生き延びる。

この時の体毛、爪、鳥肌が、後世に受け継がれる。

私たちは哺乳類から霊長類へとさらに進化を遂げる。

だが、地球による人間の創造はまだ終わっていない。

数百万年にわたるアフリカ大陸の変化が私たちを類人猿から人へと変化させる。

二足歩行で歩き、走る能力、投げる能力、狩りの能力を手に入れる。

この時の肉食動物への恐れ、本能が私たちの心に刻み込まれた。

260万円前、氷河期という試練の中、人の脳は3倍の大きさへと成長、合理的に考える能力が備わる一方、デジャブといった歪が残された。

環境の変化という困難が、直観に従い深いと感じる能力を私たちに授ける。

25万年前、私たちの体はさらなる進化を遂げる。

15万年前、アフリカの大地を離れ、人間は世界へと散らばる。

74000年前、火山の大噴火により、私たちは絶滅の危機にさらされる。

その痕跡は遺伝子の類似性として今に残る。

そして古代シュメールを皮切りに、エジプト、ギリシャ、ローマ、中世ヨーロッパ、アメリカ、そして現代へと続くありとあらゆる文明が、わずか1万年の間についに花開く。

人間の文明は本に記され、それ以前の歴史は全て私たちの体に刻まれている。

この物語には続きがある。

今の私たちを作り上げた地球の変化はまだ終わっていない。

将来大陸はまた1つの超大陸になる。

大陸を隔てている大西洋は広がってゆき、やがて狭くなり長い時間をかけてさらに狭くなり、最終的に北米とヨーロッパ、アフリカが再び1つになる。

そうなる前に、新たな小惑星の衝突、あるいは火山の大噴火によって、私たちはさらい進化を遂げるかもしれないし、絶滅するかもしれない。

確かなことはただ1つ、地球や私たちの未来は予測不可能ということだ。

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古事記の世界1
古事記の魅力とは?
三浦佑之(立正大学教授 国文学者)「古事記のお話は面白い。
特に神様のお話は物語がストーリーを持っていて、様々な神様が出てきて活躍をする。
古事記(712)とは別に日本書紀(720)という歴史書は朝廷により作られた正規の歴史書、古事記はそういうものよりももっと古い日本列島に住んだ人たちの古層の意識が様々な形で神話として浮かびあがってくる。
自分たちは何でここに住んでいるのか、なんで生まれたのか、死んだらどうなるのか教えてくれる、読めてくる。
そういう魅力があると思う。」
里中真智子(漫画家)「ずっと感じているのが、意外と女性が強いということ。
そういう本質的なものがおおらかに描かれていると思う。
お話も、理屈には合わなくても、男女の違いみたいなものをするどくつくような物語もあったりして面白い。」
天と地が初めて起こった時、高天原になりました神の皆は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、この三柱の神は皆一人神で、姿形を見せることはなかった。
大地が若く油のように浮かび、クラゲのごとく漂っている時、葦の芽のように燃え上がるものからなった神の皆は、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神、この二柱の神も姿形を現さなかった。
これら五柱の神は、特別の神で、別天つ神(ことあまつかみ)という。
その後、兄と妹で一対となる十柱の神々がなった。
その最後に現れたのが伊邪那岐神、伊邪那美神である。
天の神々は伊邪那岐の命、伊邪那美の命におおせになった。
「この漂える大地を整え固めよ、そなたたちには天の沼矛を授ける。
これを用いて国をなせ。」
伊邪那岐の命と伊邪那美の命は天の浮橋にお立ちになり、沼矛を刺し降ろして、コウロコウロとかき回された。
「矛の先から滴り落ちる潮が固まってゆく。」
「島ができましたね。」
「いざ。」
これが淤能碁呂嶋(おのごろしま)である。
「あなたの体はいったいどのようにできているのですか?」
「私の体はほとんどできあがっているのですが足りないところが一カ所だけあります。」
「私の体もすでにできあがっているのですが、余ったところが一カ所だけあります。
ですから、私の体の余ったところで、あなたの体の足りないところをふさいで、国を生もうと思います。
それでどうでしょう?」
「ええよろしいですね。」
「それならば、私とあなたで、この天の御柱の周りを廻って出会い、契りを交わしましょう。
あなたは右から回ってください。
私は左から回って出会うことにしましょう。」
「まあ、なんて素敵な殿方なのでしょう。」
「ああ、なんて素敵な乙女なのだろう。
女性が先に言葉を発したのはよくなかった。」
それでも、伊邪那岐の命と伊邪那美の命は契りを交わした。
しかし・・・

「うまく国を生むことができなかったら、天つ神のもとにまいってこのことを申し上げ、お伺いをたてることにしよう。」
天に昇った伊邪那岐の命と伊邪那美の命は、神々の仰せに従い鹿の骨を焼き、裂け目の現れ方を見る太占(ふとまに)の占いをした。
女性が先に言葉を発したのは、よくなかったとでている。
淤能碁呂嶋に戻り改めてやり直すのだ。
「ああなんて素敵な乙女なのだ。」
「まあ、なんて素敵な殿方なのでしょう。」
こう言い終わって契りを交わすと、まず淡道之穂之狭別嶋(淡路)が生れ、次に伊予之二名嶋(四国)、この島は、体は1つであるが顔が4つあった。
次に隠岐之三子嶋(隠岐)、筑紫嶋(九州)が生れた。
この島も、体は1つであるが、顔は4つあった。
そして、伊伎嶋(壱岐)、津嶋(対馬)、佐度(佐渡)の島が生れ、大倭豊秋津嶋(本州)が生れた。
これら8つの島が先に生まれたので、この国を大八嶋国という。
伊邪那岐の命と伊邪那美の命の会話が、古事記ではどのように表現されているのか・・・
「故此の吾が身の成り餘れる処以ちて
汝が身の成り合わ不処に刺し塞ぎ而
国土を生み成さむと以為ふ
生むこと奈何に
とのらせば
伊邪那美命 答えて日さく
然善(しかよ)けむとまをす」
■世界はどう始まったか
日本の神話では世界が最初にあって、それから神様が生れる。
キリスト教の旧約聖書では、まず神様がいて、それから天地を創造して昼と夜を作り、1週刊で世界と人間を作る。
世界の成り立ちが全く逆。
「天と地がはじめておこったとき高天原に成りました神の御名は天之御中主神・・・」
キリスト教ではそこに絶対的な神の意志があり、神の意志のもとにこの世は成り立っているという絶対条件がある。
しかし日本人はあまりかっちりと分けるのが好きではないのか、なんとなくボワーンとこちらが気づいたらそこに世界があったという感じ。
いつからあったのかとか、なぜあるのかとか、どうなっているのかとか、そんなことはこだわらない。
「天地初めて発りし時
高天の原於成りませる神の名は
天之御中主神
此の三柱の神者
並に独神と成り坐し而
身を隠しましき」
❝成る❞とは生れてくるのではないし、絶対神作るわけでもない。
気が付いたら、ああいたという感じが❝成る❞という言葉にとてもよく表れている。
木に実が成る、それが落ち、種となりまた生えてくる。
そういう循環が❝成る❞という言葉にうまく表される。
日本には絶対神がいない。
中空構造の神話、日本の神話は真中がない。
例えば天之御中主神は、天の真ん中にいる神様という名前を持っているが、何の働きもせず、この後一度も登場しない。
真ん中が存在しないことに特徴がある。
 
国生み神話の舞台、淡路島、まるで神がかき回したかのように、大きなうねりをあげて渦を巻く淡路の海。
この海にオノゴロ島と伝えられる伝説の島がある。
沼島、周囲およそ10km、人口500人ほどの小さな島。
島に古くから伝わる古文書がある。
天と地が最初に起こった時の始まりの地である・・・
♪神のつくりし おのころ島 由緒も深き この島は
我らが国の 起源ぞと 聞くさえ いとど嬉しけれ♪
島の高台にある、おのころ神社、国を生む二柱の神の像。
沼島の名はこの神が持つ、天の沼矛(ぬぼこ)に由来しているという。

住民「古代語で沼(ぬ)は、珠とか神々の精神が宿ったとか、光り輝くといった意味がある。
矛を引き上げたときにポタポタ潮の滴が落ちて、勝手に凝り固まって島になった。
だから、おのころ神社にも、自分で凝り固まる神社、と書いてある。」
おのごろ島の名の意味は、おのずから凝り固まって成った島・・・
その名のとおり、沼島を形作る岩石は、神が混ぜ合わせ、凝り固まったかのような形をしている。
沼島は、太古の地殻変動がそのままの形で見て取れる岩々から成りたっている。
島の南東に回り込むと突如異様な巨岩が姿を表す。
オノゴロ島に降り立った二柱の神がたてたという天の御柱であると伝えられている。
古事記では、伊邪那岐の命は御柱の左から、伊邪那美の命は右から回った。
そうして次々と国を生んでいった。
古事記の世界をそのまま表したかのような沼島の自然。
国生みの神話の起源について、ある興味深い説がある。
それははるか海を越えてやってきた民族がもたらしたものであるという。
その民族とは海人族(あまぞく)、縄文時代の終わりにはるか南方から渡来した海人族は、やがて沼島をはじめとする淡路の海に進出した。

彼らが新たに生み出した技術に、塩づくりがある。
海水を煮詰めて塩をとる太古の塩づくり、海人族たちが長い棒を使って海水をかき回す様子から、海をかき混ぜて島を生む島生みの神話を生んだとも伝えられている。
日本の起源を語り継ぐ国生みの神話、そこにはまだ多くの謎が秘められている。


故 二柱の神 天の浮橋に立たし而(て)
其の沼矛を指し下して画かせ者(ば) 塩許々袁々呂々(こをろこをろ)迩画き鳴し而(て)
引き上げます時 其の矛の末自(さきよ)り垂落る塩之累積(しおのつもり)
嶋と成りき 是淤能碁呂嶋なり

外来の文字を利用して、やまとことばに当て字をしていった。
言葉に対するこだわりが古事記には残されており、日本書紀(漢文)とは全く違う。
やまとことばの音を大事にしている。
語り部によって語り継がれた神話。

いくつもの国を生み終えた伊邪那岐の命と伊邪那美の命は、さらに神々をお生みになった。
「まず家づくりの神々を生むことにしよう。」
そして岩・土の男神、石・砂の女神、戸口の神、屋根の神などを生んでいった。
「次に自然をつかさどる神々を生もう。」
海野神と河口の神が生れ、風の神、木の神、山の神の野女神など多くの自然をつかさどる神々が生れた。
さらに船の神、食物の神、最後に火の神をお生みになった。
火の神をお生みになった時、伊邪那美の命は、ひどいやけどを負われた。
伊邪那美の命が吐いたものから鉱山の神がなった。
たれいでたしものものから粘土の神、流れ出た尿からは田畑の水の女神がなった。
こうして伊邪那美の命はお亡くなりになられた。

「愛する我がミコトをたった1人の子に変えようとは。」
伊邪那岐の命の涙からは、泉の神・泣沢女神がなった。
伊邪那美の命は、出雲の国とほうきの国の境にある比婆之山に葬られた。
伊邪那岐の命は、火の神をお切りになった。
火の神からは刀剣にまつわる様々な神々がなった。
そして伊邪那岐の命は、愛する伊邪那美の命に今一度会いたいとあとを追って、黄泉の国へと向かう決意をなされた。
そこには思いもよらぬ再会が待ち受けていた。

古事記は伊邪那美の神が葬られた地について、こう記している。
其の所神避(かむさ)りましし伊邪那美神者
出雲国と伯伎国与の堺の比婆之山に葬りまつりき
1000mを超える山々が連なる中国山地、その1つに、神の眠る山、比婆山がある。
古事記の記述から、この山は伊邪那美の神が眠る候補地の1つとして古くから信仰を集めてきた。
麓にある熊野神社、ここは伊邪那美の神が眠る神域への入り口、山の頂へと向かう参道が続いている。

熊野神社は比婆の山それ自体を祀り、信仰の対象としている。
古来より神の山として恐れ、敬われてきた比婆山、戦前は祭などの決められた時以外、山に入ることは避けられてきた。
人々が足を踏み入れるのは、この拝礼所まで。

山へ入ることが許された日、人々はあるものを目指し山頂へと向かった。
神社から続く5kmほどの参道、比婆山には日本で最も大きなトチの木など、神が眠るにふさわしい豊かな自然が残されている。
山頂で人々を待ち受けているのは、イチイの老木、頂の聖域を守る神の木。
その奥に天に向かって伸びるブナの原生林がある。
木々の根元にあるのは、苔むした大きな石、幅3mほどのこの巨石こそ、伊邪那美の神が降臨すると言われる御陵石。
比婆山の西、ほぼ同じ高さを持つ吾妻山、土地の言い伝えには、こんな話が残されている。
伊邪那美の神を葬った後、この山の山頂に立った夫の伊邪那岐の命、比婆山が見渡せるこの場所から最愛の人を思い「吾が妻よ」と叫んだことが吾妻山の名前の由来と言われている。
神の山、比婆山、深い自然に抱かれたこの地で、伊邪那美の神は今も静かな眠りについている。

↓つづき・・・
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たけしの新・世界七不思議大百科
Entry No.1 マヤ文明の秘宝 翡翠の仮面
Entry No.2 神秘の仏教遺跡 パガン(ミャンマー)
Entry No.3 大英博物館の至宝 ロゼッタストーン

私たちの知る世界四大文明とは、巨大なピラミッドがそびえる黄金に彩られたエジプト文明、太陰暦や楔形文字を生み出したメソポタミア文明、緻密な計画都市を数多く築いたインダス文明、漢字の原型となる甲骨文字を生みだした黄河文明。
しかしこれは時代遅れの歴史観だと言われる。
今はアメリカ大陸に生まれた2つの文明、マヤに代表されるメソアメリカ文明とインカに代表されるアンデス文明を加え、世界六大文明と呼ぶ方が正しいとされる。
20世紀アメリカ大陸では新発見が相次いだ。
その中に、古代エジプト ツタンカーメンの黄金のマスクにも匹敵する発見があった。
340片の翡翠と4片の貝殻、2片の黒曜石が使われた翡翠の仮面、中米ユカタン半島のジャングルパレンケ遺跡から発見された秘宝である。

Entry No.1 マヤ文明の秘宝 翡翠の仮面
第1の扉 翡翠の仮面の主とは一体誰なのか?

1952年、翡翠の仮面を発見した伝説の考古学者アルベルト・ルス。
4年の歳月をかけ、神殿の秘められた空間にたどり着いた。
そこで見たものは・・・
隠し扉の奥にあったのは、高さ7mの空間。
真ん中に彫刻を施した大きな石板があり、部屋のほとんどを占めていた。
一体その中に何があるというのか?
そこには無数の翡翠の欠片と共に男性の人骨が葬られていた。
翡翠の欠片を組み合わせると仮面となった。
神殿に眠る翡翠の仮面の主の正体とは?
第2の扉 古代マヤ人にとって翡翠とは何なのか?
王や貴族の装身具として使われてきた翡翠は黄金より価値のある最も尊ばれた宝石だった。
なぜマヤの人々は緑を崇めたのか。
翡翠が出土したグアテマラの都市遺跡から、マヤ文明の伝説を覆す大発見があった。
驚くことにマヤ文明の起源が今から3000年前であったことが明らかになった。

1922年11月26日イギリス人考古学者ハワード・カーターによってエジプトで初めて発見された未盗掘の王墓、ツタンカーメンの王墓の発見により古代エジプトのファラオの姿が初めて明らかになった。
そして30年後メキシコで謎に包まれた文明の真実を解き明かす世紀の大発見があった。
中央アメリカ、ユカタン半島の熱帯ジャングルに栄えたマヤ文明は、紀元前800年以降を起源にスペイン人に征服されるまで2000円以上続いたとされる文明である。
そんなマヤの真実の姿が分かってきたのは20世紀になってから。

光をあてたのはマヤを代表する都市の1つ、パレンケを1948年に訪れたメキシコ人考古学者アルベルト・ルス。
キューバ人の父とフランス人の母の間にパリに生まれながら、中南米の遺跡に魅せられ、メキシコ国籍を取得、考古学者となったルスは、欧米人に歪められたマヤの真実を探ろうとしていた。
ルスが注目したのはパレンケの中央にそびえる巨大な神殿ピラミッド。

高さ35mのピラミッドは最上部で多くのマヤ文字が刻まれた石板が見つかったことから、碑銘の神殿を呼ばれていた。
神殿を調べてもマヤの真実に迫る手がかりは何も得られないまま時は過ぎていった。

だが1949年神殿の最上部にある瓦礫を取り除いていた時のこと・・・
奇妙な穴を発見した。
そこに埋まった土を取り除くと・・・

これは下へと続く階段ではないか?
おそらく侵入者を阻むために埋めたのだろう。
以来ルスたちはこの階段の発掘作業に没頭した。
瓦礫を取り除いてわかってきたのは、この階段が驚くほど長く下へと続くものだったこと。
4年の歳月が過ぎた1952年、ついにルスたちは瓦礫をすべて取り除き、階段の一番下に降り立った。
そこでルスは不思議な石板の存在に気付いた。

三角形の大きな石板、ルスはそれが何かを隠すためだと直感した。
そして石板をずらし、隙間から中をそっと照らしてみた。
隙間の奥に見えたのは、高さ7mの空間、真ん中に彫刻を施した大きな石の塊があり、部屋のほとんどを占めていた。
そこにはまるで宇宙船を想像しているかのような人物や植物、意味不明のマヤ文字が刻まれていた。
これは何かの蓋だ・・・
蓋の重さは約5トン、人力で動かせるものではない。
そこでルスはジャッキを使い蓋を開けてみることに。
その中にあったのは・・・

これは墓だ。
眠っていたのは身長190cmを超える人骨。
緑の輝きを放つ無数の欠片と共に葬られていた。
これは翡翠だ。これほどの翡翠と共に埋葬されているということは、高貴な人物に違いない。
もしかしたらパレンケの王かもしれない。

周囲に散乱していた340片の翡翠と4片の貝殻、2片の黒曜石を組み合わせていったところ、なんと驚くことにそれは仮面となった。
まさにそれはツタンカーメンの黄金のマスクに匹敵する世紀の大発見。
さらに石棺の中からは仮面以外にも翡翠のアクセサリーが多数見つかった。
果たしてこれほどの翡翠に彩られた人物は誰なのか?
後に蓋の碑文が解読されたことで、その人物は明らかになった。

ルスの予想通り、7世紀ごろこの地で強大な権力を握っていたパカルというパレンケの王だったのである。
さらにその後他の遺跡でも神殿ピラミッドの内部から王の墓が続々と発見された。
マヤはそれぞれの都市を王が統治する都市国家の集まりだったことが明らかになったのだ。
パレンケでは近年新たな発見もあった。

碑銘の神殿の隣にある13号神殿から、驚く物が見つかった。
その発見をした人物こそメキシコ考古学の第一人者、アルノルド・ゴンザレス博士。
ルスを尊敬してやまない博士が同じような発見をしたのである。

石棺の中に眠っていたのは全身が赤く染まり、翡翠に彩られた女性の人骨だった。
赤い色は棺に塗られた水銀が酸化したため。
そのことから人骨は赤の女王と呼ばれている。

翡翠に彩られた「赤の女王」、その女性は一体何者なのか?
DNA分析の結果、「赤の女王」はパカル王と血がつながっていないことが判明した。
つまり母親でも兄弟でも娘でもない。
つまりパカル王の妻、王妃である可能性が高まったのだ。
翡翠の仮面を発見したルスは、1979年、73歳でこの世を去った。
ルスの墓は碑銘の神殿を見守るような場所に建てられていた。
アルノルド博士「留守の墓はこの建物の正面にあるのだが、偶然にも光を当てると丁度赤の女王の墓に反射するんですよ。
もしかしたらルスが私を導いてくれたのかもしれませんね。」

■たけしの大百科チェックポイント
パレンケの王パカルがかぶっていた翡翠の仮面、このような仮面はパレンケだけでなく、ティカルやカラクルムといったマヤ遺跡からも出土している。
古代マヤでは、なぜ死者に仮面をかぶせたのだろうか?

マヤの王は死後神になるとされていた。
そのためにはジャガーの攻撃や極寒の館といった地下世界の神々が与える試練を乗り越えなければならなかった。
翡翠の仮面には不思議な力があり、死後の世界で王を守ってくれると信じていたという。

2013年4月アメリカの科学誌「サイエンス」にマヤ文明の定説を覆す論文が掲載された。
それは日本人研究者らによって発表された。
紀元前800年以降とされていた従来のマヤ文明の起源が200年ほど早まり、紀元前1000年頃まで遡るというもの。
なぜマヤ文明の起源が改められることになったのか。

その証拠の1つとして遺跡から出土した翡翠の存在が深くかかわっていた。
パカル王の仮面が翡翠であったように、メソアメリカで翡翠は黄金より高いを持っていた。
古代マヤ人にとって翡翠とは一体何だったのか?

茨城大学水戸キャンパス、ここマヤ文明の定説を覆した日本人研究者がいる。
古代メソアメリカ文明古代マヤなど数々の著書を持ち、マヤ文明学の第一人者として知られる青山和夫・人文学部教授である。
新たな大発見があったのは中米グアテマラの熱帯雨林に眠るセイバル遺跡、9世紀半ばに最盛期を迎えたマヤ都市の1つ。
しかし発掘されていたのはごく一部、その起源は謎に包まれたままであった。
本格的な調査が始まったのは2005年、青山教授はアリゾナ大学の猪俣健教授らと共に多国籍の調査チームを編成、都市遺跡の中心部にある神殿ピラミッドや王宮、中央広場など、発掘は広範囲に及んだ。

歴代の王たちは公共祭祀を行う基壇があった場所により大きな神殿ピラミッドを築くことで権威を強化していった。
しかし都市が衰退すると神殿は土に埋もれ、忘れ去られていった。
青山教授らは神殿ピラミッドの下に眠るもっとも古い建造物がある地層まで地面を掘り下げるという大規模な発掘に挑んだ。
そして中心部に向かってトンネルを掘り進めていったところ、ついに最古の建造物へとたどり着いた。

黒い地層の下に見える白い層が、最初に造られた建造物の遺構。
それは驚くことに今から3000年前に造られたマヤ文明最古のものであることが判明した。
その年代を測定する方法は日本にあった。
福井県にある三方五湖の1つ、水月湖である。
世界で最もきれいな年縞堆積が残っている湖。
年縞:長い年月の間、湖沼などに堆積した土などの層が描く縞模様
水月湖は直接流れ込む川がないため、湖底がかき乱されることなく土が非常にきれいな状態で堆積している。
そこで青山教授の同僚である研究者たちが年縞を採取、研究を進めた結果過去52800年分の年代が測定できる世界一正確な年代軸を作成することに成功したのだ。

水月湖から得られたデータを基にセイバル遺跡の地層に含まれる木片など56点にものぼる出土品を利用して放射炭素年代測定を行った結果、派遣した建造物が紀元前1000年前後のものであることが決定的になった。
さらに中央広場からは翡翠の石器が出土した。

磨製石斧、トウモロコシの穂か、種を象徴するものと考えられている。
公共祭祀を執行する空間を創設する儀礼の一部として埋納。
なぜ翡翠はマヤ人たちに崇められてきたのか?
中米に翡翠の産地はグアテマラ高地しかない。
緑色がマヤ世界の中心と考えられていた。
金よりも翡翠の方が重要であった。
マヤの東西南北の色は北(白)東(赤)南(黄)西(黒)で表されている。
それは彼らの主食である4種類のトウモロコシの実の色と一致する。
そしてその実を包む緑が中心に置かれた。

マヤの世界観で緑色に輝く翡翠は世界の中心を象徴するものでもあったのだ。
神聖な意味を持つ翡翠の装身具は雨の神にささげる供物としてセノーテに投げ入れられることもあった。
セノーテとはジャングルの地下に張り巡らされた天然水路が所々地上に姿を表した泉のこと。
マヤ世界にとっては大河に変わる水源であり、文明と命を育むために欠かせないものだった。
つまり彼らは文明と命の源に翡翠を捧げたのだ。
紀元7世紀、マヤ文明の最盛期に造られたパレンケの秘宝翡翠の仮面、それは3000年以上も前から翡翠を生命の源、世界の中心として位置付けてきた古代マヤ人たちの最高傑作なのかもしれない。

■たけしの大百科チェックポイント
翡翠は王をはじめとする支配層が権威の象徴として身に着けてきた。
そしてもう1つ、支配層が権力を維持するために独占したものがある。
それは一体何だったのか?
それは数学や天文学といった知識、彼らは知識を独占することで権力を誇示したという。
最も長いマヤ歴は10の31乗、2京×兆倍。
マヤ長期歴の歯車は、地球の年齢46億年、宇宙の年齢187億年よりもはるかに長い時間の概念を持っていた。

Entry No.2 バガン
世界には3大仏教遺跡と呼ばれる巨大な建造物がある。
1つめはカンボジアのアンコール遺跡群、2つめはインドネシアのボロブドゥール、そしてもう1つは謎の仏教遺跡群バガン。
ミャンマーの大平原に無数の仏教建築が見渡す限り建ち並ぶ。
この地は11世紀から13世紀にかけてバガン王朝の都として隆盛を極めた。
そびえたつのは仏教寺院やパゴダと呼ばれる仏塔、その数は2200以上にも及ぶ。
建築の内部は豪華絢爛な大仏やダイナミックな仏教壁画で飾られ、神秘的な雰囲気が漂う。
実はバガンの存在は長きにわたり謎のベールに包まれてきた。
ミャンマーは1960年代から軍事政権のもとで鎖国状態が続き、世界に門戸を閉ざしていた。
近年ようやくミャンマーの情勢が変化、民主化が進んだことで、ついにバガン遺跡の封印が解かれるときがきた。

第1の扉 なぜ幾千ものパゴダが造られたのか?
金箔で覆われ、見る者を驚嘆させるパゴダ、最盛期には5000以上のパゴダや寺院が存在したという。
誰がなぜ何のために造ったのか、そこには仏教をめぐる伝説の王の物語が秘められていた。

第2の扉 なぜバガンは滅びたのか
バガン王朝の建国から250年後、突如栄華を誇った王朝は滅びてしまう。
一体何が起きたのか?
その謎に迫るのはアジアの仏教遺跡研究の第一人者、上智大学・石澤良昭教授。
まるで洞窟のような寺の中で、バガン滅亡の真実が明らかになる。

近年著しい発展を見せるみゃんま、最大の都市ヤンゴンはビジネスチャンスの広がるアジア最後のフロンティアとして今世界の注目を集めている。
かつてはビルマと呼ばれたミャンマー、太平洋戦争では19万人もの日本人が戦死した。

ミャンマーの伝統的な朝ご飯モヒンガー、ナマズからだしを取ったスープに、そうめんのような細い麺が入った料理。
味はカレーに似ている?

エーヤワディー川のほとりに広がる都バガン。
大平原に立ち並ぶのは無数のパゴダや寺院などの仏教建築、その数は2200を超える。
バガンは11〜13世紀にかけてミャンマー初の統一国家バガン王朝の都として栄えた。
タッビンニュ寺院は高さ65m、バガン遺跡で最も高い建築物。
金箔で覆われ煌びやかに輝くのは、バガンを代表するパゴダの1つシュエズイーゴン・パゴダ。
パゴダとは釈迦の遺骨や髪の毛などを納めたとされる仏塔。
このパゴダに使われた金は10トンとも言われ、完成までにおよそ30年を要した。

世界三大仏教遺跡にふさわしいバガン遺跡だが、他の2つと違う点は発見者がいないこと。
12世紀に建立されたアンコールワットは、王朝の滅亡と共に密林の中に忘れ去られたが、19世紀にフランスの探検家アンリ・ムオによって発見され、世界に紹介された遺跡である。
ボロブドゥールも同じく王朝が滅び、密林覆われてしまうが、19世紀にイギリスのトーマス・ラッフルズによって発見された。
一方バガン遺跡には発見者は存在しない。
13世紀に王朝が滅亡したあと、人々に忘れ去られることなく仏教の聖地として愛され続けてきたからだ。

最盛期には5000以上の寺院やパゴダが存在したという。
誰が何のためにこれほどの建造物を築いたのか?
バガン王朝初代アノーヤター王、11世紀にミャンマー全土を制圧しバガン王朝を建国した英雄。
しかし王には大きな悩みがあった。

当時バガンにはまだ現在の仏教(上座部)が伝わっておらず、古い密教の一派が勢力をふるっていた。
バガンを支配していた密教とは?

それをうかがい知ることができる貴重な壁画が残されている。
壁画に描かれているのは妖艶な女性が腰をなまめかしくくねらせ、踊っている姿。
とても官能的な表現。
こちらの壁画に描かれているのは菩薩の姿なのだが、両脇に女性を抱いて、不敵な笑みを浮かべている。
この不思議な絵は、何を物語っているのだろう?

考古学者ミョーニョアン「壁画は密教(日本の密教とは異なる)の影響を強く受けたものだと考えれる。
バガンに現在の仏教が伝わる以前、密教色の濃いアリー僧という僧侶たちがこの地で権勢を握っていた。
30人のアリー僧が6万人の弟子を抱え、酒を飲んで女遊びをするなどみだらな暮らしを送っていた。
彼らの教義は過激で、親殺しの罪でも呪文を唱えれば許されると説いていた。
女性が結婚する際には、初夜をアリー僧に捧げなければならないという掟までもがあった。」

アリー僧の傍若無人な振る舞いに頭を悩ませていたアノーヤター王だが、そこに救世主が現れる。
僧侶ダンマダッシー、ミャンマー全土を歩きながら仏教を説いて回った僧侶。
アリー僧とは対照的に戒めと秩序を重んじるダンマダッシーは人々の心を捕え、カリスマとなっていた。
噂を聞いたアノーヤター王はダンマダッシーと対面、ひざまずいて悩みを打ち明けたという。
ダンマダッシーは、王に仏教を熱心に説いた。
仏教に目覚めたアノーヤター王は、宗教改革に乗り出す。
軍隊を使ってアリー僧たちをいっそう、ついに秩序を取り戻した。
アノーヤター王は仏教を民衆に広めるために数々のパゴダや寺院を建立、その後も歴代の王や庶民は次々と仏教施設を作り続けた。

■たけしの大百科チェックポイント
アンコールワットやボロブドゥールは世界遺産に認定されているのに、バガン遺跡は世界遺産ではない。
バガンは世界遺産になれない理由があるという。
世界遺産に認定されるためには建立当時の状態が保存されていることが条件の1つ。
しかしバガンは、❝生きた遺跡❞と呼ばれ、仏教施設は改修工事を繰り返しながら地元の人々に使用されてきた。
古い仏像は時代に合わせて作り替えられ、進化を遂げた。
そのため建立当時の姿をとどめておらず、世界遺産には認定されないと言われている。

バガン遺跡の魅力を語る上で欠かせなのは、その類稀なる仏教美術のすばらしさである。
バガン王朝の最盛期に建立されたアーナンダ寺院には驚くべきものが残されている。

高さ10mに迫る黄金の大仏、全身が金色に輝くその姿はバガン最盛期の栄華を物語るかのようだ。
黄金の大仏は一体だけではない。
寺院の中央になんと四体の巨大な仏像が祀られている。
それぞれ東西南北の方角に向かって安置されており、見る者を圧倒する迫力。

この寺院を建立したのはバガン王朝第3代チャンスイッター王、自らの絶大な権力を誇示するために黄金の大仏を築いた。
大仏には面白い仕掛けがあった。
遠くから眺めると、その表情は穏やかで微笑んでいるように見える。
しかし間近から仰ぎ見ると真剣で厳しい表情に見える。

2つの顔を表現するデザインには、チャンスイッター王のある思いが秘められている。
アジアの仏教遺跡研究の第一人者・石澤良昭教授「当時仏像の近くで手を合わせるのは王様の関係者や高位高官、家臣には厳しい顔が伝わる。
村の人や一般の人は外で見る、こちらには優しいお顔で、救ってくれる。」

石澤教授によれば、壮大なバガン建築の秘密を解き明かすために、注目すべきポイントがあるという。
それはレンガ、巨大な建造物は無数のレンガを積み上げ造られていた。
バガンでは粘り気の強い粘土が採れ、レンガの製造が盛んに行われた。

このレンガは1200度の高温で焼かれているために水分がとび、軽くて頑丈に仕上がっている。
壮大なバガン建築を可能にしたのは、良質なレンガの存在だったのだ。

バガンをめぐる最大の謎・・・栄華を極めた王朝は、なぜか13世紀に突如滅亡してしまう。
その謎を解くために、滅亡寸前に建てられた王朝最後のパゴダを訪ねる。
ミンガラー・ゼーディー・パゴダ、完成からわずか3年後に王朝は滅亡した。
このパゴダを建立したのはバガン最後の王、第11代ナラティーハパテ王、政治には無頓着で仏教にのめりこんだ。
バガン王朝は仏教寺院の活動に寛大で、税金は免除された。
しかしその免税措置が王朝の危機を招いたと石澤教授は考える。
「お寺の敷地の中は免税なので税金を取られない。
そうすると国庫に入ってくる税金が少なくなる。
バガン王朝はたくさんのお寺を造る。
しかしその裏では国が収入を得られない免税地ばかりが広がった。
お寺成って国滅ぶ」
国力が弱まっていたバガン王朝に、さらに追い打ちをかける事件が起こる。
チャンスイッター窟院、瞑想用の寺院で外の光が入らないように造られている。

この壁画こそバガン滅亡の謎を解くヒント、描かれた男たちの姿に石澤教授は注目した。
帽子を見るとミャンマーでは見かけないもの、また弓矢を持っている。
モンゴル兵だ。
モンゴル帝国は地球上の陸地の4分の1を支配下においた人類史上最大規模の帝国。
フビライ・ハンの軍隊は元寇の6年後1287年、バガン王朝に侵攻した。
その数、騎兵隊は600万、歩兵は2000万にのぼったと言われている。
モンゴル軍の侵略にナラティーハパテ王はあっけなく逃走し、王朝は滅亡した。
しかしバガンは政治的な機能は奪われたものの、美しいパゴダや寺院は破壊されることなく残された。
こうしてバガンは仏教の聖地として人々から愛され続けたのだ。

■たけしの大百科チェックポイント
おびただしい数の寺院やパゴダの建設はバガン王朝の財政を圧迫しただけでなく、意外な事態を引き起こしていた。
仏教施設の建立には大量のレンガが必要、そのためレンガを焼く燃料として木が伐採され、深刻な森林破壊を引き起こしたという。
こうしてバガンは不毛の土地となり国力を落としたとする説もある。

Entry No.3 大英博物館の至宝ロゼッタストーン
人類が生み出した最も輝かしき文明、古代エジプト文明。
だが、どのような文明だったのか?今からおよそ200年前までは全くの謎であった。
古代エジプト文明3000年の歴史の扉を開けた鍵、それはたった1つの石。
その石は今、数奇な運命のもと、イギリスが誇る世界最大級の博物館大英博物館に保管されている。
1799年に発見されたロゼッタストーン、石の表面に刻まれていたのは、エジプトの古代文字ヒエログリフだった。
ヒエログリフはエジプトの様々な遺跡に書かれていたが、まったく読むことのできない謎の文字であった。
だがこのロゼッタストーンの登場により、ヒエログリフは解読され、ピラミッドなどに刻まれたエジプト文明の謎は次々と解き明かされることになった。
第1の扉 なぜロゼッタストーンは大英博物館にあるのか?
石の側面に書かれていたのは、英語・・・
最初に石を発見したのは英雄ナポレオン率いるエジプト遠征軍、そのナポレオンにイギリスの軍神ネルソン提督が襲い掛かる。
ロゼッタストーンは誰のものなのか、超大国がエジプトで激突する。
第2の扉 なぜヒエログリフは解読できたのか?
ロゼッタストーンをめぐるもう1つの戦い、ヒエログリフの解読対決。
イギリスの物理学者トーマス・ヤングとフランスの言語学者ジャン=フランソワ・シャンポリオン、2人の天才が謎の文字の解読に挑んだ。

時は18世紀末、2つの大国が世界を支配しようと熾烈な勢力争いを繰り広げていた。
イギリスとフランスである。
1798年フランス国民から絶大な人気を得ていた29歳の青年が、ライバル国であるイギリスへの侵攻軍司令官に任命された。
その青年こそが英雄ナポレオン。
ナポレオンがいよいよイギリス本土への攻撃をしかける。
世界中の人々がそう思い込んだ。
が、人々の想像を超える動きをするが天才ナポレオン、思わぬ作戦をたてた。
エジプト遠征。
ナポレオンは大国イギリスに直接攻め込むのは難しいと判断、エジプトを占領し、イギリスの財源の1つとなっていたインドとの物流を絶つ作戦をたてた。
38000人の兵士と共にエジプトに渡ったナポレオン、しかしその船の上には戦いには不似合いな集団が乗っていた。
ナポレオンによって集められた学者や芸術家たち、エジプト研究特別チーム。
ヨーロッパ全土にフランスの力を見せつけるというのがナポレオンの狙いだった。

エジプトへと出撃したナポレオンは、アレクサンドリアの港を攻略、そこで部隊を2つに分け、半分をアレクサンドリアの艦隊に残し、自らは首都カイロを目指した。
無事首都カイロへの入場を果たしたナポレオンだったが、この後思わぬことが起こる。
アレクサンドリアに残したフランスの艦隊が壊滅したとの連絡を受け取ったのだ。
フランス艦隊を襲ったのはネルソン提督率いるイギリス海軍だった。
ナポレオンがエジプトへ向かったとの情報を受け取ったネルソンは、フランス軍を追い出撃。
​地中海に残っていたフランス艦隊を壊滅させた。
イギリス軍の巻き返しに遭ったナポレオンは砂漠に閉じ込められてしまう。
しかしこのことが良い結果を招くこともあった。
ナポレオンが連れて行った学者たちにとっては格好の研究時間ができた。
その研究成果がまとめられた本があるという。
国立図書館(パリ)、エジプト誌は歴史学者や植物学者、画家らの手により帰国後20年以上の歳月をかけ制作された。

カイロでエジプト研究が進む中、イギリス軍の反撃の足音がひたひたと迫ってくる。
そんな中、あの世紀の大発見が起きた。
フランス軍はイギリス軍の攻撃に備え、アレクサンドリア周辺に前線基地を構えた。
ラシードにあった要塞を補強したのもその1つだった。
その作業中、1人の兵士が謎の黒い巨石を発見、それがロゼッタストーンだった。
石は直ちにアレクサンドリアの守備を任されたムヌー将軍に送られる。
将軍はロゼッタストーンを前にすると目の色を変えた。
「これはエジプト文字解読へ導く石だ。」
なんと石の表面には3種類の文字群が刻まれていた。
一番上には謎の文字であるヒエログリフ、その下にはヒエログリフの崩し文字であるデモティック、一番下には現代でも読むことのできるギリシア文字が刻まれていた。
ギリシア文字から、この石には古代エジプトの王を称える言葉が刻まれていることが分かり、ヒエログリフにも同じ内容が書かれていると推測された。
石はすぐに学者たちのいるカイロへと送られる。
が、しばらくするとイギリス軍がカイロを目指しているという知らせがナポレオンのもとへと届く。
すると、「ロゼッタストーンをアレクサンドリアに戻せ。
死んでもイギリス軍へ渡すなとムヌーに伝えよ。」
首都カイロよりアレクサンドリアの方が安全だろう、このナポレオンの判断は、実は大きな間違いだった。
石を発見してから2年後、ムヌー将軍が守っていたアレクサンドリアは、ついにイギリス軍により陥落してしまう。
エジプトで集めた収集物は奪われ、結局ムヌー将軍がマットで隠していたというロゼッタストーンも見つかってしまう。
石を引き渡すよう求められると、ムヌー将軍はとぼけたり私有物だと言って、決して首を縦にはふらなかった。
しかし結局ロゼッタストーンはイギリス軍のものに。
持っていかれる時、将軍は人目もはばからず、涙を流したという。
ロゼッタストーンの側面に書かれているのは、イギリス軍がフランス軍から石を勝ち取った時に書かれたと言われている。
実際に当時のイギリス人は大変誇らしく思ったという。
ナショナリズムや国際問題も含むこの文は、今となっては非常に後悔が残る文字。
それはまさにイギリスがフランスに向けた勝利宣言に他ならなかった。
■たけしの大百科チェックポイント
ナポレオンのエジプト遠征が後世に残した遺産は、ロゼッタストーンだけではなかった。
ナポレオンはロゼッタストーンにも負けないほど世界的にも有名なものをパリに残している。
 
​ナポレオンはエジプトから持ち帰った収集物などを集め美術館に集め、ナポレオン美術館と名付けた。
その後ルーブル美術館と名前を変えた美術館のいたるところに今ナポレオンのNのマークが残っている。

エジプトからイギリスへ運ばれたロゼッタストーン、ヒエログリフの解読は持ち帰ったイギリスばかりが挑んでいたわけではなかった。
なぜイギリス以外の国でも解読に取り組めたのか。
イギリスへ渡ったフランスの学者たちは、ロゼッタストーンがイギリス軍に奪われる前に写しをとっていた。
どうやってその写しをとったのか?
当時写しに使っていたものは、私たちの生活にもなじみのあるもの。
学者たちは靴墨を石の表面塗り、紙を押し当て写しをとっていたという。
イギリスとフランスの面子をかけた戦い、解読対決がここに始まった。
先手を取ったのはイギリス、物理学者のトーマス・ヤングがヒエログリフの解読に挑んだ。
ヤングは物理学だけでなく、医学、言語学など、様々な分野で活躍した天才学者。
そのヤングが目をつけたのが、ヒエログリフで書かれている文書の中に何度も現れるカルトゥーシュと呼ばれる楕円の枠。
ヤングは、ロゼッタストーンの中のヒエログリフと、その下に書かれているギリシャ語を見比べた。
そしてカルトゥーシュの中のヒエログリフが、ギリシャ語部分に何度も出てくる王の名前プトレマイオスであると考えた。
当時絵で描かれていたヒエログリフは、そのすべてが意味を絵で表した表意文字だと考えられていた。
例えばパンの絵が意味するのはパンである、というように。
しかしヤングは当時の定説を覆す。
パンの絵はパンを意味するのではなく、アルファベットの「T」の音であると主張した。
ヤングはヒエログリフがアルファベットと同じ表音文字である可能性を見抜いた。
そしてその考えからカルトゥーシュの中のヒエログリフの読み方がプトレマイオスだと分かった。
だが後にヤングが解読したアルファベットのほとんどが間違いだったことが判明する。
ヤングによる解読成果の発表は、フランスを落胆させた。
ロゼッタストーンを奪われた上に解読も先を越されてしまうのかと。
しかしそのフランスに救世主となる人物が現れる。
それが天才言語学者ジャン=フランソワ・シャンポリオン。
1790年フィジャックに生まれたシャンポリオンは、わずか19歳でグルノーブル大学の助教授になるほどの頭脳を持っていた。
さらにその頃すでにラテン語をはじめ、ヘブライ語、アラビア語、サンスクリット語、中国語などを習得、言語に関してのエキスパートになっていた。
シャンポリオン博物館、もとはシャンポリオンの生家だった。
現在は改築され、彼が残した貴重な資料や記録などを展示している。

​自らの人生をかけ、ヒエログリフの解読に挑み続けるシャンポリオン、1815年シャンポリオンのもとにある知らせが届く。
ナポレオンが当時シャンポリオンが暮らしていたグルノーブルに来るというのだ。
そしてついにシャンポリオンは、英雄ナポレオンとの対面を果たす。
2人は古代エジプトのファラオに思いをはせ、熱く語ったという。
ナポレオンの激励を受けシャンポリオンは、すべてを投げ打ち、ヒエログリフの解読に挑む。
ナポレオンと会って6年後、グルノーブルからパリに転居し、マザリン通りのアパートに研究の場を移したシャンポリオンは、兄の援助で食べつなぎながら、まさに寝食を忘れ研究に没頭した。
そして解読を始めて13年目、ついに歴史を変える日が訪れる。
解読のカギとなったのは4世紀にエジプトで生まれたコプト語であった。
シャンポリオンにとって決定的だったのは、ヘブライ語・中国語・中東の言葉など世界中の言葉に幼い頃から興味を抱き研究し、実際に話せるようになっていたということ。
彼が貯えた膨大な知識と情熱が解読の成功へと導いたのだ。
1822年9月14日、アパートで図版を詳しく調べていたシャンポリオンは、それまで見たことのないカルトゥーシュの中の人名に気が付いた。
最初の図は、それまでの研究から太陽を表す図であることが分かっていた。
最後の図は、ロゼッタストーンの研究からプトレマイオスの最後の文字Sだと分かる。
そして真ん中の図は「生む」を意味する図であり、コプト語では「MIS」、この頭文字を当てはめてみると、ラムセス・・・クレオパトラ・・・
シャンポリオンは、コプト語をヒントに、ヒエログリフの文字を合わせ、独自の対応表を作り上げた。
コプト語に精通していたシャンポリオンは、ついにヤングよりも正確にヒエログリフにあう音を解読した。
ヒエログリフの解読に成功したシャンポリオンは、興奮のあまり半狂乱となり、パリの町を走り抜け、「ついにやった」と叫ぶと、そのまま記憶を失ったという。
このシャンポリオンの功績により、後にピラミッドを造った主の名前をはじめ、エジプト文明の様々な謎が明らかになった。

■たけしの大百科チェックポイント
シャンポリオンの快挙には多くの人々が称賛を贈った。
が一方で解読をきっかけに大議論が巻き起こった。
議論のきっかけは、古代エジプト文明の解明が、ある人々にとってはとても都合の悪いものになってしまったから。
​シャンポリオンが反感をかった相手とは?
シャンポリオンのヒエログリフ解読により、エジプトには紀元前2300年頃から文明があったことが判明した。
この事実は当時カトリック教会の教えていた歴史とは矛盾していたため、教会が反論したという。
​たけしの新・世界七不思議大百科に掲載されるのは・・・
File008翡翠の仮面
File009ロゼッタストーン
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幻解!超常ファイル〜失われた大陸・アトランティス
1882年イギリスの首相が驚くべき提案をした。
ウィリアム・グラッドストン(当時のイギリス首相)「政府は南大西洋に軍艦を派遣、アトランティス大陸の調査を行うべきだ。」
世界にかんたる大英帝国の首相が国家をあげて探し出そうとしたアトランティス、世界の文明の原点と言われる大陸とは、いったい何なのか?
伝説は紀元前10000年ごろまで遡る。
アトランティス、それはかつて大西洋にあったと伝えられる島。

その最大の特徴は、巨大な丸い運河が三重に連なり完璧に設計された都市。
港は他の大陸や島々から訪れた船で満ち溢れ、昼夜を問わず多くの民でにぎわっていた。
石壁は銅や錫でびっしりと覆われ、中央都市の壁は、オリハルコンという金の次に希少価値が高い幻の金属が炎のように燦然と輝いていた。
島全体の山々の大きさや美しさは、あらゆる山を凌駕し、人々から称賛されていた。
自然にも恵まれ、あらゆる植物や農作物も豊富、野生動物の中にはゾウまでいたという。
アトランティスを最初に治めたのは、海の神ポセイドン。
そして時が絶つとその子孫たちに引き継がれた。
「神の性質を持つ彼らは、黄金や財産への欲望を抑え、友愛や徳を大事にする生き方で穏やかに島を治めた。」
(古代ギリシャの書『クリティアス』)
しかしその行く末は、悲しむべきものだった。

「アトランティスの民に宿っていた神の性質は、代を重ねるにつれて人間の性質に変わり、大切な得を失っていった。
よこしまな欲望を満足させ、その力をほしいままにすることで、自分たちは栄光と祝福の中にあると思い込んでいた。」
そのあげくアトランティスは、軍勢を出して他の国々を支配しようと戦争を始めたのだ。
アトランティスは堕落した・・・全能の神ゼウスは怒り罰を下す。
恐るべき天変地異が襲い掛かった。
そして一昼夜の間にアトランティスは海深くに姿を消した。
幻の国アトランティスは、果たして実在したのか?

この話は紀元前4世紀、古代ギリシャ・アテナイ、大哲学者プラトンが書き残したもの。
彼は自らの先祖がエジプトの神官から聞いた伝承として、古の繁栄に満ちたアトランティスの様子を描いた。
「何とも不思議な話ではあるが、しかし紛れもない真実の話である。」
プラトンが真実だと語るこの話、やはりアトランティスは本当なのか。
西洋文学研究家・庄子大亮「本当の話、真実だというのはプラトンの哲学的思想において、あるべき国の姿や、なってはいけない国の姿を話していることについて、これは本当のことだと・・・
歴史的事実という文脈で言っているわけではない。」

プラトンが生きた時代彼の故郷アテナイは彼が語るアトランティスとよく似た状態にあった。
そんな人々のありさまをプラトンは嘆いていた。
「アテナイ人はかつては慎みがあって法律をよく守り友愛の心を持っていた。
しかし今や思い上がったあげく法に服従せず神々までも軽視してしまうようになった。」
プラトンにとってアトランティスは、まさに故郷アテナイを強く意識して描いた国だったのだ。
プラトンが語ったアトランティス物語、それは理想的な国家が欲望にまみれ滅んでゆくことへの警告だったのか。

やがて2000年以上を経て、この物語は思わぬ方向へと動き出す。
1882年アメリカ、1冊の本『アトランティス〜大洪水前の世界』が欧米社会にアトランティスブームを巻き起こした。
「『すべての道はローマに通ず』と言われるように、すべての文明はアトランティスに通ず」

アトランティスは世界の文明の源だ、画期的な説を掲げたのはミネソタ州元副知事のイグネイシャス・ドネリー、彼が自説のヒントとしたのはエジプトと中南米、大西洋を隔てた2つの古代文明に共通する遺物や文化だった。
ピラミッドはどちらも四角錐を基本に巨大な石積みで造られている。

ミイラは死者の魂が復活すると信じた特殊な埋葬、太陽を神として崇拝する信仰・・・
大西洋を挟んで何千キロも離れた2つの地域で、なぜこれほどそっくりな特徴がみられるのか。
「大西洋の両側に全く同じ芸術や科学、信仰、伝統が存在している。
その理由をそれぞれの大陸の人々が別々に、偶然、同じ文化に到達したからだというのか?
そんな考えはばかげている。」
現代の研究では、それぞれ別々に発展した文明だと分かっている。
しかしドネリーは当時の知見をもとに、どちらもアトランティスに由来するものだと主張したのだ。
さらにドネリーはアトランティスの物語にキリスト教の旧約聖書や世界各地の神話との共通性を見つけだす。
理想郷のような島の様子はエデンの園をはじめとする各地の楽園伝説を、神の怒りに触れて水没するところは、ノアの方舟を思い起こさせる。

これらはアトランティス滅亡から生き延びた人々が世界中に散らばり、その記憶と文明を伝えたものではないか。
ドネリーのアトランティスのイメージは、プラトンのものからは変わっていった。
「アトランティスは現代の私たちとほぼ同等の高度な文明を享受していた。
蒸気機関や電気まではなかったが、ほぼすべての芸術や科学の生みの親であり、最初の文明人である。
この失われた人々は我々の祖先であり、あらゆる人種や言語、思想、信仰は彼らに通ずるのだ。」
ドネリーの本は欧米で大ヒットし、イギリスの首相がアトランティスの調査を求める事態まで招いた。

考古学者・ケネス・フィーダー「世界の文明はそれぞれの先住民がみずから発展させてきたもの。
そこに外部の助けは必要なかった。
そして西洋の人々は先住民たちがすばらしい創造性と能力を持っていることを認めようとしなかった。
アトランティス伝説はこういった問題もはらんでいる。」
プラトンが教訓として描いたアトランティスは、ドネリーによって世界の文明発祥地へと変貌、さらに20世紀思いもよらぬ巨大な幻想へと拡大してゆく。
アトランティスの他にも「失われた大陸」と呼ばれる存在がある。
大西洋にはアトランティス、太平洋にはムー大陸、そしてインド洋にはレムリア大陸などが昔から噂されてきた。
でも実際の大陸はプレートという厚さ100kmもの硬い岩盤の上にある。
もし過去に巨大な大陸が存在していたら、その痕跡はプレートに残っているはずだが、これまでの調査では確認されていない。
そうしたことから、幻の大陸の存在は、完全に否定されている。

アトランティス伝説が世界の歴史に大きな影響を与えてゆく。
19世紀後半イギリス、国が近代産業で繁栄する一方で、人々の心は大きく揺らいでいた。
きっかけは1859年チャールズ・ダーウィンが発表した進化論、人間は動物から進化したもので、動物の1つに過ぎない。
こうした科学的思想が大きな衝撃を与えていた。
それまで長年キリスト教社会の人々は、人間は神に似せて造られた特別な存在と信じて生きてきた。
その価値観が崩れたのだ。
私たち人間とは何者か・・・人々は納得のゆく新たな可能性を模索していた。
そこにアトランティス伝説を取り入れた新たな思想を説く人物が現れた。
ロシア出身のヘレナ・P・ブラヴァツキー、キリスト教やインド哲学、古代エジプトの宗教などに進化論まで取り入れ、神智学という独自の考えを提唱した。
それは人間の霊は生まれ変わりながら進化を繰り返してゆくという考え方だ。
まず最初の人類は神聖なる土地に肉体を持たない霊的な存在として登場。(第1根幹人種)
やがて物質化した肉体を持つ存在に進化、その霊の中の優れたものが進化し、初めて人間の肉体を持ったのがアトランティス人だという。
アトランティス人はテレパシーで意思の疎通を行い、高度な科学と芸術を発展させた。
そしてアトランティスに巨大な都市を築き繁栄していった。
ところがそのアトランティスも滅亡、災難を逃れた優れたアトランティス人が、世界各地に散らばり、人類の指導者として君臨、その地に文明をもたらしたという。
そして進化の次の段階として現れたのがアーリア人(第5根幹人種)、当時ヨーロッパ人の祖先として考えられていた人々。
ブラヴァツキーはこのアーリア人こそ、アトランティス人の優れたところを引き継いだ支配種族であるとした。
やがて人は、次の段階では肉体を離れ、霊体へと進化、さらなる未来では、神のような存在に進化するという。
進化論とアトランティスを取り込んだブラヴァツキー、アトランティスを現在の人間の起源と位置づけながら、人類の未来までも描いたこの説は、欧米で大勢の支持者を集めた。

なぜ、このような神秘的な説を人々は求めたのか。
当時は人々の価値観が大きく揺らいでいた時代だった点を専門家は指摘する。
「キリスト教的な歴史観であるとか創造説というものが説得力を持たなかった段階で人々がどういう歴史観、死生観にのっとって自分の人生の目標を見つけていったらいいのかという問いに直面したとき、我々はこういう仕方で今以上に進化・発展できるという前向きで一見科学的なビジョンを与えた。」
やがてブラヴァツキーの説は同時代の学者たちの研究と交わりながら発展、アトランティス人とその後継者アーリア人こそ優れた存在とする考えは広まっていった。

その思想と意外な関係があるのが映画『インディージョーンズ〜レイダース失われたアーク(聖櫃)』1930年頃エジプトヤインド、中南米などを舞台に古代の伝説の遺物を探し求める冒険アクション。
謎の力を秘めた遺物をめぐり、主人公はナチスドイツなどと激しい争奪戦を繰り広げる。
実はこの設定、まるっきりの作り話ではない。
ナチスドイツは本当に古代の伝説の遺物を探していた。

アドルフ・ヒトラー率いるドイツの独裁制とナチ党は、自らの権力の正統性を古代の歴史に求めていた。
自分たちドイツ人こそ人類の上に立つ優れたリーダー・アーリア人の末裔だというのだ。
「我々が今日持っている人類文化 芸術 科学 および技術の成果は、ほとんどアーリア人種が創造したものである。」
こうした思想を強く持ったナチ党幹部のハインリヒ・ヒムラー、特別な研究機関・ドイツ古代遺産協会アーネンエルベを組織、アーリア人に関する調査を世界中に広げてゆく。
アーネンエルベはドイツ人の祖先の古代文字ルーン文字に似たシンボルを持つ遺跡を世界中で探索、優れた文明につながる証拠を見つけ出そうとする。
特にアトランティス人とアーリア人のつながりが証明できる場所として注目したのが大西洋のカナリア諸島、この地の伝承では、金髪 長身 白い肌の先住民族がいたという。
事実、髪が金色になったミイラが発見され、その真偽が議論されていた。

アーネンエルベはこうしたミイラをアトランティス人が白人だったことの証拠であり、アーリア人につながるものだと主張した。
文明の指導者アトランティス人の伝説と現実社会の権力が結びついた時、人間を優劣で分ける時代が始まる。
ヒムラーは自らが率いる親衛隊をアーリア人の純潔性を守るエリート部隊とすべく、長身で金髪、青い目を持つ隊員を集めてゆく。
その方針についてヒムラーは、人間を植物に例えてこう語っている。

「品種改良を行う栽培家を同じだ。
立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。
我々はまず質の良い植物を選別する。
それから我々た使えないと思う者 つまり雑草を除去するのだ。」
お前は劣っている、そう決めつけた人々への弾圧、排除、ユダヤ人をはじめとする人々は町を追われ、強制収容所へと送られた。
そして犠牲者数百万にも及ぶ大虐殺へとつながっていった。

失われた大陸、超古代文明アトランティス、古に理想を求める人々の強い願いは、時に人間の心の闇までも浮かび上がらせることがあるのだ。
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世界遺産 三大迷宮ミステリー
モナリザ本物のモナ・リザ 意外な正体とは?
イタリア、フィレンツェ、ここはルネサンス発祥の地、14世紀に起こったこの運動は、ヨーロッパ中に広がり、学問、芸術の一大変革活動に発展、その中心地としてフィレンツェは繁栄した。
歴史的建造物が立ち並ぶ町の姿は、当時の華やかさを今に伝えている。

町の中央にそびえるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、イタリアゴシック建築を代表する建造物。
「花の聖母大聖堂」との異名を持つこの教会、シンボルは高さ91mのドーム、1296年着工、1436年完成。


ドームの一面を埋め尽くすように描かれているのは、ジョルジョ・ヴァザーリによるフレスコ画『最後の審判』。
外壁は白を基調に金と緑の大理石で装飾されている。


そのたたずまいは美しくも気高く、世界中の人々を魅了してきた。
あの天才ミケランジェロをして、「これより美しいものは造れない」と言わしめた。


元々は行政機関の庁舎として建てられたウフィツィ美術館、メディチ家の結婚祝いとしてボッティチェリが描いた『春』などメディチ家のコレクションを中心に、イタリア絵画の名作が集まる。

町を流れるアルノ川に最初に架けられた橋がポンテ・ヴェッキオ、屋根付き2階建てのこの橋には、15世紀の昔から宝飾店が軒を連ねる。

町全体が屋根のない美術館とうたわれるフィレンツェ、ヨーロッパ中に影響を与えたその輝かしい歴史により、1982年世界文化遺産に登録された。
フィレンツェ北部に位置するセルビ・ディ・マリア修道院
、2005年ある画家の工房であったことが判明した。
画家の名はレオナルド・ダ・ヴィンチ、この場所で世界で最も有名な絵画が仕上げらえた。
描かれたのは『モナ・リザ』、1503年頃に制作が始まったとされる油彩画、完成までに10年以上もの歳月が費やされたと言われ、レオナルドの持てる技術のすべてが注ぎこまれた。
レオナルドが考案した輪郭線を描かないスフマート技法、奥に行くほど背景が青みがかって薄くなる空気遠近法、さらに黄金比率を駆使し、完璧な構図で描かれている。

彼には死ぬまで手放さなかった絵が3枚ある。
『聖アンナと聖母子』『洗礼者性ヨハネ』『モナ・リザ』
『モナ・リザ』には長年にわたる論争がある。
それは一体モデルは誰なのか?
その謎がドイツのハイデルベルク図書館で明らかになった。
レオナルドの知人でもあったフィレンツェ市の役人が、蔵書の余白に、「レオナルドがジョコンドの妻リザの肖像画など3つの絵画を制作中」と書き込んでいた。
❝モナ❞とは貴婦人につける敬称、つまりモナ・リザのモデルはフィレンツェの富豪フランチェスコ・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドだったのだ。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、レオナルドが『モナ・リザ』のデッサンを描くために使っていた場所。
レオナルドはこの回廊を歩きながらモナ・リザを描くためのインスピレーションを得ていたのではないかと思われる。
少しだけ柱の台座が見える部分があり、その隣にはバルコニーの手摺の上部が描かれている。

1503年にモナ・リザを描き始めたときに、レオナルドはここにいた。
柱やテラスのディテールを見ても、まさにここが描かれた場所だと思われる。
なぜレオナルドは、リザを描いたのだろうか?
1503年ジョコンド夫妻は次男アンドレアを授かったことと邸宅の購入を祝ってレオナルドにリザの肖像画制作を依頼したと言われている。
絵の具の層を赤外線3次元分析で解析したところ、リザの頭から体が紗のベールによって覆われていることが判明している。
16世紀前半のイタリアでは、出産前後の女性が紗のベールをまとう風習があった。
つまりこの作品はジョコンド夫妻が次男を授かった1503年頃に描かれたことは間違いない。

★スイスでモナ・リザとされる別の絵が公開された。
通称アイルワースノモナ・リザ。
鑑定をしたモナリザ財団が、レオナルドが描いた作品と発表し、世界中に波紋が広がった。
ルーブル美術館のモナリザと同様、夫人が微笑みを浮かべ、全く同じポーズをとっている。
しかしこの2枚の絵には大きな違いがある。
ルーブルのモナ・リザよりアイルワースのモナ・リザのほうが明らかに若く見え、タッチも違って見える。

レオナルドを研究するロドルフォ・パーパ(ウルバニアーナ大学)「アイルワースのモナ・リザはレオナルドが描いたものではない。
まず画力が明らかに違う。
ルーブルのモナ・リザはあらゆる面で完璧に描かれている。
それに比べてアイルワースのモナ・リザは雑さが目立つ。
ルーブルのモナ・リザの背景は奥行きがしっかり表現されている。
アイルワースのモナ・リザは、奥行きもなければ何が描かれているかもわからない。非常に曖昧。
レオナルドは影を表現することでモデルの心の内面が見る側にも伝わるよう描いている。
それは彼の卓越した技法があってこそ可能になった。
一方、アイルワースのモナ・リザは若く見えるが実際はそうでないと思う。
アイルワースのモナ・リザは単純化されその技法も後世のものが使われている。」

もう1つ大きな違いがある。
ルーブルのモナ・リザは板に描かれているのに対し、アイルワースのモナ・リザはキャンバスに描かれている。
レオナルドは作品をキャンバスに描くことはなかった。
様々な点から見て、アイルワースのモナ・リザは別の画家が後世に模写したものだと思われる。
スペインのプラド美術館が行った発表が世界中を驚かせた。
プラド美術館はモナ・リザの模写とされる絵を所蔵している。
検証の結果、この絵はレオナルドの工房でルーブルのモナ・リザと同じ時期に制作されたことが分かったというのだ。

スペイン、イベリア半島のほぼ中央に位置するマドリッド、かつてスペインが世界の覇権を握った16世紀、首都に定められた。
18世紀に入ると、カルロス靴録靴靴し歃僂篳顕宗科学などをヨーロッパ各地から積極的に導入し、マドリッドを近代的な都市へと成長させた。

そのカルロス靴設計を命じたのがプラド美術館、1819年世界有数の規模を持つ美術館として開館した。
15世紀以来のスペイン王家歴代のコレクションを展示、所蔵絵画は8000点以上におよぶ。
ベラスケスの『ラス・メニーナス』、ゴヤの『着衣のマハ』『裸のマハ』、ルーベンスの『三美神』、ボスの『快楽の園』など世界的名画が並ぶ。

このプラド美術館には1819年の設立以来、モナ・リザの模写とされる絵が展示されている。
その絵について研究を行ったミゲル・ファロミール(プラド美術館・主任キュレーター)「このモナ・リザは発見された時は発見された時は背景が黒く塗られていた。
赤外線で検査をしたところ、黒い絵の具の層の下に別の背景が描かれていることがわかった。
この絵は背景が未完成だとみられていた。
だから黒く塗りつぶして絵の価値を上げようとしたのだろう。」

さらに紫外線、X線、また油やチョークの材質を化学分析するなど多角的に調査した結果驚きの事実が判明した。
このモナ・リザは、レオナルドの工房で、ルーブルのモナ・リザと同時期に制作されたことがわかったのだ。
プラド美術館の見解としては、弟子の誰かが描いたものだと判断しているが、はっきりした根拠はない。
レオナルドの作品ではないと言い切る明快な証拠があるわけではない。
ここでプラド美術館とルーブルのモナ・リザを徹底的に比較してみる。

まずは構図、モデルは正面から背景は俯瞰するという独特の構図。
そして次第に風景が消えてゆくような画風は、レオナルドが研究した空気遠近法と呼ばれるもの。
そして色合い、ルーブルのモナ・リザは保存状態た悪く色がくすんでいることが知られている。
復元作業を行った結果判明した元の色合いがこれ↓

共通する鮮やかな色使い、またどちらもキャンバスではなく木の板に描かれ、サイズも縦横ともにほぼ同じ。
赤外線調査により絵の具に隠れていた下絵の線が現れた。

2枚の絵は下絵の細かな線まで一致している。
指の線も、髪のラインも下絵が同じだということが分かる。
レオナルドの下絵が描かれたのと同時に写したのだと思われる。
だから同じ線があるのだ。
2枚は同時に描かれていったということ。

一方違うところもある。
同じ人物のように見えるが、プラドのモナ・リザの方が明らかに若い。
この点について、ある芸術家が興味深いことを記している。
レオナルドと同時期に生きた16世紀のイタリア人芸術家ジョルジョ・ヴァザーリが、モナ・リザを実際に目にして著書にこのようなことを記述している。

画家・彫刻家・建築家歴殿より〜「若く、唇が赤く、眉は薄く伸びている。」
そう、プラドのモナ・リザと一致する。
スペイン、トレド、三方を川に囲まれた岩山、そこに築かれた天然の要塞都市トレド、1561年までスペインの首都として繁栄し、文化芸術の中心地となった。
その歴史は古くローマ時代にさかのぼる。
西暦560年には西ゴート王国の首都となった。
以来イスラム教徒と戦った歴代キリスト教王国の要衝地として長い歴史を刻んでいる。
その複雑な歴史から、イスラム教ユダヤ教キリスト教の文化が交錯、この町の独特の景観を織成している。
ローマ時代からの文明の痕跡を残し、様々な文化が入り混じった建築様式などが評価され、旧市街全域が古都トレドとして1986年に世界遺産に登録された。
その景観は、「もし1日しかスペインに居られないのなら、迷わずトレドへ行け」とまで言われたほど。
スペイン絵画の巨匠として名高いエル・グレコが愛した街としても知られている。
ギリシャからやってきたグレコはこの町に魅了され、様々な傑作を生みだした。
代表作『無原罪の御宿り』にもトレドの景観が描かれている。

トレドの入り口アルカンタラ橋が架けられたのは8世紀のこと、長きにわたる戦いの歴史を見続けてきた。
旧市街に入ると、待っていたのは迷路のような路地。
中世の面影を色濃く残すこの町は、多くの観光客を引き付けてやまない。
中心部へと延びるコマーシャルストリート、古い建物を改造した店が立ち並び賑わいを見せている。
町の中心にそびえるトレド大聖堂は、スペインカトリックの大本山。
奥行き120m、高さ92m、スペイン最大級の大聖堂。
1226年に建設が始まり、完成までに250年を要した。

その造りはフランスゴシック様式を基本としながらイスラムの影響を受けたスペイン独特の様式が随所にみられる。
天井には聖母マリアに召されたトレドの聖人が描かれている。
トレドの町を見下ろす宮殿アルカサル、はたしてここにプラドのモナ・リザの手掛かりはあるのだろうか?

1551年に改築が完成し1561年に首都がマドリッドに移るまでの10年間カルロス1世の王宮として使われていたとされる。
当時は世界中の美術品で華やかに彩られていたとう。

かつて要塞だった王宮アルカサル、現在は軍事博物館となっており、イスラムから国土を取り戻した1492年以降の様々な時代の武器や軍服などおよそ36000点が所蔵されている。
かつて兵士の交代の儀式が行われていたという中庭、そこには王家の紋章が唯一残されている。

しかしモナ・リザの手掛かりは見つからなかった。
モナ・リザは本当にここにあったのだろうか?
トレドの美術研究の第一人者ホセ・レドンド(カスティーリャ・ラマンチャ大学教授)「プラドのモナ・リザがアルカサルにあった可能性はある。
あの絵はスペインの王宮コレクションの中に入っていた。
エル・グレコと親しかったポンペオ・レオーニを通じてスペインにやってきた。
ポンペオ・レオーニはフィレンツェにいた美術品の収集家だった。
レオーニはレオナルドの作品を非常に高く評価し集めていた。
レオナルドの手稿をレオナルドの弟子メルツィの子を通して手に入れていた。」

レオナルドの手稿はおよそ40年にわたる科学や生物などの研究成果が記されたもの。
レオナルドの死後これらの手稿は弟子のメルツィが相続したが、メルツィの子はこの作品に興味を示さなかった。
レオーニはレオナルドを高く評価しており、その作品を買いあさったのだ。
ポンペオ・レオーニはメルツィ家からレオナルドの手稿のほとんどを買い取った。

その後レオーニはトレドに頻繁にやってきていた。
手稿はレオーニの手から美術収集家だったレガネス侯爵に渡ったという。
そしてその作品の中にプラドのモナ・リザも入っていたのではないかと考えられる。
侯爵はスペイン王室に収集品のほとんどを献上した。
プラドのモナ・リザはこうして王宮コレクションに入ったと思われる。

スペインマドリッド王宮、16世紀にマドリッドが首都になって以来、王の居城として使われた。
プラド美術館の膨大な所蔵品は元々この王宮にあった王室コレクションを移管したもの。
プラドのモナ・リザが初めて文献に登場するのは1666年、王宮のコレクションとしてプラドのモナ・リザが収蔵されたという記述が見つかっている。
マリア・デル・マール(王宮図書館副館長)「1686年に作成された目録、それ以前のものもあるが修復中のため、これが現在お見せできる最古のもの。
当時は年末に王宮の所蔵品を調べて目録を作っていた。
目録にはこう書かれている。
『レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた婦人画、大きさは縦76センチ横57センチ』
つまり王宮コレクションの中にレオナルドの婦人画が確かにあったということ。」
その絵の大きさはプラドのモナ・リザと完全に一致する。
プラドのモナ・リザはレオナルドの真筆だったのだ。
スペイン王宮の記録に残るレオナルド・ダ・ヴィンチの名、彼の描いたモナ・リザは確かにここにあった。
ではルーブルのモナ・リザは一体誰?
フィレンツェ、マルコ・マネティ(美術史家)ローマ大学で美術史を専攻し、レオナルドの絵画解析にかけては第一人者とされる人物。
レオナルドが集成手放すことがなかった3枚の絵『洗礼者聖ヨハネ』『聖アンナと聖母子』ルーブルの『モナ・リザ』
3枚の内『洗礼者聖ヨハネ』と『聖アンナと聖母子』が宗教画であるのに、なぜ1枚だけが商人の婦人画なのか?

「女性の肖像画を描くとき、普通は背景に室内を選ぶ。
しかし『聖アンナと聖母子』を見ると人物は荒涼とした屋外に描かれている。
モナ・リザの背景もやはり屋外。
レオナルドはモナ・リザの構図を気に入っていたのだと思う。
彼はこの構図から柱を取り払い背景を屋内から屋外へと変えた。
レオナルドはこの絵を宗教画としたのだ。
『聖アンナと聖母子』で描かれているのは母であるアンナが娘のマリアとその誕生した子を祝福している場面。
この子供こそキリスト。
『洗礼者聖ヨハネ』はキリストの洗礼を行った者とされるヨハネが描かれている。
天に人差し指を向けるポーズは天からの救世主キリストの到来を予告していると解釈されている。」
ではモナ・リザは何を描いた宗教画なのか?
「この女性はベールをまとっている。
つまり妊娠しているということ。
妊娠している女性の宗教画のモデルはただひとりしかいない。
この絵の人物は聖母マリアだ。
レオナルドは救世主の到来、マリアの妊娠、そしてキリストの誕生までを描いたのだ。」

城愛と野望の宮殿エルミタージュ〜女帝エカテリーナの呪い!?
ロシアが誇る世界遺産サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群ヨーロッパとロシアの文化が融合した街並みと人類の歴史の重要な段階を物語る建築物が1990年に世界遺産として登録された。
そんなサンクトペテルブルクの歴史地区で世界にその名を知られるのがエルミタージュ美術館。
18世紀にロシア皇帝の宮殿として造られ、ロシアバロック様式の傑作と言われる冬宮、小エルミタージュ、新旧エルミタージュ、劇場の5つの建物で構成されている。
本館の冬宮はロマノフ王朝時代の王宮、現在は歴代のロシア皇帝が長年にわたりコレクションしてきた芸術作品を展示する美術館となっている。
後に世界遺産となったこのエルミタージュで波乱万丈の人生を送りその生涯を閉じたロシアの女帝エカテリーナ二世、彼女がたどった数奇な人生と大いなるミステリーとは?

ドイツの片田舎の貴族出身だったエカテリーナは、後にロシアの皇帝となる皇太子ピョートルと結婚、そして夫の死後自ら女帝の座に就いた。
しかしなぜエカテリーナはロシアで女帝として君臨することができたのか?
底には世界遺産に秘められたミステリーがあった。
ミステリーのカギを握るのは、王妃が意のままに操った21人もの愛人たち。
その愛人たちは次々に不可解な死を遂げてゆく。
そして夫ピョートル三世の死も謎に満ちていた。
事故か病死か、あるいはエカテリーナが持っていたダイヤの呪いなのか?
女帝エカテリーナ、彼女の数奇な人生は同じ時代を生きたもう1人の王妃フランスのマリー・アントワネットと交錯する。
26歳も年の離れた2人は不思議なほど似た境遇だった。
2人とも若くして異国に嫁ぐが、新婚当初から夫とは不仲で、次々に愛人を作ってゆく。
だが2人の人生の結末は大きく違った。
アントワネットは民衆の怒りを買い処刑台の露と消えた。
その一方エカテリーナは民衆に支持され女帝として君臨する。

エカテリーナはいかにして大帝国ロシアを手に入れたのか?
その後大帝国ロシアはなぜ衰退してしまったのか?
エカテリーナが女帝になった裏にあったのは野望、愛憎、そして謀略・・・
かつてロシア帝国の都だったサンクトペテルブルクは2013年ロマノフ王朝開始400周年を迎えていた。
かつて沼地だったサンクトペテルブルクは、水上交通の要として運河が縦横に走り、その美しい景観から北のベネチアとも称されている。
18世紀初頭、初代ロシア皇帝ピョートル大帝はヨーロッパに比べ整備の遅れていたロシアの近代化を決意、ロシアの都にふさわしい街に作り上げた。
ピョートル大帝が当時最先端技術を用いて建設したペテルゴフ宮殿は、フランスを代表する世界遺産ベルサイユ宮殿をモデルにしたものと言われている。
こうしてサンクトペテルブルクは、ロシア革命翌年の1918年までおよそ200年間、政治、経済、文化の中心として繁栄を続けた。

ロシアの片田舎出身だったエカテリーナはこの近代都市サンクトペテルブルクに足を踏み入れたとき、どんな気持ちを思い描いていたのか?
エカテリーナはドイツ北部小国ポンメルンを納める貧しい貴族の出身。
帝国ロシアの皇太子ピョートルに嫁いだのは16歳の時、母方の一族がロシア皇帝の一族と姻戚関係にあったのが縁だった。
彼女は容姿には恵まれなかったが聡明で活力に満ちていたという。

ロシア語を寝る間も惜しんで勉強し、嫁ぐ前に日常会話をマスターしていた。
世界遺産・聖イサアク大聖堂、町の中心地にあるロシア正教の教会で、ピョートル大帝が建設した後、落雷で焼失したのを、ルター派から回収したエカテリーナが再建。
言葉を覚え進行する宗教さえ変えたエカテリーナは、必死にロシア人に愛されようとしたのだろう。
しかしもう1人の王妃の生き方は、全く違っていた。

フランス王妃マリー・アントワネット、オーストラリアの名目ハプスブルク家からフランス・ブルボン家に嫁いだ。
1979年フランス初の世界遺産となったベルサイユ宮殿、アントワネットはここで王妃として幸せな結婚生活を送るはずだった。
しかし待っていたのは絶望の日々、夫のルイ16世は内向的な性格で、アントワネットに指1本触れることはなかった。
2人が結ばれたのは、結婚から7年後だったという。
若き王妃はフランス語を覚えようともせず、1年間に170着のドレスを新調、その費用は現在の価格で20億円に及んだという。
ベルサイユ宮殿の北東、庭園の奥にある離宮プチトリアノン、ここでアントワネットは愛人と密会を重ね、夫であるルイ16世ですら入室を許さなかったという。
だが、そんな甘い生活もフランス革命により終わりを告げる。
アントワネットは囚われの身となった。
獄中のアントワネットが手紙で助けを求めたのは、フランスから遠く離れたロシアの王妃エカテリーナだった。
しかしエカテリーナもまた悲劇的な結婚生活に直面した王妃だった。

実はピョートルには愛人がおり、さらにエカテリーナを束縛し、隙あらば修道院に幽閉しようとさえしていた。
そんな夫との夫婦生活がうまくゆくはずもなく、結婚から6年後エカテリーナは、愛人を作り始めた。
サンクトペテルブルクに立つエカテリーナの銅像、その足元にはエカテリーナを公私ともに支えた8人の男たちがいる。

中にはエカテリーナの愛人も・・・
王妃でありながら次々と愛人を作ったエカテリーナは、アントワネットのように自分だけの場所を作り始める。
それがフランス語で隠れ家を意味するエルミタージュ、世界遺産エルミタージュ美術館の本館となっているのが冬宮。
その冬宮に入りまず通るのが❝大使の階段❞、各国の大使がこの階段を上りロシア皇帝に謁見したことからこの名で呼ばれている。

大玉座の間、エルミタージュで最も大き部屋で、およそ800屬旅さ、皇帝に謁見するに相応しく、天上の模様は金箔で装飾され、部屋の大部分は大理石で造られている。
聖ゲオルギーの間とも呼ばれ、正面の玉座の上にはロマノフ王朝の守護聖人である聖ゲオルギーのレリーフが飾られている。

エルミタージュ美術館に所蔵される数々の芸術作品、1764年にエカテリーナがドイツから美術品を買い取り、エルミタージュコレクションが始まった。
ラファエロの『聖家族』、レンブラントの傑作『ダナエ』などが展示されている。

そして冬宮の横に建つ小エルミタージュにあるパビリオンの間、エカテリーナの側近だけが集まる夜会の会場だった。
古代建築やルネサンス建築の様式が混在してる、そのパビリオンの間にある孔雀のカラクリ時計はエカテリーナが愛人ポチョムキンから贈られたもの。

エルミタージュ美術館に飾られた貴重な品々、しかし一般に公開されていないエカテリーナゆかりの品がまだあるとう。
エルミタージュ美術館保管庫には通常は展示されていないエカテリーナの時代の貴重な品々が陳列されている。
エカテリーナ愛用のソリ、エカテリーナはこのソリに友人たちと乗り、スピードを出して友人たちがソリから落ちるのを楽しんでいたという。


エカテリーナの馬車は近衛軍将校グリゴリー・オルロフからのプレゼント、エカテリーナとの関係が特に深かった愛人と言われている。
エルミタージュのほかにもう1ヶ所、エカテリーナが愛してやまなかった宮殿がある。
それが世界遺産エカテリーナ宮殿、宮殿の名前はエカテリーナ1世に由来する。
夏の避暑用の離宮として造られ、夏の宮殿とも呼ばれている。
琥珀の間、部屋全体の装飾が琥珀でできており、その修復には24年物歳月が費やされた。
エカテリーナはこの部屋が気に入り、自らが許す者以外の入室を禁じ、禁断の部屋としたという。
鏡の間、13対の窓と鏡による眩い光の中、舞踏会などが開かれたという。


日本の回船問屋の船頭だった大黒屋光太夫が船で漂流しロシアに流れ着いた後、エカテリーナに謁見したのもこの部屋と言われている。
エカテリーナがエルミタージュやエカテリーナ宮殿にプライベートな空間を作り上げたのは、愛人との逢瀬を楽しむだけだったのだろうか?
その裏にはエカテリーナの野望が隠されていたのかもしれない。


そして結婚から17年、エカテリーナはついにロシアの運命を変える行動を起こす。
1762年1月5日夫・ピョートルが皇帝に即位。
するとピョートル3世は、プロイセンとの戦争で勝利目前に和睦、占領地を返却し賠償金も要求しなかったため、国内に不満が爆発した。
即位からおよそ半年後の1762年6月28日、クーデターが発生、クーデターを起こしたのはピョートル3世に不満を抱いていた近衛軍や貴族だった。
捕えられたピョートル3世は8日後に突然病死、そんな皇帝の死因を発表したのはエカテリーナだった。
「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、余はこれを深く悼む」
エカテリーナはピョートルの葬儀に出なかった。
そしてついに33歳のエカテリーナが女帝として即位した。


なぜドイツの片田舎の貴族の娘だったエカテリーナが、ロシアの女帝になることができたのか?
そこにはエカテリーナが意のままに操った愛人の存在があった。
21人いたというエカテリーナの愛人たち、その中で最も寵愛を受けたのがグリゴリー・オルロフ、端正な顔、背が高くぴょ、筋骨隆々としていたという。
ただの愛人ではなかった。
政治家や外交官を輩出した名門オルロフ家に生まれ、クーデターを起こした近衛軍の将校でもあった。


クーデターの裏で一体何があったのか?
アレキサンドル・カメンスキー部長(ロシア国立研究大学歴史学部)「18世紀のロシアは頻繁に宮廷クーデターが起こっていた。
不評を買った皇帝を交代さえるため近衛軍などがクーデターを起こしたのだ。
ピョートル3世の時もそうだった。
クーデターで一番活躍したのはオルロフ家の兄弟だった。
中でもエカテリーナの愛人だったグリゴリー・オルロフが中心人物だった。
ちょうどそのころエカテリーナは妊娠中だった。
しかも父親は愛人グリゴリー・オルロフと言われている。
そのオルロフがエカテリーナに贈ったものは今もロシアの至宝としてモスクワのグレムリンに保管されている。」
用意周到なクーデター、前皇帝ピョートル3世の普請な死、事実を紐解いてゆくとエカテリーナの恐るべき陰謀が明らかになってくる。

サンクトペテルブルクからおよそ700km、ロシア連邦の首都モスクワ、世界遺産モスクワのクレムリンと赤の広場。
ロシア語で城塞を意味するクレムリンは、12世紀初めから建設が始まり、様々な時代の宮殿や大聖堂などが混在。
貴重な街並みとして1990年世界遺産に登録された。
クレムリン博物館、武器庫の地下に小さな展示室がある。
世界的に知られるロシアの宝石コレクションが納められたダイヤモンド庫、エカテリーナが所有したという世界最大級の赤いトルマリン、1777年スウェーデンの国王より贈られた。
ラズベリーの形に研磨された赤いトルマリンは、226カラット。

そして展示ケースの中央に飾られているのが、エカテリーナが女帝に即位する戴冠式のために造らせた王冠。
以降のロシア皇帝も戴冠式で使用するようになった。
一面をダイヤで覆われ、王冠の上についている赤い石はレッドスピネルという宝石。

陳列されたロシアの宝の中でもひときわ目を引くのが、皇帝が持つ王笏にはめ込まれたとてつもなく大きなダイヤ。
エカテリーナ2世にグリゴリー・オルロフが贈ったもの。
そのダイヤはかつて❝ムガールの星❞と呼ばれ、原石は787カラット、当時世界一大きいダイヤだったという。
ダイヤの最初の持ち主はインドの世界遺産タージマハルを造ったムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン、王座に君臨する一方でその地位と富を狙われていた。

そんな中、ダイヤを寺院に納めると、「かの石に触れる者に災いあれ」という言葉を残し、ダイヤに触れる者に天罰が下るよう呪いをかけたという。
その後息子に皇帝の座を追われ幽閉される。

妻の墓であるタージマハルを見ながら無念の内に死去、以来ダイヤを手にした者はなぜか不審な死を遂げる。
そのダイヤの呪いはエカテリーナと愛人オルロフにも降りかかる。
ダイヤの呪い、それは・・・

1751年フランス人の兵士ベッセルがこのダイヤを盗み出した後喧嘩に巻き込まれ撲殺された。
次にダイヤを手にしたタナー船長は酒の飲みすぎで急死。
タナー船長からダイヤを買い取った宝石商は強盗に殺害される。
1774年アムステルダムで競売にかけられ、50万ドルで競り落とされた。
これは当時小さな国が1つ買えるほどの金額だったという。
このダイヤを競り落とし、エカテリーナに贈った男、それがエカテリーナの愛人グリゴリー・オルロフだった。
エカテリーナはそのダイヤを大いに喜び、王笏にはめ込んだという。
そして❝ムガールの星❞と呼ばれた呪いのダイヤは、2人とロシアの運命を大きく変えることになる。
世界遺産クレムリンで黄金に輝く5つの屋根、ウスペンスキー大聖堂、歴代ロシア皇帝の戴冠式が行われた場所、ピョートル3世を廃したエカテリーナも、まさにこの場所で戴冠式を行い、華々しく女帝に即位した。
その裏にあったものとは?

クーデターのわずか8日後に死亡したピョートル3世、エカテリーナは国民に向け、持病の痔が悪化して病死したと発表。
だが痔が悪化して死亡することなどありうるのだろうか?
エフギニー・リヤロフスキー(ロシア連邦古文書館公表部)「暗殺犯がエカテリーナに送った手紙には、ピョートル3世の死にかかわったという懺悔が書かれている。」
そこには驚くべき真実が生々しく綴られていた。
「あの方はもうこの世におられません。
皇帝を手に掛けることなど許されませんが不幸は実際に起きてしまったのです。
永遠に魂を滅ぼしてしまいました。
私を死刑にしてください。」
リヤロフスキー「これはアレクセイ・オルロフが書いたもの。
アレクセイは、オルロフは、エカテリーナの愛人グリゴリー・オルロフの弟。」
アレクセイはクーデターで拘束されたピョートル3世の護衛の1人で、幽閉中のピョートル3世に近づける数少ない人物だった。
アレクセイは兄グリゴリーに暗殺するよう指示されたのではないか?
兄が皇帝暗殺の首謀者で弟が実行犯だった?
オルロフ兄弟の働きで女帝になれたエカテリーナ、ロシアに嫁いで17年、ついに大帝国ロシアをその手中に収めた。
しかし愛人オルロフには、ダイヤの呪いが降りかかった。
その後オルロフは女帝になったエカテリーナとの結婚を望むが、エカテリーナはオルロフを捨て新たな愛人を作ってしまう。
失意のオルロフは晩年呪いがかかったかのように激しい錯乱状態に陥り、精神を病んだままこの世を去ったという。
オルロフの他にもエカテリーナの愛人たちの末路は悲惨なものだった。
愛人セルゲイ・サルトゥイコフはロシアを追放され、愛人ランスコイは催淫薬の濫用で不審死を遂げた。
その後オルロフダイヤを受け継いだロシア・ロマノフ王朝6人の皇帝は、2人が暗殺、1人が処刑、3人が不審な病死を遂げている。
そして300年づいたロマノフ王朝は、1917年に滅亡した。
世界遺産ペテロ・パブロフスキー聖堂で歴代のロシア皇帝と共にエカテリーナは眠っている。
エカテリーナが本当に求めたのは真実の愛か?大いなる権力か?
女帝エカテリーナと生涯を添い遂げともに眠る者は、誰1人としていない。


大仏奈良の大仏の謎と失われた黄金都市の真実
古都奈良の文化財、かつての首都に繁栄していた文化を伝える文化財として1998年世界遺産に登録された。
奈良の世界遺産の1つに名を連ねる東大寺、大仏様のあるお寺として世界中にその名を知られている。

仏教寺院の正門としては国内最大の規模を誇る南大門、鎌倉時代の仏師運慶、快慶らによって造られた2体の金剛力士像が向かい合って安置されている。
高さ8.4m、わずか69日間で彫られた巨大像。

南大門をくぐると参道の200m先に見えてくるのが中門、中門から続く回廊内に金堂、すなわち大仏殿がある。、
敷地内にはおよそ30もの建物があるが、その中の1つが大湯屋、僧侶の浴室だが、民衆にも開放され、我が国最古の共同大浴場と言われる。

751年に創建された大仏殿は、今より30m幅が広かった。
創建当時は大仏殿の東側と西側に高さ100mほどの七重塔があった。
現存していれば木造の建物として世界1の高さだった。

大仏殿の前にあるのが八角灯篭、東大寺創建当時に造らたもの。
優美な菩薩の姿が刻まれている。

この八角灯篭の奥にそびえる大仏殿、高さ約48m、幅約57m、世界遺産登録時は世界最大の木造建築だった。
高さおよそ15m、正式には盧舎那仏といい、世界を照らす仏、光り輝く仏という意味を表す。
1200年以上たった現在でも世界1大きな鋳造物。

752年開眼供養会(大仏像完成を記念し筆墨などで眼に点召魏辰┷欧鯑れた仏教儀式)が行われた。
1万人の僧侶が参列したほか、インド、中国、ベトナムの僧も招かれ、彼らは巨大な仏様の姿に驚いたという。

大仏造立を決意したのは聖武天皇、743年聖武天皇が大仏造立の詔を発したことで、全国から仏師や労働力が集まった。
人口600万人の時代に大仏造立に従事した人数は述べ260万人。
724年、聖武天皇が即位した当時飢饉や大地震が続き、非常に不安定な状態だった。
また政務の面で聖武天皇を支えていた藤原4兄弟が天然痘により相次いで亡くなってしまう。

混迷を極めていた中、聖武天皇は仏教の力で人々の心を鎮めて平和な鎮護国家を作りたいと目指した。
8世紀の初め人々の希望と願いが込められ、造立された奈良の大仏、だが大仏を造るなら、アフガニスタンのバーミヤンや、世界遺産に登録されている中国の楽山大仏のように岩山を彫って作る磨崖仏のほうが簡単なはず。

なぜ奈良の大仏は、岩山を削るのではなく、溶かした大量の銅を流し込むという難しい方法で造られたのか?
その理由を追ってゆくと、歴史に埋もれた超先進国家の存在が浮かび上がってくる。
世界遺産・奈良東大寺、1200年以上も前から人々の心の支えとなってきた奈良の大仏、長い歴史を積み重ねてきた痕跡がある。
大腿部や台座の部分や右脇腹は大仏造立当時のもの。
完成当初の大仏は、全体が眩い金で覆われていた。
非常に高度な金メッキ法が使われている。
大仏の全身に施された金メッキは、アマルガムとう技術。
金と水銀を混ぜたものを大仏の表面に塗り、乾燥させた後熱して水銀を蒸発させ、金だけを残す技術。
金箔を貼りつける方法に比べ均一で美しく仕上げることができる。
こうして金メッキが施されていた部分は1200年以上たった今でも錆が進行していない。
このアマルガムによる防錆効果は近年ようやく化学的に解明されたもの。
およそ440kgもの金が使われたというが、この金は意外な場所から発見されていた。
金が国内で初めて産出されたは現在の東北地方、当時は東北でしか金が採れなかった。
749年金が国内で初めて採れたのは宮城県涌谷町、産出された場所は現在黄金山神社となっており、国の史跡にしていされている。
大仏造立に金で大きく貢献した東北、東北の金といえば世界遺産に登録されている平泉の金色堂。
この黄金文化に大仏造立の謎が隠されていた。

岩手県平泉、奈良の大仏造立から300年以上後の11世紀末から12世紀にかけて、奥州藤原氏が築いた浄土思想を基調とする文化的な景観が2011年東北地方の初の世界文化遺産に登録された。
平泉を築いた奥州藤原氏は初代清衡、2代基衡、3代秀衡、4代泰衡のおよそ100年にわたり、奥州、すなわち東北を支配した豪族。
東北の金を基にした豊富な経済力で平泉に独自の文化を花開かせた。
850年に開山し12世紀初め、初代藤原清衡によって大規模な造営が行われた中尊寺、黄金に彩られた金色堂は中尊寺の一角にある。
火災などで建物は失われているが、平泉には中尊寺の他にも大寺院が存在していた。
仏の世界、すなわち浄土を表現した美しい庭園が広がる毛越寺、かつては40以上の御堂や塔、また僧侶の生活する建物が数百もあったという。

そして京都・宇治の平等院を手本にしながらそれより一回り広く造られたという無量光院、背後の金瑩山沈む夕日に極楽浄土をイメージしたと言われる。
なぜ金色堂はそれほどまでに煌びやかな金で埋め尽くされているのか?
覆堂の中に金色堂はある。
1124年に完成した金色堂、かつて中尊寺にあった40以上の堂塔の中で唯一現存する建物。
一辺は5.48m高さは8m扉も天井も床も壁も全て金箔。
使われた金箔は64000枚、しかも厚みが現在の金箔の3倍以上もある。
大量の金はどこのものなのか?
平泉の周辺、気仙沼地方、宮城県北部一帯から採れる金は膨大な量、8世紀日本で採れる金のほとんどは欧州の金だった。
奈良の大仏と同じ金。
金色堂が金箔で覆われているのは、すべてが金色に光り輝く仏の住む世界を表現しているから。
そして金色堂の本尊が鎮座する須弥壇には非常に細かな工芸美術の極致とも言われる装飾が施されている。
その1つが須弥壇の下に見られる孔雀、銅板を打ち出してそこに毛彫りをして、孔雀の羽の幅が8mm、そこに0.3mmの線が何本も刻み込まれている。

他にも須弥壇を取り巻く4本の巻き柱に描かれた菩薩像、蒔絵で菩薩の繊細な表情を表現するこの方法は金色堂だけに見られる手法、仏教美術の中で唯一のものと言われ、当時の都にも存在しなかった技術。

そして黄金の装飾をさらに引き立てているのが金色堂に施された螺鈿細工(光沢をもった貝殻の内側部分を切り出し漆器などに貼りつける技法)。
非常に時間と手間がかかるため、建築物に施すことはまずないとう。
螺鈿の数は27000ヶ所もある。
また使われている素材には、海外から入ってきたものもある。
螺鈿細工に使用されているものは夜光貝、南方でしか採れなかった夜光貝が、数千個以上もこの金色堂には使われてる。
さらに須弥壇の手摺に使われているのが日本にはない、東南アジア産の紫檀、また紫檀の縁の部分に線状に切った象牙がはめ込まれているが、この素材もアフリカゾウのものと分かった。

平泉文化が生まれる前から、東北の北上川流域には進んだ技術・今度な文化があった。
自分たちの在来の技術を土台にしながら最高の技術で金色堂を作り上げた。
これが平泉文化の特徴。
北上川流域の岩手県一関市にある質素ながら歴史の重みを感じさせる神社。

奈良時代初期、この辺りに刀鍛冶の集団が存在し、日本刀の原型が作られていた。
刀を製造する技術は、都のある大和より東北のほうが進んでいたのだ。
東北歴史博物館部長・山田晃弘「東北地方の縄文時代からさまざまな高い技術があった。
漆の技術はすごく発達していた。
土器に赤い漆を塗るとか、土器に漆で模様を描く。」
3500年も前から東北では漆で精緻な器を作っていた。
もう1つの高い技術がアスファルト、釣り針は矢じりのつなぎ目にアスファルトを使用していた。
現代の強力接着剤に並び立つ。
東北にはさらに高度な技術があるという。

この菩薩像、奈良の大仏と意外なつながりがあった。
こういう作り方をするのは690年代、まもなく奈良時代になる一時期に作られたと思われる。
この像も奈良の大仏もアマルガム技術が使われている。
東北は都を超えた文明技術を持っていた超先進国家だったのではないか?
日中歴史共同研究委員会・王勇教授「東北は奈良時代以前から桑の栽培と蚕の養殖をし、絹の生産技術を持っていた。」
なんと絹が黄金と同価値だったと言われる奈良時代よりも前に東北には都にはない絹の生産技術があったという。
やはり古代の東北は高度な技術を持っていたのだ。
「また新唐書(唐の成立から滅亡までが書かれた歴史書)という文献には驚くべきことが書かれている。」
”東北の使者が唐の都に謁見しにやってきた。”
なんと倭国とは別に東北の人々が唐に謁見に来ていたという。
さらに旧唐書(新唐書の元になった唐の歴史書)には、これまでの歴史を覆す驚くべき事実が書かれていた。
”日本は倭国(やまと)の別種なり、その国は日の出の場所に在るを以て故に日本と名付けた”
旧唐書では倭国と日本が別の国であると書かれている。
みちのく市民博物館事務局長・伊藤良治「奈良時代に日本の東というのは、今の東北地方、新唐書にも旧唐書にも日本というのは、東北のことを指す。」
なぜ東北にあった超先進国家”日本”は、都の大仏造立に協力したのだろうか?
万葉古代学研究所元副所長・早稲田大学講師・松尾光「奈良の大仏を造立したのは聖武天皇、聖武天皇を支えていたのが藤原四兄弟、藤原四兄弟が東北とつながっていた。」
藤原四兄弟は、朝廷で右大臣や参議などの要職に就き、倭国の政権を担っていた。
そして聖武天皇の母・宮子、妻・光明子の兄弟でもあった。
つまり聖武天皇とは叔父であり義兄弟という特別な存在。
藤原四兄弟の三男・宇合と麻呂は719年から、それぞれ将軍と大使として東北に赴任している。
東北の騒乱を納めた宇合と麻呂は、陸奥を出羽を結ぶ幹線道路を整備するなど東北の発展を進めた。
「藤原氏は東北とつながることで高い技術、豊富な資源、労働力を手に入れた。
これによって藤原氏は都でますます大きな力を持つことができた。」
藤原氏と東北のつながりは、互いに大きな利益だった。
もしかしたら奈良の大仏の造立は倭国と都と東北の日本友好関係の証だったのかもしれない。
しばらくは良好であった都と東北の日本国、しかしその後聖武天皇の娘である孝謙天皇が亡くなり、藤原家とは違う系統の天皇に変わると関係が急速に悪化、770年には東北38年戦争が勃発、ついに東北の日本国は都に併合されてしまった。
そして日本という名も倭国に奪われてしまった。
その後奥州藤原氏によって造られた中尊寺金色堂と奈良の大仏とのつながりとは?
『造興福寺記』奥州藤原氏は聖武天皇を支えた藤原四兄弟の血を引いていた。
奥州藤原氏は平泉に黄金都市を造ることで藤原氏の栄華と超先進国家・日本の再興を果たしたかったのではないだろうか?
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滅びし文明の正体 後編

1968年12月21日、NASAのフランク・ボーマン機長率いるアポロ8号が人類初の月周回飛行に成功した。
乗組員は月の周りを10周飛行し、月面の様子をかつてないほど鮮明に写真に収めた。
そこには月面に存在する数千もの巨大なクレーターが映し出されていた。
多数のクレーターの存在はかつて月に火山活動が活発だった証拠である。
しかし近年では、月に多数のクレーターができたのには、さらに重要な別の理由があったと考えられている。
小惑星の衝突である。

しかもそれは地球にも起こりえたことなのである。
アリゾナ州北部のクレーター、隕石が落下した跡は50000年ほど前にできた。
直径45mの小惑星が時速42000kmのスピードで衝突した。
衝突エネルギーは広島に落ちた原爆の1000倍。

NASA は地球に衝突する危険のある小惑星の軌道予測を開始した。
地球の近辺に軌道を持つ、総称地球近傍天体である。
地球から4500万km圏内に軌道を持ち、大きさはゴルフボールくらいから巨大なものまである。
毎日野球のボールほどの隕石が多数地球に向かってきては大気圏上層部で燃え尽きている。
実際直径が30m以上なければ地表に衝突する可能性はない。
一番最近小惑星が地球に衝突して被害を受けたのは、1908年6月30日シベリアのツングースカ地方だった。
直径30〜40mの小惑星が大気圏に突入した。
前面にかかる圧力が後側にかかる圧力よりはるかに大きかったため、平らにつぶれ、地上から6kmほど上空で爆発した。

その衝撃で東京都の面積にあたる2000k屬糧楼呂砲△詭擇なぎ倒された。
爆発エネルギーは5メガトンを超え、広島に投下された原爆のおよそ385倍だった。
フットボール場ほどの大きさの小惑星でさえ、圧倒的な破壊力をもつ。
だが科学者が恐れているのは、さらに大きな小惑星の衝突がありうること。
問題なのは衝突の衝撃で粉塵や岩が大気圏に飛び散り日光をほとんどさえぎってしまうこと。
酸性雨も降るだろう。
それに大気圏に飛び散った岩が燃えて降り注ぎ、世界は火の海になる。
火災で生じた煤が植物の光合成を妨げ、植物は枯れ、それをエサとする動物も命が危うくなる。
この二次的被害が真の問題。

近年NASAの地球近傍天体プログラムは直径140mを超える天体も観測対象とすることにした。
そのうちの1つ直径300mのアポフィスという名の小惑星は2029年に地球に接近すると予想されている。
アポフィスは地球近傍天体の中でも大きいもので、2004年に発見された。
2029年に衝突する可能性が2.7%とされていたが、そののち0%となった。
でも大接近することには変わりはない。
ヨーロッパでは肉眼で見られる。
非常に近くを通過するのが観測できる。の重力にどの程度影響されるかは予測不能。
アポフィスはいったん遠ざかった後、7年後にまたやってくる。
最初の接近で地球の重力によって軌道が変わったとしたら、その後衝突する軌道に乗るかもしれない。
2029年の接近で、ある特定の鍵穴みたいに小さな空間を通過したら、2036年に衝突するかもしれない。
小惑星と地球の衝突は、もしそれが起きたらではなく、いつ起きるかということが問われている。
小惑星が衝突するとき、現代文明の痕跡は失われてしまうのだろうか。
この現象のせいで古代文明が滅び、忘れ去られていたとも考えられるだろうか。
イギリスの古い童話で、雌鶏が空が落ちてくると思い込む話があるが、人間も傍から見ていると空が落ちてくると騒いでいるように見えるのではないか・・・
空は落ちてこないが、我々の頭上から何かが向かってきているかもしれない。
我々が生きている間に、地球に隕石が衝突するとしたら、被害を最小限に抑える手立てはあるのだろうか?
人類が数世紀にわたり積み上げてきた技術を守る計画は十分に整っているのか。
現代人の運命は儚いものなのだろうか。

タンザニアにそびえるキリマンジャロ、2000年に歴史気候学者のロニー・トンプソン率いる研究チームがキリマンジャロの山頂を覆う氷の奥深くまで穴を開けた。
氷を筒状に削り採取するのだ。(氷床コア)
氷には気候の状態や変動の状態が詰まっている。
数万年前のことも知ることができる。
氷にははっきりした年代の層があり、その層の厚さを測ると、時と共に降雨量がどう変わっていったかが分かる。
過去の大気成分の構成がどう変わっていったかが、氷の中で気泡となって残っている。
二酸化炭素、メタン、過酸化窒素といった気体の80万年前からの履歴がすでに判明している。
微生物が氷の中に閉じ込められていることもある。
5万年以上の間氷の中に入っていた微生物が蘇生したこともある。
氷からわかることは、気候が穏やかな時期と、激しく変動していた時期があったということ。
それが繰り返されていた。

アメリカ、オハイオ州立大学の巨大な冷凍室に、トンプソンが世界中から採取してきた氷の標本が保管されている。
もっとも古いものは、中国の西の端にある山岳地帯で採取した75万年前のもの。
氷床コアを用いた最近の研究結果から、5200年前に地球で劇的な気候変動があったことがうかがわれる。

この突然の気候変動が起きた年代は、アジアや中東で新しい文明が続々と出現した年代と一致する。
なぜその時なのか、10万年間人類は狩猟採集生活をして幸せに暮らしていたのに、どうして急に変わったのか。
その変化をもたらしたものは何なのか、共通の特徴を探ると、農耕社会と関連がありそうなのは、気候であることが浮かび上がってきた。
その時代サハラ地方が枯れた。
4000〜5000年前にはサハラには湖がいくつもあり、人々がその周りで暮らしていたことが、岩に描かれた壁画から判明している。
そのころに何か劇的な変化があったことは明らか。
地球規模の大変動があったとしても、何が原因だろうか?
世界中で干ばつがあったのか、隕石が地球に落下し、その衝撃で日光を遮るほどの塵が舞い上がったのだろうか。
それとも火山の噴火が原因なのだろうか?

噴火は地球にとっては大切。
誕生の時から持つ続けている熱を噴火によって放出しているのだ。
火山の噴火は数十億年にわたり繰り返し起きている。
地球の歴史では人類はまだほんのわずかの年月しか存在していない。
火山は地球に人類が現れるずっと前から噴火していたし、人類が滅亡しても存在する。
つまり火山は地球にとって欠かせない要素。
活火山はいたるところにあるが、そのほとんどは人類を滅亡に追い込むほどの噴火エネルギーはない。
しかし超巨大火山、スーパーボルケーノは別だ。
溶岩とガスがしっかり密閉された火山は圧力が増大する。
そのため爆発すると並外れた大規模な噴火になる。
そのような火山をスーパーボルケーノという。

地球には非常に大きな噴火を起こす火山がいくつも存在している。
その多くは環太平洋火山帯にあり、カルデラを持っている。
ニュージーランド、パプアニューギニア、またアラスカにもある。
スーパーボルケーノは少なくとも7つはあるとみられている。
最大のものはワイオミング州イエローストーン国立公園の地底だ。
科学者によると、イエローストーンで最後に噴火が起こったのはおよそ60万年前のこと。
イエローストーンは比較的若い火山。

噴火はすべて過去250万年の間なので、地質学上は若い方に分類される。
今度噴火を起こしたら、その破壊力は計り知れない。
有史以来、その破壊力はすさまじいものになるだろう。
地球全体の気温が下がり、アメリカ西部一帯が壊滅的な被害に見舞われる。
全てが灰に覆われてしまい、農業も打撃を受ける。
その被害はしばらくの間続き、現代文明に大きなダメージを与えることになる。
大噴火で、灰と有毒ガスが吹き出る。
そして世界中を煙が包む。
数年間は日光がさえぎられるだろう。
世界は闇に包まれ、穀物は枯れ、動物は死に、生き残った人間は飢える。
世界の人口は毎月700万人近いペースで増えている。
歴史上前例がない。

人間は火山の噴火に対して弱く無防備。
地球規模の大災害というとSFの世界の話に聞こえる。
しかし多くの政府や企業がそのような大災害に備えている。
はたしてその備えは十分だろうか?
地球では、種が絶滅の危機に瀕する事態が幾度となく起きてきた。
様々な種類の動植物の数が次第に減少し、少数しか残らないという現象である。
もし今の世界が突然終わりを迎えたら、現代の文化やテクノロジーも簡単に消えてしまうのか。
古代の人々が現代には残っていない技術や知識を持っていたことを示す例はたくさんある。

エジプトの古代アレクサンドリア図書館は、1世紀に入るころ破壊された。
そのため、古代の膨大な知識は失われてしまった。
あの図書館は知識の宝庫だった。
特にエジプト人の持っていた医学の知識は今では知りえないもの。
古代では多くの情報が石にじかに刻み込まれていた。
現在私たちは情報や日々の記録をシリコンのメモリーチップに書きこんでいる。
もしそれが消去されたら、数万年後の人たちが現代人の生活を再現するのは相当難しいだろう。
皮肉なことに、現代の最新技術より、先史時代の壁画の方が未来に残る可能性が高い。
カンザス州ハッチンソンの町の地下200mの地点に、フットボール競技場35個分の広さを誇る巨大な倉庫施設が広がっている。
冷戦中の1959年、廃坑となった塩の鉱床にハッチンソン地下貯蔵倉庫が創設された。
政府の書類や資産を安全に保管するのが目的。
永久保存倉庫とも呼ばれる。
世界最大のタイムカードといえるだろう。
膨大な電力を使わずに室温と湿度を一定に保つ場所といえば地下。
特に塩の特性を活かしたこのような鉱床はうってつけ。

例えば死海文書が発見されたとする。
死海文書の羊皮紙は塩分を含んだ死海の水にさらされた。
今も残っているのは、塩が天然の防腐剤となり、羊皮紙が微生物によって腐敗するのを防いでくれたおかげでもある。
珍しくも貴重な品々が保管されている中、人気映画やテレビ番組のマスターテープが並んでいるのもみえる。
歴史的な写真や文書も同じように保管されている。
気温は20度で安定しているため、保存にはほぼ完ぺきといえる状態を保っている。

南ヨーロッパでは数々の洞窟で先史時代の壁画が発見されている。
保存状態は良好だ。
最古にしてもっとも緻密なものは、1994年に発見されたフランスのARDECHE渓谷にある。
このショーベ洞窟の壁画を鑑定したところ、紀元前30000年のものと判定した。
美しい馬、サイ、クマ・・・現代の美術館においても見劣りしないほどの名画。

ショーベ洞窟の壁画の年代と特質から、人類が誕生した時期について、これまで知られ信じられてきたことが疑わしくなってきた。
この壁画こそ、人類が描いた最古のものとみなされるからだ。
古代の芸術家たちが絵を洞窟の奥深くの岩壁に描いたのは、未来に絵を残したかったからなのだろうか?
3万年後我々が存在した唯一の証拠となるのは、地下に納めたものだけになるのだろうか。
北極点から1300km離れたノルウェーの島SPITSBERGEN ISRAND、砂岩の山の地底およそ120mに、スバールバル世界種子貯蔵庫がある。
不慮の事故に備えて地球上の様々な植物や農作物の種子を保管するため建設された。
現在2000万粒以上の種子が保管されている。
種は絶えず新しいものに変えられ、世界中の種子銀行と交換もしている。
もしも古代の人々が、高度な知識や技術を持っていた証を意図的に洞窟や地下に保管していたとしたらどうだろう。
それを見れば、現代人は一体何者で、どこから来たものなのか知る手掛かりになりはしないだろうか。
そしてさらに現代文明があとどれくらい続けていけるのかを示してくれはしないだろうか。
現代人は存在の証拠も残さずに消え去るのだろうか。

科学者によると、地球は今からおよそ45億年前に誕生したのだという。
ほとんどの学者は人類が存在してからまだ20万年しかたっていないという説を支持している。
しかしその定説が間違いだったとしたらどうだろう。
文明は数億年前にも存在していたが、その証拠が失われているだけなのでは?
実は我々の足元の下に埋まっているということはないだろうか。
もし地球が大災害に見舞われるとしたら、人類に何が起きるだろうか。
過去の文明が本当に失われたのだとしたら、現代の高度に発達した社会の痕跡もゆくゆくは地下に埋まり、やがて忘れ去られてしまうのだろうか。

おそらく人類が生み出したもので残るものがあるとしたら、それはもっとも危険な副産物、核廃棄物だ。
一番危険なのは放射能、たとえ放射性物質は自然に崩壊し、消滅するといっても、問題は消えるまでに数千年、数万年、もしくは数百万年もかかること。
だから処分場の建物は安全で頑丈で長持ちしなければならない。
核兵器の製造や原子力発電で発生した核廃棄物の処分は論争の的。
ただ地球のどこかには捨てなければならない。
それで地底に埋めることが計画された。
いわゆる核廃棄物の地層処分だ。
アメリカエネルギー省は、処分場建設に際し、学者たちに協力を依頼した。
不変性の高い警告サインを考案するためだ。
それは1万年後の未来の人々でも理解してもらえるものでなければならない。
人々に危険を知らせ、警告する神話のようなものを創作する必要がある。
代々にわたって語り継がれてゆく危機感を忘れずにいられる言い伝えをどうにかして作るのだ。
核廃棄物の危険に近寄らないようにしてもらうために。

計画の1つとして処分場の周囲に大規模な豪を掘ることが検討されている。
さらに高さ10m、幅30mのブロックを並べて行く手を阻む。
そして高さ8mの標識を花崗岩で作成し、要所要所立てる。
もちろんこの標識には様々な言語で注意書きを書きこむ。
しかしそのような謎めいた標識で、警告の意味を成すのだろうか?
ただの不思議で不可解な物体になってしまわないだろうか。
ギョベクリテペの奇妙な彫り物やストーンヘンジの巨石のように。
人間が地球上に存在している期間はこの星の歴史45億年の内の1%にもみたない。
しかし我々は本当に小さな点に過ぎず、うたかたの存在でしかないのだろうか。
何十万年もしたら、忘れ去られる運命なのだろうか?
悲しいことに人間は互いに滅ぼしあうことができてしまう。
でも地球を滅ぼすことはできない。
地球は我々より長く存在してきたし、人類より長く存在し続ける。
現代文明も過去の文明も同じように儚いものならば、今起きている様々な出来事は過去にも起きていたのではないのだろうか。
より昔のものが次々見つかっている。
これまで考えられてきたよりもずっと前から文明があったとされるだけの証拠がすでにそろっているかもしれない。
現時点では判別していないだけかもしれない。

歴史はどんどん昔へさかのぼっている。
土器や火の使用や定住が始まったのはいつなのか、年代は定まらない。
定説を覆す動かしがたい証拠が次々現れるからだ。
文明は幾度となく発生したと思われる。
そして何か災害のようなものにより消し去られてはまた現れた。
これは現代人への教訓なのかもしれない。
新しい情報が入れば入るほど、この世界についてわかっているいないということに気づく。
遥か昔に刻まれ、我々が目にすることができた記録はごくわずか。
つまり基本的に何もわかっていないのと同じ。
確かに人類の歴史は謎に満ちている。
だが、その謎を解くカギは人知れず眠っていて、発見されるのを待っているだけなのかもしれない。
しかしもし過去からの警告を見つけたら、我々はどうするのか。
素直に耳を傾けられるだろうか。
それとも無視して、この文明も滅亡するのだろうか。
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滅びし古代文明の正体(前編)

現代の都市を襲う津波、命を奪いすべてを失う。
自身は町も村も徹底的に破壊する。
ハリケーンは大地をはぎ取ってゆく。
犠牲者が出て、生き残った者は土地を追われる。
自然災害は人類の痕跡を消し去る力を持っているのだろうか?

芸術も、建造物も、テクノロジーさえも・・・
遺跡はそれが可能だと物語っている。
しかも何度も繰り返されてきたことなのだと・・・
かつて繁栄を極めた古代の都市、その遺跡が近年次々見つかっている。
それも考えられてきたよりずっと古いものが・・・

一体何が起きて滅亡してしまったのか、現代文明が滅びる可能性は?
現代文明も地上から消える運命にあるのだろうか?
人類になす術はないのか?

オマーンのRUB AL KHALI砂漠、アラビア半島の寂しくも荒涼たるこの場所は、何もない不毛地帯だと考えられてきた。
砂の海、灼熱の太陽、この地に生息するものといえば、日よけ虫か、猛毒を持った蛇、そして遊牧民のベドヴィン族のみだ。
だが、伝説に描かれた姿は現代とは違う。
この地にはおよそ5000年前の昔、神秘の都があったと記されている。
その名はウバール、豊かで美しい国だったが、不道徳な暮らしが神の怒りをかった。
そのため滅ぼされたのである。

コーランには、神の言葉に従わなかったから嵐が起こり、都が破壊されたという話がよく出てくる。
予言者の忠告を聞けばよかったのに、彼らは耳を貸さなかった。
だから消されたのだという。
長い間、歴史家や探検家はウバールが存在した証拠を探し求めてきた。
そこに宇宙時代のテクノロジーが登場した。
その技術と考古学の地道な作業により、この都が伝説ではなかったことが証明された。
1983年考古学愛好家のニコラス・クラップがNASAに型破りな提案を持ちかけた。
アラビア半島の合同調査である。
飛び立つスペースシャトルには電磁波を照射して地下を撮影する装置、シャトル映像レーダが搭載された。
まず宇宙から画像を撮影する。
次に肉眼で見えない細部がデジタル処理で鮮明にされる。
すると砂に埋もれた川床の跡や昔キャラバンが通ったルートも浮かび上がった。
 RUB AL KHALI砂漠の衛星画像から、砂漠の東部の端に沿うようにしてキャラバンルートが伸び、それが1ヶ所に集まっていることが判明した。

調査では当時最新の技術だったGPSシステムを使った。
ヘリコプターにナビシステムを取り付け、衛星画像で分かったキャラバンルートをGPSの誘導でたどった。
井戸か湧水らしきものが見え、ヘリをおろして見ると遺跡と呼ぶにふさわしいものがあった。
それから歴史的な価値のある場所が次々と見つかり、その1つがウバールだと判明した。
荷物を積んだラクダやロバを引き連れた大キャラバンが、この場所にあった古代都市ウバールと沿岸地域の間を往来していたと考えられる。
ウバールは砂漠を横断してくるキャラバンの交易拠点だったのだ。
その後の発掘により、8本の塔と、高さおよそ90mの城壁があったことが判明。
高い柱を持つ都というコーランにある記述と一致した。
もし伝説通りウバールが存在したとすれば、その後の記述もまた真実なのだろうか。
それは砂に埋もれて滅んだという記述だ。
調査の結果、都の下にあった地下水脈が枯れて空洞ができ、それが崩れ町が陥没したと分かった。
それで人々は町を去ったのだろう。

これは伝説に書かれた事実と妙に一致する事実だ。
しかし大災害があったにしても、全人口が消えてしまうとは考えにくい。
本当に一切が消え去ることなど可能なのか?
文化や言語、文明さえも。
この疑問に対する考古学者や歴史家の答えはYesだ。
むしろ跡形もなく消えてしまう方が多いというのである。

この数十年の間、科学者は人類の誕生をおよそ20万年前と考えてきた。
文明の始まりも、わずか数千年前に過ぎないと。
だが新たなる発見から、本当の人類の歴史はどうなのかという疑問がわいてくる。

一般に最初の町ができ、文字が生れると文明の誕生という。
メソポタミア文明の場合は紀元前3500年頃がそれにあたる。
この時期に集団で狩猟採集生活をしていた人々が農耕社会に移行し始める。

自ら食物を育てることで一カ所にとどまり定住が始まる。
これが文明の始まりとみなされる。

1994年トルコ東部SANLIURFA、山腹を耕していたクルド族の農民の手が突然止まる。
半分土に埋まった大きな長方形の石に農具があたったのだ。
農民は数日間石をなんとか取り除こうと奮闘する。
それが思いもしない事態を呼ぶことになった。
農民は石に奇妙な彫り物がされていることに気づいた。
まもなく国際的に組織された発掘隊が現場に入ることになる。
発掘作業が進められた結果いくつもの巨大な石が姿を現した。
どの石も驚くほど保存状態がよく、動物の浮かし彫りがくっきり残っていた。
猪や狐、牛、何種類もの鳥、この地域には住まない動物までも・・・

だが大発見とされた最大の理由はほかにある。
トルコ語で、太鼓腹の丘を意味するこのギョベクリテペの遺跡は、11000年も前のものだったのである。
これまでに発見されたどの遺跡よりも5000年も古かったのだ。
近年レーダー画像の調査が行われ、この遺跡には直径が9mから30mの楕円形の巨大な建造物が20以上あることが分かった。

それぞれの建物の中には石灰岩を四角く削ったT字型の巨大な支柱がたち、その一部は高さおよそ2mの石壁に組み込まれている。
さらに何本かは中心に立っていた。
一体ギョペクリテペは誰が何のために造ったのだろうか。
この発見により、人類が狩猟採集生活から文明社会の生活にゆるやかに移行したというこれまでの定説が覆された。

発掘を行ったクラウス・シュミットは、ここが地域の拠点だったとみている。
非常に印象的な位置にあり、そこから世界中を見渡せる感じがするのだという。
考古学者たちは、新石器時代に遊牧民たちが遠方から旅をしてきて、何らかの儀式を行う場所だったのではないかとみている。
あるいは神殿ではないかというのもあれば、生贄をささげる場所だったとする説もある。
 研究者たちはギョベクリテペが2000年近い間使われていたとみている。
そして紀元前7000年頃、意図的に埋められ打ち捨てられたというのだ。
しかしそれはなぜだろうか?

人は大事な捨てるときは何かするもの、申請で大切なものであれば、去るときは埋めて隠すなどする。
戻ってきたらその上か、近い場所に復元するつもりで。
ギョベクリテペにも同様の痕跡が見られる。
他の場所に移動する前に、意図的にこれらの建物は埋められた。
何か切迫した状況にあったと思われる。
時代を見ればわかるが、氷河期の終わりに気候変動のころに当たっている。
ちょうどこの時期に地球規模の大災害も起きた。
北アメリカ大陸に彗星か隕石が衝突したのが原因かもしれない。
その証拠は各地で確認されている。
ギョペクリテペが作られたのは、この時代のこと。
そう考えると捨てざるを得ない状況にあったことがみえてくる。
隕石の衝突によって地球に異変が起きたことが原因なのか。
それが古代人たちがギョベクリテペを捨てた理由だと考えてもよいのだろうか?
あるいは逆にそれが原因で祈りをささげるための神殿としてあの建物が建てられたとも考えられないだろうか。
その答えは付近にあるアララト山にあると考える専門家がいる。
アララト山は旧約聖書の中で、ノアの方舟が大洪水がひいた後にたどり着いたとされる場所。
MT.ARARATの位置を確認すると、GOBEKLI TEPEから数100kmしか離れていないことが分かる。
あの遺跡で見つかった石に刻まれた動物の中には、なぜそこに描かれているのか説明のつかないものがいる。
あの地域には生息していない種類の動物。
問題はその動物があの当時はいたのか、あるいはどこからか連れてこられたのか。
神話を見ればお決まりの答えが出る。
あれはノアの箱舟に乗ってきた動物だと。
洪水を扱った物語はたくさんある。
世界中のどこにでもある。
アメリカ先住民のオジボア族にも中国にもギリシャ神話にも、ヒンドゥー教の神話の中にも。
つまり実際に起こった大洪水を基にしてこうした神話や伝説が作られた可能性は十分ある。
大洪水を扱った神話や伝説、方舟に動物たちをのせて救ったという話も事実を基にしたものなのだろうか。

その答えのカギは、ほかの滅亡した文明が握っている可能性がある。
そこで明かされるのは、人類の過去の姿、そして未来の姿かもしれない。
2004年12月26日、インドネシアのスマトラ島を、海底で発生したマグニチュード9.1の巨大地震が襲った。
インド洋の数100km沖を震源とする地震は、猛烈な津波を引き起こした。
ものの数分で23万人以上が命を落とし、200万人以上が家を失った。
7年後の2011年3月11日、日本の東北地方をマグニチュード9の地震が襲う。
日本がかつて経験したことのない未曾有の大地震だった。
数分後高さ9mの大津波が押し寄せ、町を容赦なく破壊していった。
24000人が死亡、負傷、または行方不明となった。
最新の防災設備を持つ現代の都市ですら、ものの数分で壊滅的な被害を受ける。
ならば同じことが起きて、古代文明の多くが滅亡したとは考えられないだろうか?
地球誕生以来、自然災害はある。
津波、地震、火山の噴火・・・
火山噴火も文明を死に追いやってきた。

典型的な例がポンペイのベスビオ火山、町は全滅し、そこだけ時が止まってしまった。
ポンペイとヘラクラネイムの町に火山灰や軽石が降り注ぎ、火砕流も流れ込んできた結果、埋もれてしまった。
こうして町は噴火に襲われた時のまま眠り続けていた。
発見されるまでの1500年もの間。

エーゲ海に浮かぶクレタ島、HERAKLION、1894年、言語学者であり、考古学者でもあるアーサー・エヴァンズはこの島を訪れた。
粘土板に刻まれた古代ギリシャの文字と思われるものを解読するためである。
ところがエヴァンズの解読結果は歴史家たちに衝撃を与える。
それは古代ギリシャのものではなく、さらに古い時代の未知の文明のものと発表されたからだ。
その3年後エヴァンズは、探検隊を率いて発掘を行い、脅威の発見をする。
クノッソス宮殿である。
この巨大な宮殿には、美しい装飾が施された部屋があり、お湯と水がそれぞれ出る水道設備や室内トイレまで備わっていた。

エヴァンズは宮殿を建てた人々をミノア人と名付けた。
クレタ島のミノス王の神話にちなんだのである。
青銅器時代、東地中海に君臨し、大船団を持つ超大国がミノア文明だった。
地中海のほとんどの国を相手に攻撃をしていた。
ミノア文明は始めて宮殿に趣向を凝らした社会、行事を行う中庭があり、絵画やフレスコ画を飾り、建築様式も見事だった。

ミノア文明は地中海で生まれた最初の超大国とみられており、紀元前2500年から紀元前1600年の間、栄えていたと考えられている。
ではなぜそれほどの力と技術を持った人々が忽然と消えてしまったのか。
専門家たちは歴史上類をみない火山の大噴火に手掛かりがあるとみている。
クレタ島の北100kmあまりに浮かぶ島THERAで火山の爆発があったのだ。
THERAの噴火は数日か数週間にわたり、2つか3つの段階を経て起こったようだ。
噴火の兆候ははっきりと出ていたのだろう。
というのもTHERAにはポンペイやほかの場所で見つかったような人骨が発見されていない。
つまりこの島の住人には逃げる時間があった。
ところがクレタ島の住民は考えもしなかった形で噴火の影響を受けた。

火山学の見地からすると噴火にもいろいろなタイプがある。
溶岩が流れるだけの静かなものから、爆発して煙と火山灰を降らすプリニンシキ噴火、さらに大爆発のウルトラプリニンシキ噴火まで。
THERAの噴火はウルトラプリニンだと思われる。
大爆発を伴う大噴火。
その威力はすさまじいので、島のほとんどは吹き飛ばされてしまっただろう。
辺りは暗くなり、噴煙が広がり、火山灰が降り積もった。
遠く離れたギリシャの東部やトルコの南西部からも確認できただろう。
おそらく遠く離れたほかの地域でも、噴火が起こっていることは爆発の音が聞こえてきて分かっただろう。

現在では巨大な大噴火の結果、巨大な津波が発生したとみられている。
そしてそれがクレタ島の沿岸部を襲ったのだ。
THERAの噴火直後何が起きたのか・・・

まず噴火で吹き飛んだ土砂や岩石が海に落ち、沈み込んだ海面が元に戻ろうとする。
すると巨大な波紋が広がり、その波はクレタ島に向かう。
およそ20〜25分で波は島に到達、その波の高さは場所にもより、5m〜9mはあっただろう。
昔火山の噴火で古代文明が痕跡も残さず消滅したというのなら、同様の危険が現代にもあるのではないのだろうか?

現在そのような大災害が起こる可能性が指摘されている場所はアメリカの東海岸。
スペイン領カナリア諸島にあるラ・パルマ島には断層があって、この島の大部分が海になだれ落ちる可能性が考えられる。
もしそれが起きれば、巨大な津波が発生するだろう。
もしも、ラ・パルマ島の火山が大噴火を起こしたら、大西洋に面した沿岸部がぐるっと被災する可能性がある。
カナダのニューファンドランド島からアメリカ東海岸、カリブ海や南米のブラジルまで、アメリカ東海岸に達する波の高さは10m〜20mにはなるだろう。
この波の高さは、2004年スマトラ沖地震や、2011年に日本で起きた大地震の直後に発生した津波に匹敵する。
しかし自然が引き起こす火山噴火や地震、津波といった災害で、文明が跡形もなく消え去ることはありうるのだろうか。
その後何世紀にもわたって人類の歴史を変えてしまう破壊力はあるのか。

ブルガリアのVARNA、黒海に面したこの町は、何世紀も前からリゾート地として栄え、ヨーロッパや中東の旅人と商人を迎えにぎわった。
すでに2世紀にはローマ人が公衆浴場を次々と作り、保養地として利用していた。
だがそんな旅行客はもちろん、地元の人々ですら知らなかった秘密が町のしたに埋もれていた。
その秘密とはヨーロッパの歴史を永遠に塗り替えるほどのもの。
それは1972年の秋の終わりだった。

ヴァルナの工業地区で建設工事が計画され、作業員たちが電線を地下に通すため掘削工事をしていた時のこと。
作業員の1人が1mほどの深さの溝を掘ったところで銅でできた品物を見つけた。
彼はそれをとっておこうと思い家に持ち帰った。
それから数週間後のこと、彼が持ち帰ったものを見た近所の人が興味を持った。
それからDalgopolという町の博物館の館長が家にやってきたが、目の前に並んだ品々を見た途端、飛び上がって驚いた。
翌日ヴァルナの考古学博物館の館長アレキサンダー・ミンチョフと職員が工事現場を訪れる。
そして驚くべき発見をした。
発掘が行われた結果、この建設用地は遠い昔死者を埋葬した墓地だったことが判明する。
300を超える墓があり、その年代は紀元前4500年頃のものと推定された。
だが驚きの発見は人骨の古さにとどまらない。
それは彼らが高い技術を誇る文明を持っていたという事実だった。

墓の中には緻密なデザインの副葬品が15000点以上あった。
銅製の斧、翡翠の飾り、おびただしい数の金のアクセサリー・・・
とりわけ豪華だったのが43番の墓45〜50歳くらいの男性が埋葬されていた。
副葬品に素晴らしいものが多く、中でも目を引いたのが金のペニスケース。
性的な支配力、繁殖力の象徴だろう。
同時に政治的な権力を示す金の杖も見つかったこの2つの力、つまり性的な支配力と政治権力がリンクした例は世界の他の地域では発見されていない。
金の埋葬品は多く出てきたが、取り出されたものの多くが一定の人骨に集中していた。
この事実はヨーロッパの古代史における常識を覆すものだった。

先史時代の社会では人々は皆平等だったと信じられていた。
共に働き収穫したものを分かち合っていた。
身分による差はなかったと考えられていた。
でも彼らは現代人と同じだったのだろう。
金や宝石を有難がり、便利な道具を使ていたのだろう。
出土品からヴァルナは先史時代、交易の都として栄え、フランスやスペインと銅製の武器を取引していたことが分かった。
それはメソポタミアが交易の中心となる1500年も前のこと。
ヴァルナはなぜ消えてしまったのか。

紀元前4200年頃、気候に異変が起きた。
気候が変動し、川の水位が上がり、気温も上昇した。
その結果農作物に大きな被害が出るようになったと考えられる。
気候の変動による干ばつや飢饉、それが本当にヴァルナの文明が消えた原因だったのだろうか。
近年中東で行われている発掘作業から新たな情報が次々と報告されている。
多くの専門家たちはその情報の中にこそ、ヴァルナはもちろん消えた文明の謎を解く鍵があるとみている。
一方で異論を唱え、驚くべき説を説く者もいる。
自然災害や地球規模の異変にとどまらず、核爆発で滅んだ可能性があるというのだ。
現代文明も終わりに近いことを意味しているのだろうか。

シリアの北東部にあるTELL HAMOUKAR、イラクとの国境から北に10km余りの場所にある。
西暦2000年、シカゴ大学オリエント研究所の発掘隊は衝撃的な発表をした。
なんと6000年以上前に存在した未知の文明の遺跡を発見したというのだ。
古代に繁栄した都市テル・ハモーカルが姿を現した瞬間である。
それは立派な住宅が立ち並び、商業が栄え役所もある町だった。
テル・ハモーカルの発見は従来の定説を覆した。
これまで世界最古の古代都市はここから東へ640kmにある南メソポタミア、現在のイラクだと考えられていた。
しかしもしテル・ハモーカルがそれほど繁栄していたのだとすれば、なぜ突然消えてしまったのだろう?
外部からの攻撃を受けたのだろうか?

紀元前4000年期に町が焼かれている。
それを示す人骨が12体発見された。
個の人骨はいずれも埋葬されたように見えず、攻撃を受けて都市が破壊されたという説は信憑性が高い。
当時の戦争は、双方入り乱れての接近戦がほとんど。
ただ武器を使った可能性もある。
玉、といっても銃弾ではなく、布に入れて振り回しながら投げるもの。
町に火を放たれるほど容赦ない戦いによってテル・ハモーカルが破壊されたのだろう。
当時北のテル・ハモーカルに対し、南にウルクという都市があったことはすでに分かっている。
それぞれ違う独自の文明が発展していた。
だからおそらく北と南の対立があったのだろう。

テル・ハモーカルから西に数100km、そこにはもう1つの古代遺跡テル・カラメルがある。
2007年発掘隊によってこの遺跡の中から巨大な石の塔の土台が5つ発見された。
塔は直径がおよそ4m、高さがおよそ6mあったと推測されている。
この塔は少なくとも10000年前には建てられていたらしい。
この遺跡はシリア北部にあり、ギョベクリテペからそう離れていなく、同一の文化だったと思われる。
しかしこの建物がなぜ造られたのか、全くの謎。
防御的な造りをしているのはわかる。
動物か人間かはわからないが、敵がいたのだろう。
恒久的な石の建物としては、人間が組織力をもって建てた最古のもの。
最古とされていたゲリコの遺跡より2000年も古い。
テル・カラメルが発見されたことにより、新石器時代に移行する前の段階は1つだけだったという説は捨てざるを得なくなった。
独自に高度な発達を遂げた場所も全く違う文化がいくつも出てきたからだ。
影響しあった形跡もなく、発展の仕方も様々、進歩のレベルも場所によって全く違う。
テル・ハモーカルとテル・カラメルが滅亡した原因は南側にあったメソポタミアから侵略されたためとみられている。

領土争いだけが古代文明が滅亡した原因だったとは考えにくい。
近年にわかには信じがたい大胆な説が発表されている。
常識では考えにくい現象が起こり、テル・カラメルやテル・ハモーカルが滅亡したというのだ。
核爆発である。
1972年、アフリカのガボンで核分裂の痕跡が発見されたのだ。
それはウラン鉱山の地底だった。
原子炉でしか発生しない物質が発見された。
その物質がいつ発生したのか測定したところ、20億年の前のものだったことが分かった。
太陽で自然の核融合が起きているおかげで人間は生きていられる。
では地球ではどうなのか?
じつは1950年代には、地底に天然の原子炉を作りうる物質は何なのか、予測が建てられていた。

1つはウラン235、地球のあちこちにあり、金よりも多い物質。
このウランは重く核分裂しやすい元素だが、日常的に採掘されている。
これが核分裂を起こすには、このウランを濃縮したもののほかにもう1つ物質が必要。
中性子の活動を抑制し、核分裂を促進する物質、水。
西アフリカには十分な水と天然の濃縮ウランが豊富にそろっていた。
だから天然の原子炉ができたのだろう。
自然界にあるウランで核爆発が起きるという予測が現実のものとなってほしくはない。
もしあってもウランは地下に存在するので何かあれば火山の活動みたいになるだろう。
自然災害に似ていると思われる。
自然の核爆発が実際に起きた場合、ウランの鉱床から数100km、あるいは数1000kmにわたり、大地は吹き飛んでしまうとみられている。
西アフリカで核分裂が起きていたのなら、他の場所で起きていた可能性もある。
あのテル・ハモーカルでも。

古代文明は本当に地中の奥深くで起こった自然の核爆発が原因で滅亡したのだろうか。
それとも古の都をことごとく破壊したものは、はるか彼方から地球にやってきたものなのだろうか?
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伊勢神宮 日本の始まりへの旅

伊勢神宮からほど近い二見浦、伊勢のシンボル夫婦岩がある。
海から突き出た大小の岩にしめ縄が渡され、鳥居の役目を果たしている。
その鳥居の先に見えるのは日の出、夏至の朝にはここから富士山と重なるように昇る太陽をおがむことができる。

ここには太陽を神として崇める古代の信仰が息づいており、伊勢神宮と深いかかわりを持っている。
日本書紀によると伊勢神宮の始まりは、大和政権が太陽の神=天照大神を祭ったことにあるという。
Episode1 伊勢神宮誕生の謎に迫る旅

伊勢神宮の入り口の鳥居をくぐり、橋を渡るとその向こうは聖域。
聖域の奥に天照大神を祭る内宮の正殿がある。
伊勢神宮の敷地は甲子園球場の1400倍。
清らかな川と深い森、柔らかな山並み、そのすべてが神宮の聖域。
中でもとりわけ重要なのが内宮、大鳥居から天照大神を祭る正殿までおよそ1km、小さなお社を参拝しながら進んでゆく。
境内を流れるのは古代清流として和歌にも多く歌われてきた五十鈴川、参拝の前に川の流れで手を清めるのが古よりの習わし。
五十鈴川のほとりに小さな社がある。
滝祭神という五十鈴川の水の神を祭ったもの。
社殿はなく、石を神とし祭る太古の信仰の形を残している。

子安神社は子宝の神様、赤ちゃんへの願いを込めて小さな鳥居が奉納されている。
外幣殿、総檜造り、古い宝物などを収める倉、今年の式年遷宮に合わせて新しく建て替えられた。
数々の社に加え、境内には杉や楠木などの樹齢500年を超える大木がそびえ、厳かな気持ちにいざなってくれる。

伊勢神宮の正殿に祀られる天照大神は、天上からすべてを照らす太陽の神様。
神話によれば、はるか昔、今の奈良盆地にいた天照大神は、より居心地のよい場所を求めて旅に出たという。
案内役を務めたのは、猿田彦という伊勢の神様。
天照大神は、海から朝日が昇り、豊かな海の幸に恵まれた伊勢を大いに気に入り、ここに住まうことにした。

天照大神の住まいとして建てられた伊勢神宮、社は幾重にも垣根に囲われ、参拝者の目にさらされることのない聖域となっている。
天照大神を参拝しただけではお伊勢参りができたとは言わない。
江戸時代に描かれた伊勢神宮の地図▼

内宮は御本宮と書かれているが、少し離れて同じく御本宮と書かれた外宮がある。
内宮からおよそ5kmの外宮、江戸時代の旅日記には外宮を参拝してから内宮に参ったとある。
つまり両方をお参りして初めて伊勢神宮を参拝したことになるのだ。
外宮の正殿に祭られているのは豊受大神。
どんな神様なのか?
外宮の背後にある高倉山の頂に巨大な古墳がある。
全長18m、奈良の石舞台をしのぐ巨大な石室、かつてこの地を治めていた豪族の墓。

豊受大神を祭る外宮は、元来これら地元の豪族の神様を祭る場だったと言われている。
豊受大神には大切な仕事がある。
外宮の正殿の裏にある御饌殿、天照大神が食事をするところ。
外宮では1年365日、昔ながらのやり方で、聖なる火をおこし、食事が作られている。

そして朝夕2回、御饌殿に運ばれ内宮から食事に訪れる天照大神に奉られる。
祭るという言葉の原義は奉る。
奉る行為のうちでもっとも多いのは食べ物やお酒などを奉る行為、これは祭りの基本。
奉ることによって神の御霊が健やかに活躍してくださる。

天照大神の食事をお世話される神が外宮の豊受大神。
なぜ地元の神様が天照大神に食事を奉るのか。
近年、その謎を解き明かすカギが、伊勢にある別の豪族の古墓(宝塚古墳)から発掘された。
全長1m40cmの巨大な船形埴輪、作られたのは5世紀初め、この地に海を背景にした大きな力を持つ豪族がいたことを物語る。

しかし埴輪は大和政権の文化で、元来伊勢にはないものだった。
この埴輪はそれまで別の文化圏だった伊勢と大和がこの時期に結び付いたことを意味している。
4世紀に奈良盆地に勃興した大和政権は、次第に東へと進出、伊勢を勢力下におさめる。
この時自らの神、天照大神を祭る内宮を造るが、伊勢の豪族たちの神様も滅ぼすことなく外宮に祭り、食事を作るという役割を与えることによって神々の共存を目指したと考えられる。
伊勢神宮では地元で信仰されてきた様々な神様にも役割が与えられている。
天照大神に塩を捧げる神様、御塩殿。

今でも毎年春と秋の2回、太古からの製法で塩が作られ、奉納される。
海に浮かぶ小島のような鎮守の森に覆われている社、大陸から織物の技術をこの地に伝えた神様を祭っている。(神服織機殿神社)
古代から変わらぬ手織りの技で絹が作られる。

こうした小さなものも含め社は125を数える。
伊勢神宮とはこれらすべてを含んだ総称なのだ。
日本最古の社の1つ伊勢神宮、それは天照大神を中心に多くの神々が大きな家族のように共存する日本ならではの信仰を感じることができる聖地。

江戸時代、お伊勢参りが大ブームとなった時、門前町はたいへんにぎわった。

食べ物ばかりではなく、日本最大遊郭の1つとまで言われた色町まであった。
歌舞伎小屋も2つあり、伊勢は江戸京都大阪に次ぐ芝居の町とまで言われていた。

森の中に静かにたたずむ伊勢神宮の社殿、光を浴びると古代の息吹を感じさせる。
茅葺屋根に白木のままのシンプルな造り、日本人だけでなく欧米の人々の心も鷲掴みにした。
世界的な建築家ブルーノ・タウトはこう称えている。
「一切は清純であり 限りなく美しい 最大の単純の中に 最大の芸術がある」

episode2 古代シンプルビューティー 誕生秘話
673年、飛鳥浄御原宮で大海人皇子と呼ばれた男が即位し天武天皇となった。
その即位の背景には古代日本の大きな危機があった。

663年 白村江の戦、日本は友好関係にあった百済を助けようと水軍を送り出し唐と戦った。
唐が朝鮮半島を制圧すれば、次は日本に上陸する恐れがあったからだ。
しかし日本軍は圧倒的な唐の武力の前に大敗をきし、百済は滅亡してしまう。

古代日本は6世紀に入り、仏教や法制度、衣食住に至るまで中国文化を一方的に取り入れてきた。
天武天皇は唐の脅威にさらされながらも国のあり方を変えようとしない朝廷を自分が変えるしかないと考える。
672年、壬申の乱、都から離れた吉野の地で兵をあげた。
最初は妻の菟野皇女を含め仲間はわずか30人余り、兵を募りながら都へ進んだ。
しかし行く先々で支援を断られ、暗雲が立ち込める。
道なき道を行き、妻とあばら屋で寒さに震えるよう過ごす日々が続いた。
伊勢にたどりついたある日、思いがけない出来事が起こる。
川で沐浴していたところ、突然雲の切れ間からまばゆい光が差し、太陽神・天照大神が姿を現した。
自らを天照大神の子孫と信じていた大海人皇子は神を拝み勝利を祈った。
その日を境に賛同者が急速に増え、大海人皇子は一気に都へと攻め上り天武天皇として即位した。
天武天皇は早速、妻・後の持統天皇と共に唐の文化に依存しない新たな国づくりを進める。
日本の正式な歴史書がなかったため、『日本書紀』の編纂を開始、日本古来の文化にも目を向け、各地の歌や踊りを子孫に伝えるよう指令を出した。
さらにあらゆる書類を漢文で書いていたのを改め、のちのひらがなにつながる日本語ならではの表記を生み出す。
さらに2人は唐とは全く異なる日本人の心の支柱を打ち立てたいと考えた。
その時注目したのが米。
清らかな水とまばゆい太陽が育む米、弥生時代それまでの狩猟採集の暮らしを根底から変え、豊かな恵みをもたらした米は奇跡の食べ物だった。

さらに神話では、米は天照大神が高天原で育てた稲を孫に託し地上に伝えたのが始まりとされる。
太陽の神であり米の神でもある天照大神こそ人々の祈りにふさわしいと考えた。
では天照大神を象徴するにはどのような建物を建てればよいのか・・・
そのヒントは弥生時代にあった。
大阪府和泉市の池上曽根遺跡、発掘現場の上に弥生時代の倉が復元されている。
高床式で茅葺屋根の米蔵。

この遺跡の発掘の中で興味深いものが発見された。
棟持柱と呼ばれるひときわ太い屋根を支える柱、その跡からヒスイが出土した。
当時ヒスイは日本海側からはるばる運ばれる貴重な宝石で、強い霊力を持つとされ、祈りの場で用いられていた。
つまり米倉は実用であると同時に信仰の対象になっていたと考えられる。

2人は弥生時代の倉をベースに、米の神である天照大神の神殿をデザインする。
高床式倉庫に天照大神の神殿としての威厳を生み出すため、宮殿の要素を加えてゆく。
まず扉を広い面に移し大きくした。
周り縁をめぐらせ、階段を取り付ける。
屋根の側面の柱を天を衝くように伸ばし、崇高さを強調。
風から屋根を守るおもしをふくらみを持つ流線形にデザインして重厚さを演出。
随所に金を施し荘厳さを醸し出す。

こうして素朴なたくましさの中に威厳をそなえた日本独自の神殿が完成した。
伊勢神宮の完成と同じころ、天武天皇は天照大神を祭る祭祀を行い自分がその子孫であることを人々に知らしめたと言われている。
神と血脈がつながっている一族が天皇であるという論理を作る。
その時に太陽神であり稲魂を持つ神として天照大神を皇祖神として打ち立てて神話を実体化するために伊勢神宮が存在する。
ちょうどこの時代、それまでの倭に代わり、日本という国号が初めて使われるようになった。
伊勢神宮は新しい国家、瑞穂の国、日本の象徴として造られたものだったのだ。

今年10月、伊勢神宮では20年に1度の式年遷宮が行われる。
天照大神を祭る正殿、そのすぐ横で新しい正殿の建設が行われた。
この秋こちらに神様が引っ越しをする。
式年遷宮では、隣り合った敷地に20年ごとにそっくりそのまま社殿を建て替える。
1300年間繰り返されてきた世界に類のない伝承システム。

690年、式年遷宮を初めて行ったのは天武天皇の后、持統天皇。
episode3 式年遷宮はこうして生まれた 持統天皇、悲願の物語
686年天武天皇が崩御、この時妻のウノノヒメミコは42歳、13年間共に国づくりに取り組んだ夫を失った悲しみをうたっている。
吾が大君 神風の伊勢の国は 潮気のみかをれる国に 高照らす日の御子
神の風が吹き潮の香りに満ちる伊勢の国を照らす偉大な太陽が失われてしまった。
天武天皇の死後まもなく後継者争いが勃発する。
7人いた有力皇子の1人、大津皇子が謀反の疑いで死に追い込まれる。
さらに後継者の第1と目されていた持統天皇の1人息子、草壁皇子が即位を待たず28歳で急逝。
夫と共に進めてきた国づくりはまだ道半ば、このまま混乱に陥れば、すべてが失われてしまうかもしれない。
46歳のウノノヒメミコは意を決する。
自ら即位、持統天皇となる。
記録によればこの時持統天皇は、天照大神によって授けられたという剣と鏡を受け継ぐ儀式を行った。

自分こそが稲の神、天照大神を次ぐものであることを人々の胸に刻んだのだ。
即位して間もなく持統天皇は詔を発する。
それは伊勢神宮の遷宮、神の宮を建て替え、新しい社でお祭りをするという。
日本の神様はお祭りをしないと御神徳は衰えてゆくという信仰がある。
伊勢神宮はまさにそれで、永遠に若々しくあってほしいという常若(とこわか)の信仰が根底にある。
この時から式年遷宮(定期的に宮を建て替え常に若々しい状態に保つ)が始まった。

完成した社殿をそのまま後世に伝えてゆくにはどうしたらよいのか。
そこで考え出されたのが社殿の隣に同じ面積の敷地を用意、古い社殿がある間にそっくりそのまま同じ社殿を作るという、まるで遺伝子コピーのような方法。
樹齢数百年の木材が膨大な数用意され、大勢の匠たちが腕をふるって新しい社殿の建設が始まった。

式年遷宮の年、持統天皇が不思議な行動をとったことが日本書紀に記されている。
「周囲の強い反対を押し切って伊勢に出かけた。」
天皇が長期にわたり都を留守にするのは異例のこと、そうまでして持統天皇が伊勢に旅だったのはなぜなのか。
皇學館大學教授・岡田登さんは、この旅の即席から持統天皇の狙いがうかがえるという。

持統天皇が訪れたのは神戸(かんべ)と呼ばれる伊勢神宮に神への捧げものを用意する地だった。
その1つ美濃(現在の岐阜県南部)は、米どころだったことに加え社殿を作るのに欠かせない労働力を提供してきた。
そして志摩は神に捧げる最高級のアワビを提供した。
さらに三河の鯛、遠江の絹・・・持統天皇の旅は式年遷宮に必要な捧げものを定めて回るためのものだったと考えられる。

690年10月第1回式年遷宮が行われた。
深い森が闇に包まれる夜、新しい社殿へと天照大神の御神体が移される。
各地から最高の宝物が捧げられ、国の繁栄が祈願された。
こうして持統天皇は初めての式年遷宮を無事終えることに成功した。
そして702年、持統天皇崩御、58年の生涯だった。
この時持統天皇は驚くべき遺言を残していた。
それは自らを火葬にふすこと。
天皇の火葬は歴史上初めてのことだった。
そこには持統天皇の大いなる願いが込められていたという。
日本書紀の持統天皇の名には天照大神のいる天上界「高天原」の名がつけられている。
高天原廣野姫天皇
天照大神への熱い思いがあったのではないか。
持統天皇が望んだ火葬、それはその魂が天照大神のいる天上界に昇ったことを人々に強く印象付けた。
持統天皇は伊勢神宮に祭られる太陽の神・天照大神を天皇の祖先とする神話を、自らの死をもって完成させようとしたのかもしれない。
式年遷宮では1600におよぶ神宝と呼ばれる宝物もすべて新しく作られる。
神宮微古館には過去の式年遷宮に奉納された様々な宝物が展示されている。
聖なる力を宿すとされる鏡は大和政権の権威を象徴するものだった。
小さな花柄を散らした絹の衣、天然の染料で染め上げられている。
水晶や瑠璃が散りばめられた絢爛たる剣・・・
式年遷宮は伝統の技や美意識も受け継いできた日本文化のタイムカプセルなのだ。

式年遷宮に寄せる人々の思いは100年先、200年先を見つめている。
62回目の式年遷宮にむけて伊勢では準備が進んでいる。
海女たちがとるアワビは神への最高の捧げもの。
伊勢神宮が持つ山の一面に生えている萱は社殿の屋根を葺くためのもの。
萱を刈るのは志摩の海女さんたち、海で働く女の秋の仕事。
正殿の棟持柱などに使われる檜の御神木は木曽で切り出され、延べ20万もの手をへて伊勢に運び込まれた。(御木曳行事)
式年遷宮には檜の良木が1万本以上必要とされる。
今伊勢神宮の広大な森では200年後を見越した植樹が進んでいる。
森の中の木々にはところどころ白い印が施されている。
◎は200歳になるまで切らずに大きく育てる木の印。
これらの檜が遥か未来伊勢神宮の社となるのだ。
日本の始まりの記憶を伝える伊勢神宮、今年10月1300年の歴史を受け継いできた式年遷宮はまた次の20年へとその思いをつないでゆく。

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