2008.09.06 Saturday 06:37
民主主義の腐敗とソクラテスの死



紀元前399年ギリシャの法廷は、哲学者ソクラテス(70歳)を裁きにかけた。
神々を冒涜し、若者を堕落させたとして毒を飲むよう命じた。
ソクラテスに死刑を言い渡したのは民主主義の都市国家アテネ。
言論の自由を生み出したアテネは、1人が自由に意見を述べたからと言って何故死刑の判決を言い渡さねばならなかったのか?
アテネを成功へともたらした民主主義は、破壊をもたらしたのか?

紀元前6世紀終わり、アテネは劇的な進展を遂げた。
民衆による統治が100年以上続いていた。
市民があらゆる政治的決断を下した。
しかしアテネの民主主義は理想とは程遠いものだった。
男性は新しい権利を得たが、女性や奴隷は相変わらず抑圧されていた。
壷の絵から、アテナの女性はベールを被っていたことがわかる。
アテネ市民は戦争に賛成票を投じて、海外の領土を手に入れるために戦いを繰り返し、人々は路頭に迷うことになった。

紀元前432年、パルテノン神殿が完成し、アテネは大いに反映した。
海軍をまかなうための資金が北アフリカからクリミア半島まで、150以上の国々から集まった。

アテネを破滅へと導いたスパルタとの戦い(ペロポネソス戦争)は、成功の極みをもたらすはずだったが、戦争は計り知れないほどの悪影響をもたらした。
男は皆虐殺され、女性や子供は奴隷にされた。


一方帝国各地からたくさんの芸術家、建築家、哲学者が押し寄せ、アテネに新しい発想をもたらした。
従来のやり方をそのまま踏襲するのでなく、それについて考えるようになった。
新しいことに挑戦しようとする精神は、民主主義と啓発を同時に進行させたもの。
ゼウスのブロンズ像は大昔の作品であるに関わらず、実に写実的。
彫刻家コンスタムは本物そっくりのブロンズ像を作るために、アトリエで生身の人間に石膏を塗って型をとっていた、と言う。
彼がブロンズ像の足の裏を調べると、足の裏が身体の重みで歪んでいた。
ゆがみはとても自然で掘ったものとは違う。


アテネでの新しい挑戦は芸術だけではない。
自然科学者達は基本的な化学を議論した。
ギリシャ人は、これ以上細かくならない最小粒子という概念を持ち、“アトム”と呼んだ。
最近ようやく光学顕微鏡により、原子は真空中にレーザーの光をあてて観察できるようになったが、ギリシャ人は見たこともない原子の存在を想像していた。
自然界の法則を見つけようとし、月までの距離もかなり正確に計測していた。
最も大きく進歩したのは思想。
それを誰よりも示したのはソクラテス。
石屋と助産婦の間に産まれ、極普通のアテネ市民だった。
歩兵として従軍し、役人の仕事も務めた。
貴族に大きな影響力を持っていた。

彼の世界観の中心にあるのは、「人は真実と善良な生活を目指して独自の道を探求すべき。」という考えだった。
自信に溢れ、恐いものなしだったアテネ市民の心に訴える考えだった。
ソクラテスは人々に鋭い質問を投げかけた。
「富は本当に人を幸せにするのか?
開かれた社会なのに、町を壁で囲うのは何故か?」
ソクラテスは滅多に風呂に入らず靴も履かず、擦り切れた布をまとい、優秀な若者達に囲まれながら大またで歩く姿を多くの人々が目にしただろう。
彼は知識人たちにいくつもの質問を投げかけ、全く新しい合理的な質疑の方法を編み出した。(対話法)

「善と悪の違いとは?」・・・「神が愛するものが善、憎むものが悪だ。」
「全ての神が同じ考えとは限るまい。」・・・「確かに」
「愛するも憎むもそれぞれだ。」・・・「おっしゃる通り。」
「つまり神から愛されも憎まれもするものは善でもあり悪でもある。」・・・「そうなるでしょう。」
「するとあなたの言ったことは答えになっていないのでは?」・・・「いかにも。」
相手のほとんどは自分の無知を実感し侮辱されたような不快感を抱いた。
「吟味されない人生は生きる価値がない。」は、ソクラテスの有名な言葉。
対話法は当時、斬新なものだった。
それはあらゆる事柄に疑問を持って生きる現代人の考えの土台になっているが、ソクラテスは多くの敵を作った。
やがて民主主義の概念をかき乱すことになった。
紀元前5世紀、ギリシャ各地で科学的な発想が沸き起こった。
哲学者は自然界の成り立ち、病気はいかにして治療できるか、社会の秩序はどうすれば保たれるかを話し合った。
歴史家達は飾り立てることなく、事実をありのまま表現するようになった。(合理主義)
しかし合理主義は古い世界観(アテネ市民が子供の頃から神話を通して育んできた考え方)と対立した。
ギリシャの人々は皆、「神々はオリンポス山に住み、お酒を飲んで暮らしている。」という神話を聞いて育った。

聖なる土地には神々が住んでいると信じていた彼らは、巨大な神殿を造った。
神の一族のための地上の宮殿だ。
当時裕福な人でさえ泥レンガの家に住んでいた。
市民は豪華な神殿を建てることで神々に敬意を払った。
壮麗かつ巨大、頑丈で自信に溢れた断固たる姿の神殿だった。

アクロポリスの北側、一面の岩は女神アフロディティを祀る。
多くの男女が訪れ、岩の窪みに捧げものをした。
若い女性は籠を手に、青銅器時代に造られた階段を下り、儀式が行われた。
籠の中には恐ろしいものが入っていたという。
女性達は一晩中女神を賛美した。
アテネがアフロディティの崇拝を奨励した裏には政治的理由があった。
アフロディティは性愛の女神であると同時に説得と調和の女神でもある。
それぞれ既得権益を持つ人々が参加する政治には調和が不可欠だった。
女性がアフロディティを崇拝することで、人々を結束する力が与えられると考えられていた。
古代ギリシャには宗教を意味する言葉はなく、宗教儀式は日常生活や政治の一部だった。
神々は町の至る所にいると考えられていた。
しかしその多くは人に悪意を持つ霊で、なだめる必要があった。
黒魔術は重要なものだった。
墓地ケラメイコスから数百の呪いの品が出土した。
人形が手を後ろで縛られ、鉛の棺に閉じ込められている。
蓋の裏には彼の名前ムネシマコスと、裁判に関わった人達の名前が刻まれている。
これを作ったのはムネシマコスを訴追した人。
きっとなんらかの霊的力が働き、裁判が自分に有利になることを期待したのだろう。


洗練された合理的なものでなく、アテネの民主主義の原点は複数の神々と原始的な儀式が支配する古代世界にあった。
アテネには“エレウシスの秘儀”と呼ばれる儀式があった。
参加者はケラメイコス墓地を出発し、神聖な道を進んだ。
何が行われていたかは知ることができない。
入信するには沈黙の誓いが義務付けられていたからだ。
秘儀は死後の世界での幸せを約束するものだった。
信者は夜の祝賀に間に合うように、エレウシスを目指した。
信者はあの世の入り口とされる洞窟の前を通り、申請な場所に向かった。
冥界の王ハデスは、女神デメテルの娘ペルセポネを連れ去った。


松明を手に行われる儀式は、娘を奪われたデメテルを慰めるためのもの。
デメテルは1年の内8ヶ月間娘を取り戻すことが許される。
これは、農作物は秋に途絶え春に再生する自然の循環を象徴し、同時に死後の復活を意味したのだろう。
秘儀に参加する人々は用心深く選ばれた。
秘密をもらせば死を覚悟しなければならなかった。

民主主義の中で、個人という概念が生まれ、死を恐れるようになった。
秘密の儀式は死後の世界を約束し、英雄が死後に住むElysionへの道が見つかるかもしれないとも教えられた。
入口に到着すると、重い扉が開き、数千人の信者が神聖な場所(劇場のような建物)に入る。
扉に鍵がかけられ、秘儀が始まる。
ハデスによる誘拐とペルセポネとデメテルの再会の話が再現されたのだろう。
演劇を見て自分が登場人物になった気分になる。
ペルセポネが死後の世界から戻ってくる話を聞き、自分の親友が死を克服した気持ちになり、信者は勇気を授かり死を恐れなくなった。
果てしない討論を続けた人はそれを公の場で行うため、新しい芸術(演劇)を生み出したのだった。
演劇はギリシャ人が人生をどう捉えていたかを教えてくれる。
彼らは非常に厳格で組織化された社会で生きていた。
そのような社会ではどうしても情熱や感情が抑制される。
演劇はそういった押さえつけられた感情を解放する絶好の機会だった。

母親を乱暴する息子、性的関係を持つ兄弟、子供を食べる母親・・・
おぞましい行為を取り上げた演劇は、人間の心の闇を映し出した。
テーマは主に権力の探求だった。
劇作家は民主社会と言えど、人間の欲望を消し去ることはできないと表現した。

新しい芸術(演劇)は、民主主義誕生と同じ時期に生まれた。
ギリシャ悲劇は政治や文化、討論などの大切な一部だった。
おぞましい悲劇は昼間に演じられた。
悲劇のほとんどは、ペロポネソス戦争の時代に書かれた。
最も恐ろしい戦争の話はエウリピデスのヘカベ。
戦死したアキレウスのために、少女を生贄として捧げるかを討論した話。
少女を生贄にすべきだと雄弁に語ったのはアテネ人だった。
少女を生贄にすることを討論で決めた。

デルフォイの石の壁の石は、奇妙な形をし、互いにしっかり支えあい、地震が起きても崩れない。
それは揺れ動く感情に耐えて生き抜く悲劇のように思える。
文字が刻まれているが、全てを結びつけるのは言葉だと思わせる。
ギリシャ悲劇が表現するのは、穏やかで健全な文化ではなく、混乱する社会、恐ろしいほどの自信に溢れながらも異常なほど不安定な社会。
アテネ社会は緊張で張り詰めていたが、その緊張感が偉大な知性の反映をもたらし、人類の進歩につながった。
ギリシャ悲劇は私達に人生とは何かを教え、戒めてくれる。
自分を過信するものは、自らを悲劇に陥れる。

紀元前5世紀のアテネは変わりつつあった。
新しい思想が導く先には、伝統との衝突があった。
ギリシャ北部のデルベニで、貴族のものと思われる3つの墓が発見された。
金、聖堂、アラバスターの香水壷など、埋葬品で埋め尽くされていた。
墓の上に残っていたパピルスの燃え殻には、ゼウスが実の母親と関係を持ち、娘のアフロディティをもうけた、などと書かれていた。
赤外線を使い文字の解読をした。(マルチスペクトル画像)
文書には「神話を文字通りに理解するのではなく、科学的に解釈せよ。」と書かれていた。
著者は世界がどう作られたかの説明が神話の1部にあるとも言っている。
ギリシャ人は宇宙の始まりについて思いをめぐらせていたが、極めて危険な思想とみなされていた。
著者、哲学者のディアゴラスは紀元前414年不敬の罪に問われた。
民主国家は彼の首に懸賞金をかけ、裁判もせず暗殺するように命じた。
ディアゴラスはアテネから逃げ出した。
このような哲学者は、人々を誤った方向へ導く危険があるとして標的となった。
知識人や貴族達は集会を開き、当時としては型破りの議論を展開した。
人が集まると民主主義を脅かすと考えられ、すぐに疑いの目を向けられた。
“シンポジウム”はギリシャでは男達が小さな部屋で集まり、酒を酌み交すことだった。
仕事ではなく、プライベートな時間だった。
リラックスした雰囲気で政治の話は禁物だったが、人脈を作る場でもあったので、政治は暗黙の内に裏口から入り込んだ。
シンポジウムは同性愛の場としても知られているが、実際は秘密組織の隠れ蓑だった。
同性愛は男同士の絆を確認するためだったと思われるが、地位を求めて誰かの愛人になったり、取巻きが欲しくて恋人になるという話はよくあった。

ソクラテスが当時最も影響力が強かった貴族達と酒を酌み交したのもシンポジウムだった。
その貴族とは、眩いばかりにハンサムな青年アルキビアデス。
オリンピック優勝の栄誉は、一夜にして彼をアテネ最強の政治家に押し上げた。
ソクラテスはアルキビアデスたちに愛について話して聞かせた。
エレウシスの秘儀を脚色したものだった。

アルキビアデス達は、秘密の儀式を行った人などにはエレウシスの秘儀を茶化しているように見えた。
紀元前415年、アルキビアデスはアテネ市民を説得し、帝国の拡大とシチリア遠征を決定した。

アテネには通りの角ごとに神話の神ヘルメスの像が建てられていた。
シチリア遠征が決まった翌朝、鼻や男性の象徴が削り取られたヘルメス像が発見された。
捜査が始まり、目撃者の情報の中に、貴族の若者達が夜な夜な宴会を開き、神を冒涜しているという通報があり、首謀者はアルキビアデスという噂が広まった。
シチリア島に到着した艦隊のもとへ、アルキメデスを連れ戻すための船が送られた。
アルキメデスは逃亡し、スパルタに寝返った。
そしてアテネの攻略を助言した。
自分達の宗教をけなされたと感じたアテネ市民は怒りをあらわにした。
やがてその鉾先はエレウシスの秘儀を冒涜した人達に向けられた。
拷問を禁じた掟は廃止され、多くの人が虐待され処刑された。
ソクラテスは苦しい立場に追い込まれた。
弟子は排斥され、仲間の知識人達は次々と裁判にかけられた。
ソクラテスにも悲劇の舞台が用意された。
紀元前5世紀の終わり、アテネの勢力は下火になった。
内部分裂を起こし、敵国の強大な力に対抗できなくなっていた。
民主政治は崩れ始めた。
紀元前413年、アテネは20年近くスパルタと戦い続け、戦闘を勝利に導くはずのアルキビアデスは市民の期待を裏切った。
シチリア遠征から2年、将軍を欠いたアテネ軍は、シラクサの内海で身動きがとれなくなり、全滅した。
生き延びたわずかな兵士はやっとの思いでアテネに戻り、大敗を知らせたが、市民は信じようとしなかった。
やがてそれが事実とわかると、町は大混乱となった。
アテネの情勢は悪化の一途をたどった。
市民は責任を転化する相手を求め、かつて民主主義の活力だった指導者や博学者を迫害した。
暗殺団が通りをうろつき、恐怖が町を支配した。
市民はついにソクラテスに襲い掛かった。

ソクラテスは裁判にかけられた。
市民が信じる神をあざけり、若者を堕落させた容疑だった。
公開裁判で罪状を読み上げられた。
裁判は頻繁に行われ、大勢の陪審員が参加した。
小規模なもので201人、普通は501人、必要となれば1501人集めた。
ソクラテスは言った。
「何があろうと私は考えること、人々に何を信じているかを尋ねることをやめない。」
プラトンはソクラテスが告発者を軽蔑して言ったとし、次のように述べている。
「叡智の探求者を相手に、ありふれた主張を拠り所としている。
告発者曰く、ソクラテスは弟子達に天や地について教え、神を信じるなと言い、より強い者を打ち負かすのに説得力の強さに乏しい議論をするように仕向けている。
彼らは真実を認めようとしない。
知恵がある振りをしながら、実際には全くの無知である。」
陪審員はソクラテス本人にどのような罰が妥当かと質問した。
ソクラテスは英雄への褒章だった「一生分の食べ物。」と答えた。
自分は常に真実を語り、人のために生きてきたのだから、感謝されて当然だと言うのだ。
オリンピックの勝者と同等の扱いを求めたことは、陪審員の気分を害した。
その発言で考えを変えた人がいたため、死刑の判決の賛成票が増えた。
プラトンによると、ソクラテスは最後の言葉をしっかり述べたという。
「去るべき時がきた。
私は死ぬために、あなた方は生きるために、それぞれここを離れる。
どちらがよい運命かは、神のみぞ知る。」
死刑執行の日、ソクラテスは毒人参の汁を飲み、ベッドに横たわった。
プラトンは感銘を受け、「これが誰よりも善良で賢明で、公正な男、我らが同志の最後であった。」と記している。
毒人参による死は苦しみを伴う。
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