ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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着物

着物はアート。
美しい絹地のキャンバスに描き出された芸術。
ゴッホの油絵のような厚みと、モネを思わせるグラデーション。
日本画を思わせる美しさ。
金色の花びらは、精緻な刺繍。
手描きされた花々は、友禅染で色付けされている。
様々な技術を凝らした絵をまとう、それが着物を着る醍醐味。


着物に美しい模様を描き出す技術は2つある。
染め織り
「染め」を代表するのが友禅染
菊に梅、隣り合う花々はキレイに染め分けられている。
色が混じらないのが友禅染の特徴。
まず水洗いすればすぐ落ちる青花の汁で下絵をなぞる。
その輪郭の上にノリを重ねる。
ノリが壁になることで、染料が混じり合うのを防ぎ、細かく染め分けることができる。


最後にノリを落とす工程が友禅流し。
こうして完成する手描き友禅。
絹地に繊細な日本画を描くことを追求して生まれた技法。


「織り」を代表するのは結城紬
一見地味だがよく見ると一面に細かい柄が施されている。
その細かさは1cmの幅に、亀甲が4つもあるほど。
これを織り出す技は、国の重要無形文化財に指定されている。


茨城県結城市、この地方で行われる結城紬の工程は、大変な手間の積み重ね。
まず真綿から、材料となる糸を手で紡ぐ。
着物1枚分となる1反を紡ぐには、2〜3ヶ月かかる。
糸を染める前に、白く残したい部分をくくってゆく。
1番単純な80個の亀甲柄でも160箇所。
最も細かい柄は、400箇所もこの手くくりの作業を繰り返す。
この作業におよそ3ヶ月。
そして織り。
使われている機は、最も古い形を伝えるもの。
縦糸を腰当に結びつけ、糸の引っ張り具合を体で調節することで、結城紬ならではの風合いを作り出す。
早い人でも1反織るのに1ヶ月。
高級品になると、1年以上かかるものもある。
実に1500年もの間守られてきた織りの伝統。
1つ1つの柄は、代々受け継がれてきた職人の根気の賜物。


着物の基本
着物にはお約束がある。
女性の場合、結婚しているかしていないかで着る物が変わる。
奥様の第1礼装は、黒留袖


地色が黒で、裾模様があり、紋のついた着物。
結婚したら長い袖を切って留めることから留袖という名がついた。
黒留袖が正装になったのは明治の末頃。
鹿鳴館の舞踏会で、西洋のブラックフォーマルからヒントを得て誕生したと言われる。


お嬢さんの第1礼装は振袖


着物全体に艶やかな染めや刺繍などがあり、腕を下ろすと地面につきそうな長い袖丈のものを大振袖という。
はっと気付くと袖に恋文が入っていたりすることも。
男をふる時「袖にする」なんていうのも、昔のお嬢さんが日常的に振袖を着ていたから生まれた言葉。

既婚未婚に問わず、女性が準礼装として着られるのが訪問着


一番の特徴は、留袖と違い、肩や袖にも柄があって、華やかだということ。
これさえあれば、披露宴やパーティーに出る時も困らない。
訪問着が誕生したのも明治時代の終わり。
「ちょっとした御呼ばれに着ていく着物がないわ。」
というお客様の要望で、老舗の呉服店が考案し、訪問着と名付けて売り出したのが始まり。
準礼装として格付けされたのは、戦後しばらくしてからのこと。

「袖」はこんな所にも使われている。
袖を振る=別れを惜しんだり、愛情を示して袖を振る。
袖を引く=人を誘う。
袖に縋る(スガル)=哀れみを請う。
袖にする=おろそかにする、ないがしろにする。

着物の色合わせは難しい。
同系色でまとめれば無難に仕上がる洋服感覚は全く通用しない。
人形師の辻村寿三郎さん、舞台衣装を数多く手がけ、着物のデザインでも独自の世界を築いている。


辻村さんの考えるコーディネートには、着物を着る人の魅力を引き立てる色の工夫が凝らされている。
「その人自体が色を持っている。
1人1人着る人により、同じ着物を選んでも中に合わせる色が変わってくる。」
淡いブルーの着物に、黄色の帯を合わせた場合、帯締めの色はどうすればようのだろう?
寿三郎流は帯と着物、どちらからも遠い色と合わせる。
逆に似た色をもってくると・・・つまらなくなる。
帯の上に覗く帯揚げの色を変えれば面白みは一層深まる。


更に上級のコーディネート。
着物を着た時の顔映りの良し悪し。
重ね襟の色の違いによる印象を比べてみると、濃い色を重ねると強い印象、淡い色を重ねると優しく見えてくる。
色のほかにもポイントがある。
「着物はシワの芸術。
帯の上にかかっているシワが綺麗。
腕を上げ、自分で少し引っ張りあげて下ろすと、帯の上にゆったりとシワができる。」
その人の内面までも表現できるのが着物のコーディネート。


反物を鮮やかに染め上げた伝統の色には、優美な名前がつけられている。
蘇芳(すおう)、刈安(かりやす)、深紫(こきむらさき)、甕覗、萌黄(もえぎ)・・・
こうした色はいずれも花や草、木の皮や根を使って染められたもの。
エジプト原産の紅花が、シルクロードを経て中国から渡ってきたのは5世紀とされている。
その頃から日本人は、紅花で染める色を愛してきた。
手間暇をかけて紅花の液にぬのをくぐらせ染め上げる。
韓紅(からくれない)、大陸に憧れていた日本人は、大陸を表す「韓」という文字を、紅花染めの贅沢な赤にあてて名づけた。


京都に180年続く染色工房。
5代目当主の吉岡幸雄さん。
日本古来の染色の技を守り、いにしえの色を今に伝えている。
叩いているのは紫草の根、紫根。
6月に咲く紫草の白く可憐な花。
その花の根は、濃い紫色の汁が出てくる。
その汁に1日6回、10日かけて60回布をくぐらせ、色を染め重ねてゆく。
最初の内は色がついているかいないか分からないほど。
根気が要る作業だ。


吉岡さんが使うのは全て自然から採れた材料のみ。
桜、栗、季節ごとに手に入る50種類ほどの材料を組み合わせ、実に1000もの色のバラエティを作り出している。
10日目、繰り返し染められた反物は深みを増し、黒味がかった濃い紫色になる。
これが古代から高貴な色とされてきた深紫(こきむらさき)


「色を求めるというのは、人間が自然の美しさを身近に置きたい、今の美しさそのものを、どのようになぞらえて色の名前を付けるかということ。
日本の四季はゆっくり移ろってゆくので、今日この花が咲いたと思ったら、散ってゆく。
また次に新しい花が咲いてゆくという移ろいの美を捉えて名前を付けた。」
野山の素材が染め出した色の名前。
自然と向き合い遠い国に憧れた人々の思いが刻み込められている。


若草 日本茜


紅花:普通の染色のように花を煮出しただけでは染料は出ず、染料が分解してしまう。
花をまず水に浸して黄色を出してから、今度は藁灰汁という灰汁のなかにつける。
こうして初めて赤い色素が抽出される。
青梅を黒焼きにした烏梅(うばい)や酢でこの染料液を中和して染色する。

藍:ジャパンブルーという言葉があるように、江戸時代末にヨーロッパ人が来たときに、日本人は青い木綿の絣や型染め、絞りの着物を着て、さらに暖簾も青で座布団も青で、日本中青だということでジャパンブルーという言葉が出来たと言われる。
木綿の普及とともに藍染めが庶民にも普及していた。


梔子  蘇芳


苅安  黄蘗(きはだ)

着物は究極のエコロジー
糸をほどくと1枚の反物に戻り、それを仕立て直せば再び着物になる。
祖母、母、娘3代に渡って着られる。
長い間着続ければ汚れたり傷んだりするが、糸をほどくと1枚の反物に戻る着物は、新品同様に洗ったり、補修したりサイズを直すこともできる。
そんな仕事をしてくれるお店を、悉皆屋さんと呼ぶ。
「悉皆」というのは「ことごとく」という意味。
着物に関するメンテナンス全て。
お経に「悉皆成仏」という言葉がある。
それと同じで「もうこれで着物としては終わりですよ。」という所までお手伝いするのが悉皆。


70の縮緬地を、夜の闇に見立て、友禅染ですっきりと浮かび上がった『しだれ桜』。
この着物は、大正から昭和にかけて活躍した美人画の大家、伊東深水画伯が愛娘のために描いたもの。
その愛娘とは、朝丘雪路さん。
朝丘雪路という芸名は、「朝の丘の雪の路は、誰にも踏まれず清らかだから。」
という意味を込めて父が贈ったもの。
舞台に立つ雪路さんの楽屋を、頻繁に訪ねていたという。
父、深水さんは、画家としての美意識を傾けて、雪路さんを美しく見せる着物を贈り続けた。
『夜桜』という着物の襟比翼、襟元を2重にするとちょっと見える桜色。
父が選びに選んだ初々しい桜色は、「娘を雪のように清らかに装わせたい。」と思う親心。


着物には、思わず目を引くチラリがいろいろある。
歩くたびに翻る八掛と呼ばれる裾裏の美しさ。
顔映りをよく見せる半襟や、腕をより白く見せる襦袢のチラリ。
わずかしか見えない、だからこそ得も言われぬ魅力がある。
「飛び石が ちらりと見える 緋縮緬」
「おくれ毛が 白いうなじを 艶めかせ」
男心をくすぐる艶めかしいチラリ。


京都、時代祭り、平安朝以来の着物の歴史をたどるファッションパレード。
女性達はいつの時代も美しく装うことに敏感だった。


『小袖雛形図巻』江戸時代前期、元禄の頃に着物の見本帖として描かれた絵巻物。
華やかな刺繍と絵で彩られた小袖。
手に取ったのは、裕福さを競い合う豪商の妻達だろうか?
同じ頃作られた小袖『黒麻地几帳桐文様染繍帷子』、黒く染められた麻の生地に、几帳と桐の花が染め出され、色鮮やかな金糸の刺繍で縁取られている。
職人の技がさえる、精緻な染と豪華な刺繍。
8代将軍吉宗の頃には、印刷された着物の図案カタログが出回っていた。『雛形本』(ひいながた)


『白綸子地梅樹光琳文様小袖』図案化された梅の模様は、当時大流行していた。
花を織り出した光沢のある綸子の生地に、刺繍によって梅が描き出された贅沢な着物。

↑『白綾地秋草模様小袖』光琳が、宝永年間に寄居先である深川の材木商冬木家の妻女のために描き与えたと伝えられる小袖。
白綾地に菊・萩・桔梗・芒といった秋草が描かれている。


↑『小袖 白絖地梅樹下草模様』酒井抱一

明治時代後期、老舗の呉服店が新しい着物を作ろうと、お決まりの花鳥風月の柄ではない図案を公募した。
入選作は新しい時代の空気を映す斬新な色遣いやデザインばかり。
伝統の格子模様をベースに、全身に型染めのプリントを配した小紋など・・・
昭和初期には花火を図案化した大胆なデザインも登場。
今古着屋さんで私達が手にするアンティーク着物の多くは、大正から昭和のもの。
そこにはいつも新しいものを求めてきた女性達の思いが詰っている。


江戸の町には損料屋という店があった。
今で言うレンタルショップ。
娘達は花見や芝居見物に、ここでちょっと豪華な着物を借りてオシャレした。
損料とは借用量のこと。


一方男達にとっての重要な借り物は褌(フンドシ)。
当時木綿のフンドシは高級品。
締めずにいる人が多かった。
「今日はひとつ吉原へ。」なんて時、フンドシを借りて大門をくぐった。
「緊褌一番!」まさになくてはならないお店だった。


1890年頃、アールヌーボーが日本に入ってきた。

↑エミール・ガレの帯留め

帯留めは、帯締めに付ける飾り。
着物の装いの決め手になる。“画竜点睛”
池田重子さんは、この見事な細工に魅せられて、40年前家を買うはずのお金の半分を投じてコレクションを始めた。
その貴重な収集品の展示会は、日本のみならず海外でも大人気を博している。


明治時代の廃刀令により、刀を作っていた飾り職人の仕事がなくなり、帯留めを作り始めた。
刀の柄頭、目貫、これらを帯留めにした。



明治期の帯留めは、刀の目貫同様、小さいサイズながら細かい細工が施されている。
昭和初期には「作家もの」と呼ばれる名彫金作家の作品が集中して誕生した。
それは日本が戦争を迎える前、明治の流れをくむ職人が、思う存分腕を奮うことができた最後の時代だった。


舞妓さんの帯留め(ぽっちり)にはオパール、ダイヤ、トルコ石、ルビーなど、いくつもの宝石があしらわれている。
帯留めが大きいのは、帯の幅を広く結ぶためだが、スポンサーやボーイフレンドからもらったものを1つずつ入れ、舞妓の勲章のようにした人もいた。
「あの男は珊瑚を贈ったのか、じゃあ俺はオパールを贈るぞ。」
そうやって宝石は売れっ子の証拠だった。


また帯留めにはシャレた遊び心も効いている。
うっとうしい梅雨の時期を遊ぶ傘に蛙、涼やかな闇を感じさせる蛍、日盛りに鳴く蝉を涼しげな宝石で、象牙で作られたソラマメ、お正月料理に欠かせない縁起物の田作り、何とも言えない質感が美しい彫金の椎茸、本物の中に1粒彫金で作られた落花生、百足・・・

着物は、肌着、長襦袢、帯に至るまで、すべて結んで着付ける。
特にその結び方で着物姿に差をつけるのが帯。
色々な種類がある。
正装用の袋帯、カジュアルな時に締める名古屋帯、その半分の幅の半幅帯。
袋帯はその長さを生かして様々な帯結びができる。
美しくヒダをとれば様々にアレンジ可能。
福良雀(ふくらすずめ)」帯の形を寒い時期羽根を膨らませる雀の姿に見立てている。
縁起の良い当て字を使い、お見合いや披露宴、おめでたい席で喜ばれる華やかな結び方。


江戸時代の御殿女中がきりりと締めた「立て矢結び」、格の高い席に合った結び方。
花びらが何枚も重なったように見える「変り文庫」は極最近考案された結び方。


半幅帯の「文庫結び」、浴衣などにも合わせる一番簡単な結び方。
割り角出し」は、最初に羽根を作っておき、その結び目を隠すように残りの帯を巻きつける。
帯の端が動くたびにユラユラしてかわいい帯結び。
二枚貝が口を出している形に見立てた「貝の口」。


今では当たり前になっているが、帯の幅も元々は違っていた。
戦後の名残が強かった江戸時代初期、着物は小袖スタイル。
“おはしょり”がなく、帯も細かったため、腰の辺りで結んでいた。


現在のような幅になったのは17世紀後半頃。
当代の人気役者、上村吉弥の影響で幅が広くなり、現在の形に落ち着いた。

↑吉弥結び:女形の上村吉弥が始めたもの。
「見返り美人」の帯結びで片わな(片がわになっている)に結んで垂らす。

↑水木結び:元禄期の女形役者、水木辰之介が用いた帯結び。
吉弥結びの帯端をさらに長く垂らした華やかなもので、大流行した。

↑平十郎結び:女形村山平十郎により流行。
片結びで結んだ帯を垂直に立てる結び方。

名古屋帯は遊び着やカジュアルな席に合わせる帯。
帯枕を使わない「角出し結び」、粋な着こなしに合う帯結び。


現在最もポピュラーな「お太鼓結び」の誕生は、文化14年(1817)亀戸天神の太鼓橋が再建された時、芸者衆がこの結び方をしたのが始まり。
この「お太鼓結び」に合わせて、凝ったデザイン帯が作られ、後姿に磨きがかかった。


『着物の喜び』林真理子著の中に、「細雪ごっこ」という言葉がある。
女性同士何人かが着物で着飾って出かけることをこう表現している。
『細雪』は、艶やかな4姉妹の日常を描いて昭和文学の金字塔といわれた名作。
作者は谷崎潤一郎。
4姉妹はどんな着物を着ていたのだろう?
実は『細雪』には着物の描写はほとんどない。
着物スタイリスト石田節子さんに、登場人物のキャラクターからそれぞれのコーディネートを考えてもらう。
長女の鶴子は6人の子だくさん。
しっかり者に見えて泣き虫の典型的な船場の“とうはん”。
分家した次女の幸子はパッと華やかな顔立ち。
婿に入った夫に可愛がられている。
三女の雪子は一見淋しげな顔立ちだが、華やかな友禅縮緬がよく似合う。
けどなぜかお見合い話がまとまらない。
“こいちゃん”の妙子は人形作家として自立しながら、地唄舞の稽古も続けている。

長女鶴子のコーディネートのポイントは贅沢さ。
水色に金通しで織られた生地に、友禅染で匹田模様が描かれている。
そして豪華な鼓の柄。
扇の柄には染めのウロコ模様と桜。
繊細な刺繍も施されている。
着物の柄にある鼓にかけて、帯は飾り紐。
円を結ぶという意味もあるおめでたい柄。

↑梅原虎峰作 辻ヶ花振袖
辻ヶ花の始まりは室町時代で絞り染めの小袖の総称と言われている。
そして安土桃山時代に現在の形に完成されたと言われ、その後一時途絶え、久保田一竹氏の手により現代に復元された。
梅原虎峰氏の辻ヶ花振袖は鮮やかな空色に肩口、裾模様と帯が入る胴回り以外は全身に辻ヶ花が施された大変豪華な作品。
生地も金通し、空色の無地場も一色ではなく微妙な暈し染。


↑ちりめんの生地に、大柄の匹田の桜が染められた愛らしい小紋。
型友禅ならではの匹田模様、デザイン化された桜。

雪子の見合いの付き添いには、地味に装うことを心がける次女幸子のコーディネートのポイントは、たおやかさ。
淡い東雲色(しののめいろ)の紋綸子が優しい印象。
友禅染と刺繍で描き出された柄は華鼓。
四季の花々が彩を添えている。
刺繍が見事な丸帯は、扇面に藤と桜。

↑東雲色地 江戸小紋 袷   扇に鼓模様の丸帯

純和風な雪子のコーディネートのポイントは、姉達に負けない華やかさ。
錦紗に手描きで染め付けられた着物の柄は、百花繚乱
アヤメ、梅、牡丹、菊、さらにはバラが染め出されている。
帯には椿と銅鏡。
鏡には、曇りない目で物事を映すという意味もある。


読み手の想像力をかきたてる『細雪』の中で、谷崎が着物の描写をしているくだりがある。
普段は現代的な末娘、妙子が地唄舞の発表の席にまとう着物。
「妙子が着ている衣装というのは、実は本家の姉の鶴子が昔婚礼の時に用いた3枚重ねの一番下の一重ねなのである。
父が全盛時代に染めさせたこの一揃いは、3人の画家に下絵を画かせた日本三景の3枚重ねで、3枚目には白地に天橋立が描いてあるのであった。
故金森観陽の筆に成る橋立の景色の一重ねに、黒儒子の帯を締めた妙子は、化粧の加減かいつものような娘らしさがなくなって、そういう純日本式のつくりをすると、洋装の時には見られない貫禄が具わっていた。」

カラフルでポップ、とても可愛い色の洪水。
銘仙という生地。
江戸時代中期に誕生した反物で、元々はくず糸を使った安くて手頃な絹織物だった。
くず糸のフシがあるため、織りに独特の風合いがあり、染めがにじんだようになっている。
それが逆に面白い効果となり、ポップな柄が作られるようになっていった。


繊細な柄より大胆な柄が映えることから、伝統的な「乱菊」の柄も大きく図案化され、大人気に。


秩父や桐生など、北関東が主な産地で、昭和30年頃まで盛んに作られた。
比較的安く手に入る絹織物だったので、娘達に非常にもてはやされた。




一味違う銘仙をコレクションしている通崎睦美さん(マリンバ奏者)。
洋服では考えられない柄と柄、色と色の組み合わせ、その大胆さに通崎さんは惚れ込んでしまった。
ロシアアヴァンギャルドの画家Kandinsky『黒い格子』や、日本のグラフィックデザインの草分け早川良雄の絵を思わせるデザインも・・・


爪綴織、ヤスリで爪を削る。
縦糸に横糸を通して作る織りの模様。
その横糸を爪でかき寄せることで模様を織り出す。
爪で色糸を1本1本かき寄せる職人の技で、模様に表情や動きを織り込み、命を吹き込んでゆく。
綴織の技術は仏教伝来と共に伝わり、後に京都西陣で本格的に行われるようになった。
戦前までは全て爪かきで作られており、表と裏の模様が同じなのが特徴。
現在爪綴織を守っている工房は40件ほど。
古くより「日に一寸」と言われるほど熟練の技と時間を必要とし、文様によっては1日わずか1cmしか織進めないこともあるという。
爪でかき寄せる横糸だけが表面にでて、美しい文様を織り出してゆく。


人間国宝、細見華岳さんがデザインするのは伝統的な技術を守りながら、爪綴織の良さを最大限に生かした柄。
水の流れを織り出した「せせらぎ」、京都の鞍馬山に咲く桜を表した「雲珠桜」。


今も現役のちんどん屋さん、菊乃屋〆丸さん(89歳)。
お客さんの注文で、今日は着流しのサムライ姿。
おめでたい松竹梅の紋があしらわれている。
この仕事を始めて75年、ほとんど着物を買ったことはないという。
結婚以来64年、夫の衣装を縫い続けてきた妻のさな江さん。
最近白内障で、右目はほとんど見えず、左目もぼんやり見えるだけ。
それでも縫い物は続けている。
〆丸さんは今日も、さな江さんの衣装で街角に立つ。


おもしろ柄の着物はたくさんある。
スタジアムに陸上競技、トロフィーをもった女性、オリンピアートの応援歌、昭和7年のロサンゼルスオリンピックが染め出された柄・・・
東京武蔵野市、緑に囲まれた洋館に、人々から忘れられそうになった着物を救い出し、そこに描かれた事柄を読み解いている人がいる。
永本ツカサさんは、着物の柄に込められた世相や庶民の暮らしに興味を持つようになった。
以来着物が語りかける声に耳を傾けている。


平絹の男性者の襦袢、個人的な本棚の写しのようだが、昭和4〜5年出版の本が染め上げられている。
昭和4年にプロレタリア美術の大展覧会があった。
持ち主は思想的なことを映し出したのか?
絹物の襦袢、しかもアツラエだということを考えると、持ち主はブルジョア。
襦袢は下着、下着を見せるような場所で格好つけた軽薄な人間だった?
プロレタリアという思想はどこへやら・・・
山本富士子さんの柄の物は、顔だけは写真、「富士好み」という文字が入っている。
犬、人工衛星の柄の子供用の着物。
1957年11月スプートニク2号が旧ソ連によって打ち上げられ、初めて生物が宇宙へ旅立った。
この子の親は、人類の夢だった宇宙への旅が現実になったニュースに、我が子の輝かしい未来を夢見たのかもしれない。


着物の柄に込められた時代の香りを読み解くため、永本さんは歴史や風俗を徹底して調べ上げている。
たんすの奥で忘れ去られている着物や襦袢が語りだす物語、永本さんの楽しみは尽きることがない。


着物の謎かけ
百足の帯留め、商家の大店のおかみさんが、1年に1度大晦日の日にこれをつけて、そろばんをはじいた。
御足(お金)がたくさん入るように、御足がぴったり合うように。
襦袢に付ける半襟にも面白い謎かけがある。
京都の舞妓さん独特の京紅の色。
東京の半玉さんはこういう色を使わない。
「この人には旦那がいるから入る余地はありませんよ。」おいう意味で、スポンサーがつくと全部埋めてしまう。
まだ旦那がついていない舞妓さんの半襟、笹模様の刺繍の間に隙間があり、「私はまだ旦那さんを募集中ですよ。」というサインになっていた。


蜘蛛の巣柄の着物、粋筋の女性が好んで着た着物で「この蜘蛛の巣にひっかかるいい人はいないかしら。」という謎かけになっている。
そして遊びに来た男が脱いだ羽織には、トンボの柄。
「お前はんに捕まってやる。」という遊び心。
着物にはこんな粋な世界がある。


赤や黄色、絞りや縮緬で作られた色とりどりのお守り袋。
着物のはぎれを集めて作られている。
縫ったのは三瓶清子さん(76歳)。
1日1度は針箱を開き、1針1針慈しむように布を縫い合わせてゆく。
「母が亡くなった時の形見分けは、着物などいいものはお世話になった人、お嫁さん、兄妹という順序。
私は長女だから『お姉ちゃんは何にするの?』と言われ、押入れの中の箱、母が残したは布をもらった。」
お母さんの形見の箱に入っていたハギレは、どれも親指ほどの小さなものだった。
「小豆三粒包める布は捨ててはならない。」
昔から言い伝えられてきた言葉。
三瓶さんはもう35年、捨てられてしまいそうなハギレを集めて縫い合わせ、布に命を吹き込んできた。
出来上がった“ふくさ”は2000舞を超えた。
着物としての命を終えた布が、互いに響き合い新たに生まれ変わった。
小さな布はつなぎ合わされ、やがて1枚の着物になる。
こうした着物は百徳着物と呼ばれ、江戸時代から伝わるもの。
子供が元気に育つよう、近所から少しずつ貰い受けた布で着物を仕立て、願をかける。
三瓶さんは百徳着物を30着以上作り出した。
母の形見の絣、娘が赤ちゃんだった頃の布団、お隣さんから貰った縮緬・・・
小さな1枚のハギレに詰った思い出が、再び着物になってよみがえった。
「布が生き返り、生気、光を放つ。
布はみんな違うが、集まった時に何とも言えない美しさと共に、力が湧いてくる。」


明治の初め、日本の輸出の8割を生糸が占めていたが、今は0%。
日本で作られる着物の材料のほとんどが輸入物。


群馬県高崎市では、今も桑の葉が青々と茂り、昔ながらの養蚕が守られている。
そして「なんとか純国産の絹織物をよみがえらせたい。」と頑張っている人がいる。
代々襦袢や裏地の絹物を扱ってきた問屋の主、小林幸夫さんは、店にある絹織物の9割までが外国産の絹糸で織られたものであることを、かねがね残念に思ってきた。
平成17年、純国産の生糸を集め、反物を作り上げた。
柔らかく、肌に吸い付くような超高級品だ。
これからの課題は輸入品の3倍にもなるコストを下げること。


純国産の絹織物は、ナゼそれほどコストがかかるのか?
群馬県内の養蚕農家は、50年程前には84000軒あったが、今は555軒に過ぎない。
ある農家で1度に飼育している蚕はおよそ90000匹。
年に3回春夏秋に繭をとるので、1年におよそ27万個の繭が取れることになる。
一方、1枚の着物には、最低3000個の繭が必要だと言われている。
つまり、この農家の繭を全部使っても、できるのは年に90枚。
現在日本で生産されている繭は、年間625トン。
このうち8割は絹織物に使われ、約83000着分になるが、実際着物になるのはその内の数割。
国産の絹は大変に貴重なものなのだ。
純国産の絹100%で作る着物を身につけるのは、今や夢のまた夢。


東京浅草で7月に開かれる“ほおずき市”、浴衣姿の女性。
浴衣は藍染めが基本。
かつては昼は紺、夜は白を着るのが一般的だったが、ここ数年縁日や花火大会で若い女性が浴衣を楽しむようになり、ちょっとしたブームになっている。
今では色も華やか、柄も様々。
季節感にうるさい着物だが、浴衣なら夏の季節に桜の柄、菊の模様もOK!


奈良県葛城氏、“しもんや”をそのまま利用した世界で唯一の美術館がある。
自宅を改造してお気に入りの作品を飾っているのは、美術館の主、油崎顕良さん。
羽裏と言って羽織の裏地に描かれた絵。
いずれも着る人のこだわりを物語る特注品。
外国の船や建物の書物をあしらった地球儀の柄、1929年にドイツから飛んできたツェッペリン号、贅沢に織り上げられた勇まし気なライオン、卒塔婆とシャレコウベ、目を引く金糸で織り出されたタヌキのお月見、マリアとキリスト・・・
学生時代に古着屋で見た羽裏のトリコになり50年、今では噂を聞いた全国の古着屋さんから羽織ごと送られてくるほど。
集めて集めて10000点。
それでも油崎さんは、まだ見ぬ1点もの、ユニークな羽裏を求め続けている。


まるで油絵のように深い色合い、厚みを感じさせる質感、夕映えを背にそびえ立つのは春の富士山。
微妙な風合い、光を浴びた雪の濃淡を表しているのは・・・
絞り染めを何度も繰り返して色を重ね、染め上げたもの。
何とも言えない表情は、絞りによってできた布のシワ。
アメリカのスミソニアン博物館から買い取りたいという申し出もあった名品。


オリジナルな染めの技術でこの作品を作り出したのは、染色家久保田一竹さん
平成15年85歳で亡くなった。
友禅染の職人をしていた20歳の時、偶然「辻が花染」を見た。
室町から江戸の初めに流行し、その後失われた幻の技法。
薄い絹にはびっしりと細かい絞りがしてあった。
久保田さんはその古裂の前に3時間立ちつくした。
「あの美しさに近付きたい。」
久保田さんはいつしか仕事も辞め、その研究に没頭していた。
満足に絹地も買えず、同じ布を何度もくくって染め、色を落とし、生地が弱っても同じ布を使っていた。
そしてある日布をほどいた時、何とも言えない“にじみ”が生まれていた。
「やっと自分の思うような作品が出来上がった。
私はその作品を頭上に掲げて『こんなものができた。こんなものができたんだ。』と家の中を駆けずり回っていた。」
20年かけて完成させた最初の作品『幻』、桜の精が作り出した幻の花を染め出してる。
本来は年月によって生まれる“古び”までも表現した作品。


64歳で発表した連作『光響』、光によって変化する自然の表情を描き出している。
この連作は自らライフワークと位置づけた大作で、移ろいゆく四季を表現。
久保田さんが亡くなった後も弟子達によって製作が続けられている。
夕日は山を染め、燃え立つような晩秋の紅葉へ。
肌寒さと共に、色をなくしてゆく。
何10回と染め重ね、生み出された色また色。
現在秋から冬まで44枚が出来上がっているこの連作、完成すれば80枚になる。


着物には四季折々の楽しみがあり、季節によって決まりがある。
6〜9月までの厚い時期に着るのは単衣
裏地のない着物。
中でも夏の暑い盛りに着るのは、透け感が美しい
自分が涼しく感じると共に、見る人にも季節を感じてもらうのが着物の装い。
10〜5月までの寒い時期に着るのは、裏地が付いた(あわせ)。


こうした約束事が分かったら、次は帯や小物の組み合わせで四季の変化を表現してみよう。
1年で最も気持ちが改まるお正月。
一見すると無地だが背紋に寿という字が刺繍してある。
裏には「高砂やこの浦舟に帆をあげて・・・」おめでたい謡(うたい)として結婚式に欠かせない謡曲「高砂」。
帯には正月らしく羽子板の柄。
松の帯留めでおめでたくまとめる。

夏は涼やかな装いを心がけて。
単衣の着物の全身に染められているのは躍動感のある流水模様。
その上を大きなトンボが飛んでいる。
帯は杜若、帯留めは団扇。

秋は紅葉に流水模様で、紅葉の名所竜田川を表現。
「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」(在原業平朝臣)
和歌や古典芸能をさりげなく取り入れ、季節感を表現するのが着物の上級者の粋な遊び。


木から糸を作り、織り上げた布を作ったのは、染色業を営む高橋隆男さん。
20数年前エジプトでパピルスを見て突然ひらめいた。
高橋さんはまず、木を経木のように薄く削ることから始めた。
木を糸にするためには、繊維をしなやかにしなければならない。
そこで樹脂の溶液を作り、加工することにした。
最も適した濃度を見つけるために、仕事場に泊り込んで研究したこともあった。
1年の試行錯誤を経て、望み通りの濃度を見つけ出した。
出来上がったシートを0.6mmの短冊状に切り、糸を作る。
0.6mmという幅が重要なのだと高橋さんは言う。
その理由は木目を再現できるから。
ジグソーパズルのように木目を織り出すには、特殊な織り方が必要だった。
そこで江戸時代の文献を参考に、独自の降り方を編み出した。
樹齢1000年の屋久杉で織った帯。
木は生きた年月だけ、切られた後も生き続けると言われる。
木の帯の特徴は、木が風化するように、柄も風化すること。
年月を経ると共に、味わいが増す木の糸、帯はどのように変化してゆくのだろうか?

「洋服でお洒落する感覚で着物を着たい。」という若者が増えている。
自分流にアレンジして楽しんでいる。
山形県在住の、キクチイマさん(34歳)は、主婦として毎日の掃除洗濯、2人の子供の世話をする時も、全て着物姿。
現在は子育てをしながらイラストやエッセイの仕事をしているが、元々着物関係の出版社に勤めていた。
ある日「なぜ着物業界なのに、誰も着物を着ないの?」
と思い、会社に着ていくことにしたのが着物生活の始まりだった。
日課の散歩にでる時は、昔懐かしい背負い紐にねんねこばんてん。
キクチさんは言う。
「着物は着れば着るほど楽に着られるようになる。
そして着物を着るだけで日常のあらゆることが楽しくなる。」



「何故女性の着物にはおはしょりがあるの?」
江戸中期に女性の着物の身丈が長くなり、裾をひくようになった。
そのため、外出時には裾をひきあげて、抱帯(かかえおび)という細い帯で丈を調節した。
これが、今の「御端折(おはしょり)」になった。
「はしおる」という言葉の音が変化して、「おはしょり」になったとも言われ、御端折と書き、長く作られた着物の袖(すそ)を身長に合わせて端を短く折り上げて着物の帯に挟むこと言い、女性の着物に行われるもので、男性の着物にはこれがない。

小袖の誕生。

↑辻が花染めの小袖


↑寛文帷子小袖  友禅染小袖

江戸時代、鎖国の時代、それまで常に外国の影響を強く受けてきた日本人にとって、独自の文化を築く上で、またとない時代であった。
従来支配階級であった貴族や武家から、文化が町人に帰着した江戸時代では、日本の風土、生活に適した、自由で独特な風俗が生まれた。
こうして服装の主役となった小袖。
この形式の衣服は、奈良朝時代には存在しており、正倉院御物のうちにもこれに類する衣服が見られる。
平安時代ごろは、民間男女のみ上着として着用し、上流貴族階級は下着として用いていた。
その当時の上着であった、袍(ほう)、直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)、直垂(ひたたれ)、水干(すいかん)、などが、袖下が縫われていない広袖だったので、防寒のために、袖口の狭い下着を必要としたのだ。
庶民にとっては、冬の寒さより、夏の蒸し暑さが問題であった。
文明の進歩につれて、裸体で暮らすことができなくなり、夏の気温や湿度を凌ぎやすい衣服として、今日のゆかた形式の原始的な小袖が採用されたのである。

平安末期から鎌倉時代にかけて、この活動的な庶民の衣服は、その実利性から、貴族や武家にも浸透されていった。
その結果、より衣服として完成し、室町時代に至って、上流階級の生活に密着した。
応仁の乱以後、社会全体の疲弊が甚だしくなり、衣料の欠乏は威儀を保つに過ぎなかった、支配階級の上着を脱ぎ捨てさせた。
はじめは家庭内だけ、次には親しい他人に会うとき、そして小袖は、しだいに上流社会の平服とし愛用されるようになった。

平安時代の後期頃より、貴族の下着である白小袖が上着として着られるようになり、肌着と見間違われないように色や文様を付けるようになっていった。
絵巻にも、都やその近辺の庶民が着ていた小袖に色や文様をつけたものが描かれている。
小袖の形は袖口の狭いのを特徴としていて、小袖という名も袖口の小さな着物というところからきている。
公家が着ている広袖(大袖)の衣と比較して、下着に用いた筒状の袖のものを小袖と言った。
時代とともに、小袖の形は、ゆき・袖丈・袖幅・身丈・身幅・ふき等の長短が変化して、袖の下辺部に丸みが付き、袖丈が長くなって袂ができても袖口は小さく昔のままであったので、こういう袖の着物を小袖と呼ぶようになった。
この袖の形は、今日まで受け継がれ、小袖は現代のきものの基になったと言われている。

室町時代後期、戦国の世となるにつれ、小袖が発達して、絹の小袖、麻布の小袖の相違はあっても、日本の多くの人々が小袖を着る時代となった。
武士や町衆と呼ばれる庶民は小袖を立派にして上着として用いるようになった。
女性は、公家以外には袴をはく人はほとんどいなくなり、小袖で過ごす生活が普通となった。
このころの小袖は、対丈(ついたけ)で身幅の広く、袖幅が狭い(身幅のほぼ半分)もので、縦褄が短い仕立だった。

上級武家の女性は、小袖と同じ形で身丈の長い着物を打掛と称して、公家の袿姿を手本にして小袖の上に羽織るように着た。
これによって普通の人々とは異なる身分であることを示した。
その下に着た小袖も、武家の格式と華麗な美しさを表わすために公家の袿をまねて何枚も襲ね着した。
これを打掛姿、腰巻姿(小袖の着流しの上に、別の小袖を打掛てから両肩を脱いで腰に巻く姿)と言い、打掛姿の構成は上から打掛、間(あい)着、下着、肌着となっている。
公家の装束では下着の白小袖以外は帯で締めず羽織るだけで、それぞれの材質、色彩、文様の組み合わせに気を配り、季節観などを表現しているが、それに対して、小袖では打掛を除き一枚一枚を絎(く)け紐や3〜4センチの細巾の帯で締め結んで、色彩や文様の制約が無く自由なのが特徴。


小袖が町人文化の生活を通して、日本人の服装となるに至った理由は、小袖の形式が座業を中心とする町人の生活に合っていたからであった。町人は、その職業柄、仕事着と生活着を区別する必要がなかった。この、衣服としての両面の機能を果たしたことは、あらゆる面での小袖の発展をもたらした。元来、平服だった小袖が礼服にも利用されるようになり、町人生活の一切を満たしうる衣服となった。さらには、日本人全体の服装となっていくのである。

江戸初期の小袖は、今日のきものより身幅が広く、また身丈は男女とも着丈で襟下が低かった。
裏があっても、裾ふきはなく、身丈が短いので、袖丈も短かったし、袖の丸みは大きく付け詰であった。
身幅が広かった理由は、小袖の上に袴や裳をはいていた時代の名残である。
下半身をゆったりと覆われた時代の座り方として、安座や立膝は当然であったので、袴や裳がとりはらわれて、正座をするようになっても、形の上で広い身幅が残った。
それに、袴や裳によって、帯が重要なものではなく、ごく細いひものようなものだったので、身頃の前が開かないためにも深いうちあわせは必要であった。
江戸初期はまだ、町人でも男は外出時に袴をつけることもあったが、女は武家、町方、共に着ながしだった。
そして、それは女帯の著しい発展へつながるのである。

帯の発達と前後して、様式上注目すべき変化は、振袖の発生である。
女性の衣服が装飾的になるにしたがって、袖丈が長くなり、帯幅が広くなると、袖を付け詰めにしていられず、振りをつくったのであった。
この当時、振り袖とは、振りのある袖全ての総称であって、今日の振り袖の名称とは異なる。
はじめは、踊り子が袖を一種の演出の手段に使ったことから発達したもので、それが町の娘たちに流行し、のちに男子までも14,5歳くらいまでは振り袖を用いるほどになった。
振り袖の振りが長くなるにつれて、男子の人形、女子の八つ口も考案されたのである。

↑寛文小袖  褄をとる女

江戸初期の中心である元禄時代は、町人の経済力がいよいよ武家に取って代わった時代であり、平和で豪華な世相が社会のすみずみに浸透した。
服飾においても、裄や丈の長い、ゆったりした衣服が好まれ、模様も大柄で派手なものを用いた。
帯は幅が広くなり、装飾的にはなっても、まだ実用性を重視していた。
結び目は小さく、前で結んでも、横でも構わなかった。
広すぎるのは卑しい女の服飾とされていた。

延宝年間の歌舞伎女形、上村吉弥が「吉弥結び」を発表すると、大流行となり、帯が女性の衣服の中心をしめる、後世の服飾の第一歩となった。
横結びである「カルタ結び」ぐらいしかなかった帯結びが、縦に結ぶようになり、帯の長さにも大革命をもたらした。
女性の帯結びが、このように装飾結びになると、後ろで結ぶ以外には考えられなくなっていった。

↑返り美人図(吉弥結び)

江戸中期に入ると、豪華絢爛たる元禄時代への反動や、たびたび出された奢侈禁止令への反発から、表に木綿物を着、裏に舶来の高価な絹物を着て、伊達や粋を誇ったり、男が女のような姿をして、享楽に明け暮れていた。
裾が地面までとどく長羽織を着たり、男が眉毛を抜いて細くしたりする風潮であった。
女性風俗も、男子のこうした遊蕩気風を受けて、振袖の丈は著しく長くなった。
髪も燈篭鬢のように角ばった傾向に支配されたので、これへの調和から丸袖がすたれ、角袖が流行した。
帯も仰々しい帯に調和を求め、帯結びも後結びに統一された。
結髪が大きくなったので、衣服の着方も大きく衣紋を抜くようになった。
衿が鬢の油で汚れないようにするためである。
模様も、元禄時代の大模様はすたれ、小紋や無地、裾模様が好まれたが、これは帯幅が広くなり、きものが上下に切断されたためでもある。
全体のバランスを保つため、女性衣服の身丈はますます長くなり、外出する時は褄をとって歩くか、シゴキで帯の下をからげるかしなければ、歩けなくなった。
これが、端を折るところから、ハシオリ、「おはしょり」といわれた。
芸者は左で褄をとり、遊女は右で褄を取って歩いた。
一般の女性は働くため、シゴキ(扱き帯)でたぐっておいた様である。

↑瀬川菊之丞の文読む遊女〜延享2(1745)年〜(石川豊信)
花下美人図(石川豊信)


↑江戸褄

模様の配置では、江戸時代前期の寛文(1661〜1673)前後には多くの場合、肩の方に文様の重点が置かれ、上から下へと垂下するような構成となっていた。
元禄(1688〜1704)前後からは次第に逆転して、文様の重点は裾の方へ移っていった。
それは、腰あたりまでの半文様から更に宝暦(1751〜1764)頃には一尺模様、七寸模様などといわれる裾から褄の上方へかけて模様がつけられる江戸褄ができた。
こうした変化は、一つには帯の幅がだんだん広くなり、帯結びの位置も次第に後に統一されるようになって、服飾上帯のしめる役割が非常に大きくなったこと、二つには、結髪がしだいに大形化し、櫛笄の使用が著しくなったこと。
更に三つには身丈を長く仕立て、裾引きに着る着付が一般化したことからできてきたもの。
このように帯の発達とともに、模様はしだいに下方に蔵められるようになり、その空白に花鳥草樹などを丸く模様化した伊達紋をつけることも行なわれるようになって、これから定紋付もできた。
さらに褄文様の流行は「江戸褄」「惣江戸褄」「褄下もやう」という細分化をみたほか、江戸褄文様が更に襟から胸にまで及ぶ島原褄の出現をみるに至った。


↑六郷の渡〜天明年間(1781-89)年中頃〜(鳥居清長)


↑二美人図 五美人図(葛飾北斎)

鎖国文化が終焉する江戸後期は、頽廃無気力な風潮が江戸全体をとりまいていた。
卑猥、残酷、無恥な芝居や読み物が好まれた。
その虚無的な精神が服飾にも反映され、粋な淡粧趣味が貴ばれた。
江戸時代を通じて女性の衣装の流行源だった吉原がすたれ、水茶屋や深川の岡場所といった、はきだめの中から後期の風俗は生まれたのである。
髪形は小さくなり、髷(まげ)の根を低く下げてくずしたり、じれったいので結わない「ジレッタ結び」がはやった。
黒襟は、後期の最大の特徴である。
最初、黒襟は倹約的用途から出たのであるが、退廃的な美意識に呼応し、美的要素として取り入れられた。
ケチくさい掛け衿を、わざと贅沢な着物の上につけ、ふだん着にしたのも、町芸者たちの意気地であった。
黒っぽい小袖に黒繻子の帯、黒襟をかけた姿を、老若を問わず、まねて着ていたのである。
そして、その反動から、緋ぢりめんの友禅模様の襦袢を着るのが一般女性の風俗であった。
男性は、その反対の服飾を選び、さらに徹底的に柔弱になった結果、風俗、精神全てにおいての、女性の男性化、男性の女性化が起きた。

↑雛形若菜初模様シリーズ(湖龍斎)



↑北尾政演
「夜の梅を見る男女」春信
「鳥おひ姿 新シ屋(あたらしや)里吉」有楽斎長秀
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