ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
<< August 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
LINKS
カスタム検索
RECOMMEND
PROFILE
SEARCH
<< 先住民の叡智に学ぶ〜森と共に生きる山岳民族の精神〜ベトナム少数民族 | main | つなげようEcoハート〜明日へのチカラ〜地球と生きる100のコト >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| スポンサードリンク | - | - | - | - |
旅したいな20

群馬県吾妻軍六合村(草津温泉)
チャツボミゴケ・・・硫黄泉など酸性泉に限り成育する特殊なコケ。
日本では草津、阿蘇山等限られた火山帯にだけある。

六号の花
・・・宿根草を中心とした少量多品目を「六合の花」のブランドで東京方面に出荷し、有利販売している。

穴地獄・・・ここではpH=2.8という強酸性の鉱泉が毎分、7000リットル湧き出している。
この強酸性水の中、チャツボミコケの群落がある。
かつては、この苔とバクテリアが関与して生成した鉄鉱石が、流域に10メートル〜30メートルの厚みを持ち、長さ2キロに渡る鉄鉱床を作っていた。
穴地獄では今でも、このバクテリアとチャツボミコケによるバイオミネラリゼーション(=生物が関与して鉄鉱石が生成するプロセス)が進行していることが観察できる。

群馬鉄山・・・今から約50年、ここには群馬鉄山があり褐鉄鉱を採掘していた。
第二次大戦で鉄が不足する中、国策として鉄山を開発する必要があり、群馬県渋川から長野原まで鉱石運搬のための鉄道(現在のJR吾妻線)が急遽敷かれ、さらに専用線や索道が作られて昭和19年に鉄鉱石を出鉱開始した。
昭和44年までに延べ300万トンの鉄鉱石が露天掘りで掘削された。
戦後しばらくは海外からの良質な鉄鉱石は輸入できず、その間釜石鉱山に次ぐ第二の鉄山として戦後の復興の一翼をになった。
ここは鋼管鉱業(株)の発祥の地。

三重県伊賀 昭和ハウス

懐かしい昭和家電、雑貨などのコレクションを見ることができる。
店横に「ソースもん研究所」の看板も掛かっており、お好み焼きと駄菓子、希少品のジュースなども売っている。


徳島県三好市 「篪庵」(ちいおり)
アレックス・カー「大学4年生だった1973年に、徳島県祖谷(現在の徳島県三好市)にあって誰も住まなくなった民家にものすごく“惚れて”大学生の分際でありながら購入したんです。
それが現在の「篪庵」(ちいおり)です。 」

「お城に住みたい」それはアレックスさんの少年のころからの夢。日本全国を旅するアレックスさんは四国の祖谷で出会った一軒の茅葺きの古民家に心を動かされました。
まわりを囲む緑深い山々、やさしく素直な村の人たち、雲上の世界のような祖谷で、昔の美しい暮らしを残すこの家こそが探し求めていたお城。
アレックスさんが愛する日本の美と伝統を守り、未来へ伝えるための活動はここからはじまりました


京都に2つめの住まいを持ち、アレックスさんは外からの視点で日本を見ています。
外国人として、欧米やアジアで暮らした体験を通して見えてくるものがあるそう。
それはわたしたちが気づかない感性の根っこのようなもの。
例えば日本の文化がどのようにはぐくまれてきたのか。
わたしたちが心地よく、美しく感じる理由はどこにあるのか。
アレックスさんは外から見て、その答えの手がかりを投げかけてくれます。
千葉県鴨川市 棚田
大山千枚田は、棚田の里。
この美しい景観を後世に伝え、里山の環境を保全するために、地元農家が中心となり「大山千枚田保存会」が発足され、毎年広く棚田オーナーを募集し、田作りから収穫までのさまざまな共同作業とイベントを通じて棚田の保存に努めている。

オセアニア諸島ナウル
Guano・・・海鳥等が天敵を避けるために、離島や海上の岩を営巣地に選ぶ事がある。
その営巣地に長い年月をかけて鳥の糞が堆積して行くと、大量の糞が固まって化石となった地層が出来る。
この糞の化石の事をグアノと言い、元が糞だけに窒素や燐を多く含んでいるため、良質な化学肥料の原料となった。
又、グアノが更に年月を経て出来る硝石は、黒色火薬の最も重要な原料。

ほっとゆだ駅
JR北上線、温泉付易者。
浴場には列車の到着を知らせる信号機もある。
砂ゆっこ・・・砂風呂
穴ゆっこ・・・洞窟風呂

花巻温泉の鉛温泉
深さ約1.25m、立ったまま入る日本1深い岩風呂。

花巻マルカン食堂の名物・・・10段巻の巨大ソフト140円。
割り箸で食べるのが地元流。

厳美渓の郭公(かっこう)団子

店は渓流をはさんだ対岸にあるが、そこに張られたロープに下がる籠に注文と代金を入れて木槌を鳴らすと、籠は引き上げられて代わりに注文しただんごとお茶が入って降りてくる。
だんごの入った籠が宙を滑り落ちてくる様は面白いが、籠の中のお茶もこぼれず手元に届くというのは長年の経験によるものという。

一関・平泉もち街道
←クリック
この地区の人々は、事あるごとにもちをついて食べる。
その回数は年間60日以上と言われ、もちつきに関する行事が記された「餅カレンダー」も存在するほど。
江戸時代、農家は伊達藩の命により毎月1日と15日に神様にもちをお供えしなければならなかった。
その日は神様に平安息災を祈願し、休息日とする習わしだった。
しかし、年貢を納めるのが精一杯。
神様のお供え分だけ白いもちを作り、自分たちはくず米や青米の粉と雑穀を練り混ぜた「しな(しいな)もち」を食べていた。
このしなもちを何とか美味しく食べる方法はないものかと工夫し、様々なもち料理を編み出したというわけ。

万治の石仏←クリック
岡本太郎が「こんな面白いもの見たことがない」と絶賛した「万治の石仏」。
自然石の胴体に別の石で彫られた仏頭が載せられている。
石仏は、原則として一個の石から刻出されなければならないという。
なぜ、このような類例のない石仏がつくられたのか。
万治の石仏は、長野県下諏訪町奥山田、諏訪大社下社春宮の西を流れる砥川対岸の道を150mほど入ったところにある。
「万治」の名は、胴石に「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれ、その左に「万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉広春」の刻銘があることによる。
万治三年とは江戸時代初期の西暦1660年、今より346年前、明誉と心誉という二人の人物が、この「あみだ様」をつくったことを示している。

落合の石畳
中山道の落合宿と馬籠宿の間は急峻な坂道で、この急な坂の通行の便を図りまた大雨による道のぬかるみを防ぐために、自然石を敷き詰めて整備されたのが石畳。
文久元年(1861)皇女・和宮が将軍家に嫁ぐ際に改修されたことが記録されている。
長年、木の葉や土砂に埋まっていたのを補修し、全長840mが完全に復元されていて、その内の一部が岐阜県指定史跡になっている。

JR鉄道最高地点
南佐久郡南牧村野辺山、標高1,375mに「JR鉄道最高地点」の標識が立つ高原鉄道JR小梅線。
2007年環境に優しいハイブリッド鉄道車両を導入した。
桃介橋
大正11年9月に完成。
木曽川の水力発電開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が読書発電所(大正12年完成)建設の資材運搬路として架けたもの。
その後、昭和25年から村道(現在の町道)として、両岸集落の交通や、高校生・中学生の通学など地域の交通に大いに役立っていたが、昭和53年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋寸前となっていた。
この間、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園整備に併せて近代化遺産(南木曽町有形文化財)として復元し、大正時代の長大吊橋の本格的な保存と活用をめざした。

この橋は、木製補剛桁を持った吊橋としては、日本有数の長大橋であり、下部石積み・上部コンクリートの主塔3基を有し、この種の吊橋としては当時(大正時代)我が国の土木技術の粋を集めためずらしい4径間の吊橋。
3基の主塔はデザインも大変すぐれており、特に中央の塔からは水辺へ降りる石段が設けられている。
また、それぞれの主塔から斜吊索が張られ19世紀末のアメリカの吊り橋によく似ているといわれている。
橋の中央に資材運搬用のトロッコのレールが敷かれていたため、その痕跡が分かるように復元してある。
明日香・稲淵

日本最初の橋といわれる飛び石。
夏にはホタルが飛び交い、春にはツツジとアザミの花が咲き、秋には川岸にヒガンバナが咲く。

大井川 蓬莱橋(静岡県)
全長877.4mの木造歩道橋。
今では数少ない賃取橋。
平成9年12月30日、「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてギネス社に認定された。
農道しての需要な役割を担うほこ、貴重な歴史的土地改良施設として県内外から観光客が多く訪れる。

徳島 かずら橋
〇祖谷のかずら橋
平家一族の哀話を秘める、秘境“祖谷”にあるかずら橋。
冬場の厳寒な山野で採取した自生のシラクチカズラ(重さ約5トン)で作られたもので、長さ45m・幅2m・水面上14m。
昔は深山渓谷地帯の唯一の交通施設であった。
3年毎に架替えが行われる。

かずら橋の由来は、祖谷に巡行された弘法大師が困っている村人の為に作ったという説や、追っ手から逃れる平家の落人が楽に切り落とせるようシラクチカズラで作ったという説等諸説が残っている。

〇奥祖谷二重かずら橋
約800年前平家一族が剣山、平家の馬場での訓練に通うため架設したといわれている。高山に自生している「シラクチカズラ」を利用しており、奥祖谷かずら橋キャンプ場への通路となっている。かずら橋が2本並んで架かっている為、通称「男橋女橋」とも「夫婦橋」などとも呼ばれている。

長崎 ヤドカリ
長崎ではヤドカリを食すらしい

南紀 富田の草堂寺
熊野参詣道大辺路の富田坂の北麓にあり、山号は南昌山、臨済宗東福寺派で、古くは真言宗で円光庵と称し、慶安3年(1650年)高瀬村(現白浜町)の中岩久煕の弟、洞外が再興し草堂寺と改称、禅宗となり、洞外に帰依した一条家および九条家の祈願所だった。
本堂は天明6年(1786年)までに再建、草堂寺観音堂(円通殿)は1本の欅(けあき)から造られており、1本堂とも呼ばれている。
観音像は、平安時代の仏像で、長州の日頼寺(山口県下関市)から東福寺を経て当寺に安置され、聖観世音菩薩。
天井絵は、山本秀が草花を描いており、十二支がそれぞれの方位に彫られている。
また、天明7年(1787年)丸山応挙門下の画家、長沢蘆雪が来寺して障壁画を残し長沢蘆雪の寺の名でも知られている。

長沢廬雪は円山応挙に師事し、天明6年(1786年)に紀南地方に来訪した際、串本の無量寺、西向の成就寺、富田の草堂寺に180面を超すふすま絵などを制作したという。
ここ草堂寺には障壁画71面、屏風5隻、「龍と仙人図」「黄安仙図」等の水墨画9点が納められている。
廬雪30歳中頃の作品で才能が今まさに開こうとしている時期の作品で、国指定の文化財として伝えられている。
長沢芦雪の作品↓


安曇野
うぐい:清流・犀川では、産卵期を迎えたウグイの伝統漁「つけば漁」が行われている。

わさび:花言葉は『めざめ』。
安曇野に真っ先に春を告げるわさびの花は、幸せを運ぶ花だといわれている。

静岡伊豆急行線
今年で開業20年、昭和36年伊東駅〜伊豆急下田駅開通、その沿線は日本を代表するリゾート地としても発展してきた。
全線が電化され、車体はアルミボディー、ローカルな雰囲気はないが、座席のハイチを見ると、横座り隻とボックス席に分かれ、8000系車両の座席。
伊東駅出発。
伊藤氏は景勝地を楽しんでもらおうと、伊藤八景に認定しアピールしている。(オレンジビーチ、一碧湖、汐吹公園、小室山、松川、巣雲山、城ケ埼海岸、大室山)
■川奈駅
その美しさから、伊豆の瞳と呼ばれている一碧湖、数多くの一碧湖の自然を歌にした歌人・与謝野晶子はその風景をこよなく愛し、多くの歌を詠んだ。

■伊豆高原駅
大室山:およそ3700年前、噴火の際噴き出したスコリア(黒色の軽石)が降り積もってできた山。
軽石は風化しやすいが、噴火当時の姿を保っていることが学術的に評価され、国の天然記念物に指定された。
周囲1kmに及ぶ噴火口は、ぐるっと1週で斬るハイキングコースになっており、360度の眺望を楽しむことができる。
観光リフトで山頂へ、標高580m、伊東の町を見下ろすことができる。

小室山:4月下旬〜5月上旬にかけ約10万本のつつじが、また12月〜4月にかけ、4000本のつばきが咲き乱れる。
小室山山頂までは山麗からリフトで3分。富士山から伊豆諸島まで360度のパノラマが広がる。

松川:川のほとりに建つ温泉旅館・東海館、昭和初期の建築様式をそのままに残す伊東市の指定文化財。

伊東市には6つの温泉がある。
北川温泉の露天風呂・黒根岩風呂は湯船につかりながら朝日が見える。
熱川温泉の露天風呂・高磯の湯、大川温泉の露天風呂・磯の湯

築城石慶長8年(1603年)徳川家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた。

その後江戸幕府2代将軍 徳川秀忠が就任する前年(1604)6月、それまで一大名の居城にすぎなかった江戸城(皇居)を、徳川幕府の城郭にするための大拡張工事が徳川家康から発表された。

慶長11年(1606年)3月、工事着手までの間、石船(築城石を運搬する船)の建造・採石・運搬などの準備が大掛かりに行われた。

城郭石材を採取、運搬すべき命令は、28家の大小名に下り、その役高合計は530万石にのぼり、高10万石につき「百人持ちの石」(人夫100人で運搬できる石)を1120個宛て課せられた。

課役大小名の役高合計から数えると、「百人持ちの石」数は59360個にも及ぶ。

石材は伊豆石(主に伊豆半島東岸産の安山岩)が採用された。

この夥しい数の石材を、伊豆から江戸まで運ぶための石船建造を課せられた主な大名は、浅野幸長、福島正則、蜂須賀至鎮、細川忠興、黒田長政といった外様大名28家や、尼崎又次郎という堺の大商人らである。

幕府は石船建造の補助金11,925両をあて、浅野幸長385艘、黒田長政150艘、島津義弘150艘、尼崎又次郎100艘など合計約3000艘を建造した。

このときの手伝普請(幕府が藩主に命じて行う土木工事)は、西国の諸大名15家で本丸、外郭、天守台、虎の門、大手門、曲輪などの石垣修築が行われた。

さらに石船建造、採石運搬、石垣工事など、二重、三重に命ぜられた藩もあった。

東伊豆で切り出された「百人持ちの石」は3000艘の石船に積み込み、江戸城へ向けて運ばれた。

三代将軍徳川家光は寛永13年(1636年)最大規模の助役を諸大名に命じ、全国から動員された大名の役高総計は6645000石であった。

西国大名が主として石垣、枡形工事を、関東大名が壕・土手工事を担当し江戸城外郭工事が行われた。

こうして徳川三代、30年におよぶ江戸城大修築は寛永13年の普請を以ってひとまず完成を迎えた。

ねこさいの日(4、5、9月の毎週日曜日):ねこさいとは定置網のこと。(根=海底の岩礁 こさい=拵える、建設する)
北川漁港の目の前に設置された定置網から朝水揚げされた新鮮な魚を捌いてすぐに焼き、海の幸をみんなで味わう。

■片瀬白田駅を過ぎると波打ち際を走り絶景・・・

■伊豆稲取駅
稲取ではひな祭りや端午の節供に吊るし飾りをする。

■河津駅
河津桜原木カワヅザクラの原木は、伊豆急河津駅から天城山へ向かって1.2kmの地点、河津町田中の飯田氏宅の庭にある。

樹高約10m、樹巾約10m、幹周約115cm 

昭和30年頃の2月のある日、飯田勝美氏が、河津川沿い(豊泉橋上流の田中地区側)の冬枯れの雑草ので芽吹いていた約1メートル位育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まり.

10年後の昭和411月下旬、やっと花が咲き始めた。

同年4月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け永眠した。

後にきれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もあったが、思い出の桜の為手放さなかった。

当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ、親しまれていた。

その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年に河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され、昭和504月河津町の木に指定された。

大噴湯公園大正12年頃、当時峰温泉を一大温泉地にしたいと強く願った稲葉時太郎氏により温泉の掘削が行なわれ、大正1511月に爆音と共に地上50mまで噴き上がったといわれている。
当時は「東洋一の大噴湯」と呼ばれていたこの大噴湯を整備し、平成2121日にオープンした。

 

天城隧道天城トンネル(正式名称=天城山隧道)は、静岡県伊豆市と、同県加茂郡河津町を結ぶトンネル。
現本線の新天城トンネルと区別するため「旧天城トンネル」と呼ばれている。
明治38年に築造され、全長445.5m、アーチや側面などすべて切り石で建造しており、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のもの。
総石造りの馬蹄形をしたトンネルの入口や内部は、非常に重圧な構えとなっていて明治末期を代表する歴史的トンネルであるとし、平成10925日に有形文化財に登録され、平成13年には道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定された。

その旧天城トンネルに続く道は川端康成作「伊豆の踊り子」でも有名な旧天城峠。
ブナ・カエデ・ヒメシャラなどの樹木が自然のままに生い茂る風情は、今も「伊豆の踊子」の世界そのもの。
道の途中には、伊豆の踊り子文学碑や氷室、あの名曲「天城越え」の歌詞に唄われている寒天橋や、風光明媚な二階滝(にかいだる)などもあり、気軽なハイキングコースとして人気がある。

河津来宮神社の大楠のご神木二千年の樹齢にあやかり、古くからこの大楠を一廻りすると一年寿命が延びると伝えられている。

また、願い事のある人は思うことを誰にも云わず一廻りすると願い事がまとまるとも伝えられている。


キノミヤ信仰:古代の日本民族は、大きな木、岩、滝など巨大な自然創造物に神々が宿っていると信じ、其の自然創造物の前で祭祀を行い、感謝し祈りを捧げる神籬磐境信仰を持っていた。

時が流れ建物の文化が進み、それらを中心に社殿、鳥居が建立され神社が形成されたといえる。

熱海鎮座の来宮神社は江戸末期まで『木宮明神』と称し、現在の『来宮』ではなく、『木宮』の字で古文書等記されている。

また伊豆地方に『キノミヤ神社』という社は十数カ所あり、各社とも必ず千年以上の御神木があることから、『木』に宿る神々をお祀りする神社として崇敬を集め、古来生活文化に欠くことのできない木に感謝する信仰を有していた。

今から百二十年前の嘉永年間に熱海村に大網事件という全村挙げての漁業権をめぐる事件が勃発し、その訴訟費等捻出のため、境内に聳え立っていた七本の楠のうち五本は伐られてしまった。

古記によると、残されているこの大楠をも伐ろうとして樵夫が大鋸を幹に当てようとしたところ怱然として白髪の老人が現れ、両手を広げてこれを遮る様な姿になると大鋸は手元から真っ二つに折れ、同時に白髪の老人の姿は消えてしまったという。

これは神のお告げであるとして村人等は大楠を伐ることを中止致した。

この木が即ち現在ある御神木。

寒天橋:寒天の材料である天草漁は、江戸時代より白浜を中心に伊豆で盛んに行われていた。
現在でも漁から仕分けまで、すべてが手作業で行われ、その品質の高さは古くから知られている。
天草を煮て冷やし、固まったものがトコロテン、トコロテンを寒ざらしにしたものが寒天、つまり寒天を製造するためには寒く乾燥した地域が適している。
そのために冬が長く晴天が続く長野へ、天草は天城峠を越えて運ばれていった。
♪『天城越え』♪わさびざわ かくれみち さよしぐれ かんてんばし〜♪

山葵駿河区中平の見城家には、慶長9年(1604)の古文書が残されている。その中の古文書には、朝鮮通信使の食材として山葵が提供された記述がある。

そもそも有東木の山葵は伝承によると慶長年間から山里で自生していたものを、村人が湧き水で栽培したのが始まりという。


慶長17年(16127月に、大御所家康公に山葵を献上したところ、家康公は「天下一品」と褒めたたえたという。

以後有東木の山葵は、この土地から一切持ち出すことを御法度とした。

ところが延享元年(1744)、伊豆の住人がシイタケ栽培のため派遣された折、密かに山葵を弁当箱に忍ばせて伊豆に持ち帰った。

こうした経緯で、伊豆でも山葵栽培が盛んになったという。

↑山葵の花のおひたし、おろしたての本山葵の山葵丼
河津七滝(ななだる):この地域では滝のことを“たる”と呼び、およそ1kmの川に沿って7つの個性ある滝を巡ることができる。
(えび滝 蛇滝 初景滝 かに滝 釜滝 出合滝 大滝)
それぞれの滝には遊歩道が整備されているので、マイナスイオンたっぷりの森林浴を堪能できる。

■伊豆急下田駅
ペリーが下田の港に上陸したのは1854年、この時行進した道は、現在ペリーロードと呼ばれ、下田の昔ながらの風情が残されている。
条約交渉の舞台となった了仙寺は、ペリー率いる音楽隊の演奏により、日本で最初の洋楽コンサートが行われた場所。
下田駅の広場では黒船のモニュメントが訪れる人々を迎える。
駅の改札も黒船。

坂本竜馬:1854年日本和親条約に関してさらに追加で定めた下田条約が締結されるなど、下田は日本開国の舞台になった。
1863年土佐藩主・山内容堂と勝海舟が坂本竜馬に関する取り決め・脱藩赦免を行った。
その会談を行った場所が残っている。

文久3年(1863年)1月、運命の嵐に導かれ、第15代土佐藩主、山内容堂一行と土佐脱藩浪士を弟子とする、後の幕府軍艦奉行、勝海舟一行が下田で鉢合わせをした。

坂本龍馬らの脱藩の許しをほしい海舟は、わずかな供を連れて同寺に参上、容堂は海舟が酒を飲めない事を承知で、「脱藩の罪を許してほしくばこの酒を飲み干してみよ」と大杯に酒を注ぎ詰め寄った。

それをためらい無く飲み干す海舟…。

その約定の証を求める海舟に、容堂は自らの白扇に「ひょうたん」の絵を描き、「歳酔三百六十回 鯨海酔侯」と署名し渡したとされる。

龍馬の活躍はここから始まるのである。ここには、その歴史的会談があった「謁見の間」の一部が当時のまま残され、この時、容堂と海舟が酌み交わした大杯の実物を見ることが出来る。

 

〜勝海舟が山内容堂に龍馬脱藩赦免を願い出る〜

薩長同盟、大政奉還を成し遂げた維新回天の立役者、坂本龍馬は、土佐を脱藩した当初、国抜けの重罪人として、幕臣勝海舟に身を寄せる一脱藩浪人であった。

しかし、幕臣でありながら開国論を説き、世界をも視野に入れた、グローバルな考え方を持った勝海舟にとって、坂本龍馬は不思議な魅力に溢れており、両者の間には身分を超えた深い信頼関係があったという。

文久三年(1863)、時勢の急変によって大鵬丸にて上洛途上、後の板垣退助らを随伴した山内容堂は、天候不順から下田の宝福寺に身を寄せて日和待ちを続けていた。

気の短い板垣などは、「何の為の蒸気船か!」と船長らを批判しその声に押されるように一行は出航する。しかし遠州灘沖で猛烈な嵐に遭い命からがら下田に舞い戻る。

そんな折、坂本龍馬ら後の海援隊メンバーを伴った勝海舟が、悠然と幕船順同丸に乗って下田に入港する。

幕末の鍵を握るキーパーソン達が下田に集結した。

「酔候」と自称した山内容堂は、なお続くひどい船酔いに苦しみながら、操船者への不満をいだいていた。高名な幕府高官勝海舟入港の知らせを聞き、「ちょうどよい、勝を呼べ。」と使いを遣る。

当事、名は知れていたものの、勝海舟は奉行並の役職であり、土佐一国二四万石のご隠居からの誘いを断るべくもなく、わずかな人数を連れて宝福寺に参上、謁見する。

 

宝福寺での会談:土佐側は容堂、その側近1 名、大鵬丸船長、そして航海術顧問格の旗本2 名、計5 名。

海舟側は、勝本人と航海術研修生2 名の計わずかに3 名。

対談が始まった。

容堂は大大名の前藩主とはいえ現在は隠居の身、一方の勝は堂々たる幕臣である。

双方敬意を表しながら慇懃に最初の挨拶は終った。

椿事が起こった。勝は居住まいを正し、船長と旗本2 名に向かって云う。

「この航海は容堂様にとって初めての経験だ。よほど慎重に天候を選ぶべきだ。

しかるに悪天をついて出航し、挙句瀕死の目に老公をおあわせになるとは、何たる失態だ。

以後注意めされよ!」。

船長、旗本いずれも一言の反論もなく、うつむくばかり。

さらに海舟は表情を穏やかにして容堂に向かい・・・

「私の船には、尊藩を脱した坂本龍馬ら脱藩浪士が乗船しております。どうか、脱藩の罪を許し、彼らの身を私に預けて頂けないでしょうか」と懇願した。

これに対し容堂は、勝が酒を飲めない事を承知で、「ならば、この酒を飲み干してみよ」と杯を手に取り、海舟に渡し親酌する。

杯に満たされた酒鏡に、龍馬らの顔が浮かんだ。海舟は、ためらうことなく一気にそれを飲み干した。

まるで、これから起きる激動の時代を飲み込むかのごとく。


容堂は「勝が飲んだ、勝が飲んだ」と手を叩きながら、子供のように喜んでいる。

そんな容堂を海舟は冷静に見つめながら、「老公は大酒家でいらっしゃる。

明朝赦免のことなど覚えていないとおっしゃるかも。

是非赦免の証を頂きたい」と願い出る。

海舟の真剣な眼差しに、容堂も白扇を取り出し、瓢箪を描き、その中に「歳酔三百六十回、鯨海酔候」と署名をして手渡した。

翌二月、正式に脱藩は赦免され、その後、まるで足かせが取れたように龍馬の維新回天の活躍が始まる。

豪胆と見識で龍馬を活かした海舟、そしてその心意気に応えて、東奔西走、海舟の構想を実現に導いた坂本龍馬。

二人しか知りえない絆がここにある。

龍馬の二度目の脱藩の際にも、海舟は容堂にこの日の約定を持ち出し、決して厳罰に処することなきよう説得したと伝えられる。

近年、坂本龍馬の師として注目されている樋口真吉が龍馬を評するに用いた「坂竜飛騰」(下界にうずくまり力を蓄えた龍が突然天上界に向かって爆発急上昇する)という言葉がある。

宝福寺、下田は「坂竜飛騰」の地と言っても過言ではない。

龍馬は伊豆下田の宝福寺で、その身にまとわり付く手かせ・足かせを振り払い、文字通り天空を天がける天馬ペガサスとなったのだ。

海水浴場:白浜には大小9つの海水浴場がある。
地元おすすめは田牛海水浴場、波の浸食で複雑に変化した海岸線を持ち、混雑が少ない穴場的スポット。
サンドスキー場:海から吹きつける強い風によって砂が舞い上がり降り積もってできた砂の丘。

| poyo | 紀行 | comments(0) | trackbacks(0) | - |
スポンサーサイト
| スポンサードリンク | - | - | - | - |









url: http://poyoland.jugem.jp/trackback/603