ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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塩 いのちと心の物語
ユーモアと物欲を刺激するショッピングガイド「カラメル」インテリアブログ

峠の先の村では、人々が久々にやってくるものを待っている。
それは塩。
かつて海から遠い山間で暮らす人々にとって、塩は何よりも貴重なものだった。
塩を使えば食べ物は美味しく、しかも保存することができた。
海辺には家族総出で塩作りに励む姿があった。
味のよい塩をたくさん作るにはどうすればよいか。
人々は知恵と工夫を惜しまなかった。

味わいの塩、命の塩、楽しみの塩、穢れをはらう塩・・・
ありふれてはいるけれど、かけがえのない塩と日本人。

盛り塩
東京都浅草、5代続くどじょう料理店、創業当時から仕込みの後あたりまえのように続けられてきた仕事がある。
盛り塩だ。
店主「お客様の出入があって、足にぶつかり散ってしまうが、それは出入がある証拠だとよく言われる。」
お客様を思い、商売繁盛を願って毎日欠かさない盛り塩、流儀は様々。

ある店では塩を3つ盛る。
店主「盛り塩は3つ立てて実が立つという意味がある。
ご来店のお客様にご来店の際、お帰りの際に踏んでいただき、お客様の身を立てていただく。」

盛り塩の起源は中国の昔の皇帝という話もあるし、皇帝ではないという話もあるが、羊や牛が馬車のように引張って偉い方を乗せて動いている。
玄関先に塩を盛っておくと、その動物が塩を舐めて止まってしまうので、よいお客さんが来てくれるという話がある。
日本では平安時代、貴族が乗る牛車の牛が好物を見つけて立ち止まるので、塩を盛ったという説もあるとか。

東京築地で3代続く日本料理店の盛り塩はちょっと変わっている。
入物に塩を盛り、蓋をして塩が見えないよう何気なく置く。
店主「お帰りになるまで身を守っていただくという意味。」
盛り塩1つに思い思いに工夫や遊び心を込めてきた日本人。

塩地蔵
東京足立区、西新井大師、厄払いのお寺として知られ、大勢の人で賑わう。
境内の片隅にある塩でまみれたお地蔵様・・・塩地蔵
持ってきた塩を振りかける人、供えられた塩を体にすりつける人、健康を願う人が絶えない。
痛いところにこすりつけたら治る、持ち帰った塩を神様にお供えし毎朝少しずついただくと癌やできものに効く、と信じられている。

東京江東区、宝塔寺いぼとり地蔵と呼ばれる塩地蔵。
供えられた塩をいぼにつけると、しぼが治るという。
江戸時代から評判になり、人々がいぼにつけ、とれるとお礼に塩を供える。
皮膚科の専門家によると自己暗示療法であるという。

塩アート
現代美術作家・山本基さんが作品に使うのは塩。
容器につめた食塩を、小さな穴から少しずつ落とし、白い線を描いてゆく。
『迷宮』と名付けられた作品は横20m、縦10m、1日10時間、広大なスペースをキャンバスに見立て、塩の線で満たしてゆく。
手から伝わってくる喜びがあるのだという。

油絵を描いていた山本さんが塩を使って作品を作り始めたのは15年前。
2年間闘病生活をしていた妹をなくしたのがキッカケだった。
山本「昨日までできたことが今日はできない。
どんどん刻々と変化してゆく体の衰弱、病魔に侵されてゆく過程を見てきた。」
妹を襲う激しい苦痛と束の間の安らぎ、その度に揺さぶられる自分の心。
湧き上がる様々な思いをすぐに形にできる素材が欲しい、そんな山本さんがたどりついたのが塩だった。
山本「塩は生と死の両方を兼ね備えたもの。」
『迷宮』にも、亡き妹への思いが込められている。
山本「彼女が生きていた時の思い、状況を感じたい。」
作品は展示が終わると壊され、使われた塩は小分けにされ海に返される。
山本「なくなってしまうからこそ、今そこにあるものが美しい。」
塩のはかなさ、しかし塩は命を支え、命をつなぐ。
今はなき人への思いもつなぐ。

塩田
昭和33年、能登半島の夏。
平安時代から始まった揚浜式製塩
砂を敷いた塩田に、繰り返し海水をまき、夏の太陽の熱で乾かす。
そして塩がついた砂を集め、海水に溶かして濃い塩水を作り、煮詰めて塩をとる。
“塩汲み3年、塩まき10年”と言われ、作業は人の力だけが頼りの過酷なものだった。

能登半島先端、石川県珠洲市、江戸時代初めから塩作りが盛んになった。
海岸まで山が迫った独特の地形、米作りに適した土地はあまりない。
そのため塩を作って年貢として納めていた。
加賀藩が始めた塩手米という制度の記録『塩手米出来塩請払状』(慶安2年 1649年)、両人に前もって米を貸しつけ、その代りに塩を作らせ年貢として納めさせていた。
この制度によって塩作りが盛んになった。
珠洲市では現在でも揚浜式の塩作りが行われている。
昭和34年に一旦廃止されることになったが、地域の文化財として続けられた。

角花豊さんは、塩作りの家の5代目。
子供の頃から塩作りを手伝い、7年前後を継いだ。
父菊太郎さんの人生は塩作りによって大きく変わった。
昭和19年、徴兵され、金沢の連隊に入隊した時のことを、豊さんは父からよく聞かされたという。
角花「おまえ、塩作りを知っているなら兵隊を10人つけるから軍隊の塩を作ってくれ、と命令を受け、終戦前に90俵作った。
塩作りの技術を持っていたために外地にいかず、地元に近い所で塩作りをして終戦を迎えた。
塩作りは命の恩人だ。」
生涯塩への感謝の気持ちを忘れなかった菊太郎さん、文化財として守ろうとしたのもそのためだった。
父親の塩田への思いは豊さんにも受け継がれている。

塩引き
新潟県村上市の冬の名産品、塩引き鮭
鮭の旨みとほどよい塩気の組み合わせが絶妙な味を生み出す。
地元で塩引き鮭作りの第1人者と言われる吉川哲罎気鵝
その日に獲れたばかりの鮭に丹念に塩をすりこむ。
ぬめりや血合いを落としながら鮭のみに塩をしみこませてゆく。
塩引き鮭にすることえ、1年は保存がきくという。
吉川「塩の領は作る前にお祈りし、鮭に教えてくれと頼む。
生まれくる旨みと使った塩とのバランスがとれる塩加減は、もういいかい、と言うと、もういいよ、と言ってくれる。」
村上氏では鮭はイヨボヤと言われる。
魚の中の魚と言う意味。
江戸時代から冬になると一斉に塩引き鮭作りが行われてきた。
家同士その出来を競い合うほどだったという。
13台に渡って染物店を営む山上茂雄さん、12月暮れの注文を片付けた後、大切な仕事が待っている。
塩引き鮭作りだ。先祖代々伝えられている。
1週間塩漬けにした後よく洗って天日干し。
冷たく湿った風の中で塩の助けによって発酵が進む。
こうして身のタンパク質が旨みに変る。
作業の後、去年作った塩引き鮭を肴にしての一杯は格別。
山上「1年過ごせたことへの感謝の気持ち。」

塩菜
秋の京都、数ある京都の漬物の中でも塩をもっとも大量に使うと言われる漬物すぐき。
京都にしかない蕪の一種スグキナを大量の塩だけで漬け込む。
1日500株のスグキナを浸けるのに45kgもの塩が必要だという。
柴漬や千枚漬のおよそ2倍。
スグキナは京都の北、上賀茂地区だけで栽培されてきた。
17代続く京野菜農家、戸田修さん。
スグキナは太く固い繊維質が多く、そのままでは美味しく食べられない。
それを変えるのが塩。
戸田さんの母美智子さん、作り続けて50年以上。
地元ではスグキ名人として知られている。
美智子「塩はコク、旨み、そんな要素がある。」
大量の塩によってスグキナの水分が抜け、繊維が軟らかくなる。
一方で塩は腐敗を抑え、乳酸菌の働きを助けて発酵を進め、旨みとコクをもたらす。
2週間漬けたスグキナを最後に高温多湿の室で10日間、発酵をさらに進める。
株と葉の色を確かめて取り出すタイミングを探る。
この見極めが仕上がりの良し悪しを決める。
乳酸菌による酸味がしょっぱさを和らげ、ほんのりとした甘さを感じさせる。
味を確かめるのは美智子さんの役目。

塩の技
料理にとって塩とは?
料理番組でお馴染みの田村隆さん「塩は料理の中の輪郭。
塩がまず形を作り、そこに醤油やみりん、砂糖の色がついて1つの料理ができる。」
日本料理は塩の技の集大成。
紙塩・・・紙に透かして塩を振ることで、均一に薄い塩味をつける。
余分な脂や水分が抜け、歯応えがよくなり旨みが増す。
立て塩・・・海水と同じ濃さの塩水に食材を浸し、塩味を満遍なくつける。
振り塩・・・高い所から振りかけることで、食材に均等に塩がつく。

塩の涙
昭和10年代、香川県坂出の塩田。
当時香川県は日本最大の塩の生産地だった。
1200haの塩田で日本の塩の生産の3分の1をまかなっていた。
この時代日本の塩作りの主流は入浜式製塩、潮の満ち干を利用して引き込んだ海水を砂浜にまき、砂を集めて濃い塩水を作る炎天下の作業だった。
こうした瀬戸内の塩田の町に生まれ育ち、後に日本の塩作りの大きな変革に関わった人がいる。
元専売公社塩事業本部調査役・村上正祥さん「子供の頃塩浜の土手は遊び場だった。
腹が減ったら納屋から芋を持ってきて、塩釜の焚口の横に並べて焼き芋を作った。」
村上さんは愛媛県生名島、製塩業の家に生まれた。
村上さんは25歳の時、当時の専売局に入社、技術者として日本の塩作りの大きな課題に取り組む。
生産の効率をいかに上げるかということだった。

当時入浜式の塩田は過酷な労働にもかかわらず、全国の食用の塩の5割程度を満たすことしかできなかった。
村上さんは流下式塩田の開発研究を進めた。
海水を上から流しながら風で水分を蒸発させ、塩分を濃くしてゆくやり方。

塩作りを大きく変えたのはイオン交換法といわれる日本独自の方法だった。
広大な塩田を使わずに、電気の力で塩の成分であるナトリウムと塩素を集め、濃い塩水を作ることができる。
昭和30年代後半、村上さんを含むプロジェクトチームは塩田からイオン交換法へと塩作りの大きな転換を進めていった。
全国に26あった製塩会社は7つに統合され、外国産に負けない価格の安い塩が作られるようになる。
新しい技術に転換が進む中で、全国各地の塩田が消えていった。
村上さんの故郷でも、村上さんの父を理事長として製塩業者がまとまり、生き残りを図ったがうまくいかなかった。
そして昭和46年最後の塩田が廃止、日本から塩浜の風景が消え去った。
塩作りの近代化は、日本の風景を大きく変えた。
炎天下の厳しい塩作りは、人々の記憶からやがて消え去ろうとしている。

癒しの塩
奈良市にあるリハビリ施設では、機能回復のために塩を活用している。
白く輝く部屋、高温で焼き固められた塩のタイルで作られている。
室内は通常の2〜3倍の塩の粒子で満たされている。
塩分の濃い空気によってリハビリ効果を高めようというのだ。
このリハビリ法を考案したのは畿央大学健康科学部、塩中雅博特任教授さん「通常私達は体が温まると発汗してくるが、病気を持っている人、特に脳や脊髄の病気の人は中々体が温まっても汗がかけない。
周りに塩分が濃い空気があると体内から水分が汗として誘導されてくる。」

大阪狭山市温浴リゾート、室温53℃の部屋、岩塩で作られている。
岩塩はヒマラヤ産、入浴剤としても使われる塩。
全身のリラックス効果を高める。
昔から穢れを払う効果もあると言われていた塩。
心も体もリフレッシュできるかもしれない。

塩の神
日本の塩作りはどのように始まったのだろうか?
鹽竈神社、塩の神が祀られている。
毎年7月塩を作って神に供える藻塩焼神事が行われる。
神事ではホンダワラという海草に海水をかけて塩を作る。
かつてこの場所で神様が人々に塩作りを教えたという言い伝えにちなんだ儀式。
その神様とは塩土老翁神、鹽竈神社に祀られる塩の神。

この神社がある松島湾の周辺では、遠い昔の塩作りを物語る品が見つかっている。
岡村道雄さん、東北地方を中心に縄文時代の遺跡の発掘を手がけてきた。
湾内の無人島にある貝塚では、今も多くの土器のカケラが見つかる。
土器には赤く変色したものが数多くある。
見つかったカケラを集めて復元した製塩土器、約3000年前縄文時代晩期に塩を作るために使われたとみられている。
熱が伝わりやすいよう、薄く作られ、内部は磨き上げられ水が漏れないようになっている。
縄文時代の塩作りはどのように行われていたのだろうか?
祖は海水を煮詰めれば作ることができるが、それでは効率が上がらない。
そこで用いられたのがホンダワラなどの海草。
これに海水を含ませて塩分を濃縮させ燃やす。
この灰を海水に溶かして濃い塩水をつくり、煮詰めて塩を採っていた。
藻塩焼という作り方。
縄文時代の製塩土器と共に見つかった大量の魚の頭の骨、なぜか中骨はほとんど見つかっていない。
岡村さんは塩作りをしていた人々がここで魚の頭をとって塩漬けにし、内陸の村へ運んでいたのではないかと考えている。

松島湾の周辺では縄文時代晩期から弥生時代にかけての塩作りの跡が47箇所でみつかっている。
この時代としては全国的にも例がない数。
松島湾は当時塩の一大生産地だったのだ。
塩作りが松島湾に残したといわれるものが他にもある。
日本三景に数えられる松島の風景だ。
松島湾では平安時代にも塩作りが盛んに行われていた。
松島の松は塩を焚くための燃料として、当時植えられたものだと岡村さんは言う。
松林の広がる風景は当時の日本人の塩への熱い思いを語っている。

塩の道
山の中に残る、穴があけられた石、直径1mほどの奇妙な石は、牛つなぎ石と呼ばれている。
かつて牛を使って塩を運んだ時代の名残。
自給自足が当たり前だった時代、山間で作ることができなかった塩を運ぶため、日本人は道を無数に切り開いてきた。
塩の道だ。
日本国内でもっとも海から遠い信州、日本海から太平洋から総延長350mの塩の道があった。
山間の村へ向かう塩の道は、牛や馬が大切な輸送手段だった。
江戸時代、主要な街道は人が通る道だったが、そこへ荷物を積んだ牛や馬を通すと危険なので人通りが少ないわき道を塩を積んだ牛や馬が通った。
コストを下げるために5〜6頭つないでいた。

長野県小谷村の里に塩の道の痕跡が今も残されている。
塩を運んだ人達が泊まった牛方宿
山道のきつい勾配には馬より牛のほうが強いため、この辺りでは牛が多く使われた。
この家出生まれこの宿の様子をひいお祖母さんから聞いたという千国美晴さん「土間は黒光りしていた。
塩のにがりがしみ込んでいたということ。」

愛知県豊田市足助、江戸時代から明治にかけて太平洋側の塩を信州に送る中継基地となっていた。
太平洋側では日本海側の塩の道に比べ、勾配が緩やかなため、足の速い馬が使われた。

郷土史研究科の鈴木功さんは塩で賑わった足助の様子を子供達に教えている。
馬の背に揺られる長旅の間にほどけたり破れたりする荷があった。
ここで塩を新たな俵に詰めなおしたという。
鈴木「袋に入れたときに俵がいびつで足で踏みつける。
それを塩踏みという。
それでびっしり詰めて縄で縛って問屋さんの焼印をするのが一連の作業。
その作業を足助直しといい、総称して足助塩というブランドで信州へ送った。」
信州への塩の道を行くと、あちこちに馬頭観音が立てられている。
重い荷を背負い、険しい山道を旅するうちに倒れていった馬。
馬頭観音の多さはかつての塩の道の往来の激しさを伝えている。

情熱の
東京から南へ120km太平洋に浮かぶ伊豆大島。
昭和52年この島に奇妙な建造物が現れた。
その建物は塩を造るための施設。
建てたのは39歳の物理学者・谷克彦
学生時代に自然食品に会い、やがて自然の塩の大切さに気付いた谷は理想の塩を作るため、この島に移り住んだ。
谷は賛同してくれる若者達と富に塩作りの準備を始めた。
いつもその理想の塩について熱く語っていたという。
谷の協力者・村上譲顕さん「地球の生命の源である海を濃縮して作った塩。」
谷の情熱にひかれ、富に大島にやってきた阪本章裕さん、自然食品に興味を持ち、妻と共に移住した。
阪本「科学者なので塩の品質としてニガリが入ったほうがよいのだと照明するんだ、ということをやってきた。」

しかし大きな壁が立ちはだかった。
塩の専売法だ。
当時国は許可なく塩を作ることを禁止していた。
コンクリートブロックを積み上げたタワーに海水を流し、太陽と風の力で水分を蒸発させて濃い塩水を作る。
谷達はこうして塩を作ることを実験として許可してほしいと国に訴えたが許可は中々おりない。
申請を繰り返しながら建設を続けて1年余り、施設が完成し、待望の塩作りを始めた。
しかし初めてできた塩は理想とは程遠いものだった。
阪元「真っ黒い塩だった。
細かい砂埃が塩に混ざる。」
砂を防ぐために施設を加工、効率をあげるためにタワーを作り直す。
やらねばならないことは限りがなかった。

大島移住から2年後、ついに理想とする塩が出来上がった。
そして昭和54年ついに国から生産の許可がおりた。
しかしそれは谷達にとって不本意な形だった。
塩製造の目的は自然エネルギーを利用することで、できた塩はすべて廃棄すること、という条件がついていた。
それでも谷たちはできた塩を全国の支持者達に無料で配ることを国に認めさせた。
名目は官能試験、平たく言えば味見。
しかし誓約書の提出を求められた。
専売塩に対して不当な批判は一切行いません。
谷達の塩は支持者を広げた。
その多くは大量生産された塩の味に満足できない人達だった。
彼らのカンパが塩作りを支えた。
活動が起動に乗り始めた昭和60年、谷は交通事故で亡くなる。
しかしその意思を若い仲間達が受け継ぎ、また新たに流下式の製塩施設が建設された。
平成9年塩の専売制が廃止された。
谷達が作った塩は初めて商品として消費者のもとに届くようになった。
今製塩工場の社長を務めているのは大島生まれの寺田牧人さん、まつて谷が初めて建てた怪しげなタワーの姿に驚いた人。
製塩工場の一角にある温室、釜で焚かず燃料を一切使わず、大自然の力だけで塩の結晶が生み出されている。
谷の理想は今もここで生き続けている。

命の
かつて日本人がもっとも悲惨な体験をした太平洋戦争。
圧倒的な戦力を誇る連合軍を前に物資の補給は途絶え、弾薬どころか食料さえままならない南の兵士達。
追い詰められた兵士達を支えたのはわずかに与えられた塩だった。
元日本陸軍伍長・石川茂夫さん「これがおまえ達の死ぬまでの食料だ、と渡されたのが、米が1合に岩塩が缶詰1缶だった。
人間は塩分がなくなると歩くのに関節が外れそうになってカタカタして歩けなくなる。
だから岩塩だけは大事にした。」
戦地では塩を巡って味方同士が殺しあうこともあったという。
生死を分けた1握りの塩。

塩泉
長野県大鹿村鹿塩、海から遠く離れたこの地で塩作りに取り組む人がいる。
地元で温泉旅館を営む平瀬長安さん、塩のもとになるのは井戸の水。
この辺りの地下水には塩分が含まれている。
平瀬さんはこの塩を使って特別な塩を作ろうとしている。
平瀬さんが10数年も試行錯誤を続けているのは、雪の結晶のような形の塩を作ること。
それは塩に取り付かれて生涯を送った1人の男から受け継いだ夢だった。
黒部鉄次郎、明治時代この土地の地下水の塩分に注目し、日本で発見されていない岩塩を掘り当てることを夢見た。
黒部が私財をなげうって掘り進めた坑道が今も残っている。

黒部のやることは型破りだった。
坑道堀の賃金を払う際、部屋に数100本のロウソクを並べ、労働者達を驚かすこともあったという。
そんなことをしていたからか資金は底をつき、岩塩もでない。
そんな黒部に手を差し伸べたのは平瀬さんの祖父理太郎さん、資産家の長男だった。
平瀬「ほとんどそれにつぎ込み、これは困ると言うことで親戚が財産分けをして、祖父は自分の家から追い出された。
でもこれは男のロマン。」
英国議会の支持で明治41年科学的な調査が行われ、日本には岩塩は存在しないとの結論が発表された。
しかし黒部と理太郎は諦めようとしなかった。
明治45年志半ばで黒部は世を去った。
岩塩掘りもついに終わりを迎えた。
平瀬さんの家からしてみれば黒部は理太郎の人生を狂わせた迷惑この上ない存在。
しかし平瀬さん自身は黒部の行き方にひかれるという。
黒部は岩塩掘りの資金を作るため、地下水を使った塩作りをしていた。
今平瀬さんは自らも黒部のように釜を焚き、塩を作っている。
目指すのはかつて黒部が作ったと伝えられる雪の結晶のような塩。
しかし夢やロマンは周囲には中々理解されない。
塩に取り付かれた男達の伝説は時代を越えて続く。

塩味好み
宮崎県串間市石波湾に浮かぶ周囲3kmの幸島。
100頭あまりの野生ニホンザルが生息している。
京都大学のグループが野生猿の研究を行っている。
猿達の好物はサツマイモ。
すぐには食べず、波打ち際へ持ってゆく。
当初は芋についた泥を洗っていると考えられていた。
しかし別の意味があるのではないかと近年研究者は考えている。
海水につけ、塩味をつけているのではないかという。

塩の雪
専売法の規制が緩和されて以降、日本各地で独自の新しい塩が次々と生み出されるようになった。
中でも沖縄では多種多様は塩が作られている。
美しい海に囲まれているからだけでなく、本土と違う独自の塩作りの文化があったためだ。
戦後長くアメリカの統治下に置かれた沖縄には、日本の専売法は適用されておらず、人々はそれぞれの工夫で自由に塩を作ることができた。
沖縄の伝統の味スーチカー、ブタのばら肉を塩で漬けたもの。
沖縄で製塩会社を経営する高安正勝さんは子供の頃食べたスーチカーの味が忘れられないという。
高安「昔自由に屠殺できたとき、沖縄の家では年に1〜2回は自分の家でブタを殺し、塩漬けにして保存する。
その味がすごくよい。
ミネラルも残っている。
それが昔の一番のご馳走だった。」

しかし昭和47年沖縄の塩の味は大きく変わった。
本土復帰と共に専売公社の塩が入ってきた。
高安「99%塩化ナトリウムになると保存した肉が辛いだけの塩漬けになってしまう。
旨みがない。」
本土復帰から25年、専売塩に不満を感じていた沖縄の人達に再び転機が訪れた。
平成9年塩の専売制が廃止され、塩作りが自由にできるようになった。
沖縄の人々にとってはかつての豊かな塩の味がよみがえることを意味していた。
それまで欄の栽培をしていた高安さんは専売法が廃止されるとすぐ製塩業を始めた。
海の味がする塩を求め、独自の製法を開発した。
瞬間空中結晶法、海水を細かい霧にして熱風で吹き飛ばし、瞬間的に水分を蒸発させる。
雪のように降り積もる塩。
海水に含まれていたミネラルをそのまま掘り出せるという。
伝統を受け継いで進められる新たな塩作り。
今沖縄で作られる塩は全国でもっとも多い100種類にのぼる。

塩のソムリエ
沖縄宮古島、塩の専門店、500種類以上の塩がそろっている。
お客さんに変った塩を紹介しているのは日本でも宮古島にしかいない塩ソムリエの青山志穂さん「最近入荷した塩で、面白いのが黒い塩。
日本の塩、出来上がった塩を3年物の青竹の中に詰め込んで焼く。
すると炭の成分が塩に移り黒くなる。
面白い風味、ゆで卵っぽい味がする。」
青山さんはソムリエの道に入ってまだ2年、多様な塩の味を理解するために利き酒ならぬ利き塩を毎日欠かせない。
今青山さんの舌には200種類もの塩が記憶されている。
塩の味は含まれる成分だけでなく、結晶の大きさでも違うという。
青山「粒が大きいと口の中に入れた時に溶けにくいので口の中の塩分濃度があがるのがゆっくり。
ゆっくりだとすごくまろやかみを感じやすくなる。
逆にすごく細かい塩は瞬時にファっと溶けてしまうので、しょっばみもうわっとでてきやすいので、しょっぱいと感じやすくなる。」
青山さんの仕事場には、日本だけでなく世界中の塩がそろっている。
今日本で流通している塩はおよそ2000種類、相性のよい塩を組み合わせることで、1種類だけでは引き出せない食材の微妙な味を楽しめるという。

塩の技
べた塩・・・食材が隠れるほどの塩をつける。
魚介から臭みを含んだ水分を抜く。
塩もみ・・・食材を塩でもみ、余分な水分を抜く。
すると調味料の味が入りやすくなる。
塩磨き・・・タコやアワビなどの表面のぬめりを取る。
身を引き締める効果もある。
板ずり・・・加熱調理した野菜の色を鮮やかに残す。
化粧塩・・・ヒレなどの薄い部分に塩をつけて焼き、こげを防ぐ。

苦塩
奈良時代に日本に伝えられたという豆腐。
塩と深い関わりがある。
大豆の搾り汁にニガリを注ぐとたちまち固まり豆腐になる。
ニガリは海水から塩を作る時、塩をとった後に残る液体。
塩化マグネシウムなどの成分がタンパク質を固める働きをする。
岐阜県郡上市の山間にある母袋地区、かつてこの地域ではそれぞれの家で豆腐を作っていた。
家で塩からニガリをとるために使っていた道具が残されている。
塩舟と呼ばれ、長さおよそ1.6m、底には塩がこびりついていてる。
村で最後まで自家製の豆腐を作っていたという山下清子さん、カマス(叺)と呼ばれたムシロで作った袋に塩が入っていた。
カマスを塩舟の植えにおいておくとニガリがにじみ出てポタポタと溜まっていった。

精製された上等な塩ではニガリはほとんどとれない。
ニガリをとるために、水分をたっぷり含んだ塩としては実のよくないものをわざわざ選んで買っていたという。
塩が険しい山道を越えて運ばれてくるのは年に数回だけ。
その貴重な塩からまとめてニガリをとり、少しずつ大切に使って豆腐を作った。
かつてニガリをすくっていた柄杓が残っていた。
山間の暮らしを支える貴重なタンパク源だった豆腐。
塩を生かす山里ならではの知恵があった。

塩鰤
長野県松本市、年の暮れ、人々が待ちわびる冬の味覚、鰤。
縁起物として正月料理に欠かせない。
松本の人達が特に好むのが生の魚を塩で漬けた塩鰤。
1切れ数1000円もする塩鰤がどんどん売れてゆく。
冬鰤が獲れるのは北アルプスのはるか向う、富山湾。
鰤はそこから飛騨高山を経て野麦峠をボッカ(歩荷)と呼ばれる男達が担いで運んだ。
富山からは8日以上の道のり。
塩漬けにしなければ長旅に耐え切れなかった。
塩作りに限らず、塩漬けの魚はかつて海から離れた山中に暮らす人々にとって貴重な食べ物だった。

民俗学研究の巨人、宮本常一は、奈良の山中で聞いた話を書き留めている。
“塩鰯を買ってくると決して煮ないで必ず焼きます。
煮たら塩が散ってしまうからです。
焼いた日はまず舐める。
次の日に頭を食べ、その次の日は胴体を食べ、そして次の日は尻尾を食べるというように、1尾の鰯を食べるのに4日かけるのです。
それほど塩というものは山中では貴重なものでありました。”
[宮元常一『塩の道』より]
魚は塩そのものを摂るために必要だった。

松本市梓山地区、時代も変り新鮮な鰤も簡単に手に入るようになった。
しかし塩鰤が憧れだった時代の祈りは今も伝えられている。
年末行く年への感謝、新しい都市の幸を願ってぶりのヒレや尾を神棚に捧げる。
かつて年越しの夜、人々は滅多に手に入らないたっぷりと塩のきいた鰤を少しずつ大切に大切に
味わっていた。
年の末の風景に遠い塩の記憶が刻まれている。
塩を作り、塩を運び、塩を使う、塩を味わい、楽しみ、また新たな塩を追い求める。
白く小さな結晶には日本人の長い旅路が込められている。

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T&K (2015/02/21 10:59 PM)
どもっ!
すげー会いたいんすけど、、
もしよろしければレスおねしゃす!!

poyo (2015/02/23 12:07 PM)
T&K さん、コメントありがとうございます。
この記事はずいぶん前に書いたので、私も内容を忘れてしまいました。
もう1度読み返してみますね。
どこかでお会いしたことありますか?
Kasuya (2017/07/19 11:56 AM)
記事、拝見させていただきました!
内容について、
お伺いさせていただきたいことがあるのですが、
メールをさせていただくことは可能でしょうか。
よろしくお願いいたします。









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