ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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古代トラキア人の謎 消えた黄金文明


今から2000年以上も昔の話・・・
“雲に隠れた険しい峰の彼方に、北風ボアレスの住む地があった。
そこには豊に穀物が実り、家畜たちが遊ぶ肥沃な平原が続き、馬をこよなく愛し、何よりも戦を好むとてつもない人々が住んでいた。
彼らの名はトラキア人。”

トラキアは紀元前5世紀から3世紀にかけて最盛期を迎えた。
勇猛果敢であることで知られたトラキア人だが、文字の文化を持たなかったため、長く謎の民族とされてきた。
1972年黒海沿岸の町から驚くべきニュースが世界に発信された。
工事現場の遺跡から、エジプト、メソポタミアよりも古い時代に作られた黄金が発見された。
以来トラキア人が世界の注目をあびることになった。
さらに今世紀に入ると新たな発掘が行われ、トラキア人の歴史が次々に塗り替えられている。
2004年にはトラキア王の黄金のマスクが発見された。
続々と発掘されるゴージャスな財宝の数々。
今もっとも古くて新しい歴史の謎、それがトラキア民族。
彼らが暮らしていたのはバルカン半島の北東部、現在のブルガリア。
紀元前5世紀、トラキアの南ではアテナイを中心としたギリシャの同盟としが侵略を企てる。
ペルシャと度重なる戦いを繰り広げていた。

同じ時代のギリシャの歴史化ヘロドトスは隣国トラキア人のことを恐れと尊敬の念をもってこう紹介している。
“彼らの数はインド人に次いで多い。
もし内輪の戦いを止め、1人の王がでて結束することができれば、世界最強の国となるだろう。”
輝かしい黄金文明を担い、死を恐れぬ勇敢な戦士であったトラキア人。
しかし彼らはある日忽然と歴史の舞台から消えていった。
古代ギリシャの詩人ホメロスはこう表現している。
“トラキア王レソスの馬は実に大きくて立派で雪よりも白く、走る速さは風にも劣らない。
馬車は金銀をあしらった見事なつくり。
また身につけた武具は黄金に輝き、見れば驚くばかり。
この姿は不死なる神にこそ相応しい。”
(ホメロス『イリアス』)

ブルガリアの首都ソフィア、人口14万、社会主義体制の崩壊から20年がたった。
最近の目覚しい考古学発掘の成果を受け、この地で名を轟かせたトラキア人に注目が集っている。
街頭ではトラキア時代の財宝の写真展が開かれていた。
ブルガリアでは現在200ヵ所で考古学発掘が行われている。
ソフィアから東へ300km、かつてトラキア人の都があったという村スヴェシュタリに向かった。
現在ここで発掘が行われている。
村の人口750、昔も今も牧畜と農業で暮らしている村。
この静かな村の一角に古代トラキアの古墳がある。
1995年ユネスコの文化遺産に認定されたトラキア王の墓。
Thracian Royal Tomb、2000年から一般に公開されている。
電子ロックの扉を開けると内部の温度と湿度は厳重に管理され、1回の入場は15分以内と決められている。

トラキア王の墓、石のブロックを積み上げた重厚なつくり。
外からは小さな丘のようにしか見えない。
人工的に作られた盛土の山の中に王の墓が埋められていた。
装飾を凝らした部屋、玄室。
発掘当時石棺にはバラバラになった王の遺骨が残されていた。
王の遺骨の周りを10体の女性像が天空を支えるようにして取り囲んでいる。
笑い、怒り、悲しみ、様々な表情の女達。

さらに見上げると壁画が描かれていた。
死後の世界に受け入れられる王の姿。
トラキア人たちが信仰していた母なる大地の神が王の安らかな死を見守っている。
歴史家ヘロドトスはトラキア人の不思議な風習をこう伝えている。
“彼らは子供が生まれると、これから身に起こる不幸を数え上げ、悲しみ、涙する。
そしてその死に際しては、永遠の幸せを得たとして喜び、祝い、酒を酌み交わす。”
トラキア人にとって墓は人生の終着点ではなく、これから始まる輝かしい来世への入り口だった。

トラキア王の墓の周辺には、まだいくつもの古墳が残されている。
この夏その1つの発掘作業が始まっていた。
発掘調査隊の宿舎、発掘は国の予算で行われるが、その額は限られており、ボランティアが欠かせない。
発掘隊長Diana Gergova(国立科学アカデミー考古学研究所)はここを拠点に30年近くトラキア人の遺跡を発掘している。
今年はカナダの大学院生、ポーランドとポルトガルの大学生、ブルガリアの高校生ら総勢16人が発掘を手伝う。
この一帯にはトラキア王の墓の他に、一族の古墳が50ほどある。
すべて紀元前3世紀前半のもの。
今回はその1つを発掘する。
7月6日発掘初日、昨年の事前調査の結果何か埋まっている可能性が高いとされている場所。
Diana先生の指導を受け、いよいよ発掘が始まる。
トラキア人の特徴は死後の世界に関する深い関心。
文字を持たなかった彼らの謎を解くカギは墓の中に秘められている。
掘るのは古墳の南西部分、事前調査でここに墓が埋もれていると予測されている。
トラキア人は大きく3つの部族に分かれていた。
南部のベッサイ族、中央平野部のオドリュサイ族、北東部のゲタイ族。
Diana「我々が発掘しているのはゲタイ族王家の墓の1つ。
彼らは死後の魂の復活を強く信じていた。
ここは彼らの聖地。」

地質学者Ilijan Katevski先生の強力で地中探査をする。
イリャン先生は年代ものの機械を使って世界遺産になっているトラキア王の墓も発見した。
地面に等間隔で電極の杭を打ち込み、それぞれの電極の間に電気を流す。
そしてそのときの電流の流れ方の違いで地中の土とそうでない物質を見分けようという方法。
Ilijan「この現場では地中探査の結果にしたがって発掘を進めている。
これが前回のデータで2つのピークに注目してほしい。
このピークのところが正にこの場所で何かあると考えられる。」
作業は2つのチームに分かれて進められる。
早速・・・Diana「これは典型的なトラキア人の器、紀元前2000年から後のローマ時代まで広く使われていたもの。」
2時間後、今度は石の塊がでてきた。
人間の手で加工されたもののようだ。
これがIlijan先生の地中探査に反応していたものなのか?
イリャン「不思議な状況だ。
普通この石はもっと大きな墓に使われるのに。」
Diana先生はこの大きな石の塊がこの墓の中核になるのでは、と目をつけた。
この石がどこまで続いているのか、掘り下げてゆけばきっと何かが見つかるはず。
与えられた期間は2週間、発掘隊はどんな成果を手にすることになるのだろうか?

黒海に面した港町ヴァルナ(Varna)、ブルガリア最大の海のリゾート。
1972年この町の建設現場で偶然発見された遺跡が世界に衝撃を与えた。
それまで世界最古の文明と言われてきたメソポタミアやエジプト文明よりずっと古い紀元前4000年に作られた黄金は遺体と共に発見された。
ネクロポリスと呼ばれる集団墓地の墓から発見された。
今から6000年前の黄金だ。
天然の良港であったヴァルナを拠点に金や銅製品の貿易で儲けた王族の墓と言われている。
しかし彼らが実際にトラキア人であったか、それ以前の先住民族であったかについては異論があり今も不明。
担い手の分らないヴァルナの世界最古の黄金文明、それをもたらしたのは内陸部の金鉱脈だった。
紀元前3000年になると北から別の民族が入って定住する。
ドゥベネで発見された遺跡は紀元前2500年ごろのもので、人骨のDNA鑑定の結果、トラキア人であることが証明された。
そのドゥベネでも黄金の首飾りが見つかった。
想像を越えた高度な細工が施されている。
マルフィン・クリストフ(国立歴史博物館)「小さな黄金のビーズ、直径1.5mm、重さ7mg、厚さは平均して0.3mmほど。
はじめは金を溶かして鋳型に流し込んで作ったものだと誰もが思っていたが、後に冶金術によるものだとういことが分った。
金の粉を鋳型に入れ、高温で圧力をかけて作り出す方法で、この技術が紀元前2500年に使われていたとは驚きだった。」
直径1.5mmの金の真ん中を正確に打ち抜いた技術、その方法は今だ謎。

発掘を始めて5日目、今日も朝から日差しが強い。
この数日間で墓の形が少しずつ分ってきた。
この遺跡はどうやら石のブロックを境にした2つの部屋からなる墓で、この古墳の一番重要な部分であることが分った。
それぞれの部屋の形に沿って掘ってゆく。
考古学発掘は宝探しではない。
ただやみくもに掘り進むのではなく、1回にスコップの幅およそ20cmずつ慎重に掘り下げ、そのたびごとに地面を平にしてゆく。
考古学の基本はただひたすら土を掘り起こし、過酷な力仕事を続けてゆくことなのだ。
午前10:00、木陰で休憩、カナダ、ポーランド、ポルトガル、ブルガリアそれぞれの学校で歴史や考古学を選考している若者達、炎天下のボランティアを自らかってでた。
アエリャン(ヨーグルトで割ったブルガリアの飲み物)、飲むと元気になるという。
Diana「ヨーグルトを作ったのはトラキア人家は分らないが彼らはワインを飲むことで有名だとギリシャ人は書いている。
それも強いワインを水で割らずに飲んでいたという。」
ワインを飲むための器をリュトンという。
角笛にも似た形の容器だが、その飲み方は一風かわっていた。
そのまま飲むのではなく、杯に移し飲んでいた。
そのためスフィンクス型リュトン(紀元前4世紀前半)の胸の部分にワインの注ぎ口がついている。

また別の容器(アンフォラ型リュトン)では壷の下に作られた両側の子供の口からワインが注がれるようになっている。
同じ容器から一緒にワインを飲むことで、お互いの信頼の証になっていた。

ギリシャ神話でワインの神として知られるデュオニソス、別名バッコス、大酒を飲み集団で乱舞する荒々しい神は、ワイン好きなトラキア人が大切にしてきた神の姿をもとにギリシャ人が作り上げたもの。
Diana「ワインはトラキア人にとって神の魂に近づくための飲み物だった。
そんな精神世界を大切にする彼らの場所だからこそ、ここで発掘できるのは単なる墓やそこに残されているものだけでなく、彼らの葬儀の仕方や死生観など様々な知識が発見できるはず。」

炎天下での発掘、この日気温は36℃まで上がった。
この季節突然天気が変ることがある。
風が吹き荒れ、雷雨が襲う。
午後1時雨のためこの日は作業を中止することになった。
この村にはテケと呼ばれる不思議な場所がある。
木々には布が結わえ付けられている。
終末になるとアリアニと呼ばれる近隣の少数民族の人々が何かの願いを込めて着ているものの一部を木に結び付けてゆく。

その先には神殿がある。
発掘するだけでなく、その土地を知ることも大切だとDiana先生は学生達を連れてきた。
神殿テケ、古代ギリシャ語でゼウスの墓という意味がある。
Diana「この石段は最段位なっていて、今も人が登って祈っている。
昔は日の出に司祭が来て何かの儀式をしたようだ。
14世紀になるとアラブ人がきてトラキア人の祭壇の神殿=テケを建てた。」
テケの土台がトラキア人たちの神聖な祭壇だった。
大きな石には今も不思議な力が宿っていて、上に横たわるとパワーをもらえるという。

壁に刻まれているのは正七角形の紋章。
Diana「その人が無実かどうか見分ける面白い伝説がある。
目をつぶって歩いて壁の穴にぴったり指が入ればよい。」
今もここには不思議な力が潜んでいると村の人は信じている。
トラキアの大地は豊穣を誇っていた。
トラキア人にとって黄金色に輝く小麦は黄金にも勝る大切な財産だった。
しかしヘロドトスはこう言っている。
“彼らの間では労働をいないのが立派な人間で、汗を流し土地を耕すものはもっともいやしまれる。
戦争と略奪で生計をたてるのが最高である。”
トラキア人の生き方は、あくまで戦うことだった。
労働を担うのは戦争で連れてきた奴隷達。

7月15日発掘を始めて10日目、快晴。
Ilijan先生の金属探知機、その日掘る部分に何か金属が埋まっていないかを調べる。
結果次第で慎重に掘ったほうがよいかどうか判断する。
残念ながら反応なし、皆一斉に彫り始める。
1回に20cm掘り下げてゆくのにおよそ2時間、いよいよ石のブロックの上の部分が現れた。
厚さ20cm、幅70cm、どかまで深いかはまだ分らない。
掘り下げてゆくにしたがい、徐々にいろんなものが現れてくる。
Diana先生が矢尻を見つけた。
南側の部屋からも、青銅の矢尻が刺さった人間の骨がでてきた。
30年前トラキア王の墓の発掘に参加したことは、Diana先生にとって人生の大きなターニングポイントになった。
Diana「この墓はトラキア人の死生観に関して興味深い事実を教えてくれる。」
発掘当時石棺からでた遺構は鑑定の結果35歳の男性と25歳の女性のものであることが分った。
Diana「驚いたことに女性の頭蓋骨に先の尖った武器で突き刺したような穴が発見された。」
ヘロドトスはこう書いている。
“主人が死ぬと数多い妻の内、もっとも愛されたものだけが生贄として殺され、主人と共に墓に入ることができる。”
玄室には馬に乗った王に妻と思われる者が冠を手渡し、共に来世へ旅立つ様子が描かれていた。

ブルガリアにはもう1つ世界遺産となったトラキア人の墓がある。
第二次世界大戦中、兵士達が塹壕を掘ろうとした時突然2500年前の王家の墓の入り口が現れた。
狭い通路を抜けると石棺が置かれた部屋。
天井にはトラキア人の暮らしを描いた壁画が色鮮やかに残されていた。
馬を世話する若者、音楽を奏でる娘達、供物を捧げる女性、そして王とその妻。
Diana「トラキア人の人生で女性が重要な役割を果たしてきたことの面白い証拠がこの壁画。
注目してほしいのは女性が座っている場所、つまり地位の高い玉座にいるのが王でも支配者でもなく彼の妻だということ。」
トラキアでは王はもっとも愛し、信頼のできる妻が共にいなければ魂の不滅の世界へたどりつけないと考えられていた。
勇壮な戦士達を支えていたのは女性達だったのだ。

Diana先生が大学を卒業したのは社会主義政権下の1970年代、考古学の分野で女性が実力を発揮するには肉体的にも精神的にも大きなハンディがあった。
しかしトラキアの女性の生き方を知ることで、勇気付けられ研究の支えになった。
Diana「発掘で大切なのは黄金の財宝や立派な古墳ではなく、当時の人々の考え方や生き方を知ること。」
発掘が始まって11日たった、雨の影響でこの日の作業は午後から。
ポーランドの大学生達はいつもまとまって全員でてきぱきと仕事を進めてゆく。
国では中々自分の手で遺跡を掘り出すチャンスはない。
土器の一部が出始めた。
まとまってでてきたので、何か儀式に使われていたのかもしれない。
こうした器にはコインや貴重品も入っていることが多いので、丁寧に土を取除いてゆかねばならない。
あっというまに時間がたち、日が暮れてゆく、発掘作業は途中で中断。

ブルガリア中央部カザンルク、華やかな黄金文化の拠点。
バラの谷、毎年6月、香水の原料となるバラの収穫で賑わう。
7月、一面ラベンダーの香りに包まれ、収穫が始まる。
これも香水の原料として使われる。
2004年有名な黄金のマスクが発掘されたのはラベンダー畑の隣の古墳からだった。
オドリサイ族の王国を作った王の墓から出てきた。
紀元前5世紀に作られたもので、23.5カラットの純度の高い黄金のマスク。
重さは627g。
これはワインを飲むための世界でも稀な分厚い純金の杯と言われている。
この谷にはこのほかにもたくさんの古墳が残されていることから、最近ではバラの谷ではなく、王家の谷と呼ばれるようになっている。

同じ谷にある紀元前4世紀にこの地を治めていた王セウテス3世の墓。
自ら戦を戦闘になって戦い、恐れられた王のブロンズの頭部は墓の入り口にうち捨てられるように埋められていた。
それは現世の肉体には何の価値もおかないトラキア人ならではの葬り方だった。
勇猛果敢なトラキア戦士の秘密、それは死を恐れない魂の不滅という信仰にあった。
その表れの1つが輝く戦闘用のための装束。
そんなトラキア戦士を有名にしたのがトロイア戦争、紀元前13世紀、1人の王妃を巡ってギリシャ連合軍がトロイア王国を相手に戦った。
この時トラキア人はトロイアの側に立ち、共に戦った。
元々トロイアの町を作ったのはトラキア人だったと言われている。

ギリシャの詩人ホメロスは敵側についたトラキア王の姿を次のように表現した。
“トラキア王レソスの馬は実に大きくて立派で雪よりも白く、身につけた武具は黄金に輝き、見れば驚くばかり。
この姿は不死なる神にこそ相応しい。”
黄金の鎧に身を固め、馬も金で飾ったトラキア王の姿。
ギリシャの詩人のこの文章が歴史上に初めてトラキア人という名を登場させた。
レソス王(Rhesusu)はこの戦いの中で壮絶な死を遂げたが、トラキア人の名は後世に残された。
セルテス3世は紀元前4世紀後半、トラキアの最盛期に都セウトポリスをこの谷に作り、黄金文化の隆盛期を築いた。(Panagyurishte Treasure)
しかし紀元前3世紀後半には他民族の侵入により、徐々にその輝きを失ってゆく。
セウトポリスは現在ダム建設のため、湖底に沈んでいる。

7月17日発掘12日目、そろそろ期限が近づいてきた。
今日も1日の始まりはIlijan先生の金属探知機から。
アンフォラと呼ばれる液体を保存する壺が出てきた。
地元博物館の修復担当の人達、風雨にさらされる前に修復したほうがよいため、Diana先生が呼んだ。
アンフォラの取っ手の部分に、タソス島と書いてある。
タソス島はエーゲ海の北にある島、トラキアは高価なオリーブオイルをタソス島から輸入していた。
さらに汚れを落とすと制作年代の手掛かりが見つかった。
当時の支配者の名前が刻まれており、それにより紀元前281〜275年に作られた壺(アンフォラ)がトラキアの地まで来ていたことが分った。

ブルガリア南部ペルペリコン(Perperikon)、トラキアの部族の1つベッサイ族が住んでいた地域。
東ロドピ山脈、よく見ると人間の手で造った構造物であることが分かる。
急な斜面を登ってゆくとペルペリコンの遺跡がある。
ベッサイ族は岩の人々と呼ばれるように山の岩肌を削り町を造ってきた人々。
ここでも発掘作業が続けられている。

発掘隊長Nikolay Ovcharov「壁に彫られているのは紀元前3世紀ビザンチン時代の十字架、何故ここにあるのかは不明だが、おそらくこの下に何かあるのだろう。」
この現場では近くの村の人々50〜60人が参加して発掘している。
ペルペリコンにはいろんな時代が混在していて、3つの階層に分かれている。
一番上が中世キリスト教会の修道院跡、次にローマ時代の城塞の後、そしてその下に広がっているのがトラキア時代の宮殿跡。
ペルペリコンの宮殿には、王族達の部屋や霊廟などの施設が造られていたが、その中心にあったのが祭壇。
神殿の祭壇で生贄を捧げたり神々の神託を受けたり、様々な儀式が行われていた。

Ovcharov「かつてここに女性の神官が立ち、祭壇上にたくさん火を焚き、その上に聖なるワインを注ぎ、燃えがある炎の高さによって吉凶を占っていた。
炎が高くあがるほどよいと言われ、ギリシャのデルフィの神殿に匹敵するほどの評判だった。」
今もこの地にはトラキア時代からつながるおいう儀式が残されている。
女性の神官が香草に聖なる水をつけて清めるNestinariと呼ばれる火渡りの儀式。
太陽神に農作物の豊穣と子宝に恵まれることを祈る。

東ロドピ山脈には不思議な構造物が多く見られる。
すべて太陽の神に関係した遺跡だという。
そうした神殿の1つ、不可思議な岩の亀裂、古代から土地の人々が信仰してきた大地の母のホコラ。
Ovcharov「興味深いのはトラキア人が南に向いたこの洞窟に目をつけ、女性の子宮を模した神殿を造ったという建築学的、天文学的知識の深さ。
入り口の天井付近に穴をあけ、冬至の日の正午ちょうどに太陽の日差しが入り、奥行き22mの洞窟の最深部を照らすように造られている。
この日はトラキア人が新年を祝うBacchanaliaという祭の日、ワインを飲み、ご馳走を食べ、男女がまぐわう、どんちゃん騒ぎの日。」
トラキア人にとってこれは重要な祭りだった。
太陽の日差しが母なる大地の神に受胎させる儀式だった。
この日を境に太陽の日差しが長くなり、再び全ての生命が生まれ変わり豊穣が約束される。

7月18日発掘を始めて13日目、発掘の進み方は速く、墓の中心である石版の高さは150cm、ほとんど掘り出されていた。
Diana「これは2つの墓を分けていた。
南の墓と北の墓の間にある扉だったのかもしれない。
昨日は南側の部屋から動物の骨らしいものが出たから、それをチェックしてみましょう。」
かなり大きい骨、腰骨にあばら骨、長い首、どううやら馬の骨のようだ。
Diana「昔のヨーロッパ人は馬を太陽のシンボルとして崇拝していた。
同じようにトラキアの王もいつも馬の上にいて、トラキア人のヒーローだった。」

Sveshtari村に近いラズベラドリー、馬にまつわる財宝がある。
銀行の金庫室の中に保管されており、撮影も警察官立会いのもとで行われた。
近くの村で偶然見つかった紀元前4世紀の黄金のペガサス像、高さは15cmだが重さは500gもある。
ワインを飲むための器リュトンの一部だと言われている。
ペガサスは羽の生えた馬、トラキアの人々にとっては大地と太陽、すなわちこの世とあの世を結ぶ生き物として特別な意味を持っていた。
王家の谷に近いカラノヴォ村、この田園地帯の古墳の中からも馬に冠する遺跡が最近発見された。
キッカケとなったのは盗掘事件。
古墳に泥棒が入ったのは2008年末、駆けつけた警察から地元の博物館に連絡があった。
通報を受けて確認のため発掘を始めた博物館のスタッフが掘り出したものは驚くべきものだった。
2頭の馬が馬車を引いた形のまま埋められていたのだ。
主人が死んだ時に2頭の馬は殺され、馬車と一緒に埋葬されたのだろう。
車輪の直径が1.2mもあることからこれは長距離用の豪華馬車であったと思われる。
馬車を主人の墓に一緒に埋める習慣は古くからトラキア人の埋葬方法。

紀元前4世紀の壺(有翼戦車の水差し)、女神が失踪させる4頭立ての馬車は太陽の国へ旅立つための埋葬品として埋められたもの。
戦いに生きたトラキア人にとって、馬は特別な存在。
現世だけでなく来世でも大切なパートナーだった。
馬車の隣には犬の遺体も発見された。
犬は狩猟民族であったトラキア人にとって、馬と同じく重要不可欠な存在だった。
狩りに同行し、戦いにも同行していた。
狩猟と戦争、この2つがトラキア人にとってかけがえのない大切なものだった。
この遺跡は特殊な処理を施され、このままの状態で保存されることになっている。

7月19日発掘最終日、馬の骨は殺されてから埋められたものなのか、生きたまま埋められたものなのか。
すぐ傍で犬の骨も見つかった。
突然風が吹き始め、雨が間近に迫ってきた。
このままでは今日中に発掘を終えることはできない。
Diana先生も苛立っている。
ビニールシートをかける。
幸い雨は現場をかすめて通り過ぎた。
いよいよ床面が近くなり、儀式に使われた小物が出始めた。
そして墓の床面がでれば発掘は終了。
Diana先生自身、ヘラで掘り始めた。
色がついているエスハラが出てきた。
エスハラとはトラキア人特有の祭壇のこと。
Diana「ここは火を燃やす場所、ゲタイの墓にしかないもの。
ゲタイが神秘的な儀式を行っていたことの証拠になる。
ヘレニズム世界にはこうした祭壇があるが、墓の中心にあるのはゲタイしかない。
中心部が出てきた。
焼かれた人間の骨が出てきたから気をつけてね。」
夜7時過ぎ、祭壇エスハラのほぼ全貌が現れた。
しかし部屋の床面にはまだいろんな小物が置かれていて、中々作業は終わらない。
どんどん辺りは暗くなってゆく。

7月20日、発掘作業は1日延長された。
床面の最後の仕上げ。
エスハラの傍からは灰に埋もれた人骨もたくさん出てきた。
果たしてここにはどんな人物が埋葬されていたのだろうか?
Diana「このはかはトラキア人の宗教的指導者であり、王であった男と深い関連がある。
古い文献によるとこの男が魂の不滅とという考えを広くヨーロッパに広げた。
北はデンマーク、ポーランド、イギリス南部、南仏マルセイユまで、各地にエスハラが残されている。
ケルト人ですら魂の不滅という教えはトラキア人から教わったと言っている。」
エスハラはトラキア人たちが魂の不滅、死後の永遠の命を信じ、神と対話するために造り上げた特別な祭壇だった。
そしてエスハラの置かれた部屋の隣には、この世と来世をつなぐ死者の役割を果たしていた
馬と犬が生贄として埋められていた。
今年の発掘の最大の成果は、トラキア人の精神世界の奥深さが垣間見えたことだった。
15日間の発掘は終わった。

このはかの周りにはまだ発掘されていない古墳がたくさん残されている。
今後更なる考古学調査がトラキア人の謎を明らかにしてゆくはず。
これだけの黄金文明を築き上げたトラキア人達はその後、一体どこへ消えたのだろうか?
1世紀に入るとトラキアはローマ帝国の支配下に入る。
ローマの平和が長く続き、戦好きだったトラキア人は徐々に歴史の表舞台から忘れ去られていった。
その後北からの異民族の侵入が活発になり、以降も多くの民族、国家がこの地域を支配してきた。
そして500年に及ぶオスマン帝国の支配からこの国が脱したのは19世紀末のことだった。
最近ブルガリアでは国民のアイデンティティの1つとして、トラキア人のことが話題に上るようになった。

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iceblue (2012/01/05 8:07 PM)
読みやすく、わかりやすいですね。行ってみたくなりましたー^^/
poyo (2012/01/06 11:42 PM)
iceblueさん、コメントありがとうございます。
このブログは、テレビ番組を丸写ししているのです。
自分でも、過去に書いた記事を読み返すと、ほとんど内容を忘れています。
だけどそのために、やっているので、何回も読み返してみようと思っています。
あんみつひめ (2014/06/28 4:27 PM)
ありがたいブログ!
番組丸ごとを紹介は大変なお仕事ですね。感服いたしました。

テケ神殿部分だけ動画保存しました。
貴ブログを、参照として引用させていただきました。

この動画をYouTubeでチェック:
http://youtu.be/Tm5u4cVmmPY











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