ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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ものの怪の住む国

※途中書きだったので、更新しました。

かつてものの怪に好かれた2人の男がいた。
日本民俗学の巨人、柳田国男、そして20世紀初頭の世界的な粘菌学者、南方熊楠。
2人の間で交わされた237通にも及ぶ往復書簡は、全編不可思議、地理魍魎にかかわる論争に満ちていた。
2人の手紙のやり取りは、明治44年から15年間続いた。
ものの怪とは何か、これが2人の追及してやまない命題だった。

柳田“小生は目下 山男に関する記事を集めており候
熊野はこの話に充ちたるらしく 存ぜおり候”
南方“狼は山の神 山の神はオオカミに候”
柳田“オシラは東北にて蚕の方言に候
白ければいうなるべし
これと白馬神との関係も考えられ候”
南方“狐が人を騙すという話は日本支那に限らず他の諸国にも多く候”
柳田国男、南方熊楠、民俗学の礎を築いた2人が日本の闇に潜むものの怪に迫る。

古くから黄泉の国と言われた熊野。
数1000にも及ぶ山々と壮大な原生林が、和歌山、三重、奈良の3県にまたがっている。
温暖多雨の気候に無数の生命がうごめく森。
人里離れた人跡未踏の地で、とりわけ強力な冷気を漂わすのがそこにある自然。
南方は熊野の玄関口にあたる和歌山県田辺を拠点に専門である粘菌学の研究を重ねた。
20歳にして独学でアメリカ、イギリスへ留学した南方は、ロンドンの大英博物館で粘菌学を極める中で、民俗学の文化にも深く傾倒していった。

南方は熊野の自然の中で研究に奔走しながら、同時に不思議な体験を重ねている。
南方“終夜自分の頭抜け出て家の横側なる牛部屋あたりを飛び回り ありありと闇夜 中にその状況を詳しく見る”
就寝中魂が抜け出て夜ごと宙を舞う幻覚。
熊野にあった南方は、そうした不思議な感覚にしばしば襲われている。
熊のでは海、山、川といった自然を神として崇めてきた。
那智、本宮、新宮の3つの霊場からなる三山信仰が今も息づいている。
紀伊半島の南端に近い那智、幅13m、高さ133mの大滝は、霊場那智の原点にあり、滝そのものが神と受け止められた。
轟音と共に周囲にしぶきをあげる大滝は、日本人の自然に対する畏怖と憧れを象徴してきた。
那智、本宮、新宮、この3山をたどる道の中で、紀伊半島の先端近く、陸の孤島と呼ばれたこの那智への道は、特に険しく人の安易な立ち入りを拒んでいた。
限られた修験者達が歩き刻んだ信仰の道、熊野古道、那智へ至るまで人々はこの道を歩み、3600峰もの山々を越えた。
本宮から那智までの雲取越は、那智に至る幾筋もの道の中で特に険しく12時間もかかる難所と言われている。

道をたどる多くの人々は、行き倒れたと言われている。
この道中ではヒダルというものの怪が現れると伝えられている。
ヒダルは突然背後からとり憑く。
恐れた人は意識がもうろうとして歩くことができなくなるという。
空腹のときに憑かれやすく、米を一粒でも食べるとヒダルは退くと伝えられている。
そのため山で働く者は弁当箱に必ず米粒を残していたという。
研究のため幾度とこの道を歩いた南方もまた、ヒダルにとり憑かれたと正直に綴っている。
南方“明治34年冬より2年ばかり那智山麓におり、雲取をも歩いたが、いわゆるガキにつりつかれたことあり。
寒き日など、いきつかれて急に脳貧血を起こすので、精神茫然として足進まず。
1度は仰向けに倒れたが、幸いにも背に負うた大きな植物採集胴乱が枕となったので、岩に頭を砕くを免れた。”
険しい道中には、亡者の出会いといわれる場所もある。
あえぎながら歩いてふと前方に目をやると、死んだはずの肉親や知人が歩いてくるという場所。
奥深い山道で人々は疲労も加わり幻覚に襲われたのだろうか?

古道のわきに残された旅籠のあと、かつてこの道を歩んだ旅人は、宿に灯った明かりをどれほどありがたく感じたことだろう。
円座石(わろうだいし)と呼ばれる石には、熊野の神々を象徴する古代インドの文字が修験者の手によって刻まれている。
道中で行き倒れた人を弔うものだろうか、ここを通る者に山の神に対する恐れの念を抱かせる。
明治44年熊野を舞台にそこに住まう山岳民族についての研究を著した南方に、柳田国男から1通の書簡が届いた。
柳田“小生は目下山男に関する記事を集めおり候
熊野はこの話に充ちたるらしく存ぜおり候”
柳田から熊男の伝説について尋ねられた南方は、幼い頃から聞かされた妖怪一本ダタラを紹介した。
南方“一本ダタラ 形を見ず 一尺ばかりの大なる足跡を遠距離に一足ずつ雪中に印す”
一本ダタラは30cmほどの巨大な足跡を雪の中に残すという。
伝説では足跡が片方しかなく、一本ダタラは一つ目一本足の妖怪だと考えられている。
熊野の奥深く紀伊山地の険しい山々が連なる大台ケ原の地に、妖怪一本ダタラが伝わっている。
一本ダタラは人間の生き血を吸い、霧深い山の中に現れれては山を越える人々の命を奪ったそうだ。

一本ダタラのダタラはタタラ師、つまり山に住む製鉄民と関係があると柳田は考えた。
ふもとの村でも一本ダタラの正体が鍛冶師であったと言い伝えられている。
なぜ鍛冶師なのか、その答えは一つ目一本足という姿にあるという。
鍛冶師・河内国平「僕らが祀ってる神さんは、天目一箇神と書き、タタラの神さんは片目であったと我々も信じている。」
鍛冶師は炉の穴から強い炎を見るため、常に片目が熱風にさらされ、風を送るフイゴ踏みも休むことは許されなかった。
熱風にさらされた片目、フイゴで酷使された片足。
一本ダタラは過酷な労働の産物かもしれない。
河内「体が不動になるほどの重労働であったから、一般の人達から見るとものの怪に見えるのだろう。
そして山の中から出てくるし、普段見ない人たちだし。」
男ばかりの鍛冶師達は、時には里に下り、女を誘拐したそうだ。
それは神隠しの伝説として残されている。
鍛冶師達は砂鉄を採る時、流す泥がふもとの水田を荒らし、村人との間で激しい対立を生んだ。
河内「砂鉄を採るために山を砕く。
水をかけて砂を流す。
そこから砂鉄との比重の関係で砂鉄がたまってくる。
そうすると泥が流れる。
その泥を下流に流す。
そうすると農耕業者は困る。
絶えずいさかいがあったのだろう。」
鍛冶師を憎んだ村人は、二度とフイゴを踏めないよう捕えた鍛冶師の片足を打ち落としたという。
妖怪一本ダタラは山の製鉄民と里の農民とが生んだ対立の象徴ともいえる。

18ヶ国語を自在に操った南方は、日本に限らずその視野は常に世界へと向けられていた。
豊富な知識を持つ南方は、日本でみられるものの怪が形を変えて外国にいると柳田に紹介した。
日本におけるものの怪の存在を研究することが、学問上の使命とする柳田に対し、南方はその好例となるものの怪についてさらに書き送った。
“那智より山深く超えてある高田村で年に1度河童多く川を上がり来たり
夏は川に下りゴウラ 冬は山に入りカシャンボになるという
カシャンボは青色の鮮やかな衣を着る”

柳田は南方と共にこうした伝説を日本文明として研究し、日本の説話や絵巻に描かれた妖怪を歴史的にたどりながら、その分類や属性を説明しようとした。
柳田“ゴウラ カシャンボ またはヤマワロ 河童のサイクルはおそらくは山の神 田の神の信仰より変化せしものなるべく候”
柳田は妖怪の発生を神の信仰の衰退とみなすことで、妖怪を説明できるという仮説をたてている。
そうした考え方はその後、確立してゆく日本の妖怪学に大きな影響を与えることになる。
河童の一種というゴウラ、その伝説が残る奈良県十津川村。
1000mを超す山が100あまり村を取り囲むようにそびえるここは、秘境と呼ばれてきた。
この険しい山々の間を縫うように、北から南へ十津川が流れる。
厳しい自然の中で暮らすために人々は知恵を絞ってきた。
672k屐東京23区が入るほどの土地に人口わずか5000人、十津川村は切り立った山や川沿いのわずかな平地を切り開き、隠れ里として独自の文化を育んできた。
昭和初期の国勢調査で明らかにされた当時の人口はおよそ10000人。
減りゆく村の人口に歯止めをかけるため、子供を大切に育てることは村の重要な課題の1つだった。
十津川へ注ぐ清流西川、この静かな流れも大雨のたびに氾濫し、多くの犠牲者を出してきた。
西側沿いの集落では広い範囲にわたって川に住む妖怪ゴウラの伝説が残されている。
ゴウラゴ、ゴウラゴシと集落によって少しずつ呼び名が変わるのも特徴の1つ。
川の妖怪ゴウラがよく出るといわれるゴウラ淵。
特に大水で増水し、川が濁っている時にゴウラがでるという。
十津川の他の急流でも、ゴウラの伝説が残されている。
厳しい自然に対する恐れが生み出した妖怪たちは、山深い村人の暮らしの中に生きている。

強度に伝わる民話や伝承を通じて妖怪の本質に迫ろうとした民俗学者柳田国男。
エリート官僚から民中の中に入り、民俗の伝統文化、芸能とその源に潜む精神を彼は人間を知る学問として紐解こうとした。
柳田の研究の舞台になったのが岩手県の遠野だった。
遠野の人々は暮らしの中で数々の伝承をはぐくんだ。
そしてその暮らしは神や仏への篤い信仰によって支えられている。
暮らしと信仰と伝承が遠野では1本の糸でつながっている。
その姿は寺や神社の中にみることができる。
本堂に1歩足を踏み入れると、中には多数の遺影が飾られている。
あの世から見つめる数百人の眼差し、死者の魂は生者の中に再生し、永遠に生き続けると遠野では考えられている。

かつては村のはずれにいくつもあったというデンデラ野、姥捨ての地。
60歳を過ぎた年寄達が赴き、静かに最後の時を待った場所。
厳しい自然の中で生きてゆくためのやむを得ない風習。
遠野にはこうした悲しい現実もあった。
柳田は明治43年日本民俗学の礎になった1冊の書を著した。
ここには遠野に伝わる神やものの怪の話がつづられている。
この本を著した糸を序文で次のように書いている。
柳田“国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし
願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ”(『遠野物語』余分)
書を著す2年前、柳田はある青年から遠野に伝わる民話を聞かされ戦慄して以来、取材のためにこの地を度々訪れ『遠野物語』を完成させた。
遠野に語り伝えられた物語には、いずれも幻と現実が共存する。
大自然の神秘に触れた者は、知らないうちに伝説の不思議な世界へと引き込まれてゆく。
『遠野物語』を読んだ南方熊楠は、その趣旨に賛同し、山犠打への書簡で感想を述べている。
南方“必要なるは我が国の世態変遷 建国の由来 古きを証する書時代の社会一汎の風俗を視るべき古蹟に候”
名もなき古い塚や祠は神にも長い歴史があることを証明するものであり それは日本人のルーツを探るためにもっとも必要であると南方は言う。
おそらく南方は柳田の姿勢に共感したのかもしれない。
柳田は名もなき神を通して語られるものの怪話を総集した遠野物語で人々を戦慄させた。

古くから信仰を集める常堅寺、境内に河童の姿をした狛犬がいる。
その昔寺が火事になった時に、近くの河童が火を消し止めたという。
それに感謝して当時の住職が自ら彫ったという狛犬。
常堅寺の裏を流れる小川には、河童淵と呼ばれるところがある。
この清らかな流れにいたずら好きの河童がいたそうだ。
ある日子供がここで馬を洗っていると、河童が馬を川に引きずり込もうとした。
しかし馬のほうが力が強く、逆に引き上げられてしまい、河童は里の人に捕まえられてしまう。
もう二度とイタズラはしないという約束で、カッパはこの地を去ったという。

カッパにまつわる伝説の中には河童の子をみごもったという話も少なくない。
語り部・白幡ミヨシ“昔は川へ行っていつまでも遊んでいるものではないと言われた。
河童が出てくるからいつまでも川で遊んでいるな、水汲みに行ったらすぐ水を汲んでくること。
そういうことを教わって育った。
ある時顔を洗ったり体を洗ったりして川に長くいた人があった。
それは若い人だったのか、妊娠して産んでみたら人の子ではない。
これは河童の子だと、いつも川ばかり行っていたから、あそこの娘は河童の子を産んだと評判になった。
何回も何回も産んだために、あとは(その子を)切り刻んでタライに入れておいた。
ただ切り刻んだだけなら河童だからくっつけて生き返らすことができるが、ある時その子を煮たそうだ。
釜に入れたのか煮て殺してタライに入れておいたら、次の朝いなくなっていたということだ。
そして今度は親の命ももらわなければならないと河童にこの人も殺されたという話があった。”
河童の子をはらんだ話は物語が生まれた江戸時代に公然と行われた間引きを象徴しているとも言われる。
その時代この遠野は零下による度々の飢饉に見舞われ、稲作の北限であった遠野は気象条件が厳しく、1度の温度変化が収穫を大きく左右したと言われている。
1755年宝暦4年の大凶作では、人口が4分の1に激減した。
流民となった者は500人、およそ2000頭の馬が死んでいる。
度重なる飢饉で餓死した農民を供養するため、羅漢像が彫られた。
苦境にあえぐ農民達が神々に救いを求めた悲しみの跡、人々が頼れる存在は神と仏しかなかった。
遠野の歴史は飢饉との戦いだった。
河童の子をはらんだ物語もこうした村の実情を投影し、やむを得ない間引きに対する心の不安や恐怖を、あの子は河童だったと自らに言い聞かせて打ち消すものだったのだろう。
河童淵の岸辺には、母乳の出をよくする河童を祀ったホコラがたてられている。
望まずして産まれ、すぐに命の火を消されてしまった子供達。
澄んだ水と緩やかな流れが、彼らの悲しみを静かに伝え続ける。

柳田国男が民俗学を志すきっかけとなったのも、少年時代に江戸時代の悲しい風習、間引きの事実に触れたからだった。
柳田が少年時代を過ごした茨城県利根町の一角にある徳満寺の本堂に掲げられた1枚の絵に、13歳の少年は衝撃を覚えたという。
その衝撃がものの怪を生み出す人間の心や不可思議な伝説の世界に彼を導いた。
子供の間引きを描いた絵馬、江戸時代貧しさのあまり行われる間引きを戒めるため、幕府が描かせたと言われる。
母親の影は2本の角を持っている。
間引きという驚くべき事実を目の当たりにした衝撃が、遠野物語の序文に書かれた戦慄という言葉につながったのかもしれない。

遠野物語には貧しい村の経済状態を象徴するものの怪も登場する。
座敷童子という民家に現れる代表的な遠野のものの怪、姿は5〜10歳くらいの子供と言われ、赤ら顔のおかっぱ頭と伝えられている。
奥座敷に現れ、畳の縁や床柱を伝ってスタスタと歩き、寝ている人の枕を動かしたりするという。
遠野にはこの座敷童子についても民話も数多く残されている。
座敷童子の言い伝えには、幸せな暮らしに対する人々の願いと素朴な信仰心がうかがえる。

語り部“見たことのない子供だと思ったから、どこから来たと聞いたら孫左衛門のところから来たと言って去って行った。
それからその爺さまが町で用を足してから家に帰ってきて婆さま、今日孫左衛門のところから来たという子供と橋の上で会ったが、あそこの家にそういう子供達はいるかと聞いたら、何を言っている、あそこの家にはそんな小さな子はいない。
(孫左衛門の家に)蛇が出たと言って匹殺したら、次の日に2匹も3匹も出たなどということはあるものではない。
会ったことも知らないことにして(2人は)話さなかった。
爺さまと婆さまは口をつぐんでいた。
そうするうちに旦那様も奥様もみんな死んでしまった。
座敷童子がいる間はいいが、座敷童子が出て行ったという話がでるようになれば、その家が傾くという話です。”
座敷童子がいるうちは栄えた家も、座敷童子が出てゆけば必ず没落する。
民話が生まれた時代遠野では、家の隆盛と没落が激しかったという。
村には豊かなものと貧しいものの差が生まれた。
家の守護神として大切にされる座敷童子、不安に満ちた生活の中で、心のよりどころでもあったと考えられるという。
他人の成功に対するやっかみや疑いを、座敷童子という存在を生み出すことで自らの心を納得させていたのかもしれない。
民話のうらには様々な現実が隠されていたようだ。

遠野物語の序文でこの書は現実の事実なりと語った柳田に対して南方は書簡でこう述べている。
南方“国の文化風俗の変遷を見るに 由来正しき実話のみならず 虚構依様の書もその前後のことを見るに 便りあるもの多し”
ものの怪や妖怪で説の類は必ずしも事実とは言えないが、すべてが虚構ではなく、そこにはわずかでも何かしらの真実が隠されていると南方は考えた。
粘菌を研究するにつれ、科学で解明できない事実に度々出会った学者が持ちえた見解だろうか。
ものの怪とは何か、その捉え方は時代と共に変化するものなのだろうか。
かつて柳田は人々の信仰心が薄れた神が妖怪に姿を変えたと説いている。
この零落した存在であるものの怪は、武士階級が現れるようになった平安時代に登場する。
平安時代京都では度々疫病が蔓延し、多くの人々が亡くなったと言われている。
当時は疫病や事故、天才といった原因不明なことはみなものの怪の仕業だと考えられていた。

この時代最大の鬼と言い伝えられているのが大山を根城に京都を荒らした酒呑童子、配下の鬼多数を従えて人をさらって貪り食うというこの鬼に、京の人々は怯えきり、都はこの噂でもちきりだった。
事態を憂いた一条天皇は、豪傑として名高い源頼光に酒呑童子懲罰の勅命を発したという。
鬼はかつて神に近い存在として恐れられた。
しかし酒呑童子は絵巻や古典芸能で人間を食べる極悪非道の鬼として描かれている。
鋭い形相で都の方角をにらみつける酒呑童子は一体どんなものの怪なのだろうか。
酒呑童子がいたと言われる京都府北部、大江町、丹波山地を控えた山国。
都からは北西およそ70km、陰陽道などの影響で当時都では縁起の悪い方角と捉えられていた。
酒呑童子の住処として伝えられている場所がある。
鬼の岩屋、当時ここには十畳敷きの空間が広がっていたという。
大江の里には酒呑童子伝説の襖絵が民家に残っている。
ここには源頼光らが酒呑童子を討ち果たす様子が描かれている。
頼光達は道に迷った修験者だと偽って酒呑同時に近づき、毒酒を飲ませた。
それに気づいた酒呑童子は殺される瞬間、鬼に横道なきものを、と頼光らの卑怯な騙し討ちを罵ったという。
最後に切り落とされた酒呑童子の首は、深い憎しみを込めて頼光に食らいついた。

酒呑童子が愛用したという盃も残されている。
先祖から代々この家の家宝として受け継がれている。
日本の鬼の交流博物館、酒呑童子をはじめとした全国各地の鬼に関する資料、およそ600点が集められ研究されている。
鬼の存在は酒呑童子の登場を境に大きく変わったと捉える博物館では、それが歴史の推移と無関係ではないと見ている。
館長・村上政市「鬼というのは我々の先祖が作った架空の存在。
人間の力を越えたものへの畏怖と憧れを託して鬼は外福は内というように、福の対極にあるもろもろのもの、人に災いをもたらすものを鬼の仕業と考え、鬼を作ったと思う。
しかしそこまでの鬼は少なくとも人間よりも上の存在、神に近い存在であった。
ところが中世、戦乱の時代になり、鬼は零落する。
その過渡期にある鬼が酒呑童子。
人と同じように悪いことをし、結局人にやられる。
武士の武勇賛美の生贄にされる。」

なぜ大山で酒呑童子が生まれたのか?
『酒呑童子絵巻』と『酒呑童子襖絵』に描かれた酒呑童子の顔の表情の違いにその答えのカギを見て取れる。
大山に残る襖絵は、明らかに人間的に描かれている。
村上「この地域は非常に都の政争に敗れた人、あるいは戦争に負けた人が住み込んでいる。
隠田集落が非常によい。
だからこの地域の人々にとっては都は恨みの地域と考えた人々も多かったし、都から見れば敗残の嫌な奴のいるところということで、大山は鬼物語の舞台になるには適した場であったと思う。」
源頼光に退治され、切り落とされた酒呑童子の首は、都に穢れを持ちこまないために京都と亀岡を結ぶ老ノ坂峠に埋められたと言われている。
人里離れた峠に訪れる人も少なく、ひっそりと祀られている。
首塚大明神、酒呑童子は都に敵対した勢力の象徴であり、権力と戦ったヒーローだった。
大江の人々は酒呑同時に民衆の思いを重ねたのだろう。

室町時代になると、物の怪は狂言として能の世界にも登場する。
観阿弥、世阿弥親子により、芸術に高められた能は、亡霊や妖怪変化を主人公とする幽冥界を舞台
にした演劇だった。
為政者達の中で失われつつあった物の怪に対する思いが民衆の中で生きていた。
物の怪は絵巻にも登場する。
百鬼夜行絵巻』、おそらく怪しげな物の怪たちが京の闇を徘徊する姿。
平安時代大鏡に記された怪奇現象が、この時代に描かれたもの。
妖怪画のジャンルとして流行した『百鬼夜行絵巻』は、やがて江戸時代に隆盛を極めたお化け絵の源流になる。
人間が光を持つことで、闇は次第に失われ、闇に住む物の怪たちは次第に形や姿を現すようになる。

明治時代になると、リアリズムに強烈な風刺が盛り込まれる。
代表的な妖怪画家、河鍋暁斎の作品『暁斎百鬼画談』はそうした特徴が色濃くでている。
時代を経るにしたがい妖怪はより漫画的な姿に形を変え、現在まで生き続けている。
柳田は物の怪は神が零落した存在と定義した。
そして南方もまた明治時代、一町一村に一社という神社の統廃合政策、合祀が実施されるのをみて、その神々の存在が軽視されることを憂いだ書簡を柳田に送っている。
南方“小生ごとき神仏を拝せず 科学のみ修め来たりし者が 反ってふるいことをさえずり 一種の御幣をかつぎまわり 神で糊口する神官、祠職、宮世話人、氏子総代等が一切神を怖るるを迷信と卑暼するさかさまの世なり”
神々の零落と共に軽視される物の怪たち。
物の怪に対する人々の思いが薄らいでゆくことに大きな不安を抱いていた南方が柳田に書き送った手紙がある。
柳田“伝説などは50年も経ば全く存せざるに至ることを存じ候”
物の怪とは何か、これが2人の追及してやまない命題だった。
はたして物の怪は存在するのだろうか?

南方は生物学の研究の中で、熊野の山々を歩くうち、いくつもの物の怪に実際に出会っている。
その1つが餓鬼、もしくはダリなどと呼ばれるヒダル。
紀伊半島の熊野を中心とした地域にヒダルは広く現れた。
空腹や疲労感のたまった時などに山道を歩き続けると、突如として体の力が抜け、動けなくなる。
これがヒダル。
行き倒れとなった者の霊魂だとも言われ、かつて修験者などを多く恐れさせた。
熊野のさらに奥深くにある大台ケ原には、今なお人に憑りつくヒダルが住んでいる。
大台ケ原で食堂を営む田垣内進一さんは何度もヒダルにとり憑かれた経験があるという。
田垣内「体が疲れたとか、先を急いでいるとか、無理しているとかいう時にぴたっとついてくる。
だるくなって体が動かなくなるので、これ以上前向いたらいかんのやな、やっぱり命が危なくなるし、道に迷っている時もある。
そういう意味合いの者で、悪さをするようなものではなく、ここから言ってはダメだよという守り神みたいなもの。」
森林の監視員を務めている田垣内さんは毎日のように大台ケ原の森の中を歩いている。
山を愛し山に対する恐れの気持ちがあってこそ、ヒダルと出会えるのだと話している。

柳田は遠野物語の序文の中で、ここに描かれた世界は現実のものであり、決して虚構ではないと告げている。
“此は目前の出来事なり 此書は現在の事実なり”
柳田が遠野で出会った物の怪、座敷童子、裕福な家に対する妬みの構造から生まれた子供の神様は、今形を変えて受け継がれている。
岩手県二戸市には座敷童子が住むといういう旅館・緑風館がある。
客間として解放されるようになった奥座敷・槐の間に座敷童子は立ち現れるという。
かつてめったに人が訪れることのなかった奥座敷、時折夜中に子供が1人立っていたりすることがあるという。
この子供に会い、その後よいことが起きた人達が感謝の意味を込めて置いていった人形は、すでに数100体に及んでいる。
本来ここの家で祀られていたはずの座敷童子、幸せになりたいと願う心が物語を伝え、多くの人を呼び寄せている。

遠野に生まれた馬にまつわる物の怪の中にも形を変えて伝えられているものがある。
それがオシラサマ
馬と娘の2体の人形からなるオシラサマ、守り神の1つだが、祀ることをやめると途端に祟られるという恐れを伴った神でもある。
オシラサマの伝説は、馬と娘との悲恋として描かれている。
父親が買ってきた馬と仲むつまじく、ついに夫婦となってしまった娘。
怒りをおぼえ、ついに馬を殺してしまう父親。
娘は悲しみのあまり馬と共に天へ昇って行ってしまう。
悲嘆にくれる父親の枕元に、ある時娘が立ち、親孝行の代わりにと見たことのない虫を授けていった。
これを育てると大層立派な絹糸が採れたのだと伝えられている。
馬による農耕と養蚕の盛んだった遠野に生まれたオシラサマ。
人々はこの2つによって恵みを得ると共に、恐れの気持ちを抱くことを忘れなかった。
今でも遠野では、オシラサマを大切に拝み続けている家がある。
中山家でもまた、代々姑から嫁へとオシラサマが受け継がれ、祭の作法が伝えられている。
中山秀子「これはうちの女の神様であり、蚕の神様、そして母の神様、子供の病気を治す神様と言われている。
子供たちがいっぱいおってからに、おぶったり頭をこすれば頭がよくなるとか、大人の人、女の人達は膝が痛いときは膝に触ってもらったり、腕が痛ければ腕のところを触らせたりして、そして回して遊ばせる。
ここに嫁にきて46年、1年に1回は必ず着物を着せる。これをオセンタクという。
着物を着せてから手で触るから、自分の子供みたいな身近な感じ。
子供が大きくなって外に出て行った時も、オシラサマと一緒にいたから今までも耐えてこられたなと感じる。
一緒に暮らしてきたから一番可愛さがしみじみ感じる。」
厳しい農村の生活の中で、女性たちがオシラサマを伝え守り続け、オシラサマを通しいすしか血のつながらない姑との間に固い絆が培われていったと中山さんは語っている。
地域の産業に根差した神が、それを守ることにより女性達の絆を深め、ひいては家の守り神として伝え残されている。

古来物の怪は人に憑りつく、憑依するものと考えられることが少なくなかった。
キツネ、タヌキといった動物から、鬼、精霊の類、または人の怨念そのものが憑依し、危害を加えるとされた。
古い歴史を持つ能の演目には、物の怪を扱ったものも多く、役者たちはそれを演じる際、物の怪を憑依させ、また取り除くことに苦心していたという。
能役者・味方玄「能面をつけて鬼になる、神になる、そして神の言葉を伝えたり、よし鬼が憑依、鬼がとり憑いたにしても、はいって面をとることによって元の役者に戻るというようなことをやったのだと思う。
耳内包一のお経を体にたく。
そのお経が鎧になって悪霊から身を守る。
あの世へ取り去られるのを守るというのと一緒で、能面が大きな力になっていることも考えられると思う。」
般若、キツネ、幽霊など、物の怪を憑依させるため、能面は数多くある。
能を演じる時だけでなく、能面を打つ時にも、あるいは物の怪に憑りつかれるということが起こる。
およそ30年前に独学で能面を学び、今や日本を代表する能面師の1人である岩崎さんもまた、物の怪の面に強く惹かれている。
能面師・岩崎久人「神様、男女、それから狂、鬼、大きく分けて5種類ある。
その中で得手不得手があるし、きれいな女面が上手な人もいれば、また鬼の面が上手な人もいる。
僕はわりにみんなが嫌がるような物の怪もそう、あやかしもそうだが、特に死相の面の場合が多いが、必ず2〜3日寝込むとか、熱を出すとかいうことが、僕の場合はある。
魂を打ち込むという、それで能面は作るとは言わず、打つという。」
能面に自らの精神を打ち込むことによってそこに何かが生まれているのだろうか?

憑き物にまつわる悲惨な事件が実際に起きた。
昭和45年青森県津軽郡、頭痛をうったえて寝ていた18歳の長男が突如家族によって殴り殺された。
調べによれば47歳の母親が、長男の病気は悪い神がのり移ったものと信じ、これを追い払おうとしたことが原因だったという。

徳島県の山間の村では今でも憑き物、特にイヌガミに関する信仰が根強く残っている。
外道(いぬがみ)とは、動物霊を使って呪いをかける憑き物の一種で、関東より北ではキツネ、月に関する信仰が篤いのに対して四国や山陰地方で広く伝えられている。
実際にはその正体はほとんど明らかになっていない。
四国に残されたイヌガミつかいの除法は極めて生々しいもの。
犬を土の中に埋め、首fだけ出して食を与えずに放置する。
飢えが極度に達したころ、肉などをその鼻先に置く。
食おうとして首を伸ばし精神の集中した瞬間に、その首を打ち落とす。
これをマジナイモノとして祀ると、その霊は主人の思うままに使役される人に憑りつく。
徳島県立博物館には、かつてイヌガミを払うために使われたとされる道具が残されている。
オオカミの頭がい骨、オオカミは犬よりも強い力をもつと考えられており、イヌガミはオオカミの頭を見せられると怖がって逃げていくと信じられた。
そして短刀、木の箱に入った古文書の3つがセットになり、イヌガミ払いに使われたという。
イヌガミにまつわる歴史は500年以上さかのぼることができる。
かなり傷みの激しい古文書だが、日本全国でも一番古いイヌガミについて書かれた古文書として知られている。
内容は最初に阿波の国中にイヌガミを使うやからがいた。
これを早く訪ね探す。
そして罪科にいたすべし。
かつて徳島県には為政者が取り締らねばならないほど、イヌガミを使う呪術者が存在し、社会的な問題となっていた。
人を妬み呪いをかけたいと願う者が多くあり、それを叶える術があったということになる。
呪いの道具として用いられたイヌガミだが、社会が複雑化し、集落の中でも経済的な格差が生まれてくると、イヌガミは違った解釈を生み出してしまう。
あの家があんなに裕福なのはイヌガミを使って人を操っているからだ、いわれのない噂により、あの家はイヌガミの筋だと決めつけられる。
イヌガミは村の中での深刻な差別を投影する道具へと発展していった。
目障りなものを村から排除する心理、富を独占する者に対抗する手段として陰惨な風習が残された。

徳島県西部、賢見神社、古くからイヌガミ落としの本山として知られている。
ここにはイヌガミをはじめとした憑き物を落とすため、また様々な魔よけのためにお祓いを受けにくる人が今も途切れることがない。
賢見神社神官・漆川和孝「あくびが出るとか、泣くとか、祈祷の最中に逃げ出す方は今でも大勢いる。
手や足の軟らかいところに青いしみができて歯型が上と下に3本ずつある方も大勢いる。
何の痛みもないのだが・・・
それは自然に消えてゆく。」
全国各地から1人または数人で連れだって訪ねる人々、憑き物落としを頼む人は近年になるにつれ益々増えてきているという。
なぜ今なお人はイヌガミを信じ、イヌガミにとり憑かれるのだろうか。
漆川「人間が心の底に持っている一番醜い心が動物を仲介して相手に呪いをかけたり、そういう状態が害を与える。
プラスの部分ではなく、マイナスの部分が相手に危害を与えたり、災害を与えると思う。」

人の心の闇は変わらないという証が四国の山間の村に残されている。
誰もが持つ心の闇、それが生み出すものの怪と対峙するために多くの異能者が現れた。
平安時代京都を中心に活躍した陰陽師はその代表格。
陰陽師の中でももっとも名が通った安倍清明を祀った神社が京都にある。

この神社で多く目にするのが五芒星をかたどった独特の印。
絵馬にも描かれている。
清明の名から派生したと言われるセーマンという魔除けの印、この印を結ぶことによって悪魔を寄せ付けず、また人に憑りついたものの怪を払い落とすことができるとされている。

その古い魔除けの印が、都から離れた現代の伊勢志摩に住む海女の間にも伝わっている。
古くから海女漁の盛んな伊勢志摩の海には、トモカヅキという海の闇にするものの怪がいた。
これと出会わないため、海女達はセーマンとい同じ星形の魔除けを身に着け、海に潜っていた。
海女達がもっとも恐れた海の魔物、自分の1人しか潜っていないのにいつのまにか傍らでもう1人自分そっくりの海女が潜って見える。
その海女がにやりと笑いかけたり、アワビやサザエをあげようと誘ってくる。
うっかり誘いにのり、獲物をもらおうとすると海の底に引きずり込まれ、取殺されてしまうという。
それがトモカヅキ。

50年以上志摩町で海女として海に潜り続けている伊藤さん、トモカヅキという言葉は今ではほとんど薄れてしまったが、海に対する大きな恐れは失われていないという。
伊藤「海に入ったら自分1人、自分で気を付けていないと誰も助けてくれない。
自分だけが勝負。」
海への恐れを失わない彼女達にとって、トモカヅキはまだ息づいているのかもしれない。

トモカヅキは海の恵みを採り過ぎないために戒めとして語られたとも言われている。
海に対する恐れを失わない限り、今日でも海は多くの恵みをもたらしてくれる。
海に面した一角に潮仏と呼ばれる地蔵がある。
満ち潮になると海に沈む処に安置され、体が浸かっていることから海を清めるものとされている。
海の闇に対する恐れが、海女たちの信仰を今もますます強めている。

心の闇と向き合うための術にはまた、死者との対話がある。
青森県津軽半島にある賽の河原地蔵尊には、2000体を超える地蔵や人形が亡くなった人の例に供えられている。
訪れる人は誰の霊とでもなくお供えをし、手を合わせている。
地蔵尊堂守・佐井川英秀さんはこの地蔵尊が霊的に特別な場所にあると教えてくれた。
佐井川「向こうの方に岩木山(津軽富士)がある。
そして津軽平野を縦に2分するように十三湖まで岩木川が注いでいる。
いわば1つの霊の集まるアンテナのような場所。
科学に頼っている現代でも心の中には解決できないものを持っている。」

心の中に眠る説明のつかない不可思議な部分、それが人の闇になる。
歴史の中で人は形のない不安に様々な手立てで対処しようと生きてきた。
この寺の夏の大祭には今でもイタコにすがる大勢の人が訪れている。
平田アサさんは50年余りをイタコとして過ごしている。
その年月のなかで数えきれないほどの死者の声を伝えてきた。
死者の霊をおろす口寄せには独特の節回しの念が唱えられる。
平田さんはなくした家族の声を聞きたいと思うのは当たり前のことだと話す。
夜になっても平田さんの口寄せを求める人は耐えることはない。
ある女性は3年前に亡くした夫が亡くなる前にどんな気持ちだったかを確かめたいと平田さんに口寄せを願った。
死者の声を聞き言葉を交わすことは、自らの闇に向き合い、闇と積極的につきあってゆくという作業なのだ。

かつて魑魅魍魎が跋扈した京都では毎年8月の盆がやってくると大文字で知られる巨大な送り火が焚かれる。
送り火で焚かれるのは大勢の人々が様々な祈りを込めて奉納して護摩木。
これは人々が内に秘めた自らの闇を空の闇に向かって解き放つ儀式。
午後8時、一斉に火がつけられる。
炎となり夜の空に溶けだしてゆく人々の思い。
こうして毎年毎年心に宿った闇を浄化してゆく。
自然に対する恐れ、社会のひずみに現れる戦慄すべき出来事。
人は闇として抱いている闇という心の隙間を埋めるものこそがものの怪なのだろうか。
ものの怪はそれを受け入れる人の心の中から生まれてくるのかもしれない。

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Dice (2011/02/28 10:08 PM)
Poyo様、お疲れ様です。
ずいぶん久方ぶりになってしまいまして、
見れる時間が減ったのと、
どうも一旦ループ状態というか以前放送した物の繰り返し期間に入ってしまったようで。

しかしこの物の怪は良かったです、
日本の妖怪はロマンが詰まってますよね。
ヒストリーにしろディスカバリーにしろ、
日本系の歴史番組は貴重ですし。

poyo様のおかげで、以前見た番組をこうして
手早く思い出せるので非常に助かります。
また参考に寄らせていただきます、
お体にお気をつけ下さい。

poyo (2011/03/01 8:39 PM)
Diceさん、暖かいお言葉ありがとうございます。
とても励みになります。
日本の昔話、とても面白いですよね。
先日、神楽というのは全国各地にあり、それぞれの舞や衣装や面があり、様々な物語が受け継がれていると知りました。
詳しく解説してくれる番組があるとよいなと思いました。
Dice (2011/03/06 9:07 PM)
Poyo様、こんばんわ。
それぞれ地域の特色がある神楽ですか、興味深いです。

その地方限定の言い伝えや信仰はロマンですよねぇ、
妖怪などもいわゆる民族学や地域信仰が基礎になってる事が多いですし、
ドキュメンタリでやって欲しいですね、
地域限定の祭りなんかも見てみたいです、
マニアックすぎますかねぇ(笑

poyo (2011/03/13 5:02 AM)
Diceさん、地震、怖かったですね。
わが社の事務所は9階なので、ぐしゃぐしゃになってしまいました。
重いキャビネットなどが倒れてくる中、死さえも感じてしまい、偉大なる地球の神が怒りを表しているように思いました。
さて、地域の祭といえば、諏訪の御柱祭に行ったことがあるのですが、イベント化してしまい、観光客でごった返し、本来の意味は失われてしまっているように思えました。
Dice (2011/03/21 12:58 AM)
poyo様、こんばんわ。
お互い無事でなによりです、
ずっと東京ですが経験した事のない大きな揺れでした、
9階ともなるとさらに振られて凄まじい揺れだったでしょうね。
親戚が被災していたのですが、
先日無事確認が取れてほっとしております。

今後も色々と問題が続くでしょうが、
日本の力を合わせて乗り越えていきたいですね。

御柱祭り行かれたのですかー、一度は見てみたいです。
ただ仰られたように、ねぶたや祇園など
大きい祭りはもう観光になってますからねぇ、
寂しい部分はあるかもしれません。
poyo (2011/03/25 4:51 PM)
Diceさん、こんにちは。
被曝の問題、みんな放射線に関する知識がないまま、危険だ危険だと騒ぎすぎているのでは?
姉歯さんの事件の時もそうだけど、問題が起こった時だけ、ただただ騒いで誰かを責めて・・・そうなるまでは人任せで、何も学ぼうとしない・・・
今後電気を使い続けたいのなら、原子力発電は自然環境のことも考慮できる、人類の贅沢生活にとって必要なもの。
電力会社任せにして、事件が起きたら責め立てるのではなく、使う私達も知識を持ち、皆で問題を解決せねばなりません。
そんなに騒ぐのなら、電気を使わなければいいのに・・・









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