ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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謎解き江戸のススメ☆リサイクル

豊かな緑は良質な水をはぐくみ、その水は小さな流れを作り、やがて大きな力となる。
江戸時代、この水の力を活用するために作られたのが水車。
DSC_0056-1.jpg
米や小麦の脱穀、製粉などの作業効率が飛躍的に高まり、全国各地で様々な特産品が作られた。
蕎麦もその1つ、蕎麦粉の大量生産によって、庶民に急速に広まり、江戸時代を代表する食べ物になった。
水車は自然エネルギーを用いた極めてエコな道具。
江戸時代は徹底してものを大切にするエコな社会だった。
DSC_0057-1.jpg
一方現代はといえば、大量消費時代、東京の至る所にゴミがあふれている。
このゴミの行き先が東京湾に浮かぶ廃棄物埋立処分場。
主に東京23区からでた一般ゴミを処理して埋立に利用している。
ゴミの処理方法は年々改良されているものの、この処理場も50年後にはいっぱいになってしまう。
ゴミの削減、それは物質社会を生きる私達に突き付けられた大きな課題。
では、江戸時代のゴミ事情は?

謎 \こΔ任睥爐鮓ないほど清潔な町江戸の町では、物を修理・回収するリサイクル業が大繁盛!そのわけとは?
“焼き継ぎ屋 夫婦喧嘩の門に立ち”
焼き継ぎ屋とは、割れたり欠けたりした陶磁器を修理する江戸時代のリサイクル業の1つ。
夫婦喧嘩ともなれば、ものが飛び交い皿が割れることもしばしば。
そこで焼き継ぎ屋は、夫婦喧嘩をしている家の角に立ち、仕事を待っているという何ともユーモラスな川柳。

江戸時代は庶民にとって陶磁器は貴重品、簡単に捨てることなどしなかった。
どのように修理したのか?
東京都国立市、陶芸教室・国立けんぼう窯で再現。
破片をつなぎ合わせるのに不可欠だったのが、白玉と呼ばれる粉(800℃で溶けるガラスの粉末、焼いている間に器をくっつけてくれる。)
もう1つは海藻から作られたフノリ、破片をつなぐ接着剤。
まず白玉とフノリをよく混ぜ合わせる。
できた液体を割れた部分に塗り、破片同士を丁寧に組み合わせ、元の形にしてゆく。
これをよく乾かした後、窯に入れておよそ800℃の低温で加熱。
江戸の焼き継ぎ屋は持ち運びのできる小さなカマドを使っていたという。
ガラスの粉と小さなカマドさえあればいい、ということで、江戸時代後期には、瀬戸物屋の売り上げが落ちるほど焼き継ぎ屋が増えたという。
その他にも江戸時代の町を往来する修理業は様々。

▲下駄の歯入れ・・・磨り減ったり欠けたりした下駄の歯を交換する商売。
下駄の歯は磨り減るのが早いため、歯だけ交換できるように作られたものもあった。

▲提灯の張替屋・・・提灯の紙が破れた時に、新しいものに貼り替え、屋号や家紋などを書き入れてくれる。
こちらは書が達者でなければ成り立たない仕事。

▲羅宇屋・・・羅宇(らお)とはキセルの金属部分である火皿と、吸い口部分をつなぐ竹のこと。
元々東南アジアのラオス産の竹を用いたため、こう呼ばれた。
羅宇屋は竹に詰まったヤニを掃除するのが仕事。
炉で湯を沸かし、その水蒸気でヤニを柔らかくしてから、細い棒などを使ってとりのぞいた。
江戸の人々は修理業によって生活に必要なものを直し、大切に使っていたのだ。
その他、箍屋、古米買い、蝋燭の流れ買い・・・

▲古傘買い・・・浪人が古い傘を買い、油紙の張替え、竹の骨を削りなおして売る。
使用済み油紙はさらにリサイクルし、肉や魚などを包んで使った。

▲江戸でもっとも重宝がられたのが鋳掛屋・・・鍋の底に空いた穴や折れた燭台等を溶接して修理する仕事。

火を起こすためのフイゴや小さな炉をもち運び、呼びとめられればその場で修理する。
鋳掛屋の天秤は7尺5寸(約2.3m)と少し長めだった。
これは軒下7尺5寸以内の場所で火を用いて仕事をすることが禁止されていたため、天秤でその長さを測った。

江戸の人々のものを大切にする心が現代に全くなくなってしまったわけではない。
ゴミを出さない取り組みとして、板橋区が17年前に始めた“現代のいかけやさん”(板橋区立エコポリスセンター)
江戸時代の鋳掛屋同様、鍋等の金属製品はもちろん、壊れた日用品全般の修理を行っている。
底に穴があいた鍋の修理、使うのは金属製の鋲。

この鋲を鍋の穴に埋め、裏に飛び出した部分を金槌でつぶしてゆく。
5分で終了、料金は300円〜。
思い出の品だから捨てられない、と持ち込む人も多いという。

江戸のリサイクルは、修理業だけではなく、いらなくなったものを買い取る回収業も人気だった。
中でも究極と言われるのが下肥え取り、つまり人の糞尿を集める仕事。

下肥えが究極と言われる理由は?
石川英輔(作家)「江戸の1日の下肥:10トントラック、140〜150台分。
これをヨーロッパの都市みたいに捨ててしまうと、えらいことになる。
ところが日本の場合、下肥はもっとも安く、よい肥料ということで、農家の人が皆買っていった。」
糞尿には、窒素やリンが豊富に含まれているため肥料として最適。
当初は各農家が家を1件1件訪ねて交渉していたが、下肥問屋が江戸時代後期にできた。

どれくらいの価格で取引されたのか?
●長屋の場合
共同便所にある下肥の所有権は大家さんにあった。
18世紀末以降の江戸で30人いる長屋なら、下肥を売った年間の収入は、多ければ2両ほど、現代でいえば20万円。
そこでこんな川柳が詠まれた。
“店中の尻で大家は餅をつき”
店中(たなしゅう)とは長屋の住人、尻は下肥を指す。
つまり大家は下肥を売ったお金で餅が買えるほどもうかったというわけ。

●大名屋敷の場合
石川「とにかくたくさんの人が住んでいる。
だから肥料の安定供給できる工場でもある。
だんだん下肥の値段が上がってくると、大名もいくらか売りたいので、いろんな人を呼んで入札させ、高いとところへ売った。」
●大奥の倍
江戸でもっとも高く取引されたのだ多くの下肥。
どこよりも贅沢な食事をとっていたので、下肥も栄養たっぷりと思われていたようだ。
下肥取りは、臭い、汚い、きついの3K仕事、しかしお金を稼げる究極のリサイクル業だった。

おちゃない・・・長屋などで「おちはないかねぇ」と髪の毛を集め、回収した髪の毛は専門の業者に売られカツラや添え髪に再生された。
落ちた髪の毛さえ無駄にしない江戸は、徹底したリサイクル都市だったのだ。

江戸時代の回収業の中で、現代にも引き継がれているのが紙屑買い。
紙は当時貴重品で、回収されると問屋を経て、専門業者によって浅草紙と呼ばれる再生紙となった。

石川「手習いの本の見返しを剥がすと中に再生紙がつかわれている。
おそらく再生した紙をまた集めて集めた3次再生紙くらいのものだろう。
中に動物の毛や藁みたいなものが入っている。
和本は曲げて読むものだから、表紙が堅いと具合が悪いので、再生紙を使う習慣が広まったのだろう。」

当時はどのように再生されていたのか?
仝纏罎鮑戮くする
⇒劼納僂道罎料^櫃魏鬚ほぐす
2海芭笋笋
た紊鮃覆蠕遒農う
ト直紊巴,平らにする
μ收修力箸嚢く
Тイす

紙屑をぐつぐつ煮てから冷ます作業を“冷やかし”と呼んでいた。
2時間ほどかかるため、その間に職人は吉原見物へ・・・
物を買わずにただ見るだけの行為を“ひやかし”と呼ぶようになったのはこのためとか。

古紙の再生が簡単だったのは、和紙が洋紙に比べ、強くて長い繊維で作られていること、原料が天然素材(こうぞ)で不純物が全く入っていないからだった。
そもそも江戸の紙はゴミになることがほとんどなかったという。
石川「これは1778年に出た本、今は50年前の紙でももろくなってしまう。
この200数十年前の本はくしゃくしゃにして伸ばすと、アイロンがけをしなくても真っ平らに戻る。
江戸時代の基本は使い続ける事。
丈夫なものを作って、なるべく壊れないように、なるべく長持ちさせて使うから、リサイクルってゆう余計なことすらあまりしなくてよかった。」

今ではなくなってしまった回収業もある。
灰買い・・・家庭から出る灰を買い集める仕事。
庶民も灰を売り、生活の足しにしていた。
灰の最大の利用法は農業用肥料、木を燃やしてできる灰は、水に溶けるとアルカリ性になるので、酸性の土壌の改良に重宝された。
他にも酒造、製紙、洗剤、薬など、その用途は多種多様。
中でも庶民と関係が深かったものは藍染だった。

栃木県佐野市にある染物店、紺邑(正藍染)、江戸時代と同じ木灰を使った伝統的な藍染を行っている。
使う灰は桜、楢(なら)、椚(くぬぎ)など、堅木と呼ばれる広葉樹が最適だという。
フルイにかけ、細かくなった灰を、地下129mから汲み上げたミネラル豊富な水の中へ一気に入れる。
よく混ぜ合わせておよそ2日おくと、灰が沈殿して透明な灰汁が浮きあがり、この灰汁で布に色を定着させる。

藍の原料は、スクモと呼ばれるタデアイの葉を発酵させたもの。
これを先程の灰汁に混ぜ、この中に布や糸を浸けて染める。
およそ15分後、引き上げると最初は薄い黄色に見えるが、これを地下水に浸けて灰汁を落とし、水を変えながら何度も繰り返すうちに、鮮やかな藍色に変化してゆく。
化学染料で染めたものとは明らかに違う。
「まず第1に色の美しさ、透明感、この美しさは江戸時代の美しさで、自然界の藍を自然の力でもって出さないと、この透明感は出せないと思う。
もう1つは肌に優しい、汗疹にもならない。
紫外線を防ぐ。
そういうようなところで、例えば毒蛇よけになるとか、そういう人間の役に立ってきた。
それは自然界の藍染めだから。」

様々な用途で使われてきた灰、中には灰買いから長者にのぼりつめた人物まで出てきた。
それが灰屋紹由・紹益親子。
特に息子の紹益(1610〜91)は、井原西鶴の好色一代男の主人公、世之介のモデルとも言われ、俳諧、茶の湯など諸芸に通じた文化人としても知られている。

謎◆.┘灰薀ぅ佞鮖戮┐討い燭發里箸蓮
“ちゅうげんは弐百かわらで見えぬ也”
武家に仕えるちゅうげんが、内職で使うために仕入れた大量の藁に埋もれて姿が見えない様子を詠った川柳。
古より日本の食を支えてきた米、脱穀した後に残る稲わらも、江戸の暮らしには欠かせないものだった。
米1石(150kg)あたり稲わらは33カン(124kg)とれる。
これを衣食住すべてに使った。

衣:蓑と傘、江戸時代には欠かせない雨具
現代のビニールカッパと違い、むれないのが最大の長所。
履物なら草鞋と草履、足に藁紐をしっかし結び付け、畑仕事や旅などに使われたのが草鞋。
草履は下駄と同じ鼻緒のある構造でちょっとした外出用。
ちなみに草鞋や草履は冬の農閑期にまとめて1年分作っておくもので、熟練者なら1日で20足作れたという。

食:脱穀した米を保管したり、運んだりするための米俵に、糸引き納豆は藁についた納豆菌で発酵させる。
住:茅葺屋根の内側に使われ、雨は通さず通気性は抜群。
補強材料として家の土壁にも使われた。
引っ張る力が強い稲わらを混ぜることで、壁に亀裂が入りにくくなる。

そして使い終えた稲わら製品は?
石川「街道筋、松の木の下に草鞋がいっぱい捨ててある。
旅人が自分のはいている草鞋がすり減ってくると、茶店で草鞋を買って、茶店の前の決まった場所に捨てていた。
そうすると近所の農家の人がそれを持って行って堆肥にして自分の田んぼに入れる。
かなり近所の距離で、藁が土になったり稲になったり、草鞋になったりしてグルグル循環していた。」
最後の最後まで利用し循環させる。
それが江戸のエコライフ。

隠田村(現代の渋谷区神宮前)、渋谷川にいくつもの水車小屋が建っていた。
水車で米をついたり製粉したりしていた。
水車の動力となっていた水が江戸のエコ生活と深いかかわりがあった。
江戸時代にはいくつも存在した水車、現在はほとんど残っていない。

茨城県石岡市、筑波山から良質な水が豊富に湧き出すため、水車が人々の暮らしを支えてきた。
しかし電気が普及し便利になると、水車は次第に姿を消し、ここで現在残っているのは1台だけ。
駒村清明堂では、100年以上前から杉の葉を水車で粉砕し、線香を製造している。
作り方は昔からほとんど変わっていない。

まず10〜3月にかけて筑波山で採れた杉を小屋で乾燥させ、ある程度の大きさに砕く。
それを水車が動かすキネで細かくしてゆく。
線香に適した滑らかな粉になるまでおよそ30時間、粉をお湯で練って乾燥させれば完成。
水車で作るとゆっくり粉にできるので、杉の葉が持っている素材、香りなどを逃さず最大限よい香りのものが作れるという。
江戸の人々の生活を支えていた水車が動力となるためには、安定した水の流れが必要。
石川「豊かな森林で溜まった水が流れてくるから水質がよくて水量も洪水になりにくい。
いつでも適量の水が流れてくる。
だから木を利用すると同時に植林もしなくてはならない。
ようするに森林の維持に非常に心を使っていた。」
江戸の人々はむやみに木の伐採をせず、積極的は植樹まで行っていた。

謎 一石三鳥のゴミ処理計画とは?
巨大な商業施設が次々と誕生し、流行の発信基地となった東京のウォーターフロントの始まりは江戸にあった。
江戸の町は世界の都市と比べてもゴミが少なく清潔ではあったが、まったくゴミがなかったというわけではない。

どんなものがゴミとなっていたのか?
竹内誠(東京学芸大学名誉教授)「ゴミの中で一番大きいのはいわゆる瓦礫。
土壁とか、瓦のカケラ、江戸は火災が多かったので、そのたびに大量に瓦礫が出た。」
17世紀半ば、江戸の急激な人口増加に伴い、次第にゴミは増え始める。
当時ゴミは会所地という家の背後に作られた空地に捨てられていた。
江戸の長屋は四方の道に面して作られ、真ん中には共有の土地があった。

そこがいっぱいになると江戸にたくさんあった川や堀に捨てるようになる。
しかしそれでは船の往来に支障をきたし、明暦元年(1655年)、幕府は川や堀にゴミを捨てることを禁じた。
“川筋へ掃き溜めのゴミを捨ててはならぬ。
船を使って永代島に捨てよ”
永代島とは隅田川河口付近の地名、つまりゴミは江戸湾に捨てられるように決められた。
ゴミの収集運搬と処理は次第に組織化されてゆく。

「長屋とか屋敷に必ずごみ溜めがあった。
そのごみ溜めは収集され、河岸という川端に大芥溜があり、永代島へ向かって運んでゆく。
これは現代のゴミ処理のプロセスと実によく似たというより、すでにその先駆けが江戸時代に行われていた。」

元禄9年(1696)、画期的な事業が持ち上がった。
隅田川新田の開発、まさに江戸のウォーターフロント計画ともいえるものだった。
ゴミ処理、浚渫工事、新田の開発の一石三鳥が幕府に受け入れられ、以後セットになって展開してゆく。
この事業により、永代島や越中島が造成され、深川の先には60000坪の囲いと呼ばれる広大な土地が誕生した。
これらの新田は江戸の町を発展させただけでなく、現在のウォーターフロントの礎にもなった。

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