ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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Stephen Hawking's Grand Designホーキングの好奇心The Meaning of Life生きることとは?

私はStephen Hawking、物理学者で宇宙論者、そして少々夢想家、体は動かず会話にはコンピューターが必要、でも心の中では私は自由。
宇宙には壮大な謎がいくつも存在する。
例えば生きる事の意味とは何だろう。
なぜ私達はこの地球に存在してるのだろう。
生きているとはどういうことなのか?知性とは何か?人間とは?現実とは何なのか?
さあ宇宙へ!!!

人は好奇心が強い生物、疑問を持ち、答えを探す。
中でも悩ましいのが、活きる事の意味とは何なのか、という問題。
哲学の話だと思いますか?
私は哲学の役目はもう終わったと思っている。
カギを握るのは科学、科学はすべてを変えた。
私達の生活環境、そして世界観、その影響は計り知れない。
科学の発見は私達の常識を幾度となく覆した。
人という生物を客観的に観察してみると、非常に特殊な種であることが分る。
私達は愛し合い、娯楽に興じる。
時には悪事に手を染め、罪を犯す。
1人1人が夢や希望、欲を持っている。
生きる事の意味を考えるにあたってまず、こうした人間のあり様も物理学の法則にのっとっていることを確認しておこう。

宇宙に存在する全ては物理法則に従っている。
原子の内部の現象も、銀河系同士の衝突も、あらゆるものがこの法則にのっとっている。
私達人間だけが例外だとは考えられない。
私達は宇宙にあるもので作られ、同じ規則に従っているはず。
生きる事の意味を問うということは、人間とは何かを探求し、私達の存在がどのように宇宙と関連しているのかを解き明かすことであると私は考える。
その時初めて生きる事に意味があるのか、あるとしたら何なのかが明らかになるだろう。
私の考えでは、この厄介な難題に初めて意味がある答えをもたらしたのはルネ・デカルト。
デカルトは近代哲学の父と呼ばれるが、私は彼こそ科学的思考のパイオニアだったと思う。
デカルトは、人間は精神と体という2つの構成要素からなると考えた。
彼は詳細な人体解剖図を残している。
体を精巧な機械と捉えたのだ。
では精神はどうだろう。

デカルトはある試行実験を行った。
まず自分には体はないと想像してみる、そう幽霊のように・・・これは想像できる。
奇妙な状態ではあるが・・・
次に精神が無い状態を想像してみる。
これは無理。
精神がなければ、そもそも想像することはできない。
ここからデカルトの有名な言葉が生まれた。
“我思う、ゆえに我あり”
精神と体、すなわち物質は、根本的に異なった存在だと考えたのだ。
それらがどのように関係し合っているかを明らかにすることが生きる事の意味を科学的に解明する基礎となる。

デカルトはさらに考えを進める。
かれは精神は脳の中の松果腺という小さな部位に宿ると考えた。
これは当らずと言えども遠からずだった。
現代では脳全体が意識をつかさどっていると考えられている。
脳はとてつもなく複雑な機関、その複雑さが考えることを可能にしている。
人間の脳細胞の数は1000億個以上、私達の銀河系に存在する恒星の数と同じくらい。
脳細胞をつなぐシナプスの数は観測可能な宇宙に存在する銀河の数より多いのだ。
脳を研究するのは脳科学の仕事だと思うかもしれないが、脳内の現象も結局は電気などの物理現象、つまり精神もまた物理学の法則に支配されているといえる。
物理学者である私は、脳もまた宇宙の一部であると考えている。
宇宙の一部である精神が宇宙全体をいかにして認識するのかを明らかにする必要がある。

古代ギリシャ人はすでに精神は自然の法則の支配を受けるのか、という疑問を持っていた。
しかしこの問題はその後長い間無視され続けた。
人間が精巧な機械に過ぎないのなら、生きる事に意味はあるのだろうか?
そんなものはないのかもしれない、でも結論を出すには早すぎる。

ここで少し人間の営みを観察してみよう。
ケンブリッジの町を流れる川で、若者3人が船遊びをしている。
彼らは周囲の環境を楽しみ、互いの存在を楽しみ、交流する。

その体をコントロールするのは脳、歌を歌ったり、恋に落ちたり、3人は生きる事に意味を見出している。
彼らにとって世界は意味で満ちているのだ。

ちょっとした眼差しにさえ意味を感じ取る。
そして意味に振り回されることも・・・

意味はどこから来るのか、科学的に解明するためにはそもそもなぜ意識はあるのかを追求しなければならない。
生命の進化の歴史を振り返ってみよう。

地球上のすべての生命は、アミノ酸と呼ばれる複雑な分子からできている。
最初の生命は原始の海でアミノ酸分子が衝突を繰り返し生まれた。
数10億年かけて生物は複雑になり、多細胞生物が現れ、ついには脳を持つ動物が登場する。
脳は大量の情報を処理するために必要な機関、周りの状況に対応し、先を読む事を可能にする。
周囲の認識能力が高いほど、反映する事が出来る。

その内にある動物が自分自身を認識するほどに高い能力を持つようになった。
それが私達人間。
進化によって人は、自己を意識することができるようになった。
なぜそのようなことが可能なのだろう。
生物学的な機械にすぎない者が考え、感じ、物事に意味を与える事ができるものだろうか。
これは難しい問題。
しかし意識の発生を説明できそうな理論はある。

1970年代ケンブリッジ大学の数学者ジョン・コンウェイが興味深い発明をした。
ライフゲームという一種のシミュレーション。
いくつかの簡単な法則に基づいて展開するが、まるで生命のような複雑は現象が生じる。
ライフゲームはチェス盤のようなマス目の上で展開する。
それは四方に無限に広がっている。
正方形が緑ならば生きているということ。
黒ならば死んでいることを意味する。
ある正方形が次にどうなるかは、それを囲む8つの正方形によって決まる。
生きている1つの正方形の周りに生きている正方形が0か1つなら、その正方形は過疎で死ぬ。
もし生きている正方形の周囲に4つ以上の生きている正方形があれば、今度は過密になり死ぬ。
死んでいる正方形の周りに3つの生きている正方形があれば、死んでいる正方形も緑になり、誕生する。
以上がライフゲームのルール。

これを初期状態に与え、シミュレーションを走らせる。
すると驚くべきことが起こる。
様々なパターンが生まれ、動き回り消えてゆく。
群をなして移動するパターンもある。
まるで生物の種のように多様なパターンが互いに作用し合っている。
本物の生物のように繁殖するものもある。
動きや自己複製を定めたルールはないものの、このような複雑な振る舞いが生じるのだ。
ライフゲームはとても単純な基本法則から極めて複雑な現象が生じる事を示した。
十分な数のマス目があれば、おそらく知能のようなものさえ生じると考えられる。
何しろ脳には1000億個以上の脳細胞があるのだ。
私は人間の精神や、それが物事に与える意味も、単純な法則に基づいて働く巨大な複雑なシステムの産物だと考えている。
同時にデカルトの言うとおり、精神と物質は別の物、脳は確かに物質でできているが、精神は物質をつかさどる法則に単純に還元できないからだ。
いわば体がハードウェア、精神はソフトウェア。
私がしゃべる旅に使っているソフトウェアのようなもの。
でもここで新たな疑問が出てくる。
自由意志とは何なのか?
昔父は私が医者になることを望んでいたが、私は物理学を選んだ。
結果的によかったと思う。
ご覧の通り、これでは医者は務まらない。
しかしその選択をしたのは本当に私なのでしょうか。
自由意思は本当にあるのでしょうか。
精神も自然の法則に支配されているのなら、私が選んだ道はすでに決められていたと言えないでしょうか。

私達が何かをしようとする時、その意思は様々なものの影響を受ける。
例えば電気だ。
患者に意識がある状態で脳医学手術を行ったと想像してみよう。
実際に同様の実験が行われた。

脳に直接電極で電気刺激を与える。
実験では、脳の特定の領域を刺激して、手や足、顔の筋肉などを動かしたいという欲求を起こさせることができた。

必要なのはたったの3.5V、被験者は自分の意思だと思っているが実は違う。
未来では他人の意思をコントロールする技術が開発されるかもしれない。
例えば恋心を起こさせたり・・・かわいそうな被験者は、自分の意思だと思っているが実は脳を物理的に刺激され、操られているのだ。

このようなアイディアは私達の人間性を根底から揺るがす、恐ろしいものと言えるだろう。
機械と同じように私達がコントロールされるかもしれないのだ。
時には邪悪な目的のために・・・

もしかしたら私が物理学者の道を選んだのも、私の意思などではなく、あらかじめ決められていたのだろうか。
ことはそう簡単ではない。
物理の法則に支配されていても、予測可能とは限らないのだ。
例えばサイコロは物理の法則に従っているが、出てくる目を予測する事は困難。
さらに複雑なシステムになれば予測は事実上不可能。
そのようなシステムの例は家のすぐ外で見られる。

イギリスは天気が変わりやすいことで知られている。
ある男性はバーベキューパーティーを計画している。
友人を招待したのに、当日の天気が悪ければ台無し。
天気を予測することは原理的には可能。
雨雲が形成されるメカニズムは分かっているのだから・・・
でも現実にはどれだけのデータをコンピューターにかけても特定の日時と場所の天気を確実に予測する事はできない。
地球上に存在するあらゆる要因を考慮することはできないのだ。
ほんの小さな要因が、重大な結果を生むこともある。
例えばバタフライ効果のように、アマゾンでの蝶の羽ばたきによって、イギリスで嵐が起こり、バーベキューが台無しになることもあり得る。
気象現象は複雑系だからだ。

私は人間の脳も複雑系なのだと考えている。
だから物理的な法則に従っていながら、予測する事は不可能なのだ。
精神は脳に生じる気象のようなもの。
脳という複雑系が選択を行う時に起きる現象を、私達は自由意志と呼ぶのではないだろうか。
分りやすく説明しよう。
夜中に喉が渇いて目が覚めたとする。
私の考えでは、この男性の脳もまた、自然の法則に従って動いている。
彼に自由意思はあるだろうか。
選択肢を与える。
冷蔵庫の中にはオレンジジュースとリンゴジュースがあった。
りんごジュースの香りで、彼の脳細胞が活性化し、記憶がよみがえる。
それはリンゴ園での特別な時間の想い出だった。
一部の脳細胞が活性化した結果、彼はリンゴジュースを選んだ。

物理法則に従った脳細胞の働き、それは自由意志だったと思っている。
自由意志とは脳の中で起きる複雑な物理現象のことなのだ。
しかし人生の選択までもが物理現象なのだとしたら、生きることの意味とは何なのだろう。
その答えを知るためには、現実とは何かということを深く考えてみる必要がある。
現実とは何か、大多数の人は常識的に分ると思っているだろう。
現実は疑いようもなく、そこに存在しているものからなる実在の世界だと。
しかしこの常識は実は仮説にすぎない。
イタリアのモンツァの市場を、金魚鉢を持った少女が歩いている。
少女は音、色、味、匂いなどによって現実を知覚している。
それらは感覚器官から脳に届く情報。
脳は物理法則に従っているが、精神は天気と同じで予測不能。
つまり精神が把握する現実もまた予測できない瞬間的なものと言える。
1人1人が違った現実を経験しているかもしれないのだ。

例えば少女が持っている金魚が目にする現実は、丸い金魚鉢のせいで歪んで見える。
なんとモンツァでは歪んだ世界に金魚を住まわせるのは残酷だという理由で、丸い金魚鉢で金魚を飼うことを禁じた。
これは科学的な処置とは呼べない。
金魚が見ている現実が私達と違うからといって、それが歪んでいるとは言い切れないのだ。

この金魚が天才的な頭脳の持主だったとする。
私達と違った世界を見てみても、金魚はそこから物理法則を見出せるだろう。
金魚鉢による光の屈折を数学的に処理すれば、私達と同じ物理法則に辿りつくはず。
白バイの走行速度を考慮にいれ、軌道と飛び出すタイミングを計算すれば、金魚は金魚鉢から見事に脱出することだってできるはずなのだ。

現実はそれぞれの主観の中にだけ存在する。
つまり誰かにとっての現実が、別の誰かの現実より価値があるわけではない。
実は人間は、観察者として完璧とは言い難い存在。
例えば人間の目は私達が思っているほど優秀ではない。

人間の目が見たものを高解像度で捉えることのできる範囲は実は非常に狭く限られている。
それらの視覚情報は電気的は信号として視神経を通り、脳に送られる。
視神経が眼球につながっている箇所は視界の中の盲点となる。
しかし普通は認識されない。
それは脳の驚くべき働きのおかげなのだ。

脳は視神経からの情報を処理し、欠落部分を補い、外界の立体的なモデルを構築する。
この脳内で構築されたモデルを私達は現実と呼んでいるのだ。
この事実をどう受け止めたらよいのだろう。
私達が経験する現実が、各自の脳の中にあるモデルに過ぎないとすれば、客観的な現実の実在そのものがおぼつかなくなり。
そうなったら生きる事の意味など見つかりそうにない。
現実の存在を疑うなど、狂気の沙汰と思われるかもしれない。
しかし生きる事の意味を知るためには必要なこと。
はたして実在とは何なのだろう。

SF映画さながらのシナリオを考えてみよう。
この世界が人間より高い知能を持つ未知の存在が作り上げた仮想現実だとしたら・・・
あなたが見、聞き、嗅ぎ、味わい、感じるもののすべては巨大なスーパーコンピューターからインプットされる情報、実はあなたには感覚器官すらない。
機械につながれた脳だけの存在なのだ。

まさに映画のような話だが、実はこのシミュレーション仮説は真剣に検討されている。
私達が知覚する現実はすべて、とてつもない計算能力を持つコンピューターによる完璧なシミュレーションであり、その中で生きている私達はそれに気付くことができないというのだ。
しかしだとしたら何だというのか、デカルトが言うように、“我思う ゆえに我あり”なのだ。

ハンバーガーは現実のものでないかもしれない。
しかし食べたいという欲求は私達自身のもの。
私達が感じる空腹は、精神が存在していることの証拠。
現実がシミュレーションであったとしても、何も変わらない。
人間がに意識できることには限界がある事を受け入れるしかないのだ。

例えば部屋の中にテーブルがあるとする。
あなたが部屋を出た後も、テーブルはそこに存在しているのだろうか。
あなたが見ていない間に、外に出かけているかもしれない。
国際宇宙ステーションまで飛んで行っているかもしれない。
いやひょっとしたら月まで、そしてあなたがドアを開ける直前に部屋のもとの位置に戻ってくるのだ。
あり得ないとは思うが完全に否定する事はできない。
私達はテーブルが動かないと考えた方が簡単だから、このようなモデルを通して現実を認識しているに過ぎない。

科学も本質的には同じ宇宙の仕組みについて有効に説明できるモデルを作り上げるのだ。
古代ギリシャ人はすでに宇宙を説明するモデルを持っていた。
地球は巨大な球体で、宇宙の中心で静止しているというものだ。
後世、ガリレオやコペルニクスが革命的な転換をもたらすだろう。
天体の運行をもっと単純なモデルを使って説明したのだ。
彼らは地球が自転しながら他の惑星と共に太陽の周りを回っていると考えた。
こうしたモデルは、私達が知覚する世界をより有効に説明するために、思考によって作られたもの。
物理学者は常に新しいモデルを考案している。
それらは観測結果と一致する限りにおいて真実なのだ。
1960年代に発表されたある素粒子に関する理論を例に説明しよう。
クオークは引き離そうとするほど強い力で引きあうはず。
まるで輪ゴムで束ねられているように・・・
このモデルが正しければ、1つだけ分離したクオークを観察するtことは不可能。
そこで一部の科学者が疑問を投げかけた。
絶対に見る事ができないものは存在しているといえるのだろうかと。
はたしてクオークは実在なのだろうか。

スイスにあるCERNには、大型ハロゲン衝突型加速器という巨大な実験施設がある。
この装置の中で陽子を高速で衝突させることで、極小の素粒子を観測する事ができる。
直接は観測されていないが、クオークの存在を仮定したモデルに合致する素粒子の兆候が確認された。
クオークは実在するのだろうか。
それはクオークモデルが有効である限りにおいて実在する。
言えるのはそこまで。
このような考え方をモデル依存実在論と呼ぶ。
生きる事の意味への手がかりだ。
科学は人類に驚くべき知識をもたらした。
人間は自然の法則に従って動く生物学的機械。
脳の中の複雑なニューロンのネットワークが私達の意識を作りだしている。
そして意識は世界の3次元モデルを作りだす。
この最適モデルを私達は現実と呼ぶのだ。
現実は私達の日常よりはるかに大きな世界に広がっている。
地上や宇宙空間に設置された望遠鏡によって、宇宙の観測が可能になったことで、かつてなかったほど大きなモデルを作れるようになったのだ。
宇宙に関する知識が増えるにつれ、私達の現実はどんどん広がっていった。
かつて天空にあいた穴だと思われていた星星が、実は私達の太陽と同じような恒星であり、それぞれ惑星や衛星を持つことが分ってきた。
そして何億という恒星が集まった他の銀河の存在が見つかる。
さらには時間をさかのぼり、宇宙の誕生の瞬間が明らかになった。
137億年の宇宙の歴史全体が私達の精神が作り上げたモデルなのだ。
だとしたら、生きる事の意味とは何だろう。
私にとっては明らか、意味とは私達1人1人が脳の中で作り上げた現実を認識するためのモデルの一部。

例えばこの親子、2人とも意識の中で自分にとっても現実を作り上げている。
子供の頭の中には身の回りの環境のモデルがある。
ただし、ここが建物の5階であることの意味は十分に理解していない。
母親にとっての現実も彼女の意識の産物。
近くにいる子供より、電話の相手のほうが存在感が増すこともある。

私達が知覚する現実は、脳が作ったものだからだ。感情や意味も同じ。
愛、名誉、物事の善悪、それらもまた私達が精神の中で作り上げる宇宙の一部。
テーブルや惑星や銀河と同じようにを考えてみれば驚くべきこと。
私達の脳は物理学の法則に従って、動く素粒子から出来ている。
それが現実を知覚するだけでなく、現実に意味を与えることもできるのだ。
生きる事の意味を決めるのはあなた。
人1人の人間が、この宇宙に意味を与えているのだと私は考える。
かつて宇宙論者カール・セーガンは言った。
人類は宇宙が自身を知るための手段なのだと。
意味は人間の精神の中にしか存在しない。
だから生きる事の意味は宇宙のかなたにではなく、私達の頭の中にある。
私達自身が創造主だといえるのかもしれない。

| poyo | 宇宙科学 | comments(4) | trackbacks(0) | - |
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pippi (2012/09/24 8:23 PM)
ルネ・デカルトは面白いですね、私は哲学者としての彼が大好きなので、今回の記事は楽しんで読ませて頂きました。
poyo (2012/09/28 6:31 PM)
pippiさん、私も精神は宇宙の一部だと考えています。
だから、建設現場に現れる霊魂もあるのだと思います。
その後体調はどうですか?
pippi (2012/09/29 9:59 PM)
体調はまあまあですね。今はアヤソフィアを読んだばかりなので、そのことで頭が一杯でボォーッとしております。
poyo (2012/10/02 5:21 PM)
pippiさん、精神とは何か、生きる意味とは何か、と考え始めると、頭がピーマンになります・・・









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