ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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伊勢神宮 日本の始まりへの旅

伊勢神宮からほど近い二見浦、伊勢のシンボル夫婦岩がある。
海から突き出た大小の岩にしめ縄が渡され、鳥居の役目を果たしている。
その鳥居の先に見えるのは日の出、夏至の朝にはここから富士山と重なるように昇る太陽をおがむことができる。

ここには太陽を神として崇める古代の信仰が息づいており、伊勢神宮と深いかかわりを持っている。
日本書紀によると伊勢神宮の始まりは、大和政権が太陽の神=天照大神を祭ったことにあるという。
Episode1 伊勢神宮誕生の謎に迫る旅

伊勢神宮の入り口の鳥居をくぐり、橋を渡るとその向こうは聖域。
聖域の奥に天照大神を祭る内宮の正殿がある。
伊勢神宮の敷地は甲子園球場の1400倍。
清らかな川と深い森、柔らかな山並み、そのすべてが神宮の聖域。
中でもとりわけ重要なのが内宮、大鳥居から天照大神を祭る正殿までおよそ1km、小さなお社を参拝しながら進んでゆく。
境内を流れるのは古代清流として和歌にも多く歌われてきた五十鈴川、参拝の前に川の流れで手を清めるのが古よりの習わし。
五十鈴川のほとりに小さな社がある。
滝祭神という五十鈴川の水の神を祭ったもの。
社殿はなく、石を神とし祭る太古の信仰の形を残している。

子安神社は子宝の神様、赤ちゃんへの願いを込めて小さな鳥居が奉納されている。
外幣殿、総檜造り、古い宝物などを収める倉、今年の式年遷宮に合わせて新しく建て替えられた。
数々の社に加え、境内には杉や楠木などの樹齢500年を超える大木がそびえ、厳かな気持ちにいざなってくれる。

伊勢神宮の正殿に祀られる天照大神は、天上からすべてを照らす太陽の神様。
神話によれば、はるか昔、今の奈良盆地にいた天照大神は、より居心地のよい場所を求めて旅に出たという。
案内役を務めたのは、猿田彦という伊勢の神様。
天照大神は、海から朝日が昇り、豊かな海の幸に恵まれた伊勢を大いに気に入り、ここに住まうことにした。

天照大神の住まいとして建てられた伊勢神宮、社は幾重にも垣根に囲われ、参拝者の目にさらされることのない聖域となっている。
天照大神を参拝しただけではお伊勢参りができたとは言わない。
江戸時代に描かれた伊勢神宮の地図▼

内宮は御本宮と書かれているが、少し離れて同じく御本宮と書かれた外宮がある。
内宮からおよそ5kmの外宮、江戸時代の旅日記には外宮を参拝してから内宮に参ったとある。
つまり両方をお参りして初めて伊勢神宮を参拝したことになるのだ。
外宮の正殿に祭られているのは豊受大神。
どんな神様なのか?
外宮の背後にある高倉山の頂に巨大な古墳がある。
全長18m、奈良の石舞台をしのぐ巨大な石室、かつてこの地を治めていた豪族の墓。

豊受大神を祭る外宮は、元来これら地元の豪族の神様を祭る場だったと言われている。
豊受大神には大切な仕事がある。
外宮の正殿の裏にある御饌殿、天照大神が食事をするところ。
外宮では1年365日、昔ながらのやり方で、聖なる火をおこし、食事が作られている。

そして朝夕2回、御饌殿に運ばれ内宮から食事に訪れる天照大神に奉られる。
祭るという言葉の原義は奉る。
奉る行為のうちでもっとも多いのは食べ物やお酒などを奉る行為、これは祭りの基本。
奉ることによって神の御霊が健やかに活躍してくださる。

天照大神の食事をお世話される神が外宮の豊受大神。
なぜ地元の神様が天照大神に食事を奉るのか。
近年、その謎を解き明かすカギが、伊勢にある別の豪族の古墓(宝塚古墳)から発掘された。
全長1m40cmの巨大な船形埴輪、作られたのは5世紀初め、この地に海を背景にした大きな力を持つ豪族がいたことを物語る。

しかし埴輪は大和政権の文化で、元来伊勢にはないものだった。
この埴輪はそれまで別の文化圏だった伊勢と大和がこの時期に結び付いたことを意味している。
4世紀に奈良盆地に勃興した大和政権は、次第に東へと進出、伊勢を勢力下におさめる。
この時自らの神、天照大神を祭る内宮を造るが、伊勢の豪族たちの神様も滅ぼすことなく外宮に祭り、食事を作るという役割を与えることによって神々の共存を目指したと考えられる。
伊勢神宮では地元で信仰されてきた様々な神様にも役割が与えられている。
天照大神に塩を捧げる神様、御塩殿。

今でも毎年春と秋の2回、太古からの製法で塩が作られ、奉納される。
海に浮かぶ小島のような鎮守の森に覆われている社、大陸から織物の技術をこの地に伝えた神様を祭っている。(神服織機殿神社)
古代から変わらぬ手織りの技で絹が作られる。

こうした小さなものも含め社は125を数える。
伊勢神宮とはこれらすべてを含んだ総称なのだ。
日本最古の社の1つ伊勢神宮、それは天照大神を中心に多くの神々が大きな家族のように共存する日本ならではの信仰を感じることができる聖地。

江戸時代、お伊勢参りが大ブームとなった時、門前町はたいへんにぎわった。

食べ物ばかりではなく、日本最大遊郭の1つとまで言われた色町まであった。
歌舞伎小屋も2つあり、伊勢は江戸京都大阪に次ぐ芝居の町とまで言われていた。

森の中に静かにたたずむ伊勢神宮の社殿、光を浴びると古代の息吹を感じさせる。
茅葺屋根に白木のままのシンプルな造り、日本人だけでなく欧米の人々の心も鷲掴みにした。
世界的な建築家ブルーノ・タウトはこう称えている。
「一切は清純であり 限りなく美しい 最大の単純の中に 最大の芸術がある」

episode2 古代シンプルビューティー 誕生秘話
673年、飛鳥浄御原宮で大海人皇子と呼ばれた男が即位し天武天皇となった。
その即位の背景には古代日本の大きな危機があった。

663年 白村江の戦、日本は友好関係にあった百済を助けようと水軍を送り出し唐と戦った。
唐が朝鮮半島を制圧すれば、次は日本に上陸する恐れがあったからだ。
しかし日本軍は圧倒的な唐の武力の前に大敗をきし、百済は滅亡してしまう。

古代日本は6世紀に入り、仏教や法制度、衣食住に至るまで中国文化を一方的に取り入れてきた。
天武天皇は唐の脅威にさらされながらも国のあり方を変えようとしない朝廷を自分が変えるしかないと考える。
672年、壬申の乱、都から離れた吉野の地で兵をあげた。
最初は妻の菟野皇女を含め仲間はわずか30人余り、兵を募りながら都へ進んだ。
しかし行く先々で支援を断られ、暗雲が立ち込める。
道なき道を行き、妻とあばら屋で寒さに震えるよう過ごす日々が続いた。
伊勢にたどりついたある日、思いがけない出来事が起こる。
川で沐浴していたところ、突然雲の切れ間からまばゆい光が差し、太陽神・天照大神が姿を現した。
自らを天照大神の子孫と信じていた大海人皇子は神を拝み勝利を祈った。
その日を境に賛同者が急速に増え、大海人皇子は一気に都へと攻め上り天武天皇として即位した。
天武天皇は早速、妻・後の持統天皇と共に唐の文化に依存しない新たな国づくりを進める。
日本の正式な歴史書がなかったため、『日本書紀』の編纂を開始、日本古来の文化にも目を向け、各地の歌や踊りを子孫に伝えるよう指令を出した。
さらにあらゆる書類を漢文で書いていたのを改め、のちのひらがなにつながる日本語ならではの表記を生み出す。
さらに2人は唐とは全く異なる日本人の心の支柱を打ち立てたいと考えた。
その時注目したのが米。
清らかな水とまばゆい太陽が育む米、弥生時代それまでの狩猟採集の暮らしを根底から変え、豊かな恵みをもたらした米は奇跡の食べ物だった。

さらに神話では、米は天照大神が高天原で育てた稲を孫に託し地上に伝えたのが始まりとされる。
太陽の神であり米の神でもある天照大神こそ人々の祈りにふさわしいと考えた。
では天照大神を象徴するにはどのような建物を建てればよいのか・・・
そのヒントは弥生時代にあった。
大阪府和泉市の池上曽根遺跡、発掘現場の上に弥生時代の倉が復元されている。
高床式で茅葺屋根の米蔵。

この遺跡の発掘の中で興味深いものが発見された。
棟持柱と呼ばれるひときわ太い屋根を支える柱、その跡からヒスイが出土した。
当時ヒスイは日本海側からはるばる運ばれる貴重な宝石で、強い霊力を持つとされ、祈りの場で用いられていた。
つまり米倉は実用であると同時に信仰の対象になっていたと考えられる。

2人は弥生時代の倉をベースに、米の神である天照大神の神殿をデザインする。
高床式倉庫に天照大神の神殿としての威厳を生み出すため、宮殿の要素を加えてゆく。
まず扉を広い面に移し大きくした。
周り縁をめぐらせ、階段を取り付ける。
屋根の側面の柱を天を衝くように伸ばし、崇高さを強調。
風から屋根を守るおもしをふくらみを持つ流線形にデザインして重厚さを演出。
随所に金を施し荘厳さを醸し出す。

こうして素朴なたくましさの中に威厳をそなえた日本独自の神殿が完成した。
伊勢神宮の完成と同じころ、天武天皇は天照大神を祭る祭祀を行い自分がその子孫であることを人々に知らしめたと言われている。
神と血脈がつながっている一族が天皇であるという論理を作る。
その時に太陽神であり稲魂を持つ神として天照大神を皇祖神として打ち立てて神話を実体化するために伊勢神宮が存在する。
ちょうどこの時代、それまでの倭に代わり、日本という国号が初めて使われるようになった。
伊勢神宮は新しい国家、瑞穂の国、日本の象徴として造られたものだったのだ。

今年10月、伊勢神宮では20年に1度の式年遷宮が行われる。
天照大神を祭る正殿、そのすぐ横で新しい正殿の建設が行われた。
この秋こちらに神様が引っ越しをする。
式年遷宮では、隣り合った敷地に20年ごとにそっくりそのまま社殿を建て替える。
1300年間繰り返されてきた世界に類のない伝承システム。

690年、式年遷宮を初めて行ったのは天武天皇の后、持統天皇。
episode3 式年遷宮はこうして生まれた 持統天皇、悲願の物語
686年天武天皇が崩御、この時妻のウノノヒメミコは42歳、13年間共に国づくりに取り組んだ夫を失った悲しみをうたっている。
吾が大君 神風の伊勢の国は 潮気のみかをれる国に 高照らす日の御子
神の風が吹き潮の香りに満ちる伊勢の国を照らす偉大な太陽が失われてしまった。
天武天皇の死後まもなく後継者争いが勃発する。
7人いた有力皇子の1人、大津皇子が謀反の疑いで死に追い込まれる。
さらに後継者の第1と目されていた持統天皇の1人息子、草壁皇子が即位を待たず28歳で急逝。
夫と共に進めてきた国づくりはまだ道半ば、このまま混乱に陥れば、すべてが失われてしまうかもしれない。
46歳のウノノヒメミコは意を決する。
自ら即位、持統天皇となる。
記録によればこの時持統天皇は、天照大神によって授けられたという剣と鏡を受け継ぐ儀式を行った。

自分こそが稲の神、天照大神を次ぐものであることを人々の胸に刻んだのだ。
即位して間もなく持統天皇は詔を発する。
それは伊勢神宮の遷宮、神の宮を建て替え、新しい社でお祭りをするという。
日本の神様はお祭りをしないと御神徳は衰えてゆくという信仰がある。
伊勢神宮はまさにそれで、永遠に若々しくあってほしいという常若(とこわか)の信仰が根底にある。
この時から式年遷宮(定期的に宮を建て替え常に若々しい状態に保つ)が始まった。

完成した社殿をそのまま後世に伝えてゆくにはどうしたらよいのか。
そこで考え出されたのが社殿の隣に同じ面積の敷地を用意、古い社殿がある間にそっくりそのまま同じ社殿を作るという、まるで遺伝子コピーのような方法。
樹齢数百年の木材が膨大な数用意され、大勢の匠たちが腕をふるって新しい社殿の建設が始まった。

式年遷宮の年、持統天皇が不思議な行動をとったことが日本書紀に記されている。
「周囲の強い反対を押し切って伊勢に出かけた。」
天皇が長期にわたり都を留守にするのは異例のこと、そうまでして持統天皇が伊勢に旅だったのはなぜなのか。
皇學館大學教授・岡田登さんは、この旅の即席から持統天皇の狙いがうかがえるという。

持統天皇が訪れたのは神戸(かんべ)と呼ばれる伊勢神宮に神への捧げものを用意する地だった。
その1つ美濃(現在の岐阜県南部)は、米どころだったことに加え社殿を作るのに欠かせない労働力を提供してきた。
そして志摩は神に捧げる最高級のアワビを提供した。
さらに三河の鯛、遠江の絹・・・持統天皇の旅は式年遷宮に必要な捧げものを定めて回るためのものだったと考えられる。

690年10月第1回式年遷宮が行われた。
深い森が闇に包まれる夜、新しい社殿へと天照大神の御神体が移される。
各地から最高の宝物が捧げられ、国の繁栄が祈願された。
こうして持統天皇は初めての式年遷宮を無事終えることに成功した。
そして702年、持統天皇崩御、58年の生涯だった。
この時持統天皇は驚くべき遺言を残していた。
それは自らを火葬にふすこと。
天皇の火葬は歴史上初めてのことだった。
そこには持統天皇の大いなる願いが込められていたという。
日本書紀の持統天皇の名には天照大神のいる天上界「高天原」の名がつけられている。
高天原廣野姫天皇
天照大神への熱い思いがあったのではないか。
持統天皇が望んだ火葬、それはその魂が天照大神のいる天上界に昇ったことを人々に強く印象付けた。
持統天皇は伊勢神宮に祭られる太陽の神・天照大神を天皇の祖先とする神話を、自らの死をもって完成させようとしたのかもしれない。
式年遷宮では1600におよぶ神宝と呼ばれる宝物もすべて新しく作られる。
神宮微古館には過去の式年遷宮に奉納された様々な宝物が展示されている。
聖なる力を宿すとされる鏡は大和政権の権威を象徴するものだった。
小さな花柄を散らした絹の衣、天然の染料で染め上げられている。
水晶や瑠璃が散りばめられた絢爛たる剣・・・
式年遷宮は伝統の技や美意識も受け継いできた日本文化のタイムカプセルなのだ。

式年遷宮に寄せる人々の思いは100年先、200年先を見つめている。
62回目の式年遷宮にむけて伊勢では準備が進んでいる。
海女たちがとるアワビは神への最高の捧げもの。
伊勢神宮が持つ山の一面に生えている萱は社殿の屋根を葺くためのもの。
萱を刈るのは志摩の海女さんたち、海で働く女の秋の仕事。
正殿の棟持柱などに使われる檜の御神木は木曽で切り出され、延べ20万もの手をへて伊勢に運び込まれた。(御木曳行事)
式年遷宮には檜の良木が1万本以上必要とされる。
今伊勢神宮の広大な森では200年後を見越した植樹が進んでいる。
森の中の木々にはところどころ白い印が施されている。
◎は200歳になるまで切らずに大きく育てる木の印。
これらの檜が遥か未来伊勢神宮の社となるのだ。
日本の始まりの記憶を伝える伊勢神宮、今年10月1300年の歴史を受け継いできた式年遷宮はまた次の20年へとその思いをつないでゆく。

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unimo (2013/09/25 1:05 PM)
邪馬台国は
九州だと思います









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