ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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金閣の謎を解き明かせ
金閣があるのは、京都北西部の北山、豊かな水と緑に囲まれた景勝の地。
ここに今からおよそ600年前、室町幕府三代将軍・足利義満は、北山殿と呼ばれる山荘を築いた。

金閣はその中心的な建物、3階建ての建物は、当時極めて珍しいものだった。
しかも2階と3階のすべてに金箔が貼りつめられている。
総数20万枚、なぜこれほどまでに金が用いられたのだろうか。
その訳は、室町時代の古文書を紐解くと分かる。
金閣は元々舎利殿だった。
舎利、つまり釈迦の遺骨を安置するところとして建てられた。
古い仏教の経典『大般涅槃経』には、釈迦入滅後、舎利は黄金の容器に納められたと記されている。
金閣では、舎利は3階に安置されていた。
だから3階は内部まで黄金に輝いている。
仏舎利を納める巨大な舎利容器、舎利殿だからこそ金閣は金色に荘厳された。
この世で最も美しくかつ永遠にあり続けるという奇跡はどう実現されたのか、そこに金閣の大いなる謎がある。

★金閣 美しさの謎
岡田文男(京都造形芸術大学教授)は、文化財の科学的研究の第一人者、古今東西の作品を調査してきた。
岡田さんに必要なのは、わずか1mmの破片、その断面を観察する。
どのような材料を用い、どのような技法で作ったのか、表面からではわからない真実を読み取ってゆくミクロ観察のスペシャリスト。
岡田さんは金閣の輝きの下には知られざる世界が広がっているという。
岡田「金閣は金箔で覆われているがが、その下には漆があり、その漆の仕事がすごく重要。」
昭和62年、金閣の改修工事が行われた時の映像に、驚くべき光景が記録されていた。
外壁に金箔を貼る前に漆を塗っていたのだ。
金箔の下には、一面、漆黒の世界が広がっていた。
しかもつややかな光沢を称えた芸術品のような美しさ・・・
この漆こそが金閣の美の秘密のカギだと岡田さんは言う。
漆は漆の木の樹液を原料とする塗料、美しく、耐久性に優れているため、縄文時代以来、装飾品や器などに用いられてきた。

漆自体高価なため、広範囲に塗る必要がある建物に使われることは稀。
それが金閣ではふんだんに用いられた。

元々金閣では、どのように漆が塗られていたのか?
しかし金閣は昭和25年に焼失したため、当初の様子はわからない。
そこで岡田さんは、同時代の建物からの類推を試みた。
金閣と並び称せられる銀閣だ。かつては2階に漆が塗られていた。

近年解体修理が行われた時、岡田さんは銀閣の漆を調査した。
判明したのは、銀閣では、極めて高度な技が用いられていたこと。
漆塗装は、木の上に下地を施し、さらに漆を塗り重ねて幾重もの層を作ってゆく。
その1つの層に岡田さんは注目した。

漆に煤を混ぜるのは高度な技法、漆の黒を長く保つために、奈良時代以降、最も優れた職人だけが用いた技だという。
「職人は、天皇や将軍のためには最高の仕事をしたのだと思う。
金閣ではこれと同じか、これ以上に丁寧は仕事がなされた可能性は高い。」
最高の漆塗りがなされていたとされる金閣、漆の上に金箔を貼ったのはなぜだろうか?
そもそも建物に直接金箔を貼るのと、どう違うのだろうか?

漆芸家・人間国宝(蒔絵)・室瀬和美さん、蒔絵とは、漆に金粉などの粉をまき、絵や文様を描き出す伝統技法。
漆と金に深く通じる室瀬さんに比較実験を依頼した。
金閣の建材である檜の板と、檜に漆を塗ったもの、2つに金箔を貼ってゆく。
金箔の厚さはわずか1万分の1ミリ。
2つの差は歴然としていた。漆に金箔を貼った方が、圧倒的に滑らかで美しい光沢を放った。

室瀬「木に直接金箔を貼れば、木の凹凸、質感も全部映し出す。
当然ツヤもないし、黄色味を帯びてくる。
肌が整った堅い漆面に貼ることによって、光も強く色調も黒を映し出して色が濃く、赤みを帯びた金箔として発色する。
この黒く堅く強い日本の漆に金箔を貼ることで、金箔がまた生きる。
両方とも活かす最高の表現。」
舎利を納める建物は、この世でもっとも美しくあってほしい、現実には叶え難い望みを奇跡的に実現したのが、漆と金の組み合わせだったのだ。
★金閣 永遠性の謎
金閣は野外にある。この地で金閣は数百年もの間風雪に耐えてきた。
漆と金の組み合わせは、このことにも関係しているのではないか?
京都市産業技術研究所は、長年漆の化学的分析を手掛け世界的に知られている。
その専門家チームに実験を依頼した。
まずテストピースを作成する。
金閣の建材である檜、檜に漆を塗ったもの、その上にさらに金箔を貼った漆箔。
それを促進耐候性試験機にかける。太陽光や温度、湿度などを人工的に再現し、ものの劣化を促進させる機械。
今回は、漆や漆箔が野外で紫外線を受け続けた状態を再現する。
照射時間は120時間、およそ4ヶ月間、直射日光にさらした状態にしてから取り出した。
漆のみを塗ったものは、紫外線によって白く変色していた。
一方漆箔のほうは見た目に違いはない。
一体何が起きたのか?断面を分析する。
漆のみのもの、紫外線を受けていない漆の表面はなめらかだが、紫外線を浴び続けた漆は表面に凹凸ができ荒れている。
岡田「紫外線があたって表面から分解が進む。漆が分解した。
それが表面から見た時には白く、白化現象になる。
長い時間当たると、さらに劣化が進んで漆がやせてゆく。」
では漆箔の方は?
「漆層の表面を見ると、非常に滑らかな状態を保っている。
金箔が紫外線を遮断して漆層を守っていることが見て取れる。」

一番下が檜の層、その上に下地から表面に至るまで何層も塗り重ねた漆の層、分厚い層で木を守る漆をさらに金箔が、紫外線から守っていた。

煌めく黄金とつややかな漆、最高の技術の組み合わせが生んだ奇跡の美。
金閣はまるで掌に載せて愛でる工芸品のように、精緻な技巧を持って作り上げられていた。
高さ10mを超える巨大な工芸品、いったいどこに飾ったらよいのか・・・
池のほとり?
鏡湖池、鏡のように金閣を映し出す仕掛け。
そして山、美しい緑の稜線、さらに四季おりおりの移ろいが、金閣を彩ってゆく。
金閣は周囲の自然ととけあうことで、工芸品を超えたさらなる美の高みを目指した。
しかし完全無欠に見える金閣だが、およそ600年前に作られた当時、その光景はずいぶんと違ったものだったという。
『臥雲日件録』、室町時代の僧侶の日記の記述は衝撃的なもの。
舎利殿北 有天鏡閣
金閣の北に天鏡閣があった・・・
金閣とは複道(空中廊下)でつながっていた・・・
つまり3階建ての金閣の北に、天鏡閣という2階の建物があり、空中廊下が結んでいた。
当時は2階建ての建物も稀、いわばスカイウォーク付の摩天楼がここにあったのだ。
島尾新(学習院大学教授)さんは、常に理性と完成を駆使して美と対峙してきた。
専門は室町美術、金閣と天鏡閣が形作っていた600年前の幻の光景をよみがえらせる。
天鏡閣とはどんな建物だったのか。
島尾さんは数少ない同時代の記録の1説に注目した。
天鏡閣には、15間の会所があったという。(『教言卿記』)
15間はおよそ30畳、会所とはどのようなものだったのか?
奈良、𠮷水神社に現存するもっとも初期の会所がある。
会所とは、人をもてなすための場所、鎌倉時代末頃から作られるようになった。
物を飾って人の目を楽しませるため、違い棚などもしつらえられている。
この部屋はおよそ12畳、天鏡閣はその倍以上の部屋をそなえた巨大な建物であると考えられる。

★天鏡閣 位置を探る
天鏡閣はどこにあったのか?手掛かりは金閣の北側にあったということだけ。
島尾さんはCG制作会社に依頼し、北山の地を三次元化、視点を自在に動かして景色を探ってゆく。
天鏡閣は当時珍しい2階建て、しかも人の集まる会所があった建物、眺めがよい場所にあったに違いないと考えたからだ。

金閣の北側にあって、金閣と池、周囲の木々がもっとも美しく見えるところはどこか、それこそが天鏡閣があった場所。
島尾「金閣とこの島が重なってできるここの風景、もう1つはここに❝抜け❞がとれている。
全体を見渡してもここが一番バランスがいい。」
こうしてベストビューポイントから、天鏡閣の位置が割り出された。
それは現在の金閣の北側、やや西によった場所だった。

★天鏡閣 外観を探る
天鏡閣はどのような外観の建物だったのか?
島尾さんは、藤田盟児(広島国際大学教授)さんの力を借りて、建築と美術、2つの視点から探り当てる。
天鏡閣の姿を記した資料は存在しない。
その外観を探るとき、何より参考とさるのは、金閣そのものの姿。
金閣は1階から3階まで、階ごとに異なる様式でた建てられている。
1階には、蔀度という平安貴族の建物に特徴的な戸が見られる。
寝殿造りという和風様式だ。

2階は引き戸、武士の家でよく使われていた書院造り。
こちらも和風。

そして3階、花頭窓に桟唐戸は、中国風のデザイン。
ここだけは中国・漢のイメージ。
金閣は、和と漢の2つのイメージ、そして異なる様式を組み合わせたユニークな建物。

金閣と並ぶ建物はいかなるものか、3つのモデルが作られた。
最初のモデルは、金閣とは反対にあえて1階2階とも、同じ様式にした。
参考にしたのは、姫路の圓教寺食堂、同時代に造られ、現存する数少ない2階建て建築。

2つめは金閣と同じように1階と2階で様式が異なる和風の建物。
1階は禅宗的な永保時観音堂、2階は住宅建築風の東福寺龍吟庵方丈を参考にした。
いずれも同時代の建物。

3つめは漢のイメージの濃厚なモデル。
2階が開放的な楼閣風建築、中国絵画を参考。『月夜看潮図』(南宋13世紀)

まずは金閣と並べてバランスを見てみる。
この時、最初のモデルが候補から落ちることになる。
和漢の様式を繊細に組み合わせた金閣に対し、このモデルは1階2階の様式が同じため、一層存在感が強まって見え、アンバランスと判断された。
他の2つは、いずれも金閣とのバランスは悪くない。
しかしそれ以外の判断基準が見いだせない。
金閣、天鏡閣ともに例のない建物だからだ。

そこで2人は、改めて天鏡閣がなぜ造られたのか考察した。
足利義満が北山殿に金閣と天鏡閣を建てたのは、14世紀末のこと。
この時期にこそ、謎を解く鍵があるのではないか。
当時義満が最も心を砕いていたこと、それは中国・明と貿易を行うことだった。
東アジアの超大国・明、この国と国交を結び、貿易相手となれば、莫大な利益を手にすることができる。

義満は、明の使節を繰り返し北山殿に招いたことが知られている。
島尾さんたちは、義満が天鏡閣という比類のない建物を建てることによって、明に自らの実力を示し、相手として認めさせようとしたと考えた。
天鏡閣は、明の使節を迎え入れるための建物とされた。
その時問題となったのは、30畳の会所がどこにあったのかということだった。
そこは正式な儀礼が行われた場所だからだ。
結局2人は、大切な相手をもてなす30畳の会所は、1階、外観はフォーマルな場にふさわしい和風、そして2階は眺望を楽しむ開放的な場とし、中国の楼閣風の外観だったと推定した。
1階は2番目、2階は3番目のモデルが元となった。

では会所のしつらえはどのようなものだったのだろうか?
内部の様子をうかがわせる唯一の資料が、『北山殿行幸記』1408年、義満が北山殿に天皇を招いた時の記録。
自らの威信を示す舞台で、義満は天鏡閣の会所に、唐物、中国美術を並べたてた。
それは当時世界最高と目された芸術だった。
義満は唐物を天鏡閣にどのように配置していたのか。
島尾さんは復元してゆく。

具体的な記述はなく、学識と審美眼を頼りに幻の光景を探った。
これがよみがえった600年前の姿。

天鏡閣は、確かな存在感を持って背後から、黄金に輝く金閣を支えている。
そして趣の異なる2つの建物を、空中廊下が結び付けていた。

内部、30畳の部屋は義満が天皇や明の勅使と対面する、いわば貴賓室。
正面には7ふくもの中国絵画の傑作がずらりと並ぶ。

義満が自ら集めたもので、主に日明貿易で手に入れたと推測される。
そして中国風の椅子に座り、ゆったりと会談を行う。
そんな贅沢な空間だった。

隣には趣向のことなる部屋。
義満が天皇に進上した唐物がぎっしり並ぶ。
ここにもとっておきの中国名画、さらに色とりどりの花瓶や漆器、違い棚には天目茶碗や香炉、付書院には品よく取り合わせた文房具。
まるで一大展覧会を凝縮したような豪華な部屋がそこにあった。

この部屋を訪れた貴族の言葉。
唐国にてだにも なおありがたき物どもを ここはとあつめられたれば 目のかがやき 心もことばもおよばずぞありける。
(中国本国においてさえも貴重なものをここぞとばかりに集められたので、見る人の目は輝き、心も言葉も奪われてしまった。)
時に中国の使節を、時に天皇や貴族を圧倒して、縦横に力を発揮した義満。
金閣と天鏡閣は、義満のみが創造しえた唯一無二の光景だった。

舎利殿である聖なる金閣と、人々が集まる会所という俗なる天鏡閣。
聖と俗、2つの世界が立ち並ぶ、その姿こそまさに600前の光景だった。
そして2つの世界を結んでいたという空中廊下、そこからの眺めはどのようなものだったのか?

空中廊下は、黄金に輝く聖なる世界金閣の扉へと続いている。
そして眼下に広がるのは木々の緑と鏡のように澄み渡った池。

当時の人はこの空中廊下の道行きを虚を歩む、すなわち宙を歩んでいくようだと記している。
そしてたどりつく聖なる世界。
視界すべてが黄金に輝き、その中に吸い込まれてゆくようだ。
これが義満の狙いだったのか?
それにしても義満は、なぜここまで空前絶後の仕掛けを用意したのか?

金色の輝きに目を奪われて、つい忘れがちだが、屋根の上にひときわ光を放つものがある。
鳳凰為政者が善政を行うときに現れると信じられてきた伝説の鳥。(高さ1m)
ここに金閣の人気の秘密と、金閣を作った義満の巧妙な策略を読み解くのは佐藤可士和(アートディレクター)さん。
アートディレクターとして、様々な商品のデザイン、企業のブランドイメージなどを手掛けている。
対称の本質をつかむという独自の哲学によって、すべてを新鮮かつ明快に表現してきた。

佐藤「もしかしたら義満はスティブ・ジョブズみたいな人だったのではないか?」
スティーブ・ジョブズは、IT企業を率いて、未来を先取りする製品を次々と送り出し、人々のライフスタイルまで変えてしまった男。
斬新でシンプルなデザインによって、世界中を熱狂させた。
佐藤さんによれば、義満はこの世界屈指のIT革命家に勝るとも劣らないイメージ戦略の達人だった。
そのことを3つのキーワードから明かしてゆく。

.▲ぅ灰鵝(かりやすい絵記号
『洛中洛外図屏風』京都の名所を描いた屏風で、室町から江戸時代にかけて、100を超える作品が残っている。
そこに金閣がどう表されているのか、人々の心に焼き付いているのか調べた。
描かれた金閣の形は一転していた。
いずれも池のほとりにたつ四角い形の建物。
屋根の上には鳳凰が必ず鎮座していた。
佐藤「非常にアイコン的に造られたものだと思う。
四角い建物・上に鳳凰が乗っている・池のほとりにある。
非常にキャッチーな要素でシンプルにまとめあげられている。
ランドマーク的なものにしようという意思が最初からあったと思う。

▲ぅ瓠璽検/佑鯑阿す力
1368年、足利義満は11歳で将軍の座に就いた。
祖父尊氏が室町幕府を開いてから30年余り、いまだ各地の敵対勢力が独立や反乱の機会をうかがっていた。
義満は独自のイメージ戦略によって、この苦境を乗り越えたと佐藤さんはみる。
中でも注目するのは、義満が毎年のように各地への遊覧を繰り返していたこと。
天橋立、富士山、厳島神社・・・
実はその多くは、敵対勢力がひしめく場所だった。
しかも遊覧の際、自らは派手な衣装に身を包み、引き連れた供回りにも奇抜な格好をさせたという。
そこに義満の策略が潜んでいた。
「アウェーな状況をどういうやり方で打破するかを考えていたと思う。
その時に努力ではなく、派手な格好をすることである強烈なインパクトをもったイメージを提示して、周りを威嚇する。
イメージの力をわかっていたと思う。」
自らは戦場で刀を振るうことはなかったにもかかわらず、義満は権力の頂に立った。
それはイメージがいかに人の心を動かすかを知り抜いていたからだと佐藤さんはみる。

ストーリー 自分の物語を創る
晩年の義満が権力の集大成の場とした北山殿、ここでも義満はイメージ戦略を展開する。
今度はストーリー・物語によって自分の価値を高めようとしたと佐藤さんは分析する。
義満は平安文学の傑作『源氏物語』を利用したのだ。
主人公・光源氏が最も輝かしく描かれ、人々に愛されていた『紅葉賀』の一場面↓

光源氏は青海波の舞を天皇の前で披露する。
それは40人もの楽人を従えた豪勢な舞。
神々しいまでの光源氏の舞に、見るものすべてが涙したという。
この名場面を義満は金閣のある北山殿で再現して見せた。
しかも時の天皇を招いてご覧にいれた。
見る人々は自ずと源氏物語を思い起こし、義満を光源氏と重ね合わせたという。
佐藤「今度はストーリーを持ってきてある場面場面で照らし合わせて人々にそれを感じさせる。
自分を光源氏に見立てて、自分のポジションや完成を表現している。」
義満の没後まもなくして、北山殿は解体されてしまう。
しかし金閣だけは残された。
そしてその後幾度も戦火を潜り抜けてゆく。
数百年も金閣が生き続けたこのことにこそ、義満と金閣の本質があると佐藤さんはみている。
佐藤「金閣という非常に明快かつ大胆なコンセプトがイメージが風化せずに現代まで息づいている。
コンセプチュアルなものを造った義満は、政治家でありながら、まさに表現者だった。
表現者ということでスティーブ・ジョブズではないか。
クリエイティブの力を存分に使って政治をやった人。」

金閣というアイコンは600年という時を超え、21世紀の人間たちにも強烈に訴えかける力を持っている。
残念ながら義満の造った金閣は昭和25年に焼失、現在の金閣はその5年後に再建されたもの。
しかし創建当時のものが1つだけ寺に伝わっている。
鳳凰の像、創建当時金閣の上にあったものだが、火災の時、幸運にも外されていたため難を逃れた。
かつては黄金に輝いていたというが、長い間の風雪にさらされその輝きは失われてしまったように見える。
しかし羽の裏にわずかに金箔が残っている。
幾世相の時を得てもなお、王者の風格を漂わせる。
まさに日本の頂点を極めた男いふさわしいシンボル。
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高橋后凋 (2017/02/21 10:18 PM)
炉台・香炉・花瓶の配列はどのようにして決められたのでしょうか、或いは、誰が・仏教何派が、或いは、中国のどの書籍に記載されているのでしょうか?
poyo (2017/02/23 7:17 PM)
高橋さん、コメントありがとうございます。
こういったことを、日本では「しつらえ」というのでしょうか?









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