ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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世界遺産 三大迷宮ミステリー
モナリザ本物のモナ・リザ 意外な正体とは?
イタリア、フィレンツェ、ここはルネサンス発祥の地、14世紀に起こったこの運動は、ヨーロッパ中に広がり、学問、芸術の一大変革活動に発展、その中心地としてフィレンツェは繁栄した。
歴史的建造物が立ち並ぶ町の姿は、当時の華やかさを今に伝えている。

町の中央にそびえるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、イタリアゴシック建築を代表する建造物。
「花の聖母大聖堂」との異名を持つこの教会、シンボルは高さ91mのドーム、1296年着工、1436年完成。


ドームの一面を埋め尽くすように描かれているのは、ジョルジョ・ヴァザーリによるフレスコ画『最後の審判』。
外壁は白を基調に金と緑の大理石で装飾されている。


そのたたずまいは美しくも気高く、世界中の人々を魅了してきた。
あの天才ミケランジェロをして、「これより美しいものは造れない」と言わしめた。


元々は行政機関の庁舎として建てられたウフィツィ美術館、メディチ家の結婚祝いとしてボッティチェリが描いた『春』などメディチ家のコレクションを中心に、イタリア絵画の名作が集まる。

町を流れるアルノ川に最初に架けられた橋がポンテ・ヴェッキオ、屋根付き2階建てのこの橋には、15世紀の昔から宝飾店が軒を連ねる。

町全体が屋根のない美術館とうたわれるフィレンツェ、ヨーロッパ中に影響を与えたその輝かしい歴史により、1982年世界文化遺産に登録された。
フィレンツェ北部に位置するセルビ・ディ・マリア修道院
、2005年ある画家の工房であったことが判明した。
画家の名はレオナルド・ダ・ヴィンチ、この場所で世界で最も有名な絵画が仕上げらえた。
描かれたのは『モナ・リザ』、1503年頃に制作が始まったとされる油彩画、完成までに10年以上もの歳月が費やされたと言われ、レオナルドの持てる技術のすべてが注ぎこまれた。
レオナルドが考案した輪郭線を描かないスフマート技法、奥に行くほど背景が青みがかって薄くなる空気遠近法、さらに黄金比率を駆使し、完璧な構図で描かれている。

彼には死ぬまで手放さなかった絵が3枚ある。
『聖アンナと聖母子』『洗礼者性ヨハネ』『モナ・リザ』
『モナ・リザ』には長年にわたる論争がある。
それは一体モデルは誰なのか?
その謎がドイツのハイデルベルク図書館で明らかになった。
レオナルドの知人でもあったフィレンツェ市の役人が、蔵書の余白に、「レオナルドがジョコンドの妻リザの肖像画など3つの絵画を制作中」と書き込んでいた。
❝モナ❞とは貴婦人につける敬称、つまりモナ・リザのモデルはフィレンツェの富豪フランチェスコ・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドだったのだ。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、レオナルドが『モナ・リザ』のデッサンを描くために使っていた場所。
レオナルドはこの回廊を歩きながらモナ・リザを描くためのインスピレーションを得ていたのではないかと思われる。
少しだけ柱の台座が見える部分があり、その隣にはバルコニーの手摺の上部が描かれている。

1503年にモナ・リザを描き始めたときに、レオナルドはここにいた。
柱やテラスのディテールを見ても、まさにここが描かれた場所だと思われる。
なぜレオナルドは、リザを描いたのだろうか?
1503年ジョコンド夫妻は次男アンドレアを授かったことと邸宅の購入を祝ってレオナルドにリザの肖像画制作を依頼したと言われている。
絵の具の層を赤外線3次元分析で解析したところ、リザの頭から体が紗のベールによって覆われていることが判明している。
16世紀前半のイタリアでは、出産前後の女性が紗のベールをまとう風習があった。
つまりこの作品はジョコンド夫妻が次男を授かった1503年頃に描かれたことは間違いない。

★スイスでモナ・リザとされる別の絵が公開された。
通称アイルワースノモナ・リザ。
鑑定をしたモナリザ財団が、レオナルドが描いた作品と発表し、世界中に波紋が広がった。
ルーブル美術館のモナリザと同様、夫人が微笑みを浮かべ、全く同じポーズをとっている。
しかしこの2枚の絵には大きな違いがある。
ルーブルのモナ・リザよりアイルワースのモナ・リザのほうが明らかに若く見え、タッチも違って見える。

レオナルドを研究するロドルフォ・パーパ(ウルバニアーナ大学)「アイルワースのモナ・リザはレオナルドが描いたものではない。
まず画力が明らかに違う。
ルーブルのモナ・リザはあらゆる面で完璧に描かれている。
それに比べてアイルワースのモナ・リザは雑さが目立つ。
ルーブルのモナ・リザの背景は奥行きがしっかり表現されている。
アイルワースのモナ・リザは、奥行きもなければ何が描かれているかもわからない。非常に曖昧。
レオナルドは影を表現することでモデルの心の内面が見る側にも伝わるよう描いている。
それは彼の卓越した技法があってこそ可能になった。
一方、アイルワースのモナ・リザは若く見えるが実際はそうでないと思う。
アイルワースのモナ・リザは単純化されその技法も後世のものが使われている。」

もう1つ大きな違いがある。
ルーブルのモナ・リザは板に描かれているのに対し、アイルワースのモナ・リザはキャンバスに描かれている。
レオナルドは作品をキャンバスに描くことはなかった。
様々な点から見て、アイルワースのモナ・リザは別の画家が後世に模写したものだと思われる。
スペインのプラド美術館が行った発表が世界中を驚かせた。
プラド美術館はモナ・リザの模写とされる絵を所蔵している。
検証の結果、この絵はレオナルドの工房でルーブルのモナ・リザと同じ時期に制作されたことが分かったというのだ。

スペイン、イベリア半島のほぼ中央に位置するマドリッド、かつてスペインが世界の覇権を握った16世紀、首都に定められた。
18世紀に入ると、カルロス靴録靴靴し歃僂篳顕宗科学などをヨーロッパ各地から積極的に導入し、マドリッドを近代的な都市へと成長させた。

そのカルロス靴設計を命じたのがプラド美術館、1819年世界有数の規模を持つ美術館として開館した。
15世紀以来のスペイン王家歴代のコレクションを展示、所蔵絵画は8000点以上におよぶ。
ベラスケスの『ラス・メニーナス』、ゴヤの『着衣のマハ』『裸のマハ』、ルーベンスの『三美神』、ボスの『快楽の園』など世界的名画が並ぶ。

このプラド美術館には1819年の設立以来、モナ・リザの模写とされる絵が展示されている。
その絵について研究を行ったミゲル・ファロミール(プラド美術館・主任キュレーター)「このモナ・リザは発見された時は発見された時は背景が黒く塗られていた。
赤外線で検査をしたところ、黒い絵の具の層の下に別の背景が描かれていることがわかった。
この絵は背景が未完成だとみられていた。
だから黒く塗りつぶして絵の価値を上げようとしたのだろう。」

さらに紫外線、X線、また油やチョークの材質を化学分析するなど多角的に調査した結果驚きの事実が判明した。
このモナ・リザは、レオナルドの工房で、ルーブルのモナ・リザと同時期に制作されたことがわかったのだ。
プラド美術館の見解としては、弟子の誰かが描いたものだと判断しているが、はっきりした根拠はない。
レオナルドの作品ではないと言い切る明快な証拠があるわけではない。
ここでプラド美術館とルーブルのモナ・リザを徹底的に比較してみる。

まずは構図、モデルは正面から背景は俯瞰するという独特の構図。
そして次第に風景が消えてゆくような画風は、レオナルドが研究した空気遠近法と呼ばれるもの。
そして色合い、ルーブルのモナ・リザは保存状態た悪く色がくすんでいることが知られている。
復元作業を行った結果判明した元の色合いがこれ↓

共通する鮮やかな色使い、またどちらもキャンバスではなく木の板に描かれ、サイズも縦横ともにほぼ同じ。
赤外線調査により絵の具に隠れていた下絵の線が現れた。

2枚の絵は下絵の細かな線まで一致している。
指の線も、髪のラインも下絵が同じだということが分かる。
レオナルドの下絵が描かれたのと同時に写したのだと思われる。
だから同じ線があるのだ。
2枚は同時に描かれていったということ。

一方違うところもある。
同じ人物のように見えるが、プラドのモナ・リザの方が明らかに若い。
この点について、ある芸術家が興味深いことを記している。
レオナルドと同時期に生きた16世紀のイタリア人芸術家ジョルジョ・ヴァザーリが、モナ・リザを実際に目にして著書にこのようなことを記述している。

画家・彫刻家・建築家歴殿より〜「若く、唇が赤く、眉は薄く伸びている。」
そう、プラドのモナ・リザと一致する。
スペイン、トレド、三方を川に囲まれた岩山、そこに築かれた天然の要塞都市トレド、1561年までスペインの首都として繁栄し、文化芸術の中心地となった。
その歴史は古くローマ時代にさかのぼる。
西暦560年には西ゴート王国の首都となった。
以来イスラム教徒と戦った歴代キリスト教王国の要衝地として長い歴史を刻んでいる。
その複雑な歴史から、イスラム教ユダヤ教キリスト教の文化が交錯、この町の独特の景観を織成している。
ローマ時代からの文明の痕跡を残し、様々な文化が入り混じった建築様式などが評価され、旧市街全域が古都トレドとして1986年に世界遺産に登録された。
その景観は、「もし1日しかスペインに居られないのなら、迷わずトレドへ行け」とまで言われたほど。
スペイン絵画の巨匠として名高いエル・グレコが愛した街としても知られている。
ギリシャからやってきたグレコはこの町に魅了され、様々な傑作を生みだした。
代表作『無原罪の御宿り』にもトレドの景観が描かれている。

トレドの入り口アルカンタラ橋が架けられたのは8世紀のこと、長きにわたる戦いの歴史を見続けてきた。
旧市街に入ると、待っていたのは迷路のような路地。
中世の面影を色濃く残すこの町は、多くの観光客を引き付けてやまない。
中心部へと延びるコマーシャルストリート、古い建物を改造した店が立ち並び賑わいを見せている。
町の中心にそびえるトレド大聖堂は、スペインカトリックの大本山。
奥行き120m、高さ92m、スペイン最大級の大聖堂。
1226年に建設が始まり、完成までに250年を要した。

その造りはフランスゴシック様式を基本としながらイスラムの影響を受けたスペイン独特の様式が随所にみられる。
天井には聖母マリアに召されたトレドの聖人が描かれている。
トレドの町を見下ろす宮殿アルカサル、はたしてここにプラドのモナ・リザの手掛かりはあるのだろうか?

1551年に改築が完成し1561年に首都がマドリッドに移るまでの10年間カルロス1世の王宮として使われていたとされる。
当時は世界中の美術品で華やかに彩られていたとう。

かつて要塞だった王宮アルカサル、現在は軍事博物館となっており、イスラムから国土を取り戻した1492年以降の様々な時代の武器や軍服などおよそ36000点が所蔵されている。
かつて兵士の交代の儀式が行われていたという中庭、そこには王家の紋章が唯一残されている。

しかしモナ・リザの手掛かりは見つからなかった。
モナ・リザは本当にここにあったのだろうか?
トレドの美術研究の第一人者ホセ・レドンド(カスティーリャ・ラマンチャ大学教授)「プラドのモナ・リザがアルカサルにあった可能性はある。
あの絵はスペインの王宮コレクションの中に入っていた。
エル・グレコと親しかったポンペオ・レオーニを通じてスペインにやってきた。
ポンペオ・レオーニはフィレンツェにいた美術品の収集家だった。
レオーニはレオナルドの作品を非常に高く評価し集めていた。
レオナルドの手稿をレオナルドの弟子メルツィの子を通して手に入れていた。」

レオナルドの手稿はおよそ40年にわたる科学や生物などの研究成果が記されたもの。
レオナルドの死後これらの手稿は弟子のメルツィが相続したが、メルツィの子はこの作品に興味を示さなかった。
レオーニはレオナルドを高く評価しており、その作品を買いあさったのだ。
ポンペオ・レオーニはメルツィ家からレオナルドの手稿のほとんどを買い取った。

その後レオーニはトレドに頻繁にやってきていた。
手稿はレオーニの手から美術収集家だったレガネス侯爵に渡ったという。
そしてその作品の中にプラドのモナ・リザも入っていたのではないかと考えられる。
侯爵はスペイン王室に収集品のほとんどを献上した。
プラドのモナ・リザはこうして王宮コレクションに入ったと思われる。

スペインマドリッド王宮、16世紀にマドリッドが首都になって以来、王の居城として使われた。
プラド美術館の膨大な所蔵品は元々この王宮にあった王室コレクションを移管したもの。
プラドのモナ・リザが初めて文献に登場するのは1666年、王宮のコレクションとしてプラドのモナ・リザが収蔵されたという記述が見つかっている。
マリア・デル・マール(王宮図書館副館長)「1686年に作成された目録、それ以前のものもあるが修復中のため、これが現在お見せできる最古のもの。
当時は年末に王宮の所蔵品を調べて目録を作っていた。
目録にはこう書かれている。
『レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた婦人画、大きさは縦76センチ横57センチ』
つまり王宮コレクションの中にレオナルドの婦人画が確かにあったということ。」
その絵の大きさはプラドのモナ・リザと完全に一致する。
プラドのモナ・リザはレオナルドの真筆だったのだ。
スペイン王宮の記録に残るレオナルド・ダ・ヴィンチの名、彼の描いたモナ・リザは確かにここにあった。
ではルーブルのモナ・リザは一体誰?
フィレンツェ、マルコ・マネティ(美術史家)ローマ大学で美術史を専攻し、レオナルドの絵画解析にかけては第一人者とされる人物。
レオナルドが集成手放すことがなかった3枚の絵『洗礼者聖ヨハネ』『聖アンナと聖母子』ルーブルの『モナ・リザ』
3枚の内『洗礼者聖ヨハネ』と『聖アンナと聖母子』が宗教画であるのに、なぜ1枚だけが商人の婦人画なのか?

「女性の肖像画を描くとき、普通は背景に室内を選ぶ。
しかし『聖アンナと聖母子』を見ると人物は荒涼とした屋外に描かれている。
モナ・リザの背景もやはり屋外。
レオナルドはモナ・リザの構図を気に入っていたのだと思う。
彼はこの構図から柱を取り払い背景を屋内から屋外へと変えた。
レオナルドはこの絵を宗教画としたのだ。
『聖アンナと聖母子』で描かれているのは母であるアンナが娘のマリアとその誕生した子を祝福している場面。
この子供こそキリスト。
『洗礼者聖ヨハネ』はキリストの洗礼を行った者とされるヨハネが描かれている。
天に人差し指を向けるポーズは天からの救世主キリストの到来を予告していると解釈されている。」
ではモナ・リザは何を描いた宗教画なのか?
「この女性はベールをまとっている。
つまり妊娠しているということ。
妊娠している女性の宗教画のモデルはただひとりしかいない。
この絵の人物は聖母マリアだ。
レオナルドは救世主の到来、マリアの妊娠、そしてキリストの誕生までを描いたのだ。」

城愛と野望の宮殿エルミタージュ〜女帝エカテリーナの呪い!?
ロシアが誇る世界遺産サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群ヨーロッパとロシアの文化が融合した街並みと人類の歴史の重要な段階を物語る建築物が1990年に世界遺産として登録された。
そんなサンクトペテルブルクの歴史地区で世界にその名を知られるのがエルミタージュ美術館。
18世紀にロシア皇帝の宮殿として造られ、ロシアバロック様式の傑作と言われる冬宮、小エルミタージュ、新旧エルミタージュ、劇場の5つの建物で構成されている。
本館の冬宮はロマノフ王朝時代の王宮、現在は歴代のロシア皇帝が長年にわたりコレクションしてきた芸術作品を展示する美術館となっている。
後に世界遺産となったこのエルミタージュで波乱万丈の人生を送りその生涯を閉じたロシアの女帝エカテリーナ二世、彼女がたどった数奇な人生と大いなるミステリーとは?

ドイツの片田舎の貴族出身だったエカテリーナは、後にロシアの皇帝となる皇太子ピョートルと結婚、そして夫の死後自ら女帝の座に就いた。
しかしなぜエカテリーナはロシアで女帝として君臨することができたのか?
底には世界遺産に秘められたミステリーがあった。
ミステリーのカギを握るのは、王妃が意のままに操った21人もの愛人たち。
その愛人たちは次々に不可解な死を遂げてゆく。
そして夫ピョートル三世の死も謎に満ちていた。
事故か病死か、あるいはエカテリーナが持っていたダイヤの呪いなのか?
女帝エカテリーナ、彼女の数奇な人生は同じ時代を生きたもう1人の王妃フランスのマリー・アントワネットと交錯する。
26歳も年の離れた2人は不思議なほど似た境遇だった。
2人とも若くして異国に嫁ぐが、新婚当初から夫とは不仲で、次々に愛人を作ってゆく。
だが2人の人生の結末は大きく違った。
アントワネットは民衆の怒りを買い処刑台の露と消えた。
その一方エカテリーナは民衆に支持され女帝として君臨する。

エカテリーナはいかにして大帝国ロシアを手に入れたのか?
その後大帝国ロシアはなぜ衰退してしまったのか?
エカテリーナが女帝になった裏にあったのは野望、愛憎、そして謀略・・・
かつてロシア帝国の都だったサンクトペテルブルクは2013年ロマノフ王朝開始400周年を迎えていた。
かつて沼地だったサンクトペテルブルクは、水上交通の要として運河が縦横に走り、その美しい景観から北のベネチアとも称されている。
18世紀初頭、初代ロシア皇帝ピョートル大帝はヨーロッパに比べ整備の遅れていたロシアの近代化を決意、ロシアの都にふさわしい街に作り上げた。
ピョートル大帝が当時最先端技術を用いて建設したペテルゴフ宮殿は、フランスを代表する世界遺産ベルサイユ宮殿をモデルにしたものと言われている。
こうしてサンクトペテルブルクは、ロシア革命翌年の1918年までおよそ200年間、政治、経済、文化の中心として繁栄を続けた。

ロシアの片田舎出身だったエカテリーナはこの近代都市サンクトペテルブルクに足を踏み入れたとき、どんな気持ちを思い描いていたのか?
エカテリーナはドイツ北部小国ポンメルンを納める貧しい貴族の出身。
帝国ロシアの皇太子ピョートルに嫁いだのは16歳の時、母方の一族がロシア皇帝の一族と姻戚関係にあったのが縁だった。
彼女は容姿には恵まれなかったが聡明で活力に満ちていたという。

ロシア語を寝る間も惜しんで勉強し、嫁ぐ前に日常会話をマスターしていた。
世界遺産・聖イサアク大聖堂、町の中心地にあるロシア正教の教会で、ピョートル大帝が建設した後、落雷で焼失したのを、ルター派から回収したエカテリーナが再建。
言葉を覚え進行する宗教さえ変えたエカテリーナは、必死にロシア人に愛されようとしたのだろう。
しかしもう1人の王妃の生き方は、全く違っていた。

フランス王妃マリー・アントワネット、オーストラリアの名目ハプスブルク家からフランス・ブルボン家に嫁いだ。
1979年フランス初の世界遺産となったベルサイユ宮殿、アントワネットはここで王妃として幸せな結婚生活を送るはずだった。
しかし待っていたのは絶望の日々、夫のルイ16世は内向的な性格で、アントワネットに指1本触れることはなかった。
2人が結ばれたのは、結婚から7年後だったという。
若き王妃はフランス語を覚えようともせず、1年間に170着のドレスを新調、その費用は現在の価格で20億円に及んだという。
ベルサイユ宮殿の北東、庭園の奥にある離宮プチトリアノン、ここでアントワネットは愛人と密会を重ね、夫であるルイ16世ですら入室を許さなかったという。
だが、そんな甘い生活もフランス革命により終わりを告げる。
アントワネットは囚われの身となった。
獄中のアントワネットが手紙で助けを求めたのは、フランスから遠く離れたロシアの王妃エカテリーナだった。
しかしエカテリーナもまた悲劇的な結婚生活に直面した王妃だった。

実はピョートルには愛人がおり、さらにエカテリーナを束縛し、隙あらば修道院に幽閉しようとさえしていた。
そんな夫との夫婦生活がうまくゆくはずもなく、結婚から6年後エカテリーナは、愛人を作り始めた。
サンクトペテルブルクに立つエカテリーナの銅像、その足元にはエカテリーナを公私ともに支えた8人の男たちがいる。

中にはエカテリーナの愛人も・・・
王妃でありながら次々と愛人を作ったエカテリーナは、アントワネットのように自分だけの場所を作り始める。
それがフランス語で隠れ家を意味するエルミタージュ、世界遺産エルミタージュ美術館の本館となっているのが冬宮。
その冬宮に入りまず通るのが❝大使の階段❞、各国の大使がこの階段を上りロシア皇帝に謁見したことからこの名で呼ばれている。

大玉座の間、エルミタージュで最も大き部屋で、およそ800屬旅さ、皇帝に謁見するに相応しく、天上の模様は金箔で装飾され、部屋の大部分は大理石で造られている。
聖ゲオルギーの間とも呼ばれ、正面の玉座の上にはロマノフ王朝の守護聖人である聖ゲオルギーのレリーフが飾られている。

エルミタージュ美術館に所蔵される数々の芸術作品、1764年にエカテリーナがドイツから美術品を買い取り、エルミタージュコレクションが始まった。
ラファエロの『聖家族』、レンブラントの傑作『ダナエ』などが展示されている。

そして冬宮の横に建つ小エルミタージュにあるパビリオンの間、エカテリーナの側近だけが集まる夜会の会場だった。
古代建築やルネサンス建築の様式が混在してる、そのパビリオンの間にある孔雀のカラクリ時計はエカテリーナが愛人ポチョムキンから贈られたもの。

エルミタージュ美術館に飾られた貴重な品々、しかし一般に公開されていないエカテリーナゆかりの品がまだあるとう。
エルミタージュ美術館保管庫には通常は展示されていないエカテリーナの時代の貴重な品々が陳列されている。
エカテリーナ愛用のソリ、エカテリーナはこのソリに友人たちと乗り、スピードを出して友人たちがソリから落ちるのを楽しんでいたという。


エカテリーナの馬車は近衛軍将校グリゴリー・オルロフからのプレゼント、エカテリーナとの関係が特に深かった愛人と言われている。
エルミタージュのほかにもう1ヶ所、エカテリーナが愛してやまなかった宮殿がある。
それが世界遺産エカテリーナ宮殿、宮殿の名前はエカテリーナ1世に由来する。
夏の避暑用の離宮として造られ、夏の宮殿とも呼ばれている。
琥珀の間、部屋全体の装飾が琥珀でできており、その修復には24年物歳月が費やされた。
エカテリーナはこの部屋が気に入り、自らが許す者以外の入室を禁じ、禁断の部屋としたという。
鏡の間、13対の窓と鏡による眩い光の中、舞踏会などが開かれたという。


日本の回船問屋の船頭だった大黒屋光太夫が船で漂流しロシアに流れ着いた後、エカテリーナに謁見したのもこの部屋と言われている。
エカテリーナがエルミタージュやエカテリーナ宮殿にプライベートな空間を作り上げたのは、愛人との逢瀬を楽しむだけだったのだろうか?
その裏にはエカテリーナの野望が隠されていたのかもしれない。


そして結婚から17年、エカテリーナはついにロシアの運命を変える行動を起こす。
1762年1月5日夫・ピョートルが皇帝に即位。
するとピョートル3世は、プロイセンとの戦争で勝利目前に和睦、占領地を返却し賠償金も要求しなかったため、国内に不満が爆発した。
即位からおよそ半年後の1762年6月28日、クーデターが発生、クーデターを起こしたのはピョートル3世に不満を抱いていた近衛軍や貴族だった。
捕えられたピョートル3世は8日後に突然病死、そんな皇帝の死因を発表したのはエカテリーナだった。
「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、余はこれを深く悼む」
エカテリーナはピョートルの葬儀に出なかった。
そしてついに33歳のエカテリーナが女帝として即位した。


なぜドイツの片田舎の貴族の娘だったエカテリーナが、ロシアの女帝になることができたのか?
そこにはエカテリーナが意のままに操った愛人の存在があった。
21人いたというエカテリーナの愛人たち、その中で最も寵愛を受けたのがグリゴリー・オルロフ、端正な顔、背が高くぴょ、筋骨隆々としていたという。
ただの愛人ではなかった。
政治家や外交官を輩出した名門オルロフ家に生まれ、クーデターを起こした近衛軍の将校でもあった。


クーデターの裏で一体何があったのか?
アレキサンドル・カメンスキー部長(ロシア国立研究大学歴史学部)「18世紀のロシアは頻繁に宮廷クーデターが起こっていた。
不評を買った皇帝を交代さえるため近衛軍などがクーデターを起こしたのだ。
ピョートル3世の時もそうだった。
クーデターで一番活躍したのはオルロフ家の兄弟だった。
中でもエカテリーナの愛人だったグリゴリー・オルロフが中心人物だった。
ちょうどそのころエカテリーナは妊娠中だった。
しかも父親は愛人グリゴリー・オルロフと言われている。
そのオルロフがエカテリーナに贈ったものは今もロシアの至宝としてモスクワのグレムリンに保管されている。」
用意周到なクーデター、前皇帝ピョートル3世の普請な死、事実を紐解いてゆくとエカテリーナの恐るべき陰謀が明らかになってくる。

サンクトペテルブルクからおよそ700km、ロシア連邦の首都モスクワ、世界遺産モスクワのクレムリンと赤の広場。
ロシア語で城塞を意味するクレムリンは、12世紀初めから建設が始まり、様々な時代の宮殿や大聖堂などが混在。
貴重な街並みとして1990年世界遺産に登録された。
クレムリン博物館、武器庫の地下に小さな展示室がある。
世界的に知られるロシアの宝石コレクションが納められたダイヤモンド庫、エカテリーナが所有したという世界最大級の赤いトルマリン、1777年スウェーデンの国王より贈られた。
ラズベリーの形に研磨された赤いトルマリンは、226カラット。

そして展示ケースの中央に飾られているのが、エカテリーナが女帝に即位する戴冠式のために造らせた王冠。
以降のロシア皇帝も戴冠式で使用するようになった。
一面をダイヤで覆われ、王冠の上についている赤い石はレッドスピネルという宝石。

陳列されたロシアの宝の中でもひときわ目を引くのが、皇帝が持つ王笏にはめ込まれたとてつもなく大きなダイヤ。
エカテリーナ2世にグリゴリー・オルロフが贈ったもの。
そのダイヤはかつて❝ムガールの星❞と呼ばれ、原石は787カラット、当時世界一大きいダイヤだったという。
ダイヤの最初の持ち主はインドの世界遺産タージマハルを造ったムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン、王座に君臨する一方でその地位と富を狙われていた。

そんな中、ダイヤを寺院に納めると、「かの石に触れる者に災いあれ」という言葉を残し、ダイヤに触れる者に天罰が下るよう呪いをかけたという。
その後息子に皇帝の座を追われ幽閉される。

妻の墓であるタージマハルを見ながら無念の内に死去、以来ダイヤを手にした者はなぜか不審な死を遂げる。
そのダイヤの呪いはエカテリーナと愛人オルロフにも降りかかる。
ダイヤの呪い、それは・・・

1751年フランス人の兵士ベッセルがこのダイヤを盗み出した後喧嘩に巻き込まれ撲殺された。
次にダイヤを手にしたタナー船長は酒の飲みすぎで急死。
タナー船長からダイヤを買い取った宝石商は強盗に殺害される。
1774年アムステルダムで競売にかけられ、50万ドルで競り落とされた。
これは当時小さな国が1つ買えるほどの金額だったという。
このダイヤを競り落とし、エカテリーナに贈った男、それがエカテリーナの愛人グリゴリー・オルロフだった。
エカテリーナはそのダイヤを大いに喜び、王笏にはめ込んだという。
そして❝ムガールの星❞と呼ばれた呪いのダイヤは、2人とロシアの運命を大きく変えることになる。
世界遺産クレムリンで黄金に輝く5つの屋根、ウスペンスキー大聖堂、歴代ロシア皇帝の戴冠式が行われた場所、ピョートル3世を廃したエカテリーナも、まさにこの場所で戴冠式を行い、華々しく女帝に即位した。
その裏にあったものとは?

クーデターのわずか8日後に死亡したピョートル3世、エカテリーナは国民に向け、持病の痔が悪化して病死したと発表。
だが痔が悪化して死亡することなどありうるのだろうか?
エフギニー・リヤロフスキー(ロシア連邦古文書館公表部)「暗殺犯がエカテリーナに送った手紙には、ピョートル3世の死にかかわったという懺悔が書かれている。」
そこには驚くべき真実が生々しく綴られていた。
「あの方はもうこの世におられません。
皇帝を手に掛けることなど許されませんが不幸は実際に起きてしまったのです。
永遠に魂を滅ぼしてしまいました。
私を死刑にしてください。」
リヤロフスキー「これはアレクセイ・オルロフが書いたもの。
アレクセイは、オルロフは、エカテリーナの愛人グリゴリー・オルロフの弟。」
アレクセイはクーデターで拘束されたピョートル3世の護衛の1人で、幽閉中のピョートル3世に近づける数少ない人物だった。
アレクセイは兄グリゴリーに暗殺するよう指示されたのではないか?
兄が皇帝暗殺の首謀者で弟が実行犯だった?
オルロフ兄弟の働きで女帝になれたエカテリーナ、ロシアに嫁いで17年、ついに大帝国ロシアをその手中に収めた。
しかし愛人オルロフには、ダイヤの呪いが降りかかった。
その後オルロフは女帝になったエカテリーナとの結婚を望むが、エカテリーナはオルロフを捨て新たな愛人を作ってしまう。
失意のオルロフは晩年呪いがかかったかのように激しい錯乱状態に陥り、精神を病んだままこの世を去ったという。
オルロフの他にもエカテリーナの愛人たちの末路は悲惨なものだった。
愛人セルゲイ・サルトゥイコフはロシアを追放され、愛人ランスコイは催淫薬の濫用で不審死を遂げた。
その後オルロフダイヤを受け継いだロシア・ロマノフ王朝6人の皇帝は、2人が暗殺、1人が処刑、3人が不審な病死を遂げている。
そして300年づいたロマノフ王朝は、1917年に滅亡した。
世界遺産ペテロ・パブロフスキー聖堂で歴代のロシア皇帝と共にエカテリーナは眠っている。
エカテリーナが本当に求めたのは真実の愛か?大いなる権力か?
女帝エカテリーナと生涯を添い遂げともに眠る者は、誰1人としていない。


大仏奈良の大仏の謎と失われた黄金都市の真実
古都奈良の文化財、かつての首都に繁栄していた文化を伝える文化財として1998年世界遺産に登録された。
奈良の世界遺産の1つに名を連ねる東大寺、大仏様のあるお寺として世界中にその名を知られている。

仏教寺院の正門としては国内最大の規模を誇る南大門、鎌倉時代の仏師運慶、快慶らによって造られた2体の金剛力士像が向かい合って安置されている。
高さ8.4m、わずか69日間で彫られた巨大像。

南大門をくぐると参道の200m先に見えてくるのが中門、中門から続く回廊内に金堂、すなわち大仏殿がある。、
敷地内にはおよそ30もの建物があるが、その中の1つが大湯屋、僧侶の浴室だが、民衆にも開放され、我が国最古の共同大浴場と言われる。

751年に創建された大仏殿は、今より30m幅が広かった。
創建当時は大仏殿の東側と西側に高さ100mほどの七重塔があった。
現存していれば木造の建物として世界1の高さだった。

大仏殿の前にあるのが八角灯篭、東大寺創建当時に造らたもの。
優美な菩薩の姿が刻まれている。

この八角灯篭の奥にそびえる大仏殿、高さ約48m、幅約57m、世界遺産登録時は世界最大の木造建築だった。
高さおよそ15m、正式には盧舎那仏といい、世界を照らす仏、光り輝く仏という意味を表す。
1200年以上たった現在でも世界1大きな鋳造物。

752年開眼供養会(大仏像完成を記念し筆墨などで眼に点召魏辰┷欧鯑れた仏教儀式)が行われた。
1万人の僧侶が参列したほか、インド、中国、ベトナムの僧も招かれ、彼らは巨大な仏様の姿に驚いたという。

大仏造立を決意したのは聖武天皇、743年聖武天皇が大仏造立の詔を発したことで、全国から仏師や労働力が集まった。
人口600万人の時代に大仏造立に従事した人数は述べ260万人。
724年、聖武天皇が即位した当時飢饉や大地震が続き、非常に不安定な状態だった。
また政務の面で聖武天皇を支えていた藤原4兄弟が天然痘により相次いで亡くなってしまう。

混迷を極めていた中、聖武天皇は仏教の力で人々の心を鎮めて平和な鎮護国家を作りたいと目指した。
8世紀の初め人々の希望と願いが込められ、造立された奈良の大仏、だが大仏を造るなら、アフガニスタンのバーミヤンや、世界遺産に登録されている中国の楽山大仏のように岩山を彫って作る磨崖仏のほうが簡単なはず。

なぜ奈良の大仏は、岩山を削るのではなく、溶かした大量の銅を流し込むという難しい方法で造られたのか?
その理由を追ってゆくと、歴史に埋もれた超先進国家の存在が浮かび上がってくる。
世界遺産・奈良東大寺、1200年以上も前から人々の心の支えとなってきた奈良の大仏、長い歴史を積み重ねてきた痕跡がある。
大腿部や台座の部分や右脇腹は大仏造立当時のもの。
完成当初の大仏は、全体が眩い金で覆われていた。
非常に高度な金メッキ法が使われている。
大仏の全身に施された金メッキは、アマルガムとう技術。
金と水銀を混ぜたものを大仏の表面に塗り、乾燥させた後熱して水銀を蒸発させ、金だけを残す技術。
金箔を貼りつける方法に比べ均一で美しく仕上げることができる。
こうして金メッキが施されていた部分は1200年以上たった今でも錆が進行していない。
このアマルガムによる防錆効果は近年ようやく化学的に解明されたもの。
およそ440kgもの金が使われたというが、この金は意外な場所から発見されていた。
金が国内で初めて産出されたは現在の東北地方、当時は東北でしか金が採れなかった。
749年金が国内で初めて採れたのは宮城県涌谷町、産出された場所は現在黄金山神社となっており、国の史跡にしていされている。
大仏造立に金で大きく貢献した東北、東北の金といえば世界遺産に登録されている平泉の金色堂。
この黄金文化に大仏造立の謎が隠されていた。

岩手県平泉、奈良の大仏造立から300年以上後の11世紀末から12世紀にかけて、奥州藤原氏が築いた浄土思想を基調とする文化的な景観が2011年東北地方の初の世界文化遺産に登録された。
平泉を築いた奥州藤原氏は初代清衡、2代基衡、3代秀衡、4代泰衡のおよそ100年にわたり、奥州、すなわち東北を支配した豪族。
東北の金を基にした豊富な経済力で平泉に独自の文化を花開かせた。
850年に開山し12世紀初め、初代藤原清衡によって大規模な造営が行われた中尊寺、黄金に彩られた金色堂は中尊寺の一角にある。
火災などで建物は失われているが、平泉には中尊寺の他にも大寺院が存在していた。
仏の世界、すなわち浄土を表現した美しい庭園が広がる毛越寺、かつては40以上の御堂や塔、また僧侶の生活する建物が数百もあったという。

そして京都・宇治の平等院を手本にしながらそれより一回り広く造られたという無量光院、背後の金瑩山沈む夕日に極楽浄土をイメージしたと言われる。
なぜ金色堂はそれほどまでに煌びやかな金で埋め尽くされているのか?
覆堂の中に金色堂はある。
1124年に完成した金色堂、かつて中尊寺にあった40以上の堂塔の中で唯一現存する建物。
一辺は5.48m高さは8m扉も天井も床も壁も全て金箔。
使われた金箔は64000枚、しかも厚みが現在の金箔の3倍以上もある。
大量の金はどこのものなのか?
平泉の周辺、気仙沼地方、宮城県北部一帯から採れる金は膨大な量、8世紀日本で採れる金のほとんどは欧州の金だった。
奈良の大仏と同じ金。
金色堂が金箔で覆われているのは、すべてが金色に光り輝く仏の住む世界を表現しているから。
そして金色堂の本尊が鎮座する須弥壇には非常に細かな工芸美術の極致とも言われる装飾が施されている。
その1つが須弥壇の下に見られる孔雀、銅板を打ち出してそこに毛彫りをして、孔雀の羽の幅が8mm、そこに0.3mmの線が何本も刻み込まれている。

他にも須弥壇を取り巻く4本の巻き柱に描かれた菩薩像、蒔絵で菩薩の繊細な表情を表現するこの方法は金色堂だけに見られる手法、仏教美術の中で唯一のものと言われ、当時の都にも存在しなかった技術。

そして黄金の装飾をさらに引き立てているのが金色堂に施された螺鈿細工(光沢をもった貝殻の内側部分を切り出し漆器などに貼りつける技法)。
非常に時間と手間がかかるため、建築物に施すことはまずないとう。
螺鈿の数は27000ヶ所もある。
また使われている素材には、海外から入ってきたものもある。
螺鈿細工に使用されているものは夜光貝、南方でしか採れなかった夜光貝が、数千個以上もこの金色堂には使われてる。
さらに須弥壇の手摺に使われているのが日本にはない、東南アジア産の紫檀、また紫檀の縁の部分に線状に切った象牙がはめ込まれているが、この素材もアフリカゾウのものと分かった。

平泉文化が生まれる前から、東北の北上川流域には進んだ技術・今度な文化があった。
自分たちの在来の技術を土台にしながら最高の技術で金色堂を作り上げた。
これが平泉文化の特徴。
北上川流域の岩手県一関市にある質素ながら歴史の重みを感じさせる神社。

奈良時代初期、この辺りに刀鍛冶の集団が存在し、日本刀の原型が作られていた。
刀を製造する技術は、都のある大和より東北のほうが進んでいたのだ。
東北歴史博物館部長・山田晃弘「東北地方の縄文時代からさまざまな高い技術があった。
漆の技術はすごく発達していた。
土器に赤い漆を塗るとか、土器に漆で模様を描く。」
3500年も前から東北では漆で精緻な器を作っていた。
もう1つの高い技術がアスファルト、釣り針は矢じりのつなぎ目にアスファルトを使用していた。
現代の強力接着剤に並び立つ。
東北にはさらに高度な技術があるという。

この菩薩像、奈良の大仏と意外なつながりがあった。
こういう作り方をするのは690年代、まもなく奈良時代になる一時期に作られたと思われる。
この像も奈良の大仏もアマルガム技術が使われている。
東北は都を超えた文明技術を持っていた超先進国家だったのではないか?
日中歴史共同研究委員会・王勇教授「東北は奈良時代以前から桑の栽培と蚕の養殖をし、絹の生産技術を持っていた。」
なんと絹が黄金と同価値だったと言われる奈良時代よりも前に東北には都にはない絹の生産技術があったという。
やはり古代の東北は高度な技術を持っていたのだ。
「また新唐書(唐の成立から滅亡までが書かれた歴史書)という文献には驚くべきことが書かれている。」
”東北の使者が唐の都に謁見しにやってきた。”
なんと倭国とは別に東北の人々が唐に謁見に来ていたという。
さらに旧唐書(新唐書の元になった唐の歴史書)には、これまでの歴史を覆す驚くべき事実が書かれていた。
”日本は倭国(やまと)の別種なり、その国は日の出の場所に在るを以て故に日本と名付けた”
旧唐書では倭国と日本が別の国であると書かれている。
みちのく市民博物館事務局長・伊藤良治「奈良時代に日本の東というのは、今の東北地方、新唐書にも旧唐書にも日本というのは、東北のことを指す。」
なぜ東北にあった超先進国家”日本”は、都の大仏造立に協力したのだろうか?
万葉古代学研究所元副所長・早稲田大学講師・松尾光「奈良の大仏を造立したのは聖武天皇、聖武天皇を支えていたのが藤原四兄弟、藤原四兄弟が東北とつながっていた。」
藤原四兄弟は、朝廷で右大臣や参議などの要職に就き、倭国の政権を担っていた。
そして聖武天皇の母・宮子、妻・光明子の兄弟でもあった。
つまり聖武天皇とは叔父であり義兄弟という特別な存在。
藤原四兄弟の三男・宇合と麻呂は719年から、それぞれ将軍と大使として東北に赴任している。
東北の騒乱を納めた宇合と麻呂は、陸奥を出羽を結ぶ幹線道路を整備するなど東北の発展を進めた。
「藤原氏は東北とつながることで高い技術、豊富な資源、労働力を手に入れた。
これによって藤原氏は都でますます大きな力を持つことができた。」
藤原氏と東北のつながりは、互いに大きな利益だった。
もしかしたら奈良の大仏の造立は倭国と都と東北の日本友好関係の証だったのかもしれない。
しばらくは良好であった都と東北の日本国、しかしその後聖武天皇の娘である孝謙天皇が亡くなり、藤原家とは違う系統の天皇に変わると関係が急速に悪化、770年には東北38年戦争が勃発、ついに東北の日本国は都に併合されてしまった。
そして日本という名も倭国に奪われてしまった。
その後奥州藤原氏によって造られた中尊寺金色堂と奈良の大仏とのつながりとは?
『造興福寺記』奥州藤原氏は聖武天皇を支えた藤原四兄弟の血を引いていた。
奥州藤原氏は平泉に黄金都市を造ることで藤原氏の栄華と超先進国家・日本の再興を果たしたかったのではないだろうか?
| poyo | 古代・歴史 | comments(2) | trackbacks(0) | - |
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dice (2014/06/29 6:36 PM)
またまたずいぶんお久しぶりになりました、
文字起こしお疲れ様です、拝見させていただきました。
モナリザはダ・ヴィンチの自画像だとかいう話もありましたね。

ヒストリーチャンネルもチェックするのですが、
最近はアメリカの鑑定団やバラエティが中心になっちゃってて離れ気味です。
吉村作治のエジプト系くらいですかねぇ。
poyo (2014/08/05 7:17 PM)
diceさん、お返事が遅れ遅れてごめんなさい。
いつも見守ってくれているようで、とても嬉しいです。
最近はブログ活動の時間がとれず、更新も中々できません。
書こうと思い、録画したまま放置してある番組もあります・・・
でも最近は、BSチャンネルが多いかな・・・









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