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2016.01.14 Thursday 00:00
たけしの新・世界七不思議大百科
Entry No.1 マヤ文明の秘宝 翡翠の仮面
Entry No.2 神秘の仏教遺跡 パガン(ミャンマー) Entry No.3 大英博物館の至宝 ロゼッタストーン 私たちの知る世界四大文明とは、巨大なピラミッドがそびえる黄金に彩られたエジプト文明、太陰暦や楔形文字を生み出したメソポタミア文明、緻密な計画都市を数多く築いたインダス文明、漢字の原型となる甲骨文字を生みだした黄河文明。 しかしこれは時代遅れの歴史観だと言われる。 今はアメリカ大陸に生まれた2つの文明、マヤに代表されるメソアメリカ文明とインカに代表されるアンデス文明を加え、世界六大文明と呼ぶ方が正しいとされる。 20世紀アメリカ大陸では新発見が相次いだ。 その中に、古代エジプト ツタンカーメンの黄金のマスクにも匹敵する発見があった。 340片の翡翠と4片の貝殻、2片の黒曜石が使われた翡翠の仮面、中米ユカタン半島のジャングルパレンケ遺跡から発見された秘宝である。 Entry No.1 マヤ文明の秘宝 翡翠の仮面 第1の扉 翡翠の仮面の主とは一体誰なのか? 1952年、翡翠の仮面を発見した伝説の考古学者アルベルト・ルス。 4年の歳月をかけ、神殿の秘められた空間にたどり着いた。 そこで見たものは・・・ 隠し扉の奥にあったのは、高さ7mの空間。 真ん中に彫刻を施した大きな石板があり、部屋のほとんどを占めていた。 一体その中に何があるというのか? そこには無数の翡翠の欠片と共に男性の人骨が葬られていた。 翡翠の欠片を組み合わせると仮面となった。 神殿に眠る翡翠の仮面の主の正体とは? 第2の扉 古代マヤ人にとって翡翠とは何なのか? 王や貴族の装身具として使われてきた翡翠は黄金より価値のある最も尊ばれた宝石だった。 なぜマヤの人々は緑を崇めたのか。 翡翠が出土したグアテマラの都市遺跡から、マヤ文明の伝説を覆す大発見があった。 驚くことにマヤ文明の起源が今から3000年前であったことが明らかになった。 1922年11月26日イギリス人考古学者ハワード・カーターによってエジプトで初めて発見された未盗掘の王墓、ツタンカーメンの王墓の発見により古代エジプトのファラオの姿が初めて明らかになった。 そして30年後メキシコで謎に包まれた文明の真実を解き明かす世紀の大発見があった。 中央アメリカ、ユカタン半島の熱帯ジャングルに栄えたマヤ文明は、紀元前800年以降を起源にスペイン人に征服されるまで2000円以上続いたとされる文明である。 そんなマヤの真実の姿が分かってきたのは20世紀になってから。 光をあてたのはマヤを代表する都市の1つ、パレンケを1948年に訪れたメキシコ人考古学者アルベルト・ルス。 キューバ人の父とフランス人の母の間にパリに生まれながら、中南米の遺跡に魅せられ、メキシコ国籍を取得、考古学者となったルスは、欧米人に歪められたマヤの真実を探ろうとしていた。 ルスが注目したのはパレンケの中央にそびえる巨大な神殿ピラミッド。 高さ35mのピラミッドは最上部で多くのマヤ文字が刻まれた石板が見つかったことから、碑銘の神殿を呼ばれていた。 神殿を調べてもマヤの真実に迫る手がかりは何も得られないまま時は過ぎていった。 だが1949年神殿の最上部にある瓦礫を取り除いていた時のこと・・・ 奇妙な穴を発見した。 そこに埋まった土を取り除くと・・・ これは下へと続く階段ではないか? おそらく侵入者を阻むために埋めたのだろう。 以来ルスたちはこの階段の発掘作業に没頭した。 瓦礫を取り除いてわかってきたのは、この階段が驚くほど長く下へと続くものだったこと。 4年の歳月が過ぎた1952年、ついにルスたちは瓦礫をすべて取り除き、階段の一番下に降り立った。 そこでルスは不思議な石板の存在に気付いた。 三角形の大きな石板、ルスはそれが何かを隠すためだと直感した。 そして石板をずらし、隙間から中をそっと照らしてみた。 隙間の奥に見えたのは、高さ7mの空間、真ん中に彫刻を施した大きな石の塊があり、部屋のほとんどを占めていた。 そこにはまるで宇宙船を想像しているかのような人物や植物、意味不明のマヤ文字が刻まれていた。 これは何かの蓋だ・・・ 蓋の重さは約5トン、人力で動かせるものではない。 そこでルスはジャッキを使い蓋を開けてみることに。 その中にあったのは・・・ これは墓だ。 眠っていたのは身長190cmを超える人骨。 緑の輝きを放つ無数の欠片と共に葬られていた。 これは翡翠だ。これほどの翡翠と共に埋葬されているということは、高貴な人物に違いない。 もしかしたらパレンケの王かもしれない。 周囲に散乱していた340片の翡翠と4片の貝殻、2片の黒曜石を組み合わせていったところ、なんと驚くことにそれは仮面となった。 まさにそれはツタンカーメンの黄金のマスクに匹敵する世紀の大発見。 さらに石棺の中からは仮面以外にも翡翠のアクセサリーが多数見つかった。 果たしてこれほどの翡翠に彩られた人物は誰なのか? 後に蓋の碑文が解読されたことで、その人物は明らかになった。 ルスの予想通り、7世紀ごろこの地で強大な権力を握っていたパカルというパレンケの王だったのである。 さらにその後他の遺跡でも神殿ピラミッドの内部から王の墓が続々と発見された。 マヤはそれぞれの都市を王が統治する都市国家の集まりだったことが明らかになったのだ。 パレンケでは近年新たな発見もあった。 碑銘の神殿の隣にある13号神殿から、驚く物が見つかった。 その発見をした人物こそメキシコ考古学の第一人者、アルノルド・ゴンザレス博士。 ルスを尊敬してやまない博士が同じような発見をしたのである。 石棺の中に眠っていたのは全身が赤く染まり、翡翠に彩られた女性の人骨だった。 赤い色は棺に塗られた水銀が酸化したため。 そのことから人骨は赤の女王と呼ばれている。 翡翠に彩られた「赤の女王」、その女性は一体何者なのか? DNA分析の結果、「赤の女王」はパカル王と血がつながっていないことが判明した。 つまり母親でも兄弟でも娘でもない。 つまりパカル王の妻、王妃である可能性が高まったのだ。 翡翠の仮面を発見したルスは、1979年、73歳でこの世を去った。 ルスの墓は碑銘の神殿を見守るような場所に建てられていた。 アルノルド博士「留守の墓はこの建物の正面にあるのだが、偶然にも光を当てると丁度赤の女王の墓に反射するんですよ。 もしかしたらルスが私を導いてくれたのかもしれませんね。」 ■たけしの大百科チェックポイント パレンケの王パカルがかぶっていた翡翠の仮面、このような仮面はパレンケだけでなく、ティカルやカラクルムといったマヤ遺跡からも出土している。 古代マヤでは、なぜ死者に仮面をかぶせたのだろうか? マヤの王は死後神になるとされていた。 そのためにはジャガーの攻撃や極寒の館といった地下世界の神々が与える試練を乗り越えなければならなかった。 翡翠の仮面には不思議な力があり、死後の世界で王を守ってくれると信じていたという。 2013年4月アメリカの科学誌「サイエンス」にマヤ文明の定説を覆す論文が掲載された。 それは日本人研究者らによって発表された。 紀元前800年以降とされていた従来のマヤ文明の起源が200年ほど早まり、紀元前1000年頃まで遡るというもの。 なぜマヤ文明の起源が改められることになったのか。 その証拠の1つとして遺跡から出土した翡翠の存在が深くかかわっていた。 パカル王の仮面が翡翠であったように、メソアメリカで翡翠は黄金より高いを持っていた。 古代マヤ人にとって翡翠とは一体何だったのか? 茨城大学水戸キャンパス、ここマヤ文明の定説を覆した日本人研究者がいる。 古代メソアメリカ文明古代マヤなど数々の著書を持ち、マヤ文明学の第一人者として知られる青山和夫・人文学部教授である。 新たな大発見があったのは中米グアテマラの熱帯雨林に眠るセイバル遺跡、9世紀半ばに最盛期を迎えたマヤ都市の1つ。 しかし発掘されていたのはごく一部、その起源は謎に包まれたままであった。 本格的な調査が始まったのは2005年、青山教授はアリゾナ大学の猪俣健教授らと共に多国籍の調査チームを編成、都市遺跡の中心部にある神殿ピラミッドや王宮、中央広場など、発掘は広範囲に及んだ。 歴代の王たちは公共祭祀を行う基壇があった場所により大きな神殿ピラミッドを築くことで権威を強化していった。 しかし都市が衰退すると神殿は土に埋もれ、忘れ去られていった。 青山教授らは神殿ピラミッドの下に眠るもっとも古い建造物がある地層まで地面を掘り下げるという大規模な発掘に挑んだ。 そして中心部に向かってトンネルを掘り進めていったところ、ついに最古の建造物へとたどり着いた。 黒い地層の下に見える白い層が、最初に造られた建造物の遺構。 それは驚くことに今から3000年前に造られたマヤ文明最古のものであることが判明した。 その年代を測定する方法は日本にあった。 福井県にある三方五湖の1つ、水月湖である。 世界で最もきれいな年縞堆積が残っている湖。 年縞:長い年月の間、湖沼などに堆積した土などの層が描く縞模様 水月湖は直接流れ込む川がないため、湖底がかき乱されることなく土が非常にきれいな状態で堆積している。 そこで青山教授の同僚である研究者たちが年縞を採取、研究を進めた結果過去52800年分の年代が測定できる世界一正確な年代軸を作成することに成功したのだ。 水月湖から得られたデータを基にセイバル遺跡の地層に含まれる木片など56点にものぼる出土品を利用して放射炭素年代測定を行った結果、派遣した建造物が紀元前1000年前後のものであることが決定的になった。 さらに中央広場からは翡翠の石器が出土した。 磨製石斧、トウモロコシの穂か、種を象徴するものと考えられている。 公共祭祀を執行する空間を創設する儀礼の一部として埋納。 なぜ翡翠はマヤ人たちに崇められてきたのか? 中米に翡翠の産地はグアテマラ高地しかない。 緑色がマヤ世界の中心と考えられていた。 金よりも翡翠の方が重要であった。 マヤの東西南北の色は北(白)東(赤)南(黄)西(黒)で表されている。 それは彼らの主食である4種類のトウモロコシの実の色と一致する。 そしてその実を包む緑が中心に置かれた。 マヤの世界観で緑色に輝く翡翠は世界の中心を象徴するものでもあったのだ。 神聖な意味を持つ翡翠の装身具は雨の神にささげる供物としてセノーテに投げ入れられることもあった。 セノーテとはジャングルの地下に張り巡らされた天然水路が所々地上に姿を表した泉のこと。 マヤ世界にとっては大河に変わる水源であり、文明と命を育むために欠かせないものだった。 つまり彼らは文明と命の源に翡翠を捧げたのだ。 紀元7世紀、マヤ文明の最盛期に造られたパレンケの秘宝翡翠の仮面、それは3000年以上も前から翡翠を生命の源、世界の中心として位置付けてきた古代マヤ人たちの最高傑作なのかもしれない。 ■たけしの大百科チェックポイント 翡翠は王をはじめとする支配層が権威の象徴として身に着けてきた。 そしてもう1つ、支配層が権力を維持するために独占したものがある。 それは一体何だったのか? それは数学や天文学といった知識、彼らは知識を独占することで権力を誇示したという。 最も長いマヤ歴は10の31乗、2京×兆倍。 マヤ長期歴の歯車は、地球の年齢46億年、宇宙の年齢187億年よりもはるかに長い時間の概念を持っていた。 Entry No.2 バガン 世界には3大仏教遺跡と呼ばれる巨大な建造物がある。 1つめはカンボジアのアンコール遺跡群、2つめはインドネシアのボロブドゥール、そしてもう1つは謎の仏教遺跡群バガン。 ミャンマーの大平原に無数の仏教建築が見渡す限り建ち並ぶ。 この地は11世紀から13世紀にかけてバガン王朝の都として隆盛を極めた。 そびえたつのは仏教寺院やパゴダと呼ばれる仏塔、その数は2200以上にも及ぶ。 建築の内部は豪華絢爛な大仏やダイナミックな仏教壁画で飾られ、神秘的な雰囲気が漂う。 実はバガンの存在は長きにわたり謎のベールに包まれてきた。 ミャンマーは1960年代から軍事政権のもとで鎖国状態が続き、世界に門戸を閉ざしていた。 近年ようやくミャンマーの情勢が変化、民主化が進んだことで、ついにバガン遺跡の封印が解かれるときがきた。 第1の扉 なぜ幾千ものパゴダが造られたのか? 金箔で覆われ、見る者を驚嘆させるパゴダ、最盛期には5000以上のパゴダや寺院が存在したという。 誰がなぜ何のために造ったのか、そこには仏教をめぐる伝説の王の物語が秘められていた。 第2の扉 なぜバガンは滅びたのか バガン王朝の建国から250年後、突如栄華を誇った王朝は滅びてしまう。 一体何が起きたのか? その謎に迫るのはアジアの仏教遺跡研究の第一人者、上智大学・石澤良昭教授。 まるで洞窟のような寺の中で、バガン滅亡の真実が明らかになる。 近年著しい発展を見せるみゃんま、最大の都市ヤンゴンはビジネスチャンスの広がるアジア最後のフロンティアとして今世界の注目を集めている。 かつてはビルマと呼ばれたミャンマー、太平洋戦争では19万人もの日本人が戦死した。 ミャンマーの伝統的な朝ご飯モヒンガー、ナマズからだしを取ったスープに、そうめんのような細い麺が入った料理。 味はカレーに似ている? エーヤワディー川のほとりに広がる都バガン。 大平原に立ち並ぶのは無数のパゴダや寺院などの仏教建築、その数は2200を超える。 バガンは11〜13世紀にかけてミャンマー初の統一国家バガン王朝の都として栄えた。 タッビンニュ寺院は高さ65m、バガン遺跡で最も高い建築物。 金箔で覆われ煌びやかに輝くのは、バガンを代表するパゴダの1つシュエズイーゴン・パゴダ。 パゴダとは釈迦の遺骨や髪の毛などを納めたとされる仏塔。 このパゴダに使われた金は10トンとも言われ、完成までにおよそ30年を要した。 世界三大仏教遺跡にふさわしいバガン遺跡だが、他の2つと違う点は発見者がいないこと。 12世紀に建立されたアンコールワットは、王朝の滅亡と共に密林の中に忘れ去られたが、19世紀にフランスの探検家アンリ・ムオによって発見され、世界に紹介された遺跡である。 ボロブドゥールも同じく王朝が滅び、密林覆われてしまうが、19世紀にイギリスのトーマス・ラッフルズによって発見された。 一方バガン遺跡には発見者は存在しない。 13世紀に王朝が滅亡したあと、人々に忘れ去られることなく仏教の聖地として愛され続けてきたからだ。 最盛期には5000以上の寺院やパゴダが存在したという。 誰が何のためにこれほどの建造物を築いたのか? バガン王朝初代アノーヤター王、11世紀にミャンマー全土を制圧しバガン王朝を建国した英雄。 しかし王には大きな悩みがあった。 当時バガンにはまだ現在の仏教(上座部)が伝わっておらず、古い密教の一派が勢力をふるっていた。 バガンを支配していた密教とは? それをうかがい知ることができる貴重な壁画が残されている。 壁画に描かれているのは妖艶な女性が腰をなまめかしくくねらせ、踊っている姿。 とても官能的な表現。 こちらの壁画に描かれているのは菩薩の姿なのだが、両脇に女性を抱いて、不敵な笑みを浮かべている。 この不思議な絵は、何を物語っているのだろう? 考古学者ミョーニョアン「壁画は密教(日本の密教とは異なる)の影響を強く受けたものだと考えれる。 バガンに現在の仏教が伝わる以前、密教色の濃いアリー僧という僧侶たちがこの地で権勢を握っていた。 30人のアリー僧が6万人の弟子を抱え、酒を飲んで女遊びをするなどみだらな暮らしを送っていた。 彼らの教義は過激で、親殺しの罪でも呪文を唱えれば許されると説いていた。 女性が結婚する際には、初夜をアリー僧に捧げなければならないという掟までもがあった。」 アリー僧の傍若無人な振る舞いに頭を悩ませていたアノーヤター王だが、そこに救世主が現れる。 僧侶ダンマダッシー、ミャンマー全土を歩きながら仏教を説いて回った僧侶。 アリー僧とは対照的に戒めと秩序を重んじるダンマダッシーは人々の心を捕え、カリスマとなっていた。 噂を聞いたアノーヤター王はダンマダッシーと対面、ひざまずいて悩みを打ち明けたという。 ダンマダッシーは、王に仏教を熱心に説いた。 仏教に目覚めたアノーヤター王は、宗教改革に乗り出す。 軍隊を使ってアリー僧たちをいっそう、ついに秩序を取り戻した。 アノーヤター王は仏教を民衆に広めるために数々のパゴダや寺院を建立、その後も歴代の王や庶民は次々と仏教施設を作り続けた。 ■たけしの大百科チェックポイント アンコールワットやボロブドゥールは世界遺産に認定されているのに、バガン遺跡は世界遺産ではない。 バガンは世界遺産になれない理由があるという。 世界遺産に認定されるためには建立当時の状態が保存されていることが条件の1つ。 しかしバガンは、❝生きた遺跡❞と呼ばれ、仏教施設は改修工事を繰り返しながら地元の人々に使用されてきた。 古い仏像は時代に合わせて作り替えられ、進化を遂げた。 そのため建立当時の姿をとどめておらず、世界遺産には認定されないと言われている。 バガン遺跡の魅力を語る上で欠かせなのは、その類稀なる仏教美術のすばらしさである。 バガン王朝の最盛期に建立されたアーナンダ寺院には驚くべきものが残されている。 高さ10mに迫る黄金の大仏、全身が金色に輝くその姿はバガン最盛期の栄華を物語るかのようだ。 黄金の大仏は一体だけではない。 寺院の中央になんと四体の巨大な仏像が祀られている。 それぞれ東西南北の方角に向かって安置されており、見る者を圧倒する迫力。 この寺院を建立したのはバガン王朝第3代チャンスイッター王、自らの絶大な権力を誇示するために黄金の大仏を築いた。 大仏には面白い仕掛けがあった。 遠くから眺めると、その表情は穏やかで微笑んでいるように見える。 しかし間近から仰ぎ見ると真剣で厳しい表情に見える。 2つの顔を表現するデザインには、チャンスイッター王のある思いが秘められている。 アジアの仏教遺跡研究の第一人者・石澤良昭教授「当時仏像の近くで手を合わせるのは王様の関係者や高位高官、家臣には厳しい顔が伝わる。 村の人や一般の人は外で見る、こちらには優しいお顔で、救ってくれる。」 石澤教授によれば、壮大なバガン建築の秘密を解き明かすために、注目すべきポイントがあるという。 それはレンガ、巨大な建造物は無数のレンガを積み上げ造られていた。 バガンでは粘り気の強い粘土が採れ、レンガの製造が盛んに行われた。 このレンガは1200度の高温で焼かれているために水分がとび、軽くて頑丈に仕上がっている。 壮大なバガン建築を可能にしたのは、良質なレンガの存在だったのだ。 バガンをめぐる最大の謎・・・栄華を極めた王朝は、なぜか13世紀に突如滅亡してしまう。 その謎を解くために、滅亡寸前に建てられた王朝最後のパゴダを訪ねる。 ミンガラー・ゼーディー・パゴダ、完成からわずか3年後に王朝は滅亡した。 このパゴダを建立したのはバガン最後の王、第11代ナラティーハパテ王、政治には無頓着で仏教にのめりこんだ。 バガン王朝は仏教寺院の活動に寛大で、税金は免除された。 しかしその免税措置が王朝の危機を招いたと石澤教授は考える。 「お寺の敷地の中は免税なので税金を取られない。 そうすると国庫に入ってくる税金が少なくなる。 バガン王朝はたくさんのお寺を造る。 しかしその裏では国が収入を得られない免税地ばかりが広がった。 お寺成って国滅ぶ」 国力が弱まっていたバガン王朝に、さらに追い打ちをかける事件が起こる。 チャンスイッター窟院、瞑想用の寺院で外の光が入らないように造られている。 この壁画こそバガン滅亡の謎を解くヒント、描かれた男たちの姿に石澤教授は注目した。 帽子を見るとミャンマーでは見かけないもの、また弓矢を持っている。 モンゴル兵だ。 モンゴル帝国は地球上の陸地の4分の1を支配下においた人類史上最大規模の帝国。 フビライ・ハンの軍隊は元寇の6年後1287年、バガン王朝に侵攻した。 その数、騎兵隊は600万、歩兵は2000万にのぼったと言われている。 モンゴル軍の侵略にナラティーハパテ王はあっけなく逃走し、王朝は滅亡した。 しかしバガンは政治的な機能は奪われたものの、美しいパゴダや寺院は破壊されることなく残された。 こうしてバガンは仏教の聖地として人々から愛され続けたのだ。 ■たけしの大百科チェックポイント おびただしい数の寺院やパゴダの建設はバガン王朝の財政を圧迫しただけでなく、意外な事態を引き起こしていた。 仏教施設の建立には大量のレンガが必要、そのためレンガを焼く燃料として木が伐採され、深刻な森林破壊を引き起こしたという。 こうしてバガンは不毛の土地となり国力を落としたとする説もある。 Entry No.3 大英博物館の至宝ロゼッタストーン 人類が生み出した最も輝かしき文明、古代エジプト文明。 だが、どのような文明だったのか?今からおよそ200年前までは全くの謎であった。 古代エジプト文明3000年の歴史の扉を開けた鍵、それはたった1つの石。 その石は今、数奇な運命のもと、イギリスが誇る世界最大級の博物館大英博物館に保管されている。 1799年に発見されたロゼッタストーン、石の表面に刻まれていたのは、エジプトの古代文字ヒエログリフだった。 ヒエログリフはエジプトの様々な遺跡に書かれていたが、まったく読むことのできない謎の文字であった。 だがこのロゼッタストーンの登場により、ヒエログリフは解読され、ピラミッドなどに刻まれたエジプト文明の謎は次々と解き明かされることになった。 第1の扉 なぜロゼッタストーンは大英博物館にあるのか? 石の側面に書かれていたのは、英語・・・ 最初に石を発見したのは英雄ナポレオン率いるエジプト遠征軍、そのナポレオンにイギリスの軍神ネルソン提督が襲い掛かる。 ロゼッタストーンは誰のものなのか、超大国がエジプトで激突する。 第2の扉 なぜヒエログリフは解読できたのか? ロゼッタストーンをめぐるもう1つの戦い、ヒエログリフの解読対決。 イギリスの物理学者トーマス・ヤングとフランスの言語学者ジャン=フランソワ・シャンポリオン、2人の天才が謎の文字の解読に挑んだ。 時は18世紀末、2つの大国が世界を支配しようと熾烈な勢力争いを繰り広げていた。 イギリスとフランスである。 1798年フランス国民から絶大な人気を得ていた29歳の青年が、ライバル国であるイギリスへの侵攻軍司令官に任命された。 その青年こそが英雄ナポレオン。 ナポレオンがいよいよイギリス本土への攻撃をしかける。 世界中の人々がそう思い込んだ。 が、人々の想像を超える動きをするが天才ナポレオン、思わぬ作戦をたてた。 エジプト遠征。 ナポレオンは大国イギリスに直接攻め込むのは難しいと判断、エジプトを占領し、イギリスの財源の1つとなっていたインドとの物流を絶つ作戦をたてた。 38000人の兵士と共にエジプトに渡ったナポレオン、しかしその船の上には戦いには不似合いな集団が乗っていた。 ナポレオンによって集められた学者や芸術家たち、エジプト研究特別チーム。 ヨーロッパ全土にフランスの力を見せつけるというのがナポレオンの狙いだった。 エジプトへと出撃したナポレオンは、アレクサンドリアの港を攻略、そこで部隊を2つに分け、半分をアレクサンドリアの艦隊に残し、自らは首都カイロを目指した。 無事首都カイロへの入場を果たしたナポレオンだったが、この後思わぬことが起こる。 アレクサンドリアに残したフランスの艦隊が壊滅したとの連絡を受け取ったのだ。 フランス艦隊を襲ったのはネルソン提督率いるイギリス海軍だった。 ナポレオンがエジプトへ向かったとの情報を受け取ったネルソンは、フランス軍を追い出撃。 地中海に残っていたフランス艦隊を壊滅させた。
イギリス軍の巻き返しに遭ったナポレオンは砂漠に閉じ込められてしまう。
しかしこのことが良い結果を招くこともあった。
ナポレオンが連れて行った学者たちにとっては格好の研究時間ができた。
その研究成果がまとめられた本があるという。
国立図書館(パリ)、エジプト誌は歴史学者や植物学者、画家らの手により帰国後20年以上の歳月をかけ制作された。
カイロでエジプト研究が進む中、イギリス軍の反撃の足音がひたひたと迫ってくる。
そんな中、あの世紀の大発見が起きた。
フランス軍はイギリス軍の攻撃に備え、アレクサンドリア周辺に前線基地を構えた。
ラシードにあった要塞を補強したのもその1つだった。
その作業中、1人の兵士が謎の黒い巨石を発見、それがロゼッタストーンだった。
石は直ちにアレクサンドリアの守備を任されたムヌー将軍に送られる。
将軍はロゼッタストーンを前にすると目の色を変えた。
「これはエジプト文字解読へ導く石だ。」
なんと石の表面には3種類の文字群が刻まれていた。
一番上には謎の文字であるヒエログリフ、その下にはヒエログリフの崩し文字であるデモティック、一番下には現代でも読むことのできるギリシア文字が刻まれていた。
ギリシア文字から、この石には古代エジプトの王を称える言葉が刻まれていることが分かり、ヒエログリフにも同じ内容が書かれていると推測された。
石はすぐに学者たちのいるカイロへと送られる。
が、しばらくするとイギリス軍がカイロを目指しているという知らせがナポレオンのもとへと届く。
すると、「ロゼッタストーンをアレクサンドリアに戻せ。
死んでもイギリス軍へ渡すなとムヌーに伝えよ。」
首都カイロよりアレクサンドリアの方が安全だろう、このナポレオンの判断は、実は大きな間違いだった。
石を発見してから2年後、ムヌー将軍が守っていたアレクサンドリアは、ついにイギリス軍により陥落してしまう。
エジプトで集めた収集物は奪われ、結局ムヌー将軍がマットで隠していたというロゼッタストーンも見つかってしまう。
石を引き渡すよう求められると、ムヌー将軍はとぼけたり私有物だと言って、決して首を縦にはふらなかった。
しかし結局ロゼッタストーンはイギリス軍のものに。
持っていかれる時、将軍は人目もはばからず、涙を流したという。
ロゼッタストーンの側面に書かれているのは、イギリス軍がフランス軍から石を勝ち取った時に書かれたと言われている。
実際に当時のイギリス人は大変誇らしく思ったという。
ナショナリズムや国際問題も含むこの文は、今となっては非常に後悔が残る文字。
それはまさにイギリスがフランスに向けた勝利宣言に他ならなかった。
■たけしの大百科チェックポイント
ナポレオンのエジプト遠征が後世に残した遺産は、ロゼッタストーンだけではなかった。
ナポレオンはロゼッタストーンにも負けないほど世界的にも有名なものをパリに残している。
ナポレオンはエジプトから持ち帰った収集物などを集め美術館に集め、ナポレオン美術館と名付けた。
その後ルーブル美術館と名前を変えた美術館のいたるところに今ナポレオンのNのマークが残っている。
エジプトからイギリスへ運ばれたロゼッタストーン、ヒエログリフの解読は持ち帰ったイギリスばかりが挑んでいたわけではなかった。 なぜイギリス以外の国でも解読に取り組めたのか。
イギリスへ渡ったフランスの学者たちは、ロゼッタストーンがイギリス軍に奪われる前に写しをとっていた。
どうやってその写しをとったのか?
当時写しに使っていたものは、私たちの生活にもなじみのあるもの。
学者たちは靴墨を石の表面塗り、紙を押し当て写しをとっていたという。
イギリスとフランスの面子をかけた戦い、解読対決がここに始まった。
先手を取ったのはイギリス、物理学者のトーマス・ヤングがヒエログリフの解読に挑んだ。
ヤングは物理学だけでなく、医学、言語学など、様々な分野で活躍した天才学者。
そのヤングが目をつけたのが、ヒエログリフで書かれている文書の中に何度も現れるカルトゥーシュと呼ばれる楕円の枠。
ヤングは、ロゼッタストーンの中のヒエログリフと、その下に書かれているギリシャ語を見比べた。
そしてカルトゥーシュの中のヒエログリフが、ギリシャ語部分に何度も出てくる王の名前プトレマイオスであると考えた。
当時絵で描かれていたヒエログリフは、そのすべてが意味を絵で表した表意文字だと考えられていた。
例えばパンの絵が意味するのはパンである、というように。
しかしヤングは当時の定説を覆す。
パンの絵はパンを意味するのではなく、アルファベットの「T」の音であると主張した。
ヤングはヒエログリフがアルファベットと同じ表音文字である可能性を見抜いた。
そしてその考えからカルトゥーシュの中のヒエログリフの読み方がプトレマイオスだと分かった。
だが後にヤングが解読したアルファベットのほとんどが間違いだったことが判明する。
ヤングによる解読成果の発表は、フランスを落胆させた。
ロゼッタストーンを奪われた上に解読も先を越されてしまうのかと。
しかしそのフランスに救世主となる人物が現れる。
それが天才言語学者ジャン=フランソワ・シャンポリオン。
1790年フィジャックに生まれたシャンポリオンは、わずか19歳でグルノーブル大学の助教授になるほどの頭脳を持っていた。
さらにその頃すでにラテン語をはじめ、ヘブライ語、アラビア語、サンスクリット語、中国語などを習得、言語に関してのエキスパートになっていた。
シャンポリオン博物館、もとはシャンポリオンの生家だった。
現在は改築され、彼が残した貴重な資料や記録などを展示している。
自らの人生をかけ、ヒエログリフの解読に挑み続けるシャンポリオン、1815年シャンポリオンのもとにある知らせが届く。
ナポレオンが当時シャンポリオンが暮らしていたグルノーブルに来るというのだ。
そしてついにシャンポリオンは、英雄ナポレオンとの対面を果たす。
2人は古代エジプトのファラオに思いをはせ、熱く語ったという。
ナポレオンの激励を受けシャンポリオンは、すべてを投げ打ち、ヒエログリフの解読に挑む。
ナポレオンと会って6年後、グルノーブルからパリに転居し、マザリン通りのアパートに研究の場を移したシャンポリオンは、兄の援助で食べつなぎながら、まさに寝食を忘れ研究に没頭した。
そして解読を始めて13年目、ついに歴史を変える日が訪れる。
解読のカギとなったのは4世紀にエジプトで生まれたコプト語であった。
シャンポリオンにとって決定的だったのは、ヘブライ語・中国語・中東の言葉など世界中の言葉に幼い頃から興味を抱き研究し、実際に話せるようになっていたということ。
彼が貯えた膨大な知識と情熱が解読の成功へと導いたのだ。
1822年9月14日、アパートで図版を詳しく調べていたシャンポリオンは、それまで見たことのないカルトゥーシュの中の人名に気が付いた。
最初の図は、それまでの研究から太陽を表す図であることが分かっていた。
最後の図は、ロゼッタストーンの研究からプトレマイオスの最後の文字Sだと分かる。
そして真ん中の図は「生む」を意味する図であり、コプト語では「MIS」、この頭文字を当てはめてみると、ラムセス・・・クレオパトラ・・・
シャンポリオンは、コプト語をヒントに、ヒエログリフの文字を合わせ、独自の対応表を作り上げた。
コプト語に精通していたシャンポリオンは、ついにヤングよりも正確にヒエログリフにあう音を解読した。
ヒエログリフの解読に成功したシャンポリオンは、興奮のあまり半狂乱となり、パリの町を走り抜け、「ついにやった」と叫ぶと、そのまま記憶を失ったという。
このシャンポリオンの功績により、後にピラミッドを造った主の名前をはじめ、エジプト文明の様々な謎が明らかになった。
■たけしの大百科チェックポイント
シャンポリオンの快挙には多くの人々が称賛を贈った。
が一方で解読をきっかけに大議論が巻き起こった。
議論のきっかけは、古代エジプト文明の解明が、ある人々にとってはとても都合の悪いものになってしまったから。
シャンポリオンが反感をかった相手とは?
シャンポリオンのヒエログリフ解読により、エジプトには紀元前2300年頃から文明があったことが判明した。
この事実は当時カトリック教会の教えていた歴史とは矛盾していたため、教会が反論したという。
たけしの新・世界七不思議大百科に掲載されるのは・・・
File008翡翠の仮面
File009ロゼッタストーン
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| 哲学はなぜ間違うのか | 2017/03/02 8:32 PM |
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観たかったのでありがたいです。