第1の扉 なぜネフェルティティは歴史から消されたのか
ドイツの首都ベルリン、激動の20世紀を象徴する都。
哀愁漂う街にはかつての変革の跡が残されている。
ベルリンの壁崩壊から25年、歴史と文化の重みが人々を魅了する。
市内には美術館や博物館が20以上も集中しており、全てを総称してベルリン美術館と呼ぶ。
旧博物館、ローマのパンテオンのような円形大広間、この博物館には古代ギリシャの美術品が多数展示されている。
ペルガモン博物館、エーゲ海に臨む都ミレトスに築かれたローマ帝国の建造物、遺跡を分解しトルコから丸ごとドイツに運び込んだ。
紀元前6世紀の新バビロニア王国を象徴するイシュタール門、色鮮やかなレンガの装飾が見る者の心を捉える。
エジプトの美術品を集めたコーナーにはネフェルティティを発見に導いたものが展示されている。
紀元前14世紀の粘土板、楔形文字が刻まれている。
1887年エジプト中部の村アマルナで畑の中から数多くの粘土板が発見され、アマルナ文書と名付けられた。
そこにはいるはずのないファラオの名が記されていた。
その名はアクエンアテン王、エジプトの歴代のファラオの名が刻まれた王名表、アクエンアテンが入るべき位置に、なぜかその名前はない。
記録から抹消された幻のファラオがいるのではないか、フランスやドイツの考古学者たちがアマルナへ押し寄せた。
大規模な発掘で宮殿の遺構が発掘され、かつてこの地に都があったことが判明、アクエンアテン像も見つかり、幻のファラオは実在することが証明された。
そして1912年12月、誰もが息をのむ発見があった。
ドイツ人考古学者ルードヴィヒ・ボルハルト率いる調査隊が1つの遺物を発掘、それこそアクエンアテンの后ネフェルティティの胸像である。
一連の発見によって紀元前14世紀アクエンアテン王と妻ネフェルティティがエジプトを統治していたことが分かった。
しかし奇妙なことに2人の存在はエジプトの記録から抹消されていた。
消された歴史の謎3400年前に一体何があったのか?
それは宗教革命、古代エジプトの宗教は多神教、多くの神々が共存していた。
冥界の神アヌビス神、天空の神ホルス神など、その数は1000以上。
多神教の世界で権力を握っていたのは神を司る神官たちだった。
強力な青磁集団としてファラオを脅かす存在になりつつあった。
アクエンアテン王は神官たちとの権力争いに明け暮れていた。
そんな時ネフェルティティは悩める夫にある助言をした。
「神官たちの力の及ばないただ1つの神をお祀りください。」
后の言葉に従い、アクエンアテン王は多神教を廃止、人類史上初めて一神教を唱えた。
「エジプトを支配するのは太陽神アテンのみ
それ以外の神は認めぬ。」
唯一の神は太陽神アテン、人間や動物の姿をした神とは全く異なる円盤のような太陽を崇めた。
さらに都をテーベから現在のアマルナに移し、猛反発する神官たちを一掃した。
若い2人の夫婦は力を合わせて自分たちの理想郷を作ろうとした。
異端の王として恐れられたアクエンアテンにとって、ネフェルティティだけがよき理解者であり心の拠り所であった。
アクエンアテンはこんな愛の言葉を残している。
「美しきかな 王を喜ばせるその声 ネフェルティティ 永遠に 永久に」
しかし悲劇は訪れる。
アクエンアテン王が治世17年目に死去した。
一説には暗殺とも言われる。
アクエンアテンの息子ツタンカーメンが即位すると、勢力を失っていた神官たちは幼い少年王を操り、再び多神教に戻そうと画策した。
ツタンカーメンが即位して3年目、ネフェルティティは突然死んでしまった。
ネフェルティティの死によりアテン信仰は壊滅し、多神教が復活、再び権力を握った神官たちはアマルナの神殿や王宮を破壊し、ネフェルティティが生きていた痕跡をすべて消し去った。
こうして王妃の存在は幻と化してしまった。
古代エジプトの人物の名前にはそれぞれ意味が込められている。
例えばアクエンアテンとは「アテン神に愛される者」。
ネフェルティティという名前の意味とは?
「やってきた美女」という意味。
ネフェルティティは元々ミタンニ(現在のイラク・シリアあたり)出身であり15歳の時エジプトのファラオに嫁ぐためにはるばるやってきたと言われる。
第2の扉 なぜネフェルティティは二度消えたのか
アクエンアテンとネフェルティティが共に築いた都アマルナでは、全く新しい芸術が花開いていた。
アマルナ美術、異端の王は芸術においても革命を起こした。
その象徴がアクエンアテン像、おなかは極端に膨らみ、腰は細く、顔は異様に面長。
全体的に奇妙な印象を受ける。
これまでは、どんなファラオの像も画一的なデザインだった。
威厳を第一に描かれてきたからだ。
しかしアクエンアテンはそれを真っ向から否定、人それぞれの身体的な個性をデフォルメする手法で独特の美の基準を築き上げた。
こうした流れの中でネフェルティティの胸像も生まれた。
ただ不気味なアクエンアテン像とは一線を画している。
発見された古代エジプト王妃の胸像をCTスキャンしたところ、意外な事実が判明した。
調査を行った画像科学研究所のアレクサンダー・フッペルツ博士「分析の結果、トトメスがどのようにして胸像を作り上げたかが分かった。
CTスキャンで見た胸像の内部、トトメスは石灰石を掘り、ほぼ完成品のような美しい顔を作っていることが分かる。
非常に高い技術。
その後薄さ1mmほどの漆喰を塗って形を微調整し色を塗って仕上げた。」
トトメスの仕事ぶりからネフェルティティへの深い愛が感じられると博士は言う。
「トトメスはあえて胸像を完璧な美にしなかった。
注意深く見ると顔にはしわがある。
このしわは元々の石灰石の像にはない。
口元のしわも、最初はなかった。
トトメスはきれいな完璧な顔を作った後、最後にあえてしわを付け加えたのだ。
また両耳は形が違い左右対称ではない。
トトメスはこの胸像を人間味溢れる像にしたかったのだろう。
ネフェルティティへの深い愛が魅力的な作品を生んだのだ。」
1912年ネフェルティティの胸像を発見した考古学者ボルハルト、その美しさに魅せられ、胸像を祖国ドイツに持ち帰るため執念を燃やす。
アマルナでの発掘品は、エジプト政府がその所有権を主張するのは目に見えていた。
そこでボルハルトはいっけいを講じる。
胸像をわざと泥まみれに汚したまま、他の発掘品に紛れ込ませた。
無事審査を通過したネフェルティティの胸像は秘密裏にドイツへと運ばれた。
ボルハルトの執念で3400年の眠りから目覚めたネフェルティティだが、またもや悲劇に見舞われる。
第二次世界大戦が勃発、ベルリンは大規模な空襲を受け町は火の海に包まれた。
多くの文化財や美術品が失われ、ネフェルティティの胸像も破壊されたかに思われた。
しかし不思議なことに被災した博物館の瓦礫からネフェルティティはその破片すら見つからなかった。
ネフェルティティを隠した男がいたからだ。
アドルフ・ヒトラー、独裁者は美しき胸像をこう呼んだ。
「匹敵するものがない 名作で真の宝物」
戦争によりネフェルティティが傷つけられることを恐れたヒトラーは、胸像を安全な場所に移すよう極秘命令を下していた。
ベルリンの南西400kmに位置する田舎町メルカーズ、岩塩の産地として知られる。
ヒトラーはメルカーズ岩塩抗の内部に数多くの美術品を運び込ませた。
エレベーターで地下500m、地底にはどんな世界が広がっているのか。
岩塩校には無数の坑道がアリの巣のように張り巡らされている。
構内の面積は大阪市とほぼ同じ。
車で走って10分、扉の向こうに驚きの光景が・・・
ヒトラーが保管させていた美術品が9000箱以上、ベルリン美術館の収蔵品の3分の1にあたる。
その中にネフェルティティの胸像も眠っていた。
1945年4月アメリカ軍は隠された美術品の情報を聞きつけメルカーズに侵攻、岩塩抗の内部をくまなく捜索し、美術品を押収した。
ネフェルティティの胸像もアメリカ軍によって発見され、無事地上へと運び出された。
数奇な運命の中で王妃は永遠の美しさを輝かせている。
世界1美しいと言われるネフェルティティの胸像、左目だけ、なぜか瞳がない。
失われたのではなく、最初から存在しなかったと言われている。
彫刻家のトトメスはなぜ片方だけ瞳を入れなかったのか?
胸像はトトメスの工房から見つかった。
未完のまま自分だけのものにしたかったのだ。
Entry No.2 インド チッタウルガル城砦
2013年インドで新たな世界遺産が登録された。
インド・ラジャスタンの丘陵城砦群、しかし日本人の多くはその存在さえ知らない。
ラジャスタンの丘陵城砦群の中でも最大のチッタウルガル城砦、7つの寺院や10の宮殿、ゆたかな水を湛えた無数の貯水池、そのすべてが東京ドーム42個分の巨大な岩山に設けられている。
8世紀から16世紀にかけて繁栄したヒンドゥー教の国メワール王国の城砦都市である。
チッタウルガル城砦はその強さと壮麗さにおいてインド国内に匹敵するものはなく、難攻不落の城を恐れられた。
しかし一体なぜこれほど優美で巨大な城塞都市が築かれ、滅びていったのか?
その謎はほとんど知られてはいない。
第1の扉 難攻不落の城砦はどのように誕生したのか。
アジアでも最大級の巨大な城、いったいなぜここまで巨大な城を築くことができたのか?
その謎を解くカギは城砦の中にあった。
これはヒンドゥー教ではなく、ジャイナ教の塔、なぜ異教の塔が建っているのか?
広大な砂漠地帯が広がりインドで最も面積が広いラジャスタン州、町には色鮮やか民族衣装に身を包んだ女性も多い。
デリーの南西500kmにあるウダイプル、町の中心に大きな湖があることから湖の町と呼ばれる。
早朝から沐浴する人々・・・
ラジャスタンの伝統料理、ひよこ豆とヨーグルトのカレーの味はまろやかで美味しい。
ウダイプルから北東へ車で走ること2時間、チッタウルガルの町。
町のはずれに屹立する巨大な城塞、周囲を高い壁に囲まれた城砦の規模は東西が800m、南北が2.5km、面積は東京ドーム42個分にあたる。
当時は城砦の内側にあった街を含むすべての建造物が高さ180mの巨大な岩山の上に築かれていた。
まさに城と町が一体となった天然の巨大要塞都市。
城砦の中へ・・・
まず見えてくるのが歴代の王が住んでいたという宮殿の跡ラーナ・クンバ宮殿、チッタウルガルで最も大きい宮殿、今では廃墟と化しているが、まるで往時の繁栄ぶりを物語っているようだ。
これほど巨大な城砦を築き、ここで暮らしていたのは一体何者だったのだろうか。
中世この地方には戦闘を得意とし、高い地位を持ったラージプートという一族が住んでいた。
ラジャスタンとは「ラージプートの土地」という言葉が語源になっている。
インドの最西端に位置するラジャスタン、ペルシア帝国やイスラム帝国など、強国からの侵攻の危機に常にさらされた結果、一族は強靭な武力を身につけていた。
7世紀イスラム勢力がラジャスタンに侵攻する中、あくまで抵抗をつらぬきチッタウルガルを都とするメワール王国を建国した(734年)王がいた。
ラージプート族の王パッパ・ラワルである。
イスラム帝国への抵抗の象徴ともいえる建造物が残っている。
チッタウルガルで最も目立つ塔ヴィジャヤ・スタンバ、別名「勝利の塔」。
15世紀メワール国王がイスラム軍との戦いに勝利した戦勝記念として建てたもので、9階建ての塔の高さは37m、建物内外にヒンドゥー教彫刻を施したものとしてはインドで最も高い建築物と言われている。
勝利の塔へ登ることができる。
狭い幅の内階段には、とても変わった工夫が施されている。
外側のらせん階段と中央のらせん階段を交互に登らないと上へあがれない仕組みになっている。
最上階の天井はドーム型。
チッタウルガル高い建築物であったため、当時は監視塔としても使われていた。
城砦内に建つもう1つの塔キルティ・スタンバ、別名「名誉の塔」。
壁面にはおびただしい数の像や、まるで中から顔をのぞかせているような彫刻、さらには衣服を身にまとっていない人物の像が中央に刻まれている。
この塔はヒンドゥー教ではなく、ジャイナ教の塔。
ジャイナ教は元々インドでの主流であったバラモン教に対抗する形で誕生した。
ジャイナ教には5つの厳しい戒律があり、不殺生、不妄語、不盗、不淫、無所有と、虫を殺すことすら固く禁じられている。
また仏教と共に現在のヒンドゥー教へも大きな影響を与えたと言われている。
ジャイナ教にはいくつか宗派があるが、この塔を建てたのは裸行派、頭の上には空、足の下には地面、それ以外は何も所有しないという考え方の一派だった。
だからこの彫刻も一切衣服を身につけていない。
裸行派の僧は今でも衣服を身につけない。
髪の毛は、文明の刃物を使うと体に悪いので全部むしっている。
なぜヒンドゥー教の王国に異教の塔が建っているのか?
そこにこそ難攻不落の居城誕生の秘密があった。
元来この土地にはジャイナ教徒たちも住んでいた。
彼らは少数派であるがとても商売上手で裕福だった。
そんな裕福なジャイナ教徒の存在に目を付けたのが当時のメワール国王だった。
王はジャイナ教徒たちに寺院などの建造物を建てることを認め、代わりに彼らから税金を徴収した。
その結果ジャイナ教徒たちのお金を使い武器の調達や城壁の補強が可能となった。
インドでは1%にも満たないジャイナ教徒がなぜ裕福だったのか?
ジャイナ教徒が経済的に豊かな原因となった戒律とは?
ジャイナ教の最大の教えである不殺生は、虫を殺すことさえ禁じている。
そのためジャイナ教徒は畜産業や農業などができず、多くが貴金属業などの商業に従事していた。
バラモン教は特殊な宗教、エリート宗教でトップの階級の人だけがやっており、庶民はほったらかしだった。
そんなことはないだろうと、ジャイナ教ができ、仏教もできた。
それはいかんとバラモン教が心を入れ替えできたのがヒンドゥー教。
第2の扉 チッタウルガル城砦はなぜ悲劇の城を呼ばれるのか。
2013年新たにユネスコの世界遺産に登録されたチッタウルガル城砦、この城砦には無数の貯水池があるため、水の砦とも呼ばれる。
しかしここは巨大な岩山の上、一体大量の水はどこから来るのか?
チッタウルガルの貯水池は全部で84あり、水は全て雨水、ラジャスタンで最も降水量が多いこの地域には、モンスーンの時期に大量の雨が降る。
その雨水を溜め生活用水として使っていた。
当時のチッタウルガルはデリーのような大都市で、多い時には城砦内に35000人もの人が住んでいた。
巨大な岩山と高い壁、さらに水があるため都市機能まで備えていたチッタウルガル、まさに難攻不落の要塞都市だ。
一方この城砦は悲劇の城としてインドの人々に語り継がれている。
1303年メワール国王の首都チッタウルガルはイスラム勢力による包囲攻撃を受ける。
イスラム軍が攻めてきた目的、それはクレオパトラにも例えられた絶世の美女、王妃パドミニだったと言われている。
チッタウルガルを攻めたのは北インドを支配していたデリー・スルタン朝の王アラウディン、自らの第二のアレクサンドロス大王と称すほどの勇猛果敢な王。
そのアラウディンがインド中で評判の美女パドミニをわがものにしようとチッタウルガルに攻め込んできた。
ところがあまりに屈強な城砦を前に攻略は失敗、そこでアラウディンはパドミニの夫であるメワール国王にこう切り出した。
「パドミニを一目拝ませてくれ、そうすれば諦めて立ち去ろう。」
この申し出は聞き入れられ、パドミニはアラウディンに姿を見せることとなる。
この時パトミニがアラウディンに姿を見せた場所が今も残る貯水池の中に浮かぶ小さな宮殿、パドミニ宮殿と呼ばれる3階建ての白亜の宮殿。
その日パドミニはこの宮殿にやってきた。
伝説によるとアラウディンはメワール国王に呼ばれ、貯水池の水面に映るパドミニの姿を見せられたという。
すると「パドミニは私のものだ・・・」
アラウディンは諦めるどころか、パドミニを奪うため圧倒的な兵力で猛攻をしかけ、国王を含む城を男たちを皆戦死させてしまった。
パドミニをはじめ城に残された女性たちは、あまりにも悲しい決断をする。
抵抗が無駄としるや、女性たちは正装し城の一角へと集まった。
そして自ら火を放ち、次々日の中へと自ら火の中へ身を投げ殉死していった。
こうしてチッタウルガル城砦は陥落、イスラム軍の手に渡った。
その後ラージプート族は2度チッタウルガルを取り返すも、1567年3度目のイスラム軍による攻撃の際、ついに当時のメワール国王ウダイシンはチッタウルガルを捨てることを決断、新たな場所へ移り住んだ。
その場所が湖の町ウダイプル、ウダイプルとは、ウダイの町という意味で新なメワール国王の首都となった。
チッタウルガルに残ったイスラム軍は数年で引き上げ、城砦はその後廃墟と化した。
今でもチッタウルガルの町を歩くと至る所で目に付く名前がある。
そう、パドミニ。
インド全国でパドミニは今も愛されている。
死をもって夫への忠誠を貫き、チッタウルガルのためにその尊い命を捧げたパドミニをみんな尊敬しているのだ。
メワール王国はその後20世紀半ばのインド共和国発足まで独立を守り通した。
メワールの王は指導力の高さから、マハラジャではなく、マハラーナ(武王)と呼ばれ、あるものを馬につけていた。
それは象の鼻、自らの力を誇示するため、力の象徴である象の鼻を戦闘の際に馬につけていたという。
Entry No.3 ローマ帝国のシンボル コロッセオ
第1の扉 人類史上最大級の建築を生んだ最先端技術とは?
2000年近くローマのシンボルとしてそびえ続けるコロッセオ、5万人もの収容人数を誇るスケールと現代のスタジアムに勝るとも劣らない仕掛けの数々。
中でも驚くべき仕掛けが水で満たされたアリーナに大型の船を浮かべ戦闘を交える模擬海戦だった。
果たしてそんなことは可能だったのか。
その水はどこから来たのか。
当時ローマの町に張り巡らされた水道網の総延長はおよそ350km、ローマ人の生活を支えた驚愕すべき水利技術とは?
第2の扉 なぜローマ帝国はコロッセオと共に栄え滅亡したのか。
スタンドに木霊した5万人の歓声、自らグラディエーター剣闘士としてアリーナに立った史上最強の皇帝、その熱狂が最高潮に達したときローマは崩壊の兆しを見せ始める。
殺戮ショーというエンターテイメントに酔いしれ、誰もが永遠だと信じた帝国の繁栄、しかしローマは永遠の帝国になりえなかった。
1000年の都とうたわれたローマを繫栄させ、滅亡へ追い込んだものとはいったい何だったのか?
イタリアの首都にしてヨーロッパを代表する国際都市ローマ、街中には今なお発掘中の遺跡や大帝国ローマの栄華を忍ばせる荘厳な大理石造りの建物が残る。
ローマ市内、NERONEという名のピザ屋、ネローネとはあの悪名高き皇帝ネロのこと。
「ネロ」という名のピッツァ、気性の荒い火のような皇帝をイメージして、辛いサラミソーセージ入り。
コロッセオという名前も、その場所にネロの巨象コロッサスが立っていたことから、コロッセオと呼ばれるようになった。
コロッセオを建設したのはネロの跡を引き継いだ皇帝ウェスパシアヌス、貧しい人々のパンの材料小麦を与え、同時にただで娯楽を提供する、ローマ皇帝の基本的な統治政策パンとサーカスを確立するためだった。
紀元80年、日本がまだ弥生時代と呼ばれていたころに誕生したコロッセオ、一体なぜこれほどの建築が2000年も前に可能だったのか。
コロッセオは周囲527mの楕円形、外壁の高さはおよそ50m、外観最大の特徴は3層からなるアーチの壁面。
コロッセオの外に並ぶ不思議な石は、アリーナに幌を張るためのロープを止める石、数百人の海兵がコロッセオの外壁をよじ登り、天井に巨大な幌を張ったという。
つまりコロッセオは、雨や強い日差しを避けることのできる全天候型スタジアムだったのだ。
絵の中に描かれたコロッセオ、水で満たされたアリーナに大型の船が何艘も浮かんでいる。
コロッセオでは敵味方に分かれた船が戦闘を交える海戦が行われていた。
2000年前、巨大なコロッセオに満々と水を湛えることがどうしてできたのか。
その答えはローマの町に張り巡らされた水道にあった。
豊富な水は数十キロも離れた水源から水道橋を通ってもたらされた。
ローマの人口が100万人に達したころ、合計11本の水道が建設され、1日当たり110万㎥を超える水が供給されていた。
その水道網のおかげで発達したのが公共浴場。
ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』で知られる漫画家に当時の公共浴場について聞く
「ローマが経済的に最も潤っていた時期はトラヤヌス(第13代ローマ皇帝)の時、全部で1000個の公共浴場があった。
しかし古代ローマが衰亡してなくなる寸前と時には3000個あったと言われている。
それぐらい古代ローマの人にとって公共浴場は大事なものだった。
画期的な浴場施設という形でお湯につかれたりとか、冷水浴ができたりというものを軌道にのせていたのはネロ。
ネロは審美眼が鋭く繊細で、ギリシャ文化に傾倒していた。
ギリシャ人に培われた肉体美、人間というものの調和性を彼は大事にしていたので、ジムを併設した風呂を造ったりとか、一大総合レジャー施設のようになり、図書館、学校、歓楽施設すべてがそこの中にあった。」
ローマ人の生活を支えた驚嘆すべき水利技術とは?
「紀元前312年に最初の水道、アッピア水道が完成。
それから全盛期に至るまでの226の最後の水道に至るまで11本の大きなメインの水道があってそのうちの2本は現役。
未だにローマの家庭に引かれている水はローマ水道を通っている。
もっと凄いのが彼の水道の技術、水道橋は重力を利用しないといけないので傾斜をもたせないといけない。
1kmにつき35cmぐらいの傾斜。
水がなければお風呂文化も活性化していかなかった。」
最近2世紀のローマの沈没船から発見された鉛製のポンプ、水を利用するあることに使われた。
魚を生きたまま輸送するための水槽用ポンプ、ローマ人は水を使って活魚の輸送までやっていたと考えられる。
ローマ人は食道楽だった。
大プリニウスの『博物誌』によれば紀元前1世紀にセルギウス・オラタがナポリ湾で牡蠣の養殖を行っていた。
イギリスまでローマ帝国が行ったのは牡蠣の漁場を探すためだった。
牡蠣の名産地を抑えながらノルマンディーなどに行った。
アッピキウス、裕福な貴族階級出身でローマ時代の美食家として知られる。
あらゆる食材に精通しており世界最古のレシピ集を残した。
フラミンゴの舌からラクダのコブなど、食べると長生きするとか、美味しいものを財産をつぎこんで集めた。
日本円にして32億円の財産が残っていながら酷い飢えで死ぬのを恐れて服毒自殺した人もいた。
第2の扉 コロッセオが消えた背景にはいったいなにがあったのか
古代ローマ最大の英雄カエサルは民衆の支持を得るためにパン(食料)とサーカス(娯楽)という人心掌握術を生み出した。
サーカス、つまりエンターテイメントの殿堂こそ人類史上最高傑作の円形闘技場コロッセオだった。
果てしない血を浴びながらローマ帝国になくてはならないシンボルとなる。
やがて史上最強のグラディエーター剣闘士がローマを熱狂の渦に巻きこんだ。
しかしローマ市民にとって不幸だったのは、その男がローマ帝国を統治する皇帝だったこと。
ローマ帝国最強にして最悪、暴虐帝とまで呼ばれる第17代ローマ皇帝コンモドゥスの時代、大帝国ローマは栄華の頂点を極め転落への道を歩み始める。
ローマのほぼど真ん中に位置するコロッセオ、一体なぜローマの中心に建っているのか。
紀元54年16歳で第5代ローマ皇帝として即位したネロとはどんな人物だったのか。
ヤマザキマリ「政治家だったり皇帝という役割、技能というよりは彼の頭の中には自分は芸術家であるという認識のほうが強かったのかもしれない。
主に音楽が好きだった。
また喜劇や悲劇を見るだけでなく自分でも演じ、みんなに見せていた。
第9代ウェスパシアヌス、後にコロシアムを建てた良い皇帝とされている人は無理やり呼び出され、聞かされて眠ってしまってつまみ出されたエピソードがある。
彼だけでなくいろんな人が、閉じてる瞼に目をかくような気持ち、怖く、そこにいたと思う。」
自らエンターテイナーとなり、あらゆる欲望を思いのままに叶えようとしたネロは、雑然とローマの街並みを大改造し、その中心に黄金宮殿を建設しようともくろんでいた。
紀元64年ローマ大火が発生、市内は火の海となった。
黄金宮殿を建てたくて史上最大の大火事を起こしたのはネロではないかと言われている。
人々はネロがローマの町に放火したと噂した。
腹をたてたネロは犯人をでっち上げた。
犠牲になったのは信者が増え続けていたキリスト教徒たちだった。
ネロはキリスト教徒たちに放火の罪をきせ、1日に何百人もの命を奪った。
ある者は野獣の毛皮を着せ、猛獣の餌食にし、ある者は十字架に磔にし、処刑そのものを見せ物にした。
ここにローマ帝国によるキリスト教徒迫害の歴史が始まる。
贅の限りをつくした黄金宮殿で、国政も顧みず自らの歌を披露するために舞台に立ち続けるネロ。
正そうとする部下や近親者を殺害、ついに反乱軍が全国で立ち上がった。
最後にローマ脱出を試みたネロだったが、彼に従う者はわずか4人の奴隷だけ。
追い詰められたネロは命を絶つ寸前、こう叫んだという。
「この世から卓越した芸術家が消えていくのだ。」
史上最悪の暴君は消えたが、ローマ市民の政治への信頼は地に落ちた。
そんな中皇帝として立ったのがネロに劇場からつまみ出された将軍ウェスパシアヌスだった。
彼は離れた人心を取り戻すため、黄金宮殿の跡地に巨大なコロッセオを築いた。
壮大なエンターテイメントの殿堂コロッセオによってローマは再び活気を取り戻した。
しかしローマ市民以外の虐げられ、貧しさにあえぐ人々はキリスト教に救いを求めた。
支配する側とされる側、物質的な豊かさを求める者、精神の安らぎを求める者、その対立が深まる時、ローマ帝国は崩壊の兆しを見せ始める。
やがてコロッセオにローマ帝国市場最強の剣闘士が登場する。
自らをギリシャ神話の英雄ヘラクレスに例え猛獣の毛皮を身にまとい、棍棒を手にするコンモドゥス、第17代ローマ皇帝である。
歴代皇帝の中でもコロッセオで検討しとして戦ったのはコンモドゥスただ1人であった。
たった1人で百頭のクマを殺し、ある時は皇帝の観覧席から直接アリーナに降りてゆき、自分に向かってくる猛獣を残らず切り倒した。
大帝国ローマはこれを境に転落の道を歩み始める。
それからおよそ100年後、コロッセオにピリオドをうつ男が登場する。
ローマ市の支配権をめぐる戦いで苦戦を強いられていたコンスタンティヌスは、ある日太陽が西に傾きかけたころ、天空に輝く十字架を見た。
そして空から不思議な声を聞く。
「汝 これにて勝て」
一体これは何を意味するのか。
その夜コンスタンティヌスの夢にキリストが現れた。
「軍旗に十字架をつけよ」
キリストの言葉に従い、軍旗に十字架をつけたコンスタンティヌスは戦いに勝利、内乱を鎮めた。
そして312年ローマ帝国の皇帝として初めて、今まで迫害の対象だったキリスト教を公認したのである。
さらにローマ的なるものを次々と葬り去り、コロッセオでの野蛮な行為を禁止、200年以上続いてきたコロッセオの火を消した。
コロッセオがある限りローマは続く
コロッセオが滅びるとき ローマも滅びる
コロッセオを造ったウェスパシアヌスは、ローマ帝国のために身を粉にして働き、安定した政府と健全な財政を築き上げた。
そして69歳の時、ついに崩れ落ちるようにして倒れ、そのまま息を引き取る。
その時ウェスパシアヌスが残した最後の言葉とは・・・
「皇帝は立って死ぬべきだ」
]]>あなたは友人とコーヒーを飲みながらたわいもないおしゃべりをしている。
突然あなたはなんとも不思議な感覚に支配される。
この光景はどこかで見たことがあると・・・
そうではないとわかっていても過去の出来事を細かい部分まで追体験しているような錯覚を覚える。
誰でも一度は経験したことがあるだろう、デジャブ・・・
ローレンシア大学神経解剖学者マイケル・パーシンガー博士によると、デジャブは脳の2つの重要な領域で起きる軽い発作が原因だという。
「耳の上にある右と左の側頭葉、記憶と意味をつかさどる領域。」
雷が落ちるように軽い発作が記憶をつかさどる側頭葉に作用するという。
「人間の脳は特に夢を見ている時に軽い発作を起こすことが分かっている。
睡眠中の脳を調べてみると電気的な活動が見られる。
デジャブも同じ。」
博士によると、研究室でデジャブの感覚を再現することができるという。
右の側頭葉を刺激すると、脳に変化が起きる。
この時デジャブと同じ感覚が得られる。
デジャブのルーツは古代にあり、地球の物語のある重要な時期と不思議な接点を持っていた。
200万年前、私たちの祖先は氷河期の中もがき苦しんでいた。
地球の気候は急激に変化し、突然の干ばつや山火事に見舞われた。
不安点な気候を生き抜くため、人間には新たな生きる術が必要だった。
そして人間の脳は急激な進化を遂げ、3倍の大きさにまで成長したのである。
もっとも急速に発達した脳の部位を新皮質という。
側頭葉も新皮質の一部。
メーカーが新しいCSの市場投入を急ぎすぎて大量のバグを発生させてしまうように、脳の急速な発達によってデジャブという歪が生じたのだ。
一般的にデジャブの原因となる発作は危険なものではない。
だが稀なケースとしてこうした進化の歪が制御不能に陥り、時にテンカンの症状を引き起こす場合もある。
その稀なケースがダイアンに起きた。
「その時母と車に乗っていた。発作を起こした瞬間は覚えていないが、我に返ると頭痛がひどくて、何がどうなっているのか全く状況がつかめなくて、トラックにぶつかるみたいな感覚で・・・
症状は次第に悪化していった。回数もどんどん増え、最終的には週に5回も発作が起きた。」
テンカンの発作が起きる前には、必ず強いデジャブの感覚があったという。
「見たことのある場面が出てきたり、次に何が起きるか分かったりするのだ。
まるで自分の中で何かおかしなことが起きているのを知らせてくれるみたいに。
脳の中で何かが爆発しているような感覚。」
症状が悪化してきたことで、ダイアンは手術を受けることに。
検査の結果発作は脳のある一部で起きていることが判明した。
切除されたのは右の側頭葉の一部だった。
手術後発作は出なくなり、デジャブも消えた。
ダイアンのような極端なケースから私たちが体験するデジャブまで、私たちの心に埋め込まれた痕跡は、ある時代へとつながっていた。
それはより大きな脳の持ち主として地球が人間を選んだ時代。
ダイアンの事例は地球が私たちの心を急速に進化させていったことを如実に物語っている。
そして心の進化の痕跡は別の形でも残っている。
地球は人間にデジャブというひずみを残す一方、電光石火の判断という能力も与えた。
その能力は日々の生活に役立てられている。
クオーターバックがボールをどこに投げるかを判断する時間は、わずか3.5秒だということが調査の結果わかっている。
本能に基づいて行動しているのは、私たちも同じである。
瞬間的な判断が求められること、例えば車の運転中は瞬時に判断している。
私たちは考えたうえで行動していると思いがちだが、実際には私たちの行動のほとんどは、無意識に本能に従ったもの。
その本能はどこから来たのだろうか?
人間が何をどう考えるかは進化の歴史によって決まっている。
●HOW THE EARTH●Shaped Our Instincts なぜ人に本能が備わったのか
心理学者のフレッド・クーリッジ博士によると、人が判断する仕組みを作ったのは地球だという。
ルーレットに招かれた3人の被験者がどのように判断するのか。
運しだいのルーレットで人はどのようにかける数字を決めるのだろうか。
「賭けに興じている人は、合理的でないのはわかっている、根拠は特にない、なんとなくそんな気がする、そう口々に言う。
心理学者は彼らのそういう心理に注目する。」
1人の女性がチップを8番に置いた。
そしてその後も8番に賭け続けた。くる確率は低いと分かっているのに。
確立はわずか38分の1、しかし彼女は自分の直観を信じた。
女性「根拠なんてない、全て運だから。自分と他人の運は同じでしょ。
だけど8番がすごく気になったの。
だからその直観に従ったわ。8番にオーラが見えた気がしたの。
念というのか、それとも気合なのかな、うまく言えないけど見続けてたら来るような気がする。
当たらなかったのは念が足りなかったからだ。
玉から目を離さずに集中して自分の賭けた番号に来るよう、もっと強く念じることができたのに。」
彼女は物理的な手立てはないことはわかっていて、それでも精神的な方法は有効だと思っていた。
ベテランのギャンブラーは合理的な勝ちパターンを編み出すかもしれない。
だが私たちの脳は不合理な本能に支配されていることがこの実験で明らかになった。
いわゆる直観というのは比較的古い脳の奥の構造によって呼び覚まされる感情的な反応のこと。
この反応を例えるとしたら、何百年も前にインストールされたコンピューターのハードウェアみたいなもの。
こうした直観はなぜ人間に備わっているのだろうか。
100万年前、脳の成長に伴い人は慎重かつ合理的に考える能力を身につけた。
だが突発的な危険はなくならない。
地球自体が生きてゆくには危険で厳しい環境だった。
安全と管理が行き届いた現在とは違い、祖先たちは今の私たちよりはるかに弱い存在で、火山の噴火や雷などの災害で死んでしまってもおかしくない環境にいた。
こうした脅威に常に対処しなければならない状況だった。
突然の災害という脅威にさらされ続けた時代に、現代のように考える時間が常にあるとは限らない。
そうした中で従うべきは原始的な本能だった。
虫が光に吸い寄せられるように、ねずみが猫の臭いを嗅ぎ分けられるように・・
動物としての本能が私たち人間に根付いている。
そんな人間の本能の中でも極めて強力なものあがある。
●HOW THE EARTH●Gave Us Disgust なぜ人は不快と感じるのか
レストランでの食事中目の前に座っている友人が額の汗をふきとる、肌をかきむしる、食べかすを指でとる、鼻をかむ、その光景を見たあなたは、つい顔をそらし、目を細め、口をすぼめ、体を遠ざけようとする。
科学者の調査によると、人間の最も強力な本能は、不快感であるという。
人は特定のことに拒絶反応を示す。
理屈抜きの感情、不快と感じるときどう反応するかは、世界各国違いは無い。
顔にも共通する表情が現れる。
それはこういう表情で、体をひく。
ギャバン・フィッシモンズ教授によると、不快感の表情には一定のパターンが存在するという。
オレンジジュースにさっき消毒したあるものを浸す・・・
この状態のオレンジジュース飲めるかな?
鼻にしわがよって、上唇が上がる、目を瞬く場合もある。
身体を遠ざけ手で口を覆う、こうしたとっさの反応で感染源となりうるものから自分の目と口を物理的に遠ざけている。
つまり無意識のうちに自らの身を守っているのだ。
消毒したゴキブリはスーパーの果物などより安全と言っても無駄なのである。
不快感ははるか昔から存在する根源的な感情であることがわかった。
人類の歴史を通して、私たちの祖先が生きていくうえで大きなネックとなってきたものの1つが病気。
人類の歴史の中で突然変異や進化する病原菌は、火山の噴火や地震、肉食動物よりはるかに大きな脅威であった。
病気が死に直結する時代、時に不快と感じ、時に逃げることで、病原菌と戦ってきたのだ。
あの何気ない反応は、かつて病原菌から身を守る術だった。
19世紀半ばにルイ・パストゥールが病原菌を発見する前に、私たちは心が進化する過程で無意識のうちに感染を避けるようになっていたのだ。
この本能はあまりに強く、時に制御不能に陥る。
人は本能に支配されてしまう場合がある。
例えば1日に何百回と手を洗う人がいるが、これは強迫性障害といって本人たちも意味がないとわかっている。
やめたいと思い困っているがやめられない。
激動の地球の歴史は、はるか昔およそ45億年前に始まった。
そしてその歴史は今を生きる私たちにも不思議な方法で影響を与え続けている。
例えば性に関する不可解な統計がある。
世界中の出生記録を調べたところ、地震発生直後の数日間で出生率が跳ね上がっていることが明らかになった。
自然災害と出産には大きなかかわりがあるようだ。
もう1つ明らかになったことがある。
災害からちょうど9か月後に出生率が再び跳ね上がるという事実だ。
災害は出産を促すだけでなく、無意識のうちに人間に生の営みを働きかけている。
災害は人類の生存を常に脅かす存在だった。
私たち人間の特徴をたどってゆくとすべて巨大地震や津波、大規模噴火といった出来事に行き着く。
人間は自然の力の前では無力。
●HOW THE EARTH●Rewrote Our DNA なぜDNAは書き換えられたのか
科学者世界中の人々の遺伝子を調査した結果、驚くべき事実が判明した。
この世に生きている人は皆7万年前のおそらく数千人規模の非常に小さな集団の子孫であることが分かった。
7万年前というのは、ちょうどインドネシアのトバ火山が突然噴火した時代と一致する。
7万4千年前、後に世界を混乱に陥らせた史上最悪の災害がインドネシアのスマトラ島で今にも起きようとしていた。
トバ火山の地下から2500㎦のマグマが噴出したのだ。
大噴火というと1980年のセントヘレンズ山を思い出す人もいるかもしれないが、トバ火山の噴火はその何千倍の規模。
噴火の影響でその年の冬は相当厳しいものだったはず。
噴火によって地殻変動が起き、空は暗くなり、氷のような寒さが6年間続いて、人類は絶滅の危機に陥た。
この大噴火により、人間の数はわずか数千人にまで減少、これは現代の劇場を満席にすることもできない人数。
私たちはみな、トバ火山の大噴火の幸運な生き残りの子孫なのだ。
この噴火の痕跡は、現代に生きる私たちの体に刻まれている。
その証拠を握るのがDNA。
多様に見える人間だが、DNAの配列は99.9%以上一致しているという。
これは動物としては異例で、ハエですら人間より10倍遺伝的多様性を持っている。
この人間の驚異的な類似性は、トバ火山の集団消滅によって、必然的にもたらされたと考えられている。
私たちの目の色、骨の形、そして心のメカニズム・・・
わずかな手がかりが、私たちを作り上げた意外な地球の姿を浮き彫りにする。
そしてそうした人間の体や心に隠された手がかりを広い集めた今、地球の歴史の全貌が明らかになる。
全ての手掛かりから浮かびあがる真の物語だ。
206本の骨、640個の筋肉、膨大な数の細胞、人間の体は私たちを取り巻く地球の創造物だ。
私たちの体の内部には、地球の歴史を解明する仮想マップが埋め込まれている。
はたしてつじつまは合うのか、手がかりをつなぎ合わせ、地球規模の変化、そして想像をはるかに超える混乱にまつわる壮大な物語を今から解き明かしてゆこう。
●HOW THE EARTH MADE MAN●人体から学ぶ地球の歴史
今からおよそ45億年前、燃え盛る大量の溶岩の塊としてこの世に生まれた地球は、生命が宿るような環境ではなかった。
しかし10億年物月日で地球の温度は下がり、やがて表面に水の塊が現れ、最初の単細胞生物が住み着いた。
それから30億年、地球はすさまじい変化の嵐を耐え抜き、生命は顕微鏡を使わない大きさのままだ。
5億年以上前、大気中の酸素が増加したことで、より高等な生物が住む環境が整う。
この時人間を含めたすべての動物の基本構造ができあがる。
3億7000万年前、古代魚に手足が生え、陸上へと這い上がる。
これが人の体を動かす腕の仕組みの原型となる。
2億5千万年前、トカゲに似た生き物が史上最大の大量絶滅を生き延びる。
その顎の一部が私たちの耳の骨へと進化、優れた聴覚が備わった。
6500万年前、ねずみに似た哺乳類へと進化した私たちは、小惑星の衝突という大惨事を生き延びる。
この時の体毛、爪、鳥肌が、後世に受け継がれる。
私たちは哺乳類から霊長類へとさらに進化を遂げる。
だが、地球による人間の創造はまだ終わっていない。
数百万年にわたるアフリカ大陸の変化が私たちを類人猿から人へと変化させる。
二足歩行で歩き、走る能力、投げる能力、狩りの能力を手に入れる。
この時の肉食動物への恐れ、本能が私たちの心に刻み込まれた。
260万円前、氷河期という試練の中、人の脳は3倍の大きさへと成長、合理的に考える能力が備わる一方、デジャブといった歪が残された。
環境の変化という困難が、直観に従い深いと感じる能力を私たちに授ける。
25万年前、私たちの体はさらなる進化を遂げる。
15万年前、アフリカの大地を離れ、人間は世界へと散らばる。
74000年前、火山の大噴火により、私たちは絶滅の危機にさらされる。
その痕跡は遺伝子の類似性として今に残る。
そして古代シュメールを皮切りに、エジプト、ギリシャ、ローマ、中世ヨーロッパ、アメリカ、そして現代へと続くありとあらゆる文明が、わずか1万年の間についに花開く。
人間の文明は本に記され、それ以前の歴史は全て私たちの体に刻まれている。
この物語には続きがある。
今の私たちを作り上げた地球の変化はまだ終わっていない。
将来大陸はまた1つの超大陸になる。
大陸を隔てている大西洋は広がってゆき、やがて狭くなり長い時間をかけてさらに狭くなり、最終的に北米とヨーロッパ、アフリカが再び1つになる。
そうなる前に、新たな小惑星の衝突、あるいは火山の大噴火によって、私たちはさらい進化を遂げるかもしれないし、絶滅するかもしれない。
確かなことはただ1つ、地球や私たちの未来は予測不可能ということだ。
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