ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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古事記の世界2

和銅5年(712年)神官・太安万侶が申し上げる。
かつて天武天皇はおおせになりました。
「諸家に伝わっている歴史や言い伝えは誠とは異なり、多くの偽りが加えられている。
ゆえに正しい歴史を選び、言い伝えを調べ、偽りを削り、誠を定めてのちの世に伝えようと思う。
そこで天皇はおそばに使える稗田阿礼に命じて、歴史と言い伝えを読み習わせた。
しかし天皇がお隠れになり、時は移りいまだその事業は成就しておりません。
安万侶はキンジョウ陛下の詔に従い、稗田阿礼が読むところの歴史と言い伝えをとり記し、献上いたします。

第1話「国生み」のあらすじ
天と地が初めて起こった時、高天原に神々がなった。
アマツカミの命を受け、伊邪那岐命と伊邪那美命は、アメノヌボコで始まりの島・淤能碁呂嶋をおつくりになる。
島に降り立った二柱の神は、天の御柱の周りを廻り、言葉を交わされた。
「ああなんて素敵な乙女なんだ。」
「まあなんて素敵な殿方何でしょう。
そして二柱の神は契りを交わされ、国土となる島々をお生みになった。
さらに自然や人々の暮らしにまつわる多くの神々を生んでいった。
しかし伊邪那美命は火の神をお生みになったことで火傷を負い、亡くなってしまった。
伊邪那美命を比婆之山に葬った伊邪那岐命は火の神をお斬りになった。
そして今一度伊邪那美命に会いたいと黄泉の国へ向かわれたのだった。

第二話「黄泉の国」〜日本人の死生観に迫る〜
「イザナミ〜、イザナミよ」

「愛する我がミコトよ、私とそなたで作った国はまだ作り終えていない。
ここから一緒に帰らぬか。」
「ああ悔しいこと、もっと早く来てくださっていれば。
私はもう、黄泉の国のカマドで炊いた食べ物を口にし、この世界の住人になってしまいました。
もう戻ることはできません。
でもいとしいミコト様がわざわざお出でくださったのだから、何とかして帰りたい。
黄泉の神と相談してみましょう。
その間決して私の姿を見ないでください。」

しかしいくら待っても伊邪那美命は戻られなかった。
「遅い、一体どうしたのだ。もう我慢できぬ。」

伊邪那美命の体には蛆がたかり、雷の神が現れていた。
「うわ〜!」
「よくも私に恥をかかせましたね。
者共、ミコトを追うのだ。」
伊邪那岐命が黒いカヅナの髪飾りを投げ捨てると、たちまち山ブドウの実がなった。
黄泉の国の追手は夢中になって山ブドウを食べ始めた。
次にツマブシの刃を折って投げ捨てると、たちまちタケノコが生えてきた。
追手はまた夢中になってタケノコを食べ始めた。

「雷神どもよ、1500の兵を率いて追うのだ。」
黄泉比良坂にて、伊邪那岐命が桃の実を3つ取って投げつけると、黄泉の国の軍勢はことごとく逃げ去った。

「桃の実よ、お前が私を助けてくれたように、うつしき青人草が、悩み苦しんでいる時に助けてやってくれ。
お前には意富加牟豆美命の名を授けよう。」
そしてついに伊邪那美命は自ら伊邪那岐命を追ってきた。

「よいかもはや私たちは夫婦ではない。
そなたは黄泉の国へ帰ってくれ。」
「いとしい我がミコト、あなたがそのようなことをするのならば、あなたの国の人々を1日に1000人殺しましょう。」
「いとしい我がミコトよ、そなたがそのようなことをするのならば、私は1日に1500の産屋を建てよう。
こうして人は1日に1000人が死に、1500人が生れることになった。
黄泉の国へ戻った伊邪那美命は黄泉津大神と呼ばれた。
黄泉比良坂をふさいだ巨大な千引の岩は、道反之大神(ちかへし)と名付けられた。

『古事記』
其の石(いは)を中に置き 各対(おのもおのもむか)ひ立ち而 事戸度す(わたす)時
伊邪那美命言(まを)さく 愛(うつく)しき我が那勢命 如此為者(かくせば)
汝(いまし)の国之人草 一日(ひとひ)に千頭絞(ちかしらくび)り殺さむとまをす
しかして伊邪那岐命のらさく 愛しき我が那迩妹命
汝然為者(いまししかせば) 吾一日(あれひとひ)に 千五百産屋を立てむとのらす


横穴式の古墳には玄室につながる羨道がある。
生きている人たちは羨道を通ってしばしば死者の肉体が変化してゆく様子を見ていたらしい。
古代人は死者を穢れとして見ていなかった。
その当時殯(もがり)といい、通夜が長かった。(長いと2年間)
医療が発達していない時代、死んだと思っていても実は仮死状態で息を吹き返したことがたまにあると、諦めるまでにあらゆることをしたのだろう。
その間が殯であり、でもどんどん腐ってゆく。
どこかで死者と区切りをつけようという思いが色々な葬送儀礼に含まれているのだろう。

初めて人間が登場するシーン・・・
尒して伊邪那岐命 桃子に告らさく 汝(なれ)吾(あれ)を助けしが如く
葦原中国(あしはらのなかつくに)於有ら所る
宇都志伎青人草之 苦しき瀬に落ち而 患へ偬む時 助く可し

うつしき青人草とは現実の青々として人である草、人間は草である、草と同じように生えてきた。
生れて芽吹いて花が咲いて実がなって、枯れて・・・その循環がとても大事だったのだろう。
旧約聖書では、人間は神が作った土人形に神の息を吹き込んで生まれた、アダムが生れた、となっている。
「人は草である」という発想は湿潤な日本の気候に合っていたといえる。

神話の舞台として名高い出雲、この地に黄泉の国への入り口と信じられている場所がある。
日本海に面した小さな漁村にある猪目洞窟、人1人がようやく入れるほどの洞窟の先には深い闇が広がっている。
一体どのくらいの深さがあるのか、まだわかっていない。
縄文時代の人骨が多数発見されたというこの洞窟、夢でこの洞窟を訪れると、必ず死ぬという古い言い伝えが残されている。
猪目洞窟の50kmほど先には古事記にその名が伝わる伊賦夜坂がある。
其の謂はゆる黄泉比良坂者 今に出雲国之伊賦夜坂と謂ふ
黄泉比良坂・・・現世と黄泉の国とをつなぐ生と死の境目の地。
死後の姿を見てしまったことから、妻の怒りをかった伊邪那岐命、黄泉の大群に追われながら、この坂を走った。
坂の終わりに現れたのは、道をふさぐように置かれた巨石、重さ5トンはあろうかというこの巨石の名は千引の石。
伊邪那岐命が黄泉比良坂をふさぐために置いた岩であると伝えられている。

夫婦の神は、この岩を境に言葉を交わし、永遠に別れることとなった。
伊賦夜坂の近くには1300年以上の歴史を持つ揖屋神社がある。
ここに伊邪那美命が祀られている。
この神社では年に1度本殿に祀る伊邪那美命を、ある場所へとお連れする祭がある。
400年以上前から土地に伝わる一つ石神幸祭、御神体を神輿に乗せ、船で向かう先とは・・・
それは神社から2kmほど離れた湖沿いにある。
ここで年に1度悲しい別れをしたイザナミとイザナキが会うという言い伝えがある。
この場所が逢引の場所。

潮が引いたときにだけ姿を現す一つ石と呼ばれる50cmほどの石、土地の人々はこの石を依代とする漁業の神に、伊邪那美命と共に、豊漁を祈願してきたという。
それがいつしか人々はこう信じるようになる。
祭の日、この一つ石に夫の伊邪那岐命が降臨し、夫婦の神がこの場所で再開を果たすのだと。
この地で離れ離れとなった夫婦の神、しかし土地の人々の思いが、新たな再会の物語を作り出したのだ。

なぜ物語の舞台の出雲が選ばれたのか・・・
今までは西は暗い死の世界につながると説明されていた。
最近様々な発掘があり、出雲から大量の銅・青銅製品、鉄器が出土した。
出雲には大きな勢力があったのではないか、と言われている。

愛する人を死者の国から連れ戻そうとする話はギリシャ神話にも登場する。
竪琴の名手オルフェウスは、毒蛇にかまれて死んだ妻エウリュディケを追って冥界に行く。
そして冥界の王ハデスに、得意の竪琴で、妻を返してくれるよう頼む。
悲しい琴の音色に心動かされたハデスは、冥界から出るまでは決して後ろを振り向いてはならないという条件をつけてエウリュディケを返す。
しかし冥界からあと少しで抜け出すというところで、不安にかられたオルフェウスは、後ろを振り向いて妻の姿を見てしまう。
それが2人の最後の別れとなった。

見てはいけないと言われると、ちょっと覗いてみたくなる。
物語の世界を見ると、「覗く」とは「真実が見える」ということ。
普通に見ても出ているのは表面だけ、壁・窓の隙間から中を覗くと本当の世界が見えると物語は展開してゆく。
似た話はあちこちにあるが、それが伝播したものなのか、自然発生的にそれぞれの土地に出たものなのか・・・
日本人のルーツは南方系民族と北方系民族が混じり合っている。
この話も中央アジアを通って入ってきた神話の1つだったのかもしれない。

ひどく汚らわしい国へ行ってきてしまったものだ。
早く禊をし、この体の穢れを清めなければ。
イザナキの大神は、筑紫の国ヒムカのタチバナのオドの阿波岐原にお着きになると、禊を始めるため身に着けていたものをお外しになった。
この時投げ捨てた杖から悪霊を祓う神、帯から道中の安全を守る神、袋から時を量る神、上着から煩いを逃れる神、冠から口を開けて穢れを食う神がなった。
手首に着けていた腕輪からは海辺の神々がなった。
水で体をすすぐことによって、また多くの神々がなった。
汚れた垢から現れた禍いの神々、その禍を防ぐ神々、海の神々である。
そして顔をすすぎ、左の目を洗った時、天照大神がなった。
次に右目を洗うと月読命がなった。
最後に鼻を洗うと建速須佐之男命がなった。
「私はたくさんの神々を生んだが、最後に三柱の尊い子を得た。
そなたは高天原を治めよ、そなたは夜の国を治めよ、そなたは海原を治めよ。」

こうして伊邪那岐命のおおせに従い、皆委ねられた国を治めていたが、須佐之男命だけは己の国を治めず、あごひげが伸びて胸より長く垂れるようになっても泣きわめいていた。
そのため山々は枯れ果て、川や海はことごとく干上がった。
悪しき神々の声が辺りに満ち、禍が起こった。
見かねた伊邪那岐命が姿を現した。
「なにゆえそなたは委ねられた国を治めずに泣きわめいているのか。」
「私は母の国である根之堅洲国へ参りたいのです。
ですから泣いているのです。」
「そのようなことではこの国に住むことはできぬ。」
こうして須佐之男命は追放されてしまった。
こうなったからには高天原にいる姉の天照大神に事の次第を申し上げ、それから根之堅洲の国へ参るとしよう。
須佐之男命が天へと昇って行く時、山川はことごとく揺れ動き、国土はみな震えた。

「我が弟のミコトが昇りくる訳は、必ず良い心からではないだろう。
我が国を奪おうと思っているに違いない。
天照大神は、髪をといて男の髪型のミズラに結いなおし、背に千本もの矢が入る靫、肘に威勢のよい高鳴りのする鞆をつけ、弓を振り立て堅い地面にももまで踏み込み、淡雪のように土を蹴散らし、雄々しく踏み勇んで待ち受けた。
はたして天照大神と須佐之男命の対決の行方は・・・?

スサノオノミコトを追放し、国づくりを終えた伊邪那岐命、その御霊が鎮まったとされる場所がある。
淡路に国の一ノ宮、伊弉諾神宮、古くから聖域と崇められてきたこの地が伊邪那岐命の療護であると伝えられている。
神宮で行われる結婚式では、今も伊邪那岐命と伊邪那美命の国生み神話に倣った儀式が執り行われている。

あなにやし いをとめを(なんと素敵な乙女だろう)
あなにやし えをとこを(なんと素敵な殿方だろう)
この言葉は古事記に登場するもの。
天から下った伊邪那岐命と伊邪那美命は天の御柱を回り声をかける。
そして契りを交わし国を生んでゆく。
伊邪那岐命 先づ 阿那迩夜志 愛袁登売袁と言ふ
後に妹伊邪那美命
阿那迩夜志 愛袁登古袁と言ふ
神話が息づく地で新たに夫婦となった2人。
境内にそびえる御神木、夫婦大楠が2人の未来を祝福する。

伊邪那岐命が鎮まった後、古事記の神話は天照大神を中心に進んでゆく。
その天照大神を祀っているのが伊勢神宮。
実は伊弉諾神宮から見て伊勢神宮は、ちょうど真東の方角。
同じ緯度上に位置している。
そしてその中間点には古事記編纂の時代の都、藤原京がある。
つまり都から見て真東に伊勢神宮、真西に伊弉諾神宮を拝む形になる。
都の人々は、東の方角より出る日の出を、天照大神の象徴として拝み、西の方角に沈んでゆく夕日を、国づくりを終えた伊邪那岐命の象徴とし、拝んでいたのかもしれない。
国の礎を築いた伊邪那岐命、今も沈みゆく夕日のように穏やかに日本の行方を見つめている。

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古代最大のミステリー邪馬台国はどこに?
日本古代史最大のミステリー邪馬台国はどこにあったのか?
そもそもの発端は『魏志倭人伝』3世紀の中国で書かれた歴史書。
文字数はおよそ2000、とりわけ邪馬台国への道のりを記したわずか83文字は、所在地をめぐる論争の大きな引き金になってきた。
❝初めて海を渡ること千余里 対馬国に至る
 ❞
これは今も同じ名をもつ対馬のことだと考えられている。
❝南に海を渡り一支国 さらに海を渡り末蘆国❞
ここで九州に上陸し、いくつかの国に立ち寄った様子が受け取れる。
ところがここからの記述が読む者を混乱させる。
❝南に水行二十日・・・水行十日・・・陸行一月・・・邪馬台国に至る・・・女王の都する所なり❞
具体的な距離は明記されていないが、これだけの日数を南に進むと九州のはるか先、何もない海の中にたどりついてしまう。
どう受け止めればよいのか、これがすべての謎の始まりだった。

邪馬台国論争、300年の始まりは江戸時代半ば、忠臣蔵・赤穂浪士の討ち入りと同じ時代。
当時江戸幕府を代表する学者であった新井白石が魏志倭人伝を読み解いたのがきっかけだった。
所在地の謎を解くために白石は方位と距離の記述をあえて無視(『古史通或問』)、記された国名の読み方だけを手掛かりにした。
すると、一支国は壱岐、末蘆国は松浦半島、伊都国は怡国群島、奴国は那珂、不弥國は宇美・・・
魏志倭人伝に記された国名は九州の地名に当てはまっていった。
しかしこの方法でたどりついた邪馬台国は、実に意外な場所、奈良県の大和、近畿説を立ち上げた。
❝邪馬台国と唱えしは 今の大和の国を言いしなり❞(魏志倭人伝)
ところが後年白石はもう1つヤマトという地名を見つけてしまう。
九州、福岡県の山門(やまと)・・・こうして白石はさらに九州説を立ち上げた。
地名に着目した推理の結果、図らずも近畿、九州の2ヶ所にスポットが当てられる。
この2つの説をベースにして、以後300年、様々な人が、様々な推理を繰り広げ、論争の輪を広げてゆく。

明治時代、近代化の時代、論争は学者の間で本格化する。
明治43年、日本の東西2大学、東京大学と京都大学の学者が真っ向衝突した。
❝南に水行十日、陸行一月で邪馬台国に至る❞
ここに書き間違いがあるという対立だ。
東京大学で東洋史学の権威だった白鳥庫吉が注目したのは❝陸行一月❞。
「一月」が「一日」の書き誤りであると推理した。
これを基に九州のなかに邪馬台国を置く。
これに反論したのが以前から白鳥とライバル関係にあった京都大学の内藤湖南。
書き間違いは日数ではなく、南とあった方位が実は東と推理した。
邪馬台国は、瀬戸内海を東へ向かった近畿地方であると。
日数か、方位か・・・たった1文字の誤りをめぐって、学会全体を巻き込む大論争となった。

さらに戦後、邪馬台国は一躍国民的ミステリーへと拡大してゆく。
そのきっかけとなったのは、昭和を代表するミステリー作家・松本清張、邪馬台国を推理小説の題材として、その謎解きの楽しさを広くアピールした。
同じころ邪馬台国探しをテーマにした本が50万部を超える大ベストセラーになった。
著者は宮崎康平、長崎県の郷土史家だった。
盲目の宮崎は妻の和子さんと、九州を実際に歩き、謎に挑んだ。
目の見えない宮崎のために和子さんが作った九州の立体地図↓

赤い紐は川筋を表している。
❞水行十日❞は海ではなく、入り組んだ水路を進み、日数がかさんだためだと宮崎は考え、自らの故郷、長崎県島原こそ邪馬台国であったと推理した。
宮崎に触発されるかのように、全国各地が次々と名乗りをあげ、邪馬台国探しの熱狂は日本中に広がっていった。

奴国まではほぼ確実に場所が特定される。
ここからが謎解きの始まり・・・
不弥国は現在の飯塚市付近だという説と、考古学的には福岡県の少し北東よりの宗像市など。
❝南 邪馬台国 水行十日 陸行一月❞
これをまともに解釈すると九州のはるか南海上の・・・ジャワ、インドネシア、エジプト?

邪馬台国が栄えた3世紀半ばはどのような時代?
弥生時代と古墳時代の境界。
弥生時代は地域の割拠状態が大きい、古墳時代は奈良に大きな前方後円墳がどんとでき、それに呼応するように全国に前方後円墳ができた。
そこに葬られる有力者の間に政治的な統合が生じた。

小さな村々から大きなクニができ始める時代。
弥生時代から古墳時代に至るまで、3世紀の空白の時、日本にとって大切なことが起きた。
邪馬台国とヤマト王権のつなぎが分からない。
空白を埋める中国の文献もない。
中国の歴史書は日本のために書いているわけではない。
『三国志』の執筆者・陳寿にとって邪馬台国は重要な意味を持つくにだったので、これだけ詳細に記録が残った。

『三国志』と邪馬台国の意外な関係
『議事倭人伝』は3世紀の中国が、魏・呉・蜀の3つに別れ相争っていた時代を記録した『三国志』の一章。
魏の国が外交関係を持っていた倭国の記録であることから、『魏志倭人伝』と呼ばれている。
三国志の時代、魏・呉・蜀の3つの国が激しい戦いを繰り広げていた。
北方の国魏はこの状況を打開するため、敵対する呉・蜀の背後にある国との連携の道を探っていた。
そんな折、海を越え、倭国の女王・卑弥呼の死者が魏の都を訪れた。
これを喜んだ魏は、卑弥呼に親魏倭王の金印を授けた。
中国の皇帝にとって金院は重要な意味を持っていた。
周辺に役に立つ国があれば、そこの支配者を中国に従う王と認め、金印を授けて味方につけていたのだ。
当時同じように魏の皇帝から金印を受け取った国がもう1つあった。
それは魏のはるか西に位置する砂漠の国・クシャーナ朝、儀はライバル蜀の背後にいるクシャーナ朝を味方につけ、絶好の位置から蜀を牽制することに成功した。
魏の皇帝は東にある邪馬台国にも同じような役割を期待した。
それは宿敵・呉を牽制する役割。
呉を挟み撃ちにできる絶好のポジション、大陸の盗難の位置に邪馬台国が位置していると思い込んだ可能性が高い。
こうした期待と幻想が、魏志倭人伝における邪馬台国の位置を狂わせたのではないか?
当時の世界観に規定されて記述が事実と異なってゆく。
世界の中心たる魏の皇帝が金印を授けた邪馬台国、それは宿敵・呉の背景にあるという地理的要件を満たしていなければならない。
こうして邪馬台国の位置を示した議事倭人伝の記述は、現実とはかけ離れて記されたのではないか?

この時代邪馬台国を記した日本の文献はない。
正史と呼ばれた『三国志』だが、正史とは正統性を示すための歴史書。
この当時の世界観とは?
洛陽(魏の首都)、中国の天子(皇帝)は中国だけを支配するのではなく、天下を支配するという考え方があり、遠くから民族が来るほど得が高い。
呉の国と戦ってゆくとき、三国志で一番有名なのは赤壁の戦い(レッドクリフ)では、魏は水上戦に敗北。
魏は騎兵を主体とする戦力で水に弱い、呉と戦った時に呉が海の方へ逃げてゆくと追えなくなってしまう。
邪馬台国が↓の位置にあると呉が逃げられない。

実際セイシンという国が三国を統一したときに呉は水上に逃げられなかった。
それはこの国があったおかげなのだ、ということを書くと歴史書としては正統性を示すことになる。
そのためには日本が現実の場所にあっては困る。
中国にとって邪馬台国は不思議な国だったろう。
中国史には登場しない女王が占いをしている。
また古代中国の先入観で書いている。
東方の異民族は体に入れ墨をしている。
南方の異民族は顔に入れ墨をしている。
東南(倭)の異民族は体と顔に入れ墨をしているべきだという先入観・・・
顔が汚れていた人がいると・・・やっぱり・・・
当時の世界観を知ったうえで『魏志倭人伝』を読まねばならない。

『魏志倭人伝』の記述をめぐって、300年にもわたり研究者たちを悩ませてきた邪馬台国。
一方考古学者は発掘調査を積み重ね、物証から邪馬台国に迫ってきた。
近畿か・・・九州か・・・
出土品から、どこまで邪馬台国が明らかになってきたのか?

もしもこれが発掘されれば、卑弥呼がいた場所を確定する決め手が2つある。
1つは卑弥呼が魏から授かった金印、邪馬台国の中枢部で大切に保管されたと考えられる。
もう1つは魏とのつながりを示す装封、重要な贈り物が勝手に開けられないように施された特別な封。
魏から卑弥呼に送られた荷物を泥で封印し、そこへ皇帝の印象を押したことが予想される。

この2つの物証は未発見。
では現在まで見つかっている有力な出土品とは?
九州説を裏付ける出土品・・・
九州北部の島、壱岐島で、当時の文化の先進性を示すきわめて重要なものが見つかっている。
発掘が進む原の辻遺跡。
壱岐から大量に出土する鉄の延べ棒↓

実用品というより、日本で鉄を加工するために鉄の素材としてもたられたもの。
当時日本で使われていた主な金属は青銅、そこに新たに登場したのが鉄。
鉄製の武器は全国手に見ても九州の出土数が圧倒的に多い。
このことから、そこに当時の都・邪馬台国があったという説が九州説の論拠。

一方近畿説を裏付ける注目の出土品がある。
奈良県天理市黒塚古墳、1997年に大量の銅鏡が発見された。
その数34枚、1か所から見つかった数としては最多。

発掘された鏡、かつては金色に光り輝いていたと推測される。

鋭く三角に尖った縁、その中に神と獣が同居することから、三角縁神獣鏡と呼ばれている。
鏡を使って宗教的な儀礼をおこなったことがうかがえる。

『魏志倭人伝』には鏡について次のように記されている。
❝景初3年 魏は卑弥呼に 銅鏡百枚を贈った
卑弥呼に我々魏と 国交を結んだことを 国中の人に知らしめるよう申し伝えた❞
つまり卑弥呼は魏と国交を結ぶんだ記念に銅鏡百枚を贈られ、日本中に配布したと考えられる。
黒塚古墳と同様の三角縁神獣鏡は日本中から出土している。
中には景初三年と刻まれたものも見つかっている。
これは卑弥呼が鏡を贈られたまさにその年。
こうした事実からこんな仮説が立てられた。
卑弥呼は黒塚古墳を拠点にして鏡を全国に配ろうとしたのではないか。
近畿で鏡の出土数が多いのは邪馬台国があった証拠に他ならない。
ところが三角縁神獣鏡が魏から卑弥呼に贈られたと決定づけるには、まだまだ不明な点があるという。

黒塚古墳の発掘にかかわった卜部行弘さん「三角縁神獣鏡は中国では出土していない。」
日本でしか出土していないこの鏡が本当に中国で作られたものなのか、断定できないというのだ。
博多遺跡は朝鮮半島からの鉄を陸揚げし加工していた場所、そこに近畿地方の土器がいっぱい出土している。
近畿の人が九州の鉄を買いに来ていたのだろう。
銅鏡について、北部九州が近畿ほど鏡に興味がなかったという解釈もできる。
卑弥呼の金印はどこへ?
そういったものは当人の死後返却される。
しかし模造品を持っていたり、墓に入れたりすることもある。
なので出土する可能性もある。
考古学では物が動くことを配慮する。

邪馬台国は九州か、近畿か・・・
これを探ることは、闇に包まれていた大和王権以前の3世紀の日本の姿を明らかにしてゆくことでもある。
大和王権は近畿地方、奈良で発生。
邪馬台国はどこにあったのか?
それは日本の歴史の始まりを大きく左右することになる。

この20年余りで人々の注目を大きく集めた古代都市の遺跡が2つある。
80年代後半、邪馬台国につながると大きく報道された佐賀県吉野ヶ里遺跡。
この遺跡の姿は魏志倭人伝に記された邪馬台国をほうふつさせるものだった。

❝楼観(物見櫓)城柵を厳かに設け 常に兵士が守っている❞
吉野ヶ里遺跡からはこれらの楼観、城柵に重なる遺構が発見された。

集落全体を取り囲む深い堀、環濠、その規模は驚くべきもの。
敵の襲撃に備え、堅い防御が必要だったことを物語っている。

さらに鉄の矢じりが体内に残り、戦争で亡くなったと思われる人骨の発見もあった。
魏志倭人伝にはこの状況と重なる興味深い記述がある。
小さな国々が70〜80年に渡り戦争を続けたという「倭国大乱」の時代。
この戦いの後、卑弥呼は王になったとう。
吉野ヶ里遺跡こそ倭国大乱の中心であり、邪馬台国は九州にあった。
人々のロマンは大いに掻き立てられた。

加熱してゆく期待をよそに考古学者の着実な調査が進められた。
遺跡の全体像から浮かび上がってきたのは、九州北部で数百年続いた文化圏の姿だった。
吉野ヶ里遺跡は日本が大陸から稲作や金属を取り入れた紀元前6世紀から始まる。
古墳時代の初め(3世紀後半)まで継続した非常に珍しい集落。
吉野ヶ里遺跡は弥生時代の九州が大陸の先進文化を取り入れながら戦争を繰り返し、徐々に大きな都市になっていったことを示す貴重な遺跡。

2009年、まさに邪馬台国そのものと大々的に報道された古代都市遺跡がある。
奈良県桜井市纏向遺跡。
ここは最古の前方後円墳が見つかったことでも知られ、大和王権発祥の地とも言われている。
出土したのは巨大な館の跡、その広さは畳150畳にも及ぶ。これこそが纏向の中枢部ではないかと考えられている。

この建物は大規模であること以上に重要な意味を持っていると発掘した橋本さんは言う。
掘り進むにつれ、ここからは4つの建物跡が見つかった。
そのすべてが東西一直線にそろえて建てられていたのだ。
纏向遺跡は日本最古の方位を意識した建物だっった。
都市整備という思想が中国や朝鮮半島から入ってきて、それを導入して建てられたのが纏向遺跡なのだろう。

さらに纏向遺跡からは様々な形の土器が出土した。
土の成分から、土器は日本各地で焼かれ、持ち込まれたことが分かった。
土器は多くの高床式住居の跡から出土している。
当時のリーダーたちが暮らしていたと考えられている。
纒向は列島各地のリーダーたちが集い大陸の影響下で計画的に築いた都市だったのだ。

邪馬台国との結びつきで脚光を浴びた2つの遺跡(吉野ヶ里遺跡、纏向遺跡)、その発掘成果から見えてきたのは、知られざる古代の日本の姿だった。
九州には、紀元前6世紀から大陸の優れた文化を吸収し、ある時は戦争を行いながら発展した文化圏が広がっていた。
一方これと入れ替わるように近畿でも、大陸の影響を受けながら各地のリーダーたちが集まる大規模な計画都市が生れている。
これが後のヤマト王権につながっていると考えられる。

日本の歴史の原点、3世紀の日本の空白部分が次第に見え始めてきた。
邪馬台国は2つの文化圏の一体どこに当てはまるのか。
常に湧き上がる邪馬台国探しの熱い期待を背負い、研究者は発掘現場においてどのような思いで探求を続けているのだろうか?
纏向遺跡の発掘を指揮する橋本輝彦さん「金印や封泥を狙うような方法では決着はつかない。
宝くじの当たりを期待して調査を続けても何の意味もない。
遺跡から得られるデータの中でどれだけ歴史を組み立ててゆくか・・・」
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