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2014.06.29 Sunday 00:00
よみがえる江戸城
その城の本当の姿を私たちは誰も目にしたことがない。 東京の中心、皇居に建っていた江戸城、天下を治める徳川幕府の本拠にして、日本史上最大の規模を誇った江戸城、その城はおよそ150年前の幕末、大火に見舞われた。 そのほとんどが地上から消え失せ、実像は多くの謎に包まれてきた。 幻の城と呼ばれてきた江戸城、その真相に迫ろうと、研究者による調査や貴重な図面の徹底的な検証が進められ、徐々にその姿が明らかになってきた。 そこでNHKは、研究者と共にコンピューターグラッフィクスで江戸城の徹底復元に挑んだ。 制作期間は5年、床下の礎石や柱、梁など建物の構造を明らかにし、わずかな誤差も許さず江戸時代の姿そのままに造り上げた。 10000坪の敷地に800もの部屋をそなえた江戸城本丸御殿を蘇ることに成功した。 大広間、本丸御殿の中で最も重要な部屋で、将軍が全国の大名を支配するための空間だった。 将軍が武士の頂点に君臨し続けるためにこの部屋で仕掛けた壮大な演出とは? 城内1長い松之廊下、忠臣蔵の発端となった刃傷事件の舞台。 今回の復元から、これまでの城跡を覆す驚くべき廊下の姿が浮かび上がってきた。 最新の調査が物語る真の刃傷事件とは? 1000人近くの女性が暮らした大奥、この特殊空間は単位将軍の世継ぎをもうけるためのものだけではなかった。 幕府が大奥の女性たちに求めた知られざる役割、そして裏ルートの存在とは? 本丸御殿の入り口表玄関、高さ9.8m、屋根の幅16.6m、柱の1辺が33cm、1回り1.3m江戸城で最も太い柱。 本丸御殿には、表玄関の他にもいくつも玄関があり、どこから入るかは身分によって厳しく決められていた。 城内で働く幕府の役人たちには、造りの小さな中之口や納戸口を使わせた。 その奥、風呂屋口は将軍の親戚にあたる御三卿専用。 そして当時日本最大だったと考えられる表玄関、幕府がここを通らせたのは、全国の大名や朝廷の使者たち。 巨大な玄関をくぐらせることで、幕府の力を感じさせる。 そんな心理的効果を狙っていたことがうかがえる。 では建物の中へ・・・ 玄関からすぐ広い廊下を通り虎之間、全長2mを超える虎が7頭描かれている。 広さ76畳、襖や壁に描かれた障壁画は、全面金箔をあしらった絢爛豪華な造りになっている。 この虎之間には大きな役割が託されていた。 戦に明け暮れた戦国乱世が終わり大きな合戦がなくなった江戸時代、武士を束ねる徳川将軍家が軍事力を示す機会は少なくなる。 その代わりに武力を示したのが虎たち、虎は武威の象徴、ここを通る全国の大名たちににらみをきかせた。 虎之間は当時はもっと暗かった。虎が不気味に見えた。 江戸城に入った大名たちが立て続けに目にした表玄関と虎之間、幕府の力を見せつける舞台装置の役割があった。 江戸城の基礎を築いたのは徳川家康、天正18年(1590)、豊臣秀吉の命令で江戸に移った家康は、秀吉亡き後それまで小さな城郭だった江戸城の大改築に乗り出す。 全国の大名に手伝いが命じられ、工事に関わった大名の数は延べ250以上にも及んだ。 その後拡張に拡張を重ね、ようやく完成したのは孫の家光の代、50年にも及ぶ大工事が行われた。 こうして造られた将軍の居城、東西の長さは5.5km、南北の長さは3.8km、外堀の長さは16km、日本の歴史に現れたいかなる城をもしのぐ史上最大の城だった。 その中心にあったのが今回CGで復元した本丸御殿、役割によって主に3つの空間に別れていた。 幕府の公式な儀式を行う場で政治の中心でもあった表、将軍が日常生活を送った中奥、そして将軍の性質や女中たちが暮らす大奥。 この御殿の総工費だけで今のお金で約1800億円と言われている。 技術の粋を集めた将軍の居城、それが江戸城だった。 およそ45mの高さを誇った天守は築城後まもなく焼失、以後再建されることはなかった。 ○建物復元までの道のり 今回作られたCGは、江戸時代に建てられた実際の城と寸分たがわぬ精度を追究した。 畳を取り払うと柱をのせる礎石まで現れる。 さらに柱の位置や太さ、天上の梁まで復元している。 なぜこんなことが可能だったのか? 東京都立中央図書館、書庫の最も奥に保管されているのは重要文化財の江戸城の図面。 建築の責任者だった甲良家が残した600点を超す資料。 その中で最大の大きさを誇るのが・・・ 長さは3.6mと5.1m、広げると畳11畳分もある。 表と中奥を描いたこの図面でも御殿全体の半分ほどしかない。 縮尺は1/65、柱の位置から部屋の間取りまで、筆で書いたとは思えないほど正確に精密に描かれている。 復元チームのリーダー、江戸城を60年近く研究している平井聖(昭和女子大学特任教授)によると、本丸御殿は何度も焼失したが、再建の旅に同じ構造・様式で建てられてきた。 様々な図面が残る中、平井さんが特に注目したのが幕末の万延元年、江戸城が最後に再建された時の図面。 大広間と呼ばれた部屋の図面、建物を建てるうえで基礎資料となる平面図や立面図が残されていた。 大広間だけで186枚、すべての部屋を合わせるとその数377枚、本丸御殿の全体像が十分つかめるものだった。 復元チームは、その万延の図面をもとにCGを作成するため現代の建築図面に書き起こしていった。 ○障壁画復元までの道のり 城内を彩る障壁画も当時のままに再現した。 東京国立博物館、昭和61年ここで貴重な資料の存在が明らかになった。 江戸城に描かれた障壁画の下絵、これは伺下絵と呼ばれ、障壁画を描く前、将軍に絵の内容をチェックしてもらうためのもの。 実に246巻残されていた。 描いたのは幕府の御用絵師を務めた狩野派、この伺下絵の存在により、火災で失われた江戸城のどの部屋にどんな絵が描かれていたか明らかになった。 たとえば白書院と呼ばれた部屋将軍が政治の模範とするため、中国の偉人をモチーフとした故事が描かれていたことが分かった。 大奥の1室には雅な平安貴族が・・・ しかしこれらの下絵はあくまで画題の確認用として描かれたため、色彩や絵の細部は簡略化されている。 そこで力をふるったのが日本画の画家たち、下絵では省略されている色彩や絵のディティールを知識と経験をもとに再現していった。 狩野派が描いた絵は二条城や名古屋城などの城に残されている。 それらを参考に描いてきた経験を生かしながら描いた枚数は572枚、1年の歳月を費やし、障壁画に命を吹き込んだ。 描き上げた障壁画はコンピューターに取り込み、本物の質感に近づけてゆく。 1枚1枚貼られていた金箔の境目まで表現、粉状の金を振りかける砂子という手法まで再現していった。 さらに部屋のつくりから日の光の差し込み具合を計算し、CGに陰影をつけてゆく。 こうして天下一の城・江戸城を現代によみがえらせることに成功した。 江戸城内で最も広い大広間、縦横の長さ50m、畳500枚近く、別名・千畳敷と呼ばれていた。 虎之間を後にした将軍たちがいよいよ将軍と面会するのが、大広間、4つの空間から構成されていた。 一番格式が高かったのが上段、中段、下段の3つからなる部屋、その隣に二之間、三之間、四之間と続いていた。 この広大な大広間は、将軍の就任式や新年のあいさつなど、幕府の重要な行事で使われた。 まさに徳川幕藩体制を象徴する空間だった。 描かれた松の高さ4m、枝を広げた長さは12m、虎と同様、訪れた全国の諸大名に徳川家の圧倒的な権力を見せつける狙いがあった。 松は冬でも葉を落とさない常緑樹、江戸時代は未来永劫の繁栄を意味する縁起の良い木とされてきた。 大広間に描かれた松は特に立派で国内最大の大きさを誇ったという。 もう1つ好んで描かれた画題、鶴、鶴は千年と言われる通り、古くから長寿の象徴として崇められた鶴、大広間には春夏秋冬、四季の自然を楽しむ鶴の姿が描かれた。 大広間の画題に松と鶴が選ばれたのは、徳川の世の末永い繁栄を祈ってのことと言われている。 装飾には当時の最高級の技術が惜しみなく用いられた。 釘隠し、木材をつなぐ釘を隠している飾り金具、金と墨で彩られ、長さは76cm、牡丹の花束の真ん中を和紙で包み込む畳紙形と呼ばれるデザインで、彫金技術の極みを見ることができる。 江戸城の中でも最も重要な部屋、縦24m横8m、縦長のつくり、上段中段下段と3つの部屋がそれぞれ21cmの段差で階段状になっている。 上段には将軍様がお座りになる。 この部屋には段差以外にも身分の差を表す仕掛けが施された。 その1つが天井、下段は格子が入った格天井、描かれていたのは花唐草。 中段は中央部を一段高くして格の違いを出す、折上格天井、しつらえもより華やかになる。 幸福や富貴を意味する牡丹の花があしらわれた。 上段は二重折上格天井、中央部が2段高いつくりになっている。 もっとも格式の高いつくりとされ、将軍が座る場所に使われた。 描かれた絵は太平の世に飛来するという伝説の鳥・鳳凰。 大広間に段差や天井の仕掛けを設けた理由は、この部屋で対面する諸大名に将軍との圧倒的な立場の違いを見せつけ、将軍家に逆らう気を起こさせないようにする狙いだと考えられる。 この大広間が最も効果的に使われたある儀式がある。 毎年正月、将軍は全国の大名を前に年賀のあいさつを行った。(立礼) 平伏しているのは各地の諸大名たち。 将軍へ挨拶を行う場合、諸大名はこのように大広間の二の間、三の間に一度に集められ、お目見えを行った。 まさに大広間の巨大空間を最大限に生かした権威づけの演出。 立礼には厳しいルールが定められていた。 大名たちはお目見えを間中顔を上げることが許されなかった。 一方の将軍は立ったまま、しかも挨拶と言っても、「いずれもめでたい」と一言いうだけだった。 明治になって描かれた立礼の様子↓ 新しい将軍の就任式の場面だが、二の間、三の間、さらには廊下まで大名たちが並んでいる。 大広間は幕府の大名統制に欠かせない空間だったのだ。 立礼の他、将軍と大名が1対1で対面する独礼という挨拶が行われた。 独礼を許されたのは仙台藩・伊達家、長州藩・毛利家、盛岡藩・南部家など大きな領地を持つ外様大名。 独礼の時大名はどこに座ったのか? 伊達家は下段の後ろから2枚目の畳、毛利家は下段の1番後ろ、南部家は廊下(部屋の外)。 独礼を再現!! 将軍「それへ!」(もっと近くへ来い) 膝行・・・大名は顔を見せてはいけない 将軍「息災そうに見えて一段な」(元気そうで何より) 大名は一何も言わず、頭をあげずさがってゆく 部屋の中に入れない南部家の独礼は? 将軍「それへ!」 体をくねくね横へ揺らす不思議な動き・・・畏れ多くて前に進めない様子を表す 江戸城にやってくる大名たちが懐に忍ばせていたもの、懐中図(携帯用の城内の見取り図) 大事な儀式のときに迷子になり、時間に遅れては一大事。 ○現代の江戸城紀行 江戸城の正面・大手門の前にある交差点・・・ここは江戸事亜ぢ登城する大名が馬を下りる下馬だった 家臣はここで主君の帰りを待ちながら噂話に興じた 「人物の評判」を意味する「下馬評」という言葉はここから生まれたという 大手門・・・大丸御殿に向かう大名が通った門 大手は「正面」「大きい」という意味、「大手企業」などの言葉で今も使われる 外側の「小さな門」と内側の「大きな門」2つで1セット 「小さな門」は敵にとって攻めにくく「大きな門」からは味方の大軍を送り出せる 本丸入り口へ 中之門跡 巨大な石を加工し隙間なく積む「切込みはぎ」という技法で作られた 巨石を美しく積むことで幕府の権威を見せつける狙いがあった 中之門前に警備の武士が待機する場所があった 百人番所 100人を超える武士が24時間体制で城の警備にあたった この先がいよいよ本丸御殿跡 大広間、権威を見せつける効果をもたせた結果重大な欠点が生じた。 それは? 段差を作ったため下にスペースが生れてしまい、敵に下から襲われる可能性が生じた。 今回の調査で床下のスペースに対する備えは万全だったことが推測された。 断面図に描かれた床板、下段と中段はほかの部屋と同様に14cmの床板が1枚入っているだけだった。 しかし将軍が座る上段の床板は二重構造で、35cm、2倍以上の厚さがあることが分かった。 この明確な理由は記録に残っていないが、将軍が床下から刀や槍で狙われることを防ぐためだったのかもしれない。 このほかにも大広間には将軍の命を守るための工夫があった。 正月、酒に酔った男があろうことか将軍の前に現れ、将軍に近づいてゆくと・・・ 城内の警備を行う番士たちが男を捕える。 将軍にもしものことがあっては一大事、上段の間には、警護の武士が控える、通称・武者隠しと呼ばれる隠し部屋があり、いつでもここから飛び出せるよう控えていた。 将軍が暗殺などされてしまっては、幕府の権威が失墜し、太平の世が維持できなくなる恐れが生ずる。 大広間の仕掛けは平和を保つための工夫だった。 ○将軍24時間 午前6時、将軍の1日はこの一声で始まる。 「もぅ〜〜〜」(もう将軍がお目覚めになっているという意味の暗号 将軍の行動は最高機密なので、こうした暗号を使って御付のものだけが分かるようにしている) これは将軍が起きたという合図、起床の時間は決まっていて、たとえ幕府の最高権力者であろうと好きなだけ寝ていられるわけではない。 続いて歯磨きと洗顔が始まる。 歯磨きはフサヨウジと医師が調合した歯磨き粉や赤穂から取り寄せた塩を使い、舌の汚れまできれいにとる。 洗顔に使うのは木綿のぬか袋、この時洗う手を後ろから小姓が支える。 朝食は午前8時、将軍に出す前にまず御膳奉行のところへ運ばれ毒見が行われる。 冷めたものは火鉢で温めて出される。 今日の献立は1の膳が汁・飯・刺身・酢の物、2の膳が吸い物・キスの塩焼き・・・ キスという漢字は鱚、魚へんに喜ぶと書く、縁起が良いのでほぼ毎日出る。 食事中には髪を結われたりする。くつろぎとは無縁。 それほど忙しいのだ。 昼を過ぎると将軍は政務に入る。 あがってくる様々な案件を処理する。 内容は主に人事や刑罰について。 御用取次が書面を読んで、それを聞いて判断する。 案件が多いと3人同時に読み上げたりする。 聞き取れなくても将軍が何も言わなければ決済されることになっていて、例えば悪い老中が勝手な案件を紛れ込ませるとそのまま通ってしまう。 議会などないので将軍しか決めることができない。 城内の人事から役人の処罰まで1人でやるのは大変だろう。 江戸城ツアー、さらに奥へ・・・城内で最も長い廊下 松之廊下、全長55m、100本近くの松が描かれている。 海辺の松原にかかる金色の雲、そして優雅に飛ぶ千鳥も・・・ 松之廊下といえば忠臣蔵。 時は元禄14年(1701)3月14日、犬公方で有名な5代将軍・徳川綱吉の時代、この日松之廊下で朝廷の使者の接待係を務めていた赤穂藩主・浅野内匠頭が、吉良上野介に突如斬りかかる事件が起きた。 世にいう元禄赤穂事件だ。 吉良は幕府の儀式を取り仕切る元締め的存在、接待役を命じられた大名たちは吉良に、指南行として謝礼を渡すことが慣例となっていた。 しかし浅野内匠頭は曲がったことが大嫌いな男、謝礼金を出し渋ったため、吉良の怒りに触れてしまう。 吉良は浅野に執拗に嫌がらせを行った。 儀礼の服装やもてなしの料理について偽りの情報を教えたという。 そして事件当日、現場となった松之廊下で浅野は吉良に目の前で罵られ、感情が爆発、とっさ的に斬りつけた。 浅野は即日切腹、赤穂藩もとりつぶし、あとは御存じのとおり、大石倉之助ら赤穂47士の討ち入りへと物語は進んでゆく。 松之廊下は中庭に面しているが、当時は暗かった。 この暗さの秘密は松之廊下の図面に描かれていた。 松之廊下の庭に面した側には板戸や障子が入っていたことが分かった。 さらに唯一の光の取り入れ口である明り取りは、せり出した屋根に覆われ、火の光はさえぎられていた。 イメージされる松の廊下は明るい空間だが、実際は板戸と障子で閉ざされた薄暗い空間だったのだ。 薄暗い廊下で、どうようにして刃傷事件は起きたのか・・・ 実際に事件の現場に居合わせた人物の日記が残されている。 『梶川頼照の日記』旗本の梶川頼照は、吉良と立ち話をしていたまさにその時事件に遭遇した。 「この間の遺恨覚えたるか」 と浅野が突然声を発した。 そして吉良の後ろより背中を切りつけた。 再び浅野は振り向いた吉良を切りつけ、逃げようとする吉良にさらに二太刀、そこで取り押えられた・・・ この時何が起きたのか? 浅野は吉良をどのように襲ったのか? 凶器として使った殿中刀とほぼ同じ長さの竹刀で検証、浅野はこうした刀で背中と額、合わせて4回切りつけた。 では、浅野は相手に気づかれずに、背後何mまで近づけたのか? 3m背後まで近づいたとして実験、この距離では切りつける前に相手に気づかれ、かわされてしまう。 2m背後では?切りつけたのは背中ではなく腕。 1.5mまで近づくと?竹刀は背中にあたり、逃げる吉良を切りつけるためには相手を執拗に相手を追い回さねばならないことが分かった。 浅野は吉良の1.5m背後まで近づけたのは、廊下の暗さを生かすことができたためと考えられる。 浅野の動機は? 芝居や小説では、浅野の動機は吉良の個人的ないじめへの仕返しとして描かれることが一般的。 しかし当時の資料を見ると、幕府という巨大組織の中での浅野の立場が事件に深く関係していることが分かる。 浅野は老中から接待費を例年の千二百両から七百両に減額するように指示され、それに従った。 しかし吉良がこれに異議をとなえ、浅野と吉良は不和になった。 幕府の首脳部から経費削減を命じられる一方、接待の責任者である吉良から、従来通りの予算を求められた浅野。 両者の板挟みになっていたことがうかがえる。 実際の松之廊下は薄暗く、相手に気づかれずに行動するにはうってつけだった可能性がある。 では事件当日の廊下は、どのような暗さだったのか? 30年以上にわたり江戸時代の天気を研究している三上兵彦さん(帝京大学教授・歴史気候学)、気象予報士の資格を持っている。 江戸時代の藩の日記『日新記』、日付の下に天気が書かれていることがある。 三上教授の研究チームは各地を廻り、各地の日記に残された天気の記録を集めている。 事件当日の江戸の天気は? 調べてみたが当日の様々な江戸日記にも天気は記されていない。 しかしほかの場所の日記に記された天気を連続的に見てゆくと江戸の天気がある程度推測される。 三上さんの調査によると元禄14年の天気が残っていたのは、津軽、日光、伊勢など全国8ヶ所。 では、ここから江戸の天気はどのように推定されるのだろうか? 事件の3日前の天気図↓ 対馬、京都、伊勢で雨が観測され、それ以外の場所で晴れたことから西日本に低気圧があったとみられる。 そして事件の2日後の天気図では、東北の八戸や南部、日光で雨、津軽では雪が観測されている。 そのため東北にかなり発達した低気圧があったことが分かる。 こうして推定された事件当日の天気図では、西日本は高気圧に覆われ晴れ、一方関東の沿岸部には西日本を抜け、後に東北に雨や雪を降らせる前線がかかっている。 江戸の天気は良くなかったと推定される。 得られた情報を基に、再現・・・ 元禄14年3月14日、この日は朝から陰鬱な曇り、時より雨がちらつくような天気だった。 明り取りにはほとんど光は入らず、いつにもまして薄暗い廊下だった。 儀式の会場は松之廊下の先にある白書院、吉良上野介は朝9時頃、白書院近くの廊下に控えていた。 一方この時、吉良の補佐役だった浅野内匠頭は、別の接待係たちと廊下で待機していた。 この時接待費をめぐり、幕府と吉良との板挟みとなり苦しんでいた浅野内匠頭、薄暗い廊下で待つ彼の胸中にはどんな思いがよぎっていたのか? 2時間後の午前11時頃、吉良を探す者が現れる。 後に事件の日記を残すことになる梶川頼照だ。 梶川は儀式の段取りが一部変更されたことを聞き、すべてを取り仕切る吉良にその詳細を確認しに現れたのだ。 梶川が自分を探していることを知った吉良は、梶川のもとへ向かった。 浅野の前を通り過ぎる吉良・・・ 段取りの変更を確認する2人・・・ 吉良の背後およそ1.5mまで近づいた浅野内匠頭・・・ 背中に一閃、眉間に一太刀、執拗に追いかけさらに二太刀、ここで浅野は取り押えられた。 ○江戸城紀行・後編 現在の皇居・東御苑の中心に大きな広場がある。 本丸御殿跡、800もの部屋を備えた壮麗な御殿、その面影はない。 広場の小道には1つの石碑・「松之大廊下跡」がある。 広場の奥あるひときわ大きな石垣・天守台(高さ44.8m 日本1の天守が建っていた)。 花崗岩の城さが美しさをより際立たせる。 建設を担当した加賀藩は遠く瀬戸内から石を調達、幕府への忠誠の深さを示した。 築城を担った大名の努力の跡は石の意匠や積み方に現れている。 石の表面に細かな線をいくつも刻み込んだ「すだれ」、石を亀の甲羅模様に加工し積んだ「亀甲積み」、角の石材の色を変えアクセントを付けた石垣・・・ 当時の姿を残す数少ない遺構・富士見櫓、どこから見ても美しいことから「八方正面の櫓」と呼ばれた。 将軍もここに登り両国の花火を楽しんだという。 政治を執り行う表の一番奥にある黒書院は、大広間と同じく将軍が大名と面会するための部屋、毎月3回、親族の御三家や老中たちから挨拶を受けるときに使った。 室内の装飾は大広間に比べ絢爛豪華なものではない。 墨で描いた山水や花鳥の絵を壁や天井に貼りつける押絵という手法が使われている。 そこに金をあしらうことで、格式を保ちつつも落ち着いた空間に仕立てている。 大広間に比べ将軍との距離も近く言葉も交わしやすい黒書院、権威ではなく、親しみやすさで大名の心をつかむ演出空間だったのかもしれない。 ここからは中奥、将軍の生活空間、住まい。 御休息之間、将軍がくつろぐための部屋、朝食を食べたり日中勉学に励んだりする部屋だった。 意外に質素と思われるが、将軍といえどもこれくらいが落ち着くのだろう。 このくつろぎの部屋に描かれたのが、江戸時代に流行した名所絵。 神奈川の金沢八景の1つ、野島、江の島。 上段の床の間には富士山、気軽に旅行に行けなかった将軍のささやかな癒しだったのかもしれない。 中奥の最も奥にある中奥小座敷、ここまで来ると、お付の小姓と言えどもめったに入ることは許されない。 将軍が大きな決断を下すときなど、ここに1人でこもって考えた。 誰かに対して権威を見せつける必要がないためか、部屋の装飾はごくわずか。 権力者は孤独と言うが、絶大な権力を握った将軍は、この部屋で孤独と戦っていたのだろう。 ○将軍24時間 午後、トイレでさえも小姓が手伝う。 袴を脱ぐのが大変なので、尿筒(しとづつ)を差し入れて用を足す。 大便器の下には引出しがついていて、取り出して毎回調べる。 15時からは諸大名との面会。 17時、入浴、小姓たちが付き従い顔と手足、背中をそれぞれ別々ぬか袋を使って洗う。 また体を拭くのに手ぬぐいなども使わず、白木綿の浴衣を着せて水けをとり、また新しい浴衣を着せてはとりを繰り返す。 20時、将軍が大奥へと入る。 女中は将軍が来る前に髪をとかれ、入念なボディーチェックを受ける。 大奥の入り口・御鈴廊下。 入り口の扉には中から鍵がかかっており、紐を引いて詰所の鈴を鳴らす。 すると・・・ 大奥で最もいろい対面所、将軍の正室の応接間。 13代将軍・家定の正室・天璋院(篤姫)と公明天皇の妹で14代将軍・家茂の正室となった和宮との対面の時、天璋院は床の間を後ろとした上座、座布団の上に座った。 対する皇族出身の和宮は部屋の下座に座らされた。 2人の立場はこの部屋の対面によって決定づけられた。 将軍の正室は貴族の名門家から迎えていた当時、対面所の障壁画には平安貴族の華やかな暮らしぶりが描かれた。 貴族たちが満月の夜に月の宴を催している様子↓ こうした絵が描かれた理由は京都から迎えた性質に寂しい思いをさせない気配り、一方徳川幕府には平安時代権勢を誇った貴族を上回る力があることを見せつけるためとも考えられる。 御庭御目見、将軍様に女性たちを披露するのだが、将軍がどこで見ているかというと・・・ もっと近くで見たいが、将軍は身分の高い方、女性たちと対等に面を合わせることはできなかった。 御庭御目見で披露されるのは、いずれも大奥で器量よしと言われた女性たち、世継ぎを残すため、こうした方法で相手が選ばれた。 大奥小座敷、将軍がくつろぐ部屋、御庭御目見とは別に、そうぶれ、毎朝たくさんの御姫様候補が集まって将軍の相手が決められていた。 夜になっても将軍には窮屈な決まり事があった。 両側にたてられた屏風のすぐ裏には、お添い寝役と呼ばれた監視役が、一睡もせずに2人の睦言を聞いていた。 お添い寝役たちは、将軍の身の安全を守ることはもちろん、相手の女性が勝手なおねだりをしないか監視し続けた。 大奥の一番奥に新発見の部屋があったことが分かった。 それは男子といれ、将軍専用、小便器と大便器。 これまで将軍は大奥の入り口付近にしかいかないため、トイレもその周囲にしかないと思われてきた。 ところが調査に使われてきた図面から、最も奥まった場所に将軍専用のトイレが3つもあったことが分かった。 歴代の将軍がそれだけ長い時間大奥で過ごしていたことを意味する。 天下泰平の世と呼ばれた江戸時代、火山の噴火や深刻な飢饉、世継ぎの休止など、幕府の根幹を揺るがす出来事が頻繁にあった。 幕藩体制を動揺させない、そのために一役かったのが大奥だった。 例えば11代将軍・徳川家斉、前将軍の世継ぎが急死し、混乱する政局の中将軍に就任した。 家斉は将軍になるや、大奥に頻繁に通っては、歴代最大となる50人の子供をもうける。 そして会津藩や加賀藩など、全国20の大名家に嫁がせたり、養子として送り込んだりした。 幕府が各地の大名との結束を強め、威信を保つ。 大奥はそれを支える重要な役割を担っていた。 大奥も幕府の重要な組織の1つであり、内願を仲介する役割を担っていた。 正式には表(大名・役人)が、老中から将軍へ・・・ろいうルートが公式なもの。 それとは別に奥のルートが存在し、老中に匹敵する奥の役職が老女、内願は非公式なルート。 例えば「幕府の役職に就きたい」というお願いは内願。 内願の事例↓ ある大名が家臣を通じ、大奥に出させた内願の手紙『津山藩江戸留守居方日記』 手紙の主は津山藩主・松平斉民、11代将軍・徳川家斉の息子で、岡山の内陸部、津山藩に養子に出されていた。 斉民が内願で訴えたのは、実りが少ない土地を差し出す代わりに、海に面した小豆島が欲しいというもの。 残念ながら全部はもらえなかったが、一部はいただけたらしい。 大奥という組織は、女性の知的レベルの向上にも貢献した。 大奥に奉公するためには、読み書きはもちろん、和歌が詠める、遊芸(歌舞音曲)ができ、大奥に入りさらにそれが磨かれ、何年かお勤めした後に寺子屋の師匠になったり地域で唄を教え、地域の女性たちの知的水準を上げる役割を担っていた。 日本の首都・東京の発展、人々の暮らしを支えてきたのが江戸城が残した遺産。 江戸城を守る大事な防御施設だった内堀と外堀、さらにそれらを結ぶ運河をたどる。 今も昔も交通の要衝となっている日本橋から出発、この場所から外堀と合流する水道橋までの4kmの水上紀行・・・堀や運河の上を延々高速道路が覆いかぶさっっている。 江戸時代、堀は経済を支える水運の大動脈としても機能した。 その一部が今も残っている。 1960年代の高度経済成長期、日本の消費が拡大、東京オリンピックの開催も決定し、物流の大動脈として高速道路の建設が急務となる。 しかし当時の東京には道路を通す十分な土地が残っていなかった。 そこで江戸城の堀や運河がその受け皿となり、高速道路が次々と造られていった。 高速道路の土台も、堀の石垣が巧みに利用された。 さらに内堀と外堀は都内の交通に欠かせない環状道路として私たちの暮らしを支えている。 その名も内堀通り、外堀通り、堀に沿った土手や堀を埋め立てた上を利用して造られた道。 東京の地下の発展も江戸城なしに語れない。 都内を走る地下鉄の多くはかつて内堀と外堀があった場所に造られている。 銀座線に丸ノ内線、千代田線などその数は8つ。 江戸城の北部、およそ6kmにわたって外堀が当時に近い状態で残されている。 ここでは憩いの場として人々の暮らしに寄り添っている。 もう1つの遺産は、江戸城を中心に造られた武家屋敷。 当時江戸城の周りには全国の旗本や大名の大きな屋敷が密集し、実に江戸の68%を占めていた。 これらの土地は都心の開発に適したまとまった土地を提供してくれている。 およそ7400坪あった土佐藩の屋敷は、明治に誕生した東京の府庁として使われ、今は東京国際フォーラムとなっている。 およそ18000坪あった尾張藩の屋敷は、外交の窓口としてオーストリア大使館となり、その後上智大学として利用されている。 このほか六本木ヒルズは長府藩の屋敷跡、東京大学は加賀藩の屋敷跡、国会議事堂は彦根藩の屋敷跡に造られた。 天下一の城・江戸城があったからこそ、発展を続ける東京の今がある。 |
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