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2014.08.24 Sunday 08:11
時を紡いで★伊勢神宮 つなぐ技と心
海の中の森、多くの生き物を育み恵みをもたらす海の緑。
志摩の海は海女たちの舞台、志摩半島では、海女が海に潜ることを「かずく」という。 2000年にわたる伝統の漁だ。 海女たちにとって、志摩半島の先端、久崎の鎧崎は特別な場所。 この浜で採れたアワビだけが、伊勢神宮に納められる。 志摩の海では、男たちは裏方に回る。 神様に備えるアワビを整える技は村の古老たちが伝えてきた。 伊勢神宮では、1年に1500を超える神事が営まれている。 天照大神がこの地に鎮座して2000年、絶えることなく日々の安寧が祈られてきた。 その神事に、アワビは欠かすことができない。 志摩の海に生きる海女と男たちが伝えてきた技は、気が遠くなるほどの年月、伊勢神宮のお祭りを支えてきた。 2013年、伊勢神宮は特別な年を迎えた。 20年に1度の式年遷宮が行われたのだ。すべての社殿を建て替え、あまたの装束、神宝の類を新調する1300年続く祭典。 厳かな神事の裏側には、それを支えるささやかな技がある。 海にかずき、虫を飼い、草木を育て、機を織る。 記録には残ることのない技の持ち主たちの姿がある。 伊勢神宮で毎年春と秋に行われる神御衣祭は、神様の衣替え。 神職らが運ぶカラヒツの中に入っているのは、絹と麻の布。 神御衣祭は、伊勢神宮がこの伊勢の地に鎮座して以来、変わることなく行われてきた大切なお祭り。 そこには式年遷宮にも通じる古代の祈り、ある願いが秘められていると考えられる。 愛知県新城市、海野久栄(大正14年生まれ)さんは、奥三河の地で半世紀以上にわたって蚕を飼育してきた。 愛知県の三河地方と伊勢神宮を結び付けるのは生糸。 量産が盛んだった三河地方は、長く伊勢神宮に生糸を納めてきた。 その歴史は1000年以上の昔に遡ると記録されている。 この地で作られる生糸は特別な名前で呼ばれる。 「赤引きの糸」赤は明るく清らかであることを表す。 赤引きの糸は、清らかに引き出された生糸という意味。 昭和の初め、愛知県は全国有数の生糸の生産地だった。 伊勢神宮ゆかりの赤引きの糸の伝統は、明治以降の工業化と結びつき、国内だけでなく輸出用として生産量を増やしていった。 海野さんが暮らす集落では、かつてほとんどの家で、蚕を飼育していた。 若き日の海野さんは、先人に学び、その先頭に立って品質の向上に取り組んできた。 町には大きな紡績工場が立ち並び、生糸の生産は、地域のみならず、日本の経済を支える産業へと発展を遂げた。 当時伊勢神宮へ奉納する生糸は、それぞれの養蚕農家が一番出来の良い繭を、ほんの2つか3つ用意すれば賄えるほど、多くの農家で蚕を飼育していたという。 しかし時代は急速に変わる。 海野さんは、三河地方で蚕を飼育する最後の1人になった。 赤引きの糸を担う最後の1件。 海野さん夫婦は年に1度、生糸を持って伊勢を訪れる。 渥美半島の先端、伊良湖岬には、神宮ゆかりの神社がある。 神様の衣替えに使われる繭は、ここで御払いを受けた後、ほどかれて伊勢湾を船で運ばれる。 生糸を運ぶ船は、「お糸船」と呼ばれた。 今では船を利用するが、土地の人は、親しみを込めて、お糸船と呼び続けている。 日本における養蚕は、稲作などと共に、弥生時代に始まったとされる。 小さなお蚕さんのはく糸は、美しい生糸へと形を変える。 長い年月と人々の知恵、そして経験によって生み出された美しさと言える。 2012年春、伊勢神宮では20年に1度の式年遷宮の節目となる神事が行われた。 式年遷宮では、神宮のすべての社殿を建て替える。 白い覆い屋の中では、一般の神社の本殿にあたる昇殿が、立柱祭は新しい社殿を造営するにあたって御柱を建てる儀式。 建物が揺らぐことのないよう願う。 式年遷宮が始まったのは飛鳥時代、神宮の社殿は、その当時の姿をほぼそのまま伝えていると考えられている。 新しいお社を造ることで、神様は若々しさを保つ、古代の人々は、そう考えた。 常若(とこわか)と呼ばれる精神、永遠を願う人々の思い。 建物自体は新しい、しかしその姿は古代と変わらない。 伊勢神宮は、建て替えを繰り替えすことで、永遠をつなぎとめている。 式年遷宮の準備は、実に8年の歳月を費やし、その間に30ほどの儀式を行う。 建て替えに使われる御用材の伐採の前に行われる、式年遷宮最初のお祭り、山口祭、木をいただくことの許しを神様に得て、作業の無事を祈る。 御用材は、長野県と岐阜県にまたがる木曽の山々から、およそ10000本が求められた。 杣人たちが振るう斧にも、先人から受け継いだ技が見られる。 御木曳は、かつて伊勢神宮の領地であった伊勢の町衆の祭、御用材を、神宮の神域まで運び入れる。 伊勢の町の生まれた人々にとって、20年ごとの御木曳を、何度経験できるかは、重要な問題。 伊勢神宮は伊勢市の面積の4分の1を占める広大な森の中にある。 式年遷宮では、現在の社殿に隣接する御敷地に新しい社殿を造営する。 造営には、本格的な寺社建築の技術を身につけようと、全国から志願した大工も加わる。 宮大工たちは、間違いの許されない緊張感の中、腕を競い合っている。 御用材の多くが、木曽の山々から運ばれる一方、社殿の屋根を葺く萱は、伊勢市近郊の山で育てられている。 萱とは、ススキなどの植物の総称、伊勢神宮では式年遷宮に備え、専用の萱山で良質の萱を育てている。 広さは99ha、1度の遷宮では、23000束の萱が必要になる。 7年間をかけて調達する。 神宮には、茅葺の社殿や蔵が32棟ある。 式年遷宮では、宮大工らの作業に合わせ、決められた期間内にすべてを葺き替えなければならない。 全国的に見ても、萱葺の技術を持つ匠は限られている。 作業に当たる職人は10人、このうち4人は、腕を見込まれ、他府県から加わった人たち。 松澤敬夫さんも、そんな匠の1人。 松澤さんの故郷は、北アルプスの麓、長野県小谷村、社殿の造営が始まって以来、伊勢で1人暮らしをしている松澤さんにとって、お盆の帰省は孫の顔を見る久しぶりの時間。 松澤さんが萱葺の道に入ったのは15の時、50年以上前には、まだあちこちに萱葺の家があった。 近在に名の通った萱葺職人だった父親に弟子入りした。 松澤さんが父親の7番目の弟子として修業をつんだ民家が今も残されている。 「一番厳しかったで覚えている。 あのね、ご飯を親方たちにみんなここで炊いてくれたのをよそったり、風呂を焚いたり、先輩の洗濯物をしたり、何もわからない地域の人がユイチってね、毎日お手伝いが20人から30人来る中で、意味も分からないのに追い回されたり・・・ 教えるじゃなくて見て覚えろという時代ですから。 雪国なので下に麻殻、雪に耐えるために使う。 麻殻を30cm厚み葺いて、その上に萱で葺く。 一人前になった松澤さんは、屋根の葺き替えを請け負う工務店を始めた。 多くの文化財の補修にもあたり、その技術は、長野県から、卓越した技能者として認められている。 今回、伊勢神宮の造営に携わるという希望がかなった松澤さんは、修行中だった息子にあとを任せた。 今、息子のトモノリさんは、国の指定を受けた重要文化財の修復工事にあたっている。 松澤さんの若い弟子を率いての仕事。 式年遷宮では、建物の屋根を葺き始めるにあたっても、神事を営む。 檐付祭は、屋根が麗しく葺きあがるように祈る神事。 儀式は、覆い屋の中で行われ、目にすることはできない。 前回の遷宮から20年、屋根は苔むし、萱が抜け落ちた箇所も見られる。 人々が生活する民家と違い、煙でいぶされることのない社殿の屋根は、傷むのが早いという。 参拝客を迎える、門の屋根を葺く作業。 屋根は下から上へと葺いてゆく。 屋根のこう配や厚みを考えながら、幾重にも萱の束を重ねる。 隙間ができないよう、萱を差し入れる。 雨や風を避けるといった機能だけでなく、何種類もの萱を使い分け、最も美しく葺きあがるよう、工夫がなされる。 松澤さんの持ち場は、内宮の小宮、作業は一切公開されない。 それだけ重要な場所であるということが分かる。 20年ごとに繰り返された式年遷宮は、匠たちの技の継承にもつながっている。 複雑な海岸線を持つ、三重県志摩市と飛ばしにまたがる地域は、日本有数の海女漁が盛んな地域。 海女とは、素潜りでアワビやサザエを獲る漁を生業とする女性たち。 己の体1つ、知恵1つの漁法は、紀元前からおこなわれていたことが分かっている。 鳥羽市国崎町は、伊勢神宮が鎮座した2000年前から、アワビの奉納を続けてきた町。 国崎町の鎧崎は、1年の内限られた日にだけ漁が許される禁漁区の浜。 伊勢神宮に、アワビを納める役割を担ってきた国崎町では、早くから資源を保護する取り組みがなされてきた。 漁に出られる期間は、貝の産卵時期を避け、漁の日数や時間も厳密に決められている。 その成果もあって、アワビの漁獲量も多く、国崎町は豊かな集落だった。 豊かさだけでなく、神宮にアワビを納めているという誇りもあった。 とはいえ、水揚げされるアワビの量が年々減少しているのも事実。 海女小屋↓ 国崎町では、自治体や伊勢神宮と共にアワビの稚貝を放流し、旅客量を増やす取り組みを行っている。 アワビの稚貝↓ この施設では、およそ1年半をかけて4cmほどの大きさまで成長させる。 国崎町の海女は総勢50人、稚貝の放流には1人残らず顔をそろえた。 船の上から貝を撒くのではなく、海女が潜ってアワビが成長しやすい岩場の影などに直接放流する。 アワビはゆっくり時間をかけて成長する。 産卵可能になるまでにおよそ4年、神宮に奉納するのに適切な大きさになるには、少なくとも6年以上の歳月が必要。 今のところ、放流したアワビが無事に成長し、水揚げされるのは、わずか5%。 しかし地道な取り組みは、今後も続けられる。 古老たちの手によって、細くむかれたアワビは、琥珀色になるまで乾かし、短冊状に整えて奉納される。 1年に4000〜4500個のアワビが必要。 神事に使われるアワビは、大きさや役割により3種類に分けられ、それぞれ決まった数をこしらえる。 海女の町では男たちも2000年の重みを背負い将来を見据えている。 日本人になじみの深い繊維に麻がある。 群馬県東吾妻町は、地域の伝統産業であった岩島麻の栽培を行い、宮内庁をはじめ各地の神社に納めている。 麻こぎと呼ばれる麻の刈り入れを行うのは、岩島麻保存会の人たち。 江戸時代より麻の栽培が盛んだった上州、群馬県にあって品質の良さで群を抜いていたのが、この辺りで作られる岩島麻だった。 麻は成長の早い植物として知られている。 春に撒いた種はわずか3か月で3mまで丈が伸びる。 刈り入れは7月の暑い盛り、繊維の質を保つため、雨は避けなければならない。 岩島麻保存会が作られたのは、1966年、すでに化学繊維の時代が到来していた。 高度経済成長まで、辺り一面が麻畑だったという。 現在では、特産のコンニャクが取って代わった。 最盛期だった戦前には、織物用として新潟や奈良へ、魚を獲る網としては、三重県をはじめ千葉や静岡へも出荷された。 その岩島麻に関心を寄せる若い世代もいる。 故郷へUターンし、農業を始めた男性だ。 町の人たちが本当の技を見せるのは、秋に入ってから始まる作業。 麻引きは、機械を使わず手作業で繊維を取り出す技術。 乾燥した麻の束を水に浸し、発酵させたうえで表面の皮をはぐ。 この皮から繊維以外の余分なものを取り除く。 手に持つのは、小さな刃のついた専用の道具。 継承される麻引きの技も、すでに生活とはかけ離れたもの。 古くからこの国に息づいた技術や産業。 海女による漁も、萱葺の屋根も、養蚕も、多くの人々の暮らしを支える存在では、なくなりつつある。 しかしそこに技の心を守ろうとする人がいる限り、誇るべき故郷の宝なのだ。 生糸と麻は、伊勢神宮の北にある2つの神社(松阪市 神麻続機殿神社)で布に仕立てられる。 春と秋の10日間ほど、地元の人たちが機織りにいそしむ。 絹は女性が、麻は男性が織り上げるのが習わし。 この辺りは、松阪木綿の生産地だった。 しかし現在では、地場産業としての機織りの技は失われ、技術の継承はもっぱら、神宮への奉納のためのものとなっている。 三河の赤引きの糸、長い歴史を紡ぐように糸車が回る。 神御衣祭の日がやってきた。 神様に真新しい絹と麻が届けられる。 新しい着物に着替えた神様は清らかな力を蘇らせる。 そこには式年遷宮の常若に近い願いが込められている。 古代の日本人の素朴な祈り、わが身を暖かく包む衣、海や山からの豊かな恵み、雨露をしのぐ住まい。 私たちの先祖が伊勢神宮に祈り続けてきたのは、生きることの基本となる衣食住といったささやかな幸せだったといえる。 当り前の日常が、当り前に繰り返されてゆくこと。 伊勢神宮の祈りの姿は、その大切さを現代の私たちに問いかける。 素朴な願いを形に表すための技は、伊勢神宮があったからこそ守り受け継がれてきた。 そしてその技を受け継いできた幾世代の人々の素朴な祈りと真心によって、伊勢神宮もまた支えられてきた。 |
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