ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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ありえへん 江戸の世界
江戸時代に人気だったレンタルのお店とは?

江戸時代、大繁盛していたのは・・・ふんどしのレンタル屋さん
当時ふんどりは、新品を買う場合、今の価値にすると6000円ほどし、高額だった。
それをレンタルすると約1500円と割安だったため、繁盛したという。
しかも借りるとき、自分の汚れたふんどりを持ってゆくと洗濯してくれるというサービスも・・・
ふんどしは男のお洒落、祭りや遊郭に行く時などに勝負ふんどしをレンタルしていた。

そのほか江戸時代には今では考えられない様々な職業があった。
全身唐辛子の格好をした、唐辛子売りや、耳の垢取りを専門に行う人・・・

ありえへん、超恥ずかしい職業とは一体?
屁負比丘尼・・・屁の身代わりをすることを職業としていた。
当時若い女性が人前でおならをすることは非常に無礼な事で、お嫁に行けなくなるぐらいの大事だった。
そこで裕福な武家や豪商の娘には、屁負比丘尼(へおいびくに)という本来身の回りの世話をする女性がつき、娘が人前で屁をしてしまった時には身代わりとなって誤り、ピンチを救う役割をしていた。

ありえへん、江戸の寿司
当時寿司は屋台でも提供されていた今でいうところのファストフード的な存在だった。
江戸時代、鯛やヒラメなどは高価だったのに対して、マグロは安く庶民の間で気軽に食べられていた。
当時大トロは脂が多すぎて下品なものと嫌われていたため、捨てられていた。
また当時の寿司は、現代の寿司の3〜4倍の大きさ、今の一口サイズになったのは、近代以降のこと。
食べづらいため、人によっては2つに切って提供していたのが、現在寿司が2貫単位で提供される由縁と言われている。

ありえへん、カステラの食べ方
カステラは室町時代、ポルトガルから伝わり、江戸時代よく食べられていたお菓子。
その食べ方は・・・わさび醤油につけて食べる・・・さらに味噌汁の具に・・・
当時のカステラは現代の者ほど甘くないこともあり、こういった食べ方がされた。

ありえへん、江戸の制度
おでこに謎の文字?
大髭禁止令・・・徳川家綱が発布。
江戸初期、髭を生やすのが大流行し、生えない人は付け髭をつけたり、墨で髭をかく人が続出するほどの異常事態となり、禁止されたという。
おでこに犬と書かれた人が・・・
軽犯罪を犯した時の刑罰で、「犬」と額に入れ墨を入れられていた。
地域や犯罪の種類によって文字が変わり、中には○や又や✘というものも・・・
さらにオデコだけでなく腕に「悪」という字を入れ墨されるものも・・・
恥ずかしいこれらの刑で犯罪を抑えていた。

壮絶!離婚した妻のありえへん行動
江戸時代の離婚率は現在の約2倍、武士は10人に1人が離婚していたと言われている。

「うわなりうち」をしに行く謎の女性集団、皆かなり険しい顔、手には棒、しゃもじ、ほうきを持っている。
後妻打ち(うわなりうち)とは夫と別れた元妻が友達を引き連れて再婚した男の家を襲撃するという風習。
一種のストレス発散のようなもので、暴れて一通り気が晴れたらかえっていった。
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古代の宇宙人 黄金と宇宙人
コロンビア、Guatavita湖、古代に隕石が墜落したという円形の湖が、山々が囲む。
人類が大規模な探索を行ってきた場所でもある。
探すのはエルドラド、失われた黄金郷。
16世紀以降、財宝ハンターたちが行ったエルドラド探索は、困難を極めた。
南米のどこかに誰も知らない宝が眠ると伝える伝説は、星の数ほどもあるが、今もなお、エルドラドは発見されていない。
こんな夢のような場所が何世紀もの間、探検家に見つからずにいたのはなぜなのだろうか?

Gregory Deyermenjian(Paititi Explorer)「エルドラド伝説は、グアタビータ湖から生まれたとされている。
ここは先住民ムイスカ族、別名チブチャ族の土地で、首長制がとられていた。
インカ人やアステカ人ほどの高度な文明ではなかったが、ここに存在した文明には、多くの金があった。
ムイスカ族の土地の南半分を治めた酋長は、ジップという名だったが、16世紀にここにきたスペイン人征服者たちは、母国語で黄金の人を意味するエルドラドと呼んだ。
ムイスカの神聖な儀式を見た後につけられた名前である。

儀式の中でジップは、船でグアタビータ湖の中ほどまで漕ぎ出すと、湖底に住む神に黄金のささげたと言われている。
酋長のジップは、樹脂を体に塗って全身に金粉をまぶしたと言われている。
その後湖に飛び込んで金粉を洗い落とす。
この金粉が湖の底に降り積もっていたことや、金でできた神への捧げものが投げ入れられていたことから、コロンビア周辺では、エルドラド伝説が語られるようになった。
イギリス人土木技師のパートレイノールズの指揮のもと、グアタビータ湖の探索が行われた。
そして1912年には、黄金の異物を含む20000ドル相当の宝物が見つかったと発表された。
ノールズは、これがほんの一部であると信じて疑わなかったが、この時に発見された遺物は、ムイスカ族の酋長の伝説が真実であった証ではないか?
だとすれば神と呼ばれ、湖底に住んだ者たちは、何者だったのだろうか?

David Childress(Author,Technology of the Gods)「異星人が地球に来たのは木々を掘るためだったという研究者が数多くいる。
ゼカリア・シッチンは、宇宙人は故郷の星を守るために黄金が必要だったといった。」
Derrick Pitts(Chief Astronomer The Franklin Institute)「実際に金は宇宙探査と天文学にとって大変重要なもの。
それは金が不活性の物質で、どんな物質とも化合しない金属だから。
他にも伝導性がすばらしくよいという重要な特性ももっている。
そして最後にもう1つ忘れてはならないのが、金は赤外線エネルギーを反射するのに適した物質であるという点。
恒星やそのほかの発熱体が発する高熱から、宇宙船を守るためにも使われる。」

宇宙全体でみても金は非常に希少な元素。
金を探して宇宙人が地球にたどりつくことなど、ありえるのだろうか?
古代宇宙飛行士説を唱える者たちは、その可能性があるばかりか、古代に記された文章や伝説の中に、証拠が残されている。
その1つがペルーの南東地域近辺に位置すると言われた古代インカ帝国の伝説の都市パイティティだ。

探検家グレゴリー・ダイアメンジャンは、ペルー人探検家のパウリーノ・ママーニと共に遠征を組み、黄金郷を求めて1984年以来、15回以上におよぶ探索を行ってきた。
「パイティティに続くと伝説に語られる石造りのインカの道を私たちはたどり続けている。
この地一帯が、苔やジャングルに覆われて、川にも行く手を阻まれるのは、大地の恵みパチャママが何かを隠しているからそうだ。」

ダイアメンジャンたちの対策は、黄金の囲い場を意味するインカの聖地クスコのコリカンチャから始まったと言われる。
1559年にスペインの征服者たちはサントドミンゴ教会を建てるためにコリカンチャを取り壊した。
そして今もこの教会は、古代インカの神殿遺跡に囲まれながら、クスコの中心に立っている。
金で覆われた巨大な祭壇が見どころである。

しかしスペイン人の記録によれば、コリカンチャはこの教会が見劣りしてしまうほどに素晴らしく、黄金の像があちこちに置かれていただけでなく、純金の薄板で覆われていたという。
Brien Foerster(Author,A Brief History of The Incas)「金は太陽の汗と考えられ、インカ人にとって重要なものだった。
太陽はインカの最高神、したがって太陽の汗は手にすることのできる最も神聖なものを意味した。」
古代宇宙飛行士説では、かつてコリカンチャにあったプンチャウと呼ばれる金色に輝く太陽神の像に、宇宙人がインカ人と接触した証があるかもしれないと考える。

Giorgio A.Tsoukalos「コリカンチャに巨大な金の円盤があったことはよく知られている。
この金の円盤にまつわる古代信仰があるのだが、それはこの円盤が空から降ってきて、インカ帝国の皇帝アタワルパの目の前に落ちたというもの。
伝説によれば、皇帝は空の神々と接触があったようだ。」
かつてこりにか保管された巨大な金の円盤は、宇宙から来た者たちを称えるために造られたのだろうか?
それに宇宙人の目的が金の採掘であるなら、これはパイティティが近くに存在する証でもあるのだろうか?

1533年に、スペインはクスコの町を襲撃し、インカの金を求めてコリカンチャの神殿を破壊した。
しかし伝説によれば、その時すでに金は、30kmあまり北西の町へ移され、近隣の町に沈められていたという。
「スペイン人の一行がクスコに到着する前に、神官がそれに気づいた。
人々は神殿から金をすべて持ち去って、湖に投げ入れた。
いまだにその財宝は見つかっていない。
現在の価値にして数十億ドルに上ると言われている。」

さらに不思議なことにこの周辺の空では、不思議な物体が頻繁に目撃されている。
それが何百年もの間、続いているという。
船が湖の上を飛ぶだけでなく、水の中に入っていくと地元住民がいう。
直径約6mの宇宙船がちょうど入るほどの渦が発生して水面に穴が開くという。
そこに謎の船が入ると渦巻きは消える。
その後船は同じようにして水から出てくる。

東京帝国大学、1924年3月、原子力エネルギーに関する初期の実験を行っていた長岡半太郎教授は、パラフィンオイルの長岡誘電層の中で水銀の同位体に15満ボルトの高電圧を4時間もかけ続けていた。
実験の目的は、水銀の原子核から水素原子を取り出し、別の元素を作り出すことだった。
その元素とは金である。
実験は成功し長岡教授は何世紀も科学者たちが得ることのできなかった賢者の石、つまり黄金を作り出す秘法を見つけた。
A.J.SHAKA,PH.D.(PROF.CHEMISTRY,UNIV.OF CALIFORNIA,IRVINE「賢者の石とは錬金術の中で使われる概念。
鉛など手に入りやすい金属を黄金へと変える魔法のような物質のことを意味する。」
何千年もの間、何人もの王が、ありふれた金属から金を作り出す伝説の装置を求め、科学者と錬金術師もその発明のために何百年も費やした。

アイザック・ニュートンでさえ、17世紀には賢者の石の神秘に取りつかれていた。
しかしイギリス王室は増産によって金が暴落することを恐れ、錬金術を行う者に死罪を科した。
1924年に長岡教授の実験が成功するまでは、科学者の大多数が別の金属から金を作り出すことなど不可能だと断言していた。
しかし注目すべき点が明らかになると、態度は一転する。
MICHAEL DENNIN,PH.D.(PROF.CHEMISTRY,UNIV.OF CALIFORNIA,IRVINE)「自然界では恒星が超新星となる時の核融合によって金が作り出される。
その大規模な爆発のために生成された金が宇宙全体にばらまかれる。
現代は核反応が制御できるようになったので、金を造ることは原理としては可能。」
カリフォルニア大学Irvine校では、A.J.SHAKA博士によって錬金術の実験がほぼ毎日行われている。
「このチューブに水銀を入れる。
水銀は原子百分率が0.15%の少量の同位体を持ち水銀196と呼ばれる。
中性子線を照射して、原子核を崩壊させると、23時間ほどで金に変わる。」

原子炉内の中性子を吸収して反応を抑えるのが制御棒、これを引き上げて原子炉の質力を最大にすると、驚異的な速さでエネルギーが生成される。
「ある質量の物質から作り出せる電気などのエネルギーは、核反応を使えば他の方法を使用した場合の、およそ1000万倍、もしくはそれ以上を生産することができる。」

錬金術の発見は、科学にとって貴重ではあるが、皮肉にもそれは富を生み出すものではない。
「この原子炉で1日照射したとしても、得られる金は0.3セントほどの価値のものでしかない。
原子炉の使用には1時間当たり200ドルかかるので、これでは割に合わない。」
現代の錬金術は、莫大な量の金を製造するにはあまりにも効率が悪すぎる。
これに対して古代宇宙飛行士説では、現在のものより、さらに素晴らしいテクノロジーが古代エジプトで使用されていたかもしれないと考える。
ROBERT BAUVAL(CO-AUTHOR,BLACK GENESIS)「金が神聖な金属、つまり神聖な元素であるという考えは、古代エジプトにおける信仰の根底にある概念。」

AIDAN DODSON,PH.D.(EGYPTOLOGIST,UNIVERSITY OF BRISTOL)「金は神の肉体だった。
古代のエジプトは最大の金の供給量を誇っていたと思われる。
バビロンやアッシリアの王たちからエジプトの王にあてた手紙が残されているが、中には金を請う内容のものが多々ある。
例えば、ファラオよどうかたくさんの金をお送りください。
あなたの国ではシリアクタのようにあるのですから、などと書かれている。」
どうして古代のエジプトは周辺の国よりも豊富に金を持っていたのだろうか?
またなぜ金をこの世のものではないと考えたのだろうか?
古代宇宙飛行士説では、エジプト人は金を製造できた可能性があるとしている。
そのために人知を超えた力を借りていたかもしれないというのだ。
DAVID CHILDRESS「工学専門家のクリストファー・ダンは、ギザのピラミッドが巨大な装置で、内部ではなんらかの化学反応が起こっていたのではないかと言っている。
ギザの大ピラミッドが他の元素から金を生成するのに使用されていたかもしれないのだ。」
CHRISROPHER DUNN(AUTHOR,THE GIZA POWER PLANT)「青写真に記された内部の通路や部屋、シャフトの配置を実際に見てみると、ギザの大ピラミッドが墓として使用されていたとは思えない。
建築制度の高さ、王妃の間や大回廊へと続く精緻の石積み、また王の間に使われた何千トンもの花崗岩は、ナイル川を800km以上も下って運ばれている。
ここは何か特別なことを行う場所だったのではないかと考えずにはいられない。」

1936年エジプト、ギザ台地、3000年以上の間、スフィンクスの体は、砂の下に埋められていたという。
しかし11年を発掘に費やしたエジプト人考古学者の手で、とうとうこの像の全容が明らかになった。
全長73.5m、高さ約20m、世界最大で最古の1枚の岩でできた石造だ。
さらに驚くのはその形状、スフィンクスは人間の頭を持ち身体はライオンという姿をしている。
この像が造られたのはカフラー王の時代、つまり紀元前2500年頃であるとエジプト学者たちは考えている。
だが、それよりもはるかに古いものだと主張するものがいる。
ROBERT BAUVAL(CO-AUTHOR,BLACK GENESIS)「浸食状態からみて、もっと古いものだと思われる。」

このような奇妙な石像が造られた時代や理由に関して、学者の意見は一致していない。
しかし古代宇宙飛行士説では、宇宙人が存在した証がこの像に残されていると考える。
JASON MARTELL(AUTHOR,KNOWLEDGE APOCALYPSE)「古代シュメール文明や古代エジプト文明の碑文には、半人半獣のスフィンクスについて刻まれているが、結合されている動物も、その度合いも様々。
なぜこのような怪物が記録に残されたのかを考えなければならない。
宇宙人がここに訪れて、その姿に似せて人間を作り出したことが多くの古代文書に書かれていると考えるほうが、論理的にもつじつまがあう。」
GEORGE NOORY「今は亡きゼカリア・シッチンは、太陽系の外にある惑星の住人アヌンナキという者たちが金の採掘のために地球にやってきたと考えていた。
アヌンナキは採掘作業を嫌がって当時この惑星に存在した生物を遺伝子操作によって人類に作り替え作業員にしたという。」
スフィンクスは古代異星人が行った、遺伝子操作の証なのか。
宇宙人が金を採掘するために人間と動物を遺伝子操作によって作り替えていたのなら、この巨大な構造物は、かつて金をしまう倉庫だったのだろうか?
エジプト人考古学者がスフィンクスを発掘し始めたとき、彼らが本当に捜し求めていたのは金ではなかったか。

ギザ台地周辺では何世紀にもわたって秘密の部屋やシャフト、狭いトンネルが発見されている。
スフィンクスの裏側にギザ台地を走る地下通路が発見された。
通路は何本にも枝分かれするが、どこへもつながっていはいない。
近年は地球レーダ探査が行われるようになって、スフィンクスの周囲に地下空洞がいくつも存在する証拠が得られている。
それだけでなくスフィンクスの下に、秘密のトンネルや部屋があることの証が初めて得られた。
憶測や仮説や言い伝えなどではなく、科学的観点からみて強力な手がかりとなるもの。
もはやギザ台地の下に文津の地下通路があるのかではなく、ここに入るのができるのかという問題になっている。
ここにはたいへん重要なもの、おそらく科学を覆すような異星人に関する何かが残されているのではないろうか。
スフィンクスの下にあるという空洞に、ただの金ではなく、古代の異星人が採掘した金が納められているなら、そこには財宝以上のものがあるのではないか。
古代宇宙飛行士説をとなえる者たちは、スフィンクスの足の下に巧妙に隠された秘密の保管庫があると信じている。

保管庫の年代は、なぞの大陸アトランティスが沈んだ頃にまでさかのぼる。
古代文書によれば、12000年前のことであるという。
またアトランティスには宇宙人が住んでいて、積み上げた英知のすべてを納めるための保管庫を必要としていたという。
William Henry(Author/Investigative Mythologist)「かつて神が持っていた金を使用した技術が納められていると考えている。
これは誰がどうやってピラミッドを作ったのかを知る手がかりとなるだろう。
またここには宇宙への入り口があるように思える。」
もしこの保管庫が実在するなら、そこに納められた地球外生命体の知識が古代の巻物にではなく、金に記されていた可能性はないのだろうか。」
Michael Dennin,PH.D.(Prof.Chemistry Univ. Of California,Irvine)「金は驚くべき金属で、最も優れた伝導体でもある。
電子応用の分野で使われる導体には、伝導性のみならず、腐食しないことが求められる。
なので非常に高品質で耐久性のある電子機器が必要な時には、金が使われる。」

古代人の知るこの貴金属が持つ秘密は、金と一緒に納められているのではなく、金自体に記憶させられているのだろうか。
1953年1月29日フランスRennes-le-Chateau、マリー・レナルノーという衰弱した85歳の女性が死の床にあった。
遠い昔から守られた莫大な財宝についての秘密を明かす、そういった後脳卒中に襲われ、秘密もろともこの世を去った。

レンヌルシャトーに隠された莫大な金に関する伝説は古く、5世紀にまでさかのぼる。
西暦410年に西ゴート族として知られるゲルマン人がローマに侵入、略奪の限りをつくした彼らは、財宝を持ってこの地にやってきたという。
そしてその200年後にこの土地を離れる際には、財宝の一部を残していったとされている。
西ゴート族は死者と共に宝物を埋葬することで知られていたので、レンヌルシャトーに金が埋まっていると言われるようになった。

1891年ベランジェ・ソニエールという名の若い教区司祭が教会の修復を行っていた際、何かを発見し、ほぼ一夜にして大変な資産家となったことが語り継がれている。
David Childress「ソニエールが手に入れた宝は、この教会の下にあったいくつもの地下墓地カタコンベに納められた莫大な財宝の一部であったと考えられる。
ここのカタコンベは古代に造られたものだった。
またこの地域には西ゴート族が使った洞窟があると言われている。」
ソニエール神父は偶然財産が転がり込んだだけと主張した。
しかし教会の下のカタコンベに納められたさらに多くの金を精力的に探していたと多くの者が考えられている。

しかし金の発見よりもさらに謎に包まれているのはその後の神父の行動だった。
その奇行の一端は教会のデザインにも表れているという。
ソニエール神父は古代文書を探し回って錬金術に使われる錬成ジンについて調べていたようだ。
そのあと神父はある計画に沿って教会を建て始めるが、その計画とは神と接触するというものだった。

神父はある種の金属を変化させればそれが可能になることを知っていたのではないか?
謎の財宝を手に入れた経緯を神父が打ち明けた相手は、家政婦のマリー・レナルノーただ1人だった。
ソニエールが扉の上に掲げた言葉は100年の間物議をかもしている。

それはラテン語で書かれた文章で、ここは恐ろしき場所かなという意味に間違って解釈されることが多かったが、実際には旧約聖書の創成記から取られた言葉。
聖書の中でヤコブは天へと続く梯子の夢を見てその地を神と人を結ぶ場所だと考えた。
旧約聖書の中ではこの文書の訳は、畏れ多い場所となっている。

レンヌルシャトーは別世界への入り口かもしれない。
宇宙への入り口がある強大なパワーを持つ地でないのなら、ソニエール神父があのような文書を入り口に掲げることなど考えられない。
レンヌルシャトーにはUFOが出現するという証言もある。
ここでタイムスリップをした人もいたし、悪魔と遭遇したという話もある。
この小さな村には別世界への過去へと、もしくは別次元へとつながるトンネルがあるのだろうか?

スコットランド、Rosslyn Chapel、エジンバラから10kmあまり南にあるロスリンの村、西暦15世紀、村を見下ろす丘の上にこの教会は建てられた。
この教会の中には秘密の部屋がある。
失われた素晴らしい遺物が隠されていると言われ、その中にはテンプル騎士団の財宝も含まれている。

全員が戦士で修道士だったテンプル騎士団は、十字軍遠征の時代にエルサレムの神殿の丘に拠点を置いた。
また多くの宗教的遺物を持っていたとも噂されていた。

世界で最も貴重な聖なる金の遺物と言われる聖杯もその1つで、これは最後の晩餐の時にイエスが使ったとされる杯である。

テンプル騎士団はソロモン王の神殿跡地を発掘して数えきれないほどの金の遺物が納められた秘密の洞窟を発見したと言われている。
ソロモン王の財宝は神殿が破壊された時に突然消え失せている。

騎士団が財宝をスコットランドに運んで、ロスリン礼拝堂に埋めたとも言われている。
ロスリン礼拝堂はソロモン王の神殿を再現したもの。
この礼拝堂は聖杯やその秘密を納めるべくウイリアム・シンクレア教によって建てられた、まさに聖杯神殿だった。

当時ここより優れた象徴的表現が施された建造物はない。
この建造物が聖杯の隠し場所を示す謎の言葉や記号で飾られていると考える者もいる。

ロスリン礼拝堂の壁に見られる数多くの彫刻の中にグリーンマンと呼ばれるものがある。
これは成長と再生をつかさどる異教の神。
この不思議な顔の彫刻が礼拝堂に聖杯が隠されている手がかりだと信じる者もいる。

「グリーンマンには2つの意味が込められている。
礼拝堂のあちこちに110体以上もある。
東から西へとグリーンマンを追ってゆくと、時間と共にこの彫刻が変化していることがわかる。
東側の壁に彫られたものは比較的新しいもので、西に行くにしたがって年代が古くなっている。」

聖杯がロスリン礼拝堂に納められたのなら、どこに隠されたのだろうか。
徒弟の柱と呼ばれる飾り柱の中にあると信じるものもいる。
実際に取り出そうとしたものも1人いた。
斧を持って礼拝堂に忍び込み、徒弟の柱の中に聖杯が隠されていると信じ、柱を叩き割ろうとした。

聖杯とは何だろうか。
人類の過去と未来を握るものなら、これはDNAだと考えらないだろうか。
実際に徒弟の柱はDNAの二重らせん構造そっくり。
これらの謎の彫刻が示すのは最後の晩餐の際にイエスが使用したとされる聖杯は単なる杯ではなかったということではないか。

ドイツの詩人ボルハム・ボン・エッシェンバハは、聖杯が宇宙からもたらせたものだと言っている。
聖杯の描写に点滅する赤いランプがついていたという表現をよく耳にするが、テンプル騎士団はハイテク機器か何かを持っていたのだろうか。
古代において聖杯は冥界のもの、あるいは別世界のものとイエスをつなぐものだったのだろうか。
聖杯が見つかれば人間の異星人との関係も明らかになるのだろうか?
そうだとすれば、金の神殿と呼ばれる謎の建造物が存在するペルーや、エジプト、フランスには金よりもはるかに価値のある宝が眠っているのかもしれない。
金とは、人間と別世界の者たちとを結びつけるものだったのだろうか。
おそらくは何千年も前に別の星から地球にやってきた我々の祖先を知る手がかりとなるものだろう。
しかし古代の宇宙人が太陽系第三惑星、つまり地球を訪れた理由の1つが金の探索だったとすれば、宇宙人はさらなる金を求めているのだろうか。
そして地球に再びやってくるのだろうか。
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Aliens and Sacred Places 宇宙人と聖地

ここはおそらく人類にとって最も神聖な地といえるだろう。
世界の主要な3つの宗教、キリスト教、ユダヤ教とイスラム教の信者が皆この地を敬い崇め奉る。
まさに聖地と呼ぶのにふさわしい場所。

Jerusalem旧市街、神殿の丘、古代の城壁に囲まれた台地は数千年前から聖なる場所と考えられてきた。
Robert Mullins PH.D.(Archaeologist)「ここがユダヤ教とキリスト教にとって神聖である訳は、創世記の22章でアブラハムが息子イサクを縛って生贄にしようとした場所だから。
またここにある岩のドームには、イスラム教開祖のマホメットが天界に旅立った時に足跡を刻んだという岩がある。」

Philip Coppens(Author,The Ancient Alien Question)「神殿の丘には、3つの宗教にまつわるものが混在している。
それぞれ違った説話があるが、重要な場所であることに間違いない。
その起源は、神が地に降り立ったという点で共通している。
以来ずっと、ここは死後の世界か、神の世界と更新するために場所だった。」

毎年何百万人もの巡礼者が礼拝のために神殿の丘を訪れる理由は一体何なんのだろう?
紀元前10世紀に、ダビデ王がこの地を巨大な神殿の建設地に選んだ訳は?

Mrvin Mewer,PH.D.(Prof.of Religion Chapman University)「ここはイスラエルの王となったダビデが攻め落とした地だった。
神の祝福があった土地でもあるし、イスラエルの民に神が与えてくれた聖なる土地という意味合いが当時からすでにあった。」

Michael Coogan,PH.D.(Leturer,Harvard Divinity School)「聖書によればダビデはエルサレムに遷都した後に、神の住まう家を建てたがっていた。
しかし最初の神殿を建設したのは、その息子ソロモンだった。」

紀元前957年、ダビデの息子ソロモンが建設した神殿には、契約の箱が置かれたと言われている。
ユダヤの紙が与えし掟、十戒が刻まれた石板がこの箱に納められている。
しかし古代宇宙飛行士説を唱える者の多くが、契約の箱は異星人に与えられた強力な装置であるという。

Erich Von Daniken(Author,Chariots of the Gods?)「聖書には契約の箱のことがつづられている。
神はモーセに聖なる山に来るように命じて、この箱のつくり方を伝授する。
この箱がその後どうなったかは聖書に記される通りで、たいへん奇形なものだった。」

R・M「ソロモン王は契約の箱を神殿の奥深く、位の高い祭祀だけが入ることを許された場所に安置した。
本殿の内部に作られた内洞だ。」

ユダヤ教の聖典・タルムードによれば、ソロモンの指輪と呼ばれる特別な記号が刻まれた魔法の指輪を持っていたという。
この記号こそ、ダビデの星。

この指輪は普通の人間なら、到底なし得ないことをも可能にするものだった。
ソロモン王は指輪の力で悪魔を操ることもできた。
こうして力を得たために、それまでは不可能だった建造物の建築が可能になったとも言われている。
イスラム教の聖典によれば、ソロモンは緑の絹でできた魔法の絨毯を持っていた。
それは玉座と兵士が乗れるほど大きなものだった。
Giorgio A. Tsoukalos(Publisher,Legendary Times Magazine)「魔法の絨毯なんてものが存在するはずがない。
私たちの祖先は、この話の中で何を言い表そうとしていたのだろうか。」

David Childress(Author,Technology of the Gods)「ソロモンはどうやって不思議な力を得たのだろう。
宇宙人と接触して空を飛び回るための宇宙船を与えられていたのだろうか?」
ソロモンの神殿の複雑な形状やデザインを研究したアイザック・ニュートンでさえ、ソロモンが秘密の知識を持っていたのでは、と疑った。
Bill Birnes,J.D.,PH.D.(Author/Publisher,UFO Magazine)「たいへん高度な建築技術が駆使され、光の取り入れ方にも正確な天文知識が繁栄されている。
この神殿にみられるデザインとレイアウトを可能にしたソロモン王時代のテクノロジーは、一体どれほどのレベルだったのだろう?
現代の学者や建築家たちでさえ首をかしげるばかり」

「実際旧約聖書のソロモンの契約には、ソロモンが人間の労働者や建築家を使っただけではあく、悪魔にも手伝わせたと書いてある。
悪魔は特に力が強かったため使ったようだ。」
契約の箱に備わった高度なエネルギー装置がソロモンに莫大なパワーを与えていたのだろうか?
その装置とは、もしや宇宙からきたものではなかったか?
ソロモン王の神殿は紀元前6世紀、バビロニアに攻め入られた際に焼き払われた。

だがその跡地には、ヘロデ王によって西暦1世紀、第二の神殿が造られた。
新約聖書によれば、第二の神殿は、イエス・キリストの人生に深くかかわるものであったという。
イエスはこの神殿の境内から物売りを追い出し、その後ユダヤ人とローマ人の両方の手によって磔となり命を落とした。
そしてここは蘇ったイエスが体ごと天に上った場所とされるオリーブ山の近くでもある。
Rev.Barry H.Downing(Author,The Bible & Flying Saucers)「イエスの物語には、弟子たちが、イエスが天にめされても、いつか戻ると信じていたと記されている。
このような話も含めたうえで、地球外に生命体が存在することを聖書は認め、信じるよう説いているとも解釈できる。」

古代宇宙飛行士説がいうように、イエスはソロモン王と同じく、別世界のものとつながりがあったのか。
Rev.Michael J.S.Carter,M.Div.(Author,Alien Scriptures)「異星人との遭遇に関して、天に昇るという話がよく出てくる。
新約聖書にもイエスが昇天した話がある。
このような話は雲の上で待つ宇宙船へと人間を持ち上げ、引き上げる装置を地球外生命体が持っているという裏付けともなりえる。」

第二神殿も、西暦70年にローマ軍によって、炎上、破壊される。
そのおよそ600年後にこの地を侵略したペルシャ人は、崇高なる聖書とイスラム教徒が呼ぶ、岩のドームを、ここに建設した。

岩のドームは、露出した岩の岩盤に覆いかぶさるように建っている。
イスラム教の教えでは、神の導きでこの岩からマホメットが天に昇ったとされている。
実際にこの岩には穴が開いていて、マホメットが、どこから天に連れて行かれたかが分かる。
天でアラートであって啓示をうけた後、マホメットは再び同じ場所に戻ってくる。
なのでイスラム教徒にとってここは、重要で神聖な場所。

コーランによれば、マホメットが天に昇る際に乗った岩は、聖なる岩と呼ばれている。
宗教学者たちは、この岩の上にはかつて、契約の箱が安置されていたと考えている。
ソロモンの神殿の内洞が建っていたというのだ。
神殿の丘は、古代に存在した、銀河をつなぐトンネルの入り口ではなかったかと考える専門家もいる。

宇宙を旅した生物は、何万年も前に、本当にこの地に降り立ったのだろうか。
神殿の丘は、古代人が異星人と初めて接触した場所だったのだろうか?
この地の持つ宗教的意味が、地球外生命体との関連を裏付けとなる証となるのだろうか?

中東の要、サウジアラビア、紅海から80kmほど入った内陸に、イスラム教のもっとも聖なる都市、メッカがある。
西暦570年に、予言者でイスラム教の開祖であるマホメットが生れた場所である。

Michael Coogan,PH.D.(Lecturer,Harvard Divinity School)「当時のメッカは、商業の中心地だった。
インドや、さらに遠くのアジア諸国から持ち込まれた商品は、陸路で北部のダマスカスに送られた後に、海路でエジプトまで運ばれた。
この商業都市で予言者マホメットは最初の啓示を受けた。」

メッカの中心には、イスラム教徒にとって最も神聖な場所アルハラムモスクがある。
このモスクの中心部に位置するのがカーバ、高さ13m、幅10m、花崗岩でできた立方体の神殿。
イスラム教の教えによると、カーバは紀元前およそ2000年に、イスラムとユダヤ、両方の祖となった人物アブラハムによって造られたという。

アブラハムには2人の息子がいたと聖書には書かれている。
最初の息子はイシュマエル、そして次男がイサクだった。

このイシュマエルとアブラハムが一緒にこの地を訪れ、カーバを造ったと言われている。
金の刺繍が施された黒い絹で覆われたカーバは、イスラム教で最も神聖な建造物。
毎年およそ300万人のイスラム教徒がカーバへ巡礼に訪れる。
この巡礼はハジと呼ばれる。

イスラム教徒にとっては、可能であるなら一生のうちに少なくとも1度はメッカ巡礼、つまりハジに行くことが義務となっている。
これはアブラハムとイシュマエル、マホメットの足跡をたどり、それを象徴した儀式に参加することを意味する。

メッカを訪れる巡礼者にとってここで行われる儀式の一番のメインとなるものは、カーバを取り囲む集団の列に参加して、この神殿の周囲を反時計回りに7周歩いて回ること。
この立方体の建物の一角には黒い石が埋め込まれている。

この石がどこから来たのかは不明だが、伝説では天使によって空からもたらされたとされている。
そして現在の場所に保管されるようになった。
この石がマホメットの時代よりはるかに前から崇拝されていたという説がある。
古代に落ちた隕石だという。
古代の人々にとっては、隕石は神からの啓示と映ったことだろう。
巡礼でカーバの周りを7周歩く際に、できることならこの隕石に口づけするのがよいと考えられている。
しかし今は巡礼者の数が多すぎるので、それが不可能になっている。
そこで現在の慣習としては、石に口づけできないのなら、石の方に向いて敬意を示せばよいということになっている。

この石が天国から落ちた隕石で、代々守られてきたのだと人々は信じている。
隕石の一部はかけて破片となったが、銀で縁取りされているおかげで、破片も全て失われず保存されている。
黒い石は本当に隕石なのだろうか?
そうだとすれば、イスラム教の教えに語られるこの黒い石の起源は、どう解釈できるだろう?
カーバは、ある種のエネルギーを放出して、人々にエネルギーを与え、精神性ある健康を高めるという説がある。
おそらくこれは、黒い石が隕石で、宇宙から来たことに関係している?
イスラム世界において、この黒い石は、あまりにも神聖視されているため、科学的分析にかけつことなど、到底許されることではない。

E.Deniken「大天使ミカエルは、地上に降り立った。
そしてアブラハムに文書に記された何らかの情報を与える。
その情報は石の中に封印された。
その石が現在現在カーバにある天より賜りし石なのだ。」
古代の人々は、神の教えを得るためか、天を読む能力に長けていた。
黒い石を読むこともできたかもしれない。
研究者によれば、カーバの壁面はちょうど、竜骨座のカノープスの上る方向と、月の軌道、夏至と冬至の太陽の方向を向いているという。
しかし古代の人々はどうやってこのような天文学の知識を得たのだろうか。
Jason Martell(Author,Knowledge Apocalypse)「太陽の周りを惑星が回るように、カーバの周りを回巡するようになったのは、当時の惑星の配列を人々が知っていたのかもしれない。
G.Tsoukalos「イスラム教には、翼をもつ天使が、光を放ちながら強風と共に降臨し、大地を震動させたという説話がある。
この説話に語られた出来事は必ずしも神との遭遇だったとは言えず、生身の地球外生命体との遭遇だったとも考えられる。」
天文学の知識をもとにカーバが建てられたのは、古代のイスラム教徒が秘密の知識を持っていたからなのか、そして黒い石を崇める行為には、異星人と遭遇したことを祝うという意味合いもあるのでないか。

1819年4月28日インド西部Ajanta村のすぐ近くで虎狩りをしていたイギリス人将校ジョン・スミスは、精巧な細工が施されたいくつもの石窟寺院を発見した。
寺院が彫られた場所は、ワゴーラ渓谷を見下ろす断崖だった。
建設は紀元前200年と考えられている。
この石窟寺院の建設技術と美術品の数々は、謎の多いインドの歴史に新たな光を投げかけた。
アジャンターはインドに現存する仏教徒の寺院では最古のもの。
建築は紀元前200年に始まり6世紀の終わりごろまで続いたと考えられている。

7世紀以降はインド全体で仏教が衰退し始める。
石窟は置き去りにされ住む者もいなかった。
そして時が経つにつれ、ジャングルの木々が石窟を覆い隠してしまった。

堅い岩から削り出され、すべてが巨大な1つの岩から彫られている。
現在のおいてもこの寺院は神聖とされ、毎年何千人もの仏教徒が訪れる。
献身的な僧によって聖堂として建てられたこの寺院は、数多くの礼拝書を持つ。
そこは、目覚めた人と呼ばれた釈迦の一生や当時の時代を写し取った数々の絵や彫刻が飾られている。

David Efurd,PH.D.(Asst.Prof.of Art History Wofford College)「アジャンターには様々な彫刻が残されているが、その多くが釈迦の姿を彫ったもの。
釈迦の他にも神の世界の者たちを記した仏教説話が題材となっている。

この説話はジャータカと呼ばれる。
この中では現生は前世とつながっているという輪廻転生について書かれていて、釈迦も前世では動物や人として生まれたかもしれないし、神だった可能性もあると説いている。」

2000年以上も前に高さ20m以上もある花崗岩の岸壁をくりぬいて洞窟が造られたことには現代の技術者も舌をまく。
この洞窟は岩を外部から掘り進めて、トンネルを造るようにくりぬいて造られている。
現在も見ることができる石窟内部の空洞は、岩を砕き、ノミで削って瓦礫を運び出すという作業によってできたもの。

この石窟に施された装飾の細部に至るまで、また数々の彫刻のすべてが、この岸壁のひと連なりの岩から造られている。
アジャンターの石窟寺院は、岸壁に沿って綿密に計算して造られたその配置に重要な意味があるという。
当時の人々が天体活動について高度な知識を持っていたことがうかがえるという。
石窟は馬蹄形に浸食された断崖に造られているので、様々な方角を向いている。
あるものは東の方角、つまり太陽が昇る方角を向いている。
これを見ると、古代のインドの人々が宇宙や天体の星々の関係といったことに強い興味を持っていたのではと思える。

この寺院を彫った者が天体に関する知識を持っていた証を2つの洞窟に見ることができる。
どちらにも大きなストゥーパがある。
これは仏教の開祖となった釈迦、ゴータマシッタールダの遺骨、仏舎利を祀っているとされるドーム型の建造物、仏塔のことである。

第19窟と呼ばれる石窟は、冬至の太陽の方角を向いている。
つまり冬至の日に朝の光が石窟正面に造られた大きな窓から差し込み、その光がちょうどストゥーパを照らし出すように造られている。
第26窟でも同じことが起きる。
夏至の太陽の方角を向くように建てられている。
やはり差し込んだ光が石窟内のストゥーパを照らし出す。

若いころの釈迦が中央に置かれたストゥーパが数多くあるが、釈迦が何かを操縦しているようにも見える。
ストゥーパは、釈迦が天に昇るとき、または地上に降りるときに使われたという。
なのでこれは釈迦が宇宙に旅立つ姿を表したものではないかと考えられている。」

George Noory(Radio Host,Coast to Coast AM)「古代人は見たことを表現しなくてはという思いに駆られていたのだろう。
それで洞窟に彫られたレリーフや絵画、彫刻、記念碑といったものに自分たちの見たものを見たままに写し取ったのだ。
なのでそれは古代人が目撃したものと考えらえるが、どうにも奇妙なものが描かれている。」

アジャンターの壁画には、半身半獣の姿を持つ神が描かれている。
なのでこの石窟寺院は宇宙の絶対神のような存在のために造られた特別な地底の寺ではないかと考えられる。

僧侶たちは誰と会っていたのか?
地球外生命体の力を借りていたのかもしれない。
宇宙人が遺伝子操作によって異形の生物を作り出したのか?
アジャンターの彫刻と壁画は、現存する古代インド美術の中でも最古のものに分類され、精巧な細工が施されたこの石窟は、宇宙人との接触によってできたのだろうか。

エチオピア、Lalibela、山々が連なるこの風景に隠されたひと塊の岩からなる11の聖堂。
Giorge A.Tsoukalos「ラリベラに近づく間は特に何も見えてはこない。
しかしすぐ近くまで行くと、突然地面が開ける。
そして岩盤から削り出された巨大な素晴らしい聖堂が目に飛び込んでくる。」
Philip Coppens「ラリベラの聖堂群は建築概念が当てはまらない。
聖堂は岩盤を掘り下げて造られている。
この驚くべき工学技術は現代の建築工法を根底から覆してしまうほど。」
ラリベラの生活は、宗教儀式が中心。
毎年約21000人のキリスト教信者が巡礼に訪れる。

Michael Gervers,PH.D.「エチオピアのキリスト教はユダヤ教の流れをくむ古いキリスト教で、現在の西洋諸国のものとは異なる。
キリスト教が西欧諸国に普及したのとほぼ陶磁器にエチオピアにも広まった。」
考古学会では聖堂が12世紀に彫られたと考えているが、聖堂を調査した科学者たちは、この聖堂建築は、科学的には説明がつかないと説明づけた。

聖堂を一目見れば、電動工具が使われていることがすぐわかる。
堅い石を加工する際に、鉄製の専用の道具が必要、現代でも電動のこぎりやグラインダー、電動ノミがなくては不可能。
古代宇宙飛行士説で言うように、ラリベラの聖堂群が現代の技術なしで造られたのなら、一体何者によって造られたのか。

15世紀に記されたとされるラリベラ王に関する説話がある。
それによると天使ガブリエルが現れ、王を連れ去る。
王が連れていかれたのは、神々しいエルサレムの町で、そこで神は王に、ラリベラを第二のエルサレムとするように言う。

王は国に帰り聖堂建設に取り掛かる。
何年物月日が費やされた。
昼夜を徹しての作業を手助けしたのは、天使だったと言われている。
伝説によれば天使が天国から降りてきて、作業員たちが疲れて眠っている夜の間に作業を行って手助けをしたと言われている。

ラリベラの聖堂建設に天使が手を貸した理由は何だったのか?
神や天界の者を称えるためか、あるいは地球外生命体を祀るためだったのだろうか?
エチオピアのキリスト教徒にとっての古代の聖典ケブラナガストによれば、金箔で覆われ、十戒を納めたとされる契約の箱は、紀元前9世紀にエルサレムからエチオピアに移されたという。
ソロモン王とシヴァの女王の間には子供がいた。
ネメリク1世と名付けられ、後に初代エチオピア王となる人物。
ネメリクが22歳になった時、父親に会いたいと母であるシヴァの女王にいった。
そこで女王は息子がエルサレムに行けるよう手配する。

ネメリクはエルサレムに長期間滞在するうちに同じ年頃の貴族の男と知り合いになる。
そしてネメリクが国に帰る前の晩、2人は一緒に神殿に忍び込んで契約の箱を持ち去りエチオピアに持ち帰ったと言われている。

契約の箱がラリベラに保管されたことははたしてあったのか、それを示す歴史的根拠は何1つ存在しないが、この地に残る伝説では、一時期ラリベラに安置されていたと語られている。
ラリベラの聖堂には契約の箱がちょうどぴったりとおさまる祭壇がある。
エチオピア正教会の説明によれば、契約の箱はもはやラリベラの聖堂にはなく、320kmほど北上したアクスムの町にあるという。

今もエチオピア人の司祭が警備する特別な聖堂があって、そこには誰も入ることができない。
アクスムの町にはマリアシオン大聖堂と呼ばれる大きな聖堂があり、地下にはトンネルがあり、このトンネルのさらに下に契約の箱が置かれていたという。
それはなぜ長い間封印されていたのだろうか?
古代宇宙飛行士説によれば、契約の箱を人間に与えた強大な宇宙人がいつかこの箱を取り戻しに来るのだという。
そして宇宙人が再来するときには、最初に訪れた場所に再び降り立つと考える者もいる。

レバノン東部Bekaa Valleyには、古代の都市ヘリオポリスの遺跡が残されている。
紀元前4世紀にアレキサンダー大王がゼウスに捧げた神殿である。
だが、ギリシャ時代とローマ時代の遺跡やコリント式円柱の下には、それよりはるかに古い遺跡が横たわっている。
考古学者によれば、およそ9000年前のものだという。

この古代都市バールベックの名は、古代カナンの地で崇拝されたバールに由来する。
バールは生命と空と太陽をつかさどる神、この神はバールベックの地でカナン人とフェニキア人が共に信仰した神だった。
この場所がバール信仰の聖地であったために、後に訪れたギリシャ人とローマ人も同じ場所に神殿を建てたのだろう。
考古学調査が行われた結果、この遺跡の土台を形作る巨石は、何万年も前のものということが明らかになった。

Hanan Charaf(Archaeologist)「考古学資料からは、バールベックは原石器時代、つまり紀元前6000年から8000年、もしくは9000年に存在したと考えられる。」
古代宇宙飛行士説ではさらに、この巨大な石の土台は、かつて宇宙を旅する者たちの、着陸体として使われていたのではないかと考える。
研究者たちがこの説の根拠としてあげるのが、土台に組み込まれた巨大な石。
巨石はそれぞれ800〜1200トンもある大きなものだが、それが完璧に組み合されている。
このような石をどうやって持ってきたのか、どうやって組み立てたのか?
石があまりにも巨大であったため、古代の人々はこの石が未知の力によってここに運ばれてきたと考えた。
古代宇宙飛行士説で言われるように、バールベックが数万年にわたって聖なる地と人々からみなされてきた理由は、異星人が最初に地球に降り立った場所だからではないだろうか。

バールベックが宇宙人の上陸地点であることがシュメール文明のギルガメシュ叙事詩に記されている。
ロケットがバールベックに着陸したり、発進したりするのをギルガメシュが見たと書かれている。
レバノンのバールベックとエルサレムの神殿の丘を比較してみると、石をくみ上げて造られた超大型の土台が驚くほどよく似ている。
どぢらとも宇宙船を上にのせる目的で造られていたのだろうか。
異星人の集団は、地球の最も聖なる土地にほんとうに降り立ったのだろうか。
信仰に篤いものは、すでに真実を知っているのかもしれない。
それとも将来明らかにされるまで、真実は隠されたままなのだろうか。
 
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時を紡いで★伊勢神宮 つなぐ技と心
海の中の森、多くの生き物を育み恵みをもたらす海の緑。
志摩の海は海女たちの舞台、志摩半島では、海女が海に潜ることを「かずく」という。
2000年にわたる伝統の漁だ。
海女たちにとって、志摩半島の先端、久崎の鎧崎は特別な場所。
この浜で採れたアワビだけが、伊勢神宮に納められる。

志摩の海では、男たちは裏方に回る。
神様に備えるアワビを整える技は村の古老たちが伝えてきた。

伊勢神宮では、1年に1500を超える神事が営まれている。
天照大神がこの地に鎮座して2000年、絶えることなく日々の安寧が祈られてきた。
その神事に、アワビは欠かすことができない。
志摩の海に生きる海女と男たちが伝えてきた技は、気が遠くなるほどの年月、伊勢神宮のお祭りを支えてきた。

2013年、伊勢神宮は特別な年を迎えた。
20年に1度の式年遷宮が行われたのだ。すべての社殿を建て替え、あまたの装束、神宝の類を新調する1300年続く祭典。
厳かな神事の裏側には、それを支えるささやかな技がある。
海にかずき、虫を飼い、草木を育て、機を織る。
記録には残ることのない技の持ち主たちの姿がある。
伊勢神宮で毎年春と秋に行われる神御衣祭は、神様の衣替え。
神職らが運ぶカラヒツの中に入っているのは、絹と麻の布。
神御衣祭は、伊勢神宮がこの伊勢の地に鎮座して以来、変わることなく行われてきた大切なお祭り。
そこには式年遷宮にも通じる古代の祈り、ある願いが秘められていると考えられる。

愛知県新城市、海野久栄(大正14年生まれ)さんは、奥三河の地で半世紀以上にわたって蚕を飼育してきた。
愛知県の三河地方と伊勢神宮を結び付けるのは生糸。
量産が盛んだった三河地方は、長く伊勢神宮に生糸を納めてきた。

その歴史は1000年以上の昔に遡ると記録されている。
この地で作られる生糸は特別な名前で呼ばれる。
「赤引きの糸」赤は明るく清らかであることを表す。
赤引きの糸は、清らかに引き出された生糸という意味。

昭和の初め、愛知県は全国有数の生糸の生産地だった。
伊勢神宮ゆかりの赤引きの糸の伝統は、明治以降の工業化と結びつき、国内だけでなく輸出用として生産量を増やしていった。
海野さんが暮らす集落では、かつてほとんどの家で、蚕を飼育していた。
若き日の海野さんは、先人に学び、その先頭に立って品質の向上に取り組んできた。
町には大きな紡績工場が立ち並び、生糸の生産は、地域のみならず、日本の経済を支える産業へと発展を遂げた。

当時伊勢神宮へ奉納する生糸は、それぞれの養蚕農家が一番出来の良い繭を、ほんの2つか3つ用意すれば賄えるほど、多くの農家で蚕を飼育していたという。
しかし時代は急速に変わる。
海野さんは、三河地方で蚕を飼育する最後の1人になった。

赤引きの糸を担う最後の1件。
海野さん夫婦は年に1度、生糸を持って伊勢を訪れる。
渥美半島の先端、伊良湖岬には、神宮ゆかりの神社がある。
神様の衣替えに使われる繭は、ここで御払いを受けた後、ほどかれて伊勢湾を船で運ばれる。
生糸を運ぶ船は、「お糸船」と呼ばれた。
今では船を利用するが、土地の人は、親しみを込めて、お糸船と呼び続けている。

日本における養蚕は、稲作などと共に、弥生時代に始まったとされる。
小さなお蚕さんのはく糸は、美しい生糸へと形を変える。
長い年月と人々の知恵、そして経験によって生み出された美しさと言える。

2012年春、伊勢神宮では20年に1度の式年遷宮の節目となる神事が行われた。
式年遷宮では、神宮のすべての社殿を建て替える。
白い覆い屋の中では、一般の神社の本殿にあたる昇殿が、立柱祭は新しい社殿を造営するにあたって御柱を建てる儀式。
建物が揺らぐことのないよう願う。

式年遷宮が始まったのは飛鳥時代、神宮の社殿は、その当時の姿をほぼそのまま伝えていると考えられている。
新しいお社を造ることで、神様は若々しさを保つ、古代の人々は、そう考えた。
常若(とこわか)と呼ばれる精神、永遠を願う人々の思い。
建物自体は新しい、しかしその姿は古代と変わらない。
伊勢神宮は、建て替えを繰り替えすことで、永遠をつなぎとめている。

式年遷宮の準備は、実に8年の歳月を費やし、その間に30ほどの儀式を行う。
建て替えに使われる御用材の伐採の前に行われる、式年遷宮最初のお祭り、山口祭、木をいただくことの許しを神様に得て、作業の無事を祈る。
御用材は、長野県と岐阜県にまたがる木曽の山々から、およそ10000本が求められた。

杣人たちが振るう斧にも、先人から受け継いだ技が見られる。
御木曳は、かつて伊勢神宮の領地であった伊勢の町衆の祭、御用材を、神宮の神域まで運び入れる。

伊勢の町の生まれた人々にとって、20年ごとの御木曳を、何度経験できるかは、重要な問題。
伊勢神宮は伊勢市の面積の4分の1を占める広大な森の中にある。
式年遷宮では、現在の社殿に隣接する御敷地に新しい社殿を造営する。
造営には、本格的な寺社建築の技術を身につけようと、全国から志願した大工も加わる。

宮大工たちは、間違いの許されない緊張感の中、腕を競い合っている。
御用材の多くが、木曽の山々から運ばれる一方、社殿の屋根を葺く萱は、伊勢市近郊の山で育てられている。
萱とは、ススキなどの植物の総称、伊勢神宮では式年遷宮に備え、専用の萱山で良質の萱を育てている。

広さは99ha、1度の遷宮では、23000束の萱が必要になる。
7年間をかけて調達する。

神宮には、茅葺の社殿や蔵が32棟ある。
式年遷宮では、宮大工らの作業に合わせ、決められた期間内にすべてを葺き替えなければならない。
全国的に見ても、萱葺の技術を持つ匠は限られている。

作業に当たる職人は10人、このうち4人は、腕を見込まれ、他府県から加わった人たち。
松澤敬夫さんも、そんな匠の1人。

松澤さんの故郷は、北アルプスの麓、長野県小谷村、社殿の造営が始まって以来、伊勢で1人暮らしをしている松澤さんにとって、お盆の帰省は孫の顔を見る久しぶりの時間。
松澤さんが萱葺の道に入ったのは15の時、50年以上前には、まだあちこちに萱葺の家があった。
近在に名の通った萱葺職人だった父親に弟子入りした。
松澤さんが父親の7番目の弟子として修業をつんだ民家が今も残されている。

「一番厳しかったで覚えている。
あのね、ご飯を親方たちにみんなここで炊いてくれたのをよそったり、風呂を焚いたり、先輩の洗濯物をしたり、何もわからない地域の人がユイチってね、毎日お手伝いが20人から30人来る中で、意味も分からないのに追い回されたり・・・
教えるじゃなくて見て覚えろという時代ですから。
雪国なので下に麻殻、雪に耐えるために使う。
麻殻を30cm厚み葺いて、その上に萱で葺く。
一人前になった松澤さんは、屋根の葺き替えを請け負う工務店を始めた。
多くの文化財の補修にもあたり、その技術は、長野県から、卓越した技能者として認められている。
今回、伊勢神宮の造営に携わるという希望がかなった松澤さんは、修行中だった息子にあとを任せた。
今、息子のトモノリさんは、国の指定を受けた重要文化財の修復工事にあたっている。
松澤さんの若い弟子を率いての仕事。
式年遷宮では、建物の屋根を葺き始めるにあたっても、神事を営む。
檐付祭は、屋根が麗しく葺きあがるように祈る神事。
儀式は、覆い屋の中で行われ、目にすることはできない。

前回の遷宮から20年、屋根は苔むし、萱が抜け落ちた箇所も見られる。
人々が生活する民家と違い、煙でいぶされることのない社殿の屋根は、傷むのが早いという。
参拝客を迎える、門の屋根を葺く作業。
屋根は下から上へと葺いてゆく。
屋根のこう配や厚みを考えながら、幾重にも萱の束を重ねる。
隙間ができないよう、萱を差し入れる。

雨や風を避けるといった機能だけでなく、何種類もの萱を使い分け、最も美しく葺きあがるよう、工夫がなされる。
松澤さんの持ち場は、内宮の小宮、作業は一切公開されない。
それだけ重要な場所であるということが分かる。
20年ごとに繰り返された式年遷宮は、匠たちの技の継承にもつながっている。

複雑な海岸線を持つ、三重県志摩市と飛ばしにまたがる地域は、日本有数の海女漁が盛んな地域。
海女とは、素潜りでアワビやサザエを獲る漁を生業とする女性たち。
己の体1つ、知恵1つの漁法は、紀元前からおこなわれていたことが分かっている。
鳥羽市国崎町は、伊勢神宮が鎮座した2000年前から、アワビの奉納を続けてきた町。
国崎町の鎧崎は、1年の内限られた日にだけ漁が許される禁漁区の浜。

伊勢神宮に、アワビを納める役割を担ってきた国崎町では、早くから資源を保護する取り組みがなされてきた。
漁に出られる期間は、貝の産卵時期を避け、漁の日数や時間も厳密に決められている。
その成果もあって、アワビの漁獲量も多く、国崎町は豊かな集落だった。

豊かさだけでなく、神宮にアワビを納めているという誇りもあった。
とはいえ、水揚げされるアワビの量が年々減少しているのも事実。
海女小屋↓

国崎町では、自治体や伊勢神宮と共にアワビの稚貝を放流し、旅客量を増やす取り組みを行っている。
アワビの稚貝↓

この施設では、およそ1年半をかけて4cmほどの大きさまで成長させる。
国崎町の海女は総勢50人、稚貝の放流には1人残らず顔をそろえた。
船の上から貝を撒くのではなく、海女が潜ってアワビが成長しやすい岩場の影などに直接放流する。
アワビはゆっくり時間をかけて成長する。
産卵可能になるまでにおよそ4年、神宮に奉納するのに適切な大きさになるには、少なくとも6年以上の歳月が必要。
今のところ、放流したアワビが無事に成長し、水揚げされるのは、わずか5%。
しかし地道な取り組みは、今後も続けられる。

古老たちの手によって、細くむかれたアワビは、琥珀色になるまで乾かし、短冊状に整えて奉納される。
1年に4000〜4500個のアワビが必要。
神事に使われるアワビは、大きさや役割により3種類に分けられ、それぞれ決まった数をこしらえる。
海女の町では男たちも2000年の重みを背負い将来を見据えている。

日本人になじみの深い繊維に麻がある。
群馬県東吾妻町は、地域の伝統産業であった岩島麻の栽培を行い、宮内庁をはじめ各地の神社に納めている。
麻こぎと呼ばれる麻の刈り入れを行うのは、岩島麻保存会の人たち。
江戸時代より麻の栽培が盛んだった上州、群馬県にあって品質の良さで群を抜いていたのが、この辺りで作られる岩島麻だった。

麻は成長の早い植物として知られている。
春に撒いた種はわずか3か月で3mまで丈が伸びる。
刈り入れは7月の暑い盛り、繊維の質を保つため、雨は避けなければならない。
岩島麻保存会が作られたのは、1966年、すでに化学繊維の時代が到来していた。
高度経済成長まで、辺り一面が麻畑だったという。
現在では、特産のコンニャクが取って代わった。
最盛期だった戦前には、織物用として新潟や奈良へ、魚を獲る網としては、三重県をはじめ千葉や静岡へも出荷された。

その岩島麻に関心を寄せる若い世代もいる。
故郷へUターンし、農業を始めた男性だ。
町の人たちが本当の技を見せるのは、秋に入ってから始まる作業。

麻引きは、機械を使わず手作業で繊維を取り出す技術。
乾燥した麻の束を水に浸し、発酵させたうえで表面の皮をはぐ。
この皮から繊維以外の余分なものを取り除く。
手に持つのは、小さな刃のついた専用の道具。

継承される麻引きの技も、すでに生活とはかけ離れたもの。
古くからこの国に息づいた技術や産業。
海女による漁も、萱葺の屋根も、養蚕も、多くの人々の暮らしを支える存在では、なくなりつつある。
しかしそこに技の心を守ろうとする人がいる限り、誇るべき故郷の宝なのだ。

生糸と麻は、伊勢神宮の北にある2つの神社(松阪市 神麻続機殿神社)で布に仕立てられる。
春と秋の10日間ほど、地元の人たちが機織りにいそしむ。
絹は女性が、麻は男性が織り上げるのが習わし。
この辺りは、松阪木綿の生産地だった。
しかし現在では、地場産業としての機織りの技は失われ、技術の継承はもっぱら、神宮への奉納のためのものとなっている。

三河の赤引きの糸、長い歴史を紡ぐように糸車が回る。
神御衣祭の日がやってきた。
神様に真新しい絹と麻が届けられる。
新しい着物に着替えた神様は清らかな力を蘇らせる。
そこには式年遷宮の常若に近い願いが込められている。
古代の日本人の素朴な祈り、わが身を暖かく包む衣、海や山からの豊かな恵み、雨露をしのぐ住まい。

私たちの先祖が伊勢神宮に祈り続けてきたのは、生きることの基本となる衣食住といったささやかな幸せだったといえる。
当り前の日常が、当り前に繰り返されてゆくこと。
伊勢神宮の祈りの姿は、その大切さを現代の私たちに問いかける。
素朴な願いを形に表すための技は、伊勢神宮があったからこそ守り受け継がれてきた。
そしてその技を受け継いできた幾世代の人々の素朴な祈りと真心によって、伊勢神宮もまた支えられてきた。
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よみがえる江戸城

その城の本当の姿を私たちは誰も目にしたことがない。
東京の中心、皇居に建っていた江戸城、天下を治める徳川幕府の本拠にして、日本史上最大の規模を誇った江戸城、その城はおよそ150年前の幕末、大火に見舞われた。

そのほとんどが地上から消え失せ、実像は多くの謎に包まれてきた。
幻の城と呼ばれてきた江戸城、その真相に迫ろうと、研究者による調査や貴重な図面の徹底的な検証が進められ、徐々にその姿が明らかになってきた。
そこでNHKは、研究者と共にコンピューターグラッフィクスで江戸城の徹底復元に挑んだ。
制作期間は5年、床下の礎石や柱、梁など建物の構造を明らかにし、わずかな誤差も許さず江戸時代の姿そのままに造り上げた。

10000坪の敷地に800もの部屋をそなえた江戸城本丸御殿を蘇ることに成功した。
大広間、本丸御殿の中で最も重要な部屋で、将軍が全国の大名を支配するための空間だった。
将軍が武士の頂点に君臨し続けるためにこの部屋で仕掛けた壮大な演出とは?
城内1長い松之廊下、忠臣蔵の発端となった刃傷事件の舞台。
今回の復元から、これまでの城跡を覆す驚くべき廊下の姿が浮かび上がってきた。
最新の調査が物語る真の刃傷事件とは?

1000人近くの女性が暮らした大奥、この特殊空間は単位将軍の世継ぎをもうけるためのものだけではなかった。
幕府が大奥の女性たちに求めた知られざる役割、そして裏ルートの存在とは?
本丸御殿の入り口表玄関、高さ9.8m、屋根の幅16.6m、柱の1辺が33cm、1回り1.3m江戸城で最も太い柱。

本丸御殿には、表玄関の他にもいくつも玄関があり、どこから入るかは身分によって厳しく決められていた。
城内で働く幕府の役人たちには、造りの小さな中之口や納戸口を使わせた。
その奥、風呂屋口は将軍の親戚にあたる御三卿専用。
そして当時日本最大だったと考えられる表玄関、幕府がここを通らせたのは、全国の大名や朝廷の使者たち。
巨大な玄関をくぐらせることで、幕府の力を感じさせる。
そんな心理的効果を狙っていたことがうかがえる。
では建物の中へ・・・

玄関からすぐ広い廊下を通り虎之間、全長2mを超える虎が7頭描かれている。
広さ76畳、襖や壁に描かれた障壁画は、全面金箔をあしらった絢爛豪華な造りになっている。
この虎之間には大きな役割が託されていた。
戦に明け暮れた戦国乱世が終わり大きな合戦がなくなった江戸時代、武士を束ねる徳川将軍家が軍事力を示す機会は少なくなる。

その代わりに武力を示したのが虎たち、虎は武威の象徴、ここを通る全国の大名たちににらみをきかせた。
虎之間は当時はもっと暗かった。虎が不気味に見えた。
江戸城に入った大名たちが立て続けに目にした表玄関と虎之間、幕府の力を見せつける舞台装置の役割があった。

江戸城の基礎を築いたのは徳川家康、天正18年(1590)、豊臣秀吉の命令で江戸に移った家康は、秀吉亡き後それまで小さな城郭だった江戸城の大改築に乗り出す。
全国の大名に手伝いが命じられ、工事に関わった大名の数は延べ250以上にも及んだ。
その後拡張に拡張を重ね、ようやく完成したのは孫の家光の代、50年にも及ぶ大工事が行われた。
こうして造られた将軍の居城、東西の長さは5.5km、南北の長さは3.8km、外堀の長さは16km、日本の歴史に現れたいかなる城をもしのぐ史上最大の城だった。
その中心にあったのが今回CGで復元した本丸御殿、役割によって主に3つの空間に別れていた。
幕府の公式な儀式を行う場で政治の中心でもあった表、将軍が日常生活を送った中奥、そして将軍の性質や女中たちが暮らす大奥。
この御殿の総工費だけで今のお金で約1800億円と言われている。
技術の粋を集めた将軍の居城、それが江戸城だった。
およそ45mの高さを誇った天守は築城後まもなく焼失、以後再建されることはなかった。

○建物復元までの道のり
今回作られたCGは、江戸時代に建てられた実際の城と寸分たがわぬ精度を追究した。
畳を取り払うと柱をのせる礎石まで現れる。
さらに柱の位置や太さ、天上の梁まで復元している。
なぜこんなことが可能だったのか?

東京都立中央図書館、書庫の最も奥に保管されているのは重要文化財の江戸城の図面。
建築の責任者だった甲良家が残した600点を超す資料。
その中で最大の大きさを誇るのが・・・
長さは3.6mと5.1m、広げると畳11畳分もある。
表と中奥を描いたこの図面でも御殿全体の半分ほどしかない。
縮尺は1/65、柱の位置から部屋の間取りまで、筆で書いたとは思えないほど正確に精密に描かれている。

復元チームのリーダー、江戸城を60年近く研究している平井聖(昭和女子大学特任教授)によると、本丸御殿は何度も焼失したが、再建の旅に同じ構造・様式で建てられてきた。
様々な図面が残る中、平井さんが特に注目したのが幕末の万延元年、江戸城が最後に再建された時の図面。

大広間と呼ばれた部屋の図面、建物を建てるうえで基礎資料となる平面図や立面図が残されていた。
大広間だけで186枚、すべての部屋を合わせるとその数377枚、本丸御殿の全体像が十分つかめるものだった。
復元チームは、その万延の図面をもとにCGを作成するため現代の建築図面に書き起こしていった。

○障壁画復元までの道のり
城内を彩る障壁画も当時のままに再現した。
東京国立博物館、昭和61年ここで貴重な資料の存在が明らかになった。
江戸城に描かれた障壁画の下絵、これは伺下絵と呼ばれ、障壁画を描く前、将軍に絵の内容をチェックしてもらうためのもの。
実に246巻残されていた。

描いたのは幕府の御用絵師を務めた狩野派、この伺下絵の存在により、火災で失われた江戸城のどの部屋にどんな絵が描かれていたか明らかになった。
たとえば白書院と呼ばれた部屋将軍が政治の模範とするため、中国の偉人をモチーフとした故事が描かれていたことが分かった。

大奥の1室には雅な平安貴族が・・・
しかしこれらの下絵はあくまで画題の確認用として描かれたため、色彩や絵の細部は簡略化されている。

そこで力をふるったのが日本画の画家たち、下絵では省略されている色彩や絵のディティールを知識と経験をもとに再現していった。
狩野派が描いた絵は二条城や名古屋城などの城に残されている。

それらを参考に描いてきた経験を生かしながら描いた枚数は572枚、1年の歳月を費やし、障壁画に命を吹き込んだ。

描き上げた障壁画はコンピューターに取り込み、本物の質感に近づけてゆく。

1枚1枚貼られていた金箔の境目まで表現、粉状の金を振りかける砂子という手法まで再現していった。
さらに部屋のつくりから日の光の差し込み具合を計算し、CGに陰影をつけてゆく。
こうして天下一の城・江戸城を現代によみがえらせることに成功した。

江戸城内で最も広い大広間、縦横の長さ50m、畳500枚近く、別名・千畳敷と呼ばれていた。
虎之間を後にした将軍たちがいよいよ将軍と面会するのが、大広間、4つの空間から構成されていた。
一番格式が高かったのが上段、中段、下段の3つからなる部屋、その隣に二之間、三之間、四之間と続いていた。

この広大な大広間は、将軍の就任式や新年のあいさつなど、幕府の重要な行事で使われた。
まさに徳川幕藩体制を象徴する空間だった。
描かれた松の高さ4m、枝を広げた長さは12m、虎と同様、訪れた全国の諸大名に徳川家の圧倒的な権力を見せつける狙いがあった。
松は冬でも葉を落とさない常緑樹、江戸時代は未来永劫の繁栄を意味する縁起の良い木とされてきた。
大広間に描かれた松は特に立派で国内最大の大きさを誇ったという。
もう1つ好んで描かれた画題、鶴、鶴は千年と言われる通り、古くから長寿の象徴として崇められた鶴、大広間には春夏秋冬、四季の自然を楽しむ鶴の姿が描かれた。

大広間の画題に松と鶴が選ばれたのは、徳川の世の末永い繁栄を祈ってのことと言われている。
装飾には当時の最高級の技術が惜しみなく用いられた。
釘隠し、木材をつなぐ釘を隠している飾り金具、金と墨で彩られ、長さは76cm、牡丹の花束の真ん中を和紙で包み込む畳紙形と呼ばれるデザインで、彫金技術の極みを見ることができる。

江戸城の中でも最も重要な部屋、縦24m横8m、縦長のつくり、上段中段下段と3つの部屋がそれぞれ21cmの段差で階段状になっている。
上段には将軍様がお座りになる。

この部屋には段差以外にも身分の差を表す仕掛けが施された。
その1つが天井、下段は格子が入った格天井、描かれていたのは花唐草。

中段は中央部を一段高くして格の違いを出す、折上格天井、しつらえもより華やかになる。
幸福や富貴を意味する牡丹の花があしらわれた。

上段は二重折上格天井、中央部が2段高いつくりになっている。
もっとも格式の高いつくりとされ、将軍が座る場所に使われた。

描かれた絵は太平の世に飛来するという伝説の鳥・鳳凰。
大広間に段差や天井の仕掛けを設けた理由は、この部屋で対面する諸大名に将軍との圧倒的な立場の違いを見せつけ、将軍家に逆らう気を起こさせないようにする狙いだと考えられる。
この大広間が最も効果的に使われたある儀式がある。
毎年正月、将軍は全国の大名を前に年賀のあいさつを行った。(立礼)
平伏しているのは各地の諸大名たち。
将軍へ挨拶を行う場合、諸大名はこのように大広間の二の間、三の間に一度に集められ、お目見えを行った。
まさに大広間の巨大空間を最大限に生かした権威づけの演出。

立礼には厳しいルールが定められていた。
大名たちはお目見えを間中顔を上げることが許されなかった。
一方の将軍は立ったまま、しかも挨拶と言っても、「いずれもめでたい」と一言いうだけだった。
明治になって描かれた立礼の様子↓

新しい将軍の就任式の場面だが、二の間、三の間、さらには廊下まで大名たちが並んでいる。
大広間は幕府の大名統制に欠かせない空間だったのだ。
立礼の他、将軍と大名が1対1で対面する独礼という挨拶が行われた。
独礼を許されたのは仙台藩・伊達家、長州藩・毛利家、盛岡藩・南部家など大きな領地を持つ外様大名。
独礼の時大名はどこに座ったのか?
伊達家は下段の後ろから2枚目の畳、毛利家は下段の1番後ろ、南部家は廊下(部屋の外)。
独礼を再現!!
将軍「それへ!」(もっと近くへ来い)
膝行・・・大名は顔を見せてはいけない
将軍「息災そうに見えて一段な」(元気そうで何より)
大名は一何も言わず、頭をあげずさがってゆく

部屋の中に入れない南部家の独礼は?
将軍「それへ!」
体をくねくね横へ揺らす不思議な動き・・・畏れ多くて前に進めない様子を表す

江戸城にやってくる大名たちが懐に忍ばせていたもの、懐中図(携帯用の城内の見取り図)
大事な儀式のときに迷子になり、時間に遅れては一大事。

○現代の江戸城紀行
江戸城の正面・大手門の前にある交差点・・・ここは江戸事亜ぢ登城する大名が馬を下りる下馬だった
家臣はここで主君の帰りを待ちながら噂話に興じた

「人物の評判」を意味する「下馬評」という言葉はここから生まれたという
大手門・・・大丸御殿に向かう大名が通った門
大手は「正面」「大きい」という意味、「大手企業」などの言葉で今も使われる
外側の「小さな門」と内側の「大きな門」2つで1セット
「小さな門」は敵にとって攻めにくく「大きな門」からは味方の大軍を送り出せる
本丸入り口へ

中之門跡
巨大な石を加工し隙間なく積む「切込みはぎ」という技法で作られた
巨石を美しく積むことで幕府の権威を見せつける狙いがあった
中之門前に警備の武士が待機する場所があった
百人番所
100人を超える武士が24時間体制で城の警備にあたった
この先がいよいよ本丸御殿跡
大広間、権威を見せつける効果をもたせた結果重大な欠点が生じた。
それは?
段差を作ったため下にスペースが生れてしまい、敵に下から襲われる可能性が生じた。
今回の調査で床下のスペースに対する備えは万全だったことが推測された。
断面図に描かれた床板、下段と中段はほかの部屋と同様に14cmの床板が1枚入っているだけだった。

しかし将軍が座る上段の床板は二重構造で、35cm、2倍以上の厚さがあることが分かった。
この明確な理由は記録に残っていないが、将軍が床下から刀や槍で狙われることを防ぐためだったのかもしれない。
このほかにも大広間には将軍の命を守るための工夫があった。
正月、酒に酔った男があろうことか将軍の前に現れ、将軍に近づいてゆくと・・・
城内の警備を行う番士たちが男を捕える。
将軍にもしものことがあっては一大事、上段の間には、警護の武士が控える、通称・武者隠しと呼ばれる隠し部屋があり、いつでもここから飛び出せるよう控えていた。
将軍が暗殺などされてしまっては、幕府の権威が失墜し、太平の世が維持できなくなる恐れが生ずる。
大広間の仕掛けは平和を保つための工夫だった。

○将軍24時間
午前6時、将軍の1日はこの一声で始まる。
「もぅ〜〜〜」(もう将軍がお目覚めになっているという意味の暗号 将軍の行動は最高機密なので、こうした暗号を使って御付のものだけが分かるようにしている)


これは将軍が起きたという合図、起床の時間は決まっていて、たとえ幕府の最高権力者であろうと好きなだけ寝ていられるわけではない。
続いて歯磨きと洗顔が始まる。
歯磨きはフサヨウジと医師が調合した歯磨き粉や赤穂から取り寄せた塩を使い、舌の汚れまできれいにとる。


洗顔に使うのは木綿のぬか袋、この時洗う手を後ろから小姓が支える。
朝食は午前8時、将軍に出す前にまず御膳奉行のところへ運ばれ毒見が行われる。
冷めたものは火鉢で温めて出される。
今日の献立は1の膳が汁・飯・刺身・酢の物、2の膳が吸い物・キスの塩焼き・・・
キスという漢字は鱚、魚へんに喜ぶと書く、縁起が良いのでほぼ毎日出る。


食事中には髪を結われたりする。くつろぎとは無縁。
それほど忙しいのだ。
昼を過ぎると将軍は政務に入る。
あがってくる様々な案件を処理する。
内容は主に人事や刑罰について。
御用取次が書面を読んで、それを聞いて判断する。
案件が多いと3人同時に読み上げたりする。
聞き取れなくても将軍が何も言わなければ決済されることになっていて、例えば悪い老中が勝手な案件を紛れ込ませるとそのまま通ってしまう。


議会などないので将軍しか決めることができない。
城内の人事から役人の処罰まで1人でやるのは大変だろう。


江戸城ツアー、さらに奥へ・・・城内で最も長い廊下
松之廊下、全長55m、100本近くの松が描かれている。
海辺の松原にかかる金色の雲、そして優雅に飛ぶ千鳥も・・・

松之廊下といえば忠臣蔵。
時は元禄14年(1701)3月14日、犬公方で有名な5代将軍・徳川綱吉の時代、この日松之廊下で朝廷の使者の接待係を務めていた赤穂藩主・浅野内匠頭が、吉良上野介に突如斬りかかる事件が起きた。
世にいう元禄赤穂事件だ。
吉良は幕府の儀式を取り仕切る元締め的存在、接待役を命じられた大名たちは吉良に、指南行として謝礼を渡すことが慣例となっていた。
しかし浅野内匠頭は曲がったことが大嫌いな男、謝礼金を出し渋ったため、吉良の怒りに触れてしまう。
吉良は浅野に執拗に嫌がらせを行った。
儀礼の服装やもてなしの料理について偽りの情報を教えたという。
そして事件当日、現場となった松之廊下で浅野は吉良に目の前で罵られ、感情が爆発、とっさ的に斬りつけた。
浅野は即日切腹、赤穂藩もとりつぶし、あとは御存じのとおり、大石倉之助ら赤穂47士の討ち入りへと物語は進んでゆく。

松之廊下は中庭に面しているが、当時は暗かった。
この暗さの秘密は松之廊下の図面に描かれていた。

松之廊下の庭に面した側には板戸や障子が入っていたことが分かった。
さらに唯一の光の取り入れ口である明り取りは、せり出した屋根に覆われ、火の光はさえぎられていた。

イメージされる松の廊下は明るい空間だが、実際は板戸と障子で閉ざされた薄暗い空間だったのだ。

薄暗い廊下で、どうようにして刃傷事件は起きたのか・・・
実際に事件の現場に居合わせた人物の日記が残されている。
『梶川頼照の日記』旗本の梶川頼照は、吉良と立ち話をしていたまさにその時事件に遭遇した。
「この間の遺恨覚えたるか」
と浅野が突然声を発した。
そして吉良の後ろより背中を切りつけた。
再び浅野は振り向いた吉良を切りつけ、逃げようとする吉良にさらに二太刀、そこで取り押えられた・・・

この時何が起きたのか?
浅野は吉良をどのように襲ったのか?
凶器として使った殿中刀とほぼ同じ長さの竹刀で検証、浅野はこうした刀で背中と額、合わせて4回切りつけた。
では、浅野は相手に気づかれずに、背後何mまで近づけたのか?
3m背後まで近づいたとして実験、この距離では切りつける前に相手に気づかれ、かわされてしまう。
2m背後では?切りつけたのは背中ではなく腕。
1.5mまで近づくと?竹刀は背中にあたり、逃げる吉良を切りつけるためには相手を執拗に相手を追い回さねばならないことが分かった。
浅野は吉良の1.5m背後まで近づけたのは、廊下の暗さを生かすことができたためと考えられる。

浅野の動機は?
芝居や小説では、浅野の動機は吉良の個人的ないじめへの仕返しとして描かれることが一般的。
しかし当時の資料を見ると、幕府という巨大組織の中での浅野の立場が事件に深く関係していることが分かる。
浅野は老中から接待費を例年の千二百両から七百両に減額するように指示され、それに従った。
しかし吉良がこれに異議をとなえ、浅野と吉良は不和になった。
幕府の首脳部から経費削減を命じられる一方、接待の責任者である吉良から、従来通りの予算を求められた浅野。
両者の板挟みになっていたことがうかがえる。
実際の松之廊下は薄暗く、相手に気づかれずに行動するにはうってつけだった可能性がある。

では事件当日の廊下は、どのような暗さだったのか?
30年以上にわたり江戸時代の天気を研究している三上兵彦さん(帝京大学教授・歴史気候学)、気象予報士の資格を持っている。
江戸時代の藩の日記『日新記』、日付の下に天気が書かれていることがある。
三上教授の研究チームは各地を廻り、各地の日記に残された天気の記録を集めている。
事件当日の江戸の天気は?
調べてみたが当日の様々な江戸日記にも天気は記されていない。
しかしほかの場所の日記に記された天気を連続的に見てゆくと江戸の天気がある程度推測される。
三上さんの調査によると元禄14年の天気が残っていたのは、津軽、日光、伊勢など全国8ヶ所。
では、ここから江戸の天気はどのように推定されるのだろうか?
事件の3日前の天気図↓

対馬、京都、伊勢で雨が観測され、それ以外の場所で晴れたことから西日本に低気圧があったとみられる。
そして事件の2日後の天気図では、東北の八戸や南部、日光で雨、津軽では雪が観測されている。
そのため東北にかなり発達した低気圧があったことが分かる。
こうして推定された事件当日の天気図では、西日本は高気圧に覆われ晴れ、一方関東の沿岸部には西日本を抜け、後に東北に雨や雪を降らせる前線がかかっている。
江戸の天気は良くなかったと推定される。
得られた情報を基に、再現・・・
元禄14年3月14日、この日は朝から陰鬱な曇り、時より雨がちらつくような天気だった。
明り取りにはほとんど光は入らず、いつにもまして薄暗い廊下だった。
儀式の会場は松之廊下の先にある白書院、吉良上野介は朝9時頃、白書院近くの廊下に控えていた。

一方この時、吉良の補佐役だった浅野内匠頭は、別の接待係たちと廊下で待機していた。
この時接待費をめぐり、幕府と吉良との板挟みとなり苦しんでいた浅野内匠頭、薄暗い廊下で待つ彼の胸中にはどんな思いがよぎっていたのか?
2時間後の午前11時頃、吉良を探す者が現れる。
後に事件の日記を残すことになる梶川頼照だ。
梶川は儀式の段取りが一部変更されたことを聞き、すべてを取り仕切る吉良にその詳細を確認しに現れたのだ。
梶川が自分を探していることを知った吉良は、梶川のもとへ向かった。
浅野の前を通り過ぎる吉良・・・
段取りの変更を確認する2人・・・
吉良の背後およそ1.5mまで近づいた浅野内匠頭・・・
背中に一閃、眉間に一太刀、執拗に追いかけさらに二太刀、ここで浅野は取り押えられた。

○江戸城紀行・後編
現在の皇居・東御苑の中心に大きな広場がある。
本丸御殿跡、800もの部屋を備えた壮麗な御殿、その面影はない。
広場の小道には1つの石碑・「松之大廊下跡」がある。
広場の奥あるひときわ大きな石垣・天守台(高さ44.8m 日本1の天守が建っていた)。
花崗岩の城さが美しさをより際立たせる。
建設を担当した加賀藩は遠く瀬戸内から石を調達、幕府への忠誠の深さを示した。
築城を担った大名の努力の跡は石の意匠や積み方に現れている。

石の表面に細かな線をいくつも刻み込んだ「すだれ」、石を亀の甲羅模様に加工し積んだ「亀甲積み」、角の石材の色を変えアクセントを付けた石垣・・・

当時の姿を残す数少ない遺構・富士見櫓、どこから見ても美しいことから「八方正面の櫓」と呼ばれた。
将軍もここに登り両国の花火を楽しんだという。



政治を執り行う表の一番奥にある黒書院は、大広間と同じく将軍が大名と面会するための部屋、毎月3回、親族の御三家や老中たちから挨拶を受けるときに使った。
室内の装飾は大広間に比べ絢爛豪華なものではない。
墨で描いた山水や花鳥の絵を壁や天井に貼りつける押絵という手法が使われている。

そこに金をあしらうことで、格式を保ちつつも落ち着いた空間に仕立てている。
大広間に比べ将軍との距離も近く言葉も交わしやすい黒書院、権威ではなく、親しみやすさで大名の心をつかむ演出空間だったのかもしれない。
ここからは中奥、将軍の生活空間、住まい。

御休息之間、将軍がくつろぐための部屋、朝食を食べたり日中勉学に励んだりする部屋だった。
意外に質素と思われるが、将軍といえどもこれくらいが落ち着くのだろう。
このくつろぎの部屋に描かれたのが、江戸時代に流行した名所絵。
神奈川の金沢八景の1つ、野島、江の島。

上段の床の間には富士山、気軽に旅行に行けなかった将軍のささやかな癒しだったのかもしれない。
中奥の最も奥にある中奥小座敷、ここまで来ると、お付の小姓と言えどもめったに入ることは許されない。
将軍が大きな決断を下すときなど、ここに1人でこもって考えた。
誰かに対して権威を見せつける必要がないためか、部屋の装飾はごくわずか。
権力者は孤独と言うが、絶大な権力を握った将軍は、この部屋で孤独と戦っていたのだろう。
○将軍24時間
午後、トイレでさえも小姓が手伝う。
袴を脱ぐのが大変なので、尿筒(しとづつ)を差し入れて用を足す。
大便器の下には引出しがついていて、取り出して毎回調べる。
15時からは諸大名との面会。
17時、入浴、小姓たちが付き従い顔と手足、背中をそれぞれ別々ぬか袋を使って洗う。
また体を拭くのに手ぬぐいなども使わず、白木綿の浴衣を着せて水けをとり、また新しい浴衣を着せてはとりを繰り返す。
20時、将軍が大奥へと入る。
女中は将軍が来る前に髪をとかれ、入念なボディーチェックを受ける。

大奥の入り口・御鈴廊下。
入り口の扉には中から鍵がかかっており、紐を引いて詰所の鈴を鳴らす。
すると・・・

大奥で最もいろい対面所、将軍の正室の応接間。
13代将軍・家定の正室・天璋院(篤姫)と公明天皇の妹で14代将軍・家茂の正室となった和宮との対面の時、天璋院は床の間を後ろとした上座、座布団の上に座った。
対する皇族出身の和宮は部屋の下座に座らされた。
2人の立場はこの部屋の対面によって決定づけられた。

将軍の正室は貴族の名門家から迎えていた当時、対面所の障壁画には平安貴族の華やかな暮らしぶりが描かれた。
貴族たちが満月の夜に月の宴を催している様子↓

こうした絵が描かれた理由は京都から迎えた性質に寂しい思いをさせない気配り、一方徳川幕府には平安時代権勢を誇った貴族を上回る力があることを見せつけるためとも考えられる。
御庭御目見、将軍様に女性たちを披露するのだが、将軍がどこで見ているかというと・・・

もっと近くで見たいが、将軍は身分の高い方、女性たちと対等に面を合わせることはできなかった。
御庭御目見で披露されるのは、いずれも大奥で器量よしと言われた女性たち、世継ぎを残すため、こうした方法で相手が選ばれた。

大奥小座敷、将軍がくつろぐ部屋、御庭御目見とは別に、そうぶれ、毎朝たくさんの御姫様候補が集まって将軍の相手が決められていた。
夜になっても将軍には窮屈な決まり事があった。
両側にたてられた屏風のすぐ裏には、お添い寝役と呼ばれた監視役が、一睡もせずに2人の睦言を聞いていた。
お添い寝役たちは、将軍の身の安全を守ることはもちろん、相手の女性が勝手なおねだりをしないか監視し続けた。

大奥の一番奥に新発見の部屋があったことが分かった。
それは男子といれ、将軍専用、小便器と大便器。
これまで将軍は大奥の入り口付近にしかいかないため、トイレもその周囲にしかないと思われてきた。

ところが調査に使われてきた図面から、最も奥まった場所に将軍専用のトイレが3つもあったことが分かった。
歴代の将軍がそれだけ長い時間大奥で過ごしていたことを意味する。

天下泰平の世と呼ばれた江戸時代、火山の噴火や深刻な飢饉、世継ぎの休止など、幕府の根幹を揺るがす出来事が頻繁にあった。
幕藩体制を動揺させない、そのために一役かったのが大奥だった。
例えば11代将軍・徳川家斉、前将軍の世継ぎが急死し、混乱する政局の中将軍に就任した。
家斉は将軍になるや、大奥に頻繁に通っては、歴代最大となる50人の子供をもうける。
そして会津藩や加賀藩など、全国20の大名家に嫁がせたり、養子として送り込んだりした。
幕府が各地の大名との結束を強め、威信を保つ。
大奥はそれを支える重要な役割を担っていた。

大奥も幕府の重要な組織の1つであり、内願を仲介する役割を担っていた。
正式には表(大名・役人)が、老中から将軍へ・・・ろいうルートが公式なもの。
それとは別に奥のルートが存在し、老中に匹敵する奥の役職が老女、内願は非公式なルート。
例えば「幕府の役職に就きたい」というお願いは内願。

内願の事例↓
ある大名が家臣を通じ、大奥に出させた内願の手紙『津山藩江戸留守居方日記』
手紙の主は津山藩主・松平斉民、11代将軍・徳川家斉の息子で、岡山の内陸部、津山藩に養子に出されていた。
斉民が内願で訴えたのは、実りが少ない土地を差し出す代わりに、海に面した小豆島が欲しいというもの。
残念ながら全部はもらえなかったが、一部はいただけたらしい。

大奥という組織は、女性の知的レベルの向上にも貢献した。
大奥に奉公するためには、読み書きはもちろん、和歌が詠める、遊芸(歌舞音曲)ができ、大奥に入りさらにそれが磨かれ、何年かお勤めした後に寺子屋の師匠になったり地域で唄を教え、地域の女性たちの知的水準を上げる役割を担っていた。

日本の首都・東京の発展、人々の暮らしを支えてきたのが江戸城が残した遺産。
江戸城を守る大事な防御施設だった内堀と外堀、さらにそれらを結ぶ運河をたどる。
今も昔も交通の要衝となっている日本橋から出発、この場所から外堀と合流する水道橋までの4kmの水上紀行・・・堀や運河の上を延々高速道路が覆いかぶさっっている。
江戸時代、堀は経済を支える水運の大動脈としても機能した。
その一部が今も残っている。

1960年代の高度経済成長期、日本の消費が拡大、東京オリンピックの開催も決定し、物流の大動脈として高速道路の建設が急務となる。
しかし当時の東京には道路を通す十分な土地が残っていなかった。
そこで江戸城の堀や運河がその受け皿となり、高速道路が次々と造られていった。
高速道路の土台も、堀の石垣が巧みに利用された。
さらに内堀と外堀は都内の交通に欠かせない環状道路として私たちの暮らしを支えている。
その名も内堀通り、外堀通り、堀に沿った土手や堀を埋め立てた上を利用して造られた道。

東京の地下の発展も江戸城なしに語れない。
都内を走る地下鉄の多くはかつて内堀と外堀があった場所に造られている。
銀座線に丸ノ内線、千代田線などその数は8つ。
江戸城の北部、およそ6kmにわたって外堀が当時に近い状態で残されている。
ここでは憩いの場として人々の暮らしに寄り添っている。
もう1つの遺産は、江戸城を中心に造られた武家屋敷。
当時江戸城の周りには全国の旗本や大名の大きな屋敷が密集し、実に江戸の68%を占めていた。
これらの土地は都心の開発に適したまとまった土地を提供してくれている。
およそ7400坪あった土佐藩の屋敷は、明治に誕生した東京の府庁として使われ、今は東京国際フォーラムとなっている。
およそ18000坪あった尾張藩の屋敷は、外交の窓口としてオーストリア大使館となり、その後上智大学として利用されている。
このほか六本木ヒルズは長府藩の屋敷跡、東京大学は加賀藩の屋敷跡、国会議事堂は彦根藩の屋敷跡に造られた。
天下一の城・江戸城があったからこそ、発展を続ける東京の今がある。
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世界遺産 三大迷宮ミステリー
モナリザ本物のモナ・リザ 意外な正体とは?
イタリア、フィレンツェ、ここはルネサンス発祥の地、14世紀に起こったこの運動は、ヨーロッパ中に広がり、学問、芸術の一大変革活動に発展、その中心地としてフィレンツェは繁栄した。
歴史的建造物が立ち並ぶ町の姿は、当時の華やかさを今に伝えている。

町の中央にそびえるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、イタリアゴシック建築を代表する建造物。
「花の聖母大聖堂」との異名を持つこの教会、シンボルは高さ91mのドーム、1296年着工、1436年完成。


ドームの一面を埋め尽くすように描かれているのは、ジョルジョ・ヴァザーリによるフレスコ画『最後の審判』。
外壁は白を基調に金と緑の大理石で装飾されている。


そのたたずまいは美しくも気高く、世界中の人々を魅了してきた。
あの天才ミケランジェロをして、「これより美しいものは造れない」と言わしめた。


元々は行政機関の庁舎として建てられたウフィツィ美術館、メディチ家の結婚祝いとしてボッティチェリが描いた『春』などメディチ家のコレクションを中心に、イタリア絵画の名作が集まる。

町を流れるアルノ川に最初に架けられた橋がポンテ・ヴェッキオ、屋根付き2階建てのこの橋には、15世紀の昔から宝飾店が軒を連ねる。

町全体が屋根のない美術館とうたわれるフィレンツェ、ヨーロッパ中に影響を与えたその輝かしい歴史により、1982年世界文化遺産に登録された。
フィレンツェ北部に位置するセルビ・ディ・マリア修道院
、2005年ある画家の工房であったことが判明した。
画家の名はレオナルド・ダ・ヴィンチ、この場所で世界で最も有名な絵画が仕上げらえた。
描かれたのは『モナ・リザ』、1503年頃に制作が始まったとされる油彩画、完成までに10年以上もの歳月が費やされたと言われ、レオナルドの持てる技術のすべてが注ぎこまれた。
レオナルドが考案した輪郭線を描かないスフマート技法、奥に行くほど背景が青みがかって薄くなる空気遠近法、さらに黄金比率を駆使し、完璧な構図で描かれている。

彼には死ぬまで手放さなかった絵が3枚ある。
『聖アンナと聖母子』『洗礼者性ヨハネ』『モナ・リザ』
『モナ・リザ』には長年にわたる論争がある。
それは一体モデルは誰なのか?
その謎がドイツのハイデルベルク図書館で明らかになった。
レオナルドの知人でもあったフィレンツェ市の役人が、蔵書の余白に、「レオナルドがジョコンドの妻リザの肖像画など3つの絵画を制作中」と書き込んでいた。
❝モナ❞とは貴婦人につける敬称、つまりモナ・リザのモデルはフィレンツェの富豪フランチェスコ・ジョコンドの妻リザ・デル・ジョコンドだったのだ。

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、レオナルドが『モナ・リザ』のデッサンを描くために使っていた場所。
レオナルドはこの回廊を歩きながらモナ・リザを描くためのインスピレーションを得ていたのではないかと思われる。
少しだけ柱の台座が見える部分があり、その隣にはバルコニーの手摺の上部が描かれている。

1503年にモナ・リザを描き始めたときに、レオナルドはここにいた。
柱やテラスのディテールを見ても、まさにここが描かれた場所だと思われる。
なぜレオナルドは、リザを描いたのだろうか?
1503年ジョコンド夫妻は次男アンドレアを授かったことと邸宅の購入を祝ってレオナルドにリザの肖像画制作を依頼したと言われている。
絵の具の層を赤外線3次元分析で解析したところ、リザの頭から体が紗のベールによって覆われていることが判明している。
16世紀前半のイタリアでは、出産前後の女性が紗のベールをまとう風習があった。
つまりこの作品はジョコンド夫妻が次男を授かった1503年頃に描かれたことは間違いない。

★スイスでモナ・リザとされる別の絵が公開された。
通称アイルワースノモナ・リザ。
鑑定をしたモナリザ財団が、レオナルドが描いた作品と発表し、世界中に波紋が広がった。
ルーブル美術館のモナリザと同様、夫人が微笑みを浮かべ、全く同じポーズをとっている。
しかしこの2枚の絵には大きな違いがある。
ルーブルのモナ・リザよりアイルワースのモナ・リザのほうが明らかに若く見え、タッチも違って見える。

レオナルドを研究するロドルフォ・パーパ(ウルバニアーナ大学)「アイルワースのモナ・リザはレオナルドが描いたものではない。
まず画力が明らかに違う。
ルーブルのモナ・リザはあらゆる面で完璧に描かれている。
それに比べてアイルワースのモナ・リザは雑さが目立つ。
ルーブルのモナ・リザの背景は奥行きがしっかり表現されている。
アイルワースのモナ・リザは、奥行きもなければ何が描かれているかもわからない。非常に曖昧。
レオナルドは影を表現することでモデルの心の内面が見る側にも伝わるよう描いている。
それは彼の卓越した技法があってこそ可能になった。
一方、アイルワースのモナ・リザは若く見えるが実際はそうでないと思う。
アイルワースのモナ・リザは単純化されその技法も後世のものが使われている。」

もう1つ大きな違いがある。
ルーブルのモナ・リザは板に描かれているのに対し、アイルワースのモナ・リザはキャンバスに描かれている。
レオナルドは作品をキャンバスに描くことはなかった。
様々な点から見て、アイルワースのモナ・リザは別の画家が後世に模写したものだと思われる。
スペインのプラド美術館が行った発表が世界中を驚かせた。
プラド美術館はモナ・リザの模写とされる絵を所蔵している。
検証の結果、この絵はレオナルドの工房でルーブルのモナ・リザと同じ時期に制作されたことが分かったというのだ。

スペイン、イベリア半島のほぼ中央に位置するマドリッド、かつてスペインが世界の覇権を握った16世紀、首都に定められた。
18世紀に入ると、カルロス靴録靴靴し歃僂篳顕宗科学などをヨーロッパ各地から積極的に導入し、マドリッドを近代的な都市へと成長させた。

そのカルロス靴設計を命じたのがプラド美術館、1819年世界有数の規模を持つ美術館として開館した。
15世紀以来のスペイン王家歴代のコレクションを展示、所蔵絵画は8000点以上におよぶ。
ベラスケスの『ラス・メニーナス』、ゴヤの『着衣のマハ』『裸のマハ』、ルーベンスの『三美神』、ボスの『快楽の園』など世界的名画が並ぶ。

このプラド美術館には1819年の設立以来、モナ・リザの模写とされる絵が展示されている。
その絵について研究を行ったミゲル・ファロミール(プラド美術館・主任キュレーター)「このモナ・リザは発見された時は発見された時は背景が黒く塗られていた。
赤外線で検査をしたところ、黒い絵の具の層の下に別の背景が描かれていることがわかった。
この絵は背景が未完成だとみられていた。
だから黒く塗りつぶして絵の価値を上げようとしたのだろう。」

さらに紫外線、X線、また油やチョークの材質を化学分析するなど多角的に調査した結果驚きの事実が判明した。
このモナ・リザは、レオナルドの工房で、ルーブルのモナ・リザと同時期に制作されたことがわかったのだ。
プラド美術館の見解としては、弟子の誰かが描いたものだと判断しているが、はっきりした根拠はない。
レオナルドの作品ではないと言い切る明快な証拠があるわけではない。
ここでプラド美術館とルーブルのモナ・リザを徹底的に比較してみる。

まずは構図、モデルは正面から背景は俯瞰するという独特の構図。
そして次第に風景が消えてゆくような画風は、レオナルドが研究した空気遠近法と呼ばれるもの。
そして色合い、ルーブルのモナ・リザは保存状態た悪く色がくすんでいることが知られている。
復元作業を行った結果判明した元の色合いがこれ↓

共通する鮮やかな色使い、またどちらもキャンバスではなく木の板に描かれ、サイズも縦横ともにほぼ同じ。
赤外線調査により絵の具に隠れていた下絵の線が現れた。

2枚の絵は下絵の細かな線まで一致している。
指の線も、髪のラインも下絵が同じだということが分かる。
レオナルドの下絵が描かれたのと同時に写したのだと思われる。
だから同じ線があるのだ。
2枚は同時に描かれていったということ。

一方違うところもある。
同じ人物のように見えるが、プラドのモナ・リザの方が明らかに若い。
この点について、ある芸術家が興味深いことを記している。
レオナルドと同時期に生きた16世紀のイタリア人芸術家ジョルジョ・ヴァザーリが、モナ・リザを実際に目にして著書にこのようなことを記述している。

画家・彫刻家・建築家歴殿より〜「若く、唇が赤く、眉は薄く伸びている。」
そう、プラドのモナ・リザと一致する。
スペイン、トレド、三方を川に囲まれた岩山、そこに築かれた天然の要塞都市トレド、1561年までスペインの首都として繁栄し、文化芸術の中心地となった。
その歴史は古くローマ時代にさかのぼる。
西暦560年には西ゴート王国の首都となった。
以来イスラム教徒と戦った歴代キリスト教王国の要衝地として長い歴史を刻んでいる。
その複雑な歴史から、イスラム教ユダヤ教キリスト教の文化が交錯、この町の独特の景観を織成している。
ローマ時代からの文明の痕跡を残し、様々な文化が入り混じった建築様式などが評価され、旧市街全域が古都トレドとして1986年に世界遺産に登録された。
その景観は、「もし1日しかスペインに居られないのなら、迷わずトレドへ行け」とまで言われたほど。
スペイン絵画の巨匠として名高いエル・グレコが愛した街としても知られている。
ギリシャからやってきたグレコはこの町に魅了され、様々な傑作を生みだした。
代表作『無原罪の御宿り』にもトレドの景観が描かれている。

トレドの入り口アルカンタラ橋が架けられたのは8世紀のこと、長きにわたる戦いの歴史を見続けてきた。
旧市街に入ると、待っていたのは迷路のような路地。
中世の面影を色濃く残すこの町は、多くの観光客を引き付けてやまない。
中心部へと延びるコマーシャルストリート、古い建物を改造した店が立ち並び賑わいを見せている。
町の中心にそびえるトレド大聖堂は、スペインカトリックの大本山。
奥行き120m、高さ92m、スペイン最大級の大聖堂。
1226年に建設が始まり、完成までに250年を要した。

その造りはフランスゴシック様式を基本としながらイスラムの影響を受けたスペイン独特の様式が随所にみられる。
天井には聖母マリアに召されたトレドの聖人が描かれている。
トレドの町を見下ろす宮殿アルカサル、はたしてここにプラドのモナ・リザの手掛かりはあるのだろうか?

1551年に改築が完成し1561年に首都がマドリッドに移るまでの10年間カルロス1世の王宮として使われていたとされる。
当時は世界中の美術品で華やかに彩られていたとう。

かつて要塞だった王宮アルカサル、現在は軍事博物館となっており、イスラムから国土を取り戻した1492年以降の様々な時代の武器や軍服などおよそ36000点が所蔵されている。
かつて兵士の交代の儀式が行われていたという中庭、そこには王家の紋章が唯一残されている。

しかしモナ・リザの手掛かりは見つからなかった。
モナ・リザは本当にここにあったのだろうか?
トレドの美術研究の第一人者ホセ・レドンド(カスティーリャ・ラマンチャ大学教授)「プラドのモナ・リザがアルカサルにあった可能性はある。
あの絵はスペインの王宮コレクションの中に入っていた。
エル・グレコと親しかったポンペオ・レオーニを通じてスペインにやってきた。
ポンペオ・レオーニはフィレンツェにいた美術品の収集家だった。
レオーニはレオナルドの作品を非常に高く評価し集めていた。
レオナルドの手稿をレオナルドの弟子メルツィの子を通して手に入れていた。」

レオナルドの手稿はおよそ40年にわたる科学や生物などの研究成果が記されたもの。
レオナルドの死後これらの手稿は弟子のメルツィが相続したが、メルツィの子はこの作品に興味を示さなかった。
レオーニはレオナルドを高く評価しており、その作品を買いあさったのだ。
ポンペオ・レオーニはメルツィ家からレオナルドの手稿のほとんどを買い取った。

その後レオーニはトレドに頻繁にやってきていた。
手稿はレオーニの手から美術収集家だったレガネス侯爵に渡ったという。
そしてその作品の中にプラドのモナ・リザも入っていたのではないかと考えられる。
侯爵はスペイン王室に収集品のほとんどを献上した。
プラドのモナ・リザはこうして王宮コレクションに入ったと思われる。

スペインマドリッド王宮、16世紀にマドリッドが首都になって以来、王の居城として使われた。
プラド美術館の膨大な所蔵品は元々この王宮にあった王室コレクションを移管したもの。
プラドのモナ・リザが初めて文献に登場するのは1666年、王宮のコレクションとしてプラドのモナ・リザが収蔵されたという記述が見つかっている。
マリア・デル・マール(王宮図書館副館長)「1686年に作成された目録、それ以前のものもあるが修復中のため、これが現在お見せできる最古のもの。
当時は年末に王宮の所蔵品を調べて目録を作っていた。
目録にはこう書かれている。
『レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた婦人画、大きさは縦76センチ横57センチ』
つまり王宮コレクションの中にレオナルドの婦人画が確かにあったということ。」
その絵の大きさはプラドのモナ・リザと完全に一致する。
プラドのモナ・リザはレオナルドの真筆だったのだ。
スペイン王宮の記録に残るレオナルド・ダ・ヴィンチの名、彼の描いたモナ・リザは確かにここにあった。
ではルーブルのモナ・リザは一体誰?
フィレンツェ、マルコ・マネティ(美術史家)ローマ大学で美術史を専攻し、レオナルドの絵画解析にかけては第一人者とされる人物。
レオナルドが集成手放すことがなかった3枚の絵『洗礼者聖ヨハネ』『聖アンナと聖母子』ルーブルの『モナ・リザ』
3枚の内『洗礼者聖ヨハネ』と『聖アンナと聖母子』が宗教画であるのに、なぜ1枚だけが商人の婦人画なのか?

「女性の肖像画を描くとき、普通は背景に室内を選ぶ。
しかし『聖アンナと聖母子』を見ると人物は荒涼とした屋外に描かれている。
モナ・リザの背景もやはり屋外。
レオナルドはモナ・リザの構図を気に入っていたのだと思う。
彼はこの構図から柱を取り払い背景を屋内から屋外へと変えた。
レオナルドはこの絵を宗教画としたのだ。
『聖アンナと聖母子』で描かれているのは母であるアンナが娘のマリアとその誕生した子を祝福している場面。
この子供こそキリスト。
『洗礼者聖ヨハネ』はキリストの洗礼を行った者とされるヨハネが描かれている。
天に人差し指を向けるポーズは天からの救世主キリストの到来を予告していると解釈されている。」
ではモナ・リザは何を描いた宗教画なのか?
「この女性はベールをまとっている。
つまり妊娠しているということ。
妊娠している女性の宗教画のモデルはただひとりしかいない。
この絵の人物は聖母マリアだ。
レオナルドは救世主の到来、マリアの妊娠、そしてキリストの誕生までを描いたのだ。」

城愛と野望の宮殿エルミタージュ〜女帝エカテリーナの呪い!?
ロシアが誇る世界遺産サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群ヨーロッパとロシアの文化が融合した街並みと人類の歴史の重要な段階を物語る建築物が1990年に世界遺産として登録された。
そんなサンクトペテルブルクの歴史地区で世界にその名を知られるのがエルミタージュ美術館。
18世紀にロシア皇帝の宮殿として造られ、ロシアバロック様式の傑作と言われる冬宮、小エルミタージュ、新旧エルミタージュ、劇場の5つの建物で構成されている。
本館の冬宮はロマノフ王朝時代の王宮、現在は歴代のロシア皇帝が長年にわたりコレクションしてきた芸術作品を展示する美術館となっている。
後に世界遺産となったこのエルミタージュで波乱万丈の人生を送りその生涯を閉じたロシアの女帝エカテリーナ二世、彼女がたどった数奇な人生と大いなるミステリーとは?

ドイツの片田舎の貴族出身だったエカテリーナは、後にロシアの皇帝となる皇太子ピョートルと結婚、そして夫の死後自ら女帝の座に就いた。
しかしなぜエカテリーナはロシアで女帝として君臨することができたのか?
底には世界遺産に秘められたミステリーがあった。
ミステリーのカギを握るのは、王妃が意のままに操った21人もの愛人たち。
その愛人たちは次々に不可解な死を遂げてゆく。
そして夫ピョートル三世の死も謎に満ちていた。
事故か病死か、あるいはエカテリーナが持っていたダイヤの呪いなのか?
女帝エカテリーナ、彼女の数奇な人生は同じ時代を生きたもう1人の王妃フランスのマリー・アントワネットと交錯する。
26歳も年の離れた2人は不思議なほど似た境遇だった。
2人とも若くして異国に嫁ぐが、新婚当初から夫とは不仲で、次々に愛人を作ってゆく。
だが2人の人生の結末は大きく違った。
アントワネットは民衆の怒りを買い処刑台の露と消えた。
その一方エカテリーナは民衆に支持され女帝として君臨する。

エカテリーナはいかにして大帝国ロシアを手に入れたのか?
その後大帝国ロシアはなぜ衰退してしまったのか?
エカテリーナが女帝になった裏にあったのは野望、愛憎、そして謀略・・・
かつてロシア帝国の都だったサンクトペテルブルクは2013年ロマノフ王朝開始400周年を迎えていた。
かつて沼地だったサンクトペテルブルクは、水上交通の要として運河が縦横に走り、その美しい景観から北のベネチアとも称されている。
18世紀初頭、初代ロシア皇帝ピョートル大帝はヨーロッパに比べ整備の遅れていたロシアの近代化を決意、ロシアの都にふさわしい街に作り上げた。
ピョートル大帝が当時最先端技術を用いて建設したペテルゴフ宮殿は、フランスを代表する世界遺産ベルサイユ宮殿をモデルにしたものと言われている。
こうしてサンクトペテルブルクは、ロシア革命翌年の1918年までおよそ200年間、政治、経済、文化の中心として繁栄を続けた。

ロシアの片田舎出身だったエカテリーナはこの近代都市サンクトペテルブルクに足を踏み入れたとき、どんな気持ちを思い描いていたのか?
エカテリーナはドイツ北部小国ポンメルンを納める貧しい貴族の出身。
帝国ロシアの皇太子ピョートルに嫁いだのは16歳の時、母方の一族がロシア皇帝の一族と姻戚関係にあったのが縁だった。
彼女は容姿には恵まれなかったが聡明で活力に満ちていたという。

ロシア語を寝る間も惜しんで勉強し、嫁ぐ前に日常会話をマスターしていた。
世界遺産・聖イサアク大聖堂、町の中心地にあるロシア正教の教会で、ピョートル大帝が建設した後、落雷で焼失したのを、ルター派から回収したエカテリーナが再建。
言葉を覚え進行する宗教さえ変えたエカテリーナは、必死にロシア人に愛されようとしたのだろう。
しかしもう1人の王妃の生き方は、全く違っていた。

フランス王妃マリー・アントワネット、オーストラリアの名目ハプスブルク家からフランス・ブルボン家に嫁いだ。
1979年フランス初の世界遺産となったベルサイユ宮殿、アントワネットはここで王妃として幸せな結婚生活を送るはずだった。
しかし待っていたのは絶望の日々、夫のルイ16世は内向的な性格で、アントワネットに指1本触れることはなかった。
2人が結ばれたのは、結婚から7年後だったという。
若き王妃はフランス語を覚えようともせず、1年間に170着のドレスを新調、その費用は現在の価格で20億円に及んだという。
ベルサイユ宮殿の北東、庭園の奥にある離宮プチトリアノン、ここでアントワネットは愛人と密会を重ね、夫であるルイ16世ですら入室を許さなかったという。
だが、そんな甘い生活もフランス革命により終わりを告げる。
アントワネットは囚われの身となった。
獄中のアントワネットが手紙で助けを求めたのは、フランスから遠く離れたロシアの王妃エカテリーナだった。
しかしエカテリーナもまた悲劇的な結婚生活に直面した王妃だった。

実はピョートルには愛人がおり、さらにエカテリーナを束縛し、隙あらば修道院に幽閉しようとさえしていた。
そんな夫との夫婦生活がうまくゆくはずもなく、結婚から6年後エカテリーナは、愛人を作り始めた。
サンクトペテルブルクに立つエカテリーナの銅像、その足元にはエカテリーナを公私ともに支えた8人の男たちがいる。

中にはエカテリーナの愛人も・・・
王妃でありながら次々と愛人を作ったエカテリーナは、アントワネットのように自分だけの場所を作り始める。
それがフランス語で隠れ家を意味するエルミタージュ、世界遺産エルミタージュ美術館の本館となっているのが冬宮。
その冬宮に入りまず通るのが❝大使の階段❞、各国の大使がこの階段を上りロシア皇帝に謁見したことからこの名で呼ばれている。

大玉座の間、エルミタージュで最も大き部屋で、およそ800屬旅さ、皇帝に謁見するに相応しく、天上の模様は金箔で装飾され、部屋の大部分は大理石で造られている。
聖ゲオルギーの間とも呼ばれ、正面の玉座の上にはロマノフ王朝の守護聖人である聖ゲオルギーのレリーフが飾られている。

エルミタージュ美術館に所蔵される数々の芸術作品、1764年にエカテリーナがドイツから美術品を買い取り、エルミタージュコレクションが始まった。
ラファエロの『聖家族』、レンブラントの傑作『ダナエ』などが展示されている。

そして冬宮の横に建つ小エルミタージュにあるパビリオンの間、エカテリーナの側近だけが集まる夜会の会場だった。
古代建築やルネサンス建築の様式が混在してる、そのパビリオンの間にある孔雀のカラクリ時計はエカテリーナが愛人ポチョムキンから贈られたもの。

エルミタージュ美術館に飾られた貴重な品々、しかし一般に公開されていないエカテリーナゆかりの品がまだあるとう。
エルミタージュ美術館保管庫には通常は展示されていないエカテリーナの時代の貴重な品々が陳列されている。
エカテリーナ愛用のソリ、エカテリーナはこのソリに友人たちと乗り、スピードを出して友人たちがソリから落ちるのを楽しんでいたという。


エカテリーナの馬車は近衛軍将校グリゴリー・オルロフからのプレゼント、エカテリーナとの関係が特に深かった愛人と言われている。
エルミタージュのほかにもう1ヶ所、エカテリーナが愛してやまなかった宮殿がある。
それが世界遺産エカテリーナ宮殿、宮殿の名前はエカテリーナ1世に由来する。
夏の避暑用の離宮として造られ、夏の宮殿とも呼ばれている。
琥珀の間、部屋全体の装飾が琥珀でできており、その修復には24年物歳月が費やされた。
エカテリーナはこの部屋が気に入り、自らが許す者以外の入室を禁じ、禁断の部屋としたという。
鏡の間、13対の窓と鏡による眩い光の中、舞踏会などが開かれたという。


日本の回船問屋の船頭だった大黒屋光太夫が船で漂流しロシアに流れ着いた後、エカテリーナに謁見したのもこの部屋と言われている。
エカテリーナがエルミタージュやエカテリーナ宮殿にプライベートな空間を作り上げたのは、愛人との逢瀬を楽しむだけだったのだろうか?
その裏にはエカテリーナの野望が隠されていたのかもしれない。


そして結婚から17年、エカテリーナはついにロシアの運命を変える行動を起こす。
1762年1月5日夫・ピョートルが皇帝に即位。
するとピョートル3世は、プロイセンとの戦争で勝利目前に和睦、占領地を返却し賠償金も要求しなかったため、国内に不満が爆発した。
即位からおよそ半年後の1762年6月28日、クーデターが発生、クーデターを起こしたのはピョートル3世に不満を抱いていた近衛軍や貴族だった。
捕えられたピョートル3世は8日後に突然病死、そんな皇帝の死因を発表したのはエカテリーナだった。
「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、余はこれを深く悼む」
エカテリーナはピョートルの葬儀に出なかった。
そしてついに33歳のエカテリーナが女帝として即位した。


なぜドイツの片田舎の貴族の娘だったエカテリーナが、ロシアの女帝になることができたのか?
そこにはエカテリーナが意のままに操った愛人の存在があった。
21人いたというエカテリーナの愛人たち、その中で最も寵愛を受けたのがグリゴリー・オルロフ、端正な顔、背が高くぴょ、筋骨隆々としていたという。
ただの愛人ではなかった。
政治家や外交官を輩出した名門オルロフ家に生まれ、クーデターを起こした近衛軍の将校でもあった。


クーデターの裏で一体何があったのか?
アレキサンドル・カメンスキー部長(ロシア国立研究大学歴史学部)「18世紀のロシアは頻繁に宮廷クーデターが起こっていた。
不評を買った皇帝を交代さえるため近衛軍などがクーデターを起こしたのだ。
ピョートル3世の時もそうだった。
クーデターで一番活躍したのはオルロフ家の兄弟だった。
中でもエカテリーナの愛人だったグリゴリー・オルロフが中心人物だった。
ちょうどそのころエカテリーナは妊娠中だった。
しかも父親は愛人グリゴリー・オルロフと言われている。
そのオルロフがエカテリーナに贈ったものは今もロシアの至宝としてモスクワのグレムリンに保管されている。」
用意周到なクーデター、前皇帝ピョートル3世の普請な死、事実を紐解いてゆくとエカテリーナの恐るべき陰謀が明らかになってくる。

サンクトペテルブルクからおよそ700km、ロシア連邦の首都モスクワ、世界遺産モスクワのクレムリンと赤の広場。
ロシア語で城塞を意味するクレムリンは、12世紀初めから建設が始まり、様々な時代の宮殿や大聖堂などが混在。
貴重な街並みとして1990年世界遺産に登録された。
クレムリン博物館、武器庫の地下に小さな展示室がある。
世界的に知られるロシアの宝石コレクションが納められたダイヤモンド庫、エカテリーナが所有したという世界最大級の赤いトルマリン、1777年スウェーデンの国王より贈られた。
ラズベリーの形に研磨された赤いトルマリンは、226カラット。

そして展示ケースの中央に飾られているのが、エカテリーナが女帝に即位する戴冠式のために造らせた王冠。
以降のロシア皇帝も戴冠式で使用するようになった。
一面をダイヤで覆われ、王冠の上についている赤い石はレッドスピネルという宝石。

陳列されたロシアの宝の中でもひときわ目を引くのが、皇帝が持つ王笏にはめ込まれたとてつもなく大きなダイヤ。
エカテリーナ2世にグリゴリー・オルロフが贈ったもの。
そのダイヤはかつて❝ムガールの星❞と呼ばれ、原石は787カラット、当時世界一大きいダイヤだったという。
ダイヤの最初の持ち主はインドの世界遺産タージマハルを造ったムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン、王座に君臨する一方でその地位と富を狙われていた。

そんな中、ダイヤを寺院に納めると、「かの石に触れる者に災いあれ」という言葉を残し、ダイヤに触れる者に天罰が下るよう呪いをかけたという。
その後息子に皇帝の座を追われ幽閉される。

妻の墓であるタージマハルを見ながら無念の内に死去、以来ダイヤを手にした者はなぜか不審な死を遂げる。
そのダイヤの呪いはエカテリーナと愛人オルロフにも降りかかる。
ダイヤの呪い、それは・・・

1751年フランス人の兵士ベッセルがこのダイヤを盗み出した後喧嘩に巻き込まれ撲殺された。
次にダイヤを手にしたタナー船長は酒の飲みすぎで急死。
タナー船長からダイヤを買い取った宝石商は強盗に殺害される。
1774年アムステルダムで競売にかけられ、50万ドルで競り落とされた。
これは当時小さな国が1つ買えるほどの金額だったという。
このダイヤを競り落とし、エカテリーナに贈った男、それがエカテリーナの愛人グリゴリー・オルロフだった。
エカテリーナはそのダイヤを大いに喜び、王笏にはめ込んだという。
そして❝ムガールの星❞と呼ばれた呪いのダイヤは、2人とロシアの運命を大きく変えることになる。
世界遺産クレムリンで黄金に輝く5つの屋根、ウスペンスキー大聖堂、歴代ロシア皇帝の戴冠式が行われた場所、ピョートル3世を廃したエカテリーナも、まさにこの場所で戴冠式を行い、華々しく女帝に即位した。
その裏にあったものとは?

クーデターのわずか8日後に死亡したピョートル3世、エカテリーナは国民に向け、持病の痔が悪化して病死したと発表。
だが痔が悪化して死亡することなどありうるのだろうか?
エフギニー・リヤロフスキー(ロシア連邦古文書館公表部)「暗殺犯がエカテリーナに送った手紙には、ピョートル3世の死にかかわったという懺悔が書かれている。」
そこには驚くべき真実が生々しく綴られていた。
「あの方はもうこの世におられません。
皇帝を手に掛けることなど許されませんが不幸は実際に起きてしまったのです。
永遠に魂を滅ぼしてしまいました。
私を死刑にしてください。」
リヤロフスキー「これはアレクセイ・オルロフが書いたもの。
アレクセイは、オルロフは、エカテリーナの愛人グリゴリー・オルロフの弟。」
アレクセイはクーデターで拘束されたピョートル3世の護衛の1人で、幽閉中のピョートル3世に近づける数少ない人物だった。
アレクセイは兄グリゴリーに暗殺するよう指示されたのではないか?
兄が皇帝暗殺の首謀者で弟が実行犯だった?
オルロフ兄弟の働きで女帝になれたエカテリーナ、ロシアに嫁いで17年、ついに大帝国ロシアをその手中に収めた。
しかし愛人オルロフには、ダイヤの呪いが降りかかった。
その後オルロフは女帝になったエカテリーナとの結婚を望むが、エカテリーナはオルロフを捨て新たな愛人を作ってしまう。
失意のオルロフは晩年呪いがかかったかのように激しい錯乱状態に陥り、精神を病んだままこの世を去ったという。
オルロフの他にもエカテリーナの愛人たちの末路は悲惨なものだった。
愛人セルゲイ・サルトゥイコフはロシアを追放され、愛人ランスコイは催淫薬の濫用で不審死を遂げた。
その後オルロフダイヤを受け継いだロシア・ロマノフ王朝6人の皇帝は、2人が暗殺、1人が処刑、3人が不審な病死を遂げている。
そして300年づいたロマノフ王朝は、1917年に滅亡した。
世界遺産ペテロ・パブロフスキー聖堂で歴代のロシア皇帝と共にエカテリーナは眠っている。
エカテリーナが本当に求めたのは真実の愛か?大いなる権力か?
女帝エカテリーナと生涯を添い遂げともに眠る者は、誰1人としていない。


大仏奈良の大仏の謎と失われた黄金都市の真実
古都奈良の文化財、かつての首都に繁栄していた文化を伝える文化財として1998年世界遺産に登録された。
奈良の世界遺産の1つに名を連ねる東大寺、大仏様のあるお寺として世界中にその名を知られている。

仏教寺院の正門としては国内最大の規模を誇る南大門、鎌倉時代の仏師運慶、快慶らによって造られた2体の金剛力士像が向かい合って安置されている。
高さ8.4m、わずか69日間で彫られた巨大像。

南大門をくぐると参道の200m先に見えてくるのが中門、中門から続く回廊内に金堂、すなわち大仏殿がある。、
敷地内にはおよそ30もの建物があるが、その中の1つが大湯屋、僧侶の浴室だが、民衆にも開放され、我が国最古の共同大浴場と言われる。

751年に創建された大仏殿は、今より30m幅が広かった。
創建当時は大仏殿の東側と西側に高さ100mほどの七重塔があった。
現存していれば木造の建物として世界1の高さだった。

大仏殿の前にあるのが八角灯篭、東大寺創建当時に造らたもの。
優美な菩薩の姿が刻まれている。

この八角灯篭の奥にそびえる大仏殿、高さ約48m、幅約57m、世界遺産登録時は世界最大の木造建築だった。
高さおよそ15m、正式には盧舎那仏といい、世界を照らす仏、光り輝く仏という意味を表す。
1200年以上たった現在でも世界1大きな鋳造物。

752年開眼供養会(大仏像完成を記念し筆墨などで眼に点召魏辰┷欧鯑れた仏教儀式)が行われた。
1万人の僧侶が参列したほか、インド、中国、ベトナムの僧も招かれ、彼らは巨大な仏様の姿に驚いたという。

大仏造立を決意したのは聖武天皇、743年聖武天皇が大仏造立の詔を発したことで、全国から仏師や労働力が集まった。
人口600万人の時代に大仏造立に従事した人数は述べ260万人。
724年、聖武天皇が即位した当時飢饉や大地震が続き、非常に不安定な状態だった。
また政務の面で聖武天皇を支えていた藤原4兄弟が天然痘により相次いで亡くなってしまう。

混迷を極めていた中、聖武天皇は仏教の力で人々の心を鎮めて平和な鎮護国家を作りたいと目指した。
8世紀の初め人々の希望と願いが込められ、造立された奈良の大仏、だが大仏を造るなら、アフガニスタンのバーミヤンや、世界遺産に登録されている中国の楽山大仏のように岩山を彫って作る磨崖仏のほうが簡単なはず。

なぜ奈良の大仏は、岩山を削るのではなく、溶かした大量の銅を流し込むという難しい方法で造られたのか?
その理由を追ってゆくと、歴史に埋もれた超先進国家の存在が浮かび上がってくる。
世界遺産・奈良東大寺、1200年以上も前から人々の心の支えとなってきた奈良の大仏、長い歴史を積み重ねてきた痕跡がある。
大腿部や台座の部分や右脇腹は大仏造立当時のもの。
完成当初の大仏は、全体が眩い金で覆われていた。
非常に高度な金メッキ法が使われている。
大仏の全身に施された金メッキは、アマルガムとう技術。
金と水銀を混ぜたものを大仏の表面に塗り、乾燥させた後熱して水銀を蒸発させ、金だけを残す技術。
金箔を貼りつける方法に比べ均一で美しく仕上げることができる。
こうして金メッキが施されていた部分は1200年以上たった今でも錆が進行していない。
このアマルガムによる防錆効果は近年ようやく化学的に解明されたもの。
およそ440kgもの金が使われたというが、この金は意外な場所から発見されていた。
金が国内で初めて産出されたは現在の東北地方、当時は東北でしか金が採れなかった。
749年金が国内で初めて採れたのは宮城県涌谷町、産出された場所は現在黄金山神社となっており、国の史跡にしていされている。
大仏造立に金で大きく貢献した東北、東北の金といえば世界遺産に登録されている平泉の金色堂。
この黄金文化に大仏造立の謎が隠されていた。

岩手県平泉、奈良の大仏造立から300年以上後の11世紀末から12世紀にかけて、奥州藤原氏が築いた浄土思想を基調とする文化的な景観が2011年東北地方の初の世界文化遺産に登録された。
平泉を築いた奥州藤原氏は初代清衡、2代基衡、3代秀衡、4代泰衡のおよそ100年にわたり、奥州、すなわち東北を支配した豪族。
東北の金を基にした豊富な経済力で平泉に独自の文化を花開かせた。
850年に開山し12世紀初め、初代藤原清衡によって大規模な造営が行われた中尊寺、黄金に彩られた金色堂は中尊寺の一角にある。
火災などで建物は失われているが、平泉には中尊寺の他にも大寺院が存在していた。
仏の世界、すなわち浄土を表現した美しい庭園が広がる毛越寺、かつては40以上の御堂や塔、また僧侶の生活する建物が数百もあったという。

そして京都・宇治の平等院を手本にしながらそれより一回り広く造られたという無量光院、背後の金瑩山沈む夕日に極楽浄土をイメージしたと言われる。
なぜ金色堂はそれほどまでに煌びやかな金で埋め尽くされているのか?
覆堂の中に金色堂はある。
1124年に完成した金色堂、かつて中尊寺にあった40以上の堂塔の中で唯一現存する建物。
一辺は5.48m高さは8m扉も天井も床も壁も全て金箔。
使われた金箔は64000枚、しかも厚みが現在の金箔の3倍以上もある。
大量の金はどこのものなのか?
平泉の周辺、気仙沼地方、宮城県北部一帯から採れる金は膨大な量、8世紀日本で採れる金のほとんどは欧州の金だった。
奈良の大仏と同じ金。
金色堂が金箔で覆われているのは、すべてが金色に光り輝く仏の住む世界を表現しているから。
そして金色堂の本尊が鎮座する須弥壇には非常に細かな工芸美術の極致とも言われる装飾が施されている。
その1つが須弥壇の下に見られる孔雀、銅板を打ち出してそこに毛彫りをして、孔雀の羽の幅が8mm、そこに0.3mmの線が何本も刻み込まれている。

他にも須弥壇を取り巻く4本の巻き柱に描かれた菩薩像、蒔絵で菩薩の繊細な表情を表現するこの方法は金色堂だけに見られる手法、仏教美術の中で唯一のものと言われ、当時の都にも存在しなかった技術。

そして黄金の装飾をさらに引き立てているのが金色堂に施された螺鈿細工(光沢をもった貝殻の内側部分を切り出し漆器などに貼りつける技法)。
非常に時間と手間がかかるため、建築物に施すことはまずないとう。
螺鈿の数は27000ヶ所もある。
また使われている素材には、海外から入ってきたものもある。
螺鈿細工に使用されているものは夜光貝、南方でしか採れなかった夜光貝が、数千個以上もこの金色堂には使われてる。
さらに須弥壇の手摺に使われているのが日本にはない、東南アジア産の紫檀、また紫檀の縁の部分に線状に切った象牙がはめ込まれているが、この素材もアフリカゾウのものと分かった。

平泉文化が生まれる前から、東北の北上川流域には進んだ技術・今度な文化があった。
自分たちの在来の技術を土台にしながら最高の技術で金色堂を作り上げた。
これが平泉文化の特徴。
北上川流域の岩手県一関市にある質素ながら歴史の重みを感じさせる神社。

奈良時代初期、この辺りに刀鍛冶の集団が存在し、日本刀の原型が作られていた。
刀を製造する技術は、都のある大和より東北のほうが進んでいたのだ。
東北歴史博物館部長・山田晃弘「東北地方の縄文時代からさまざまな高い技術があった。
漆の技術はすごく発達していた。
土器に赤い漆を塗るとか、土器に漆で模様を描く。」
3500年も前から東北では漆で精緻な器を作っていた。
もう1つの高い技術がアスファルト、釣り針は矢じりのつなぎ目にアスファルトを使用していた。
現代の強力接着剤に並び立つ。
東北にはさらに高度な技術があるという。

この菩薩像、奈良の大仏と意外なつながりがあった。
こういう作り方をするのは690年代、まもなく奈良時代になる一時期に作られたと思われる。
この像も奈良の大仏もアマルガム技術が使われている。
東北は都を超えた文明技術を持っていた超先進国家だったのではないか?
日中歴史共同研究委員会・王勇教授「東北は奈良時代以前から桑の栽培と蚕の養殖をし、絹の生産技術を持っていた。」
なんと絹が黄金と同価値だったと言われる奈良時代よりも前に東北には都にはない絹の生産技術があったという。
やはり古代の東北は高度な技術を持っていたのだ。
「また新唐書(唐の成立から滅亡までが書かれた歴史書)という文献には驚くべきことが書かれている。」
”東北の使者が唐の都に謁見しにやってきた。”
なんと倭国とは別に東北の人々が唐に謁見に来ていたという。
さらに旧唐書(新唐書の元になった唐の歴史書)には、これまでの歴史を覆す驚くべき事実が書かれていた。
”日本は倭国(やまと)の別種なり、その国は日の出の場所に在るを以て故に日本と名付けた”
旧唐書では倭国と日本が別の国であると書かれている。
みちのく市民博物館事務局長・伊藤良治「奈良時代に日本の東というのは、今の東北地方、新唐書にも旧唐書にも日本というのは、東北のことを指す。」
なぜ東北にあった超先進国家”日本”は、都の大仏造立に協力したのだろうか?
万葉古代学研究所元副所長・早稲田大学講師・松尾光「奈良の大仏を造立したのは聖武天皇、聖武天皇を支えていたのが藤原四兄弟、藤原四兄弟が東北とつながっていた。」
藤原四兄弟は、朝廷で右大臣や参議などの要職に就き、倭国の政権を担っていた。
そして聖武天皇の母・宮子、妻・光明子の兄弟でもあった。
つまり聖武天皇とは叔父であり義兄弟という特別な存在。
藤原四兄弟の三男・宇合と麻呂は719年から、それぞれ将軍と大使として東北に赴任している。
東北の騒乱を納めた宇合と麻呂は、陸奥を出羽を結ぶ幹線道路を整備するなど東北の発展を進めた。
「藤原氏は東北とつながることで高い技術、豊富な資源、労働力を手に入れた。
これによって藤原氏は都でますます大きな力を持つことができた。」
藤原氏と東北のつながりは、互いに大きな利益だった。
もしかしたら奈良の大仏の造立は倭国と都と東北の日本友好関係の証だったのかもしれない。
しばらくは良好であった都と東北の日本国、しかしその後聖武天皇の娘である孝謙天皇が亡くなり、藤原家とは違う系統の天皇に変わると関係が急速に悪化、770年には東北38年戦争が勃発、ついに東北の日本国は都に併合されてしまった。
そして日本という名も倭国に奪われてしまった。
その後奥州藤原氏によって造られた中尊寺金色堂と奈良の大仏とのつながりとは?
『造興福寺記』奥州藤原氏は聖武天皇を支えた藤原四兄弟の血を引いていた。
奥州藤原氏は平泉に黄金都市を造ることで藤原氏の栄華と超先進国家・日本の再興を果たしたかったのではないだろうか?
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滅びし文明の正体 後編

1968年12月21日、NASAのフランク・ボーマン機長率いるアポロ8号が人類初の月周回飛行に成功した。
乗組員は月の周りを10周飛行し、月面の様子をかつてないほど鮮明に写真に収めた。
そこには月面に存在する数千もの巨大なクレーターが映し出されていた。
多数のクレーターの存在はかつて月に火山活動が活発だった証拠である。
しかし近年では、月に多数のクレーターができたのには、さらに重要な別の理由があったと考えられている。
小惑星の衝突である。

しかもそれは地球にも起こりえたことなのである。
アリゾナ州北部のクレーター、隕石が落下した跡は50000年ほど前にできた。
直径45mの小惑星が時速42000kmのスピードで衝突した。
衝突エネルギーは広島に落ちた原爆の1000倍。

NASA は地球に衝突する危険のある小惑星の軌道予測を開始した。
地球の近辺に軌道を持つ、総称地球近傍天体である。
地球から4500万km圏内に軌道を持ち、大きさはゴルフボールくらいから巨大なものまである。
毎日野球のボールほどの隕石が多数地球に向かってきては大気圏上層部で燃え尽きている。
実際直径が30m以上なければ地表に衝突する可能性はない。
一番最近小惑星が地球に衝突して被害を受けたのは、1908年6月30日シベリアのツングースカ地方だった。
直径30〜40mの小惑星が大気圏に突入した。
前面にかかる圧力が後側にかかる圧力よりはるかに大きかったため、平らにつぶれ、地上から6kmほど上空で爆発した。

その衝撃で東京都の面積にあたる2000k屬糧楼呂砲△詭擇なぎ倒された。
爆発エネルギーは5メガトンを超え、広島に投下された原爆のおよそ385倍だった。
フットボール場ほどの大きさの小惑星でさえ、圧倒的な破壊力をもつ。
だが科学者が恐れているのは、さらに大きな小惑星の衝突がありうること。
問題なのは衝突の衝撃で粉塵や岩が大気圏に飛び散り日光をほとんどさえぎってしまうこと。
酸性雨も降るだろう。
それに大気圏に飛び散った岩が燃えて降り注ぎ、世界は火の海になる。
火災で生じた煤が植物の光合成を妨げ、植物は枯れ、それをエサとする動物も命が危うくなる。
この二次的被害が真の問題。

近年NASAの地球近傍天体プログラムは直径140mを超える天体も観測対象とすることにした。
そのうちの1つ直径300mのアポフィスという名の小惑星は2029年に地球に接近すると予想されている。
アポフィスは地球近傍天体の中でも大きいもので、2004年に発見された。
2029年に衝突する可能性が2.7%とされていたが、そののち0%となった。
でも大接近することには変わりはない。
ヨーロッパでは肉眼で見られる。
非常に近くを通過するのが観測できる。の重力にどの程度影響されるかは予測不能。
アポフィスはいったん遠ざかった後、7年後にまたやってくる。
最初の接近で地球の重力によって軌道が変わったとしたら、その後衝突する軌道に乗るかもしれない。
2029年の接近で、ある特定の鍵穴みたいに小さな空間を通過したら、2036年に衝突するかもしれない。
小惑星と地球の衝突は、もしそれが起きたらではなく、いつ起きるかということが問われている。
小惑星が衝突するとき、現代文明の痕跡は失われてしまうのだろうか。
この現象のせいで古代文明が滅び、忘れ去られていたとも考えられるだろうか。
イギリスの古い童話で、雌鶏が空が落ちてくると思い込む話があるが、人間も傍から見ていると空が落ちてくると騒いでいるように見えるのではないか・・・
空は落ちてこないが、我々の頭上から何かが向かってきているかもしれない。
我々が生きている間に、地球に隕石が衝突するとしたら、被害を最小限に抑える手立てはあるのだろうか?
人類が数世紀にわたり積み上げてきた技術を守る計画は十分に整っているのか。
現代人の運命は儚いものなのだろうか。

タンザニアにそびえるキリマンジャロ、2000年に歴史気候学者のロニー・トンプソン率いる研究チームがキリマンジャロの山頂を覆う氷の奥深くまで穴を開けた。
氷を筒状に削り採取するのだ。(氷床コア)
氷には気候の状態や変動の状態が詰まっている。
数万年前のことも知ることができる。
氷にははっきりした年代の層があり、その層の厚さを測ると、時と共に降雨量がどう変わっていったかが分かる。
過去の大気成分の構成がどう変わっていったかが、氷の中で気泡となって残っている。
二酸化炭素、メタン、過酸化窒素といった気体の80万年前からの履歴がすでに判明している。
微生物が氷の中に閉じ込められていることもある。
5万年以上の間氷の中に入っていた微生物が蘇生したこともある。
氷からわかることは、気候が穏やかな時期と、激しく変動していた時期があったということ。
それが繰り返されていた。

アメリカ、オハイオ州立大学の巨大な冷凍室に、トンプソンが世界中から採取してきた氷の標本が保管されている。
もっとも古いものは、中国の西の端にある山岳地帯で採取した75万年前のもの。
氷床コアを用いた最近の研究結果から、5200年前に地球で劇的な気候変動があったことがうかがわれる。

この突然の気候変動が起きた年代は、アジアや中東で新しい文明が続々と出現した年代と一致する。
なぜその時なのか、10万年間人類は狩猟採集生活をして幸せに暮らしていたのに、どうして急に変わったのか。
その変化をもたらしたものは何なのか、共通の特徴を探ると、農耕社会と関連がありそうなのは、気候であることが浮かび上がってきた。
その時代サハラ地方が枯れた。
4000〜5000年前にはサハラには湖がいくつもあり、人々がその周りで暮らしていたことが、岩に描かれた壁画から判明している。
そのころに何か劇的な変化があったことは明らか。
地球規模の大変動があったとしても、何が原因だろうか?
世界中で干ばつがあったのか、隕石が地球に落下し、その衝撃で日光を遮るほどの塵が舞い上がったのだろうか。
それとも火山の噴火が原因なのだろうか?

噴火は地球にとっては大切。
誕生の時から持つ続けている熱を噴火によって放出しているのだ。
火山の噴火は数十億年にわたり繰り返し起きている。
地球の歴史では人類はまだほんのわずかの年月しか存在していない。
火山は地球に人類が現れるずっと前から噴火していたし、人類が滅亡しても存在する。
つまり火山は地球にとって欠かせない要素。
活火山はいたるところにあるが、そのほとんどは人類を滅亡に追い込むほどの噴火エネルギーはない。
しかし超巨大火山、スーパーボルケーノは別だ。
溶岩とガスがしっかり密閉された火山は圧力が増大する。
そのため爆発すると並外れた大規模な噴火になる。
そのような火山をスーパーボルケーノという。

地球には非常に大きな噴火を起こす火山がいくつも存在している。
その多くは環太平洋火山帯にあり、カルデラを持っている。
ニュージーランド、パプアニューギニア、またアラスカにもある。
スーパーボルケーノは少なくとも7つはあるとみられている。
最大のものはワイオミング州イエローストーン国立公園の地底だ。
科学者によると、イエローストーンで最後に噴火が起こったのはおよそ60万年前のこと。
イエローストーンは比較的若い火山。

噴火はすべて過去250万年の間なので、地質学上は若い方に分類される。
今度噴火を起こしたら、その破壊力は計り知れない。
有史以来、その破壊力はすさまじいものになるだろう。
地球全体の気温が下がり、アメリカ西部一帯が壊滅的な被害に見舞われる。
全てが灰に覆われてしまい、農業も打撃を受ける。
その被害はしばらくの間続き、現代文明に大きなダメージを与えることになる。
大噴火で、灰と有毒ガスが吹き出る。
そして世界中を煙が包む。
数年間は日光がさえぎられるだろう。
世界は闇に包まれ、穀物は枯れ、動物は死に、生き残った人間は飢える。
世界の人口は毎月700万人近いペースで増えている。
歴史上前例がない。

人間は火山の噴火に対して弱く無防備。
地球規模の大災害というとSFの世界の話に聞こえる。
しかし多くの政府や企業がそのような大災害に備えている。
はたしてその備えは十分だろうか?
地球では、種が絶滅の危機に瀕する事態が幾度となく起きてきた。
様々な種類の動植物の数が次第に減少し、少数しか残らないという現象である。
もし今の世界が突然終わりを迎えたら、現代の文化やテクノロジーも簡単に消えてしまうのか。
古代の人々が現代には残っていない技術や知識を持っていたことを示す例はたくさんある。

エジプトの古代アレクサンドリア図書館は、1世紀に入るころ破壊された。
そのため、古代の膨大な知識は失われてしまった。
あの図書館は知識の宝庫だった。
特にエジプト人の持っていた医学の知識は今では知りえないもの。
古代では多くの情報が石にじかに刻み込まれていた。
現在私たちは情報や日々の記録をシリコンのメモリーチップに書きこんでいる。
もしそれが消去されたら、数万年後の人たちが現代人の生活を再現するのは相当難しいだろう。
皮肉なことに、現代の最新技術より、先史時代の壁画の方が未来に残る可能性が高い。
カンザス州ハッチンソンの町の地下200mの地点に、フットボール競技場35個分の広さを誇る巨大な倉庫施設が広がっている。
冷戦中の1959年、廃坑となった塩の鉱床にハッチンソン地下貯蔵倉庫が創設された。
政府の書類や資産を安全に保管するのが目的。
永久保存倉庫とも呼ばれる。
世界最大のタイムカードといえるだろう。
膨大な電力を使わずに室温と湿度を一定に保つ場所といえば地下。
特に塩の特性を活かしたこのような鉱床はうってつけ。

例えば死海文書が発見されたとする。
死海文書の羊皮紙は塩分を含んだ死海の水にさらされた。
今も残っているのは、塩が天然の防腐剤となり、羊皮紙が微生物によって腐敗するのを防いでくれたおかげでもある。
珍しくも貴重な品々が保管されている中、人気映画やテレビ番組のマスターテープが並んでいるのもみえる。
歴史的な写真や文書も同じように保管されている。
気温は20度で安定しているため、保存にはほぼ完ぺきといえる状態を保っている。

南ヨーロッパでは数々の洞窟で先史時代の壁画が発見されている。
保存状態は良好だ。
最古にしてもっとも緻密なものは、1994年に発見されたフランスのARDECHE渓谷にある。
このショーベ洞窟の壁画を鑑定したところ、紀元前30000年のものと判定した。
美しい馬、サイ、クマ・・・現代の美術館においても見劣りしないほどの名画。

ショーベ洞窟の壁画の年代と特質から、人類が誕生した時期について、これまで知られ信じられてきたことが疑わしくなってきた。
この壁画こそ、人類が描いた最古のものとみなされるからだ。
古代の芸術家たちが絵を洞窟の奥深くの岩壁に描いたのは、未来に絵を残したかったからなのだろうか?
3万年後我々が存在した唯一の証拠となるのは、地下に納めたものだけになるのだろうか。
北極点から1300km離れたノルウェーの島SPITSBERGEN ISRAND、砂岩の山の地底およそ120mに、スバールバル世界種子貯蔵庫がある。
不慮の事故に備えて地球上の様々な植物や農作物の種子を保管するため建設された。
現在2000万粒以上の種子が保管されている。
種は絶えず新しいものに変えられ、世界中の種子銀行と交換もしている。
もしも古代の人々が、高度な知識や技術を持っていた証を意図的に洞窟や地下に保管していたとしたらどうだろう。
それを見れば、現代人は一体何者で、どこから来たものなのか知る手掛かりになりはしないだろうか。
そしてさらに現代文明があとどれくらい続けていけるのかを示してくれはしないだろうか。
現代人は存在の証拠も残さずに消え去るのだろうか。

科学者によると、地球は今からおよそ45億年前に誕生したのだという。
ほとんどの学者は人類が存在してからまだ20万年しかたっていないという説を支持している。
しかしその定説が間違いだったとしたらどうだろう。
文明は数億年前にも存在していたが、その証拠が失われているだけなのでは?
実は我々の足元の下に埋まっているということはないだろうか。
もし地球が大災害に見舞われるとしたら、人類に何が起きるだろうか。
過去の文明が本当に失われたのだとしたら、現代の高度に発達した社会の痕跡もゆくゆくは地下に埋まり、やがて忘れ去られてしまうのだろうか。

おそらく人類が生み出したもので残るものがあるとしたら、それはもっとも危険な副産物、核廃棄物だ。
一番危険なのは放射能、たとえ放射性物質は自然に崩壊し、消滅するといっても、問題は消えるまでに数千年、数万年、もしくは数百万年もかかること。
だから処分場の建物は安全で頑丈で長持ちしなければならない。
核兵器の製造や原子力発電で発生した核廃棄物の処分は論争の的。
ただ地球のどこかには捨てなければならない。
それで地底に埋めることが計画された。
いわゆる核廃棄物の地層処分だ。
アメリカエネルギー省は、処分場建設に際し、学者たちに協力を依頼した。
不変性の高い警告サインを考案するためだ。
それは1万年後の未来の人々でも理解してもらえるものでなければならない。
人々に危険を知らせ、警告する神話のようなものを創作する必要がある。
代々にわたって語り継がれてゆく危機感を忘れずにいられる言い伝えをどうにかして作るのだ。
核廃棄物の危険に近寄らないようにしてもらうために。

計画の1つとして処分場の周囲に大規模な豪を掘ることが検討されている。
さらに高さ10m、幅30mのブロックを並べて行く手を阻む。
そして高さ8mの標識を花崗岩で作成し、要所要所立てる。
もちろんこの標識には様々な言語で注意書きを書きこむ。
しかしそのような謎めいた標識で、警告の意味を成すのだろうか?
ただの不思議で不可解な物体になってしまわないだろうか。
ギョベクリテペの奇妙な彫り物やストーンヘンジの巨石のように。
人間が地球上に存在している期間はこの星の歴史45億年の内の1%にもみたない。
しかし我々は本当に小さな点に過ぎず、うたかたの存在でしかないのだろうか。
何十万年もしたら、忘れ去られる運命なのだろうか?
悲しいことに人間は互いに滅ぼしあうことができてしまう。
でも地球を滅ぼすことはできない。
地球は我々より長く存在してきたし、人類より長く存在し続ける。
現代文明も過去の文明も同じように儚いものならば、今起きている様々な出来事は過去にも起きていたのではないのだろうか。
より昔のものが次々見つかっている。
これまで考えられてきたよりもずっと前から文明があったとされるだけの証拠がすでにそろっているかもしれない。
現時点では判別していないだけかもしれない。

歴史はどんどん昔へさかのぼっている。
土器や火の使用や定住が始まったのはいつなのか、年代は定まらない。
定説を覆す動かしがたい証拠が次々現れるからだ。
文明は幾度となく発生したと思われる。
そして何か災害のようなものにより消し去られてはまた現れた。
これは現代人への教訓なのかもしれない。
新しい情報が入れば入るほど、この世界についてわかっているいないということに気づく。
遥か昔に刻まれ、我々が目にすることができた記録はごくわずか。
つまり基本的に何もわかっていないのと同じ。
確かに人類の歴史は謎に満ちている。
だが、その謎を解くカギは人知れず眠っていて、発見されるのを待っているだけなのかもしれない。
しかしもし過去からの警告を見つけたら、我々はどうするのか。
素直に耳を傾けられるだろうか。
それとも無視して、この文明も滅亡するのだろうか。
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滅びし古代文明の正体(前編)

現代の都市を襲う津波、命を奪いすべてを失う。
自身は町も村も徹底的に破壊する。
ハリケーンは大地をはぎ取ってゆく。
犠牲者が出て、生き残った者は土地を追われる。
自然災害は人類の痕跡を消し去る力を持っているのだろうか?

芸術も、建造物も、テクノロジーさえも・・・
遺跡はそれが可能だと物語っている。
しかも何度も繰り返されてきたことなのだと・・・
かつて繁栄を極めた古代の都市、その遺跡が近年次々見つかっている。
それも考えられてきたよりずっと古いものが・・・

一体何が起きて滅亡してしまったのか、現代文明が滅びる可能性は?
現代文明も地上から消える運命にあるのだろうか?
人類になす術はないのか?

オマーンのRUB AL KHALI砂漠、アラビア半島の寂しくも荒涼たるこの場所は、何もない不毛地帯だと考えられてきた。
砂の海、灼熱の太陽、この地に生息するものといえば、日よけ虫か、猛毒を持った蛇、そして遊牧民のベドヴィン族のみだ。
だが、伝説に描かれた姿は現代とは違う。
この地にはおよそ5000年前の昔、神秘の都があったと記されている。
その名はウバール、豊かで美しい国だったが、不道徳な暮らしが神の怒りをかった。
そのため滅ぼされたのである。

コーランには、神の言葉に従わなかったから嵐が起こり、都が破壊されたという話がよく出てくる。
予言者の忠告を聞けばよかったのに、彼らは耳を貸さなかった。
だから消されたのだという。
長い間、歴史家や探検家はウバールが存在した証拠を探し求めてきた。
そこに宇宙時代のテクノロジーが登場した。
その技術と考古学の地道な作業により、この都が伝説ではなかったことが証明された。
1983年考古学愛好家のニコラス・クラップがNASAに型破りな提案を持ちかけた。
アラビア半島の合同調査である。
飛び立つスペースシャトルには電磁波を照射して地下を撮影する装置、シャトル映像レーダが搭載された。
まず宇宙から画像を撮影する。
次に肉眼で見えない細部がデジタル処理で鮮明にされる。
すると砂に埋もれた川床の跡や昔キャラバンが通ったルートも浮かび上がった。
 RUB AL KHALI砂漠の衛星画像から、砂漠の東部の端に沿うようにしてキャラバンルートが伸び、それが1ヶ所に集まっていることが判明した。

調査では当時最新の技術だったGPSシステムを使った。
ヘリコプターにナビシステムを取り付け、衛星画像で分かったキャラバンルートをGPSの誘導でたどった。
井戸か湧水らしきものが見え、ヘリをおろして見ると遺跡と呼ぶにふさわしいものがあった。
それから歴史的な価値のある場所が次々と見つかり、その1つがウバールだと判明した。
荷物を積んだラクダやロバを引き連れた大キャラバンが、この場所にあった古代都市ウバールと沿岸地域の間を往来していたと考えられる。
ウバールは砂漠を横断してくるキャラバンの交易拠点だったのだ。
その後の発掘により、8本の塔と、高さおよそ90mの城壁があったことが判明。
高い柱を持つ都というコーランにある記述と一致した。
もし伝説通りウバールが存在したとすれば、その後の記述もまた真実なのだろうか。
それは砂に埋もれて滅んだという記述だ。
調査の結果、都の下にあった地下水脈が枯れて空洞ができ、それが崩れ町が陥没したと分かった。
それで人々は町を去ったのだろう。

これは伝説に書かれた事実と妙に一致する事実だ。
しかし大災害があったにしても、全人口が消えてしまうとは考えにくい。
本当に一切が消え去ることなど可能なのか?
文化や言語、文明さえも。
この疑問に対する考古学者や歴史家の答えはYesだ。
むしろ跡形もなく消えてしまう方が多いというのである。

この数十年の間、科学者は人類の誕生をおよそ20万年前と考えてきた。
文明の始まりも、わずか数千年前に過ぎないと。
だが新たなる発見から、本当の人類の歴史はどうなのかという疑問がわいてくる。

一般に最初の町ができ、文字が生れると文明の誕生という。
メソポタミア文明の場合は紀元前3500年頃がそれにあたる。
この時期に集団で狩猟採集生活をしていた人々が農耕社会に移行し始める。

自ら食物を育てることで一カ所にとどまり定住が始まる。
これが文明の始まりとみなされる。

1994年トルコ東部SANLIURFA、山腹を耕していたクルド族の農民の手が突然止まる。
半分土に埋まった大きな長方形の石に農具があたったのだ。
農民は数日間石をなんとか取り除こうと奮闘する。
それが思いもしない事態を呼ぶことになった。
農民は石に奇妙な彫り物がされていることに気づいた。
まもなく国際的に組織された発掘隊が現場に入ることになる。
発掘作業が進められた結果いくつもの巨大な石が姿を現した。
どの石も驚くほど保存状態がよく、動物の浮かし彫りがくっきり残っていた。
猪や狐、牛、何種類もの鳥、この地域には住まない動物までも・・・

だが大発見とされた最大の理由はほかにある。
トルコ語で、太鼓腹の丘を意味するこのギョベクリテペの遺跡は、11000年も前のものだったのである。
これまでに発見されたどの遺跡よりも5000年も古かったのだ。
近年レーダー画像の調査が行われ、この遺跡には直径が9mから30mの楕円形の巨大な建造物が20以上あることが分かった。

それぞれの建物の中には石灰岩を四角く削ったT字型の巨大な支柱がたち、その一部は高さおよそ2mの石壁に組み込まれている。
さらに何本かは中心に立っていた。
一体ギョペクリテペは誰が何のために造ったのだろうか。
この発見により、人類が狩猟採集生活から文明社会の生活にゆるやかに移行したというこれまでの定説が覆された。

発掘を行ったクラウス・シュミットは、ここが地域の拠点だったとみている。
非常に印象的な位置にあり、そこから世界中を見渡せる感じがするのだという。
考古学者たちは、新石器時代に遊牧民たちが遠方から旅をしてきて、何らかの儀式を行う場所だったのではないかとみている。
あるいは神殿ではないかというのもあれば、生贄をささげる場所だったとする説もある。
 研究者たちはギョベクリテペが2000年近い間使われていたとみている。
そして紀元前7000年頃、意図的に埋められ打ち捨てられたというのだ。
しかしそれはなぜだろうか?

人は大事な捨てるときは何かするもの、申請で大切なものであれば、去るときは埋めて隠すなどする。
戻ってきたらその上か、近い場所に復元するつもりで。
ギョベクリテペにも同様の痕跡が見られる。
他の場所に移動する前に、意図的にこれらの建物は埋められた。
何か切迫した状況にあったと思われる。
時代を見ればわかるが、氷河期の終わりに気候変動のころに当たっている。
ちょうどこの時期に地球規模の大災害も起きた。
北アメリカ大陸に彗星か隕石が衝突したのが原因かもしれない。
その証拠は各地で確認されている。
ギョペクリテペが作られたのは、この時代のこと。
そう考えると捨てざるを得ない状況にあったことがみえてくる。
隕石の衝突によって地球に異変が起きたことが原因なのか。
それが古代人たちがギョベクリテペを捨てた理由だと考えてもよいのだろうか?
あるいは逆にそれが原因で祈りをささげるための神殿としてあの建物が建てられたとも考えられないだろうか。
その答えは付近にあるアララト山にあると考える専門家がいる。
アララト山は旧約聖書の中で、ノアの方舟が大洪水がひいた後にたどり着いたとされる場所。
MT.ARARATの位置を確認すると、GOBEKLI TEPEから数100kmしか離れていないことが分かる。
あの遺跡で見つかった石に刻まれた動物の中には、なぜそこに描かれているのか説明のつかないものがいる。
あの地域には生息していない種類の動物。
問題はその動物があの当時はいたのか、あるいはどこからか連れてこられたのか。
神話を見ればお決まりの答えが出る。
あれはノアの箱舟に乗ってきた動物だと。
洪水を扱った物語はたくさんある。
世界中のどこにでもある。
アメリカ先住民のオジボア族にも中国にもギリシャ神話にも、ヒンドゥー教の神話の中にも。
つまり実際に起こった大洪水を基にしてこうした神話や伝説が作られた可能性は十分ある。
大洪水を扱った神話や伝説、方舟に動物たちをのせて救ったという話も事実を基にしたものなのだろうか。

その答えのカギは、ほかの滅亡した文明が握っている可能性がある。
そこで明かされるのは、人類の過去の姿、そして未来の姿かもしれない。
2004年12月26日、インドネシアのスマトラ島を、海底で発生したマグニチュード9.1の巨大地震が襲った。
インド洋の数100km沖を震源とする地震は、猛烈な津波を引き起こした。
ものの数分で23万人以上が命を落とし、200万人以上が家を失った。
7年後の2011年3月11日、日本の東北地方をマグニチュード9の地震が襲う。
日本がかつて経験したことのない未曾有の大地震だった。
数分後高さ9mの大津波が押し寄せ、町を容赦なく破壊していった。
24000人が死亡、負傷、または行方不明となった。
最新の防災設備を持つ現代の都市ですら、ものの数分で壊滅的な被害を受ける。
ならば同じことが起きて、古代文明の多くが滅亡したとは考えられないだろうか?
地球誕生以来、自然災害はある。
津波、地震、火山の噴火・・・
火山噴火も文明を死に追いやってきた。

典型的な例がポンペイのベスビオ火山、町は全滅し、そこだけ時が止まってしまった。
ポンペイとヘラクラネイムの町に火山灰や軽石が降り注ぎ、火砕流も流れ込んできた結果、埋もれてしまった。
こうして町は噴火に襲われた時のまま眠り続けていた。
発見されるまでの1500年もの間。

エーゲ海に浮かぶクレタ島、HERAKLION、1894年、言語学者であり、考古学者でもあるアーサー・エヴァンズはこの島を訪れた。
粘土板に刻まれた古代ギリシャの文字と思われるものを解読するためである。
ところがエヴァンズの解読結果は歴史家たちに衝撃を与える。
それは古代ギリシャのものではなく、さらに古い時代の未知の文明のものと発表されたからだ。
その3年後エヴァンズは、探検隊を率いて発掘を行い、脅威の発見をする。
クノッソス宮殿である。
この巨大な宮殿には、美しい装飾が施された部屋があり、お湯と水がそれぞれ出る水道設備や室内トイレまで備わっていた。

エヴァンズは宮殿を建てた人々をミノア人と名付けた。
クレタ島のミノス王の神話にちなんだのである。
青銅器時代、東地中海に君臨し、大船団を持つ超大国がミノア文明だった。
地中海のほとんどの国を相手に攻撃をしていた。
ミノア文明は始めて宮殿に趣向を凝らした社会、行事を行う中庭があり、絵画やフレスコ画を飾り、建築様式も見事だった。

ミノア文明は地中海で生まれた最初の超大国とみられており、紀元前2500年から紀元前1600年の間、栄えていたと考えられている。
ではなぜそれほどの力と技術を持った人々が忽然と消えてしまったのか。
専門家たちは歴史上類をみない火山の大噴火に手掛かりがあるとみている。
クレタ島の北100kmあまりに浮かぶ島THERAで火山の爆発があったのだ。
THERAの噴火は数日か数週間にわたり、2つか3つの段階を経て起こったようだ。
噴火の兆候ははっきりと出ていたのだろう。
というのもTHERAにはポンペイやほかの場所で見つかったような人骨が発見されていない。
つまりこの島の住人には逃げる時間があった。
ところがクレタ島の住民は考えもしなかった形で噴火の影響を受けた。

火山学の見地からすると噴火にもいろいろなタイプがある。
溶岩が流れるだけの静かなものから、爆発して煙と火山灰を降らすプリニンシキ噴火、さらに大爆発のウルトラプリニンシキ噴火まで。
THERAの噴火はウルトラプリニンだと思われる。
大爆発を伴う大噴火。
その威力はすさまじいので、島のほとんどは吹き飛ばされてしまっただろう。
辺りは暗くなり、噴煙が広がり、火山灰が降り積もった。
遠く離れたギリシャの東部やトルコの南西部からも確認できただろう。
おそらく遠く離れたほかの地域でも、噴火が起こっていることは爆発の音が聞こえてきて分かっただろう。

現在では巨大な大噴火の結果、巨大な津波が発生したとみられている。
そしてそれがクレタ島の沿岸部を襲ったのだ。
THERAの噴火直後何が起きたのか・・・

まず噴火で吹き飛んだ土砂や岩石が海に落ち、沈み込んだ海面が元に戻ろうとする。
すると巨大な波紋が広がり、その波はクレタ島に向かう。
およそ20〜25分で波は島に到達、その波の高さは場所にもより、5m〜9mはあっただろう。
昔火山の噴火で古代文明が痕跡も残さず消滅したというのなら、同様の危険が現代にもあるのではないのだろうか?

現在そのような大災害が起こる可能性が指摘されている場所はアメリカの東海岸。
スペイン領カナリア諸島にあるラ・パルマ島には断層があって、この島の大部分が海になだれ落ちる可能性が考えられる。
もしそれが起きれば、巨大な津波が発生するだろう。
もしも、ラ・パルマ島の火山が大噴火を起こしたら、大西洋に面した沿岸部がぐるっと被災する可能性がある。
カナダのニューファンドランド島からアメリカ東海岸、カリブ海や南米のブラジルまで、アメリカ東海岸に達する波の高さは10m〜20mにはなるだろう。
この波の高さは、2004年スマトラ沖地震や、2011年に日本で起きた大地震の直後に発生した津波に匹敵する。
しかし自然が引き起こす火山噴火や地震、津波といった災害で、文明が跡形もなく消え去ることはありうるのだろうか。
その後何世紀にもわたって人類の歴史を変えてしまう破壊力はあるのか。

ブルガリアのVARNA、黒海に面したこの町は、何世紀も前からリゾート地として栄え、ヨーロッパや中東の旅人と商人を迎えにぎわった。
すでに2世紀にはローマ人が公衆浴場を次々と作り、保養地として利用していた。
だがそんな旅行客はもちろん、地元の人々ですら知らなかった秘密が町のしたに埋もれていた。
その秘密とはヨーロッパの歴史を永遠に塗り替えるほどのもの。
それは1972年の秋の終わりだった。

ヴァルナの工業地区で建設工事が計画され、作業員たちが電線を地下に通すため掘削工事をしていた時のこと。
作業員の1人が1mほどの深さの溝を掘ったところで銅でできた品物を見つけた。
彼はそれをとっておこうと思い家に持ち帰った。
それから数週間後のこと、彼が持ち帰ったものを見た近所の人が興味を持った。
それからDalgopolという町の博物館の館長が家にやってきたが、目の前に並んだ品々を見た途端、飛び上がって驚いた。
翌日ヴァルナの考古学博物館の館長アレキサンダー・ミンチョフと職員が工事現場を訪れる。
そして驚くべき発見をした。
発掘が行われた結果、この建設用地は遠い昔死者を埋葬した墓地だったことが判明する。
300を超える墓があり、その年代は紀元前4500年頃のものと推定された。
だが驚きの発見は人骨の古さにとどまらない。
それは彼らが高い技術を誇る文明を持っていたという事実だった。

墓の中には緻密なデザインの副葬品が15000点以上あった。
銅製の斧、翡翠の飾り、おびただしい数の金のアクセサリー・・・
とりわけ豪華だったのが43番の墓45〜50歳くらいの男性が埋葬されていた。
副葬品に素晴らしいものが多く、中でも目を引いたのが金のペニスケース。
性的な支配力、繁殖力の象徴だろう。
同時に政治的な権力を示す金の杖も見つかったこの2つの力、つまり性的な支配力と政治権力がリンクした例は世界の他の地域では発見されていない。
金の埋葬品は多く出てきたが、取り出されたものの多くが一定の人骨に集中していた。
この事実はヨーロッパの古代史における常識を覆すものだった。

先史時代の社会では人々は皆平等だったと信じられていた。
共に働き収穫したものを分かち合っていた。
身分による差はなかったと考えられていた。
でも彼らは現代人と同じだったのだろう。
金や宝石を有難がり、便利な道具を使ていたのだろう。
出土品からヴァルナは先史時代、交易の都として栄え、フランスやスペインと銅製の武器を取引していたことが分かった。
それはメソポタミアが交易の中心となる1500年も前のこと。
ヴァルナはなぜ消えてしまったのか。

紀元前4200年頃、気候に異変が起きた。
気候が変動し、川の水位が上がり、気温も上昇した。
その結果農作物に大きな被害が出るようになったと考えられる。
気候の変動による干ばつや飢饉、それが本当にヴァルナの文明が消えた原因だったのだろうか。
近年中東で行われている発掘作業から新たな情報が次々と報告されている。
多くの専門家たちはその情報の中にこそ、ヴァルナはもちろん消えた文明の謎を解く鍵があるとみている。
一方で異論を唱え、驚くべき説を説く者もいる。
自然災害や地球規模の異変にとどまらず、核爆発で滅んだ可能性があるというのだ。
現代文明も終わりに近いことを意味しているのだろうか。

シリアの北東部にあるTELL HAMOUKAR、イラクとの国境から北に10km余りの場所にある。
西暦2000年、シカゴ大学オリエント研究所の発掘隊は衝撃的な発表をした。
なんと6000年以上前に存在した未知の文明の遺跡を発見したというのだ。
古代に繁栄した都市テル・ハモーカルが姿を現した瞬間である。
それは立派な住宅が立ち並び、商業が栄え役所もある町だった。
テル・ハモーカルの発見は従来の定説を覆した。
これまで世界最古の古代都市はここから東へ640kmにある南メソポタミア、現在のイラクだと考えられていた。
しかしもしテル・ハモーカルがそれほど繁栄していたのだとすれば、なぜ突然消えてしまったのだろう?
外部からの攻撃を受けたのだろうか?

紀元前4000年期に町が焼かれている。
それを示す人骨が12体発見された。
個の人骨はいずれも埋葬されたように見えず、攻撃を受けて都市が破壊されたという説は信憑性が高い。
当時の戦争は、双方入り乱れての接近戦がほとんど。
ただ武器を使った可能性もある。
玉、といっても銃弾ではなく、布に入れて振り回しながら投げるもの。
町に火を放たれるほど容赦ない戦いによってテル・ハモーカルが破壊されたのだろう。
当時北のテル・ハモーカルに対し、南にウルクという都市があったことはすでに分かっている。
それぞれ違う独自の文明が発展していた。
だからおそらく北と南の対立があったのだろう。

テル・ハモーカルから西に数100km、そこにはもう1つの古代遺跡テル・カラメルがある。
2007年発掘隊によってこの遺跡の中から巨大な石の塔の土台が5つ発見された。
塔は直径がおよそ4m、高さがおよそ6mあったと推測されている。
この塔は少なくとも10000年前には建てられていたらしい。
この遺跡はシリア北部にあり、ギョベクリテペからそう離れていなく、同一の文化だったと思われる。
しかしこの建物がなぜ造られたのか、全くの謎。
防御的な造りをしているのはわかる。
動物か人間かはわからないが、敵がいたのだろう。
恒久的な石の建物としては、人間が組織力をもって建てた最古のもの。
最古とされていたゲリコの遺跡より2000年も古い。
テル・カラメルが発見されたことにより、新石器時代に移行する前の段階は1つだけだったという説は捨てざるを得なくなった。
独自に高度な発達を遂げた場所も全く違う文化がいくつも出てきたからだ。
影響しあった形跡もなく、発展の仕方も様々、進歩のレベルも場所によって全く違う。
テル・ハモーカルとテル・カラメルが滅亡した原因は南側にあったメソポタミアから侵略されたためとみられている。

領土争いだけが古代文明が滅亡した原因だったとは考えにくい。
近年にわかには信じがたい大胆な説が発表されている。
常識では考えにくい現象が起こり、テル・カラメルやテル・ハモーカルが滅亡したというのだ。
核爆発である。
1972年、アフリカのガボンで核分裂の痕跡が発見されたのだ。
それはウラン鉱山の地底だった。
原子炉でしか発生しない物質が発見された。
その物質がいつ発生したのか測定したところ、20億年の前のものだったことが分かった。
太陽で自然の核融合が起きているおかげで人間は生きていられる。
では地球ではどうなのか?
じつは1950年代には、地底に天然の原子炉を作りうる物質は何なのか、予測が建てられていた。

1つはウラン235、地球のあちこちにあり、金よりも多い物質。
このウランは重く核分裂しやすい元素だが、日常的に採掘されている。
これが核分裂を起こすには、このウランを濃縮したもののほかにもう1つ物質が必要。
中性子の活動を抑制し、核分裂を促進する物質、水。
西アフリカには十分な水と天然の濃縮ウランが豊富にそろっていた。
だから天然の原子炉ができたのだろう。
自然界にあるウランで核爆発が起きるという予測が現実のものとなってほしくはない。
もしあってもウランは地下に存在するので何かあれば火山の活動みたいになるだろう。
自然災害に似ていると思われる。
自然の核爆発が実際に起きた場合、ウランの鉱床から数100km、あるいは数1000kmにわたり、大地は吹き飛んでしまうとみられている。
西アフリカで核分裂が起きていたのなら、他の場所で起きていた可能性もある。
あのテル・ハモーカルでも。

古代文明は本当に地中の奥深くで起こった自然の核爆発が原因で滅亡したのだろうか。
それとも古の都をことごとく破壊したものは、はるか彼方から地球にやってきたものなのだろうか?
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ダークサイド・ミステリー★ノストラダムスの真実

世紀の預言者ノストラダムス、1999年人類滅亡の予言は外れた?
ノストラダムス自身は、人類の未来について、3797年まで預言したと語っている。
ノストラダムスの預言の本当の恐怖はまだ終わっていない。
ノストラダムスは、織田信長とほぼ同時代の人物。
ノストラダムスとは何者なのか?
『予言集』第4巻68
「アジアとアフリカの2人の最も偉大な人物がラインとヒスターから来たと噂されるだろう。」
アジアとは日本、アフリカとは当時進出していたイタリア。
ライン川はドイツ、そしてヒスターとはヒトラーのことである。
2001年9月11日アメリカ同時多発テロ・・・

『予言集』第6巻97
「火が大きな新しい年に近づくために瞬時にまき散らされた大きな炎が爆ぜるだろう。」
遥か未来である現代の情景を、まるで見てきたかのように記したノストラダムス。
1000近くもの予言詩をどうやって書き記したのだろうか?

南フランス、地中海に面したプロバンス地方、1503年ミッシェル・ド・ノートルダム誕生。
父方は商人の家系、ミッシェルは頭がよく、大学で自然科学や文学を学んだ。
20代の時、8年にわたりフランス各地を放浪、数多くの死者を出していた伝染病ペストの治療を薬草の知識などを用いて行ったという。
30代まで医者として活躍し、40代を迎えると、もう1つの仕事に力を注ぎ始める。
占星術師の仕事だ。
占星術は太陽や月、惑星の位置や動きから、人間や世の中の今後を読み取る技術。
16世紀、医学と占星術は密接な関係があった。
当時の考え方の図↓

例えば、頭には牡羊座が、膝にはやぎ座が描かれている。
小宇宙である人体の各部分は、それぞれ大宇宙の星座に対応していることを意味している。
オリヴィエ・ミレ(ソルボンヌ大学教授)「人間の体のバランスは星からの影響で決まると考えられていた。
なので星や惑星の位置から、何の病気なのかを診断し、治療の時期や方法を判断した。
占星術は当時科学だった。
星の動きの細かい計算と、深い知識に基づく理論的なものだった。」
ノストラダムスが40代から移り住んだ町サロン・ド・プロバンス、暮らしていた家を基にしたノストラダムス記念会に占星術の仕事の貴重な資料が保存されている。

ノストラダムスが出版した暦『アルマナック』、星の動きを基に作ったカレンダーで、農作業や生活の予定を決める実用書として庶民に重宝された。
ポケットに入れて持ち歩けるよう、とても小さくて薄いもの。

中身は月の満ち欠けを占星術で占い、種まきや収穫の時期、天候、宗教行事などがわかるようになっている。
『アルマナック』で、ノストラダムスは日付の横に小さなメモを記している。
「8日、この日は霧が出ます。
10日、誰か死にかけます。
15日、医者にかかりお風呂に入るのがよいでしょう。」
まさに毎日のワンポイント占い。
このように地道な医者兼占星術師だったノストラダムス、世紀の大預言者には程遠い印象。
ところが40代後半、仕事上のちょっとした工夫が彼の未来を劇的に変えてしまう。
それぞれの月初めのところに、月ごとの占いを少し長い文章で書いてみたのだ。
その1例が・・・
「8月、並外れた豪雨によって家畜の価値は適正になり、女たちは死の危険から逃れる。
しかし一方、雹や豪雨によって人々は打ちのめされ死によって真剣に働くようになるだろう。」
これまでの日常の一言占いから、近い将来に起きる運命的な出来事の予測へ。
短い読み物としてのドラマチックな文書は読者の心をつかみ大成功を収める。

そして51歳の時、『アルマナック』で成功した手法を基に、画期的な本の執筆に取り掛かる。
その時の様子をノストラダムス自身がこう記している。
「私は神からの啓示を受けた霊感にとらわれ、甘美で長い計算に没頭した。
それは今から西暦で3797年まで及ぶ終わりのない予言である。
それが人類共有の利益となるように願い、不眠不休で長い時間書き続けた。」
1555年、『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』初版が出版された。
預言者ノストラダムスの登場だ。
4行の詩で描かれた予言100編を1勘にまとめ、最終的に10巻、1000編近い予言が発表された。
その4行詩の多くはまがまがしい災害や戦争、社会を襲う大変動のイメージで描かれていた。
『予言集』第3巻84
「大都市というのはまさに打ち捨てられ、住民の誰1人もそこにとどまらない。
城壁、性、寺院、処女が冒涜され、天で火でペストで人々は死ぬだろう。」
『予言集』第2巻57
「戦闘の前に大いなる壁が崩壊する。
大貴族には死、あまりに突然の悼まれし死。
不完全な誕生、ほとんどの人は泳ぐ、川のほとりで大地は血に染まるだろう。」
漠然と不安を掻き立てる表現、ほとんどは年月も具体性もなく、どうにでも解釈ができる書き方をしている。

なぜ予言の内容を明確にしないのか、ノストラダムスは次のように語っている。
「もし私が未来に起こることを具体的に記せば、政治家や宗教者は、自分たちが望む未来と一致しないと気づき、定められた運命をねじ曲げる不正を働くであろう。
そこで万人の未来のために、意味の隠された難解な文章で記し、広めたいと思った。」
当時は、イタリアを中心に人間の英知が再び花開き始めたルネッサンスの時代、しかしその陰で世の中には恐怖がうごめいていた。
伝染病の流行や飢饉が相次ぎ、領土や宗教をめぐる戦乱は各地で激しさを増していた。
しかも東からは、イスラム教のオスマン帝国が地中海沿いにその勢力を広げ、ノストラダムスがいた南フランスは深刻な不安で覆われていた。
そうした世相を背景に、ノストラダムスの予言集は、半世紀で36版まででるほどの大ヒットとなった。

ベストセラー作家として名を挙げたノストラダムスに、やがてパリの王侯貴族たちからお声がかかる。
特にフランス王アンリ2世の妻・王妃カトリーヌ・ド・メディシスは、ノストラダムスに様々な相談事をするようになった。
人生50代にして突如、王妃お気に入りの占星術師に大出世したノストラダムス、さらに歴史的な事件が彼の未来を変える。
1559年、カトリーヌの夫、国王アンリ2世が年下の貴族との馬上の槍試合を行った時のこと、、相手の槍が運悪く、兜の目の部分を直撃、目を貫かれる大けがを負った。
アンリ2世は、それが元で死亡した。
後に王宮で噂が広まった。
不吉な事故に似た1説が、あのベストセラー本にあったのではないか。
『予言集』第1巻35
「若き獅子が老いた方に打ち勝つだろう。
一騎打ちによる戦いの野で。
黄金の籠の中の両目を彼は引き裂くであろう。
2つの軍隊は1つになり、そして死ぬ、酷き死。」
つじつまが合わない部分もあるが、描写の多くは事故を思い起こさせる。
これがノストラダムスの予言集、最初の的中として語られるようになる。
事件から7年後の1566年、占星術師ノストラダムスは62歳で死去、この後、世紀の大預言者と呼ばれるようになるには、驚くべき数奇な出来事が、現代まで続くのだった。

◆”1999年人類滅亡”の詩の真相◆
ノストラダムスの詩は、当時まるでホラー映画のように受け入れられた。
実際に恐怖をあおる単語が頻繁に使われている。
1000近い詩の中で、戦い(Guerre)が107編に、血(Sang)は115、死(Mort)は153編に登場する。
他にも怪物や飢饉、ペストなど、まがまがしい単語が多い。
また、ノストラダムス自身がわざとわかりにくく書いた、しかも昔のフランス語で書かれている上に、詩のリズムを整えるために単語のスペルを変更・省略したりしているので、現代の外国人が正確に解釈するのはとても難しい。

人類滅亡と騒がれた詩↓
「1999年7の月 空から恐怖の大王が来るだろう
アンゴルモアの大王を蘇らせ マルスの前後に幸運に支配するために」
実際に使われている恐ろしい言葉は”恐怖の大王”くらいで、”幸運”という言葉が使われているなど、ほかの4行詩に比べれば穏やか。
またアンゴルモア(Angolmois)の大王は、地元フランスの人が聞けば、実在の地名であるAngoumoisやAngoulemeを指し、その王様のことだとすぐわかるそうだ。
”1999年7の月 空から恐怖の大王”というのも、太陽の日食を指しているという解釈が一般的。
人類滅亡という解釈は、かなり無理がある。
なんだろうと考えたとき、たまたま知っている知識や目についたものが当てはまる。
それでいろんな説ができてしまったのだろうか?

ノストラダムスの死から28年たった1594年、その評価を大きく膨らませる本がフランスで出版された。
『フランスのヤヌス・第1の顔』、ノストラダムスをヤヌス(2つの顔を持つローマ神話の神 過去と未来の間に立つ)に例えている。
筆者はノストラダムスの弟子であり、秘書を務めていたジャン・ド・シャビニー、彼はこの本で師匠の予言集の記述と、その死後に起きた大きな出来事を照らし合わせてみた。
その結果、ノストラダムスの死後に実際に起きた事件について、見事言い当てている予言が141もあるとシャビニーは主張した。
例えば、『予言集』第6巻11
「7つの小枝が3つに減らされるだろう もっとも年上の者たちが死に襲われるだろう
2人は兄弟殺しに魅惑されるだろう 眠りに落ちた陰謀者たちは死ぬだろう。」
これは先代の国王アンリ3世と兄弟たちの急死や争いを当てた予言だとシャビニーは解釈している。
しかし実際は歴史上の権力者の兄弟争いはたくさんあるはず。
シャビニーは手近な事件に予言を当てはめただけだと言われている。
 こうした弟子や信奉者たちがノストラダムスを称え、その生涯を語り継ぐうちに、生前にはなかった逸話まで生まれてゆく。
ある日、街角で若くて貧相な修行僧に出会ったノストラダムス、突然修行僧の前でひざまずき、あなたはやがてローマ法王になるでしょうと祈り始めた。
思いもよらぬ行動に当惑する修行僧、しかしこの僧は後に第227代ローマ法王シクトゥス5世になったという。
このようなノストラダムスの逸話は数々あるが、いずれも生前の確かな記録はなく、後世の創作と言われている。
ノストラダムスの名声が高まると、予言解釈に取り組む人は次々に登場、解釈本も増えていった。
下のグラフはシャビニー後に出された予言集や解釈本の数を示すもの。

数多く出版された年にはフランスの歴史上、重大な事件が起きている。
1789年フランス革命勃発、王侯貴族が支配する世の中が大きく揺らぎ始める。
1812年ナポレオン1世がロシア遠征で惨敗、それまでヨーロッパを席巻したフランス勢力は急速に転落。
1871年普仏戦争(プロイセンとの戦争)で敗北、首都パリが占領されてしまう。
これからフランスはどうなるのか、先行きの見えない時代になると、ノストラダムスブームが起きていることがうかがえる。

20世紀前半の最大のブームは1939年、第二次世界大戦始まりの年だった。
ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーと彼が率いるナチ党の一部は神秘主義に傾倒、大預言者ノストラダムスの名声を使ったオカルト戦術を展開した。
敵国フランスを上空から爆撃、そして予言詩の一説を印刷したビラをばらまいた。
『予言集』第6巻34
「空飛ぶ炎の機械が包囲された人々の偉大な司令官を悩ましにやってくる
内部の扇動はすさまじく、打ち砕かれた人々は絶望に陥る。」
ドイツ人の爆撃によってフランス人の団結心が砕かれるのは運命づけられている、と不安をあおる作戦だ。
さらにドイツ軍は、高名な占星術師カール・エルンスト・クラフトを起用、新たなノストラダムス解釈本を書かせた。
1941年発行、『ノストラダムスはどのようにヨーロッパの未来を予見したか』
予言集の内、35の詩を取り上げ、ノストラダムスは歴史上の事件をことごとく言い当てていること、そしてドイツの敵であるイギリスが敗北し、崩壊してゆくこともすでに予言されているのだと記している。
この本は6か国語に翻訳され、ヨーロッパ各国で、ドイツのプロパガンダとして広められた。
これに対しイギリス側も驚くべき対抗策をとったことが近年明らかになった。
 ドイツ上空、イギリスの爆撃機からばらまかれる謎の紙の束は一体?
2008年この鍵を握るイギリス特殊作戦執行部の機密資料が公開された
ここに「ルイド・ウォール・・・この男は信用できる・・・」と記されている。
ルイド・ウォール、当時現代のノストラダムスと注目を集めていた占星術師。
ウォールがイギリス政府の要請を受け、作成した本の数々がロンドンで保管されている。
その中の1つ『ノストラダムス 対戦の行方を予言』ノストラダムスの予言詩がドイツの敗北を予言していると示したもの。
「木星がかに座に入り、大きな袋は彼を選出したことを嘆くだろう。
ヒスターの破滅が近づく。」
実はこの詩はノストラダムスの予言集には存在しない。
ドイツにとって不吉な内容に説得力を持たせるため、占星術に基づいてウォールがでっち上げたと言われる。
死者3000万人以上、空前の恐怖と不安のさなか、大国同士がノストラダムスの名を用いて繰り広げられた宣伝合戦・・・
その結果ノストラダムスは世紀の大預言者として20世紀によみがえったのだ。
戦後人類は自らを絶滅させる力を手にした。
核兵器の大量生産、アメリカとソビエト、超大国による東西冷戦は、核ミサイルのボタン1つで地球が破滅するという恐怖で人々を覆った。
そうした中の1973年ノストラダムスはついに日本に上陸する。
作家・五島勉が著した『ノストラダムスの大予言』、ヨーロッパでは注目されてこなかった「1999年7の月」の詩を人類滅亡の予言として解釈、センセーショナルな話題を呼び、累計240万部の大ベストセラーとなった。
出版された1973年高度経済成長で明るい未来を描いていた日本を、第1次オイルショックが襲い、経済は大混乱に陥った。
公害などによる環境破壊は、深刻な問題となり、日本は先行きの見えない不安の時代へとすでに突入していた。

「1999年人類滅亡」のイメージは様々なメディアで取り上げられ、予言の恐怖と現実社会の不安が、負の連鎖となって人々をさらなる不安へと導いていった。
フランス・リヨンに住むノストラダムス関連書籍研究家ミシェル・ショマラさん、1989年彼のもとに予言書を調査したいとある日本人がやってきた。
「私はアサハラに言った。ノストラダムスを正確に理解するには、当時の古いフランス語や時代背景が分かっていなければなりません。
古フランス語を英語にして、それを日本語にするやり方では難しいですよと。」
オウム真理教の麻原彰晃は、ノストラダムスに心酔、予言集の原書に、自分が救世主として予言されている箇所がないかを調べにきたという。
1995年、地下鉄サリン事件、麻原は”人類滅亡の予言”を実現するために”ハルマゲドン”を目指したとも言われる。
「ノストラダムスは、人間の不安に対するひとつの答え、人間は常に自分は将来どうなるのか不安を抱き、何かにすがろうとする。
だから大きな社会変動のたびに未来を見通すノストラダムスが引き合いに出され、ブームがやってくるのだ。
ノストラダムスは時代を超えて人間を映し出す、そんな現代性を持った存在だと思う。」

人が未来に不安を感じると、予言に心捕われがちなのは、いつの時代も同じ。
そうした予言と、私たちはどう向き合えばよいのか。
1973〜74年ノストラダムス・ブーム、当時終末ブームがあり、環境問題がクローズアップされていた。
世紀末に人類が滅亡するのではないか・・・
核戦争、小惑星落下、宇宙人が攻めてくるとか・・・
それは全部外れた・・・
ノストラダムスは「1999年人類滅亡」とは言っていない。
日本の解釈者の中には「ノストラダムスは私たちのことを予言している」という人も・・・
ノストラダムスの予言はロールシャッハテストのようなもの(インクの染みを見て何を感じるかで思考を分析)
ノストラダムスの予言は人によって感じ方が違う、心の中の不安とかを読み取れてしまう。
本来なら、人類の危機が来るのなら、皆でそれをどうにかしなければならないと思わねばならない。
しかし予言で運命が決まっていると考えることは楽、責任をとらなくてもよい。
未来は自分たちで変えてゆくのだと思うべきだ。
世の中は誰かが作ったシナリオ通りに進んでいると思ってしまわず、我々がシナリオを作っていくのだと考えるべきだ。

18世紀ヨーロッパ、恐怖の野獣事件
血に飢えたオオカミか、それとも恐怖の狼男か・・・
鋭い牙と長いかぎづめで、ひと肌を切り裂きその肉を食らう巨大な野獣。
かつてフランス南部で起きた残虐な事件、女子供など、100人余りを餌食とした正体不明の謎の怪物。

その名はジェヴォーダの獣、事件から250年がたった今も、その惨劇は人々の脳裏に底知れぬ恐怖として焼き付いている。ばけ
フランス中央山地に位置するジェヴォーダン地方、1000m級の山々に囲まれ、村人が酪農や林業で暮らす地。
1764年6月、ある牛飼いの女性がいつも通り放牧の番をしていた。
そこに、1頭の巨大な獣が襲い掛かった。
女性は鋭い爪で服を引き裂かれ、体中に傷を負ったが、一命はとりとめた。
この事件の記録のなかに彼女を襲った獣の姿が記されていた。
それは村人が見慣れたオオカミとは異なる姿だった。
「化け物は牛ぐらいの大きな体で、頭はオオカミよりも大きく鋭いかぎづめを持ち背中には一筋の縞模様があった。
数日後、最初の襲撃場所から10kmほど離れた村で少女が行方不明になった。
翌朝少女は死体で発見された。

無残にも内臓を食われていたという。
ジェヴォーダンの惨劇はこうして幕を開けた。
謎の獣は度々出現、犠牲者は3か月で20人以上に上った。
しかも犠牲者のほとんどが狙いすましたかのように抵抗する力の弱い女性や子供ばかり。
さらに野獣は人知を超えた不思議な現れ方をして、人々を怯えさせた。
ある日ベルグヌーという村で、10歳の少女を襲った野獣は、同じ日に南西に50kmも離れた村に現れ、15歳の少年も襲った。

野獣は広大なジェヴォーダン地方の遠く離れた場所にほぼ同時に現れたのだ。
またある日、山狩りをしていた村の漁師が野獣を発見、野獣は致命傷を負ったかに見えた。
ところが数日後には別の場所に現れ、殺戮を続けたのだ。
野獣は何頭もいるのか、あるいは不死身なのか、もしや狼男か、それとも魔物か、未知の恐怖に村人の恐怖は膨れ上がった。

謎の野獣事件は、ジェヴォーエアン地方から600km離れたフランスの都パリにも伝わる。
連続妖気殺人の話題に新聞は飛びついた。
「ある者はハイエナではないかと語る。またヒョウのようだとも言われている。」
憶測交じりのセンセーショナルな話題は、フランス全土、そしてヨーロッパ各地に広まっていった。
事件発生から4か月後1764年11月、事件の解決に国王ルイ15世が乗り出した。
国民や外国にフランス王室の威厳を示すため、莫大な資金を投じ、討伐隊を送り込んだ。
フランス軍の精鋭部隊・竜騎兵、別名ドラゴン、華麗な軍服で着飾り馬で原野で駆ける55名の兵士たち。
これで野獣も退治される。
村人たちは胸をなでおろした。
しかし・・・

新聞『クーリェ・ダヴィニョン』1765年1月25日
「竜騎兵は野獣を発見できず被害者は増えるばかり。」
龍騎兵は狩りについては素人だった。
山狩りでは獣を追い立てようとドラを鳴らしたてながら進んだが、かえって獣を遠ざけてしまった。
3か月たったある日、20000人が参加した山狩りで、ついに野獣が姿を現した。
撃たれた野獣は一瞬崩れたが、起き上がり森へ逃げてゆく。
龍騎兵は後を追ったが、馬から降りようとはせず、険しい山に阻まれて野獣に逃げられてしまった。
打つ手がなくかった竜騎兵はこんな作戦まで・・・
兵士を女装させ、放牧の子供たちに同行、野獣を待伏せる作戦だ。
しかし竜騎兵をあざ笑うように、野獣は別の場所で相次いで襲撃、住民は絶望した。
人々は地元の司教や聖職者に救いを求めた。
権威ある彼等なら解決策があるかもしれない。
しかし村人の期待はここでも裏切られた。
司教は各地域の教会に文書を出し、「野獣はオオカミや普通の獣ではなく、神が人々の罪を罰するために地上に送った特別の獣なのだ。
これは天罰なのだ。」と語った。

村人は野獣から身を守るために持つことを許されたのは、長い木の先に短剣をつけた簡素な槍。
銃を持つことは国家への反乱につながるという理由から、漁師など、一部の人しか認められなかった。
犠牲となったのは、しいたげられた地域のより弱い人々だった。
このジェヴォーダン地方は隔絶され、孤立した貧しい土地で、見捨てられていた。
子供たちは生活を支えるため、放牧の仕事をしなければならなかった。
子供がいない家ではその役目は女性だった。
貧しさゆえに子供や女性が1人で外に出なければならなくなり、一番獣の危険にさらされた。
誰も効果的な手を打てないまま、野獣の襲撃は続いていった。
ところが発生から1年3か月1765年9月、事件は急展開を迎える。
国王ルイ15世が新たに派遣した射撃の名手ボーテルヌが野獣を仕留めたのだ。
その体調は1.7m、体重65kg、確かに通常のオオカミより巨大だったが、多くの目撃情報で見られた背中の縞模様はなかった。
ともかく事件は解決、国王ルイ15世は威厳を守り、村人も久しぶりの平穏に安堵した。
ところがその2か月後、牛の番をしていた2人の少年が何者かに襲われた。
1人は死亡、生き残った少年は証言した。
背中に一筋の縞模様がある野獣だったと。
再び始まった殺戮、しかもこれまでよりさらに異様な状況が続いた。
「殺された女性の頭は切り取られ、100歩ほど離れたところで見つかった。」

刃物で切られたように切断された遺体が続出、中には遺体の上に帽子がかけられていることもあった。
もしや、野獣に見せかけた人間の仕業なのではないか、村人たちは疑心暗鬼に陥り、憎しみ合うほど追いつめられていった。
しかし国王も新聞も新たな惨劇には目を向けなかった。
事件はすでに解決済みという姿勢を通したのだ。
1767年6月19日、山狩りをしていた地元の漁師ジャン・シャステルが謎の巨大な獣を射殺。
シャステルが獣を仕留めて以降、襲撃はピタリとなくなり、3年にわたる悲劇は終結した。
この獣の死体を300人が目撃、彼らは皆オオカミとは明らかに異なり、まさに怪物だと証言している。
その後死骸の行方は確認されていない。
ジェヴォーダンの獣、その正体は巨大なオオカミやハイエナという説、犬とオオカミの交配種説、それらが複数いたともいわれるが、真相は謎のままである。
小高い丘の頂に立つ野獣と少女の像、手製の槍で自分の身を自分で守るしかなかった少女。
厳しい暮らしの中、恐怖に怯えながら毎日を闘い続けた人々の悲劇の物語がここにある。

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ヒッグス粒子
40年にわたる研究の末、宇宙の謎を解く手がかりがついに発見された。
捉えがたく強力なパワーを秘めたヒッグス粒子、それは宇宙におけるすべての存在を作りだした神の粒子なのだろうか?
空間、時間、生命体の誕生、宇宙の謎を解くカギは、ワームホールにある。
私たちはどうやって宇宙に生まれたのだろう?
宇宙はエネルギーの爆発によって始まったという。
そのエネルギーが物質へと姿を変え、天体や私たちの体を形作る素材となった。
宇宙は一瞬で燃え尽きることなく百何十億年も生き続けている。
物理学者たちは以前から、宇宙全体に見えない力の場が広がり、それがエネルギーを物質に変えると予測していた。
そしてついにその力が実在することを証明した。
そこから発生したのが神の粒子と呼ばれるヒッグス粒子、これで宇宙創成の謎がついに解けるのだろうか?
もしも神の粒子がなければ、宇宙は一瞬で消え去っていただろうと考えられている。
ダン・フーパーとパトリック・フォックスは、フェルミ国立加速器研究所の理論物理学者。
高速粒子衝突実験で、ヒッグス粒子が見つかるのをずっと待っていた。
エアホッケー台が宇宙だと考えてみよう。

物理学の世界ではビッグバンで生まれたのは、質量のないエネルギーだけの粒子だったと言われている。
初期の宇宙ではすべての粒子が質量を持たず、光の速さで飛び交っていた。
でもそんな状態は長く続かなかった。
ほんの一瞬で何かが変わった。
まるで誰かがレバーを引いたように、大部分の粒子が急に動きを止めた。

ビッグバンの直後に宇宙が冷えはじめヒッグス場が働きだしたと言われている。
影響を得たものは質量のある粒子に、受けなかったものは、質量のないエネルギーだけの粒子になった。
粒子と粒子をぶつけてミクロの世界を探ろうとしてきた研究者たちは、粒子に2つのタイプがあることを知った。
質量を持っていて物質を運ぶフェルミ粒子と、質量を持たずに力を運ぶボーズ粒子だ。
ヒッグス粒子がなければ、どちらも質量を持たなかったはず。
フーパー「ヒッグス場がなければ、みんな力を運ぶ粒子になっただろう。
光子のように質量を持たず光の速さで飛ぶ粒子だ。
質量がないということは、宇宙に原子も、科学現象も生まれないということ。」
宇宙に人類のような複雑な構造体が生れたことも、ヒッグス粒子のおかげ。
でもどうしてヒッグス場が働きだしたのだろう。
フーパーやフォックスなどの物理学者は、ビッグバンの衝撃によってヒッグス場が働きだしたと考えている。

エネルギーの塊を物体のある宇宙に変えた力は、自然に働きだしたと言われている。
でも中にはこれを創造主の計らいとみなす人もいる。
ヒッグス場をより深く知れば、こうした謎が解けるかもしれない。
研究者たちはヒッグス場に働きかけてヒッグス粒子を取り出し、それを調べようとしている。
そのために史上最強の実験マシーン、LHCと呼ばれる大型ハドロン衝突型加速器が建設された。
リンドン・エバンスは、この40年間ジュネーブにあるCERNで、粒子加速器の建設に携わってきた。
作った機械は今も全て現役で、段階的な作業を担っている。
粒子は古い加速器を通って、徐々に加速される。
できる限りのエネルギーを詰め込んだ状態で、1周27kmのLHCに送り込まれる。

「CERNに来たのは1969年、最初に担当したのはディオプラズマトロンイオンゲンとう陽子を発生させる装置。
線形加速器とブースターで加速された陽子は、私が70年代に手掛けたスーパー陽子シンクロトロンを通ってLHCに送られる。」

粒子加速器はここ数十年で進歩した。
より多くのエネルギーで粒子を衝突させて、より高い質量を持った新しい粒子を作れるようになった。
以前は2つの陽子をぶつけて2倍の質量を持った粒子を作るのが精いっぱいだった。
でもヒッグス粒子の質量は、少なくとも陽子の100倍、物理の法則では陽子に高い運動エネルギーを与えると、ぶつけたときの質量よりもはるかの重い粒子が誕生すると予測することができる。

「あの有名なE=mc2という方程式の通りだ。
私たちは高いエネルギーを重い物質に変えているのだ。」
ヒッグス粒子のような質量の高い粒子を作るには、従来よりもはるかに高性能の加速器が必要。
エヴァンスたちは、テクノロジーの限界に挑んだ。
「粒子は周回ごとにエネルギーを高める。
そして最終的にはフルパワーに至る。」
必要なパワーは手に入ったが、力だけでヒッグス粒子の研究はできない。
乾草山から針を探すような仕事が待っている。
ここでの乾草は何兆個もの素粒子。
姿が見えず声が聞こえなくとも、神はいつもそばにいる。
宗教の敬虔な信者はそう考える。
ヒッグス粒子もまた、きわめて捉えがたい存在。
粒子は1兆×10億分の1秒間ほどこの世に現れ、かすかな手がかりを残して消えてしまう。
決して目に見えない粒子をどうやって探すのだろうか?

物理学者ジョー・インカンデラの両親は、息子を硝子作家にしたいと願っていた。
「大好きなガラス作家の1人が科学者だったので私も大学に行って科学を学ぶことにした。
そこで物理の授業を履修したとき衝撃を受けた。」
インカンデラは、LHCにおける主要な実験のリーダー。
世界中から来た物理学者と共に1つの謎を探求している。
全ての存在がなぜ存在するのかを突き止めようとしているのだ。
LHCでの実験がその問いに答えてくれる。
LHCでの衝突実験は、ビッグバン直後のエネルギー状態を再現する。
研究者はそこからヒッグス場が働きだした瞬間についての情報を得ようとしている。
ヒッグス場の力は宇宙に広がり、すべての物質が作り出された。
その力を運ぶのがヒッグス粒子、これを検知する唯一の方法はヒッグス場にエネルギーの乱れを作ること。
「ヒッグス粒子はある意味宇宙の状態や粒子の姿の現し方などを決定づけている存在。
LHCなどの加速器を使って高エネルギーの陽子と陽子をぶつければ、ヒッグス粒子を飛び出させることができる。」
LHCで衝突する陽子の中に、クオークやグルーオンと呼ばれる粒子がつまっている。
衝突すると数千個の新しい粒子が飛び出すのだ。
そのあとを調べるのは、ガラスの破片をふるいにかけるようなもの。
骨の折れる作業だ。
「エネルギーや粒子やその破片が散らばっている中から特定のパターンを探す。
ヒッグス粒子の崩壊パターンには非常に厳密な条件がある。」
神の粒子はそう簡単に捕まらない。
見つかる前に消えてしまうのだ。
「一瞬で崩壊するため粒子の測定はできない。
崩壊によって生まれたものから推測するのだ。」

ヒッグス粒子を検出するには、陽子が衝突した後を調べて、元の粒子を推し量るしかない。
床に散らばったガラスの破片をすべて分析し、軌道を計算すれば、衝突の状況を再構成できるのと同じこと。
「衝突の大部分は凡庸なパターンを描くので、それらは分析の対象から外される。
つまり圧倒的多数が排除されるのだ。」
彼らが調べたいのは、陽子と陽子の中身が直線状に並んだケース。
陽子の中のクオークが相手のクオークと正面衝突すると、ほぼすべてのエネルギーが1カ所に集中する。
この強い衝撃によって、ヒッグス場からヒッグス粒子が飛び出す。
でもこうした衝突はめったに起きない。
LHCが稼働してから、陽子をぶつけた回数は、およそ1000兆回。
1000兆の砂粒は、競泳用プール1つ分、そのうちヒッグス粒子が発生しうる衝突は数百回、砂粒に例えれば指先に乗るくらいの量。
気の遠くなるような仕事だが、インカンデラの数千人の物理学者たちはこれをやりとげてしまった。

2012年7月4日、インカンデラは研究チームのもたらした画期的な成果を発表する。
予測されたヒッグス粒子と同じ質量125〜126ギガ電子ボルト付近に粒子を検出したという。
アインシュタインによるE=mc2という方程式以来の大発見と言われている。
存在の謎を解くカギとなる粒子が見つかった。
宇宙を完璧に理解できる日も近いのだろうか。
ダン・フーパーはそう簡単ではないという。
ヒッグス粒子は全部で5種類あるかもしれないのだ。
ヒッグス粒子は宇宙にある物質の期限を解き明かすカギになると考えられている。
しかし近年宇宙の大部分はダークマターという見えない粒子でできていることが分かった。
宇宙におけるダークマターの量は普通の物質の5倍、ヒッグス粒子の存在を予測する今の理論では、ダークマターの存在を説明できない。
何かを見落としているのだろうか。
半世紀にわたる研究の結果素粒子物理学の標準のモデルと言われる1つの理論が構築された。
物質を構成する素粒子は12種類、クオークとレプトンからなるフェルミ粒子。
一方電気や磁気などの力を媒介するのはボーズ粒子のうち4種類。
そしてもう1つの特別なボーズ粒子がヒッグス粒子。
しかしこのモデルではダークマターの説明ができない。
他にも重大な不備があるのだ。
フーパー「標準モデルが抱える大きな課題の1つは階層性問題。
ヒッグス粒子の質量は126ギガ電子ボルト前後と言われる。
でも標準モデルをそのまま当てはめた場合、質量はもっと大きくなるはず。
でも何かの理由で軽くなってしまった。」

ヒッグス粒子の問題は、重さ。
ヒッグス粒子はほかの粒子に質量を与えると相手からも質量を受け取る。
それを計算するとヒッグス粒子の質量は本来の数10億倍になると考えられる。
標準モデルを成立させるには、計算上の矛盾をごまかす必要がある。
フーパーはヒッグス粒子やダークマターの問題を解決する方法があるという。
それは標準モデルに修正を加えた超対称性理論。
超対称性理論では、宇宙の粒子はまだ半分しか見つかっていないと考える。
それぞれにパートナーの超対称性粒子があるはずで、そのうちの1つがダークマターだという。
「超対称性粒子の中で、最も軽いものがダークマターの最有力候補だと言われている。
この粒子は初期の宇宙で大量に作られ、大部分が破壊された。
でもわずかに残った粒子がダークマターになったと考えらえる。」
超対称性理論が証明されれば、ヒッグス粒子の質量問題も解決するという。
「この理論が正しければ、ヒッグス粒子は電子から質量を渡されても、そのパートナーであるセレクトロンに質量を取られてしまう。
結果的に粒子の質量が増えることはない。」
標準モデルで解決できなかったヒッグス粒子の軽さも、ダークマターの正体も、これで説明がつく。
しかし1つだけ問題が・・・超対称性理論が正しければ、ヒッグス粒子は前部で5種類あるはず。

ヒッグス粒子は宇宙全体の物質に質量を与えた。
ヒッグス粒子だけの手柄ではないとしたらどうだろう。
神の粒子以外に立役者はいたのかもしれない。
ジョン・エルスはCERNの理論物理学者、彼のアイディアはしばしば実験によって間違いだと証明される。
でもそれでいいとエルスはいう。
アルバート・デルックは実験物理学者、アイディアの間違いを証明するため、実験を続けてきた。
デルクとエルスの2人はヒッグス粒子の探索に初期のころから携わっている。
そもそもヒッグス粒子はある謎の手掛かりと考えられていた。
極端に重たいW粒子とZ粒子の謎だ。
他のボーズ粒子にそんな質量はない。
物理学者たちはボーズ粒子の中で、W粒子とZ粒子だけが目に見えない力を持つヒッグス場と反応し、質量を得たのだと考えた。
その後標準モデルによってヒッグス場には宇宙全体に質量をもたらすという大きな役割が与えられた。
デルクたちは、たった1種類の粒子がすべてに質量を与えたとは限らないと考えている。
「標準モデルをふまえた数多くの理論が、ヒッグス粒子には複数の種類があると予測している。」
2人は標準モデルに修正を加えながら、新たな理論を構築することを目指している。
ヒッグス粒子の正体について、斬新な予測をたてようとしているのだ。

予測される粒子のバリエーションは、アイスクリームの種類にも例えられる。
LHCが見つけたのはお馴染みのバニラ味、思った通りの味がする。
でもチョコチップミントのように刺激的な味が見つかれば、もっとスリリングな展開がまっているだろう。

2種類のヒッグス粒子がそれぞれ違う仕事をしている可能性もある。
「W粒子やZ粒子にかかわるヒッグス粒子と物質を運ぶ粒子にかかわるヒッグス粒子が、役割分担しているのかもしれない。」
例えば、エリスが力を運ぶZ粒子で、デルックが物資を運ぶクオークだとしよう。
エルスは無類のコーヒー好きで、デルックはチョコレートマニア、カフェが1つのヒッグス場、チョコレート店がもう1つのヒッグス場と考える。
エリスはカフェの前で速度を落とし、質量を得るだろう。
「私という粒子はそこを通り過ぎて、もう1つのヒッグス場に反応する。
このチョコレート店で質量を得るのだ。」
標準モデルは2つのヒッグス場を想定しない。
だからこそ2人はこのアイディアを押すのだ。
複数のヒッグス粒子が発見されるとしたら、それは標準モデルを超える物理の証明になる。
今まで観測された崩壊パターンに見られるいくつかの異常は、ヒッグス粒子に別の種類があることの兆しかもしれない。
観測データの分析はまだ終わっていないのだ。
古代ギリシャに生きたデモクリトスという哲学者は、物質を構成する最も小さいブロックのことを原子と名付けた。
2000年も生き続けたこの概念は、核の時代を向かえて新たな事実に直面する。
最小単位と思われてきた原子はクオークや電子などの粒子からできていたのだ。
もしヒッグス粒子を構成する部品があるとしたら、それらによって物質がなぜどうように現れたのかを突き止められるかもしれない。

フランチェスコ・サニーノは、オーデンセにある南デンマーク大学の理論物理学者。
オーデンセは創造の翼を羽ばたかせるにはぴったりの場所。
有名な童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンもこの町で生まれた。
私たちが思い描く宇宙の基本的な構成要素は、この街並みのように完璧とは言えない。
標準モデルはヒッグス粒子を素粒子とみなしているが、サニーノはその先を見ている。
ヒッグス粒子の中身を探ろうとしているのだ。
「標準モデルでは、ヒッグス粒子を分割することはできない。
この壁は白く見えるが、実際は3色の光を同時にあてて、白く見せているだけ。
このように手をかざすと、3種類の色が分かれて見える。
緑と赤と青で白を作っている。」

白い光のようにヒッグス粒子も別の粒子からできているのではないかとサニーノは考える。
全ての物質の根源ではないということだ。
ヒッグス粒子の成り立ちに関する仮説は、研究者の間でテクニカラー理論と呼ばれている。
サニーノはヒッグス粒子を新しい視点から見ている。
例えばこれらのブロックが通常のクオークで、白いボードがクオークをつなげるグルーオンだとしよう。

陽子を作るにはクオークが3つ、テクニカラー理論によるとヒッグス粒子の構造も同じ。
ただしテクニクオークと呼ばれる特別なクオークが使われる。
「テクニクオークは特殊な力で互いを結び付けている。
そのエネルギーがヒッグス粒子に質量を与えているのだ。」
通常のクオークは組み合わせによって別の粒子を作る。
ある組み合わせでは陽子に、またある組み合わせでは中性子になる。
テクニクオークも同じ、ある組み合わせではヒッグス粒子になり、また別の組み合わせでは研究者たちが探し回っているダークマターの粒子になる。
標準モデルがダークマターの存在を説明できないのは、ダークマターがヒッグス粒子の別の姿だからなのかもしれない。
これらの粒子は特別な力で結び付けられているのだ。
テクニクオークは様々な組み合わせによって新しい粒子を作る。
2015年にエネルギーを引き上げて実験を再開するLHCでこうした粒子が見つかるかもしれない。
サニーノはヒッグス粒子の解析に期待している。
十分なパワーがあれば粒子を分解できるかもしれないからだ。

夜空の高みから私たちを見下ろしている月は、不思議な力で浮かんでいるように見える。
重力のせいだと分かっていても神秘的。
もし重力や神の粒子よりもはるかに謎めいた力がこの宇宙に広がるすべての物質を支えているのだとしたらどうだろう?
ハーバード大学のハワード・ジョージャイは、人生の大部分を素粒子物理学に捧げてきた。
でも近年キャリアを変更し、今は非粒子物理学者。
標準モデルから新しい理論を構築しようと方程式を構築していたジョージャイは、不可解な計算結果に気づいた。
物理学の数式では、光子のように質量のない粒子は負の整数で表される。
ジョージャイの計算でも負の数が現れた。
でもそれは分数だったのだ。
「質量のなり粒子が2と1/2個現れるという計算結果になった。」
1/2という数字に異変を感じたジョージャイはそれらを非粒子と名付けた。
計算を続け、非粒子をより深く知ったジョージャイは、分数が現れた理由に気づいた。
そこにはフラクタル次元がかかわっていた。
「樹木は1次元ではない。成長しながら枝分かれして、それがまた枝分かれして、それがまた枝分かれする。
同じことが無限に繰り返される。
これがフラクタル。」
非粒子は木の枝と似たようなもの、細部を見ても全体を見ても同じパターンが現れる。
でも普通の粒子は木の葉のようなもの、近づけばそれだけ大きく見える。
この宇宙で質量を持つ粒子はすべてヒッグス粒子のおかげで存在していると言われる。
でも本当は既存の物理法則が通用しない非粒子の世界に影響を受けているのかもしれない。
つまりこの宇宙で質量を持ったすべての粒子は木の葉のようなもので、それを支える目に見えない非粒子の枝は、隠れた土台の役割を果たしていると考えられるのだ。
今のところLHCに非粒子の気配はないようだが、ジョージャイは、非粒子物理学を諦めていない。

ヒッグス粒子は神の粒子なのだろうか?それとも何か大きな秘密があるのだろうか。
私たちの存在は謎に満ちている。
科学者たちは今も発見されたヒッグス粒子の正体を探るために研究を進めている。 
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