ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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先住民の叡智に学ぶ〜森と共に生きる山岳民族の精神〜ベトナム少数民族

ベトナム北部の山岳地帯、年間を通して気候は温暖、夏には雨が多く降り、豊かな緑を育む。
この地に暮らす人々は森の恵みと共に生きてきた。
森林資源の活用、山地の伝統農法、自然を敬う精霊信仰・・・
東京大学名誉教授・月尾嘉男「ナイル川の中流に建設されたアスワンハイダムは、人類の偉業といってよい巨大な人工の建造物だが、このダムが上流から流れてくる肥沃な土を堰き止めたため、下流の農地は大量の肥料を必要とするようになり、さらに河口の村落は土砂が不足するために水中に没し、海の中の魚も大幅に減った。
この例が象徴するように、人間が一部の自然の循環を止めるだけで、環境は悪循環をはじめ、得られるものよりも失われるものの方が多いということが起こり得る。
ベトナムの山地の人々は長年にわたり自然の循環を維持しながら生活してきた。
その生活を調べることによって日本が自然開発で失ったものを再び取り戻すヒントを探ってゆきたい。」

経済発展著しいベトナム、人口8600万人、主要民族は都市部に住むキン族、残りの15%は少数民族で、主にベトナム全土の山岳地帯に暮らしている。
藍染衣装に銀細工のヌン族、頭に白い紐を飾っているザオ族、ひと際華やかな衣装の花モン族、身にまとっているものは様々だが、53の少数民族の多くは中国から渡ってきた。
伝統文化を守って自給自足の暮らしをしている人達もいまだに多くいる。

ベトナム・ホアビン省の小さな村に住むムオン族の人々も独自の文化や習慣を守り続けている。
ドラを使った伝統音楽サクブア、お正月や冠婚葬祭などで演奏される。
モイチャウ♪私が作ったビンロウをどうぞ心を込めて作ったから食べてください♪
女性が歌うもてなしの歌、ムオン族にはかつてヤシの一種ビンロウで来客をもてなす習慣があった。
ムアハン、春を迎えた喜びを、色とりどりの布で表す舞。
演奏にもムオン族の伝統楽器が使われている。
伝統はしっかりと若い世代に受け継がれている。

ジオカン、壺の中に酒が入っている。
お祭りや集会などで、竹のストローでみんなで飲む。
米とガバの葉で作られたほんのり甘いお酒。
壺が空になるまでみんなで飲み続ける。
一緒に飲めば仲良くなれる。

ムオン族の村長の家に招待された。
村長ディン・ヴァン・チェウさんが自らお茶を入れてくれた。
チェウ村長「この村に今は106世帯、476人が住んでいる。
少なくとも350年前から住んでいると思う。
曽祖父より前なので、4.5代目、ずっと農業をしながら高床式の家に住んでいる。」
2階にあがるとほとんど近くで採った木材と竹、ソテツでできている。

ムオン族には家を建てる時ちょっと変わった決まりがある。
村長「家長の干支によって窓の向きが変わる。
私は猫年なので、その方向には作らない。」
ベトナムの干支は日本と違う。
丑(うし)→水牛
卯(うさぎ)→猫
未(ひつじ)→山羊
亥(いのしし)→豚
村長「常に自分の干支の方向を見ていると病気にかかりやすいと言われている。」
人の相性やその日の運勢まで、干支が暮らしに浸透しているベトナム。
とりわけムオン族の生活には伝統が残っている。

2月はムオン族田植えの季節、男達が苗を置き、植えるのは女性、等間隔に植えてゆく。
この地方は2期作、1年に2度米を作る。
2月に植えて5月に収穫、7月に植えて10月に収穫。
肥料は2月に天然のものをまくだけ。
村長「飼っている水牛の糞をためておく。
苗がある程度成長したらまく。
そうするとよい土ができて長持ちする。
店で売っている肥料は土が荒れてしまうので使わない。」
2度目の米の収穫を終えた田んぼでは冬の間キャッサバやトウモロコシなどの野菜を作る。
村長「雨が少ない年はサトウキビ畑にして旧正月前に収穫する。」
チェンさんたちは気候の変化や土地の状態によって植えるものを変える。
このように同じ土地で種類の異なる作物を順番に作る農法を輪作という。
こうして限られた土地を痩せさせることなく年間を唐して利用している。

月尾教授「作物は地球の養分を吸収して成長するが、作物ごとにその吸収する内容や量は異なる。
そこでモノカルチャーと言われるような1種類の作物だけを連続して栽培してゆくと土地は痩せ、やがて連作障害という病気にもなる。
そこで肥料や農薬が必要になるという悪循環に陥る。
しかしもし季節ごと、もしくは年ごとに作物を変えてゆけば土地の養分のバランスはとれ、収穫も向上するという良循環に転換する。
このような知識は古代から知られているが世界は次第にモノカルチャーの方向に進みつつある。
ところでベトナムの山地では伝統的に輪作が行われ、収穫を維持するとともに周囲の自然環境を保全しながら農業を続けてきた。
日本をみてみると地形はこのベトナムの山地と似たところが多いが、それでもモノカルチャーを目指す傾向がある。
このベトナムの農業を見習い、新しい日本の農業の方向を探る可能性もあるのではないか。」

米を作るにはたくさんの水が必要、水は森の水源から引いている。
チェウさんは村の人達と定期的に水源を見回っている。
水源はコンクリートで囲ってある。
大きなゴミがあれば中に入って取り除く。
村長「水源を守るために植林している。
土砂崩れを防ぐだけでなく水量が増え水がきれいになる。」
木は山の上のほうに植える。
水源は植林によって守られているのだ。
チェウさんたちはその木が無断で伐採されていないかも見て回る。
こうしたパトロールに対しては行政から報酬が支払ている。
村長「1ヶ月に10万ドル(約4000円)くらい。
でも報酬のためではなく、自分たちの森を守るためにやっている。」
水源から村まで水をひいているパイプも、枯葉などが詰まっていることがあるのでチェックする。
ムオン族の人々は森を守ることで様々な恵みを受けてきた。
家の材料も近くの森から調達する。
チェウさんの家は曾おじいさんの代に建てられた。

家が長持ちするのにはわけがある。
村長「家を建てるための木材を浸ける池がある。
森に行ってきれいな木を選んできて水に浸けておく。」
虫に食われていない木を6ヶ月ほど浸ける。
6ヶ月で樹液が抜け、家を建てた後も虫に食われにくくなる。
ただし長く浸けすぎると腐ってしまう。
村長「引き上げた木は10〜20日干す。
乾いたら家の寸法に合わせて梁、壁、板などに加工する。
家を建てるのに必要な本数だけ採ってくる。
売ることは禁止されている。」
使う目的を限ることで、乱伐を防いでいるのだ。

コムラン:竹の筒に米と水を入れて炊いたもの。
作り方は簡単、水に浸けたもち米を竹筒に入れ、キャベツの葉でしっかりと蓋をする。
そして火にかける。
炊き上がったら表面の皮をむいて切りやすくする。
村長「子供が学校へ行くとき持って行く。
遠くの森や山へ行くときはこれとおかずを持ってゆく。
長けにお米だけをいれていってその場で炊くこともある。
葉を使えばお皿など持って行く必要もない。」
家の材料からお弁当箱まで、森の恵みにあふれているムオン族の生活。

ディン・ディー・チェットさんはお母さんやおばあさんから薬草の知識を教わった。
木の皮を削り薬にする。
100種類くらいのものを、病気の種類や症状によって調合する。
薬草を採りに出かける。
チェット「豚肉を食べておなかが痛くなった時にはこれが効く。
この木の皮は肝臓と腎臓の病気に使う。
これは産後の女性によい薬。
煎じて飲むと元気になる。
これは生理不順に効く。」
森の植物は体によいものばかりではない。
ゴンはおいしいという意味だが葉っぱには猛毒がある。
ひとつ間違えれば人を死なせてしまうことにもなりかねない。
こういう知識ももっていなければならない。
チェット「これは元気になる薬草、他の薬草は病気になった時に飲まないと効果がないが、この薬草ならいつ飲んでも効果がある。」
帰ってきてすぐ調合を始める。
薬草は新鮮なものほど効果があるので、その都度採ってくる。
調合したらすぐに煎じる。
チェット「頼まれれば調合するが私は医者ではないので謝礼は求めない。
商売でやっている人はお金を請求する。」
薬草の知識だけでなく、それを分け与える心も受け継がれている。

月尾「ほんの20年前、日本の林業は1兆円産業だったが、現在は4000億円強に減少し、6割も減ってしまった。
そのため日本の林業はもはや産業として維持するのが困難になり、水源林など森林が外国の資本に買収されるるある。
それは森林の価値は木材やシイタケなど副産物の値段でしか勧請しない、日本の産業的な構造にあると思う。
最近エコシステムサービスという概念が登場してきた。
森林について言えば洪水の防止や、野生生物の保護や、雨水浄化、二酸化炭素の吸収など環境的価値を計算したもの。
その価値は経済的価値の数百十倍になると言われている。
日本では忘れられてしまったこのような環境的価値だが、ベトナムの山岳民族の人達は森林の持つ様々な価値を認識し、それを村人総出で守ろうとしている。
私達はこのような活動を参考に、日本のこれからの森林のあり方を再度考え直すべきではないかと思う。」

ベトナム最北部、中国雲南省と国境を接するハザン省ホアンスーフィ県ヴィンクァン、ハザン省で最大規模を誇るサンデーマーケット。
売られているのは野菜や日用品など様々、色とりどりの衣装を着た少数民族が集まる。
その1つがヌン族、およそ300年前中国から渡ってきたとされている、伝統を大切にする民族。
ヌン族は自然を敬い、森と共に生きてきた。
太鼓を打ちながら男性の一団がやってきた。
一件の家の前で祭司がお祈りを始める。
その間に男達の1人が家の中に入り、囲炉裏から火のついた薪を持ち出す。
ヌン族では囲炉裏に火の神様が宿っているされ、その余分な力を取り除こうという。
火の神様の余分な力が火事を引き起こすと信じているのだ。
続いて祭司が祭壇にお祈りを捧げる。
取り除いた力が家の中に戻らないように出入り口を清める。
ひの神様の余分な力は、紙と竹で作られた船に載せられる。
竹の剣で船から逃げないように防ぐ。
年に1度こうして集落の家を1件1件回る。
家々を回り終えた一行は河原へ下りてゆく。
別の集落を回っていた一行もやってきた。
儀式に使った道具をすべて燃やす。
そして火の神様の余分な力を載せた船を川に流す。
河原の入口にも竹の剣を取り付けた縄を張る。
火の神様を恐れ敬う気持ちが森を守ってきた。

長老テン・サオ・チャン「ここ2〜3年この村では火事が1度も起きていない。
ヌン族には親が子供を教育することを大切にする伝統がある。
守屋自然を守ることに関しては子供が外出する時に親がこういう。
“火や火打石を持ち込んで、森を燃やしてはいけない。”と。
子供には絶対火を持たせない。
自然と環境を守るために、古い森は守りつつ植林してゆきたい。
森を守ることは村の伝統であり、国の政策でもある。
森はこれからも育って行くし消えることはないと信じている。
いくら人口が増えても森を増やしていかねばならない。」
ヌン族の集落には必ず神聖な森がある。
人々に恵みをもたらす森の神様がいると信じられている。
木を切ったり薪を拾ったりすると罰を受けるという。
重い病気にかかたり山火事が起こったりするのだ。
普段は誰も入ることが許されていない。
唯一この森に入ることを許される日がある。
森の儀式が行われる日だ。

儀式にはすべての家庭から男性が1人ずつ参加する。
神聖な場所なのでヌン族がお葬式で身に着ける白いものは避けなければならない。
儀式は祭司がとりしきる。
生贄の豚が運ばれてきた。
肉はもちろん骨や内臓まで神様に捧げられる。
鳥も捧げられる。
儀式が始まった。
祭司と長老が五穀豊穣と人々の健康を森の神様に祈願する。
お祈りが終わると生贄の豚が取り分けられる。
儀式に参加した全員で食べる。
森の儀式は年に3回行われる。
ヌン族の人々はこうして森を恐れ敬う心を受け継いでいる。
時代が変わっても自然の恵みへの謙虚な気持ちを次の世代に伝えてゆく、それが森と共に生きてきた山岳民族の精神なのだ。

月尾「里山という日本独自の自然観が注目されている。
最近ではいくつかの日本の大学に里山を研究する専門のセンターができているほど。
この概念には2つの重要な思想がある。
1つは里山、里川、里海が一体となって自然の循環を明確に示していること。
もう1つの思想は里山を奥山を対にして自然を区分していること。
現在でも多くの日本の山は信仰の対象であるように、奥山は神の領域であり、日常人は出入りを許されず、特別の祭などの時にのみ許される場所。
それに対して里山は人々が日常的に木材や食べ物を得るために出入りできる場所。
この概念が長年にわたって日本の森林、ひいては自然を維持してきた。
しかし一次産業が衰退するとともにこの里山が次第に忘れ去られようとしている。
ヌン族の行事は日本で次第に失われつつある文化の根源を示すもので、改めて日本の自然観を見直すキッカケになればと思う。」

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先住民の叡智に学ぶ★ベトナム少数民族


経済発展著しいベトナム、90年代後半から外国資本の投資も増え、インドネシア、南アフリカなどVISTA(ベトナム:V インドネシア:I 南アフリカ:S トルコ:T アルゼンチン:A)と呼ばれる経済新興国の1つとして注目されている。
ハノイから北へ車でおよそ4時間、中国と国境を接する山岳地帯には私達の知らないベトナムの姿がある。
ホアンスーフィ県ヴィンクァンのサンデーマーケット、色とりどりの衣装を着た人達が行き交う。
藍染衣装に銀細工のスン族、頭に白い紐を飾っているのがザオ族、ひと際華やかな衣装の花モン族・・・
ベトナムは54の民族からなる多民族国家。
人口8600万人の大半がキン族で(都市部、人口の約85%)、残りの少数民族は主にベトナム全土の山岳地帯に暮らしている。
時期は定かではないが、少数民族の多くは中国から渡ってきた。
伝統文化を守りながら、自給自足の暮らしをしている人達もいまだに多い。

市場からさらに山を登ると次第に棚田が増えてくる。
山の急斜面に長い年月をかけて作られた棚田、その棚田の中に高床式の住居が点在している。
山頂に近いボーチュオン地区、ヌン族の集落、ジャン・ミン・コンさんの家、高床式の下に水牛がいる。
棚田を耕す大事な労働力。
ヤギは食用にしたり、売ってお金に変える。
高床式の2階が居住スペース、物置から寝る場所まですべてここにある。
床は竹製、隙間があいているがよいこともある。
食べかすなど、下にいる家畜が食べてくれる。
囲炉裏が家族だんらんの場、コンさんは奥さんと息子夫婦、その子供たちの3世代7人で暮らしている。
お昼時、囲炉裏は台所にもなる。
炒めているのは塩漬けの豚肉、野菜の漬物も炒める。
ヌン族の食事に欠かせない米で作った自家製の酒。
棚田で採れたお米におかずを盛って食べる。
ダウフーガムは自家製の豆腐を塩、砂糖、トウガラシなどを入れたお酒に漬け込んだもの。
お酒にもご飯にもうってつけ。

食事を終えたコンさんは、水牛を連れて棚田へでかける。
近くの川から水を引き入れている。
山の傾斜を利用した自然の用水。
水牛を使っての田おこし、幅が狭く機械は使えない。
手のかかる棚田だが山岳地帯の人々の知恵の産物。
山の斜面に階段状に田んぼをつくれば、平地の少ない場所でも耕作面積を増やすことができる。
コン「棚田に作らないと大雨が降った時に土が流れてしまって作物が何もできなくなる。
棚田にすれば土を保つことができる。」
棚田はその構造が様々な機能を生み出している。
山を切り開いて畑などを作る時に、そのままでは大雨で土砂崩れが起きる恐れがある。
棚田にすれば雨水をゆっくりと川に流す。
土砂崩れや地滑りだけでなく、洪水も防ぐ、まさに自然のダム。
また自然の循環が保たれているので動物や植物にとっても最適な環境、つまり生態系の保全にも役立っている。
山岳地帯の少数民族は、棚田によって農地を確保しながら自然と共生している。

月尾嘉男(東京大学名誉教授)「日本でも棚田100選が選ばれているように、全国各地に数多くの棚田がある。
ベトナムの棚田の景観は、孫文の“耕して天に至る”という言葉を象徴するような絶景。
ところが最近、水田は稲作だけの価値ではなく、大雨の時の雨水を貯留する機能であるとか、)急な斜面の崩壊を防ぐなどの機能が注目され、それらの価値を計算してみると、日本の水田全体で8兆円以上になるという結果になっている。
ベトナム山岳地帯の光景は、水田が農業のためだけではなく、生産と生活、産業と環境が混然一体となった光景であり、これからの環境時代の農業のあり方の原点を示すものではないかと思う。」

チャン・タイン・トーさんは村でも数少ない銀細工の技術を持った人。
中古の銀細工を素材に新しい製品を作る。
つぶした銀細工を器に入れる。
商売でやっているわけではないので、頼まれた時だけ作る。
銀が溶けたら型に入れて1本の棒にする。
冷やした後、叩いて細く伸ばしてゆく。
針金ほどの太さになったら棒に巻きつける。
これを切り離してリング状にし、1つ1つつなげてゆく。
継ぎ目を埋めるのも溶かした銀。
全て手作業。
同じ作業を何度も繰り返し、ようやく形が出来上がる。
これを熱した酸にいれて表面の汚れを取り除く。
あとは籾殻で磨くだけ。
丸い1日かけて首飾りができあがる。
見事な輝き。
かつて焼畑をしながら移動生活をしていたヌン族にとって銀細工は持ち運びのできる財産だった。
今でも女性のオシャレには欠かせない装身具。

トーさんの義理のお母さんが亡くなった。
葬式の準備をする。
ヌン族の風習、葬儀のための飾りには、亡くなった人の生涯の出来事が書かれている。
娘を産み、育ててお嫁にだしたことなど。
書くのは亡くなった人の子供、親に感謝の気持ちを伝える。
“亡くなった人の銀の山”という名の飾り、あの世でお金に困らないようにという遺族の心づかい。
ヌン族の葬儀は3日間行われる。
亡くなった人はすでに埋葬してあるので、初日はその魂を迎える。
白い布の囲いに魂を呼び込む。
葬儀は複数の祭司が執り行う。
祭司の1人が魂に呼びかける。
“子供たちは準備が整いました。
お供え物もあります。
あの世から帰ってきてください。”
続いて装束の遺族がお米を天の神様に捧げる。
魂を無事に送り届けてくれるようにお願いする。
魂が迷わないように遺族が囲いの周囲を回りながら笹の葉で誘導する。
魂が戻ってきたかどうかは祭司が鳥の骨に竹串を刺して判断する。
また遺族が回り始めた。
どうやらまだ戻っていないようだ。
再び竹串を刺す、骨を受け取ったのはトーさん。
トーさんも祭司の1人。
うなずいた。今度は戻ってきたようだ。
魂が出て行かないように囲いに柵をする。
どうして戻ってきたと分かるのか。

トー「鳥の骨に4本の串を刺したが、串の傾きを見てお母さんの魂が戻ってきたのかわかった。」
籠のようなものが運ばれてきた。
これに魂を移して家まで運ぶ。
竹で作ったアーチをくぐって遺族と亡くなった人の魂を清める。
そうしないと家に入ることができない。
行列が家に向かって出発する。
家の前でトーさんがお祈りを始めた。
“子供達が死者の魂を清めました。
ご先祖様、海桐をあけて中へ入れてください。”
亡くなった人があの世で暮らす家、お母さんの魂は1番この家で過ごす。
翌日銀の山を飾り付ける。
これでもうあの世でお金に困ることはない。
この後遺族あ戻ってきた魂と食事を共にし、3日目にあの世へ送りかえす。

月尾教授「自然の中で生物の生や死はごく日常的な光景だが、人間はそれを特別なことと捉え、とりわけ死については丁重に扱い、それは人間の尊厳を維持する重要な要因となってきた。
ところが昨年の流行語にもなった無縁社会という言葉が象徴するように、日本では毎年数万人の人々が誰にもみとられることなく社会から消滅しているという。
人間の尊厳を否定するような異常な事態が発生しつつある。
さらに葬儀についても専門の会社にゆだね、荘厳ではあるものの短時間で形式的なものが増えつつある。
一方ヌン族の人々の葬儀は1人の老人の死に対し、3日間にわたり集落の人々が総出で手作りの儀式を行い、立派に死者を天の国に送り出している。
この光景を参考に人間を他の生物と違う次元においている死への精神を私達日本人はもう1度考え直すべきではないかと思う。」

ペオ地区花モン族も棚田と共に独自の風習を受け継いで暮らしている。
ズオン・ヴァン・ニャーさんの家の中では、2人の女性が刺繍をしている。
奥さんのホー・ティ・スンさんと娘のヴァン・ティ・サオさん、花モン族の刺繍はとても華やか。
伝統は祖母から母、そして娘へ受け継がれる。
刺繍した生地を縫い合わせて服にする。
1着作り上げるのに3ヶ月ほどかかる。
花モン族の女性は働き者、畑仕事や水牛の世話はもっぱら女性達の役目。
水牛を棚田に放す。
棚田の周りは自然が保たれている。
水牛の餌になる植物がたくさんあるのだ。
仕事のちょっとした合間にも刺繍を始める。
花モン族の女性にとって何よりも楽しみ。
糸を入れているポーチも自分で作ったもの。
生地も自分達で作る。
1kgの種から1着分の麻が育つ。
ニャーさんの麻畑、2月に種をまき、6月に刈り取る。
翌年分の種も育てた麻から採る。
こうして安定した品質の種を確保してきた。

仕事の後のひと時、ベトナムの少数民族も日本人と同様にお茶を飲む習慣がある。
少数民族伝統のお茶、サントゥエット、自分達で飲むだけでなく、高級ブランド茶として出荷している。
お茶畑、お茶の木が高く成長している。
サントゥエットのトゥエットはベトナム語で雪の意味。
幹が白く白い花を咲かせる。
そろそろ茶摘みの時期、その前に木に栄養が十分いきわたるよう草を刈っておく。
木は樹齢100年くらいという。
日本のお茶の木の寿命も150〜200年と言われている。
しかし生産量が落ちるので20〜30年で新しい木に植え替えてしまう。
花モン族は祖先から伝わる木を自然のまま育てている。

月尾教授「かつて多くの地域が独自の経済を形成していた時代には、それぞれの地域に独自の文化があり、作物も地域固有の種が栽培されていた。
ところが工業社会になり、工業製品と同様に少数の作物が大量に生産され、広い地域に流通するようになり、地域固有の作物は次第に消滅していった。
ところが最近伝統野菜に象徴されるような、かつて地域にあった固有の作物が注目され、地域団体商標を登録するような動きが始まっている。
身土不二という仏教用語がある。
これはそれぞれの地域の風土に適応した作物を栽培し、それを食べることが人間にとって望ましいという考え方。
ここ花モン族の人々の生活を見ると、ごく自然に身土不二を実現している。
これは最近急速に日本で拡大している地産地消活動の参考になると思う。」

ベトナム北部の山岳地帯では、日本でなじみのある植物をよく見かける。
その1つが竹、ニャーさんの家も竹畑で囲まれている。
花モン族は豊富な竹を様々に工夫して活用している。
竹で作られたケンという伝統的な楽器。
ニャーさんはケンの名手、ケンには左右合わせて6つの穴がある。
息を吸う時にも音を出す。
ステップを踏み、踊りながら演奏する。
昔から冠婚葬祭などで演奏されてきたが、最近は吹ける人が少なってしまったという。
息子のズオン・ヴァン・ソーさん、吹き方、メロディー、体の動きを同時に覚えねばならないケンの演奏、1人前になるのは並大抵のことではない。
それでも彼がやろうとするのは花モン族の教えがあるから。
「花モン族では昔からこういわれている。
祖父が知ったことは父が知り、父が知ったことは息子が知る。
なので父が知っているのに僕が知らないわけにはいかない。」

山岳地帯にいいるベトナムの少数民族、彼らの暮らしは決して豊かとはいえないが、昔ながらの環境を守り続けてきた。
棚田を耕し、地域の固有種を育てながら自然と共存している。

月尾教授「日本人が国産の食べ物を食べる場合と外国産の食べ物を食べる場合では、排出する二酸化炭素が数倍〜100倍以上違う。
同じように国産の木材を使う場合と外国産の木材を使う場合では排出される二酸化炭素は数倍〜十数倍違う。
ミネラルウォーターも同様に十数倍の違いがある。
これははるばる海外から長距離輸送してくるためのエネルギーが必要だから。
日本は食料の60%、木材の80%、ミネラルウォーターの20%を輸入しているので、それだ全てが排出する二酸化炭素はそれなりの量になる。
このように大量の物資を海外に依存している主要な理由は、そのほうが安いからという経済的原理によっている。
しかし社会は環境時代になり、そのような経済的原理だけで物事を決めることは次第に困難になりつつある。
経済学は英語でエコノミー、生態学は英語でエコロジーという。
これはもともと同じ語源から派生した言葉だが、現在では対極にあるように理解されている。
そこでもう1度、経済と環境を融合したエコロミーというような概念を作るべきではないかと思う。」

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先住民の叡智に学ぶ★伝統を守る海洋民族の子孫★ミクロネシア ヤップ島


南洋の島、ヤップ島、ミクロネシア連邦を形成する600以上の島の1つ。
島を囲むサンゴ礁の海が豊かな生命をはぐくんでいる。
ヤップの伝統的なカヌー、ムー。
ミクロネシア連邦の中でもひときわ航海術にたけたヤップの人々。
彼らの祖先もこのような船で大海原を行き来していた。
月尾嘉雄(東京大学名誉教授)は、世界を探訪する中で自然の大切さを痛感、環境問題の解決に取り組んでいる。
月尾「今から4200年前、ミクロネシアの島々は無人だった。
その島々にどのように人々が集まってきたかは明らかにされていないが、東南アジアやメラネシアなど、様々な地域から何1000年という時間をかけて人々が集まり、定住するようになったと考えられている。
交通や通信の手段が急速に発展している現代社会では、それまで疎遠であった地域がお互いに接触し、交流する機会が急速に増えている。
そのような状況で大変注目されるのが多文化社会という概念。
ヤップ島は多様な伝統や文化を持った数10の集落が一体となっている多文化社会の典型。
その仕組みを訪ねることにより、私達は21世紀の多文化社会のあり方を考えてゆきたい。」

太平洋の赤道近くに石するミクロネシア連邦、4つの州を形成する島々には、異なった文化を持つ人々が暮らしている。
いずれもかつて他国の支配を受けてきた。
ヤップも19世紀以降、スペイン、ドイツ、日本、アメリカに統治され、それぞれの国の文化の影響を受けてきた。
しかしヤップの人々はそうした歴史の中でも独自の文化を守り続けてきた。
伝統を大切にして暮すヤップの人々、その象徴ともいえるものがある。
島の至る所で目にする奇妙な形の石。
昔からヤップで使われてきた石貨。
これが本当にお金として使われているのだろうか?

人が集まっている。
チャールズ・タマン「ちょうど今私の土地を買うために、この親子が訪れたところ。」
土地の売買で石貨が使われている。
買い手は隣村からやってきたイグナティアス・モナシさん。
息子の家を建てるための土地を買いに来た。
ヤップの男は18歳までに家を出て、1人住まいをするのが習わし。
モナンさんが隣村から運んできた石貨、いくつか所有している石貨の中からこの1つを選んできたという。
どうしてこの石貨なのか。
モナン「この石貨は私に無礼を働いた若者から謝罪として受け取ったもの。
この石貨はあなたの土地と交換する価値があると思う。」
どうやら石貨の価値はそれを手に入れた経緯で決まるようだ。
以前酒に酔った若者がモナンさんが所有していた土地で騒いだことがあった。
土地が大切にされているヤップでは、土地にかかわりのある石貨にはとても価値がある。
そもそもヤップの石貨は西に500kmほど離れたパラオの鍾乳石を切り出したもの。
たくさんの人が命を落とすなど、運ぶ時の苦労が大きかった石貨は、価値が高くなる。
私達が使っているお金とは意味合いが異なる。
石貨の主な用途:土地との交換、カヌーとの交換、家との交換、謝罪の意志、祈祷や医療などに対する謝礼
石貨はヤップの人々の生活に重要なものを手に入れる時に使われる。
大きさも価値も1つ1つ違う石貨、それはヤップの人々がお互いに信頼していることの証。
タマン「石貨と土地を交換することによって、私達の間により親しい交流が生まれ、助け合える関係になれる。」
伝統を大切にするヤップの人々、石貨はこれからも使われ続けてゆくだろう。

月尾「物々高官は経済の基本だが、その不便さを補うために貨幣が発明された。
しかしその貨幣は直接物やサービスと交換されるだけではなく、貨幣が貨幣を生むという新しい経済を作り出した。
その結果サブプライムローンが象徴するように、貨幣の横暴が頻発し、世界経済はこれまで幾度となく混乱を経験してきた。
ドイツの作家ミヒャエル・エンデは1995年、貨幣を再び物に対応すべきという遺言を残し、インドの経済学者アマルティア・センは経済に倫理を導入すべしという新しい経済学を提唱し、1998年ノーベル経済学賞を受賞した。
そのような視点からすると、ヤップ島の石貨はデジタル情報に転換されることはなく、またその価値は貨幣を作った時、運んだ時の労働や精神によって決められている。
そして現在でも物やサービスと交換されるという貨幣本来の役割を維持している。
一見ヤップ島の石貨は時代遅れのようだが、我々はそこに貨幣の本質を見出し、現在の異常な状態にある世界経済を見直すための参考にすべきではないかと思う。」

ヤップ島の中部にあるマー村、ここにも伝統の暮らしが残されている。
民家にしては大きな建物、簡素な室内に男達が集まっている。
ヴィンセント・フィギールさん(64歳)「ここは男性集会所。
若者達が空いた時間に集まって過ごす。
年配の者が若者に伝統的な知識や技術を伝える場所でもある。」
男性集会所はとても重要な場所で、ヤップのどの村にもある。
村の決め事はここで話し合われる。
ヤップでは大事なことはすべて男達が決める。
男性集会所は必ず船着き場に建てられている。
昔は漁や長い航海の前に男達が泊まり込んで準備をする場所だった。

共同生活によって子供達にも村の伝統や量の技術が伝えられた。
しかし今ではみんなで一緒に漁をすることも少なくなってしまった。
こうした伝統を失いたくないとフィギールさんは今も若者達に漁の仕方を教えている。
ヤップの伝統的な囲い込み漁。
フィギールさんが気合を入れる。
水面をたたいて魚を追い立て、網を持った2人が囲い込んでゆく。
失敗を繰り返しあがら覚えてゆく。

フィギールさんの自宅、奥さんと息子夫婦、孫など7人で暮らしている。
朝から人がたくさん訪ねてきた。
一体何が始まるのか。
フィギール「裏庭にある小屋の屋根を葺き替えてほしいんだ。
女性達はヤシの葉で屋根を編んでください。」
今回は屋根の軒の部分を葺き替える。
だいぶ傷んでいる。
フィギールさんも率先して作業する。
新しい屋根の材料はフィギールさんの庭に生えている。
ヤシの葉は丈夫なので熱帯地域では昔から屋根の材料に使われてきた。
屋根を編むのはもっぱら女性達の仕事。
慣れた手つきで次々と編み上げる。
ヤップではこうした人手のいる作業を隣村の人が手伝ってくれる慣習がある。
月尾「その時来た人にはお金を払うのですか?」
フィギール「お金は払いません。
食事を用意してあとでみんなに食べてもらいます。」
真新しい屋根が次々と運ばれてくる。
屋根を固定する紐もヤシの葉を裂いて作ったもの。
古い屋根も使えるものは再利用する。
取り付け作業は子供達が行う。
テキパキと支持する大人達。
屋根葺きの技術が伝承されてゆく。

一方フィギールさんの奥さんはご馳走づくり。
腕によりをかける。
タロイモの団子にココナッツの粉をまぶす。
半日で作業終了。
新しい屋根の緑が鮮やか。
料理を待つ間に、フィギールさんのバリカンを借りてお互いの頭をきれいさっばり。
テーブルいっぱいに並べられたごちそう。
手伝ってくれた人達への心からのお礼。
村の若者から隣村の人達まで世代や地域を超えて面倒を見るフィギールさん。
その姿はまるでみんなの父親のよう。
フィギール「一番重要なのは父親が若い世代の良いお手本とならなければいけないということ。
ミクロネシア連邦ではヤップだけが父系社会。
男は土地を持ち、物事を決めてきた。
責任を負ってきた。
欧米の影響があっても伝統は失いたくない。」
こうしたヤップの伝統的な精神に共感している日本人がいる。
子供時代に暮らしたヤップが忘れられず、13年前に戻ってきた大橋旦さん(84歳)「ヤップの大人の人には大人の威厳と子供に対する寛容さがある。
そういうものを子供の時から感じていた。」
日本人が忘れてしまった心がヤップには残されている。

月尾「ミクロネシアの島々のほとんどが母系社会だが、ヤップ島は例外的に父系社会。
母系社会は母と子の関係で社会を構築するので自然だが、父系社会では父と子の関係が生物学的に明解ではないため、拡張性や男性中心主義など、社会を維持するための制度が必要。
今回ヤップ島で幼年期を過ごし、定年後ヤップ島に永住するために移住してきた日本人男性にあった。
その理由は現在でも大人が大人としての威厳を保っている社会だからだということだった。
それは父系社会だけが原因とはいえないが、それを維持するための様々な行動規範が影響していることは確か。
父系社会と母系社会には、それぞれ長短があり、優劣を決める対象ではないが、大人が大人としての威厳を失い、子供に翻弄されている日本社会の現状を見るとヤップ島が維持してきた父系社会の意味を見直してみるべきではないかと思う。」

自然豊かなヤップ島、海岸線も美しい緑に覆われている。
しかしその砂浜にある異変が起きている。
ヤシの木の根がむき出しになっている。
波が砂浜を浸食しているのだ。
アルフォレソ・ガナンさん「10年くらい前から波が砂浜を浸食するようになった。
それで海岸線が後退してしまった。
浸食の対策として突堤を作っている。」
突堤ができる前は海岸線が後退していた。
突堤を作って潮の流れをとどめ、砂がたまるようにした。
ガナン「昔から伝わってきたもの。
突堤だけでなく、様々な知識を私達は子供のころから教わる。
このような伝統は村の大人達や親から受け継がれるもの。」

ヤップの伝統技術は他にもある。
エドマンド・パサン「薬草を使って人の治療をしている。
時には貝や植物にも使う。」
薬草採りに向かう。
ジャングルの中に分け入る。
フッドボールフルーツが熟して落ちたら薬に使える。
薬になるのは種。
パサンさんがタロイモを掘り起こす。
パサン「害虫に食われているから処置が必要。」
害虫とはミミズ。
大きな穴が開いている。
パサンさん、害虫を駆除する。
集めているのはバナナの一種、ブーモイの葉っぱ。
次にフットボールフルーツの種を叩き潰す。
それをグーモイの葉でくるむ。
そのままだとタロイモにも影響を及ぼしてしまうので、グーモイの成分で弱める。
出来上がった薬をタロイモの周りに埋める。
ネズミにはおいしい餌となってしまうこの薬、こうして埋めれば食べられることもない。
パサン「種は香水のように匂いが強く、害虫をおびき寄せる。
やってきた害虫は死ぬか逃げていなくなる。」
パサンさんは薬草マスター。
【ヤップに受け継がれる主なマスター】
●薬草
●ビルディング(家やカヌーを作る技術)
●ナビゲーション(カヌー、航海にかかわる技術)
●フィッシング(漁や魚釣りの技術
●占星術

マスターとは伝統技術を身につけている者の中でも飛びぬけて優れた人だけに与えられる称号。
いずれの技術もヤップの生活に欠かせないもの。
パサンさんは薬草で病を治したり、害虫の駆除などを行うが、報酬は求めないという。
何百年にも渡って受け継がれてきた技術が、ヤップの人々の日々の暮らしに役立っている。
月尾「日本にも漢方薬やいろんな薬草があるが、今日本の場合だと外国からその原料を輸入したりといったことが多い。
ここではフットボールフルーツもすぐそばに落ちているのを拾って、非常に有効に使うなど、完全にローカルで閉じているというところが、我々が普通に思う薬草と違う。
そしてローカルのものがその地域の作物にも一番適していると思う。」
アフリカのサバンナのような風景、ここもヤップ島、ヤップ島は雨季と乾季がはっきりしており、換気には雨が何か月も降らない。
このような土地では栽培できる作物も限られてしまう。
そのため州政府の資源開発省農林部では作物の種類を増やす試みが行われている。
外来種を試験栽培してヤップの環境に適応できるものを普及させようという。
バニラの苗、試験栽培を終えてすでに農家に出荷されている。
現在試験中のものもある。(シナモン、ドラゴンフルーツ、コーヒー・・・)
ミクロネシアでは耕作地ではなく自然の中に植え付けるのがごく一般的。
この栽培方法で実がつくかどうかを見る。
実がなったものもある。
ハワイアンチェリーはヤップの土地にあっているようだ。

月尾「この農場では様々な外来の植物を育てているが、そのような外来種が原生植物に被害を与えることはないのですか?」
バレンティノ・オレティル「外来の植物は島に入れる前に検疫所に持って行って被害を与える害虫や病気がないことをチェックしている。」
招かれざる外来種も入ってきている。
今ヤップ島では島の生態系を破壊してしまう外来種が問題になっている。
その1つがチガヤ(イネ科の多年草、国際自然保護連合が定めた世界の侵略的外来種に選定されている。)
日本でもごく普通に見かけるが、ヤップのような気候では、強い繁殖力を持ってしまい、他の植物を駆逐して一気に広がる。
フランシス・リエグ「この草はとても鋭い根を持っている。
それがサツマイモやタピオカなどの芋に突き刺さる。」
資源開発省農林部では、こうした外来種の駆除にも取り組んでいる。
チガヤを見つけたら、1本1本地道に農薬を散布する。
一見非効率のようだが他の植物への影響が少なく、かつ見落としも少ないので効果がある。
リエグ「かつては60エーカーも繁殖していたが、1978年に開始して、今年6エーカーまで減らせた。
2012年には根絶できる見込み。」

農薬を散布して1ヶ月たったチガヤ、根絶に向けて地道な作業がまだ続く。
月尾「なぜ抜かないのか不思議に思ったのですが。」
リエグ「たくさんありすぎて時間がかかります。
それに抜いても根が残り、また生えてきます。
とても根が長いのです。」
根が切れて地中に残れば、また繁殖してしまう。
薬剤なら根の隅々まで浸透する。
はびこっている外来種はチガヤだけではない。
カエンボク、西アフリカ原産の常緑高木。
世界の侵略的外来種に選定されている。
強い生命力を持ち、他の植物を駆逐してしまう。
カエンボクの駆除にも農薬を使う。
幹の周囲に切れ目を入れてそこから薬を注ぐ。
3ヶ月ほどで薬が根の隅々までいきわたり、枯れるという。
月尾「日本ではブラックバスやブルーギルなど外来の魚が以上に繁殖し、日本固有の魚の一部が絶滅の危機に直面している。
またアライグマの数が増加し、そのため農作物が甚大な被害をこうむっている。
このような2000種類以上いる日本の外来生物は、今大きな社会問題になっている。
日本程度の面積の国土でも大きな問題だから、ミクロネシアの島々ではきわめて深刻な問題になる。
鎖国でもしなければ政治や経済の分野ではグローバルな制度で採用するほうが有利だが、自然や環境の分野は基本的にローカルであり、そのほうが価値がある。
そう考えるとヤップ州政府が現在行っている外来種対策は、きわめて重要な活動であり、日本の地方じちたいの環境政策などにも参考になると思う。」

ヤップの伝統的なダンスの1つ、パルガブット、座ったままでゆったりと歌い、踊る。
村の歴史や言い伝え、伝説の美女など、題材は様々。
今踊っているのは精霊に航海の無事を祈願しながらパラオから石貨を持ち帰った伝説のカヌーの物語。
海洋民族であるヤップの人々にとって、カヌーは特別大切なもの。
19世紀以降、外国に統治されてきたヤップでは、スパイ活動を恐れた統治国によって、カヌーによる航海が禁止された時代があった。
このためカヌーで海を渡る伝統がすたれていった。
その失われつつある航海術を復興させようとしている男達がいる。
レオ・ラチュルグさんは復興を目指している人物の1人。
叔父のルイス・ルッパンから伝統の航海術を学んだ。
ルッパンは伝説のナビゲーション・マスター。

1975年ヤップ島の離島サタワル島から5人の仲間と47日間かけてカヌーで沖縄まで公開した人物。
このルッパンが駆使したのがヤプ伝統の星の航海術。
ラチェルグさんは叔父から受け継いだこの航海術を伝統学校で教えている。
星の航海術は星座コンパスを使って覚える。
円周上に32の星と星座を見立てる。
北極星と南十字星を軸にして、星のでる方角と沈む方角から進路を導き出す。
カヌーでグアムからヤップへ帰る場合はグアムとヤップを結ぶ線の延長にあるサラプン(カラス座)を目指す。
大事なのは星の位置だけではない。
ラチェルグ「ヤップの方向へカヌーを走らせると、海流に少し流される。
グアムを見ていたらわかるぞ。
島が南に動いて見える。」
このコンパスをすべて頭にいれて、実際の航海に出る。
カヌーの上では風向き、雲の流れ、太陽の位置など、あらゆる自然現象を手掛かりにする。
生徒たちも大きな夢を抱いている。

月尾「1975年沖縄国際海洋博覧会の会場に、全長たかだか8mの木造カヌーで6人の人々が到来した。
彼らはミクロネシア、サタワル島の真の航海者といわれるルイス・ルッパンに率いられ、3000kmの海上を47時間かけて航海してきた人々。
これは民俗学者、柳田国男が著書『海上の道』で展開した日本人の祖先の一部は南方から黒潮に乗って到来したという説を実証する快挙だった。
このように考えてみると、我々とミクロネシアのj人々には共通する海洋民族の血が流れているのではないかと思う。

日本は国土面積の12倍、世界で6番目に排他的経済水域を持つ海洋大国。
しかし残念ながらかつて1位であった漁獲量は現在5位まで低下し、客船で船旅をする人は国際的に非常に少なく、また海洋スポーツも決して盛んとは言えない。
そのように考えると、日本は海洋国家から次第に遠ざかっているのではないかと思う。
海洋は宇宙と並んで21世紀のフロンティアと言われている。
ヤップの人々が一時途絶えていた伝統的な航海法を復活させる動きを参考に、私達は21世紀のフロンティアに本格的に挑戦する戦略を考えるべきではないかと思う。」

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先住民族の叡智に学ぶ 珊瑚礁の海と共存する人々


太平洋の赤道近く、大小の島々からなるミクロネシア連邦、1936年にアメリカの信託統治から独立、人口約11万人。

国としても歴史は短いが、数千年前から人々は自然とともに暮らしてきた。

ミクロネシア連邦を訪ねるのは東京大学・月尾嘉男名誉教授、情報通信が専門だが、世界を短部尾する中で、自然の大切さを痛感、環境問題の解決に挑戦している。

ミクロネシア連邦最大の島、ポンペイ島の南東にあるNan Madol遺跡、浅瀬に巨大な岩を積み上げた水上年の跡。

713世紀にかけて造られたとされているが、いつ、誰が造ったのか正確なことはわかっていない。

しかしポンペイの伝説では、海のかなたからやってきた異民族が造り、彼らはポンペイの人々を圧政によって支配したと言い伝えられている。


ミクロネシア連邦は大小600以上の島々からなり、4つの州に分かれている。

Micronesia (Pohnpei, Chuuk, Kosrae and Yap)

高温多湿な熱帯性気候が特徴。

中でもポンペイ州のポンペイ島は年間の平均降水量がおよそ5000mmという世界有数の多雨地帯。

この雨が豊かな植生を育んできた。

人々の暮らしにも多くの恵みを与えている。

ポンペイ島の中心都市コロニア、ポンペイの人口4分の1、およそ9000人が暮らしている。


町の市場、南国ならではの作物が並んでいる。

タロイモはサトイモの仲間で熱帯地方でよく食べられる。

タピオカも芋。

魚も売られている。

ここは地元の人が取れたものを卸しにくる言わば地産地消の市場。

セインさんもそんな1人。

セインさんが住んでいるのはポンペイ島南部にある集落エニペン。

家は森の中にある。

ポンペイには日本に当地されていた時代があったので、今も日本語を話す人口が多くとても親日的。

農地は家のまん前、まるでジャングル。
パンノキ(Bread-fruit Tree)、パンといってもフルーツ、熱帯地方で主食のようによく食べられることからヨーロッパ人が名づけた。
セインさんが収穫するのは15種類以上。(バナナ、パイナップル、タピオカ、パパイヤ、タロイモ、ヤムイモ、ココナッツ・・・)

自生しているわけではなく、すべて植えつけている。
ヤムイモは土を掘り、土を十分軟らかくしたら芽の出るほうを上にして埋める。
肥料は周りに落ちている枯葉や枯れ枝。
ヤムイモは木の傍に植える。
巻きついたツルが日に当たるほど芋もよく育つという。
タロイモは湿ったところに植える。
バナナは株から若い芽を切り取り、何も植えつけてないところに植える。
一度実をつけた場所は土地がやせてしまうので株分けをする。

芋もバナナも植えたら後は待つだけ。
動物は放し飼い、糞は肥料になる。
それぞれの作物をもっとも適した場所に植えるだけの栽培法、しかも熱帯地域なので植えつける時期は選ばない。

どんな作物も1年中収穫できる。
しかし畑にしたほうがより多く収穫できるのでは?
セイン「ポンペイでは耕すことはしない。
雨が多いので、よい土を作っても流されてしまう。」
畑が流されるとは?
地中の微生物が落ち葉や動物の糞などを分解した腐葉土と風化した岩石が堆積したものを土壌という。
ポンペイのような熱帯地域では、土壌は薄くなる。
温帯と比べて微生物も多く、活動も活発なので落ち葉などの分解が早く進む。
腐葉土として蓄積されにくい、つまり雨の多いポンペイでは畑を作っても土壌がすぐに流されてしまう。
畑を作らなくてもポンペイの人々は自然をありのまま利用してたくさんの作物を育てている。

月尾「地球には現在39億ヘクタールの森林があるが、およそ10000年前には62億ヘクタールの森林があったと推定されている。
地球の歴史からいえば一瞬の間に40%の森林が消えた。
その主な原因は明らか。
食料生産のために人間が森林を伐採し、農地や牧場に変えてきたからだ。
最近ポンペイで行われている栽培方法が注目されている。

森林の中で作物を栽培するアグロフォレストリー、これは森林にとって重要なだけでなく、生物多様性という観点からも意味がある。
森林を切り開いた農地や牧場では、同じような作物を大量に栽培し、同じような動物を大量に飼育しているが、アグロフォレストリーではそれぞれの自然環境に合わせた植物や動物を育てているからだ。
このポンペイでの伝統的農業から現代の一次産業は学ぶことが多いと思う。」

ポンペイの伝統儀式
ポンペイの伝統的な台所、熱した石の上にパンノキを並べる。
バナナの葉をかぶせて待つこと1時間、パンノキの蒸し焼きが出来上がる。
ウミガメは祝い事など特別なときにだけふるまわれ、地元の人も滅多に食べられない。

ポンペイ島は5つの地区に分かれていて、地区ごとにナンマルキがいる。(ソケース、ネッチ、ウー、キチ、マタラニウム)
日本語でいえば首長、行政の重要な方針を決めるときには意見を求められることも多いという。
現在の行政と伝統的な社会制度が共存している。
セインさんが住んでいるキチ地区のナンマルキを訪ねた。
アルター・ポール(80歳)現在最高齢のナンマルキ。
月尾教授は花の冠で歓迎を受ける。

運ばれてきたのはシャカオというコショウ課の植物。
根の部分を切り取り、大きな石の台に載せる。
掛け声と同時に石で叩き、つぶし始めた。
調子を合わせてリズムを刻む男たち、まるで打楽器を演奏しているよう。
叩くこと20分、シャカがほぐれたらハイビスカスの皮で包み絞る。
絞り汁には鎮静作用があり、飲むとお酒によったような状態になる。
ポンペイでは様々な祝い事にこうしてシャカオを作って飲むのが伝統。

できたシャカはまずナンマルキに捧げられ、その後ほかの人達に分け与えられる。
呼ばれているのは名前ではなく称号。(ナンマルキへの貢献度によって与えられる位が決まる。日常生活でも本名の代わりに使われている。)
たとえゲストでも最初に飲むことはできない。
ナンマルキを称える歌、歌詞はポンペイ語、今では意味を理解できる人はいないが、大切に歌い継がれてきた。

資源を無駄にしない精神もポンペイの伝統。
島の至る所で見かける椰子の木は大切な資源。
実はジュースやココナッツミルク、幹は建築資材や燃料など、様々に利用されている。
葉を筒状に編みこみ、幹の部分を2つに割り、両端の葉を結んで出来上がったのはバスケット。
軽くて丈夫。
古くなったものは肥料にする。

ミクロネシア連邦政府が運営するココナッツ食品加工工場、主な製品はココナッツオイル。
熟成した椰子の実は胚乳にたくさんの脂肪分を含んでいる。
胚乳をくりぬき細かく砕いて水分を抜いて物を圧搾機にかけ絞りだされたものがココナッツオイル。
胚乳をくりぬいた殻は燃料として使い、搾りかすは家畜の餌にする。

ポンペイの豊かな海の恵み
ポンペイ島の海岸から3〜4kmの沖合いにかけて広がる白い陸地のようなものは珊瑚礁。
珊瑚礁とは長い歳月をかけて珊瑚などの死骸が積み重なってできたもの。
珊瑚は動物でプランクトンを食べて生きている。
中には硬い骨格をもったものもいる。
この珊瑚が死ぬと珊瑚礁の一部になる。
珊瑚礁もポンペイの人々に多くの恵みを与えてきた。
漁師のナーナバスさんと供にカヌーで出発。
向かうのは沖合いの外礁
外礁とは珊瑚礁の外周部分。

珊瑚礁には様々な形がある。
ポンペイのように島と外礁との間に礁湖と呼ばれる浅い海ができたものを堡礁という。
そして堡礁の中の島が海面下に沈んだものを環礁という。
礁湖が形成されていないものは裾礁、日本の珊瑚礁はほとんどがこの形をしている。

ナーナバスさんが海に入る。
ポンペイでは銛突き漁が一般的。
一気に10mほどもぐり、魚に気づかれないよう静かに近づき、見事しとめた。
獲れたのはキンメダイの仲間。
珊瑚礁は海の森とも言われ、魚、甲殻類、微生物などが住処として多様な生態系を形成している。
珊瑚礁は世界の海洋面積のわずか0.2%に過ぎないが、海洋生物の25%が恩恵を受けているといわれている。

マングローブ(海岸や河口に群生して海中に根をはっている植物の総称)のもとには落ち葉や陸地から流れ込んだ泥が堆積し、カニやエビなど甲殻類が多く住んでいる。
それらの死骸や排泄物が微生物に分解され、プランクトンのエサになる。
そのプランクトンを魚が食べ、その魚を鳥が食べる。
鳥の糞は甲殻類のエサになるという食物連鎖が成り立っている。
ナーナバスさんは海に入り、根元を注意深く探す。
獲れたのは大きなマングローブガニ、ポンペイの人々の大好物、町の市場で高く売れる。
漁を終え、まだ日があるうちに帰ってくる。
必要以上に獲らないのがポンペイのやり方。

マングローブから恩恵を受けてきたポンペイの人々はマングローブに手を加えることをしない。
ありのままを利用することで、何千年も環境を維持してきた。
その昔水上都市として栄えたナンマトール遺跡、人々が姿を消して以来マングローブに覆われてきた。
そして今もなお新しい芽が遺跡を侵食し続けている。
これからも切る予定はない。

月尾「2004年12月26日に発生したスマトラ島沖地震では、23万人近い人々が亡くなり、500万人に達する人々が被害をこうむるという人類史上有数の震災が発生した。
その被害を大きくした原因の1つがエビを養殖する水田を拡張するため、海岸沿いのマングローブ林を次々と伐採し、そのため津波が町を直撃したからだといわれている。
最近里山、里海という言葉が作られ、水が湧き出る山から、水が流れ込む海までを一体の環境として考えることの重要性が提唱されている。
日本の気仙沼ではそれを“森は海の恋人”という美しい言葉で表現し、海で仕事をする漁師が山にでかけて植林するという活動が長年続けられている。
ポンペイの人々も森林、マングローブ林、珊瑚礁を一体として維持しながら生活しているが、それは自然が決してバラバラではなく、すべてお互いに密接に関係していることを理解した生活様式だと思う。」

ポンペイの海を守る男達の活動
長い間豊かな自然と共存してきたポンペイの人々、しかし最近は現代化による環境への影響が現れている。
そこで今、本来の環境を取り戻す活動をしているのがポンペイ環境保全協会(CSP)
1998年に設立されたNGOで現在職員は18名、海洋、陸上、教育の3つの部署に分かれて様々な取り組みを行っている。
パターソン・シュド(エグゼクティブ・ディレクター)「私たちの主たる使命は生物多様性の点から森林や河川、マングローブ、珊瑚礁、漁場などを保護すること。
重要な活動の1つは海洋保護区を設定し、漁業資源管理を改善すること、遠洋海域における漁業資源の回復。」
ポンペイでは漁業資源の減少が問題になっている。
そこでCSPは11年前からポンペイ州政府と協力し、海洋保護区を設置してきた。
現在そのうちの9ヶ所を管理している。
そして定期的にモニタリングを行っている。

ポンペイ島南西、ケーパラ保護区では外礁にできた小さな島とその周辺の海域が保護されている。
モニタリングが始まった。
まず魚の数、種類、大きさを調べる。
次に調べるのはポンペイの人々にとって大切な珊瑚、環境の変化に敏感な生き物なので、わずかな異変も見逃さないように写真を撮りながら丁寧に調べる続いてエビ、カニ、ナマコなど無脊椎動物の数と種類をチェックしてゆく。
モニタリングを始めたのは2005年、以来保護区の変化を見てきた。
海洋保護区を設けたことで、ポンペイの海に魚が戻りつつある。
CSPスタッフの中にはかつて漁師だった人もいる。
自分達の環境は自分達で守る。
地道な取り組みが少しずつ実を結んでいる。

月尾「ミクロネシア連邦のすぐ南にナウルという小さな国がある。(ナウル共和国:面積は伊豆大島の約4分の1、人口は約10000人、国会議員は18名)
ほんの数十年前までここは世界でもっとも豊かな国といわれ、国民の中で働いているのは国会議員しかいないといわれていた。
しかし21世紀になって国家財政は急速に悪化し、現在では破綻寸前といわれている。
その理由はこの島に飛来する海鳥の糞と珊瑚礁とが数百年という時間をかけて良質のリン鉱石に変質していたが、それをたかだか100年で掘りつくしてしまったから。
一方ミクロネシア連邦の島々には際立った天然資源はないが、日本の排他的経済水域の536倍の海洋を持つ極めて自然に恵まれた国家。
現状では経済的自立にはほど遠いし、生活物資の大半を輸入に頼っているが、人々はこの恵まれた自然を維持するために調査研究し、限られた島の素材を使った産業を起こし、なんとか持続的な発展をしようと努力している。
ナウルとミクロネシアという対極にある2つの国の現状は、これから資源や環境が有限の時代に、日本がどのような進路を選択するかに大変参考になる例だと思う。」

CSPの教育部門では環境保全の意識を高めるための活動を行っている。
その活動の1つが小学校での特別授業。
この日のテーマは珊瑚礁、大事な環境の話とはいえ、子供達に関心をもってもらうのは容易ではない。
ただ知識を教えるのではなく、楽しく学んでもらう工夫をしている。
最後は楽しく歌って終わる。♪ポンペイを本当に愛していたらポンペイを助けよう。
珊瑚礁を傷つけるのをやめよう〜♪
一番の環境対策は未来を担う子供達への教育なのかもしれない。

月尾「渡辺京二さんが書かれた『逝きし世の面影』は江戸末期から明治初期にかけて外国から日本に到来した人々が当時の日本をどのように理解していたかを示す名著。
多くの人々は日本は世界に現存する唯一の極楽だと評価する一方、その日本が西洋文明を導入することによってやがて社会が混乱してゆくという未来を予測している。
確かに振り返ってみると文明開化によって我々は多くのものを得たが、その一方で失ったものも多大だったと思う。
独立してから四半世紀が経過したミクロネシア連邦も、自立と発展のためにレインボーネシア(豊富に現れる虹と七色のひらめきに満ちたミクロネシア連邦の魅力を表現)という標語を掲げ、その拠点となる空港の整備も着々と進めている。
これは発展のために必要な政策だと思うが、その一方で今回紹介した美しい自然や文化が変質してゆく可能性が十分にある。
これまでも密接な関係にある日本とミクロネシア連邦だが、日本は環境時代の社会のあり方を考えるヒントをミクロネシア連邦から得、一方ミクロネシア連邦は日本の過去を参考にし、自然や文化を維持しながら発展する戦略を得、お互いに新しい関係を築くことができればと思う。」

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素顔のミャンマー★暮らしに息づく仏教の心


パゴダと呼ばれる仏舎利塔をシンボルに、独自の仏教文化を育んできた国ミャンマー。
人口の7割を占めるビルマ族を中心に、およそ135の民族が暮らしている。
かつてはイギリスの植民地となり、独立後の現在は軍事政権の国。
歴史の荒波の中で生きてきたミャンマーの人々。
これまでその素顔はあまり伝えられてこなかった。
どこか懐かしい風景、大切に受け継がれてきた伝統、家族の強い絆。
そして生活の中にはいつも祈りがある。
少年は皆僧侶の修行を経験する。
暮らしに息づく仏教は、どうような役割を果たしているのだろうか?

インドシナ半島の西部に位置するミャンマー。
面積は日本のおよそ1.8倍。
そこに5300万余りの人々が暮らしている。
ミャンマーの町や村で毎朝必ず見られる風景がある。
托鉢、僧侶は食べ物をはじめ日常に必要なもの全てを人々のほどこしによって支えられている。
ミャンマーは僧侶が多く、その数およそ30万人。
見習いなどをいれると50万人にものぼる。
それだけの数の僧侶に世界でもっとも貧しい国の1つとされるミャンマーの人々は毎日ほどこしをしている。
ほどこしは来世のために功徳をつむ行いだと信じているのだ。
仏への敬意と信仰心が暮らしの隅々にまで行き渡っている。

バガヤー寺、ミャンマーでは普通の学校ではなく、寺の学校に通う子供も多い。
学科と共に仏教について学ぶ伝統的な教育。
ミャンマーの9割の人が厳格な戒律を持つ上座部仏教を信仰している。
幼い頃から仏教は身近にある。

信仰の象徴はパゴダ、仏舎利塔。
お釈迦様の骨や髪の毛の一部が納められていると言われている。
釈迦の住む家として人々はパゴダを敬い祈りを捧げてきた。

ミャンマー仏教の聖地はパガンにある。
パゴダが2200余り点在する壮大な遺跡群。
カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボルブドゥールと並ぶ世界的な仏教遺跡。
かつていくつもの部族に分かれていたミャンマーは1044年に統一され、パガンに都が置かれた。
以来200年間パガン王朝は繁栄を続け、最盛期には13000ものパゴダがあったと言われている。
パゴダの内装を飾った技術は受け継がれ、パガンには今でも伝統工芸の工房が多い。

マウン・マウンさんは家族で漆器工房を営んでいる。
長女が朝一番早く起きて朝食を作る。
ミャンマーの家庭では家事を担うのは長女の役目。
工房で働く職人の多くはパガン近郊の村から通ってくる。
妻サン・サン・ウィンさん、仏教の教えに従って身の周りの命あるものにほどこしを与えることから1日が始まる。
マウン・マウン夫妻は敬虔な仏教徒で子供は男の子4人と女の子4人。
末の娘は12歳で地元の中学校に通っている。
三女は来学期のヤンゴンの学校に進み、好きな英語を勉強することになっている。

マウン・マウンさんの漆器工房は伝統的な作り方を守っていることで知られ、海外からも多くの観光客が訪れる。
観光客への説明もマウン・マウンさんの大切な役割。
漆器はミャンマを代表する工芸品。
パガンには漆器作りの長い歴史があり、材料に竹と馬の尻尾の毛を使うのが特徴。
ここで使う漆はミャンマー固有のビルマ漆の木から採られたもの。
ビルマ漆の樹皮から漆を採り、それを3回濾してから漆器作りに使う。
漆を塗る前には竹の型を何度も削ってできるだけ表面を滑らかにする。
漆を塗るときはハケを使ったり手で直接塗る場合もある。
たく鉢の器は寺に寄進されるもの。
マウン・マウンさん夫妻は折に触れ工房で最高の漆器を作り、寺に寄進している。

漆は通常12回塗り重ねる。
漆を1回塗るたびに地下室に1〜2週間おいて乾燥させる。
その繰り返しで、1つの漆器の製作には半年近くかかる。
マウン・マウンさんが工房を開いて30年になる。
妻のサン・サン・ウィンさんは8人の子供を育てながら夫と共に工房をやりくりしてきた。
この30年間夫婦は功徳をつむために漆器を寺に寄進しつづけきた。
長女のティーダさん32歳、ヤンゴン大学の歴史学部を卒業、父親の仕事を手伝いながら家族の世話をしている。

ミャンマーの女性達が頬につけているものはタナカと呼ばれる粉で、強い日差しから皮膚を守るため顔に塗る。
タナカは良い香りがし、虫刺されや炎症を防ぐ作用もある。
この粉はタナカという名前の木から樹皮を削って作られる。
ミャンマー最大の祭、水かけ祭の時にはタナカ作りの技を競うコンテストが行われる。

タナカはミカン科に属する柑橘系の樹木。
ミャンマーの女性にとって毎日欠かせない化粧品。
市場で木を買って帰り、自分で削ってタナカを作る。
タナカは肌を保護するだけでなく、美しさを表すものでもある。
様々な形や模様を自分で考えて描く。
そして女性達はオシャレをして楽しむ。

もう1つ大事なオシャレはロンジーと呼ばれる巻きスカート。
男性も身につけるロンジーは、風通しがよく、暑い夏を快適に過ごすことができる昔からの知恵。
ロンジーは木綿や絹からも作られるが、昔ながらの独特の布の作り方が残っている。
それはハスの茎から糸を取り出すというもの。
ハスの茎を数本まとめて折って絹のような繊維を取り出す。
何百本ものハスの茎からはじめて布を織るだけの糸が紡がれる。
そして糸を染め、鮮やかな色合いの布を織ってゆく。
時間をかけ丹精込めてロンジーが作り上げられる。

ミャンマーの男性にとってもロンジーはオシャレのセンスの見せ所。
高温多湿のミャンマーの気候から生まれたロンジー、時代は変わっても人々に愛され続けている。

マウン・マウンさんの工房では地下室で乾燥させた漆器を女性達が水で洗って磨いている。
磨いた後、また漆を塗り重ねてゆく。
工房には20人余りの職人が働いている。
パガンはミャンマーの漆器生産量の90%以上を占める漆工芸の中心地。
この工房には技術を学ぶために遠方からで弟子入りをした人もいる。
漆を12回塗り終えたら表面に厚みがでるので模様を彫り、立体感をだす。

パガンには漆器職人が800人余りいる。
型作り、漆塗り、彫刻をはじめ、その工程はいくつもあり、丹念な作業を積み重ねてはじめて1つの漆器が作られる。
マウン・マウンさんの妻サン・サン・ウィンさんは野菜や日常品を買いに、週に1回市場へ行く。
ここでは馬車がタクシー代わりに利用されている。
パガン最大の市場、伝統工芸品から日用品、食料まであらゆるものが扱われている。

パガンに住んでいるのはビルマ族の人たちが中心。
人口の7割を占めるビルマ族はミャンマーで初めての統一王朝を開いた部族。
起源は中国雲南省の騎馬民族。
唐の時代に追われて南下し、パガンに住みつき、農耕民族に変った。
パガンの中心部は現在歴史地区となって保存され、僧侶と遺跡関係者以外の住民は郊外へと移住した。
パガンとは古い言葉で“干からびた土地”という意味。
半砂漠地帯で褐色の大地が広がる砂漠の聖地。

マウン・マウンさんの工房では寄進するたく鉢の器が完成に近づいてきた。
仏への感謝と祈りを込めて丁寧に作られてきたたく鉢の器は、これまで漆を11回塗り終えた。
最後にもう1回漆を塗り、地下室で1週間乾燥させれば完成。
家事を任されている長女が夕食の支度を始めた。
ミャンマーの人々が好んで食べるスナック、米から作った麺を油で揚げたカオスェ・チョッチョ
モウレープェ、米を砕いて乳液状にし蒸した後、天日で干す。
さらに熱を加えてせんべいのようにする、米から作られた伝統的保存食。

工房の給料は日当、残業が多いときは半日分多く払われる。
奥さんは職人と手伝いの人たち、合わせて40人ほどの面倒を見ている。
4人の息子達は独立して家を離れ、ヤンゴンで漆器の店を開いたり大学へ通ったりしている。
夫妻と共に4人の娘が一緒に暮らしている。
工房で作った器が並ぶ食卓、皆でそろってその日の出来事を話しながら食事をする、家族の大切な時間。

寄進するたく鉢の器が半年かけて完成した。
マウン・マウン夫妻は寺に届けにゆくことにした。
功徳をつむ大切な時を迎える。
祈りを唱えて器を仏に捧げる。

鉄道はミャンマーの人にとって大切な交通手段。
イギリスの植民地時代の1877年に鉄道が開通、今ではミャンマー全土に鉄道網が行渡り、輸送の大動脈となっている。
ミャンマーでは車を持たない人が多く、列車の駅には早朝から多くの人がやってくる。
駅に改札はなく、自由に乗り降りする。

近郊を走る列車、いつも混雑していて乗客の多くは様々なものを売りにゆく人々。
ミャンマーの列車の車両は実用的で、できるだけ多くの荷物を積めるようにできている。
検札は列車の中で行われる。
列車の乗り換え駅では毎日市が開かれる。
沿線の人々がやってきて商売をしている。

ミャンマー中部にあるマンダレー駅は内陸路線の中心駅。
1日に25本の列車が発着し、およそ15000人の乗客が利用している。
マンダレー駅は長距離列車の発着駅としても重要な役割を果たしている。
ミャンマーの鉄道は今も尚人の手で管理されている。
マンダレー駅の司令室では無線や電話で連絡をとりながら39の駅の列車運行をコントロールし、手書きでダイヤグラムが作成されている。

電話や無線連絡意外に籐のつるでできたタブレットを渡すという伝統的な連絡方法もある。
駅長が書いた運行情報の紙をタブレットに巻きつけ、通過する列車の運転手に渡す。
これはミャンマー鉄道が開通した当初からずっと行われてきた方法で、100年同じ形で続けられている。
1906年に作られたポイント切り替えも現役、ずっと変らず運行をつかさどってきた。
列車が通過する時には駅長は窓辺に立って祈りを捧げる。
お祈りもミャンマー鉄道の伝統。
ミャンマーの鉄道は100年前の生き生きとした姿が今もそのまま残されている。

1877年にミャンマー最初の客車がチーク材で作られた。
今でも一部の車両はチーク材でできている。
チーク材は高価だが、とても丈夫でミャンマーでは豊富にあるため使われた。
おかげで世界でもっとも豪華な車両の1つとなっている。

急峻な山が多いミャンマー、線路敷設には大変な苦労があった。
1903年に開通した路線はスイッチバックで登ってゆくために山を切り開き線路を作った。
車両の前と後ろが交互に先頭となってジグザクに登ってゆく。

ミャンマー鉄道にはもう1つ大切な役割がある。
列車郵便局だ。
郵便物が停車駅ごとに集配され、走る列車の中で分別される。
水路も道路もない山間部に運ぶ。
列車も通わない偏狭の地には最寄駅から郵便配達員が届ける。
鉄道は遠く離れた人々の心をつなぐ役割もあるのだ。

田舎の小さな駅ワッ・ウォン駅、駅員は2人だけ。
1日に通る列車は3本。
駅長はタン・ナインさん、チョー・ウィン・ソーさんはポイント切り替えの仕事を主にしている。
駅長の家はすぐ隣にあり、毎日仕事が終わったら妻が玄関で迎える。
この地域は花の産地として知られ、駅は花の駅とも呼ばれている。

まだ若いチョー・ウィン・ソーさんは少しずつ経験をつみ、今この仕事がとても気に入っている。
毎日夕方、最後の列車が通過した後、静かな駅が一転してにぎやかになる。
チンロンという遊び、ボールを地面に落とさないで蹴り続ける長さを競うもので、ミャンマーでは人気のスポーツ。
駅長さんたちも一緒、村人の憩いの場所となって駅の1日が終わる。

ミャンマー東部の高原地帯にあるインレー湖には伝統的な暮らしが色濃く残っている。
広さは琵琶湖のおよそ半分。
湖の中には水草を集めて作った浮島が80余りある。

片足で船を漕ぐ漁師、浮島に住むインダー族の人たちの昔ながらの漁。

まず円錐形の竹の籠を口を下にして水中にいれる。
そして竹の棒で水中をかき回す。

インレー湖では週に2日、水上マーケットが開かれる。
暑さを避けるために夜明け前から始まり、朝の10時には終わる。

この地域の民族はシャン族の人たちが中心。
国境を接するタイの民族タイ族と同じルーツ。

周辺には他にもいくつかの少数民族が暮らしている。
湖のほとりではパダウン族の女性達が機を織る姿を見ることができる。
このような格好をするのは宇宙の父と崇める首の長い龍のように見られたいからだといわれている。

女の子は5歳になると真鍮でできた輪を首、腕、足に着けはじめる。
25歳になるまで首輪を毎年1つずつ増やしてゆく。
パダウン族の人達は女性の首が長ければ長いほど美しいと信じている。

インレー湖の水辺にたたずむファンドーウー寺院(Phaung Daw U Pagoda)、金の装飾が施されたこの寺の中心には、5つの仏像が置かれている。
ミャンマー各地から大勢の信者達がやってくる。
長い時間をかけて敬虔な祈りを捧げた後、信者達は金箔を寄進する。
重ねられた金箔のせいで仏像のもとの姿は分からなくなってしまった。

秋にはファンドーウー寺院の水上祭が盛大に行われる。
インダー族の漁師達が総出で船を漕ぐ壮観な祭。
祭が最高潮に達すると寺院の仏像が船に移されて湖をゆっくりと回る。

船が目の前にくると人々は収穫したものを捧げる。
神話に出てくる鳥をかたどった金の像を先頭に水上を行く寺院。
インレー湖の人々は実りを仏様に感謝し、祈りを捧げ、湖と共に生きてきた。

伝統的な暮らしを守る地域もあれば大きく変化している所もある。
ゴールデン・トライアングル、ミャンマー、ラオス、タイの国境が交わる三角地帯。
現在では緑が広がるこの一帯、かつてはアヘンの原料となるケシの栽培が行われた世界的な麻薬の供給基地だった。
雨が豊富で土地が肥沃なため、ケシの栽培に適していた。
メコン川と急峻な山に囲まれたこの地域は、他から隔絶した場所で、国の監視が届かず、かつて大規模なケシ栽培が行われていた。
当時ケシ栽培はゴールデン・トライアングルの人達にとって生計を立てる手段だった。
ゴールデン・トライアングルのミャンマー側、コーカン地区にはコーカン族の人達を中心にいくつかの少数民族が暮らしている。
イギリスの植民地時代にアヘンの取引が盛んになった。
ケシの栽培が簡単にできるため、ゴールデン・トライアングルの人々はケシ栽培に乗り出したが、自らアヘンを吸うようにもなり、人々の健康を蝕み、麻薬中毒に陥る人も後を絶たなかった。
その一方ケシの買い取り額は低く、村人の生活は苦しいものだった。

2002年この地区にようやくケシ栽培の禁止令が出された。
しかし村人達はそれまで100人余りもケシ栽培を続けてきたため、禁止令によって混乱が起こった。
時代の転換についてゆけず、自殺する人まで出てしまった。
麻薬中毒に侵された人を救うために、僧侶達も力を尽くしている。
座禅、瞑想をはじめ様々な試みが行われている。
消し栽培を禁止された後はサトウキビやトウモロコシが作られるようになった。

サトウキビ農家のリ・ダチさん、以前は父から引き継いだケシの栽培を行っていた。
その当時は一家がやっと食べられるかどうかギリギリの生活だったという。
ケシ栽培の禁止令がでた2002年、リ・ダチさんは山から下り、サトウキビ栽培を1から始めた。
家族のために苦労を惜しまず働き、サトウキビ栽培のコツをつかみ、今では地域のリーダー。
彼らが話している言葉は雲南省訛りの中国語。
コーカン族の人達は、かつて中国から渡ってきた民族。
サトウキビの収穫は村人が協力して行う。
村人達はケシ栽培の転換という混乱の時期を共に乗り越えてきた。

この日は家族総出、収穫したサトウキビは国境を越えて中国雲南省のサトウキビ工場へ運ばれる。
この地域ではサトウキビは毎年2回収穫され、工場で加工される。
リ・ダチさんの今年初めてのサトウキビに値段がつけられた。
半年がんばって働いた成果。
今回は売上2000元、およそ27000円を手にした。
収入は昔よりも増えている。
かつてのケシ畑では今、サトウキビを中心にトウモロコシやゴム、キャッサバ、イネが作られている。
これらの転作が起動にのるまでにはまだ時間がかかる。

東南アジアは世界的な宝石の産地。
中でもミャンマーは良質の宝石を生み出すことで有名。
特にルビーと翡翠はミャンマーが世界最高の品質だといわれている。
ミャンマーの代表的なルビーの産地はマンダレー州モゴック
ここで採れるルビーは高い値段で取引される。

モゴックでは数100年前からルビーの採掘を続けてきた。
ルビー鉱山は長さ3km、総面積260k屬砲發覆襦
数100万年前、火山の噴火で熱い溶岩が流れ込み、何千年もかけて少しずつ冷やされてこの一帯が岩石に覆われた。
この岩石がいく種類もの宝石を生み出した。
モゴックの人達は、宝石は仏様からの贈り物、自分達に幸運をもたらしてくれるものだと信じている。

アウン・チョー・トゥさんは20年のキャリアを持つベテランの坑夫。
ルビーの鉱脈を見つけるのが仕事。
砕かれた岩の中からいち早くルビーを見つけることができる。
坑夫達は岩に爆発物を仕掛ける。
そして砕かれた岩を地上に運び、ふるいにかけて分類する。
何も見つけられないまま何日も作業が続くこともある。
ルビーは通常深さ300m以上のところからしか見つからない。
モゴックでルビーが初めて見つかったのは600年前のこと。
ルビー鉱脈は限られた範囲で、しかも深いとことにあるため見つけることは非常に難しい。
原石は地上に運ばれ、さらに砕かれて熟練した坑夫の手作業によって分類される。

採掘は12月から6月までの乾季の時期に行われる。
雨季は地下の水量が増え、危険なため行われない。
そしてルビーを見つけ出す。
モゴックは世界有数の鉱床があり、埋蔵量は豊富。
アウン・チョー・トゥさんは自分が見つけたルビーを容器に入れ、鍵を2つかけて事務所に持ってゆく。
経験豊富な彼の目は毎日何かしらのものを見つける。
ルビーの価値は色によって決まる。
中でももっとも高価なものはピジョンブラッドという種類。
世界中でもモゴックでしか見つからない。
坑夫達の多くは採掘所で生活する。
昼と夜のシフト交替で仕事をする。

マウン・チョー・トゥさんがここで働き始めて8年になる。
危険を伴う仕事なので共に働く仲間とは結束が強い職場。
アウン・チョー・トゥさんはモゴックの町で妻と2人の娘と暮らしている。
彼の両親はヤンゴンで暮らしていて、両親に会いにいけるのは数年に1度くらいしかない。
ルビーやサファイヤをカットした時にできる破片や石英などのカケラは絵を描く材料になる。
ミャンマーではこの宝石のカケラで作られた絵が人気を集めている。
手ごろな価格ながら宝石の輝きがある。
絵の題材は仏教、自然、人生、愛についてと様々。
中でも仏教に関する絵がミャンマーの人に好まれ、多くの過程で飾られている。
モゴックの町は1217年、初めて宝石が見つかった時に造られた。
標高1680mの山に囲まれた盆地。
住民のほとんどは宝石の採掘や加工、売買に携わっている。
町の中心では宝石市が開かれる。
それは3時間だけで、地元の人達しか売買できない。

アウン・チョー・トゥさんは15日間の休みをもらい、念願の寄進にいけることになった。
アウン・チョー・トゥさんはお供えするための宝石を探しに宝石市に来た。
仏様に捧げる宝石を買い、いよいよ寄進に行くことになった。
これは功徳を積む行いとしてとても名誉あること。
同僚達は集って彼を祝い、旅の壮行会を開いた。

寄進の旅が始まった。
モゴックからヤンゴンまでおよそ1000km、3日間の長旅。
まずタクシーでマンダレーまで向かう。

マンダレーの町へタクシーで6時間かかって着いた。
ヤンゴンに次ぐ第2の都市マンダレーは“宝の多い町”という意味。
各地で採れた翡翠などの宝石が集められ、世界中に輸出される。

アウン・チョー・トゥさんはエヤワディ川を渡ってマンダレー駅へ行き、そこからヤンゴンに向かう列車に乗る。
エヤワディ川はミャンマー最大の川で母なる川と呼ばれている。
言い伝えではこの川は雨の神エヤワディが大切にしていた白いゾウが吹き出した水でできたと言われている。
雨の神の名前をとってエヤワディと名付けられた。

ヤンゴンまでの列車はマンダレー駅を朝4時に出発し、600kmの距離を走る。
ミャンマーで一番長距離を走る列車。
ヤンゴンへ向かう乗客がほとんどのこの列車はいつも混雑している。
モゴックを発って3日目、ヤンゴンに着いた。
ヤンゴンは人口500万人余り、ミャンマーの経済、文化の中心地。
ここで生まれ育ったアウン・チョー・トゥさんは、昔と比べ町の変化のスピードは早く、モゴックから故郷へ帰ってくる度に町並みが新しく変わっていることに驚かされるという。
両親の顔を見るのはずいぶん久しぶり。
寄進するために買った宝石を両親に見せる。
翌日、一緒に寄進しに行くことになった。

シュエダゴン・パゴダはミャンマー仏教を象徴するパゴダ。
中心のパゴダは高さ100m、周囲400mという壮大なもの。
その周囲を60余りの小さなパゴダが取り囲んでいる。
紀元前585年にお釈迦様の8本の髪の毛を納めるために造られたと伝えられている。
世界中からの巡礼者や観光客が絶えることはない。
ミャンマーの人々の願いは、働いて貯めたお金で宝石を手に入れ、寄進すること。
パゴダを覆う金箔は長年にわたって寄進され、今では金箔は7トンの重さがあるとされている。
アウン・チョー・トゥさんは子供の頃からよくここへお祈りにきた。
そしていつか自分の手で宝石を寄進することが夢だった。
それが今日叶う。
塔の上には76カラットのダイヤモンドが納められている。
さらに15000個の金銀の鐘。
ダイヤやルビーなどの寄進は8000個にものぼる。
長年一生懸命働いて貯めたお金で念願の寄進を終えた。
家族の幸せを願って功徳を積む。
アウン・チョー・トゥさんはいつかまた寄進に来ることを誓った。

ミャンマーでは少年は7〜11歳までの間に1度は僧院で修行することが伝統となっている。
修行に入る儀式は得度式と呼ばれる。
その日は化粧をしてきらびやかな衣装をまとう。
これは悟りを開く前のお釈迦様が王子だったことにちなんでいる。
儀式が行われる日は村人全員が少年達に心からの祝福を贈る。
まだ小さくて得度式が受けられない子供は親が幸せを祈って祭りに参加させる。
そしてパレードをしながらお寺へ向かう。
村は少年達を祝うお祭一色になる。
少年達にとって人生で大きな節目となる日。

得度式はミャンマーの成人式ともいえる。
両親は寺院にお供え物をして晴れ舞台を迎える感謝を表す。
子供の成長に喜びを感じ、大人への1歩を踏み出す子供のために幸せを祈る日。
得度式が始まり、剃髪が終わると少年達は1週間の修行に入る。
得度式が終わると袈裟をまとい、見習いの僧となる。
これから少年達は初めて親元を離れ寺に入る。
食事は1日2回、厳しい修行生活を送る。

寺では道徳や礼儀、日常生活の細部にまで及ぶ戒律を学ぶ。
子供達は普段でも仏教の教えに触れる機会が多くある。
学校の長期休暇の機関には仏教の学校が開かれる。
ミャンマーの子供達は仏教の教えを支えに大人になってゆく。

祈りの国ミャンマー、一心に祈りを捧げる人達、我が身を削ってでも寄進をし、功徳を積む。
その祈りは未来を切り開く子供達へと受け継がれてゆく。

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先住民の叡智に学ぶ★南米ペルー アンデスの民

南米大陸を南北およそ8000kmに渡って貫くアンデス山脈、標高6000m級の山々がそびえている。
赤道に近い場所でも山頂の雪が溶けることはない。
夏でも気温が上がらず、酸素が薄い過酷な環境。
この地に暮らす先住民族は、何千年にも渡り厳しい環境を生き抜く様々な知恵を生み出してきた。
代々受け継がれる彼らの知恵は今、世界から注目を浴びている。

月尾嘉男(東京大学名誉教授)「現在68億人にもなった世界の人々は、農地で栽培されるせいぜい20種類の作物を食料として生活している。
しかし先史時代の人々は、1500種類以上の野生植物を食料にしていたと言われている。
1920年代、ソビエト連邦の植物学者ニコライ・ヴァヴィロフは大規模な調査をし、それらの作物となる植物は、世界の7〜8ヶ所に集中しているということを明らかにした。
アンデス山脈もその1つ。
ここには私達が現在食べているインゲンマメ、ピーナッツ、カボチャ、トマト、唐辛子など、様々な植物の原種が存在している。
とりわけ重要な植物はジャガイモ、世界を飢饉から救ったというこの植物は、アンデスの人々が何千年にも渡って維持し、現代に伝えてくれたもの。」
アンデス山脈の始まりは今からおよそ6000万年前。
プレート同士のぶつかり合いが、長い年月をかけて急峻な地形を形作り、標高の違いによる様々な環境が生み出された。

この地にいつ頃人類が住み始めたのか確かなことは分らないが、遅くとも11000年前にはユーラシア大陸のモンゴロイドが南米大陸に到達したと言われている。
その後紀元前3000年ごろから様々な文明がこの地に生まれた。
中でもインカ帝国は現在のコロンビア南部からチリ中部に至る巨大な国家を築き上げた。
しかし栄華を極めたその帝国も、スペイン人の侵略によって1533年歴史の舞台から姿を消した。
アンデス山脈のほぼ中央、ペルー南部に位置するクスコは、そのインカ帝国首都として栄えた。


↑Plaza de Armas インカ時代と変らず今も町の中心

↑インカ時代の石組 太陽神殿跡地に復元 今はカトリック教会が建つ

↑インカ時代の石畳 町の至るところに残っている
クスコから車で北へおよそ1時間のピサック村、標高3100mの高地で暮らすケチュア族のマリアノ・カパさんの家はアンデスでよく見られる伝統の造りアドベ、この地に古くから伝わる日干し煉瓦の家。
頑丈にするため、石、土、砂、藁を混ぜ合わせている。
頑丈なだけでなく保温効果もある。

マリアノさんの家は2階建て、階段を上ったところにあるのは寝室。
冬の夜の気温は氷点下まで下がり、夏でも気温が低いため、風が入ってこないよう、扉を小さく天井を低くしてある。
1階食堂の隣の台所の奥で鳴いているのはクイというネズミの仲間。
鳴き声からクイという名がつけられた。

マリアノさんは先祖代々この地で農業を営んできた。
育てているのはトウモロコシ、ジャガイモ、ソラマメなど。
家から20分ほど下ったところにあるトウモロコシ畑、白いトウモロコシが実っている。
マリアノ「アンデスにはとてもたくさんの種類のトウモロコシがある。
白いトウモロコシは標高が低いところで育つ。
黄色いトウモロコシはそれより少し高いところで育つ。
畑の場所を変えて様々な種類のトウモロコシを育てている。」

トウモロコシ畑から歩いて30分ほど上ったところにジャガイモ畑がある。
マリアノ「ここにはマワイという種類のジャガイモを植えている。
上のほうの畑では違う種類のジャガイモを植えている。
ジャガイモには昔から様々な種類がある。
それぞれに特徴があり、害虫に強い種類、霜に強い種類、大雨が続いても育つ種類、干ばつに強い種類がある。」

アンデスは作物を育てるにはとても厳しい気候。
月に100ミリ以上の雨が4ヶ月も降るかと思えば、1ミリしか降らない月もある。
さらに冬には1日の気温差が20℃以上になることもあり、病害虫の被害も多い。
そのリスクを分散するために、この地に暮らす人々は特徴が異なる品種を育ててきた。
それにはアンデスの急峻な地形が役立っている。
マリアノさんも地形が生み出す気候や気温の違いを利用して作物を作っている。
標高4000〜3000mにはジャガイモ畑、標高3000mのところに家があり、標高3000〜2000mにはトウモロコシ畑。

さらに作物の保存方法にもアンデスならではの工夫がある。
マリアノさんの奥さんが手にする黒い石のようなものはチューニオ(乾燥ジャガイモ)。
チューニオのかこうには収穫したばかりのジャガイモを使う。
収穫の時期の5月はアンデスでは冬。
まずジャガイモを屋外に並べ、夜の冷気で凍らせる。
それを足で踏みつけて水分を抜き、さらに天日で干す。
これを何度か繰り返し、重さが半分近くになるまで乾燥させる。

ジャガイモはすぐに芽がでてしまう上に水分が多くて腐りやすいが、チューニオにすればそれも防ぐことができる。
食べる時は2日間水に浸けて戻し鍋で3分ほど蒸すだけ。
スープなどに入ることもあるが、このまま食べるのが一般的。
アンデスの人々は過酷な環境を巧みに利用しながら生き抜いてきた。

月尾「人類が他の生物に比べて飛躍的に発展したのは様々な技術を発明したから。
その技術に共通する特徴は大量のエネルギーを利用して自然環境を変えてきたこと。
例えば食料の生産についてみると、森林や湿地を農地に変え、大量の農薬や肥料を散布し、同一食物を大量生産する方法。
最近では人工環境の中で作物を生産するという植物工場まで登場している。
68億人にもなった人類に食料を供給するには仕方ないことかもしれないが、一方でそれが地球規模の環境問題の原因にもなっている。
このアンデスで行われている食料の生産方式は、その対極にあるもので、自然に適合した作物を選び、それを自然に合わせて生産するという方法。
さらに作物の保存さえ、自然条件を最大限に活用している。
現代の大量に作物を必要とする時代に、全ての食料をこのような方法で供給するのは不可能だが、アンデスの人々が行ってきた自然を変えないで自然に合わせて生産する方式を我々はもう1度見直すべきではないか。」

ジャガイモの多様性を守る取り組み
急峻な地形を生かして様々な作物を育てるアンデスの人々、その知恵はインカの時代から受け継がれてきた。
インカ帝国の首都だったクスコの町から車で2時間、モライ遺跡はそれを物語る遺跡。
モライとはケチュア語で“丸く凹んだ場所”。
全長100m、円の直径は50mを超え、もっとも低いところと高いところの差はおよそ160mもある巨大遺跡。
人の背丈ほどある石積みが幾重にも重なっている。
遺跡の底を目指して歩くこと30分、このような巨大施設はどのように使われていたのだろうか?
リノ・ロワイス(ケチュア族)「ジャガイモなどあらゆる農作物の栽培研究を行うために使った。
標高差を利用して18の小気候が作られ、2500種類以上の農作物の研究を行ってきた。
段ごとにそれぞれ違う農作物を育てていた。」

一番上と下の畑の気温差は5℃以上、この差を利用してどの作物がどの気温でもっともよく育つのかを研究していたと考えられている。
インカ帝国の高度な農業技術は完備された灌漑用水路からもうかがい知ることができる。
インカの人々はこの巨大な施設で様々な作物を効率的に育てる知恵を培っていた。
中でもジャガイモはデンプンやビタミン類を多く含み、アンデスの人々の主食となってきた。
アンデス原産のジャガイモが世界へ広まったのはスペイン人がヨーロッパへもたらした16世紀以降のこと。
度々飢饉に見舞われた18世紀のヨーロッパでは穀物よりも収穫量が多いジャガイモが多くの人々の命を救った。
今後懸念されている人工の増加や環境破壊による食糧危機。
その際にもジャガイモが活躍すると期待され、各国で様々な種の保存が始まっている。
そうした取り組みはジャガイモ発祥の地アンデスでも行われている。
モライ遺跡から車で3時間の所にあるポテトパーク、伊豆大島とほぼ同じ広さの土地におよそ6000人の先住民族が100種類以上のジャガイモを育てている。
ケチュア族にとって何度も飢饉から救ってくれたジャガイモは神聖な農作物。
ポテトパークの事務所ではジャガイモの栄養面や栽培に関する研究を行っている。
色や形、大きさが違う様々なジャガイモが棚に並んでいる。

リノ「地元には778種類のジャガイモがあり、そのほかの地域から集めた種類も含めると1300種になる。
何千年も昔から続くジャガイモの様々な種の保存を行っている。」
地元の6つのコミュニティが協力して立ち上げたポテトパーク(2002年)、これまでコミュニティごとに培われてきた様々な栽培ノウハウが共有されるようになった。
ジャガイモの原産地で始まった多様性を維持する取り組みは世界から注目され、今では年間800人近い研究者達が視察に訪れるほど。

月尾「2010年10月名古屋で生物多様性条約第10回締約国会議が開催される。
生物多様性条約とは生物多様性の保全、生物の持続的利用、遺伝子資源から得られる利益の公平かつ公正な配分を目指すもの。
ところでアンデスの人々は長年にわたりこの地でジャガイモを改良し育ててきたが、それは16世紀スペイン人によってヨーロッパ、そして世界に広まり、世界各地で飢饉を救った。
しかしアンデスの人々が得たのはインカ帝国の征服という代償だった。
それほど極端ではないが、最近話題になっているのがペルー原産の果実カムカム
レモンの60倍のビタミンCを含む飲料水として有名になった。
バイオテクノロジーの時代になり、遺伝資源の重要さは飛躍的に増大するが、それを一部の人々の利益とするのではなく、人類共通の利益とすると共に、その遺伝子源をこれまで保全してきた人々に敬意を払うという新しい哲学が必要だと思う。」

アンデスに伝わる助け合いの精神
アンデスの高地で農業を営むマリアノさん一家1日の生活は日の出前から始まる。
朝起きると奥さんは台所掃除、一方マリアノさんは近くの川へ。
ここで育てている杏の苗や薬草に水をやる。
マリアノ「これはアラヤンという薬草、煎じて飲むと咳やお腹の痛みに効く。
我が家に代々伝わるもの。」
奥さんが朝食の準備に取り掛かった。
水に溶かしたトウモロコシの粉と自家製の野菜をじっくり煮込んだスープ。
家に戻ったマリアノさんは息子達と一緒に薪作り。
いろんな仕事をこなしてようやく食事が始まったのは7:00過ぎ。
マリアノさん一家にはこの後大仕事が待っている。
家から10分ほど歩いた場所に人が集まっている。
まず山の神アプに祈りを捧げる。
儀式が終わると作業が始まる。
ここは休耕中だったマリアノさんの畑。
土壌が再生したので耕すために人が集まった。
使われているのはチャキタクリャ(踏み鋤)、アンデス地帯に古くから伝わる農具。
インカ帝国時代の生活を記録したGuaman Pomaの絵文書(1615年)にもチャキタクリャによる農作業の様子が描かれている。

皆で集まって作業するのもアンデス地方では昔から行われてきた。
この風習はアイニといい、今も農作物の植え付けや収穫の時期、屋根葺きや家を建てるときに行われている。
アンデスでは様々な作業を協力し合って行うのが当たり前。

その頃マリアノ家の台所は親戚の女性達が集って料理作りに大わらわ。
アイニに集ってくれた人々にご馳走を振舞うのも古くからのしきたり。
奥さんがクイを捕まえようといしている。
農作物が中心の食事では、クイの肉は貴重なタンパク源。
ティンカ、花びらを撒いてクイを弔う。
頭を太陽の昇る方向に向け、山の神様に祈る。
クイ料理の味付には香草を使う。

アンデスの女性はまな板を使わず、手の中で起用に刻んで石臼の中へ入れる。
そこへニンニク、クミン、塩を加えてよくすりつぶす。
これをクイの体内に塗りこみ、カマドの火で3時間ほどかけて丸焼きにする。
ご馳走に欠かせないのがチチャ、アンデスに古くから伝わるトウモロコシのお酒。
仕込みは前日から行う。
原料は芽の出たトウモロコシ。
発芽すると酵母が増える。
これを重さ5kgの石ですりつぶす。
沸騰したお湯で10分ほど煮込み、煮汁をこすとトウモロコシの甘い香りがしてくる。
あとは一晩置いて発酵させるだけ。

畑仕事も順調に進んでいる。
始まってからおよそ8時間、夕暮れ前には予定の作業が終了した。
マリアノさんの家出ご馳走が待っている。
にぎやかに奏でられるのはケーナ(Quena)、アンデスの伝統楽器。
早速チチャが振舞われる。
地面にたらしてから飲むのは大地の神に感謝する昔ながらのしきたり。
ご馳走も出来上がった。
大麦を煮込んだスープ、焼いたクイ、カボチャの肉詰めを載せて最後に香草を添えて完成。
アイニの時には決して欠かすことのできない宴。
アンデスの人々はこうしてお互い絆を深めてゆく。

月尾「日本の農山漁村には(ゆい)という仕組みが存在し、仕事や生活で互いに助けあう社会が存在していた。
しかし産業構造の変化によって地方の過疎化が進み、結の助けあい精神は消えつつある。
そして助け合うという精神も消えつつある。
アンデスではアイニという相互扶助のしくみが社会の根底を形作っているが、それは人々の日常生活の喜びの原泉でもあるように感じる。
この生活を私達は失った次代の郷愁としてではなく、失ったものを取り戻すためのヒントとしてもう1度見直すべきだと思う。」

雨上がりの午後、マリアノ家を1人のお客が訪ねてきた。
どうやら知らない人のようだ。
半日歩いてここまで来たというパスクアラ・ケラヤさん。
背負ってきたのはアルパカの毛。
これとトウモロコシを交換して欲しいという。

パスクアラさんが住んでいるのはマリアノさんの家から20kmほど離れた標高4000mの山の上。
ここでアルパカを飼って暮らしている。
アルパカの毛は保温性に優れ、織物の原料として重宝される。
しかしアツパカが飼えるのは標高が高い場所だけ。
気温が低すぎるため、トウモロコシなどは育たない。
そこで山を下ってアルパカの毛や肉と引き替えに、農作物を手に入れる。
どのくらいの量で交換するかはそのつど話し合いで決められる。
今回は1kgのアルパカの毛がトウモロコシ10本と茎7本に。
トウモロコシの茎は噛むと甘い味がする。
住む場所によってお互いに得られるものが違うため、こうした物々交換の仕組みがアンデスには今も息づいている。

月尾「ペルーには地球に生育している高等植物の10%に相当する約20000種類が存在し、その4分の1以上の5500種類はペルー固有の植物。
そして682種類の植物を食料にし、1044種類の植物を焼くようにしている。
日本も植物の多様性に恵まれた国。
国内には5500種類の高等植物があり、その内36%の2000種類以上が日本固有の植物。
工業が中心の時代には、日本は鉱物資源にもエネルギー資源にも恵まれない国だった。
しかしバイオテクノロジーが重要な役割を果たす時代には、日本は資源大国になりうる可能性がある。
このアンデスの高地で人々が守り、育て、利用してきた生物資源大国を参考に、日本も生物資源時代の戦略をたてるべきだ。」

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Light at the Edge of the World☆Keepers of the Dream


今からおよそ55000年前オーストラリアに最初の人間がやってきた。
そして旅に出た。
彼らはこの大陸で先進文化を築き上げた。
彼らの使命は天地創造以来続いているドリームタイムの世界を守ること。
何世紀もの間、外部の者達はこの古代文明の謎を解き明かそうとしてきた。
彼らは火で狩りをし、ドリームタイムの秘密の道を歩く。
オーストラリアのアボリジニには、時間や歴史という言葉がない。
しかし彼らの文明は、おそらく地上最古のもの。
50000年後の今もまだ、奥地の片隅に息づいている。
ヨーロッパ人が始めてオーストラリアに来た時、彼らの目に、アボリジニはただ漫然と暮らす野蛮な民族にしか映らなかった。
彼らの文化に隠された偉大な哲学に気づかなかったのだ。

オーストラリ北部準州にある、アボリジニの居留区Arnhem Landに向かう。
途中には現在多くのアボリジニが暮らす町がある。
Wade Davis「ラミンギニングという町、70年代初頭、彼らはこういう町に集まって暮らし始める。
そしてその途端、文化の拠り所を失ってしまった。
自然と彼らとの精神的、あるいは観念的つながりが絶たれてしまった。」
そのため今や彼らの文化は聞きに瀕している。
こうした近代的居留地では、50000年前から続くアボリジニの言語や口伝えの文化が消えつつある。
しかしその一方で、伝統や土地を守ろうと奮闘しているアボリジニもいる。
オットー・カンピニオンもその1人、この土地の所有者で、アボリジニの土地を守るレンジャーでもある。
多くのアボリジニ同様、彼の暮らしも半分西洋的で半分伝統的。
1年のほとんどは政府が建てた町外れの家で家族と暮らしているが、子供の頃は町の中を走り回っていた。
昨年父親が亡くなり、自分が昔からの伝統を忘れかけていることに気づいた。
そこで一族の風習を守り、それを息子達に伝えることを父の墓前で誓った。
彼らの文化は口承文化、しきたりや神話は口伝えで受け継がれてゆくため、どこかで途切れれば全てが消えてしまう。

オットーは一族を集めて父親が亡くなって以来初めて野焼きによるカンガルー狩りの儀式を行うことにした。
伝統知識や奥地に暮らすための術を次の世代に教える時が来た。
キャンプを設営する。
ここではどんなに簡単な作業でも、古くから伝わるしきたりにのっとって行わねばならない。
オットー「独身男性は1ヶ所にまとまる。
独身女性は母親達も一緒。」
ここには首長や王はいない。
代わりに相互関係は複雑なルールによって管理されている。
どのいとこを避け、どの兄弟と土地を管理するかなど、親族関係には100を超える分類がある。
これがアボリジニの生活の基盤。

Wade「火に関するルールやタブーのこと親族関係など、ここで見る全てが彼らの文化の構成要素。
あらゆることに規則と作法がある。」
文明には数え切れないほどの形がある。
アボリジニはこの複雑な親族関係によって、オーストラリア奥地の広大な土地で秩序と安定を保っている。
ジフリーはオットーの叔父で、彼と父親の世代を結ぶ最後の人物。
ジフリー「私達は子供から学び、子供は成長し年寄りから知識を得る。
それが私達のやり方。」

アボリジニは全ては大地から始まると考えている。
オットーによれば彼らは土地の番人であり、それは祖先から任された責任。
数万年もの間、大地と水を頼りに狩猟採集生活を送ってきた。
そうした生活を今も続けるアボリジニがいる。
土地を耕さず、家畜を育てない彼らは、狩りに失敗すれば食事にありけない。
オットーは「私に魚をお与えください。」と祖先たちにお願いしながら魚を獲る。
しかし30人以上いる一族に、肺魚がたった1匹・・・
アボリジニには、物事の正しいやり方と、間違ったやり方がある。
オットーは大切な儀式を忘れていた。
火を焚き、皆でキャンプ全体を清めることにした。
オットーの指示で木の周りに泥を塗りつける。
大地に敬意を表すためだ。
オットー「木をなでるのは、ここで魚屋ザリガニの漁をするのを許してもらうためだ。」
突然魚がかかり始めた。
土地を大切にすれば、土地も彼らを守ってくれるのだ。

成人の儀式、数年かけて行われるが、外部の人間はほとんど見たことがない。
オットーの息子の体に崇拝する祖先の絵を描く。
ニジヘビだ。
アメリカ先住民同様、アボリジニも自分の中に無数の精霊が宿っていると信じている。
精霊の役割は謎だが、彼らは息子達にドリーミングの力をふき込み、次のステップに備えさせている。
翌朝、さらに奥地を目指す。
祖先の知恵をたどるのに、トラックを使うのは奇妙に映るかもしれないが、オットーはこれを2つの道具箱によるアプローチと呼んでいる。
現代の道具を利用しながら、数千年の伝統を守っているのだ。
Tシャツにジーンズ姿でも、土地を守る古代人だという自覚を持っている。
土地に頼り、土地の手入れをし、そこに暮らす。

男達が次の教育の準備をしている間、女達が小屋を建てる。
こうした役割はアボリジニの天地創造の神話で語られている。
全てはドリーミングと呼ばれる複雑な信仰の一部。
ドリーミングについて皆に尋ねてみた。
「土地があってドリームタイムのイメージがあって、足跡と水がある。」
「蝶とか、蛇、動物の名前をつける。」
「子供達が成長したら教えるもの。」
「オオトカゲのドリーモングや太陽のドリーミングもある。」
「ドリームタイムは理解できる時と、できない時がある。」
「ドリーミングはドリームタイムの神話で祖先はそこに知恵を見出してきた。
私達の言葉ではジャン。」
答えは皆バラバラ。

外の世界の者にはその言葉を訳せないどころか概念そのものが理解できない。
オーストラリアにやってきた白人がアボリジニに当惑したのも無理はない。
18世紀末に入植したヨーロッパ人にとって先住民は石器人と変わりなかった。
彼らは文字を持たず、田畑を耕さず、進歩という文字に興味を示さない。
議会では彼らが人間かどうかという議論までなされた。
1900年代半ばまでに、アボリジニの9割が死んでしまった。
世代は失われ、民族と文化は暗く長い夜に入った。
270あった言語のうち、半分上が消えた。
それぞれがイマジネーションの宝庫であり、文化であった言語が失われた。
しかしオットーは言葉を覚え、息子達に教えようとしている。
オットー「父の霊は今も私達と一緒にいる。
身近に父を感じた時は涙がでてくる。
風とか火、あらゆるものから感じる。」

アボリジニに与えられた責任は計り知れない。
民族の文化のみならず、地球を守る使命を追っているのだ。
彼らにとって自然界と精神世界は同じ1つのもの。
時代を超越した普遍のもの。
彼らが守り続ける限り、永遠に続く楽園。
Wade「そこでソングラインという概念が登場する。
明けの明星のソングラインに向かう。
オーストラリア北部をずっとずっと行った先にある。
ソングラインとはアボリジニに代々伝わる秘密の道であると以前読んだことがある。」
オットーが我々を水路に連れてゆく。
オットー「子供の頃ここでよく泳いだ。
兄弟全員体中に泥を塗って体を冷やした。」
実用も兼ねた儀式的なマーキング、泥を塗ることで、自分も大地の一部になり、また灼熱の暑さから身を守る日焼け止めの効果もある。

いよいよソングラインを歩く。
彼らは思い出せる限りの遠い昔から祖先が残した歌と地図を頼りに、聖なるウォーキングを続けてきた。
Wade「オットーは歌いながら祖先たちに子供達を連れてきたことを知らせている。」
このソングラインは金星にちなみ、“明けの明星”と呼ばれている。
広大な奥地で方向を知るのは困難。
そこでソングラインが道標となり、彼らが進むべき方角を示してくれる。
しかもただの道標ではないとオットーは言う。
祖先の霊にまつわる一連の神話の土地を結んでいる。
その舞台は数1000kmにも及ぶ。
オットー「あそこに丘が2つある。
一番端のがここから大声で歌った死の精霊。
彼は元いた所から帰ろうとしたが、振り返るとビンゴが生えていたのでここにとどまって、自分の道具を隠す場所を探した。
手提げ袋と明けの明星のポールがあの近くの秘密の洞窟にある。」

私達が岩や木を見ている時、アボリジニはその全てに精霊を見ている。
岩にあいた穴がそうした神話の証。
明けの明星は穴を通して地位上から空へ上がっている。
オットー「明けの明星のポールを持って踊る。
ソングラインは大地を横切る地図。
海岸線を通って川に入ってゆく。
一族ごとに場所も祖先も違う。
ソングラインは秘密の地図。
例えば食べものはどこにあって、材料はどことか、精霊が恵みに導いてくれる。」
文字を持たない文化において、ソングラインは土地の記録であり、自分の起源の記録。
大陸を縦横にソングラインが走っている。
それは聖地へのルートであり、他の一族との境界線であり、人々をつなぐ道。
歩きながら歌を歌い、世界を作り出した祖先が旅した道。
水路や植物や山々に名前と生命を与えた祖先が通った道。
その足跡をたどり、同じ歌を歌うことは、天地創造の時を生きること。
歌が歌われるたびに、世界は再び創造されえる。
それを続けることがアボリジニの使命。

オットー「歌を正しく歌わないと祖先から良いブッシュマンとは言ってもらえない。
文化も知らない価値のない人間になってしまう。
そうすると祖先は虚しくなって力を失ってしまう。
ドリーミングの聖地を壊せば暮らしも壊れ、私達は無の存在になってしまう。」
全てのアボリジニにとってソングラインを歩きながら歌を歌い、世界を作り出すことは彼らの責任と義務。
ここでの儀式を行うことで、今も天地創造が起きているいう考え方は私達には理解しがたい。
つまりオットーが義務を怠れば、ドリーミングは途切れてしまう。
やめたら大変なことになる。
嵐は激しくなり、地球の豊かさは失われ、この世は大混乱、だから続けるしかない。
続けないと、その秋にあるのは破滅だけ。

ソングラインを歩いた後、オットーたちはこのたびの目的である儀式の準備を始めた。
野焼きによるカンガルー狩りだ。
アボリジニの儀式の多くはダンスから始まる。
オットー「これはカンガルー仮に一族を迎え入れるための歓迎のダンス。
ドリーミングの様々な動物がダンスでよみがえる。」
こうした儀式はここ何年も行っていなかったが、唯一通しで儀式を覚えている長老の体力が最近衰えてきた。
手遅れになる前に伝統を復活させることが、益々重要になってくる。

長い間忘れ去られ、最近になって発見された遺跡に向かう。
そこはオーストラリアの最果ての地。
もう何世紀も人が住んでいない。
壮大な自然の中に隠れているのはピラミッドや聖書より古い古代の祭祀の場。
オーストラリアの奥深くに巨大な砂岩の大地が広がっている。
アーネムランド・プラトーと呼ばれている。
何千年間もアボリジニは儀式のためにここを訪れてきた。
彼らが残し壁画は氷河期以前のものから、20世紀のものまであり、この類のものでは世界1長く続いている文化の貯蔵庫。
オッパイにしがみついた赤ん坊など、見事な壁画だが、顔料の黄土は何年も前に剥げ落ちてしまった。
岩についた黄土の酸化鉄によってもとの絵のイメージだけが残っている。
西洋では進歩を重んじるが、ここでは時間が止まっている。
彼らには地球こそが儀式によって再現されるエデンの園。

マーガレット・キャサリンは、この一体を古くから所有し、遺跡の秘密を知る人物。
彼女も数年前まではここを知らず、父親から神話を聞かされただけだった。
現在研究者が遺跡と神話を結ぶ手伝いをしている。
話を早く聞きたいが、まずは祖先達に来たことを知らせる儀式。
この祭祀の場は、創造主の精霊であるニジヘビに捧げたもの。
キャサリン「ニジヘビはあの泉にいる。
深い底に祖先は見える。
ニジヘビの傍にいたくてこの場所に導かれてきた。
そうした祖先の霊が川や大地を見守っている。
私も死んだらあそこに行く。」
彼女は父親からその神話を聞かされた。
父親はその父親から聞かされた。
こうした神話は土地の一部であり、先祖の霊と同じく岩や木にも宿っている。
キャサリン「ここへ戻ってくるといつも良い気分になる。
それはヒイヒイおじいさんの霊を感じるから。
先祖の霊はこの場所にもいるけど、私の中にもいる。
だって私も先祖の一部だもの。」
しかしここに来るお年寄りの数は年々経て散る。
昔の言葉や風習を知る人もほとんどいない。
キャサリン「私の夢と希望は子孫が文化を守り、この土地で暮らし続けること。
医者や看護師になったとしても、またいつかここへ戻ってきてほしい。
自分の文化を忘れずに、死ぬまで心に持ち続けて欲しい。
そして代々受け継いでいってほしい。」

過去との結びつきはもろいものだからこそ、オットーの役割は重要。
次の世代に伝統を継承しなければならない。
カンガルー狩りの準備も最終段階、子供達は槍の造り方を習っている。
まず竿を削り、熱して軟らかくしたらまっすぐに伸ばす。
出来上がったら試す。
こうして狩りの方法を学ぶ。
カンガルー狩りの日、土を一掴みとる。
いよいよ教育の最終段階。
アボリジニの世界では全てがそうだが、これにもいくつかの意味がある。
儀式、教訓、そして実際食料を手に入れる狩り。
ハンターたちは全身に黄土を塗る。
こうすると汗の臭いが消えて獲物に気づかれない。
しかもミネラルは祖先の肉体の名残であると考えられている。
泥を塗って祖先へと変身し、ドリーミングの教えを学ぶ。

準備が整うと、オットーは狩りの計画を立て、15人のグループを2つに分けた。
計画はこうだ。
左右から火の壁で囲み、獲物をハンターのほうへ追い込む。
出発、ペーパーバーグという繊維質の木を集め、トーチにする。
西と東に分かれ、弧を描くように展開してゆく。
獲物を罠に追い込むのだ。
アボリジニが言うように、火はハンターだが、火の役割は他にもある。
火は土を浄化し再生させ、植物の発芽を促す。
ある意味これには伝統の全てがつまっている。
狩猟、儀式、土地の管理、これらが一度に行える。
東の火の壁で問題が発生した。
すでに誰かが勝手にこの土地を焼いていたのだ。
入念な計画も台無し。
しかしオットーの息子がイノシシを発見し、狩が始まる。
オットーの槍がイノシシに命中したが逃げられた。
計画を立て直すことにした。
火が激しく燃え、煙が立ち上る。
ゆっくりブッシュを抜けてゆくと、カンガルーが・・・
カンガルーは必死に逃げる。
今こそ2つめの道具箱を開けるとき。
ライフルで撃つ。
カンガルーを2頭捕らえた。
夜はお祝い、火を囲みダンス・・・

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世界ビックリツアー Voluntourism

Voluntourism=Volunteer(ボランティア)+Tourism(観光旅行)
ナミビア共和国 野生動物保護のVoluntourism
独立:1990年
面積:約820000k屐米本の約2.2倍)
人口:約210万人
首都:ウィントワーク(Windhoek)
平均気温:20℃
時差:日本より-7時間

ホセア・クタコ国際空港から車で1時間、オカプカ動物保護区、自然環境をそのまま残す、およそ10000ヘクタールの土地に、100頭以上の野生動物を保護。
ここではエサを与えるのではなく、野性のまま生態系が保たれている。
キリンは時速60km/hで走る。
スプリングボックの死骸、水を飲みにきたところをクロコダイルに引きずり込まれ、半分食べられてしまった。

↑シロサイ
首都Winthoek、カトゥトゥラマーケット、肉のコーナー、美容室など・・・

ナミビア伝統料理のレストランにて、チャチャラ(歓迎のダンス)で出迎えてくれる。
ポリッジ(トウモロコシの粉をふかしたもの)、ンジュワ(鳥のオイル煮込み)、ンボガ(乾燥させたほうれん草を塩コショウで茹でたもの)、最後にビーンズスープ(豆の煮込み)をかけて伝統ナミビアプレートの完成。
ナミビア伝統料理食べ放題コース:80ナミビアドル(約960円)
ナミビアの人は食べる前に神様に祈りを捧げ、最後に喜びの気持ちを込めて声だし・・・
Okukuwilila:食事に限らず結婚式などの祝い事の席で唱える喜び、歓迎、幸せなどを表現する発声

1本道を車で4時間、ハーナス野生動物保護区へ。
1978年創設、ナミビアでは人間の手による狩りや密猟、自然破壊のため、野生動物の数が激減したことから、ハーナスでは動物保護活動に乗り出し、現在では30種類、およそ400頭以上の動物を保護し、野生に帰す準備を進めている。
新人ボランティア研修で、動物と接する基本的ルールを学ぶ。
Riskを伴う、相手は動物、予想外のことも起きるが、ルールを守れば大丈夫、決して動物達が攻撃的になることはない。
動物と接する時の注意:騒がない、走らない、香りの強い香水はつけない、ルーズな服装はしない、光るアクセサリーは身につけない、動物と長く目を合わせない、飲酒してはいけない・・・
保護活動は分担化され、そのチームごとにその日担当するエサ作りから始まる。
動物の赤ちゃんのためのミルク作りを手伝う。
病気や体が弱った動物には、薬を混ぜて飲ませる。
マルタ(生後4ヶ月のメスライオン)は、母親の育児放棄にあい、生まれてすぐ保護された。
生後14ヶ月のライオンのエサやりに同行、手投げでエサを与える。

↑ナミビアヒョウモンリクガメ
ハーナスでは5年前からVoluntourismが始まった。
ボランティアはロッジで4人1組の共同生活。
現在まで23の国と地域から、およそ3000人が参加している。
費用:2週間 1万500ナミビアドル(約126000円)(空港からの送迎、宿泊費、食費、保険料を含む)
動物保護をより深く理解してもらうためにも、最低2週間から参加をつのっている。
動物の世話以外にも、施設の整備まで様々な活動を行う。
オリにライオンをいれ、少し離れたセカンドエリアと呼ばれる野生環境に近い場所へ連れ出す。
生まれてすぐ両親が殺されたり、母親から育児放棄にあうなど、様々な理由でここに保護されている動物達は、人によって育てられ、人間のことを親だと思っている。
しかしそれはあくまでも一時的な親に過ぎないため、ライオンの散歩も野生の臭いを忘れさせないために、野生に近いエリアで行う。
人に育てられたライオンは、散歩中にじゃれることがあるが・・・ものすごい力。
少しずつ野生を取り戻す機械を増やし、保護した動物を1頭でも多く野生環境に帰すのが、この施設の目的。

参加対象年齢は18〜45歳、46歳以上に関しては、活動内容を相談の上、参加可能。
過去最高年齢の参加者は69歳(イギリス人男性)。
ナミビアには現在およそ3000頭のチーターが生息しているが、その数は年々減少している。
そのためハーナスではチーターの保護にもっとも力をいれている。
ゴーターズ(26歳オス チーターの寿命は平均10〜15年)、最近心臓の病気で発作をおこすので、エサに薬を混ぜている。
20年以上前、近所の農場主に射殺されそうになったところをオーナーが助けて保護した。
ゴーターズのように病気などで二度と野生には変えれない動物も、ハーナスにはいる。
明日野生に帰す準備が行われるチーター、クレオ(3歳 メス)とドゥマ(4歳 メス)、赤ちゃんの頃やってきて、エサをやりながら育て、大人になった今、野生に近い環境に連れてゆき、本能的に狩りをさせ、また連れて帰ることを繰り返す。
それが彼らを野生に帰す第1歩。

ナミビアではチーターと人間の関係は共存する上で難しい問題。
人間によって生息地を奪われたチーターは、放牧された家畜などを襲い、害獣として無差別に殺された。
そこに密猟なども加わり、今では絶滅危惧種となっている。
次の日仲良くなったクレオとドゥマを野生に帰すプロジェクトが始まる。
首輪に仕掛けた発信機を使い、広大な敷地でチーターの行動を把握する。
人間に育てられたチーターを違う環境に連れ出す場合、不安にさせないために人が一緒に車に乗り込む。
野生間環境にあるセカンドエリアに向かう。
現場に到着、発信機が正確に働くか確認し、ドゥマとクレオを放す。
人の手助けは終了、あとは決して強要せず、彼らの本能に任せる。
少しずつ自然に溶け込んでゆくクレオとドゥマ。
近くにいると中々放れないので、一旦引き上げ4時間後に探知機を頼りに2匹を探す。
信号キャッチ、クレオとドゥマは野生のオスと出会い、3頭で行動していた。
これは珍しいこと。
今日の野生体験はここまで、2匹を連れて帰る。
これを繰り返し、1頭でも多くの動物を野生へ帰す。
Voluntourismの心得〇臆談榲を明確にする。
▲椒薀鵐謄ア活動と観光の時間配分のバランスをとる。

世界の街角、路地歩き
●ブラジル バーコードの形をした横断歩道
ブラジルのショッピングセンターがセール告知のためデザイン。
5日間のセール期間限定で、地元交通局の許可を得て作った。

●オーストラリア 鉄格子に見立てた横断歩道
スピードを出しすぎると鉄格子の中に入ってしまいますよ、というメッセージが込められている。
●中国 I Love Youと書かれた横断歩道
以前からデートスポットとして人気だった場所、四川省の都市を盛り上げるために作られた。

●フランス エスカレータになりそこなった階段
由来は分からない。

●オランダ 体重を表示するバス停
ベンチに腰かけると電光掲示板に体重が表示される。
フィットネスクラブのキャンペーンで、体重を意識することで、健康を保つように、という目的で設置。

●イギリス Thorpe Parkでの禁止事項
Say no・・・to Bo・・・BO=Body Odour(体臭)
脇を露出して臭いを撒き散らすということで、気温25℃以上のときは両手を挙げてジェットコースターに乗ること禁止。
違反した人はジェットコースターを降ろされる。

普通の旅では物足りないあなたに・・・世界ビックリツアー
●アムステルダム 自転車で陽気に走ろう!
アムステルダム、パブ自転車?屋台?
こいで!こいで!飲んで!飲んで!
週末 2時間:475ユーロ(約62000円)
平日 3時間:555ユーロ(約72000円)
※観光案内してくれるドライバーと30リットルのビール付
ハンドルとブレーキはガイドを兼ねた運転手が操作
ビールを飲みながら自転車をこぐので、参加する際は怪我などに十分注意

●ロサンゼルス 健康志向のあなたに、ハリウッド・セレブ・ランニング・ツアー
ハリウッドスターの豪邸から有名映画の撮影場所、セレブ御用達のレストランなどをランニングで巡る。
90分80ドル(約7000円)
※黄色のTシャツ(「Running from the Paparazzi パパラッチから逃げています」の文字入)、フレッシュフルーツ、カップケーキ、ボトルウォーター付

●南アフリカ 賞金王を目指すあなたに ワイルドゴルフツアー
南アフリカ リンポポ州、レジェンド・ゴルフ&サファリ・リゾート、究極の19番ホール。
高さ430mある断崖絶壁の上からTショットを打ち下ろす。
崖の上まではヘリコプターで移動。
PAR3のホールとしては世界最長642ヤード(約587m)。
グリーンはアフリカ大陸形。
ホールインワンを達成したら賞金100万ドル(約9000万円)が贈呈される。
19番ホール、プレー賞金・・・1名:4150ランド(約49800円)
2名:5000ランド(約60000円)
3名:5850ランド(約70200円)
4名:6700ランド(約80400円)
●フランス 小さな体験ツアー
ナントにあるちょっと変わったホテルへ宿泊。
ハムスターの被り物、ハムスターの気分になれるホテル。
回し車をカラカラ回し、ヒマワリの種を食べ放題。
1泊99ユーロ(約13000円)

世界遺産に住もうツアー
世界遺産890件(2009年世界遺産委員会終了時点)のうち、住むことができるものは?
イタリアのマテーラ、洞窟住居(1993年登録)・・・1ヶ月家賃800ユーロ(約104000円)
モロッコのアイトベン・ハドゥ(1987年登録)・・・土でできた建物、家賃1ヶ月約30000円
オランダのキンデルダイクの風車群(1997年登録)・・・賃貸で住むことができる
イギリスのダラム城(1986年登録)・・・大学の学生寮
オーストリアのシェーンブルン宮殿(1996年登録)・・・3階4階はアパート
etc
★南イタリア アルベロベッロ、トゥルッリ(1996年登録)
まるで絵本から抜け出してきたような町では、時間がゆっくり流れ、暖かい空気に包まれている。
人々ものんびり。
15世紀末この地方に点在していたトゥルッロと呼ばれる農民の石造りの家が集まってトゥルッリができた。
尖がった屋根も白い壁も、この土地で採れた石灰岩を何重にも積み重ねて造られている。
1つの屋根に1つの部屋、これがいくつか集まって1件の家。
高い天井、中は可愛らしい造り。
町を歩けばトゥルッリのサンタントニオ境界は尖がり屋根の可愛いお土産屋さん、レストランに出会える。
ミスト・ディ・フィルマッジョ(チーズのオードブル):この地方のチーズは水分が多くなめらか・
オレッキエッテ(プーリア地方のパスタ):イタリア語で耳たぶを意味する。

2005年アルベロベッロ市と岐阜県白川村は姉妹都市を結んだ。
尖がり屋根は雨水を溜めるため。
トゥルッリ修復師は、昔から屋根に使われてきた石灰岩が今では採れにくくなってしまい、違う種類の石灰岩を使うようになり、景観が少しずつ変わってきていると嘆く。
アルベロベッロは標高420m、冬には雪景色も見られる。
フィスキエット(鳥笛)、アルベロベッロに昔から伝わる素焼きの笛。
婚約時男性から女性へお守りとしてプレゼントする習慣があった。
現在ではアルベロベッロの人気のお土産品として色々なデザインや形の笛が売られている。
ある賃貸物件の家賃は1人1050ユーロ(約14万円)、2人2100ユーロ、4人4200ユーロ、6人6300ユーロ、8人8400ユーロ。
トゥルッリの賃貸物件は日割りでも貸し出している。
30日以上借りる場合は市に賃貸登録が必要。(手数料100ユーロ)
1人1日:35ユーロ(約4550円)
敷金:家賃の1〜2か月分
不動産手数料:家賃の10%

【住人が守らなければならない規則】
・トゥルッリの新築、増築、改築は禁止
・エアコンやガス、チューブなどトゥルッリの壁に穴をあけるものの設置は禁止
・窓やドアを新しく取り付けることは禁止
・1年に1回、壁の塗り替えをしなければいけない

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クリスマスツリー物語


昔々ある冬の日、1人の少女が森へ薪を集めに来た。
明日はクリウマスイヴ。
でも貧しい家の子供達は仕事をしなければならない。
馬車がやってきた。
子供達の目が輝いている。
街で一番のお金持ちの一家がモミの木を切りにきたのだ。
昔ヨーロッパでは毎年森でモミの木を切ってクリスマスツリーにした。
少年は小さな可愛らしいモミの木が気に入った。
でもお父さんお兄さん達は、そのちっぽけな気を見て笑った。
立派なお屋敷に飾るには、大きなモミの木の方が似合う。
素敵なクリスマスツリーになるそうだと一家は大喜び。
ただ少年だけは寂しそう、あの小さなモミの木をキレイに飾ってあげたかったのだ。

クリスマスツリーの物語は、フランス北東部のアルザス地方から始まる。
ライン川に沿って山すそが広がり、多くのドイツ系の人々が暮らす地方。
クリスマスツリーが生まれたのは今からおよそ500年前。
アルザスの人々はクリスマスの季節に小さなモミの木を家や広場に飾るようになった。
あまりの人気に、森からモミの木がすっかりなくなってしまうのではないかと心配されたほどだった。
アルザスの小さな町セレスタの図書館に、16世紀の議会の記録が残されている。
1568年市民が勝手にモミの木を切ることが禁止された。
12月21日の聖トマスの祝日に、森の木々を役人が見張っていたと書いてある。
当時特別な祝いの日に飾る木をマイエンと呼んでいたが、勝手に切ることは禁止されていた。
それでも住民達はクリスマスツリーにするために、モミの木を切り続けた。
仕方なくセレスタの議会は木の数と大きさを制限することにした。
1家につき1本、高さは靴8つ分まで。
さらに1600年の議会では、クリスマスツリーの飾り方まで決めた。
クリスマスイヴに役人が切ってきた木を使い、教会のミサで使うパンとリンゴを飾ること。
リンゴは旧約聖書のアダムとイヴの物語に出てくる禁断の果実。
エデンの園を追われた人間の罪を表している。
ミサで使うパンは人間をその罪から救うために生まれたイエス・キリストを表す飾り。
アルザスでは毎年クリスマスイブに上演される芝居が人気だった。
アダムとイヴが楽園を追われる物語で、舞台にはリンゴの木が必要だった。
しかし冬にはすっかり葉が落ちている。
そこで代わりにモミの木にリンゴの実を飾った。
これがツリーの始まりだと言う人もいるが、確かなことは分からない。

冬に青々とした木を祭るのは、ゲルマン人の習慣だった。
森で神々に捧げものをしたのだ。
またローマ人達は12月25日に太陽の神の祭りを行った。
この時も緑の葉をつけた木を飾って祝った。
こうした習慣はローマ帝国でキリスト教が正式に認められてから、クリスマスの祝いに取り入れられていった。
4世紀はじめのことだ。
しかしクリスマスは何故12月25日になったのだろうか?
イエス・キリストが何月何日に生まれたのか、聖書には何も書かれていない。
神学教授クルト・クッペルス「ローマ時代のカレンダーでは12月25日は冬至の日にあたった。
これから昼が長くなるこの日、ローマ人は丘の上で太陽の神のために盛大な祭を行った。
現在バチカンのサン・ピエトロ大聖堂が建っている辺り。
一方聖書では救い主である義の太陽が昇ると書いてある。
このためキリスト教徒達はイエスこそ本当の太陽だと考え、太陽の神をまつる日をイエスの誕生日にした。」

オーストリアとドイツの国境の小さな町ゴッツドルフ、クリスマスイブにはイエス・キリスト誕生の物語を描いた降誕劇が上演される。
この町の降誕劇は伝統的な古い形を残している。
ベツレヘムの馬小屋で生まれたイエス・キリスト。
東方の三博士が贈り物を持ってやってきた。
聖書にでてくるこの物語が、クリスマスプレゼントの始まり。

少年は貧しい少女を見て不思議に思った。
どこの家でも子供達はクリスマスの気分に浮かれているというのに、どうして仕事をしているのだろうと。
客間では大人達がクリスマスツリーの飾り付けをしている。
子供達は手伝わせてはもらえず、ただ待つだけ。
それでももうすぐクリスマスだと思うと、子供達の心は弾む。
そんな心躍る子供達の様子について歌った詩。
“母の声に子供達は答えて、急におとなしくなる。
さあ練習をしてきなさい。
幼いキリストを褒め称える歌を。”
[ペーター・コルネリウス作(1856年)『クリスマスツリー』]

クリスマスツリーが生まれたアルザス地方、17世紀半ばには多くの町にクリスマスツリーが飾られていた。
しかしキリスト教にふさわしくない習慣だとして強く反対する人もいた。
ストラスブール大聖堂の説教者オンラード・ダンハウアーは述べた。
「クリスマスツリーを飾るのはくだらない習慣であり、悪魔の礼拝堂を建てるようなものだ。」
しかしもちろんクリスマスツリーの人気が衰えることはなかった。
クリスマスツリーは広場などでは地面にたてて飾られた。
しかし場所をとらないように室内では天井から吊るされた。
アルザスの教会に飾られたクリスマスツリーから、当時の様子を想像することができる。
やがて飾りはリンゴとパンだけではなくなる。
18世紀の記録にはこうある。
枝にはあらゆる種類の贅沢な砂糖菓子がかかっている。
天使、人形、動物の形で美しく調和している。
クリスマスツリーを照らしたロウソクは、当時はとても高価なものだった。
クリスマスツリーはやがてアルザスからドイツの各地へ伝わっていった。
初めにこの習慣を取り入れたのは貴族達。
その頃貴族の世界に飛び込んだ若き詩人ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテは、ストラスブールを訪れて、ツリーのとりこになった。
有名な『若きウェルテルの悩み』にも、次のような1節がある。
“ちょうどクリスマスの前の日曜日、彼はその晩ロッテの家に行った。
ウェルテルは昔ふいに扉が開かれると、ロウソクやリンゴで飾りかけた木が現れて、それを見て天国にでも入ったように有頂天になったことなどを話した。”

19世紀に入り、クリスマスツリーは益々ドイツの人々の心を捉えていった。
1822年あるどんよりと曇った冬の日、ゲーテはクリスマスイヴに発表する詩を書いた。
およそ50年、ゲーテは70歳を越えてもまるで子供のようにクリスマスツリーの美しさに見とれていた。
“輝く金、まばゆい金、砂糖菓子の香り漂う喜びに溢れ、老いも若きも心が弾む、ありがたい祈りの季節。
美しく飾られた数々の贈り物、何度繰り返し眺めても、上にも下にも目を見張る。
[ゲーテ作(1822年)『若きウェルテルの悩み』]”
19世紀初め、豊かになりつつあったドイツの中流階級の家庭に、室内装飾や工芸品が流行した。
クリスマスツリーは幸せを願う人々の夢を映し出した。
しかし同時に豊かさをひけらかす自慢の種にもなった。
贅沢なクリスマスツリーがもてはやされた。
砂糖菓子ではなく、厚紙でできた派手な模型が飾られた。
ウォルフラム・メツガー博士(バーデン国立博物館)「人々はクリスマスツリーの下に置いてあるプレゼントに似せて作った模型を飾りたいと思うようになった。
工業化と技術革新が進み、こうした飾りも安く大量生産できるようになった。
おかげで中流の家庭でも手が届くようになった。
中流階級は社会の中で大きな力を持ち始めていた。
贅沢なクリスマスツリーの飾りからは、そんな時代の自信に満ち溢れた勢いを感じることができる。」

同じ頃、ドイツの山深い小さな村が一躍有名になる。
クリスマスの贈り物や飾りにつく木のおもちゃが作られるようになった。
Seiffen村は今でも木の玩具の村として知られている。
およそ200年前、独特な旋盤が発明されたことにより、小さな木の玩具が素早く大量に安く作れるようになった。
この地方の人々は、古くは鉱山で働いていたが、鉱山が衰退すると、生活はとても苦しくなった。
そこへ旋盤が発明され、村人達に新しい仕事をもたらした。
当時都市に暮らす中流階級の人々は、手ごろな値段で木の利いたクリスマスプレゼントはないかと考えていた。」

1824年この村を訪れたある旅人が書いている。
“男達は旋盤を回し、女や子供達は木を彫り、色を塗り、それぞれの家でとくいな玩具をいくつもいくつも作り続けている。
[旅人の手記(1824年)]”


クリスマス用の飾りや玩具が売られた町のクリスマス市場、各地から様々な工芸品が集まった。
ドイツ東部チューリンゲン山地、クリスマスを飾るもう1つの特産物の故郷。
昔から夜町を見下ろす峠に立つと、蛍のような明かりが見えたという。
ガラス職人が使う青白い炎の色だった。
19世紀石灰石や石英など、ガラスの原料がこの地域で発見されて以来、ほとんどの住民がガラス細工で暮らしを立ててきた。
しかし初めは誰もクリスマスツリーの飾りを作ることは思いつかなかった。

ヘルムート・グライナー・ニペッター(ガラス職人)「19世紀半ば、クリスマスツリーを飾るガラス玉がこの町で初めて作られた。
当時この辺りでは、果物や木の実を飾っていた。
しかし多くの人がクリスマスツリーを飾るようになり、果物が足りなくなった。
その頃小さなガラスのビーズを作っていたが、これをもっと大きくしてクリスマスツリーに飾るガラス玉が生まれた。」
クリスマスの楽しさを映し出すガラス玉の輝き、しかしガラス玉つくりは楽な仕事ではない。
強い臭いがする薬品を使い、1日に1000個も作ってやっと一家が生活できる。
20世紀になっても、子供達が小さなガラス工場で働いていた。
出来上がったガラス玉は、険しいチューリンゲンの山道を女性達が運び、大都市の商人達に届けた。

クリスマスのミサが終わった。
家に帰ればプレゼントが子供達を待っている。
「この玩具を買ってください。」
凍えるような寒さの中、小さな声で古びた玩具を売っていたのはあの少女。
少年が差し出した、たった1本のロウソクの日も、少女にとっては暖炉のように暖かく感じられた。
“今日は1年に1度のクリスマス。
ロウソクの明かりの中に響く小さな歌声が聞こえますか?
あの楽しげな子供達の笑い声が聞こえますか?
幼い頃を思い出すでしょ、クリスマスツリーを眺めていると。
[アダ・クリスティ作『クリスマスツリー』]”
召使達にもプレゼントがある。
ご主人様からは銀貨、奥様からは古着のコートや上着、何百年も前から続くドイツのクリスマスのしきたり。
豊かな人もそうでない人も、クリスマスツリーは全ての人のクリスマスを見守ってきた。

チューリンゲン山地の程近くに小さなザクセン・コーブルク・ゴータ公国があった。
クリスマス好きだった子の国の王子アルバートにとって、宮殿のような屋敷で過ごす冬の日は退屈でしかたなかった。
でも1つだけ待ちきれない楽しみがあった。クリスマスだ。
屋敷には砂糖菓子や小さな玩具で飾られたクリスマスツリーもあった。
幼い日々のクリスマス、アルバートは一生その思い出を忘れることはなかった。
両親が離婚したため、幼いアルバートは父親の手で大切に育てられ、父親と過ごした屋敷や故郷を深く愛していた。
ビクトリア女王と結婚してイギリスへ渡ると、孤独に感じることも多く、子供の頃クリスマスのソリ遊びで過ごした故郷のことを懐かしんだ。
アルバムを見ると、ザクセン・コーブルク・ゴータ公国の一家がクリスマスを過ごした部屋に、クリスマスツリーと子供達のプレゼントを載せたテーブルがある。
子供達にはそれぞれテーブルがあった。
1840年アルバート公はイギリスのビクトリア女王と結婚、女王一家は騒々しいロンドンから遠く離れたワイト島に別荘オズボーン・ハウスを買った。
女王一家はクリスマスの休暇を、この別荘で過ごした。
そしてアルバート公の強い希望によってここにクリスマスツリーが飾られることになった。

“クリスマスツリーを飾るという習慣には、まるで詩のような素晴らしさを感じます。
飾り付けるのはとても大きな喜びでした。
ずっと向うの部屋からでもツリーの輝きが見えました。
この華やかなクリスマスツリーの清らかな輝きを、子供達はいつまでも見飽きることはありませんでした。
[ビクトリア女王の手紙]”
母親もドイツ出身で、女王は若い頃からクリスマスツリーを知っていた。
母親と夫を通じて親しんだこのドイツの習慣を、女王は心から愛していた。
女王は菓子職人に命じて作り物のクリスマスツリーも用意させた。
本物のロウソクをつけ、小さなプレゼントや玩具のような飾り、シナモンなどを吊り下げた。
女王は皆に贈るプレゼントもツリーの下に並べた。

イギリス国民の間にはまだクリスマスツリーを飾る習慣はなかった。
イギリスのクリスマスといえば、スモモを使ったケーキ、クリスマス・プディングだった。
伝統的な作り方ではスモモの他に12種類の材料を使う。
これはイエスと12使徒達を表している。
よく混ぜ合わせたら、鍋やボールに入れる。
そしてオーブンでじっくり蒸すこと5時間、最後にブランデーにひたして出来上がり。

チャールズ・ディケンズが“かわいいドイツの玩具”と呼んだクリスマスツリー、クリスマス・プディングに負けないほど、イギリス人の間で人気がでたのは1848年、ロンドン・ニュース新聞の記事がキッカケだった。
ビクトリア女王とアルバート公一家の絵が載り、イギリスの中流家庭にクリスマスツリーが広まるキッカケになった。
王室では1800年に開かれたクリスマスパーティーでクリスマスツリーを飾ったことあるが、国民に影響することはなかった。
新聞記事を見て国民がクリスマスツリーを飾るようになったのは、女王とアルバート公の人気が高かったから。
当時の中流階級家庭の家を再現した部屋、家具や装飾、ピアノなどなんでも女王夫妻の真似をした。
1850年代の典型的なクリスマスツリーを再現したもの、緑の葉がついた枝にキラキラとした楽器、玩具、小さなお菓子のカゴなどが飾られた。
初めはドイツの習慣の通りモミの木だったが、やがてエゾマツなど、もっと安い木に替わった。
おかげで貧しい家庭でもクリスマスツリーを飾れるようになり、イギリス中に広まった。

1861年12月、アルバート公が腸チフスのために亡くなった。(42歳)
女王は愛する夫に捧げる記念碑や豪華な建物を建てた。
そして81歳で亡くなるまで、40年間一生喪服を身につけることになった。
アルバート公が亡くなってからも女王は、ほとんどのクリスマスをオズボーン・ハウスで過ごしたが、アルバート公と過ごした幸せなクリスマスを思い出すのが辛かった。
1890年に新しい大きな広間ができてからは、ずっとその部屋でクリスマスを祝うことにした。
室内の装飾は全てインド風に統一され、インディアンルームを呼ばれていた。
プレゼントを載せたテーブルが部屋中に並んでいた。
飾りや明かりでいっぱいの大きな作り物のクリスマスツリーがあった。
そしてもう少し小さな本物の木で作ったツリーもあった。

19世紀のドイツからイギリスに伝わったクリスマスツリー、20世紀に入ってからもクリスマスツリーがこの2つの国の人々を結びつけたエピソードがある。
第一次世界大戦が始まった1914年のクリスマスイヴ、ベルギー西部イーブルの戦線、イギリス軍とドイツ軍が塹壕を掘って睨み合っていた。
その間はわずか40m、いつもなら家族で過ごすクリスマス、兵士達は故郷を思い、涙に暮れたという。

初めドイツ国民は熱狂的に戦争を支持していた。
誰もがこの年のクリスマスまでには戦争は終わると信じていた。
しかし戦いは激しく、ドイツ軍もイギリス軍も多くの犠牲者を出していた。
そしてクリスマスが近づいても殺し合いはいつ終わるとも知れなかった。
兵士達はクリスマスカートやプレゼントを戦場で受け取った。
“全てがちぐはぐな、奇妙なクリスマスだ。
周りには銃声が響いている。
その中で私達は故郷から送られてきたモミの木を飾り、皆で素敵なクリスマスの歌を歌った。
[ドイツ兵の日記]”

わずか40m先でイギリス軍の兵士達は耳を疑った。
凍りつくような風にのって、『きよしこの夜』のメロディが聞こえてきたのだ。
イギリス軍の兵士の間でも、クリスマスキャロルが響いた。
ドイツ軍の兵士が塹壕から出てきた。
銃声はいつのまにかやんでいた。
イギリス軍とドイツ軍の兵士達は、銃を置き、クリスマスツリーを立て、プレゼントや写真を交換した。
翌日にはサッカーをする兵士達もいたという。
クリスマスの休戦として名を残すことになる出来事だった。

クリスマスツリーの傍で兵士達は一緒に『きよしこの夜』を歌った。
オーストリア、ザツツブルグに近いオーベンドルフ、『きよしこの夜』はさこの小さな村で生まれた。
作詞はオーベンドルフの助任司祭ヨーゼフ・モーア、作曲はオルガン奏者のフランツ・グルーバー。
メロディは子守唄のように耳に残り、歌詞も優しい言葉で書かれている。
生まれたばかりのイエスと母マリアを歌った心安らぐ極。
初めて歌われたのは1818年12月24日、クリスマスイブの礼拝で、オルガンではなく1本のギターを伴奏に歌われた。

↑きよしこの夜教会
Stille Nacht! Heil'ge Nacht!Alles schläft; einsam wacht Nur das traute heilige Paar.
Holder Knab' im lockigten Haar,|: Schlafe in himmlischer Ruh! :|
静かな夜 聖なる夜 目覚めているのは親愛なる聖母と御子だけ
巻き毛の救い主よ 眠れ 聖なる静寂の中で♪
オルガンを使わなかった理由について言い伝えがある。
教会に住んでいたネズミ達がオルガンをかじって壊してしまい、グルーバー達はギターでできる歌をあわてて作ったというもの。
しかし本当は・・・
礼拝の中で赤ん坊のイエスの人形を馬小屋の模型に寝かせるという儀式があるのだが、その時に歩きながら歌うので、持ち運びできるギターを伴奏にした曲を作った。
19世紀半ば『きよしこの夜』はドイツ各地で歌われるようになった。
そしてドイツからこの歌は世界中へと広まっていった。

アメリカ、シカゴ19世紀半ば、多くのドイツ人がアメリカに移住し、この都市に住み着いた。
移民たちと共にクリスマスツリーもドイツから海を渡ってやってきた。
そしてシカゴから、クリスマスツリーはアメリカ中へと広まってゆく。
クリスマスツリーだけではない。
様々なデコレーションがアメリカの家々を飾るようになった。
1840年頃、アルザス地方からシカゴへやってきたドイツ系移民のデーリンハルト一家、自由という夢を求めてアメリカへ来たものの、苦しい生活が続いた。
1845年のクリスマスツリーのこと、一家はあることを思いつく。
アルザスの家と同じようにクリスマスツリーを飾ることにしたのだ。
デーリンハルト家のクリスマスツリーは近所の移民達の間で評判になったという。
そして次の年のクリスマスには、どの家にもクリスマスツリーが飾られていた。
ただ飾りつけだけはアメリカ式になった。
リンゴではなくポップコーンだ。
ミシガン州フランケンムース、ドイツ系の移民達が多く住み、今でもドイツの伝統を受け継いでいる。
ミラーさん一家、プレゼントの時間になると子供達はクリスマスツリーに飾られた飴をもらう。
プレゼントもドイツ式。
サンタクロースが暖炉のわきの靴下に入れてくれるのではない。
赤ん坊の姿をしたイエス・キリストがクリスマスツリーの下に置いてくれることになっている。
フランケンムースには世界最大のクリスマスツリー用品の専門店がある。
店主ウォーリー・ブロナー「今年の新しいおすすめ商品は歌うツリー・パトー」

クリスマスビジネスは19世紀以降アメリカで急成長を遂げた。
しかし1929年アメリカ経済を大恐慌が襲う。
貧しい家庭の子供達はクリスマスを楽しむこともできなくなった。
そんな中ある大手の自動車メーカーが社員の子供達にプレゼントを送った。
その様子を伝えるPR映画では、サンタクロースが活躍する。
すべての社員の家にサンタクロースがやってきた。
クリスマスの朝、子供達の靴下はプレゼントでいっぱい。
サンタクロースはアメリカで様々な企業の宣伝や広告に使われるようになってゆく。

赤いコートに白い髭、アメリカでサンタクロースが人気になるキッカケを作ったのはクリスマスツリーと同じく19世紀のドイツからの移民だった。
トマス・ナストは19世紀半ば、ドイツ南西部からアメリカへ移住した。
しかしナストはアメリカの生活になかなか馴染むことができなかった。

ほとんど英語もできなかったナストはイラストで自分の思いや考えを表現するようになった。
ナストは雑誌の風刺漫画家として一躍有名になる。
その鋭いペン先は、不正を働く政治家を攻撃した。
南北戦争の間は奴隷制をとるアメリカ南部の州を批判した。
そしてアメリカの国を表すキャラクター、アンクル・サムの姿などを考案した。
ナストはお馴染みのサンタクロースを生み出す。
ナストはドイツに伝わるクリスマスの物語に登場する人物からサンタクロースのイメージを作り上げていった。

ナストの心には故郷ドイツの思い出があった。
とくに子供の頃に見聞きした伝説上の人物、ペルツ・ニッケルに思い入れがあった。
ペルツは杖を持ち、毛皮を着た老人。
赤ん坊の姿のイエスがプレゼントを配って歩くときにお伴をすると言われている。
いつも優しいわけではなく、悪戯な子供を杖で叩いて叱る。
ナストはペルツ・ニッケルを基に何度もサンタクロースを描いている。
1890年にはクリスマスのイラスト集が出版された。
様々な格好のサンタクロースの絵があるが、煙突からやってくるものもある。

ニューヨーク世界最大のクリスマスツリー。
1931年建設中だったロックフェラーセンターの前に電飾がついたクリスマスツリーが初めて立てられた。
アルザスでクリスマスツリーが生まれてから500年、現代のクリスマスツリーは25000個の電球が灯されている。

クリスマスの夕食も終わり、クリスマスツリーの明かりも消えた。
少年の家族は皆眠りについている。
しかし少年は眠れない。
こっそり屋根裏部屋に上がった。
その時少年は素敵なことを思いついた。
古くなったクリスマスツリーの飾りを見つけたのだ。
少年は貧しい少女にそれを見せた。
少年はあの小さなモミの木が忘れられなかった。
小さなクリスマスツリーをロウソクの火が照らす。
2人の心にも暖かい火がともった。

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Light at the Edge of the World☆Magic Mountain

カリブ海に面した霊峰の麓の国コロンビアはコカインの密輸と内戦で荒れ果てた。
しかしその頂には偉大な古代文化の子孫が暮らしている。
かれらが長きに渡って大地を見守ってきたという。
それはどういう意味なのか?
文化を守り続けられる秘密とは何なのか?

Wade Davis「35年前、コロンビアに来た時、先住民の人々と出会った。
それ以来彼らに思いをめぐらせている。
彼らはコロンビア北部の平地からほぼ6000m高い山の上に住んでいた。
自らを兄と呼び、古代南アメリカで栄えた平らな文化の後継者と名乗っていた。
兄達は訪問者を好まないが、今回彼らの方から招待された。」
サンタマルタはカリブ海に面した町。
ここが兄達が待つ山への出発点。
サンタマルタはいろんな顔を持つ町。
明るく騒々しく、活気に満ちている。

この現代的な港湾都市は、ほぼ500年前のスペイン人の入植に始まった。
しかしこの美しく古い植民地は、暗い過去を秘めている。
裏通りは16世紀に始まる恐ろしく血なまぐさい南アメリカの征服劇の足がかりになった場所。
コロンブスのアメリカ大陸発見から10年も経っていない1501年、スペイン人たちがもう海岸にやってきていた。
1599年にはここの総督がタイロナ(Tairona)の大虐殺を始めた。
新世界の征服の歴史でも飛びぬけて残虐なもので、子供は犬に食わせ、女達は焼き殺し、男達は八つ裂きにするか、手足と体がバラバラになるまで引きずり回した。
でもタイロナはなんとか生き残った。
ほんとうにそうなのか?
タイロナは確かに古代アメリカ大陸に存在した偉大な先住文化の1つだった。
千年以上前に彼らが造った都市や道の名残がコロンビアの海岸線に沿って残っている。
そのような古代文化が21世紀の今も行き続けているというのはありえることなのか?
もし残っているなら、いかにして文化を伝え続けてこられたのか?

タイロナの人々は南アメリカでも最高れべrの金細工を作った。
規模でなく完成度で比べれば、マヤやインカ、アステカにも匹敵する。
もし兄達がその文化の後継者なら、古代アメリカ大陸の高度な文明を知る最後の手掛かりになるだろう。
彼らはこの町の背後にそびえるSierra nevada de Santa Martaで暮らしている。
北コロンビアの海から程近いこの山は、海岸線のすぐ近くの山としては世界最高峰。
カリブ海の温かい水で洗われる山ろくから雪をかぶる峰峰まで、この壮大な山は南アメリカの小宇宙だといえる。
ここには南アメリカの全ての生態系と、全ての問題が凝縮されている。
何10年もの間、この人里離れた谷には、右翼的な民兵組織からコカイン商人、そして悪名高い共産ゲリラのコロンビア革命軍まで、数多くの武装グループが割拠している。
近年にはこれらの非合法組織とコロンビア政府軍の間で、血で血を洗う戦闘が繰り広げられた。
つまりこの山は、危険を覚悟して登らなければならない。
しかし今は束の間の静けさが戻っているので兄達に会うチャンス。
今回この山の極高いところにある凍えた谷、パロモまで行こうと考えている。
部外者でそこまで行った者はほとんどいない。
山の高みに近づくには、麓に散在する埃っぽい村々を通らなければならない。
1599年の大虐殺を最後に、山の民は絶えてしまったかと思われた。
歴史書にはその後200年に渡り、一切の記述がない。
しかし19世紀になって、この山を歩いた旅行者が神官に率いられた白装束の不思議な部族がいることを報告した。
その最大のグループは自らをアルワコ(arhuaco)と呼んだそうだ。

アメリカでもっとも特筆すべき先住民の領域。
道路は三合目くらいのところにあるナブシマケというふるい宣教師の村で終わる。
もしさらに登ることが許されれば、ここから先は足とラバに頼るしかない。
待っていてくれたのはアルワコのダニーロ・ビラファーニャ。
ナブシマケはアルワコの世界への入り口。
玉石と白干レンガでこの村を造った宣教師達は、30年ほど前にアルワコ達に追われ、この地を去った。
21世紀とは思えないたたずまい。
皆アルワコの伝統衣装である真白の服と、編んだ袋を身につけている。
男性達は南アメリカの高知に生える神聖な木、コカの葉を交換しながら挨拶する。
彼らは仲間内ではタイロナの言葉に近い独自の言葉を話す。
同化政策はアルワコの望む道ではない。
現在アルワコ族の人口は約20000人、そのほとんどは村とナブシマケの上にある自分の畑を往復して暮らしている。

暖かな山の麓では、料理バナナや胡椒、あるいは熱帯産の芋キャッサバを育てる。
一方もっと高地では、寒さに強いジャガイモやタマネギ、雑穀などを育てる。
また彼らは植えられるところならどこでも力と美の源であるコカの木を植える。
この葉っぱを工業的な規模で化学的に処理すれば、コカインができる。
しかし口で噛む分には穏やかな嗜好品でしかない。
Davis「35年前ここに来たのは、コカの葉を研究するためだった。
当時この植物はほとんど未解明だった。
70年代中程くらいまで、成分分析すらされず、私と同僚が初めてハーバードの植物学博物館で研究し、驚くような結果を得た。
確かに少量のコカイン塩酸塩を含むが、それ以上にビタミン類の宝庫だった。
その上高地での炭水化物の消化を助ける酵素を含むので、ジャガイモなどの根菜類に頼る南アメリカの山で暮らす人々の食事にはピッタリ。
なのでコカの葉はドラッグとは違う。
コカは食べ物、葉を噛んでもコーヒーほどの刺激もない。」
アルワコでコカの葉を詰めた袋とポポロを持っていない人はいない。
ポポロは焼いて砕いた貝殻を詰めた瓢箪。
貝殻の粉は炭酸カルシウム。
これはコカの葉の成分の吸収に役立つ。
コカの葉を収穫するのは女性、それを噛むのは男性。
アルワコでは男性と女性の役割分担がはっきりしているようだ。
袋を編むのは女性、帽子を編み、衣服を織るのは男性。
アルワコの人々は、この男女の区別とバランスが全ての世界を形作ると信じている。
それは創造神セランクワとその偉大なる母によって定められた物事の掟。
この偉大なる母が自然のあらゆるものに心を配れと命じ、アルワコ達はそれを掟と読んでいる。
このような考えが数百年に及ぶ紛争を経ても、まだ行き続けていることは奇跡のようだ。

ダニーロ「私達の土地はキリスト教会、そして占領と植民地化、そのあとは政府の植民地化によって縛り付けられてきた。
今はそれが仲間以外の誰も敬わず、認めようとしない暴力組織の手に移っている。
だから私達はずっとそういった争いの隙間を縫うように、どの側からも攻撃されないように生きてきた。」
ダニーロはアルワコの歴史が暴力からの逃避の連続だったと話してくれた。
それを率いてきたのは神官であるマモ達。
マモの長に呼ばれた。
マモクンチャは控えめで穏やかな人柄、場所を変えて話をしたいというので、近くの丘に行くことにした。
マモクンチャ「よその人がここへやってきて、撮影するのを好まないことを分かってください。
それは弟達が私達が何者なのかを知らないとすれば、私達を敬える道理がないから。
そして弟達は偉大なる母が私達をおきての守護者にしたことを知る由もない。
弟達はそれを知らないので、この大地を壊し続けている。」
マモ達は自らをこの世界の守護者だとみなしている。
そして彼らの儀式は生命の均衡と繁殖を守っている。
彼らは私達弟にそれを知らせ、彼らがしていることを敬い、その言葉に耳を貸すことを望んでいる。
マモクンチャ「祖先たちは言っている。
いつの日か、弟達は目覚めるだろう。
ただし荒ぶる自然がまさに自分達を打ちのめそうとする、その時までは目覚めない。
ならば私達は何をすべきだろうか?
私達は争いには加わらない。
私達はただ分からせたい。
弟達は理解するだろうか?
それは分からないが、私達はここで全ての世界が聞いてくれることを望みながら、カメラに向かって全てを語りかけようとしている。」

マモクンチャは数日のうちに、若い神官を何人か連れて高地にある聖なる湖に巡礼に行くという。
それは兄達の世界の中心コモエタタにパラモを訪ねる旅。
撮影隊と機材を高地に上げるのは難しい。
人類学者でもあるグレアムがアルワコ達とラバのキャラバンを仕立てた。
初日は標高約1200〜3000mまで登る。
Davis「高みに登ると雄大な景色が広がるが、危険も高まる。
ふもとの政府軍や民兵と、上の方にいる左翼ゲリラのコロンビア革命軍はにらみ合っている。
私達は聖地に向かって登っているので、ゲリラを警戒している。」
森林限界を越えて草地にたどり着くと、下界の憂さは忘れ去ってしまう。
高い峰峰と雄大な雲が広がるアルワコ達だけの静寂の世界に分け入ったようだ。
ようやくその夜を過ごす牧場に着いた。
急速に冷え込む中、アルワコ達は火を囲み、これからのことを話し合う。
この巡礼の先達はマモカミーロ。
2人の若いマモ達に供物の捧げ方や正しい祈り方、山の精霊に対する心構えなどを指導する。
翌朝マモカミーロは後輩に供物を見せた。
ふもとの海と暑い平地の幸をトウモロコシの皮でくるんだもの。
カミーロはふもとの幸を高地の湖に捧げ、代わりに寒い山の幸を海に捧げるのだという。
アルワコは、巡礼と供物で天界と下界をつなぎ、それらが互いに依存しあう精神的な統一の世界を作り上げようとしているようだ。
しかしこの精神的な世界は実は、現実世界に投影したものだと分かった。

Davis「これはこの山脈全体に広がる高地と低地の物々交換システム。
ここには作物が山のようにある。
豆とトウモロコシ、カネラという砂糖の原料にする樹皮、低地のカボチャ、料理バナナ、ユッカ、ソラマメ、高地の紡いでいない羊毛やジャガイモ、岩塩・・・
これらの物産は彼らの作物と交換したもの。
その証拠に表にタマネギ畑がある。
これがここの経済システムで、ここでは商品が上下に移動する。」
つまりアルワコは交換と奉納を通じて物質世界と精神世界をひとつにまとめあげているのだ。
彼らはこの湖への巡礼が、遠い祖先タイロナの頃から続く慣わしだという。
4000mまで登ったころ、ススキの類や潅木などの高山植物と、大きな岩が続くパナモに入った。
兄達の聖地に続く道だ。
ついに雪をかぶったシエラ・ネバダが見えてきた。
標高約6000m、コロンビアでもっとも高い山々。
聖なる湖に近づくにつれ、山の平和が私達を包む。
静寂の中を進み、弟達の世界は無限の彼方に遠ざかるように思える。
地平線の向こうに日が沈む頃、パナモ荒れた斜面に小さく張り付くようなアルワコの村に着いた。

Davis「コロンビア革命軍の兵士が2人、私達を探して一昨日ここに来たことを知らされた。」
なぜかゲリラにこの旅のことが知れ、私達を待ち構えているようだ。
対策会議が開かれた。
できるだけ早く山下りなければならない。
でもどうやって?
マモ達は静かに精霊の声を聞く。
すぐに答がひらめいた。
日暮れと共に出て、普段全く使わないルートを夜通し下るのだ。
しかし巡礼の一行と離れ、奉納のパガメントスを見られなくなるので、カメラマンだけが残り、聖なる湖で執り行うパガメントスを撮影することになった。
暗闇の中、ラバに乗って危険な参道を下る
アルワコの先導で、絶壁と凍えた道を進んだ。
夜明けからまもなく、中腹まで下りることができた。
ここはもう政府軍の守備範囲で、ゲリラも追ってはこないはず。
しかし危機はこの先に待ち受けていた。
Davis「夜通しかけ下りてきた。
5:30頃火が出たのだが、その時は雲に覆われたシエラ・ネバダを見渡せる尾根を越えかけていた。
ほっと一安心というところだったが、急にコロンビア革命軍の兵士達が左の下の方から登ってくるのが見えた。
まだこっちを見つけてはいなかったようで、逆行で見えないことを祈りながら、あわてて尾根の反対側を下った。
その後は一目散に駆け下りた。
今は最後の尾根を越え、ナブシマケの谷を見下ろすところまで来たので一息ついている。
ところがナブシマケに着くと、政府軍が駐屯していた。」
コノンビア革命軍に対する大規模は軍事作戦に巻き込まれたようだ。
巡礼の一行が気がかりでならない。
山から下りてきたら、今度は海への奉納へついていこうと考えていた。
それにしても軍がいるところで撮影を続けるのは難しい。
かといって何もせずただ待っているわけにもいかない。

コロンビア革命軍と出会ったことで、アルワコが何に耐えてきたのか、その一旦が垣間見えた。
そこで首都ボゴタでシエラ・ネバダの歴史を解説してくれる人を探した。
社会学者アウグレード・モラーノは、彼らを何年も研究している。
モラーノ「全ては1950年代に国内の暴力を避けて、何千人という農民がシエラ・ネバダの山中に難民という形で逃げ込んだことによる。
彼らが先住民達の居住地にどんどん入っていった結果、先住民たちはさらに高地に移動することを余儀なくされた。
ところが山ろくに押し寄せた農民達を、今度は地主達が圧迫し、追い出し始めた。
ということでシエラ・ネバダは一種の上昇気流の嵐のような状態になり、人が上へ上へと上がるようになり、暴力が吹き荒れた。」
70年代になると、そこに麻薬が加わり、暴力がいっそう凄まじくなった。
この麻薬密貿易では、コロンビア人が悪く言われるが、そもそも外国人が始めたこと。
モラーノ「あの山に最初に入ったドラッグは大麻、それからそれをアメリカに密輸しようと麻薬業者達が来た。
彼らの多くはベトナム帰りのパイロットで、大麻の闇市場を知っていた。
彼らが18世紀来、シエラ・ネバダを根城にしていた密輸業者と結託した。
コカインはその後。」
この麻薬密貿易アメリカ人起源説は、必ずしも主流ではないが、コロンビアの麻薬製造は、そのほとんどがアメリカとヨーロッパの需要によるもとであることは確か。
この需要が麻薬業者だけでなく、民兵組織や左翼ゲリラにも莫大な利益をもたらしている。
従って今もコロンビアをアルワコを飲み込んでいる暴力は、単に国内問題ではなく、グローバルな問題なのだ。

マモカミーロと2人の若いマモは、ようやく奉納の儀式を行う聖なる湖に近づいている。
この標高では、ほぼ絶え間なく強い風が吹くが、アルワコ達はそれを“偉大なる母の息”と呼んでいる。
パラモの希薄な大気の中では、彼らは至る所に母の存在を感じるようだ。
とうとう着いた。
カミーロ「ここで動物や草木、そのほかあらゆる命を守ってくださる偉大なる母に捧げ物をする。
この湖には偉大なる母を守護する精霊が住んでいて、偉大なる母が定めた掟が守られているかどうかを確かめている。」
若いマモは海から綿、貝殻、熱帯植物の豆を持ってきた。
綿を手にして祈る。
綿はそれを紡ぐ方法を人間に教えてくれた偉大なる母の象徴。
母は自分が織り上げたものを全て守り伝えてゆくよう命じた。
それが掟だ。
指先を回すしぐさは偉大なる母がこの宇宙を紡ぎ出した時を再現するもの。
カミーロ「世界の命と万物の精霊が絶えないように、命を紡ぎ続けるために供物を捧げる。
山の兄達は全て今どこに暮らしていようとも、偉大なる母と話すためにここにこなければならない。
もっとも良き物を、もっとも汚れのない思いと共に植え込む。」
奉納の儀式が終わるとパナモにしか生えないエスプリティアの葉を集める。
今度はこれが山を下り、海への供物になる。
彼らほど周囲の自然に共感しながら暮らす民族はいないかもしれない。
白い帽子をかぶるのは、山の頂が雪をかぶるのを敬いながら真似ている。
片時も放さないポポロには、海の貝殻が入っている。
アルワコは常に世界の対極をつなぎ合わせようとしている。
とうとう出発の時、神々とコカの葉を交換するように、コカの葉をまいて山の精霊に挨拶をする。
聖地を後にナブシマケと弟達の世界に戻ってゆく。
現代によいてこれほど敬虔な生き方をする場所が他にあるだろうか?

政府が兄達をどう思っているのか知りたくて、前防衛大臣で大統領候補ラファエル・バルド氏を訪ねた。
バルド「彼らは平和的で懸命な先住民族なので、国内でも極めて尊敬されている。
パストラーナ大統領が初めて就任した時、マモ達を表敬訪問した。
コオンビア大統領は5〜6年前から、皆就任後にシエラ・ネバダまで特別な旅行をしている。」
近年兄達は明らかに国の平和への希望のシンボルになっている。
しかし政治的なリーダーのロヘリオ・メヒアは殺戮の時代は終わっていないという。
メヒア「2002年に共産ゲリラと民兵組織、政府軍の戦闘が一番激しかった時には、2000人が殺された。
マモ達や指導者達がゲリラに暗殺された。
民兵組織もアルワコを48人、カンクアモスを360人、コニスを60人殺した。
最近はむしろ先住民族の殺害が増えている。
でも負けない。」
自分達の世界が壊されることを猶予するのは当然だが、アルワコ達はそれ以上に世界を守る責任を大きく感じている。」
マモカミーロ「セランクアは4つの部族を残し、この4つの兄達にこう言った。
弟達は自然からの仮は返さなければならないことが理解できない。
コカの葉を噛むことを知っているお前達が弟達に代わってその仮を帳消しにしてやらねばならないのだ。」
Davis「この旅を始めるにあたって、古代タイロナ文化が21世紀まで残っているなどということがありえるのかと思っていたが、それは愚問だったと感じられる。
どのような文化であれ、何百年もの間変わらないということはない。
では兄達はタイロナが歩んだ道筋の延長線上を歩んでいるのだろうか。
それは確かだ。
この伝統が行き続けている理由の1つが、それが周囲の暴力から身を守る、唯一の手段だからだと思う。
恐らく彼らは祖先の文化をより研ぎ澄まされたものにしたのだろう。
歴史に残るタイロナは、スペインに武力で対抗したほど好戦的な民族だった。
兄達はその先鋭的な文化を、献身的に平和につくす文化に変えたのだ。」

神聖なパラモの植物の葉を携え、数日の旅を続けた巡礼の一行は、ようや海岸に着いた。
彼らは交換と奉納の大きなサイクルを完成しようとしている。
それは彼らが、彼らの世界だけでなく、全ての世界を生かし続けると考えるサイクル。
その使命に対する献身的な努力に驚きを禁じえない。
何世紀にも渡って兄達が母なる海に供物を捧げた。
この神聖な岩の真上には、今ディスコや高層ビルが建った。
しかしそれらは彼らを止められない。
だがこの21世紀という困難な世界においても兄達は前進し続けられるだろうか?
私達弟が、彼らや彼らの思いを敬うことを知る日が来るのかどうかは分からない。
シエラ・ネバダ・サンタ・マルタの山の民は、何百年にも渡ってセランクワと偉大なる母の掟を守り続けてきた。
若いマモ達が次の世代にもそれを伝え続けることだけは間違いないだろう。


消えたナスカ人の教訓

霜も降りない東京砂漠〜都市化による温暖化と乾燥

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